夏はすぐそこまでやってきている。このところ湿度が高くなり、蒸し暑い日も多くなった。
あかつきの畑では、美津子、柳、杏奈の三人が、それぞれの持ち場で草を採ったり、畦間を耕して株元に土寄せをしたりしている。夏野菜の植え付けも終わり、農作業は管理が中心となった。日照不良で湿度が高い日が続くと、生育が軟弱となり、病気が発生しやすくなる。そのため、排水対策や、こまめな雑草の除去が必要なのであった。
「まあ、こんだけの土地だからええけどよ」
竹笠を少し上にずらして、柳は汗ばんだ額を首に巻いたタオルで拭いた。
「無農薬でやるっちゅうのは、大変だで」
「ええ」
美津子はそれでも、できるだけ除草剤を使わず、有機肥料を使っての栽培にこだわっている。杏奈もそれを手伝ってはいたが、相変わらず虫への耐性がない。暑くても、作業する時はいつも素肌をほぼ出さず、軍手が欠かせなかった。
「このパクチーも花が咲いちゃったじゃん」
柳は、畑ともいえない、庭のほんの片隅に植え付けたパクチーが、すでに小さな白い花を咲かせているのを見つけた。
「もう採っちゃって、部屋の中で水に生けといたら」
「そうします」
そう言って柳の方に歩み寄ったのは、杏奈のほうだった。
「柳さん、まこもの件は、ありがとうございます」
柳と、その息子夫婦─便宜上小柳夫婦と呼んでいる─は、あかつきがまこもの葉からオイルを作ろうと考えていると聞き、あかつき用に、まこもを囲ってくれたのだ。
「ああ、ええのええの」
柳はしゃがれた声を出した。
「でも、オイルなんかにして、売れるの?」
「売るんじゃありません。ここで、使うんです」
杏奈はそう言って、白い外壁の母屋に視線を向けた。
ぽつり。
ぽつり。
「いかん、降って来た」
まだ小雨だが、西の空には分厚い雲が広がっている。
「そろそろ撤収するか」
杏奈は採った野菜をお勝手口に持っていき、美津子が道具を片付け、柳が持って来た備品を軽トラに積み込んだ。
「降って来るで、ここでええよ」
柳は正門の前に停めた軽トラに乗り込み、美津子に家の中に入るよう促す。美津子は柳に一礼し、正門を閉めた。
はたして、外はすぐに土砂降りになった。
「最近は、ゲリラ豪雨みたいな雨が多いですねぇ」
麦わら帽子、軍手、長袖パーカーなど、農作業のための衣類をたたみつつ、杏奈は窓の外を見た。
「ええ…」
美津子も窓の外を見た。たった五分足らずの間に、天気が急変することも多い。
日中でも、部屋の中が薄暗く感じる。
屋内は暑く、湿気が高かったが、我慢できないほどではない。冬の寒さに慣れたように、夏の暑さにも慣れるよう、この時期、身体は絶妙な調整を行っている。エアコンの使用は大切だが、極端な温度変化は体に負担をかける。過度な使用(低すぎる温度設定)はこの時期の気候に合わない食べ物を食べたくなることにもつながる。あかつきではこの夏、まだエアコンを一度も稼働させてはいなかった。
「お昼つくります」
杏奈はエプロンを身に着けて、キッチンに立った。
今日採ったものを見る。パクチー、モロヘイヤ、スナップエンドウ。献立のことなど考えず、ただ食べごろになっているものを採った。それから献立を考える。
あかつきに住んで一年。杏奈は、このスタイルにも慣れ、今では気に入っている。
モロヘイヤを刻んでスープに入れ、スナップエンドウと白身魚を炒め、パクチーで佃煮を作った。
六月の暑さはピッタに、湿気はカパに挑みかかり、それぞれの関連した症状を引き起こすことがある。逆に、ヴァータは悪化しにくい。熱と湿という、ヴァータと逆のグナ(性質)が優勢になるためだ。もちろん、活動しやすくなる夏に、過活動と外部からの刺激にさらされなければ…であるが。
「美津子さん、ご飯できましたよ」
杏奈はお盆に一人分の料理をのせて、美津子の席まで持っていった。
「ありがとう」
あっさりとしていて、さらさらと食べられそうな和食を見て、美津子はほっとした。暑くなり、一年で最も消化力が弱まる季節に入っている。食事は軽めに、より優勢になるピッタを意識したものが望ましい。
─アーユルヴェーダを知る料理人が作る料理は、安心だな。
美津子は、今更ながらそう思った。
