第87話「大詰め」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「鞍馬さん、さすがです」
 杏奈は、おべんちゃらではなく、本心から鞍馬を労った。
「視聴数が上がってるし、いいねが増えてますよ」
 スリーデイズライヴの二日目は、ヨガレッスン。鞍馬が居間でヨガをし、杏奈と美津子とで撮影をした。
 インスタライヴは、ラインなどのクローズドメディアで配信するよりも、より多くの人の目に触れさせることができる。認知度を向上するのにうってつけの手段だ。
 ヨガレッスンの様子をアーカイヴに残したら、視聴数もいいねもうなぎ登りで、ラインに新規登録が入ったという通知がしばらく続いた。
 鞍馬は、当然だというように鼻を鳴らした。
─ビジュアルの力って、すごい。
 ヨガレッスン自体の質もさることながら、改めて、外見が良いことは特だと、杏奈は思った。常日頃、鞍馬の態度はやや高飛車なところがあると感じなくもないが、それでも、集客に疲れて、若干神経が参っている杏奈にとって、今日の鞍馬は救世主に見える。
─たくさんの人の目に触れさせたいので…
 一番かっこよく見えるウェアで、最大のパフォーマンスをしてほしいと、事前に鞍馬に頼み込んだ(「おれはいつだって最大のパフォーマンスしてますけど」と嫌味を言われてしまったが)。
 ヨガは、カッコよく見せればクオリティが高いというわけではない。それは、ヨガの趣旨からズレている。そんなことは分かっているけれども、今回ばかりは集客のため、そうとばかりは言っていられなかった。
「決まってたでしょ?」
 鞍馬はライヴ中の演出の癖が抜けないのか、杏奈相手にキメ顔をした。
「決まってました…!」
 杏奈はこの時ばかりは、心底鞍馬をかっこいいと思った。いつもは爽やかな寒色系のティーシャツに、薄い色の半ズボンでヨガをしている鞍馬だが、この日は黒いタンクトップに、ツートンカラーのレギンスパンツ。おまけに、化粧をしていた。
「キラキラしてます…!」
「ふん」
 杏奈に苦手意識を持っている鞍馬も、杏奈が心の底から賞賛している様子を見て、さすがに誇らしさを隠せない。
─いやいや、あまり普段と違うことをやり過ぎるのも…どうかと思うのだけど…
 美津子はそんな二人の様子を見ながら、苦笑いを浮かべた。

─十一月の予約が埋まるまで、あともうひと頑張りです…!
 杏奈は昼に、あかつきのラインで、スタッフたちに今朝がたのヨガ配信を拡散するようお願いした。
─シェアお願いします!
 今のうちに、ラインに人を集めておけば、明日の特典発表に間に合う。
「はぁ…集客って、疲れますね」
 お昼ごはんのあと、限定性、希少性を持たせたストーリーをアップし、潜在顧客の購買意欲を煽った後、杏奈は美津子にぽそりと言った。ほとんど愚痴であった。
「これを生業とする人もいるくらいだから、大変よね」
 美津子はふっふと笑った。
 それにしても、今の集客の仕方というのは、昔に比べると、高度で複雑になってきている。杏奈の時間をこの方面に割くのは好ましくないのだが、今の時点では他にできる者がいないので仕方がない。
─やはり、他のスタッフの雇用形態も見直すべきか。
 業務委託だと、できる仕事が限られてしまう。沙羅の契約は、空楽や鞍馬よりも融通が利くように書き変えていた。しかし、遭難事件以来、沙羅は仕事を増やすことに慎重になっている。特に、土日は。
「集客中は、ラジャスが上がるわよね…」
「はい…」
「あなたも、相当神経をすり減らしてるんじゃないの」
 杏奈はここの所、食事をしていても心ここにあらずだったし、スマホが鳴るたびに、予約が入ったのではないかと即座に画面を開いては、肩を落として画面を閉じる…そんなことの繰り返しだった。
「気分転換してきたら」
「そうですね…」
 こくんと頷くと、杏奈は立ち上がった。
「ちょっと、栗原神社まで散歩しに行ってきます」

 その頃、沙羅は自宅にて、今日のライヴのアーカイヴを見ていたところだった。
「はぁぁ…すごい」
 沙羅も、別に面食いではないし、可愛い男の子が好きなわけではなかったが、今日の鞍馬のビジュアルにはうっとりしてしまう。
 男にしては長い直毛。長い前髪が顔に降りかかって、それを払う仕草などは、思わず胸をきゅんとさせてしまう。女性と見間違えるほどの端正な容貌からは想像できないほど、上半身は鍛えられていて、そのギャップにもドキドキする。
「ママー。なにみてんの?」
 快がスマホを覗こうとしたので、沙羅はひょいとスマホを上に上げた。
「見るんじゃありません」
 子供たちの前で、そんなにスマホばかりいじっているわけにはいかない。沙羅はライヴをシェアすると、スマホをおいて、昼食の片付けに移った。
 同じ頃、空楽は上沢の実家の部屋で、音楽を聴きながらアクセサリー作りをしているところだった。ヨガレッスンの様子はライヴで見ており、さっそくシェアをした。姉と義兄にも、シェアを促す。
─イケメンじゃん!
