第97話「慟哭の記憶」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 寧比曽岳やタカドヤ湿地の紅葉が見ごろを迎えていた頃、名古屋大学医学部附属病院八階、会議室の窓からも、眼科に付近の公園や街路樹の紅葉の様子が見られた。けれども、会議室に集まる面々は、窓の外の様子を気に掛けるでもなく、会議が終わるとコキコキと首を回したり、ペットボトルのお茶を飲んだりしている。
 順正もそこにいた。地方病院のスタッフとして参加しているのは順正のほかにもう一人いる。松下クリニックとは別の地方病院の医員だ。他はこの病院の産科および総合周産期母子医療センターの数名のスタッフ(医師)や研究医である。
 医療過疎地における、新技術を用いた遠隔妊婦健診の安全性と有用性に関する研究を、共同で行っている。順正ともう一人の医員は、主にこの臨床データを集め、分析する役割を担っている。
 人には、その土地に住み続ける理由がある。しかし、その土地が無医地区だった場合、お産にはリスクが伴う。予定日が近くなったら通院回数を増やせば良いという簡単な話ではない。あのクネクネした国道を、大きなお腹で運転してくるのがどれだけ危険か。この試みは妊婦の身体的ストレスを軽減し、早産を予防できることをデータで証明するためのものだ。
「松下くんは元気?」
 助教の上田が、帰り支度をする順正にさりげなく尋ねた。
 松下は、順正が松下クリニックに赴任する前から、この研究に関するデータを集めていた。順正はこの役割を引き継いでいたので、今日の会議に参加したのだが、もともと会議には松下が参加していた。
 順正は短く肯定する返事をした。順正がこの病院の医員だった頃から面識がある助教は、必要なこと以外は口数が少ない元スタッフの特徴を思い出して、口元を緩ませた。苦笑いといってよかった。
「呑みに行く?」
 と聞いたが、それで愛想良く、即快諾をする男ではないことは、百も承知だった。
「これから帰るのに二時間くらいかかるので」
 つれないのである。
「そう。昨日は仕事だったの?」
「いえ。オンコールでしたが、呼び出しはありませんでした」
 休みでもそれだと…羽目を外しにくいんじゃないのか。そう思って誘ってみたが、明日の勤務もある。
「代わりがいないものね。無理には誘えないかな」
「…すみません」
 順正は顎を少し引いた。癖だった。
「バーンアウトと当直体制に関する研究…特に、過疎地域での結果が、芳しくなかった」
 大学病院の別の医員が、聞こえよがしに言った。しかし順正は、首をかしげた。
「日本産科婦人科学会とどこぞの委員会の、最近の研究でしたっけ」
 声をしたほうに、視線を向ける。今回の共同研究員であり、同期の橘だった。
「当直回数と24時間オンコール体制が、精神的・肉体的な限界に関わっているかを提示した、生々しい臨床労働データ研究でしたね」
 橘は医員に向かって話しているが、明らかに、順正に補足をしてくれている。順正は常日頃、多くの論文を読んでいるだろうが、その手の研究にはきっと興味がないのだろうと、橘には手に取るように分かった。
「柴崎先生自身が、研究対象にならないようにね」
 順正はおもむろに返事をした。橘から、意味深な目配せをされている。廊下に出ると、案の定、肩をつかまれた。
「おれからしたら洒落にならないな。さっきの言葉は」
 先ほどの、医員の皮肉だろう。
「あれはブラックジョークだ、橘」
 そんなことは分かっている。橘はため息をついた。
「いや、あるいは、おれへのあてつけだったかも…」
「娘はいくつになった」
 廊下の隅を歩きながら、二人はぼそぼそと、会話をした。
「八歳。…娘の年、去年の学会でも訊かれたぞ」
「他人の子は育つのが早い」
「他人って。もう少し言い方あるだろ。おれ、今は時間ないから。じゃあ」