昼食後、杏奈と美津子は二人並んで、事業計画を練り直した。
今までは、年初に美津子が大枠を決め、都度修正してきたが、最近は修正する際、杏奈を同席させるようにしている。
「鞍馬さんがヨガ指導をしてくれるし、沙羅の自由度が高くなったわ」
やろうと思えば、沙羅は午後の施術にも入れる。
「今後は長期滞在のクライアントを取れるように、仕掛けていくべきね」
アーユルヴェーダトリートメントの結果をより良いものにするためには、長期的なケアが望ましい。
アーユルヴェーダには、身体の中に溜まった毒素や汚れを排出してきれいにする五つの方法がある。これをパンチャカルマという。五つの方法とは以下の通りである。
・嘔吐:ヴァマナ(薬を飲んで吐く)
・浄化:ヴィレチャナ(下剤を飲んで下痢をする)
・浣腸:ヴァスティ(薬を浣腸して排泄する)
・経鼻投薬:ナスヤ(鼻に薬を入れて口から排泄する)
・流血:ラクタモクシャ(皮膚から血液を排出する)
五つの方法のうち、体質によってどれかが選ばれ、処置が行われる。複数が適用されることもある。しかし、これはアーユルヴェーダが医療と認められる国において、アーユルヴェーダのドクターが行うべき処置である。したがって、あかつきではこれらの専門的な治療は行っておらず、段階的にトリートメントを行うに留めている。五つの方法の実践はなくとも、体を休め、ストレスから解放されて心をクリアにし、トリートメントをすることで、アーマの除去をサポートする。
それでも、急激な体の変化は負担をかける。養生期間は長期間、最低でも十日から二週間かけて行われるのが良い。
「二つある客間が、その月の七割ほど埋まっている状態が望ましい」
美津子が長期滞在を推すのは、売上を考えてのことでもある。事業計画を修正する際、あかつきの帳簿も見ることになる。杏奈は、この帳簿上で、あかつきのお金の収支をリアルに見られた。
スタッフを抱えるということは、それだけ売りを立てていく必要がある。
「だらだら長期滞在プランを推すより、キャンペーン期間を設けて、それに向けて販促をするのがいいと思う」
美津子は年間予定表のエクセルを表示した。
「あかつきの今のメンバーは、長期滞在の受け入れに慣れていない。自分たちの力量を見計らうためにも、一定期間に予約を集中させられるといいのだけれど」
美津子はそう言って、七、八月以降を順に指差した。
「パンチャカルマは季節の変わり目に行うことが勧められる。それに倣って、九月下旬から十月以降…ここで滞在してもらうのがベストね」
「九月下旬に滞在…ということは、事前コンサルは八月下旬以降、そうなると予約確定は七月から八月の間…」
もう、六月だ。六、七月の二か月の間に、集客を行うことになる。
「九月下旬、十月にやるなら、早急に内容を固めないと…」
キャンペーンの内容や、スタッフの動きなど、杏奈にはイメージがつかない。
「必ずしもその期間じゃなくてもいい。けれど、今年中には一度やりたいわね」
美津子は指を、十一月まで動かした。
「案を練ってくれる?」
美津子は買い物に行ってきてと言うような調子で、さらっと杏奈に頼んだ。
杏奈は、心臓がドクンと高鳴った。こんな重要な役割、手に負えるだろうか…。
しかし、杏奈はやる気がみなぎってくるのを感じた。こんなに面白そうな企画、他にあるだろうか。
その日の午後、雨が上がってから、杏奈は美津子のエヌボックスを借りて沙羅の自宅まで向かった。お昼前とは打って変わって、眩しいくらいの日射しが降り注いでいる。
沙羅は娘たちのお迎えの時間まで、家で過ごしていることが多いと言っていた。
青い屋根の、新しい家。家の前には、沙羅のミニが停まっている。駐車スペースはあと二台分ほどあり、杏奈はそのうちの一つに、車をバックで停めた。車の運転は、大分うまくなった。バックの駐車は、ほぼ一発で決められるようになっている。
「杏奈さん~、どうぞ」
沙羅はにこやかな笑顔で出迎えた。
杏奈はリビングへ通された。部屋は物が少なく、がらんとしていて、全体的に明るい印象である。大きな掃き出し窓からたっぷりと自然光が降り注ぎ、家の中は電気をつけなくても明るかった。窓からは中庭の木々や芝生が見え、目が安らぐ。