 翠から、先ほどラインが来ていた。空楽も、確かに鞍馬はイケメンだとは思う。けれど、だからといって、鞍馬にさして興味はなかった。
「さようならー」
「さようなら」
 足込中学校では、ようやく部活が終わり、羽沼は下校する部員たちを見送っているところだった。
─お、伸びてるな。
 ライヴの視聴数を確認して、羽沼はよしよしと心の中でほくそ笑んだ。
 そのまま、バイクを創作和食居酒屋・彩まで飛ばす。
「こんにちは」
「ああ、羽沼ちゃん」
 翠は、先ほど空楽にラインを送ったところで、あかつきで今何が行われているか、大体事情を知っていた。
「コンサル先のみんな頑張ってるじゃん」
「ああ。明日が大詰めだよ」
 羽沼はウィンドブレーカーを脱いで、カウンターの椅子にかける。羽沼の席は、だいたいここと決まっていた。
「カツ丼にしようかな」
「お、珍しく重いもん食べるじゃん」
 野球部の練習上がりで、お腹が空いているのだろう。翠はさっそく冷蔵庫から、大きな肉の塊を出した。
 羽沼は自身のアカウントでもライヴをシェアするとともに、杏奈にラインを入れた。
─フォロワーにシェアするよう促して。
 シェアしてくれた人には、プレゼントを渡す。もう一度その旨を、ストーリーやラインで発信した方が良い。
「この後は休み?」
「いや。これから別のクライアントのとこに行くんだ」
「羽沼ちゃんも頑張るねぇ」
 翠は野太い指で、肉の表面に塩と胡椒をすり込んだ。
 小須賀はその頃、まだアパートのベッドの中でうだうだしていた。今日は午後二時からイタリアンの仕事。どのみち職場で試食をすることになるので、いつも朝ごはんや昼ご飯はすっぽかしている。
 小須賀はインスタのアカウントを持っているが、見る専用だった。夜の仕事をしていた時代に知り合った女の子たちと、相互フォローしている。正直、あまりあかつきの発信などを、シェアしたくなかったのだが…
「…はぁ。まあいっか」
 フォロワーは百数十人。正直、自分がシェアしたところで、影響度は少ないのだが。
 
 あかつきがお祭り騒ぎをしている。
 ネット上の世界で、それは静かに拡散されていった。日本国内の至るところに。あかつきの既存顧客の目にも、潜在顧客の目にも、その情報は広まった。
 杏奈はその日、インスタの投稿の時間になると、いつもより念入りに、画像とキャプションの言葉をチェックした。
 最近は、インスタの投稿は、ひたすら価値提供に徹し、集客の要素はあまり出さない。しかし今日ばかりは、最後の一押しの投稿だった。写真や画像の一つひとつを念入りに選び、人の心に響く言葉を考える。
 集客にあまり力を入れていると、本来すべき仕事の本質がおろそかになる。しかし、杏奈は、こうしてSNS上で発信することを、決して集客のためばかりとは思っていなかった。
─必要な人に、届ける。
 かつて杏奈は、自分が心の支えを欲していた時、誰に頼ればいいのか分からなかった。
 望む人がいるのなら、その人の前で、両手を広げていなければならない。
─いけ。
 杏奈はスマホを軽くタップした。
 たったそれだけの操作だが、大きな可能性を秘めた一歩。
 杏奈は、あかつき大作戦を成功させたかった。自分や他のスタッフが、あかつきで働いてさえいれば、安心して生活できるくらいの収益を上げたかったし、自分たちの限界を確かめたいという気持ちもあった。何より、ここで誰かの人生を変えなければ、自分の人生を変えることはできないと、思っている。
 スリーデイズライヴの三日目。
 最後は、美津子と空楽が、二階の施術室で、セルフアビヤンガの方法を伝えた。空楽の手と、足にだけ、実際にオイルを塗布し、要点を話す。
 二階の施術室を選んだのにも、理由があった。あかつきの施術室は、和洋折衷で趣がある。そこで、熟達したセラピストである和装姿の美津子が、その手技の一部を見せる。こんな雰囲気のある場所で、こんな熟練のセラピストから施術を受けたい。そのように、見ている者に思ってもらいたかった。
