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第112話「萌ゆる命落つる命」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 年末から続いていた客足は、この日、一月五日の昼で、一旦はけた。
 明日からまた新しいクライアントを出迎えるので、この半日は貴重な空白時間。その貴重な時間に新年会を催すべく、あかつきにはスタッフが続々と集まっている。
 一月。
 身を切るような寒さと鋭い風。大地が凍り付く、一年で最も寒い月。外が静かで暗くなるこの季節は、厚着をして部屋に閉じこもっていたくなる。すると、人は自然に意識が内側に向く。内向的になる。そういうこの季節は、休息し、深く熟考するのに最適である。暗さを抱いた時、突然、春がやってくる。一月は、その時にどう種蒔きをするか計画を練る、重要な時期なのだ。
「今年の目標の発表があるんですって」
 永井、大鐘のアダルトチームは、書斎のソファに陣取って、ゆったりとお喋りをしている。
「まあ。なんだか大げさね」
 大鐘は振り子のように頭を揺らしながらそう言った。
「永井さん、今日は何をもって来たの?」
「イカと里芋を煮込んだやつよ」
「しっぶ~。若い子たちにウケるかしら」
「そんなの関係ないわよ。家にあるもので作っただけ」
 永井はしれっとしてそう言った。そういう大鐘が持って来たのは、鶏肉の五目煮。今日は持ち寄りパーティーなのだ。
「そんなことより…」
 大鐘は急に、声を落とした。
「どうしたの?」
「やだ…私、さっきからずっと見つめられてるわ」
「?」
「あの子…さっきからずっと、私を見つめているわ」
 大鐘の言うあの子とは、鞍馬のことであった。
 座卓の前にあぐらをかいている鞍馬は、しかし、大鐘ではなく、大鐘越しに外の景色を見ているのであった。
 冬の空は、灰色で、日中であっても暗い。灰色の空と寒さは、孤独と憂鬱を呼び起こすことがある。
 山本は、ヨガに来なかった。今まで通りの間隔であれば、山本は一昨日ここに来ていてもいいはずだったのである。
「さすがに、三が日は用事があったんじゃないですか?」
 鞍馬の前に座っていた空楽が、楽観的な意見を述べた。
「うん。あかつきもやってないって思ったんじゃない?」
 と、その隣にいる羽沼。
─それはない。
 年越し前に、あかつきは稼働しているから、来たければ来いと言っておいた。この季節は、もともと健全な人であっても、暗闇と寒さにより、エネルギーの低下、だるさ、眠たさを覚えることがある。
「鞍馬さん、なんだかんだ山本さんのことが心配なんですねぇ」
 鞍馬の隣で、沙羅がふふっと笑った。沙羅の傍では子供たちがシールブックで遊んでいる。
「別に、そんなんじゃないです」
「いいじゃないですか。照れなくても」
「照れてないし」
「やだわ。照れちゃうわ」
 彼らの会話は、ソファ席にいる大鐘には届いておらず、大鐘はまだ照れていた。
「ところでまだ始まらないの?」
 鞍馬は書斎の二つの出入り口の向こうに視線を馳せたが、小須賀、杏奈、美津子がやってくる気配はまだない。
「呼んできますよ。子供たちちょっとお願いします」
 沙羅はそう言って席を立った。
 杏奈と美津子は、応接間で何か話をしている。ちょっと話しかけにくい雰囲気だったので、沙羅は小須賀を先に呼びに行った。小須賀はお勝手口の外で一服中。
「旦那さん、もう行っちゃったんですか?」
 一声かけるや、ドアを閉めようとする沙羅に、小須賀はさりげなく訊く。
「はい。昨日」
「ふうん。また寂しくなりますね」
「うーん…でも、今回はちゃんとお互いのことを話す時間ももてましたから」
 沙羅はあかつきの敷地を囲う槙の生垣に視線を当てながら、
「大丈夫です」
 と言った。
 そのにこやかな沙羅の表情を尻目に、小須賀はタバコを灰皿に押し付けた。

「この手のテーマは繊細なので、発信も慎重に行わないといけませんね…」