沙羅らしいナチュラル系の部屋だと思った。優しい色合いのブレイクスタイルのカーテンも、薄い色合いのタモ材の床も、部屋の観葉植物も。天然素材や薄い色合いを好む沙羅の趣味に合っている。
二人は最初に、フェイシャルの練習をした。
沙羅の家の二階には、トリートメントを行えるスペースとベッドがあり、そこで本番さながら、杏奈が沙羅にフェイシャルトリートメントをする。
杏奈はフェイシャルが苦手だった(美津子曰く、セラピストの卵たちはみんなそう言うのだそうだが)。まずは、クレンジングのためのタオルワークからまごつく。時間にして数分の工程だが、美容専門学校の学生は、タオルワークとクレンジングの練習に、何時間も、何日も費やすという。杏奈はセラピストの経験もなく、美容専門学校の学生でもないから、このビハインドを練習で埋めるしかなかった。いつもはマネキンを相手にしているが、やはり実際の人物を相手にするのが一番練習になる。
クレンジングの後はフェイスマッサージ。
「…触ってほしいところに触れられてる感覚ありますかね」
首筋から後頭部まで円を描くようにマッサージする工程で、沙羅に尋ねた。
「ええ。だいぶピンポイントで触れられるようになってますよ」
「よかった。圧はどうですか」
「ちょうどいいです」
この工程は苦手なので、幾度も幾度も練習したのだ。
「今度、空楽さんにもモデルになってもらったらいいじゃないですか」
「ええ。その約束をしています」
体は一人ひとり違う。なるべくたくさんの人の体に触れたほうが経験値が上がる。
フェイスマッサージの後のハーブパックの工程は飛ばして、ホットタオルでの拭き取りと保湿をして、練習を終えた。
「お茶淹れますね」
一階に降りると、沙羅は顔をてからせたまま、キッチンに立った。
それから二人は、ダイニングに向い合せに座り、ルイボスティーを飲み、おしゃべりをした。
「トリートメントができるような設備があるんですね」
てっきり、ソファなどに横になってもらいながら、フェイシャルをすることになると思っていた杏奈は、本格的な道具が揃っていることに驚いていた。
「家の計画を立てる時には、アーユルヴェーダトリートメントもできるヨガサロンを開くことを考えていたので」
杏奈は夏らしい涼やかなグラスに注がれたルイボスティーをごくりと飲んで、
「ヨガサロン、やっていくんですか?」
「ええ。そのつもりです」
沙羅は口角をキュッと上げて、朗らかに答えた。
「杏奈ちゃんが今はSNSで集客できる時代だって言ってくれたので、それに勇気をもらって…」
沙羅は少し、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「さっそく、集客し始めちゃいました」
「本当ですか?」
杏奈は沙羅のインスタを常にチェックすることはなかったが、今一度開いてみたい気持ちになる。
「ヨガのほうだけですけどね。細々と、地元の人たちを集めてやっていけるといいなって。同じくらいの子供がいるママさんとか」
集客は一筋縄ではいかない。それはここ何年も、自営の料理教室やあかつきの集客をしてきた杏奈はよく知っている。しかし…
「…沙羅さんが呼び込めば、お客さんはすぐについてきそうな気がします」
「そんなことないですよ!」
沙羅は大仰に手を振った。
「まだ全然です」
あかつきでのトリートメントを、子供の次に優先させていたように見えていた沙羅…しかし、自分のサロンを運営するようになったら、子供の次は自宅サロンになるのだろうか。
「沙羅さん、あのう、ヨガサロンの運営をしようと思たのは…時間ができたのに、あかつきの仕事が増えないからですか?」
沙羅は一瞬、きょとんとしたが、再び手を大仰に振り、
「ちがいますちがいます。これは、自分に時間ができたら、やろうと思っていたことなんです」
嘘ではなかった。それが、鞍馬の登場によって、焚きつけられただけのこと。
だが杏奈は、あかつきの売上を伸ばすことは、今のスタッフ全員をあかつきに引き留めるためにも、急務であると感じた。
「あかつきの仕事だけで、生計が成り立つとしても…ですか?」