 セルフアビヤンガのやり方を伝え終わると、いよいよ、後半はあかつき大作戦─表向きは、秋の宿泊キャンペーン─の説明。そのまま施術室を背景に、杏奈はパソコンとスマホに向かってしゃべる。ズームで見ている人には、スライドも見せて説明ができる。
「今日中に申し込まれた方にはこちらの特典があります」
 いくつかの特典を話し、最後に、ここ数ヶ月、丹精込めて作った渾身のテキストを披露した。
「滞在を終えてからも、継続して、自分を整える方法が分かるテキストをお渡しします」
 そして、今日中の申込みで、何が割引になるのか伝える。
 杏奈は、通信販売会社の販売員のように、うまく抑揚をつけてしゃべれないし、効果的な演出などもできない。セールスなど、苦手だった。自分はセールスが向いている人間だとは、とても思えない。しかし、それでも今、杏奈はセールスにも前向きに取り組んでいた。
 あかつきは、医療を行う場所ではない。病院であれば、必要に駆られれば、向こうから探して来てくれる。しかし、あかつきはそうではない以上、自らアピールをしなければ、クライアントとして迎えたい人が来てくれるわけではない。
 この人生で掴み取りたいものを、ただ待っているだけの姿勢ではいたくなかった。
 人を癒し、人を変えることで、自分を癒し、自分を変える。
 そのチャンスは、自ら取りに行かねばならなかった。

「お疲れさまでした!」
 夕方、沙羅と杏奈、空楽は、足込温泉で待ち合わせをした。沙羅はスリーデイズライヴを終えた二人を労った。
「特典がほしい人は、今日中に予約をしてくるはずなんですが…」
 まだ一件も予約がない。杏奈はしょぼんとした顔で、肩を落とした。
「大丈夫ですよ。日曜日って、みんな家族の用事とかで、忙しいんじゃないですか?」
 沙羅はそう言ったものの、今日は家族─娘たち─を連れていなかった。
「ねーえ、これ、どうやってシェアしたらいいの?」
 足込温泉で物販を担当している永井が、今更のように杏奈たちに尋ねた。スマホの操作には不慣れだし、もはやすでに時遅し感はあったが、杏奈はやり方を教えた。
「十一月の予定の目途は、そろそろつくのかしら」
 それによって、永井は足込温泉のシフトを調整しなければならなかった。
「はい。予約が入るとしたら、今日明日が一番その可能性が高いので、九月中には…」
 杏奈は永井にぺこぺこと頭を下げた。
「お待たせ」
 三人と永井のところに歩み寄ったのは、瑠璃子だった。今日は沙羅が、瑠璃子と杏奈、空楽を温泉に誘ったのだ。杏奈と空楽を労いたかったのもあるが、沙羅は、瑠璃子とじっくり話がしたかった。そのため、お互い子供は親に預けている。
「こんにちはー」
 空楽は、一方的に瑠璃子を知っているが、面と向かって挨拶するのは、これが初めてだった。
「あかつきの新しいセラピスト、空楽ちゃん」
 沙羅が紹介する。
 瑠璃子の表情筋がぴくっと動いた。彩のホールスタッフに間違いなかった。
─あかつきのセラピストでもあるのか…
 瑠璃子は心がざわめいた。羽沼と自分がサシ飲みしていたことも、すでに筒抜けなのだろうか。
─子供がいないところで、ゆっくり話がしたい。
 沙羅からそう言われて来てみたのだが、改まった話でもあるのかどうかも、気になる。
 四人は更衣室に入ると散り散りになって、服を脱ぎ、脱衣かごに入れた。
─うひゃ。
 空楽は瑠璃子の裸体を見て、心の中で声を上げた。なんというプロポーションの良さ。顔といい体といい、持っている人は、全てを持っているものである。
 空楽は女四人で温泉に来たことなどなかった。温泉の中でも、団子になってぺちゃくちゃ話し合うのかなーと思っていたが、杏奈は初っ端から自分のしたいように温泉時間を過ごしていた。掛け湯をすると、洗い場に直行する。洗うものは洗って、その後の時間は、気兼ねなく温泉に浸かろうということか。
 空楽は杏奈の後に続くように洗い場に入った。右手でシャワーヘッドを持ち、長い髪に湯をかける杏奈の後ろ姿を、後ろからまじまじと眺める。トリートメントの練習の際、杏奈はよくモデルになる。杏奈の体は普段からよく見ているが、改めて腰のくびれに注目する。
─直線と、曲線。