 キッチンから出ると、まだ応接間にいる杏奈と美津子の会話が耳に入ってきた。沙羅はホール側から外に出て書斎に戻ろうと思ったが、なんとなく気になり、足を止める。
「だいぶ前に、これに関連する投稿をインスタに上げたんですが、その時もフォロワーが一気に十減りました」
「目にしたくない人も多いということね」
「はい…」
 妊孕力に関する投稿。妊娠と、出産。杏奈としては、本当は、インスタでこのテーマの投稿もしていきたい。投稿を見るのは無料で、多くの人に啓蒙的な内容を届けられる。けれども、繊細なテーマなだけに見るのを嫌煙するフォロワーや、批判的な意見を持つフォロワーも出てきそうだった。
 沙羅がこちらを見ながらゆっくり歩みを進めているのに気付いて、美津子はちらと沙羅を見た。
「SNSはライトな内容に需要があるので、ブログのほうを強化したほうが良いのでしょうか…集客の仕方に迷います」
「集客もそうだけど…いざ、オンライン講座をグループで行うとなると、その中でもいろいろと難航することがありそうね」
 沙羅は杏奈の斜め後ろくらいのところで足を止めた。杏奈もさすがに沙羅の存在に気づき、少しだけ顔を横に向ける。
「そんなに短い講座じゃないでしょ」
「はい。四カ月から六カ月くらい…」
「その間に、誰が妊娠したしないで、羨望を抱いたりプレッシャーがかかったり…」
「それはありえますね」
「というところを考えると、完全にクローズドで、一対一くらいの対応にしていくのがいいんじゃないかしら」
「…」
 どうやら、新しいコースか講座を考えているようだと、沙羅にも分かった。おそらく、妊活を目的としたものだろう。
「…けれど、講義があるので、その部分を一対一でやるのは、非効率ですね」
「動画を撮って見てもらうとかね」
 動画を撮って見てもらうのと、ライヴで伝えるのとでは、クライアントの熱量が違う。その講義の内容に対する議論や質問も不活性で、結果、身につかないことが多い。
 杏奈は動画の共有という手段は、選択肢の中になかった。その思いは美津子にすぐ伝わった。杏奈の表情に出ていた。
「一対一でやるという時点で、この講座で売上を上げるのは難しそうですね」
「一対一じゃなくてもやり様はあるかもしれないけどね」
「でも、仰る通り、複数人が講義に参加したら、他の人の状況が気になっちゃいますね」
 美津子が言うことは、杏奈にも理解できる。一対一にしたら、クライアントが自分と他を比較することもないし、マンツーマン対応は嬉しいことである。だが、あかつきの負担が大きすぎだ。
「今まで通り、ここに来たクライアントで、たまたま妊活を希望する人に対し、教育をしていくというスタイルではだめ?」
「…伴走型が、一番先方も継続できる気がして」
「伴走か」
 あくまで杏奈はそこにこだわっていた。あかつきに来ることがあってもいいかもしれないが、何よりも普段の生活の中でできることを続けられるような環境を作りたい。
 それに、どうしようもなく不安に苛まれたときに心の内をシェアでき、分からないことを聞きける相手、立ち戻るべき場所が一定期間あったほうが、心強いのではないか。
「…労力もかかるし、効率も悪い…となると、あかつきの事業に組み入れるのは難しいですかね」
「でも、やりたいんでしょう?」
「…はい。やりたいです」
 あかつきの事業じゃなくても、個人でこれをしていくことすら、視野に入れている。美津子は杏奈の静かなまなざしから、強い意志を感じた。
「今あかつきをフォローしてくれている人の中に、興味がある人はいるかもしれないわね」
「はい」
「でも、そういう発信は行ってなかったから、母数としては少ない」
 それは杏奈も分かり切っている。妊活をしたい人は、妊活サポートを主力とする他の医療機関や団体を見ているだろう。
「このテーマの投稿をしないのであれば、その少ない母数の中から、興味のある人を拾うしかないわね」
「…」
「もう少し、やり方を練ってみましょう」
 時間をかければ、何かいい案が出てくるかもしれない。
「はい。もう少しリサーチしてみます」
 杏奈は、この手のテーマで、すでに伴奏型サポートを行っている個人や団体の活動をまとめている最中だった。