 そう言うと、橘は踵を返して、廊下の角を曲がった。振り返りながら、指文字を送る。飲みに行くぞ、のサインだ。助教と会ったら気まずいように一瞬思ったが、その可能性は低いことと、そんなに気まずくはないか、と思い直した。
「かっこつけるな」
 集団の中にいる時、遊びでしていたいくつかの指文字。わざわざ今しなくても良いのに。
 順正はすぐに橘に追いつき、エレベーターのボタンを押す。
「それに、おれもこっちだ」

 産婦人科、総合周産期母子医療センターのある三階で降りたのは、「そういえば渡すものがある」と橘に言われたからだった。研究に関わるものだろうと踏んで待っていたが、誰かに足止めを食らわされているのか、ちっとも姿を見せない。仕方なく元職場を見て回っていると、思わぬ光景を目にした。
 看護師たちの詰め所。一部がガラス越しになっていて、中を見ることができる。中の様子は見慣れた光景だったが、看護師と談笑する、赤子を抱いた女性を見た途端、違和感を覚えた。
 順正ははっとした。
 ガラス窓のサッシに両手を置き、凝視する。見間違えではない。もっとも、記憶に残る彼女の形相と今の穏やかな表情が、あまりにも異なっていて、すぐに彼女だとは信じられなかった。
 順正は目を閉じ、肩の力を緩めた。思わず、ため息が漏れる。
「彼女には思い入れがあるでしょう」
 左横から勝気な声がして、順正は窓枠に上体を委ねたまま、顔だけを左に向けた。白いスクラブに身を包んだ、小柄な、ボブヘアの女性が立っている。この女性はこの産婦人科の助産師で、名前を石田といった。
「いや、思い入れとかは」
 順正は石田よりもずっと小声で言った。石田はふんと鼻を鳴らす。
「今度は無事だったのか。よかった」
「ああ、あの子は二人目だよ」
「二人目…」
 野村という名前の患者だった。順正が豊田市の市民病院へ赴任する直前に関わった妊婦で、残念ながら、染色体異常により、死産となった。陣痛促進剤を打ち、苦悶の表情で死産に臨んだ時の彼女の表情は、4年が経った今でも、脳裏に思い浮かべることができる。人柄の良い妊婦で、わが子を迎えるのを、心待ちにしていた。思い入れがあるわけではないが、彼女の元にまた新しい命が宿るのを、祈らずにはいられなかった。それは覚えている。
「あんた、ここで何してんの。表に出な」
 石田は喧嘩相手に言うような言葉を放った。
「共同研究の打ち合わせで、ここに」
「んなこた分かってるよ。三階をうろつく必要があるのかって話」
「…橘が渡すものがあるって」
「分かった。外に出な。あたしが持ってきてあげるよ。もう上がりだからさ」

 紅葉が進む鶴舞公園には多くの人がいる。散歩をする老人、犬の散歩をしている人、ランニングマン、ベビーカーを押す母親…そんな鶴舞公園の入口へ向かって、順正と石田は並んで歩く。
「どうする?」
 分岐にて、噴水塔へ向かう道をなんとなく曲がったところで、唐突に石田が尋ねた。小柄な女性だが、声は高くない。
「どうするとは…」
「暇じゃん。夜まで。どこで暇つぶす?」
「…」
 これは、おそらく、橘と接触した時に、夜飲みに行くという話を聞いたのだろう。自分や橘より一回りほど年上のこの先輩も、同席する気に違いない。
「カフェで時間つぶす?いいとこあんだよ。この時間ならまあ、入れるかなー」
「…先輩はいったん家に帰ったらいいんじゃないですか」
 この時間に上がるということは、早番だったのだろう。助産師の仕事はハードだ。
「おれは久しぶりにジムに顔出すんで」
「ジム?その恰好で?」
 まさかだ。トレ着や道具は車に置いてある。学生時代、大学病院勤務時代に通っていた鶴舞のクライミングジム。ハイウォールのほうが辛めで順正好みだったが、馴染みのジムには違いない。
 石田は分かりやすくため息をついた。順正が連れないのは相変わらずだった。同期の橘も、順正よりは愛想が良いが、割と個人主義で連れなかった。人と一定の距離を保ちたがる二人は、学生の頃から気が合うらしく、つかず離れずといった関係である。