「…そうです。自分のためにやりたいと思っていることなので」
杏奈はその答えで自分が安心できたのかどうか、よく分からない。
今のあかつきにクライアントを呼ぶにあたって、沙羅の戦力があることが前提だった。頼りにしている沙羅が、他の仕事を優先させる可能性があることなど、考えてもいなかった。
小須賀にしろ、鞍馬にしろ、本業はあかつきとは別である。もし、あかつきにいるメリットを感じなくなったら…
─事業者は、クライアントのことだけを気遣っていればいいわけではない…
杏奈はあかつきの事業者ではない、一スタッフであるのに、まるで事業者の立場にいるかのように危機感を抱いた。
─それにしても…
杏奈は改めて、沙羅の家を眺めた。
収納がたっぷりある、おしゃれなキッチン。広くて明るい居間に、十分な広さの庭。子供用のプレイルーム。小物も食器も、沙羅の趣味で選んだものだろうが、使いやすくて、見た目も良い。
夢のマイホームとは、こういう家のことを言うのだろう。
思えば沙羅は、あくせくと働く必要はない。夫は石油会社に勤め、海外赴任をしていて、給料はたっぷりもらえているはずだ。そして、かわいくて健やかな娘が、二人もいる。
沙羅は、杏奈にないものを持っている。その上、ヨガサロンまですぐに成功させようものなら…
「杏奈ちゃん?」
沙羅に呼ばれて、杏奈は我に返った。
「どうかしました?」
「いいえ」
杏奈は内心、慌てた。卑しい感情を抱いた。暗い顔をしていなかっただろうか。
「…そういえば、沙羅さん。あかつきにクライアントがよく入っていたころ、何人くらいを同時に受け入れてましたか?」
「ええと…三人、ですね」
沙羅は人差し指を口元に当てて言った。
「母屋のトリートメントルームのほかに、離れを活用していました」
杏奈が今寝室にしている部屋である。そういえば、離れもトリートメントのために活用していたと、以前聞いたことがあった。
「常時、三人くらい入ってましたか?」
「常時ではありません…それは最大瞬間風速というか…だいたい二人です」
─最大三人、か…。
一日あたりの滞在人数が多い方が、効率はいい。しかし、問題は客間の数と、セラピストの人数だった。
─いっそ、私が離れを出れば…
とも思うが、他にも方法はある。
「実は…」
杏奈は、長期滞在キャンペーンを企画することになったと、沙羅に話した。
「美津子さん曰く、月に二十日あまり、客間が二つとも埋まっている状態を作りたいのだそうです」
「月に二十日というと…」
「十日滞在するクライアントが、四名いれば、目標達成です」
五日滞在ならば、八名が必要になる。
「期間限定で、長期滞在を促すには、その期間の滞在で適用される割引と、サービスの拡充が必要になると思うんですが」
杏奈はリュックからリングノートを取り出して、見開きの状態にして、沙羅に提示した。
そこには、杏奈が今日認めたばかりの、素案というか、イメージが書いてあった。円グラフのようなものがいくつも書かれている。それはクライアントの動き─トリートメント、食事、ヨガなど─を時系列的に示しているようだった。
「さっき、三人受け入れてたって言ってましたけど、トリートメントルームは離れを使ったとして、客間はどうしていたんです?」
「相部屋です」
「相部屋…」
「相部屋だと割引が適用されるので、クライアントにとっても都合がいいんです」
「なるほど…」
「あ、でも、その人たちは全く他人だったかな…もともとお友達同士で来ていたか、家族だったかは、ちょっと覚えてないです」
記録を辿れば、赤の他人同士でも相部屋にしたケースがあるか、追えるだろう。いや、前例がなかったとしても、本人たちが良いというのなら、相部屋にしてもらい、その分滞在費を割引すれば良い。
「二人以上受け入れるんですか?」
「そこを悩んでいるんです…」
何人まで一度に滞在可能とするか。客間の問題はクリアできても、問題は、ベッドと、セラピストである。
「ベッドなら、あかつきに一つ使ってないのがあるはずですよ」
三人受け入れていたのであれば、当然もう一つあるはずである。
「なんなら、うちのベッドを持っていってもいいですし」
「本当ですか?」
「はい。でも、セラピストの数が…」