 空楽は、美津子が言っていた男性性と女性性の特徴を思い出した。
 沙羅と瑠璃子は、露天風呂でも内湯でも、だいたい行動を共にしている。一方、杏奈と空楽は一応お互いを意識しながらも、連れ合うことなく、それぞれ自由に温泉を楽しんでいる。露天の源泉風呂でようやく一緒になると、空楽から杏奈に話しかけた。
「あのテキスト、もらっていいんですか?」
 刷り上がったばかりのテキスト。あかつき大作戦の期間中に来たクライアントに渡すものだ。杏奈と美津子が苦労の末仕上げたもののはずだが、空楽には無償で与えられた。勉強のためだった。
 杏奈はぴしゃぴしゃと顔に湯をかけながら、頷いた。
「本を読めば、書いてあることを全部理解できるとは、思わないでくださいね」
 そう言ったのは空楽だった。美津子や杏奈ほど、自分は聡くない。
 杏奈はその空楽の言葉には、薄く笑って答えただけだった。右手の指を左手で揉んだり、引っ張ったりしている。大分お疲れのようだ。
─タイピング疲れ…
 あれだけスマホやパソコンを触っていれば、腱鞘炎になってもおかしくはない。トリートメントのモデルになる時、この頃杏奈は寝落ちしてしまうことがあった。
 空楽は、唇を尖らせた。誰か、早く予約を入れてくれないものだろうか。
 その頃、内湯では沙羅と瑠璃子が湯につかり、
「旦那さんに会うことにしたの?」
 隣で胸まで体を湯に沈めている瑠璃子に、沙羅が本題を切り出したところだった。
「…会わない」
 この話をするのは、遭難事件の日以来だった。
「あ…そうなんだ。どうして、そっちを選んだの?」
 沙羅は、おせっかいにならないギリギリの温度感で、瑠璃子に問うた。
 瑠璃子は、会わないという選択をしたが、その理由を、口に出してみたことがなかった。
「…生命を吸い取られるような環境に、身を置かなくてもいいのかなって思ってさ」
 なんと言えばいいのか、言葉がまとまらないまでも、瑠璃子は勇気をもって話した。
「安全じゃないと感じる場所には、行きたくないんだ」
 相手が危害を加えるということではないけれど、相手と接触するだけで、心の中に嵐が吹き荒れるようでは、とても無傷でいられるとは思えなかった。
「旦那さんは、それでいいって?」
「もともと、向こうは会わなくてもいいっていう姿勢だったから」
 それを聞くと、沙羅は、安心してはいけないかもしれないのに、ひどく安心してしまった。
「そうかぁ…よかった」
 不覚にも、思ったことがため息交じりに口から出てしまって、沙羅は慌てて、横目で瑠璃子の反応を見る。
「あ、ごめん…えっと…私も、もともと会わないほうがいいんじゃないかって思ってたから」
 今だから言えることだが。自分の意見に、瑠璃子の意思がゆすぶられてしまうのは、良くないと思って、言わなかった。
 瑠璃子が離婚した夫と会わないという選択をしたことに、正直沙羅は、大賛成だった。瑠璃子の言うとおり、自分がどんな人や物事と接触するかは、非常に重要だと、沙羅も思う。自分が生き生きとする環境に身をおくべきだ。心を和ませる植物の周り、インスピレーションを与えてくれる人、支えてくれるフィールド。
 自分を取り巻く環境によって、ドーシャも、マハグナも変化する。
「よかった」
 心から安心したような様子で、心の声を吐露する沙羅に、瑠璃子は、不用意にも涙腺がゆるんだ。瑠璃子は男勝りで勝気だが、その実、とても繊細な一面を持っていた。
「沙羅さん、ごめんね」
 瑠璃子は、顔に湯をかけてごまかしていたが、涙が流れているのがバレバレだった。
 杏奈と空楽は内湯に入ると、沙羅と瑠璃子の姿を見つけた。だが、ただならぬ気配を感じて、二人から少し距離をおいて、そうっと湯につかった。
「あの日、万里子が快ちゃんを誘ってあんな大変なことになって…でも、その原因を作ったのは、私なんだと思う」
 万里子はずっと前から、子供ながらに瑠璃子の様子を気にしていた。父親のことにしても、万里子は瑠璃子がどう思うかということを基準にして考えていた。