 杏奈は長く吐息した。
─そう簡単にはいかないか…
 あかつきは、杏奈一人のものではない。自分がやりたいからといって、無謀な企画を打つのは得策ではない。やるのであれば、自分の気持ちを満たすだけでなく、ちゃんとあかつきに利益をもたらさなければ。
─でも…
 これをやらなかったら、アーユルヴェーダをやっている意味がないとすら、杏奈には思える。

「みんなもう揃った?」
「あ、はい…」
 急に美津子に訊かれて、沙羅は頷いた。二人を呼びにきたのに、すっかり話を立ち聞きしてしまっていた。
「美津子さん、ありがとうございました」
 杏奈は相談に乗ってくれた礼を言って話を締めくくる。美津子は頷き、席を立って書斎の方へ向かった。
「杏奈ちゃん」
 座ったまま動かない杏奈に、沙羅は後ろから声をかける。
「今の話…」
「…ああ、新しい企画というか…やりたいことがあるんですけど、やけにハードルが高くて」
 杏奈は、困ったような笑みを浮かべた。
「あかつきで無理なら、個人でやっていくかとも思いましたが…やっぱり、自分一人じゃクライアントにできることは限られていて、チームの力を借りたほうが、断然…」
「…」
 先日、沙羅自身が考えていたようなことが、タイムリーに妹弟子の口から出た。
「あかつきの滞在者をふやす企画じゃなくて、オンラインの実践プログラムみたいな企画なんです。今のあかつきの事業の型にはない企画なので、やり方に困ってます…」
「そうなんですか…」
「…講義はリアルタイムでやりたいと言ったものの、キッチャリークレンズは、アーカイヴ視聴の方も多かったですし、やっぱり動画を見てもらうスタイルのほうがいいのかなとか…座学よりも、講義の時間自体が、悩める人たちにリラックスを促す、ヨガとか、瞑想の時間に当てたほうがいいのかなとか…」
 杏奈はやけに饒舌だった。きっとこんな問答を、自分の中で日々繰り広げているのだろう。
「美津子さんは、ちゃんと聞いてくれてますけど、本当は自分勝手なことと思ってるかも…」
 講座のやり方とは別に、杏奈にはそんな懸念もあるようで、声のボリュームを落としてそう漏らしながらも、悩まし気にため息を吐いた。
 話の経緯をかいつまんでしか話していないので、沙羅には詳しい事情や、その企画の全貌はよくつかめなかった。でも、杏奈にとって、とても重要な仕事なのだということは分かっていた。
「ちっとも自分勝手とは思いませんけど」
「…そうですか?」
「はい。杏奈ちゃんがやりたい講座って、きっと、多くの女性が必要とすることですよね」
 静かに杏奈を見下ろす沙羅の目。優しいその瞳に見つめられて、杏奈は、沙羅が言外に伝えてくれていることを、察した。
─私には分かります。
 沙羅は、杏奈がある仕事の準備を猛烈に進めようとしているのは、彼女自身のためなのだと分かっていた。けれど、自分のやりたいことを、誰かや、あかつきへの貢献に繋げている以上、それは自分勝手ではない。
「ありがとうございます」
 杏奈は沙羅に微笑み返すと、再び正面を向いて、
「…美津子さんと問答したこと、忘れないように書いておかないと」
「それは、優秀な人の姿勢ですね」
「…」
「でも、みなさんお待ちかねですよ」
「あ…じゃあ、一度あっちへ行ってから…」
 杏奈はそう言って、席を立った。
 書斎までのわずかな距離を歩いている間、杏奈の脳裏には、自分が最も課題意識を持っていることが浮かんで来た。正直、売りを立てる手段などは、考え抜けばいくらでも出てくるはずだ。
 問題は…
─アーユルヴェーダでは、癒しをもたらすのは、自分自身。
 ならば、あかつきの仕事は、その方法をクライアントに与え、実践できるよう鼓舞すること。
─この仕事によって、クライアントが望みを叶えることに、どのくらい寄与できるか。
 まだ自分自身が、そこに寄与できたという実感を得たことはない。実績がない。
─どのくらい、寄与できるか。
 問題は、そこであった。

 希望を与える知らせは、しかし、突然に届いた。