─二人とも、顔がいいんだよな。
 おまけに背が高いから、同じ産婦人科で二人が勤務していた時、二人の存在はそこそこ有名だった。橘は、順正よりも肌の色が濃く、血色が良い。ラクロス部上がりで、がたいも良い。短髪で面長、目鼻立ちのくっきりした男前だ。一見明るく面倒見が良さそうに見えるが、その実根暗なほうである。
 石田はチラと横を歩く順正を見上げる。深い紺色のスーツを着ているが、ジャケットは羽織っておらず、ベストを着ている。このなりで、三階の廊下をうろうろされると、やれあれは誰なのか、知り合いなのかと、順正のことを知らない助産師やら看護師やら、患者に尋ねられる。いちいち説明するのが面倒くさい石田は、順正に外へ出ろと言ったのだ。地方病院にいるとはいえ、研究を行い忙しいのだろうから、不摂生で肉付きがよくなったり、腹が出たりしていてもおかしくはないと思うのだが、この男には少しもそんなところがない。それでいて、胸板が厚いのか、ベストの胸部分にはハリがある。
「私もジムに通おうかしら」
「…ふっ。今日はやめといたほうがいいんじゃないですか」
 順正は嫌で仕方がないという顔をする代わりに、苦笑いをしてごまかした。
「うぜ。お前そんなんで地元の患者から嫌われないの?」
 あくまで一人で過ごそうとする順正に、石田は悪態をつく。
 春には桜の名所となる鶴舞公園だが、二人が歩く歩道の右手に見える桜林は、今は枯れ葉を落とすばかりだ。
「っていうか、今でもあんたがあんな田舎で仕事してるなんて、信じらんないわ」
「あんな田舎…」
 さらさらと失礼なことを言われてしまう。腐っても故郷なのだが。
「研究医になってくのかとも思ってたけど…」
 もっとも、今でも研究に関わっているようだが。
「患者と接していたほうが課題意識がもてますよ」
 何に貢献するためにやっているのか、常に自覚できる。「気」がちがう。
「でも臨床だけでは最先端を追えないし」
「なにまともに答えてんだよ」
 石田は順正の腕を小突いた。行く手から電車の音が聞こえる。
「もういいですか?」
 お目当てのジムは鶴舞駅の向こう側だが、まずは駐車場に戻って荷物をピックアップしなければならない。さようならの代わりに順正はそう言った。
「あー、こうなったら投資で儲けてやろうかしら」
「…」
 相手は話を聞いていない。しかも、今の文脈からおかしくないだろうか。何が「こうなったら」なのだろう。
「自己資産を増やすことに興味なさそうだったじゃないですか、先輩。同じ資産を増やすなら、目の前の誰かの役に立てたほうがいいんじゃないんですか?」
「うるせー、柴崎。なに良い子ちゃんぶってんだよ」
「え…昔先輩がそう言ってたんですけど」
「投資も立派な社会貢献なんだよ。それで企業がデカいことできるんだかんな。企業努力と個人ができる貢献には差があるんだぞ。変なとこで真面目ぶんなしー」
 人の話を聞いていない。きっと、今日何かすごくストレスになることがあったに違いない。
「先輩の愚痴はまた後で聞きますよ…じゃ」
 順正は無理矢理話を切って、先輩に背を向けると、すたすた歩きだした。
「え、まだ散歩しないの?」
 石田は非難するような声を上げた。まだ三百歩くらいしか歩いていないと思う。

 今池の「やぶ屋」の二階だった。座敷に、橘と石田が隣り合って、順正がその向かいに座っている。鶴舞にも居酒屋は山ほどあるのだし、移動を考えれば病院付近で飲むのが気軽だったが、病院関係者や知り合いに会う可能性を思うと、やや柄の悪い飲み屋街のほうが安全だった。
「また人事ネタですか」
 安全な場所を選ぶ理由は、この話題になるのが分かり切っているからである。
─近藤さんは自分の助産院を開いた。
─木全先生は流行りの美容外科医に。
─筒井さんは思うところあってママサポーターに。