「万里子のためにと思って、環境も、仕事も選んできたつもりだった。でも自分が選んだことに納得がいってなくて、勝手に一人で不機嫌になって。四年も五年も、過去のことばかり引きずって、また不機嫌になって…。結局、全然万里子のためになってなかった」
 瑠璃子はタオルで、涙をぬぐった。
 杏奈と空楽はどちらからともなく目を合わせ、少し迷った末、ほんの少しだけ、二人との距離を縮めた。
「子供って、待ったなしなんだよね」
 いつも通りの明るい声音で、沙羅は言った。
「自分のペースで生活することなんて、できやしない」
「…」
「四年も五年も引きずってるって言うけど、その間に、瑠璃子さんが自分の気持ちとゆっくり向き合えた時間は、どれくらいあったんだろう」
 二人の子供の面倒を看ている沙羅には、分かる。幼い子供の世話をしながら、何かに集中するということは、難しい。
「それに、その四、五年は、感情を昂ぶらせることなく、過去に起こったことに向き合うために、必要な年月だったんじゃないかな」
 時がもたらしてくれる癒しというのは、確実に存在する。沙羅はそう思っている。
「今の今まで、考えられていなくたって、しょうがないよ」
 瑠璃子はタオルを折りたたんで、ずっとそのタオルで目を覆っていた。
「父親の役割も、母親の役割も、一度に担おうとしたんだもん」
 沙羅は湯から体を出して、段に腰を落ち着けた。
 瑠璃子と向き合う位置になると同時に、杏奈と空楽が、少し離れたところからこっちを見ていることに気が付いた。だが、気にせずに話を続ける。
「両親が近くにいるとはいっても、子供のことは一人で見ないといけないっていうのは、私も同じ。でも私は…正直、経済的なことは心配しなくて済んでた」
 自分はまだ、気楽だったのだと思う。
「…あ、嫌味じゃないよ」
「分かってる」
 沙羅は自分がマウントを取って良い気になるような人間ではない。瑠璃子は沙羅の性格をよく理解していた。
「でも、瑠璃子さんは違う。足元のことや、きっと万里子ちゃんの将来のことを考えて、自分がどうしたいかじゃなく、どうするべきかっていう目線で、いろんなことを選んできたんだと思う」
 ようやくタオルを外した瑠璃子だったが、沙羅のその言葉で、またすぐタオルが必要になった。
「あのね、一昨日、美津子さんが、私たちに、男性性と女性性のことについて話をしてくれたの」
 沙羅は、瑠璃子の気が落ち着くまで、敢えて専門的な話をすることにした。
 人がみな持っている二極性。バランスよく使えていればいいが、偏りがあると、不調和を起こす。男性性と女性性、どちらかに偏ると、それぞれ体の右側、左側に何らかの形で表れる、と。
「私、つい、瑠璃子さんが右肩と首を痛めてることを、思い出しちゃった」
「…男性性が、優位だっていうこと?」
 それもやはり、立場上、稼ぎ手としての役割を担っているからだと、沙羅は捉えていた。
「でも、私、広告業界に入ってからずっと、男性性の方が強かったかも」
 瑠璃子はようやく落ち着いて、冷静に話ができるようになった。
「女性性を育むには、どうしたらいいの?」
 アーユルヴェーダの専門的なことでも、瑠璃子は意外と、すんなり話に乗ってきた。興味をもってもらえないなどと、最初から決めつける必要はなかったのかもしれない。
 美津子によれば、女性性を育むには、自己の内へ向かう修行をすることだと。
─その一つの方法が、ナディショーダナ。これは良い練習になる。
 と、美津子は言った。
 シンプルだが、強力な方法だ。この呼吸法は、脊柱の付け根から両方の鼻孔の先までを走るエネルギー経路「イダ・ナディ」と「ピンガラ・ナディ」を浄化し、バランスを整える。
 イダ・ナディは女性・左の鼻腔、左半身に関係する。
 ピンガラ・ナディは男性・右の鼻腔・右半身に関係する。
「女性性を育むって、どういうこと?」
 女性性を育むにはどうしたら良いのかと聞きながら、そもそも、それが何を意味するのか、分かっていないことに瑠璃子は気づいた。
「自分の中に自然に備わっている、女性的な特徴と折り合いをつけること…かな」
 実はかなり繊細な人間であることに気づき、それを恥ずべきことではなく、価値のあることとして見るようにしていく。