 新年会の冒頭のあいさつが終わり、みんなが食事をし始めると、お誕生日席に座っていた杏奈はさっそく中座した。沙羅に言った通り、今しがた美津子と話した内容を、認めておくためだった。ほんの五分で終わらすつもりで、応接間に戻り、パソコンを開く。
 一件のメールが来ていた。
 杏奈は目を見開いた。何度も、本文に目を走らせた。
 それが読み間違いでないと知った時、杏奈はすっと椅子から立ち上がった。
 今しがた課題と思っていた課題が、課題とは思えなくなるほど、それは希望をみなぎらせる報告だった。
 杏奈は手で胸を押さえた。
─どうしよう。
 メールはあかつきの代表アドレスに届いていた。もしかしたら、スマホで美津子や沙羅ももう見ているかもしれない。
 杏奈はノートパソコンの電源コードを外し、パソコンを手に持ったまま、そろそろと書斎へ足を進めた。
 美津子はソファ席でアダルトチームの隣に腰掛けて、談笑している。杏奈はくるっと回り込んで、美津子の傍へと足を進めた。
「美津子さん」
 杏奈の声は静かだったが、急いた様子があった。美津子は何か問題が起こったのかと案じながら後ろを向いた。
「どうした?」
「これ、見ました?」
 杏奈は開いたノートパソコンの画面を美津子に見せる。どうしたんだろうと、他のスタッフたちも二人に視線を集めた。
「…」
 美津子も一瞬、目を丸くしたが、すぐに落ち着いた表情になって、
「なるほど」
 杏奈の目を見て、小さく、二度ほど頷いた。
「よかったわね」
「はい」
 杏奈は安心したような笑みを浮かべた。
 その場の空気が変わる。美津子と杏奈のやり取りは、静かで淡々としたものだったが、二人の感情の変化や気の流れの変化が、空間に伝わったのだ。
 何か朗報があったらしい。それが伝わると、誰もが、何があったのか知りたくなる。
「どうしたんですか?」
「何があったんですかね」
 みんながざわざわし始める。
 杏奈は美津子と目を見合わせた。美津子は少し考えるような顔をしていたが、早く教えてほしいというみんなからの圧を感じる。
「みんなに教えてあげて」
 杏奈は頷き、顔を上げると、
「咲子さんが妊娠しました」
 まだ初期だから、あくまで淡々と、報告する。
 誰もが「え?」と驚いた顔をする。一瞬、沙羅が息を呑む音が聞えたが、書斎は静寂に包まれた。それも束の間。
「─っしゃあ」
「やった」
「っし」
「すご」
 地味だが、みんなの思いが詰まった歓声が沸いた。机や脚をドンと叩く音も聞こえた。
「おれの秘密のマニュアルが」
「おまえのマニュアルじゃないだろ」
 小須賀と羽沼は乱暴にお互いの肩を叩き合った。あまり経緯を分かっていない大鐘も、みんなの喜びように便乗して、にこにこ顔で首を左右に振っている。子供たちは、何があったのか理解できていないが、周りの大人たちが感動した様子なのを見て、急ににやにやし出した。
「…よかった」
 鞍馬は、歓声を上げた後、急に冷静な表情になって、顔をゆがめる。感極まったような表情だった。
「…まだ妊娠初期ですよね」
 沙羅は不思議そうに首を傾げた。まだその時期は、妊娠したことをあまり公にしない段階だ。杏奈は頷いて、
「はい。咲子さんは…」
 メールを読み上げた方が早い。杏奈はパソコンの画面を覗き込み、メール本文をそのまま読み上げた。
「時期的に、お伝えするのはどうかと思いましたが、妊娠中のアーユルヴェーダ的な推奨事項や、食べた方がいいもの、食べない方がいいものなど教えていただきたく、報告させていただきました」
 つまり、アドバイスを期待し、報告してきたのであった。妊娠はゴールではない。
 しかし、その知らせは、杏奈にとってとても嬉しいものだった。きっと他のスタッフにとってもそうだったに違いない。
 それからの新年会は、みんなの士気が上がって、今までになく盛り上がった。
 外はもう真っ暗だが、書斎には明るい光が満ち、いっそう中があたたかく感じる。
「あれ、そういえば年間目標をお話するんじゃなかったんでしたっけ」