 医員たちの異動の話もあったが、もっと内輪の話を石田はしたがった。もっとも、順正にとっては既知の内容だった。というのも、橘からたまに連絡があったかと思うと、誰が異動しただの、転職しただの辞めただの、人事ネタばかり聞かされて、さほど関心はないものの、うっすら覚えてはいる。ちなみに、順正から橘へ連絡をすることはほとんどない。
「最後のママサポーターっていうのが意味不明ですね」
「ああ、赤ん坊と関わる中で、その子を育てるママたちの疲れ具合に、大丈夫か?ってなるらしいんだよ」
「いや、そういうことじゃなく。パパもサポートもしてほしいんですけど」
 もともとガラガラとした低音ボイスの橘だが、その声はもっとかすれて聞こえた。
「橘ぁ、お前、疲れた声出してんじゃねえよ」
 石田がばちんと橘の背を叩く。橘はジャケットを脱いだスーツ姿のままだ。順正はそれを見て、先輩はすぐに手が出るのが良くないと思う。
「いや、だからパパサポーターがほしいんですよ。っていうか先輩はなんでそんなに元気なんですか」
「本当羨ましい。これから二時間かけて帰る身にもなってほしい」
「うるさいぞ柴崎。明日休みなんじゃないのか」
 石田は順正を指さしながら、ねちねちした声を出した。順正は反射的に体を傾けてその指のベクトル上から逃れた。どちらかというと、声の音量は先輩のほうが大きいと思う。
「まさか」
 出張したからといって、余分に一日休めるわけではない。橘が一瞬、同情の色を浮かべた。
「お互い大変だな。こっちも育児の調整が大変だ」
「お前の方が大変だな。病むなよ」
「柴崎…それ、笑えねえよ」
 石田は遠い目をした。何しろ、今隣に座っている男…橘は、確か子供がごく小さい頃、メンタルを病んで、一年ほど休職したのだ。橘は、人当たりが良く思われがちだが、その実人に対し気を遣い過ぎる節もあり、当時、職場の上下関係や、子育てに関する夫婦間の揉め事もあって、それが神経を疲れ果てさせる原因となった。
「ま、既婚者は幸せ手に入れてんだかんな。多少のストレスがあってもしょうがないさ」
 そう言って石田はぐいと焼酎を飲んだ。
「先輩、性格悪いっすよ。先輩だって、今付き合ってる人いるんだからいいじゃないですか」
「バラすなよ」
「先輩、彼氏できたんすか」
「興味あるだろ」
「いや、別に」
 石田が身を乗り出して頭を叩いてきそうだったので、順正は座布団ごと少し横にズレた。
「飲まないの?」
 視線をウーロン茶の入ったジョッキに向けて石田が尋ねる。
「車で帰りますし」
 さっきから聞いているのだろうか。
「あ、そう。じゃあ私が飲むわ」
「やめときましょう」
 ペースが早い。石田のグラスを橘がぶん取る。労わっているのではなく、酔い潰れられたら送るのが面倒くさいのだ。

 順正以外の二人がほろ酔い状態になる頃、話は、最近名古屋市立大学病院の産婦人科に併設された、「ヘルスケア外来」に関する話題となった。
 ヘルスケア外来では、月経の状態や更年期に伴う症状に対し、対処療法を行いつつ、土台を整えるためのアドバイスも行っている。現代の一般的な治療が合わないなど、院外から紹介された患者も丁寧に診ているそうだ。
「なるほど。仙道先生が憧れられているわけですか」
 主に石田が話し、橘が相槌を打っている。
「私はそうでもないけど。憧れっつーか…まあ、臨床の現場に立ってるとさ、やっぱ対処療法だけじゃ限界あるって感じる時あるじゃん?」
 しかし、なかなかそこを補完できる体制になかった。仙道医師は産婦人科医としての実務をこなしながら、精力的に研究・論文発表を続けていた女医だ。彼女が中心に働きかけて、ヘルスケア外来の設置が叶った。
「そこに行きたいっていう看護師とか多いんですか?」
「さあ。私はそうでもないけど。この仕事ってさあ、神経張り詰める場面も多いわけじゃん。ヘルスケア外来の患者だと、問題はあるのかもしんないけど、緊急性がないから、そういう意味で気が楽だよね」