「自分の好きなことをしたり、助けを求めたりすることを許すこと、すべてを自分でやらなくても良いことに気づくこと」
 美津子がここにいたら、別の説明をしたかもしれない。けれど、沙羅はそう言った。それは、沙羅が瑠璃子にしてほしいことだった。
「それができたら、もっと万里子のこと、よく見てあげられるのかな」
 沙羅は、口角を引き上げた。
 瑠璃子自身の話をしてる時でさえ、最終的には、焦点が子供のことに移っていく。それが母親というものだった。

「私、もう上がります」
「私も…」
 他の二人の会話が終わる前に、のぼせそうだ。杏奈と空楽は、おもむろに内湯から出た。
 持ち込んだタオルで身体をある程度拭き取ってから、脱衣かごのところまで戻る。
 ゆったりとしたワンピースに袖を通しつつ、杏奈は気になって、スマホを手に取った。メールが何件か来ている。そのうちの数件は…
「わわわっ」
 杏奈はタオルを肩にかけた状態で、地味に驚いていた。
─わわわって言う人も、なかなかいないよな…
 そんなことを思いながら、空楽は杏奈の後ろ姿を眺める。
「どうしました?」
 杏奈は、さっと空楽を振り返った。杏奈にしては表情筋が緩んでいる。空楽は訊いてはみたものの、おおよそ状況を察していた。
 内湯では、沙羅と瑠璃子が、まだ話をしていた。瑠璃子は沙羅の隣に腰掛け、半身浴するような形になる。
「万里子の気持ちを教えてくれたのは、羽沼さんなの…」
 少しためらいつつも、瑠璃子は沙羅に正直に話した。
「あの一件の後、二人で話したの。あ、あの空楽ちゃんという子が働いている店で」
 知っている、とは言えずに、沙羅は頷くことで、話の続きを促した。
「よく見てるよね、彼。万里子と接触する機会なんて、ほとんどなかったのに」
 第三者だからこそ、客観的に見られていたのかもしれないが。
 確かに、あかつきに出入りするようになってから沙羅も思っていたことだが、羽沼は洞察力が鋭い。仕事に関してもそうだが、人間関係においても、いろいろなことに気付けるのだろう。
「他には、何を話したの?」
「それが…ほとんど、私の愚痴みたいになっちゃった」
「そうなんだ。でも、大丈夫だよ。羽沼さん、ちゃんと聞いてくれたでしょ?」
 羽沼の人となりは、沙羅もよく分かっている。瑠璃子は、首をひねった。
「…私が愚痴ったっていうか、白状させられた感じだった」
 あの時、羽沼は自分に質問をすることで、心に溜めている感情や思いを、外に出させようとしているようだった。
「え?」
 沙羅は目を瞬かせた。
─どうして?自然とそんなことができるものなの?
 八月に鬱のクライアント─直美─に対して、沙羅はカウンセリングセッションを行った。まさに、羽沼は似たようなことを、瑠璃子に対して行ったように思える。
 何か知識に基づいて…というよりは、瑠璃子に必要そうなことを考えた結果、そうしたのだろう。確かに羽沼は、誰に対しても平等に親切で優しいが、瑠璃子に対しても、それと同じ、親切心でそんなことをしたのだろうか。
「羽沼さんって、離婚してるんだよね」
 と、瑠璃子に聞かれて、沙羅は思考が途切れた。
「う、うん…」
「どうしてだか、知ってる?」
 沙羅は、記憶を辿った。その理由を、聞いた覚えはない。あかつきの誰かは、知っているだろうか…。
「ううん」
 沙羅は、首を横に振った。それに対して瑠璃子は、「そっか」と努めてさりげなく答え、うっすらと笑った。
「沙羅さん、ありがとう。たくさん慰めてくれて」
「ううん。私もあれからずっと、瑠璃子さんと万里子ちゃんのこと、気になってたから」
「うん」
 しおらしく答えながら、瑠璃子は、沙羅が遭難事件の後でも、その前と変わらず自分と接してくれていることを、ありがたいと思った。
「また、いろいろと相談しちゃうかもだけど、懲りずに付き合って」
「もちろん」
 と、言ったものの、沙羅は、いったい自分がどういう意味で瑠璃子を助ければいいのか、分からなくなった。
─沙羅は、瑠璃子さんの助けになりたいと思うの?