杏奈は椅子を引いて、背筋を正した。
「この際、できるかどうかは後回しにして、理想的な長期滞在プランを練ってみませんか?」
今よりも多くのクライアントを受け入れていた、過去の状況を知る沙羅が隣にいたほうが、話が早い。
沙羅は、思いがけない杏奈の強引さに驚き、目を丸くしていた。しかし、ノートに書かれている時間軸を示した円グラフ…
─この円グラフの通りにできたら…
どんなにか楽しいだろう。グラフの上で、躍動している自分たちの姿を、沙羅は見た気がした。
それからの時間、二人はノートに思いつくまま案を出し、課題を抜き出し、時間はあっという間に過ぎていった。
「期間は、美津子さんはパンチャカルマに適した季節がいいと仰ってるんですね?」
「ええ。でも、現実的な問題を言うと、集客に必要な期間がどのくらいかということなんです」
「そこは羽沼さんの出番じゃないですか」
沙羅は言いながら、時計を見た。
「今度、羽沼さんに来てもらいましょうよ」
沙羅は、ちょうど自宅サロンに関して、羽沼に相談しようと思っていたところだったという。
「今日はもう、お迎えに行かないと」
「すみません、遅い時間まで」
一緒に案を出していたら、意外なほど盛り上がってしまった。
杏奈が羽沼を呼び出したのは、その数日後。
沙羅がトリートメントに入っている間に、沙羅と二人で組み立てた素案を羽沼に話し、集客に関する相談をした。
「なるほどね…」
羽沼は、月別の売上と、現在の予約状況、ノートに書き出されただけのまとまりのない企画書をにらめっこした。
「ちなみに、最終的には、このキャンペーンと同じくらいの規模感で、クライアントを常に入れていきたいって感じ?」
「できれば…でも、無理な体制を想定しているので、これを毎月続けられるか、分からないんです」
だが、単発のお客や数日滞在するクライアントが、ぽつり、ぽつりと入る現状のままでいいとも思えない。
「今の状態で、最大瞬間風速的なクライアントの入りにどれくらい耐えられるか、確認したいという思いもあります」
羽沼は口に手を当てて、しばらく考えていた。
「…作戦はある」
「本当ですか?」
「リストを増やさなきゃね。そのために、本命であるキャンペーン前に、別の企画を打つ」
つまり、フロントエンド(低価格に設定した集客用商品)を設けるということだ。
「説明会からの個別相談会とかをやってもいいけど…」
そう呟いた切り、羽沼は黙りこくってしまった。
─どうするかなぁ…
リストを増やすということは、クローズドメディア、具体的にはあかつきのビジネス用ラインへの登録者数を増やす、ということである。あかつきの潜在顧客が喜びそうなプレゼントをつけたり、割引を適用したりすると、登録者数が増えやすい。
杏奈は熟考している羽沼を横目で見ながら、つい、他事を考えてしまった。
─男性の不妊…
羽沼は、造精機能障害が原因で、なかなか子供ができず、自責の念を感じ、前妻と離婚を進めたという…
羽沼は、離婚の原因を杏奈に話そうとはしなかった。
─かっこ悪くて言えない。
そんな風に言っていた。
確かに、生殖能力に欠ける自分を恥じるあまり、前妻に離婚を迫ったのは、自暴自棄で浅はかな行動だったといえる。けれど、過去に間違った行動をしたからといって、一生それを許せずに、自己評価が低くなるのはつらい。
─かっこ悪くはない。
杏奈は、目の前で真剣な表情をしている羽沼が、やっぱり、尾形と重なって見えてしまう。
年齢を重ねた男の人から感じる、受容力や温厚さ、賢さ。羽沼もまた、それを持っている人なのだ。
─羽沼さんのアドバイスに従い、結果を出すことができれば…
羽沼がもう一度自信を取り戻すことに、つながるのだろうか。最近、羽沼は足込町の中で営業周りを始めたと聞いていた。それは、すでに羽沼が新しい人生の一歩を踏み出す、決意ができたということなのか。
「…そもそも、短期滞在じゃなくて、長期滞在にする、お客さまのメリットは?」
ふいに尋ねられて、杏奈はハッと我に返った。
あかつきのスタッフの力量を図るとか、売上を増やすというのは、あかつきの都合である。お客さまにメリットがあると思ってもらえなければ、当然予約は取れない。