 料理がほとんどなくなった頃、美津子の向かいに座っていた小須賀が声をかけた。新年会冒頭に大ニュースが飛び込んできて、ちょっとみんなの気から逸れてしまっていた。美津子自身も、そうだった、それを話さねばと手で膝を打って、
「まあ、今日は方向性くらいにしておきましょう」
 そう言うと、立ち上がった。
「細かい年間計画と、一人ひとりの目標はまた後日お話するとして…」
「なんか会社みたい」
 空楽がぼそっと言った。
 美津子が立ち上がると、みんなは話をやめ、居ずまいを正した。子供たちですら、美津子に注目する。同じく美津子に視線を向ける杏奈は、いつになく晴れやかで、解放的な気分だった。
 みんなの注目を浴びても、美津子は少しも緊張した様子を見せずに、一人ひとりと目を合わせていった。
 そして、話を始める。
「あかつきを創立したきっかけは、私がたった一人の女性を、支えたいと思ったことだった」

 それは、そこにいた者たちのほとんどが、初めて聞くような話だった。
 美津子が足込幼稚園で勤務していた頃。一人の女性の救済に情熱を注ぐようになり、彼女にアプローチを続けた。美津子はしばしば、実際に彼女の自宅を訪れ、話をしたり、時にはアーユルヴェーダのケアを行ったりした。
 彼女を暗闇から光へと導いたその経験により、美津子はあかつきの前身となる事業の構想を抱いたのである。美津子は決断をした。そして、加藤との縁で、現在のこの敷地にあかつきを創立することとなった。
「クライアントに、効果的なサポートができればと思って、様々なことを学んできた」
 特別な静寂に満ちた書斎に、美津子の声が浸透する。
「けれど、目の前の一人の女性を癒したいと思った、あの熱意に勝る知恵や技術は、なかったと思う」
 杏奈は全身を耳にして聞いていた。
「アーユルヴェーダやヨガで、誰かをサポートするなら、根底には熱意がなければならないと思う。幸い、今、熱意ある人達が、ここに集まって来てくれた。正直、感染症の時は、もうあかつきを閉めてしまおうかと思っていたくらいだけれど、どうにか存続できてる…みんなのおかげね」
 あかつきは、一人では回せない。
 そこまで言って美津子は、両の目の焦点を、小須賀に合わせた。
「感染症後もあかつきに残ってくれたスタッフといえば、小須賀さん。あなただけだったわね」
 そう言われると、小須賀はピンと背筋を伸ばし、
「そうでしたね」
 少し掠れた声で、少し誇らしげに、頷いた。
「あかつきのキッチンは、物理的・エネルギー的な消化を支える火そのもの」
 健全な体・心・魂は、健全な消化の火(アグニ)によって、培われる。
「小須賀さんは、ずっとその火を燃やし続けてくれた」
「ずい分気まぐれな火ですけどね」
 小須賀はへへっと笑った。
「私は地元の方への施術、小須賀さんは各週のお弁当づくり」
「あの頃の仕事はそれだけでしたね」
「そう。考えてみると恐ろしい事ね。だけど、少しずつ事業を再開できたのは…」
 美津子は次に、沙羅に視線を向けた。
「沙羅。セラピスト養成講座の修了生が、もう一度ここで働きたいと言ってくれたのは、正直心強かった」
 沙羅は、照れくさそうに笑った。
「それも、小さな子供の面倒を一人で見ながらだ」
 それを押しても、あかつきに戻りたいという気持ちに、支えられた。
 美津子は次に、視線を杏奈に向けて、
「杏奈は、いきなり飛び込んできたわね」
 杏奈は恥ずかしそうに肩をすくめた。小須賀がくくくと笑った。
「地元民でもない人から、あんな風に連絡をもらったのは初めてだった」
「そうなんですか」
 あかつきには、もっと就労目的での問い合わせがあることと思っていた。
「最初はどうなることと思ったけど、杏奈は、今ではあかつきを動かす大きな火ね」
 料理を皮切りに、情報発信、事務手続き、集客、セラピスト業務、企画と…瞬く間に、美津子の立ち位置の仕事とプレイヤーとしての役割を兼任するようになった。
「びっくりはしたけど、あの時あなたを受け入れた自分を褒めてあげたい」
 美津子はいたずらっぽくふふっと笑った。小須賀も少しいじわるな顔でくくくと笑っている。杏奈はなんだか恥ずかしくなって、その場に縮こまった。