 美津子にそう訊かれ、「はい」と答えた時の沙羅は、自分が瑠璃子に直接アプローチをすることを念頭に置いていた。自分が一番、今の瑠璃子と近しい人間だという自負があったからだ。しかし、そうではないような気もしてきた。
「出ようか」
「…うん」
 瑠璃子の方が、先に湯から上がった。
 沙羅は湯面に向き直り、両手で湯をすくうと、自分の顔にぱしゃりとかけた。

 杏奈と空楽は、一足早く休憩室でくつろいでいた。
「沙羅さーん」
 杏奈は沙羅の姿を見ると、気の緩んだ声を出した。
「予約が入りました!」
「え?本当?」
「新規の予約が、二件!」
 杏奈は沙羅に自分のスマホを差し出して見せる。
「わー!すごい!えー、すごい!」
 沙羅が場違いに甲高い声を出したせいで、周囲の客がこちらに視線を寄せる。空楽はもぞもぞと体を動かした。
「あれ…この人って…」
 沙羅は杏奈のスマホを眺めながら、そのうち一件の氏名を見て、目をぱちくりとさせた。沙羅が誰の名前を見たのか、杏奈はすぐに分かる。
 その名前を見た時、杏奈も目を見開いた。
─近藤咲子…。
 杏奈の心の中に、何かがのしかかった。
 それは責任感であり、重圧であり…
─集客してからが、大変だぞ。
 改めてそう、思わせられた。
 特典・割引の付与は今日まで。あと六時間ほど時間がある。それまでに、予約が入ればいいが…
「みんなに伝えました?」
「まだ…ご入金をもって確定ですし、ぬか喜びはあれかなと…」
 と、思いつつも、杏奈はこの喜びをみんなと分かち合いたくてしょうがなかった。
「美津子さんも、みんなに伝えてないみたいですし…」
 あかつきの全体ラインに、メッセージは入っていない。
「杏奈ちゃんから、伝えさせたいんじゃないですか?」
 この企画の中心となって動いたのは杏奈なのだから。それでも、杏奈は躊躇った。
『いいんじゃない?伝えれば』
 美津子に電話で相談すると、あっさりとそんな答えが返ってきた。美津子の感覚的にも、こんなにこまごまとオプションを選択して予約してきたクライアントが、入金前に予約を退けるケースは稀だという。
 ピコン。
─予約が二件入りました!
 杏奈からのこの通知を、あかつきのメンバーは、それぞれの場所で見ることとなる。
「私、十一月はあまりこっちのシフトを入れない方がいいって、思っといたほうがいいのよね?」
 休憩処にいる四人のところに永井が近づいてきて、誰にともなしに聞いた。
「はい。どうかお願いします」
 永井は特に動じた様子も見せず「ふーん」と言って、淡々とまた販売所の方へ去って行った。
 この知らせは、もちろん、あかつきの男性スタッフたちにも届いた。
─あとどのくらいで部屋が埋まるんだ?