 主に栄養指導や、カウンセリングを行って、漢方やホルモン治療の効果を向上させることを目的としている外来だ。
「まあ確かに、もう少し自己管理の必要性に気づいてほしい患者はいますね、山ほど」
「うん。でも相手は、私たちにそれを指摘されるの、求めてないしね。ヘルスケア外来を受診する患者はある意味、意識が高いと思うよ。なあ、柴崎」
 黙り勝ちな順正に、石田は時々話を振る。
 順正はちびちびとウーロン茶を飲んでいたが、意見を求められてジョッキを机に置いた。
「…まあ、ヘルスケア外来に通うくらいで、そんなに人は変わらないと思いますよ」
「お、言うじゃん。言ったれ言ったれ」
「先輩、絶対仙道先生に嫉妬してますよね、イテー」
 石田が橘の脇腹を拳でぐりぐりしている。
「根拠は?」
「別に」
「中学生みたいな返事だな」
 順正は苦笑いした。石田の話を聞きながら、なんとなくあかつきのことを思い出していた。
「民間のヘルスケア外来のような場所を知ってますが…そこの人たちも、苦労しているように見えます」
 「気楽にできる緊急性の少ない仕事」と石田は評したが、本当にクライアントを変えようと思ったら、気楽にできる仕事ではない。それは、見ていて分かっている。
「あかつき、のことだよね。そういえば、オーナーさん元気?前にうちの嫁が…なんだっけ、スマホショルダー編んでた」
「…そうだ、喜んでた」
 現物を受け取った時に礼を言ったが、本人の反応までは伝えてなかった。
「え、なにー、なんの話?」
「柴崎の知人、予防医学のケアが行える宿泊施設みたいなのやってるらしいんですよ」
「え、なにそれー」
「お前もそこ手伝ってるの?」
「…時々、こっちの分野で悩んでる客がいると、意見を求められるけど、ほとんど関わってないよ」
「オーナー、美人?」
「…だよな。予防医学とか、お前っぽくない」
「そうだな」
「聞いてるぅ?」
「そういえば柴崎、覚えてるか。お前が豊田に異動する前にうちにかかってた、野村さんって患者…」
「…ああ」
 話のテンポが、急にゆっくりになった。
「この間、二人目出産したよ。一人目も二人目も、すごい安産だった。ご本人はいろいろ心配で、うちの病院にかかってたんだが」
「ふふふ」
 石田が肩を揺らして笑った。
「知ってるよ、だってこいつ─」
 昼間見た出来事を話す。無表情を貫く目の前の男からは、想像ができない場面だった。
「お前、普段からああやって笑ってればいいじゃん」
 順正は顎を引いたが、今日は口元を隠す襟やフードがない。
「悪かったですね」
「まあでも、あんだけ可哀そうなことが起きた患者さんの幸せな様子を見たら、こんな情に薄い男でも、喜びたい気分になりますよ」
 橘は枝豆のさやを皿に入れながら、しんみりと言った。
「おれもあの後しばらくは、しんどかった…子供が生まれた後だったからよかったけど、生まれる前だったら、怖くてたまらなくなったかもしれない…すみません」
 自分以外の二人には子供がいないことを思い出して、橘は軽く謝った。
「野村さんの慟哭…今でも思い出すことがありますよ」
「マジかよ…そんな影響受けてよく医者続けてられるなァ」
「…」
 橘が急に静かになったので、石田は少し慌てた。墓穴を踏んでしまったことに気づいて、石田は助けを求めるように順正を見たが、こちらもどこかしんみりした顔をしている。
「まあ、出産はある意味苦しみの始まりだ」
 と思ったら、哲学的なことを言い始めた。
「大切な人がいるのは、幸せなのかもしれないが、すごくつらいことのようにも思える」
 順正のつぶやくような言葉は、二人の耳にも届いていたけれど、どちらも特に返事をしなかった。

 石田が味仙に行きたいと言い出し、結局三人ともはしごして、本店に寄った。
「腹いっぱいだなァ。柴崎、半分こでいい?」
 味仙は台湾ラーメンで有名な店だ。
「おれはいいけど…」