「そして去年の秋の、あかつき大作戦だ」
 このネーミングは、何度聞いても滑稽で笑ってしまう。
「まだ記憶に新しいわね…強引にスケジュール確保されたり、無茶ぶりをされたりして、辟易したでしょうけれど…みんなはどう思った?」
 いきなり尋ねられて、みんなちょっと体をもぞもぞさせ、お互いの顔を見合った。
「ま、無茶ぶりってほどでもないわよ」
 勇気ある第一声は、大鐘の口から発された。
「こんなおばあさんだけれど、仕事がもらえて嬉しかったわ」
 若い人たちとも関われたし…と言って、大鐘は小須賀に視線を注ぐ。小須賀は大鐘の熱い視線を華麗に無視しながら、
「いつもより仕事に歯ごたえがありましたよ」
「歯ごたえ…」
 小須賀の言葉を、空楽はぼそっと反芻してから、
「楽しかったです」
 と言った。
「やってよかったです」
 その一言に、杏奈はたくさんの、複雑な感情を込めた。なによりも、先ほど届いた一報が…その感を強くしている。
 美津子は頷いて、
「正直、あかつきは短期間の間に、感染症以前よりも、質を向上させたと思う」
 そうして今度は、鞍馬に視線を移し、
「鞍馬さんがいなければ、ヨガとアーユルヴェーダという、お互いを補填し合う両翼の一つを、ずっと失ったままだった」
 鞍馬はそう言われると、真面目な面差しで美津子を見つめ、二度ほど、瞬きをした。
 美津子はそれから、空楽、永井、大鐘に代わる代わる視線を当て、
「心強いセラピスト、セラピスト業務をアシストする大鐘さんの存在も、もうあかつきに欠かせませんね」
 空楽はちょこっと笑い、永井はこっくりと頷き、大鐘は「やだわ私はそんなに働いてないわよ」と早口に言った。
「それ以前に、あかつき大作戦は、羽沼さんの手助けがなければ、あそこまで人が集まらなかったかもしれない」
 羽沼は美津子と目を合わせた。美津子の目はきらきらと光って見えた。その目を見て、羽沼はその頃のことを思い出した。手伝いたいという気持ちにさせたのは、紛れもなく、あかつきのスタッフたちの瞳の中に見える、こうしたきらきらした光、熱意だった。
「あかつき大作戦の盛り上がりを、最大瞬間風速的なもので終わらせたくはない」
 美津子のその言葉に、ちらほらとスタッフたちが「そうだ」と頷きあった。
「今年一年をかけて、あの規模を通常のサービスとして、定着させていきたい」
 今度は、少し沈黙。その沈黙は、美津子にさらなる説明を求めるものだった。
「あかつきは、日常生活、食事、ヨガ、トリートメント、自然に触れる…アーユルヴェーダが勧める生活習慣と、リラクゼーションを体験することができる、日本では珍しい常設のアーユルヴェーダ施設です」
 沙羅が大いに頷いた。
「あかつきの使命は、これらのサービスを通して、クライアントに一時の癒しを与え、現実世界で、自分が思い描く人生を生きる力を取り戻す、サポートをすること」
 多くの者たちが、美津子の言葉にこくこくと頷いた。
「その使命を果たすには、みんな一人ひとりが力を発揮することが必要です」
 美津子は改めて、一人ひとりに視線を這わせた。もはや、これはみんなの士気を鼓舞する、演説であった。
「あかつきを創立した当初の熱意と、今私が抱いている熱意は、その対象が少し異なるものになった」
 美津子はそこで、意味深なことを言った。杏奈は耳を聳てた。
「ここにいるスタッフたちは、それぞれが、クライアントに対して真摯に向き合い、力になりたいという熱意を持っていることと思う」
 かつての美津子が、その熱意を原動力に、たった一人の女性を癒したように。
「私は、その熱意をもつみんなに、私が持っている知識や技を継承することに、熱意を燃やしたい」
 それは、美津子が次の世代の育成のほうに力を入れるという宣言だった。
「クライアントに熱意を注ぐのは、みんなの役目」
 あかつきのスタッフ一人ひとりが、そのエネルギーを使って、どのような絵を描くのか見るのだ。
─熱意。
 杏奈は、ずっと前に出された問題への回答を、今、知った気がした。どこかで分かっていたような気がするのだけれど、美津子はずっとその答えを明示していなかった。