 鞍馬は旅館のフロントに立ちながら、お客がロビーにいないのをいいことに、スマホを見た。予約が増えてきているのは知っているが、何日に何名が入るのかは、あかつきのホームページのシステムではよく分からない。
─なんにせよ、おれのおかげだな。
 キッチャリークレンズからスリーデイズライヴまで。自分の貢献度は、計り知れない。と、鞍馬はほくそ笑んだ。
「なに笑ってんの」
 事務室の扉が開いて、姉の希歩がほくそ笑む鞍馬を怪訝そうに見やった。
「ヨガの仕事、忙しくなりそう」
「あんまりそっちに時間割かんといてよ」
 希歩は凛とした態度で忠告した。
「紅葉シーズンになったら、こっちも忙しいんだからね」
「え?」
 鞍馬は、ぽかんと口を開いた。そうだった。本業である旅館業が繁忙期に入る時期と、あかつき大作戦は丸っきり被っている。そのことをすっかり忘れていた。
 その頃羽沼は、丸太小屋でデスクトップに向かっていた。新規顧客である、コテージアンドバーべキュー場「足込紅葉園」のホームページをどうブラッシュアップするか、考え中だった。
 が、杏奈からのラインが来た時には、思わずガッツポーズをした。
「よし」
 そして、やはり杏奈にラインを入れる。空室状況を、ラインとインスタで発信せよと。
「美津子さん、最後のプッシュをしたいのですが、いつが空席になっているか教えていただけますか?」
『分かった』
 その間に文面を考え、画像を用意しなければならない。あとは、果報は寝て待てだ。
「すみません、なるべく早く発信したいので、ちょっと仕事します」
 この後、四人で食事処で食事をするつもりだった。杏奈は三人に先に行っておいてもらおうとそう言ったのだが、
「待ってますよ、杏奈ちゃん」
 沙羅はそう言った。あかつきの誰がやってもいい仕事を、今は杏奈が一手に引き受けている。むしろ、手伝えないことを沙羅は歯がゆく思った。
「てゆーか、杏奈さんパソコン持ってきてたんだ…」
 この先輩の仕事脳にほとんど呆れながら、空楽はつぶやいた。
「瑠璃子さん、ラインの冒頭一文、考えてもらえませんか?」
「え?」
 杏奈から無茶振りされて、瑠璃子は困惑顔になったが、杏奈が事情を説明している暇はない。代わりに沙羅が、あかつきの今の状況を伝えた。
─一昨日の料理教室も、集客のための…
 事情を知った瑠璃子は、ラインでの集客テクニックなど知らなかったけれど、購買意欲が高まりそうな文言を考えた。
─大反響で感動しています!
─反響が止まりません
─あと六時間・本日23:59〆切
─空席が少なくなっています
─たくさんのお申込みありがとうございます
「おお、そういう感じでいいんすね」
 飾り立てた文章ではなく、意外と普通の文言でいいのだなと、空楽は思った。
「反響が止まりません、もらいます!」
 瑠璃子が考えた一文を、杏奈はすみやかにタイピングする。
 杏奈のノートパソコンの画面を、空楽はさりげなく覗き込んだ。
 案内文のほとんどは、新しく作るのではなく、事前に書いてある文章のコピペで良かった。画面が流れるように移り変わり、文章が組み立てられていく。と同時に、オンラインのグラフィックデザインツールで、目を引く画像を作り上げる。インスタと、ライン用。同時に二つ。
─この事務処理能力を真似できる気がしねぇ…
 空楽は心の中で独りごちた。今後、自分もこういう作業をするようになるのだろうか?
 ピコン。
 美津子から日付ごとの空席数がラインで送られてきた。杏奈がコピペするのを見越しているのか、すぐ使えるように、分かりやすく箇条書きにされている。さすがは美津子である。
 文章と画像ができると、すぐに発信する。限定性をもたせた企画というだけあり、スピード勝負であった。
 ようやく作業が終わると、四人で食事処へ移動する。
 杏奈にとって、外食は久しぶり。普段はあまり食べることのないどて煮を食べていたが、スマホが何度も振動するので、気が気ではない。
 食事が終わり、帰ろうという頃になって、杏奈はそわそわとスマホの通知を見た。
「やった!」
 予約が新たに一件。杏奈は珍しく大声を上げて喜んだ。
 小須賀はその頃、イタリアン料理店で忙しく鍋を振っていて、ラインに気付いたのは、もっと後のことである。
「おお…すげえじゃん」
 あかつきでいつもそうしているように、店の裏側でタバコを吸いながら、小須賀はラインを読んだ。
─人は変わるもんだな。
 と、小須賀は思う。
 一年前は、何をやるにも自信がなく、人と関わることに抵抗をもっていた杏奈が、今はあかつきの中心にいて、事業を盛り上げている。
─影響力をもつようになった。
 とも思う。
 今まであかつきで働いていた、どのスタッフも、あかつきにこれだけの客を連れて来た者はいなかった。みな美津子の力だった。あんな地味に見えた人間が、誰かの心を動かし、行動を起こさせるとは思ってもみなかった。
─…地味なことしか、やってなかったけどな。
 このために杏奈がしてきたことは、地味だったと思う。ライヴ発信こそ派手だったが、その告知にせよ、毎日の発信にせよ、特典づくりにせよ…地味なことを、ずっと続けていたのだ。
 美津子は応接間で、予約への返信をしたり、予約管理表を作ったりしていた。
─こんなに一度に予約が入ったのは、いつぶりだろう。
 そう思うと、自然に笑みがこぼれた。
─大変なのはここからだよ。
 美津子は微笑を崩さぬまま、頬杖ついて、ここから少し離れたところにいる弟子に向かって、心の中でつぶやいた。

 

 


 

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