「いや、聞く相手間違ってるでしょ、橘さんよ。半分こって、普通女子に聞かない?」
「まあそこは先輩のことよく分かっているからということで」
 三人は奥の円卓に通された。
「アメリカン1つ」
「え?私は普通で」
「胃の調子悪いのか、橘。あ、合計二つでいいです」
「あと杏仁豆腐三つ!」
 アメリカン、のあたりは、味仙のシステムが分からない人が聞いたらまったく分からないくだりだ。味仙の台湾ラーメンは辛くて旨い、で有名だが、やや辛さをマイルドにすることができ、それを「アメリカン」と呼ぶ。
 それからしばし橘の嫁と娘の話になった。いつの間にか、橘のスマホを石田がぶん取り、最近の旅行の写真を順正に見せつけている。
「はあー、さすが美男美女の娘。低学年のくせにもう顔ができてるわー」
「へへ」
「へへじゃねえよ。もうデレデレかよ」
「まあ、子供はかわいいですね」
「なんだよ。そんなんなら、そろそろ二人目つくっちまえよ」
 そう言われると、橘の表情に少し翳が落ちた。
「…その話は勘弁してください…」
「え、ごめ。なななな、なに、そんなテンション下がること…マズ。墓穴ふんじゃった?」
 石田はぼそっと順正に尋ねた。もう、今日何度目だろう。
 激務と人間関係で橘の精神力が消耗していたため、適齢期に妻との夜の生活がはかどらなかった、という話を、順正は以前橘自身から聞いたことがあった。全然関係ない夫婦喧嘩をしていても、余罪としてその件を持ち出されてしまう。今もまだ嫌味を言われることがあるらしい。
─あれだけかわいかった妻が、そういう時には鬼に見える…
 橘はそれにも参っていた様子だった。そしてこの件は、まだ触れてはならない領域らしい。
 ようやく料理が運ばれてきた。
「ほら、橘。先に食え」
「う…食欲なくなってきた」
「うそつけ。ほら、早くしないと一味唐辛子入れるぞ」
「え、もう私入れてるけど、これって罰ゲームに値する行動?」
「…」
 順正は遠い目をした。
「つーかあんたらそんなデカい体して少食なわけ?」
「先輩こそそんな体格でどこに入っていくんですか」
 結局、台湾ラーメンアメリカンバージョンは順正が一人で食べた。昔から登山の時は尋常じゃない量を食べさせられてきた順正は、食べようと思えば、相当な量を食べられた。
「これは明日、ランニングして塩抜きしないと」
「あんた今日ジム行ったんでしょ?塩抜きって…」
「先輩が居酒屋でもしょっぱいものばっかり頼むからですよ」
「仕方ないじゃない。好きなんだから」
 ゆっくり杏仁豆腐を食べていた橘が相好を崩した。
「頼みますよ、ヘルスケア外来さんよ」
「ヘルスケア外来に助産師はいねえよ」
 鋭い口調で突っ込みつつ、ようやく気分が落ち着いた様子の橘を見て、石田は安堵の表情を浮かべた。
「それにしても、かわいいわが子たちが成長した頃の日本のことを思うとぞっとしますよ」
 と思ったら、ややネガティヴな話題を持ち出してきたので、石田は助けを求めるように順正を見た。石田が橘と話をし始めた隙に、手付かずの杏仁豆腐をそっと石田の器に移そうとしていた順正は、表情一つ変えずに動きを止めた。
「少子高齢化だし、何人の老人を背負うようになるんだろう」
「そりゃ、高度医療の発達は良いことだろうけど、人がなかなか死ななくなったってことでもあるからね」
 石田がまともな返事をしている。
「みんなストレス抱えてるし。おれらが子供の頃と比べて、子供も精神衛生が悪化してますよ」
「んーまあねぇ…」
「筒井たちの考えも分かりますよ。まずは親たちの健全さを取り戻したいっていう考えも」
「え、その話ぶり返す?」
 一周回って、誰が異動しただの辞めただのの話に戻った。
「仙道先生にしてもさぁ…なるべく医者にかからず、元気な現役のお年寄りを生み出したい、っていう気持ちがあったんでしょうよ。僕も共感しますよ。現場にいる看護師たちが、医者依存の患者に付き合っているより有意義だと思っても仕方がない」