 けれど、今分かった。
 クライアントを癒すには、「火」が必要だと。
「美津子さん」
 永井がやっと口を開いた。
「あなた、もう傍観者になるつもり?」
 美津子は口元に微笑を浮かべ、かぶりを振った。
「いえ。まだ、私もみんなと肩を並べて頑張るつもりです」
 その必要性を、美津子自身が感じている。
「けれど、次の世代を担うみんなが中核となる日も、そう遠くない」
 美津子は、目の前の小須賀、座卓に座る沙羅、空楽、鞍馬、羽沼、そして杏奈へと、順番に目を合わせていった。
「だから、そのつもりで頑張ってほしい」
 美津子の宣言に、それぞれが声を揃えて返事をし、頷いた。

 萌ゆる命あれば落つる命あり。
「香織ちゃんありがとう」
 妻の腕の中ですやすや眠る生まれたての命に、弘は手を伸ばした。
 小さな指、小さな手。
 何よりも愛しい命。
「あかちゃん、あかちゃん」
「達磨~、お前もこんなだったんだぞ」
 分娩直後の、家族のあたたかいひと時。
 そんな微笑ましい場面に立ち会いながら、鈴木は、香織の顔色が気になりはじめた。
「吉川さん、大丈夫ですか?」
「…なんかちょっと、しんどくなって…」
 鈴木は少し容態が気になり、ナースコールで夏目を呼び、このお産のために休日出勤していた順正にも、念のため来てもらうことにした。
「ちょっと赤ちゃん預かりますね」
 鈴木は赤ちゃんを抱き取り、弘と達磨にはいったん分娩室から出てもらうことにした。
「胸が…苦しい…」
 順正と夏目と入れ替わるように、弘と達磨が出て行った、その時だった。
「…!柴崎先生!」
 鈴木は目を見開いて、香織の顔を覗き込んだ。すぐに赤ちゃんを新生児用ベッドに寝かせる。
 パタンと分娩室の扉が閉まる。
「吉川さん意識ない!」
 順正はそれを聞くや否や、ベッドに駆け寄って、口元に近づいた。
「呼吸してない!」
 言いながら順正は急いでマスクバッグをつけ、鈴木はナースコールを鳴らす。
「田中さん分娩室へ!松下先生も呼んで!」
 松下は今日オンコール体制ではない。が、すぐに急行してもらわねばならない事態だ。
「血圧64/30心拍数140です」
 夏目が声を張り上げた。大声を聞いて、赤ちゃんが泣き始めた。その時、夏目が一歩踏み出した足が、何かに触れた。
 ぺしゃっ
「…っなにこれ…!」
 夏目は急にめまいを起こし、顔を押さえながら後ずさりし、壁にぶつかってそのまま座り込んだ。
「!?」
 順正も鈴木も足元の光景に一瞬呆然となった。
 夥しい出血。
「点滴18Gでとって!」
「血圧下がってます!」
 それはもう、一瞬の出来事だった。
 夏目は口を押えたまま、壁の傍にうずくまっていた。赤ちゃんが大声で泣き喚き、順正と鈴木がずっと何か叫んでいるが、何も、少しも、聞こえなくなった。
 分娩室の扉が開き、中に入った田中は、床に夥しい血が流れているのを見て、一瞬その場に凍り付いた。
「血圧下がってます!」
「アドレナリン投与!」
「私がAライン取ります」
「出血3500超え…」
 ピーッ
「!」
 その音に、鈴木と田中は唖然とした。
「心停止…」
「心臓マッサージする!除細動準備!」
 鈴木がつぶやくのと、順正が鋭い声で指示を出すのとが同時だった。順正は即座にベッドに乗り込み、心臓マッサージを始める。
「はい!」
 分娩室の扉がバッと開き、松下が飛び込んで来た。
「柴崎先生…!」
「除細動!離れて」
 鈴木の声が飛ぶ。
 ドッ
 その場にいた者たちは、心電図モニターに注目していた。
─来い!
─来い!
─来い!
 が、順正は別のところに、目が釘付けになっていた。
 松下が扉を開けた瞬間、達磨がこっちを覗き込んでいたのだ。
 その小さな体、不安そうな、怖気づいたその表情。
 ガラガラガラガラッ!
 順正の腕がワゴンの中の器具に当たる。大きな音を立てて、床に落ちた。

 

 


 

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