「古谷さんは、オンライン料理教室とか、コンサルをやり始めたって言ってたよね」
「は、はい」
「そこでお客さまが悩んでいたようなことで、あかつきに長期滞在すればクリアできたようなことって、なかった?」
「…」
杏奈は考え出した。すると、ごく最近、美津子に相談したことが思い浮かんだ。
─推奨事項を、実践していませんでした。
クライアントの立場で言い換えると、どういう表現になるのだろう…
「そこをしっかり掘り出してね。その上で、その潜在顧客に刺さるようなフロントを作る」
そのフロント商品は、本命商品の価格帯によっては無料でもいいくらいなのだが、あかつきに滞在するとなると本気度の高い人が来た方が良いので、有料にした方が良いだろう。
リストを集め、集めたリストに対し、キャンペーンの告知をする。
「フロントは、価値あるものにしなくちゃいけない」
フロントのこの値段で、こんなに良いものが…だったら、あかつきに滞在したら、もっとすごいサービスが受けられるに違いない!そう思ってもらわないといけない。
「あかつきに滞在したら、どんな変化が得られるか、どんな自分になれるか…それをお客さんに想像させるんだ」
今度は杏奈が口元を手で覆った。
キャンペーンの内容の前に、フロントを熟考しなければならないとは…
「フロントの企画とローンチが、七、八月。それだけで満席になれば、九月には事前コンサル、十月に滞在ができる」
となれば、キャンペーンを打つのは十月。
「十月だと、足込町としての魅力は、何になるかな。紅葉は、まだ早いかもしれないね」
「…」
「それから、もし満席にならなかったら、別の手でリストにプッシュをかけないといけない。予約はすぐには埋まらないだろうけど、しばらく待っても埋まらなかったら、やる必要があると思う」
九月にプッシュをかけ、うまく予約が入ったとしても、事前コンサルはそれから…
「余裕をもってひと月遅らせると、十一月」
「十一月…」
キャンペーン中のアクティヴィティの一つに、「登山」や「自然体験」がある。紅葉の進み具合からすると、十月よりは、十一月のほうが見頃かもしれなかった。
「十二月になると、寒くなって、登山や自然体験が厳しくなってくるかもね」
─やるとしたら、十一月か…
杏奈は卓上カレンダーを眺めた。
「いったん十一月をキャンペーン期間として仮置きして、逆算して何をするべきか、洗い出してみようか」
「はい…」
杏奈はノートに横線を引っ張った。これを時間軸として、やることを下に書いていく。やることを洗い出すのは簡単だった。問題は、フロントとして、どんな魅力的な商品を作り、その人たちに長期滞在のメリットをどう伝えられるかである。
「あかつきのコンセプトや、クライアントの悩み、滞在するメリット、競合にはないあかつきの強み…こういうのを全部、書き出していくといいよ」
「ええ…?そこからやるんですか?」
インスタの発信内容を練る時に、考えたような内容だ。
羽沼はあっさりと頷いた。
「これをやっておいた方が、絶対に後々楽だって」
「分かってますけど…大変なんですよね」
「いっそ、みんなにも考えてもらったらいい」
羽沼はそう言うと、派生的に何か思いついたらしい。
「フロントも、みんなを巻き込んでやったほうがいいな」
「みんな…あかつきのスタッフを?」
「うん。キャンペーンの内容がある程度固まったら、みんなに意見を聞かなきゃね」
杏奈はチームで動くことが、もともと苦手な性質である。しかし、キャンペーンを実行するには、確実にみんなの力が必要だ。企画者である自分は、みんなを動かしていかなければならない。
─そんなこと、できるのか。
透明人間だった自分が。
「ちょうどいいじゃん」
杏奈の心配をよそに、羽沼は明るい表情で言った。
「この際、親睦会を開いたら?」
「親睦会ですか?」
羽沼は頷いた。杏奈がこれまであまり見たことのなかった、羽沼がもともと持っている明るさが、そこにはあった。
「あかつきのスタッフが一度に集まることなんて、今までなかったんじゃない?」
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