 自分の仕事に誇りをもっている石田は、不服そうに唇を突き出したが、その横で順正の表情は能面のように変わらなかった。ちなみに、杏仁豆腐にはまだ手をつけていない。
「お前の田舎のオーナーさんにも、どんどん活躍してほしいものだな」
 橘は順正に視線を向けた。順正は少し、眉根に皺を寄せた。
「どんどん活躍と言って…もう六十に近い」
「…そうか。そんな年なんだな」
「えー、私もそのオーナーさんに会ってみたーい」
 石田はスプーンを口に挟みながら悠長に言った。
「…後釜は?」
 オーナー自身が年を取っていても、後を継ぐ者がいればいい話だ。
「…まあ、後継はなかなか育たなかったみたいだ」
 あかつきの仕事に興味をもち、実際働いていたセラピストはいたものの、多くが辞めた。感染症を理由にしていたが、あかつきで得たスキルやノウハウを活かし、結局は独立したかっただけだ。大企業で経験を経て、独立する人は大勢いる。しかし、あかつきのような規模でそれをやられてしまうと、経営者としては痛い。美津子はいつだって穏やかで微笑を絶やさないが、あの時ばかりはへこんでいたと思う。
「過去形、ということは?」
 橘は、さすが、順正の少ない言葉から、ニュアンスを読み取ることに長けている。
「今の人たちは、気があるから」
 順正の脳裏には、この夏のあかつきの、高揚感に満ちた書斎の風景が浮かんでいた。あの時は、なぜあのような場に居合わせられたのか分からなかったが、そのおかげで、美津子の状況に少し安心感を抱けているのだから、行った甲斐があった。特にあの、小さい人だ。言葉はあまり交わさないが、接していると分かる。強い“気”を感じる。会うたびに強くなる。
「へへっ」
 石田が面白そうに笑った。
「柴崎、“気”って…理詰めな先生から、そんな感覚的な言葉を聞くとはねぇ」
「こいつは意外といつも最終的に精神論ですよ、先輩」
「いや、まあ分かるけどさ。そうだよね。気持ちがあるかどうかが一番大事だよね。スキルや知識は、教育次第でどうにでもなるけど、結局は、絶対に自分のミッションを遂行する、そのためなら努力を厭わない。そういう“気”を持続できる人こそ、後輩にほしいよ」

 順正は二人を駅まで送ることにする。といってもすぐ傍なのだが、二人とも恐ろしく低スピードで前を歩いている。
「先輩、彼氏に迎えに来てもらえば?」
「私の話は置いといてよ」
 石田はくるりと後ろを振り返った。
「いい年齢まで独りでいる人って、自由が奪われるから結婚しないのかしら」
「…先輩、自問自答してるんですか?」
 一応順正は、相槌を打つ。
「昔、顔が良くて、そのくせ遊んでなくて、仕事できる後輩がいたんだけど、そいつちっとも結婚しないのよ。
何でだと思う?」
「それは変だな…」
 順正はほとんど何も考えず答えた。
「よっぽど性格が悪いか、変な性癖があるに違いないですよ」
 石田は高らかに笑った。
「なにあんた、それ真面目に答えてんの?あんたのこといってんのよ私」
「ぶふぅっ」
 橘も噴出した。順正はふうと吐息した。繊細な話だとは思われていないようだ。
「やめておきましょう。酔っ払いの質問に真面目に答えるわけないです。なんにも考えてないんですよ」
 橘が石田をなだめるように言った。
「はぁー?相変わらず失礼なやつ!」
「いい年になって結婚しないやつは、よ、よっぽど性格上の問題が…ふっ、ありますからね」
「あ、あんた今あたしの方見て笑ったでしょ!そういうとこだぞ柴崎ィ」
 地下鉄の入口の前で、順正と他の二人は別れた。久しぶりの再会だというのに、あっさりと夜の飲み屋街に消える元同僚の背中を見送りながら、石田はふっと嘲笑のような笑いを浮かべた。
「…情に薄い、か」

 

 


 

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