第101話「シロダーラ」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 咲子の夫・大樹があかつきを訪れたのは、午前九時頃。二人は今日、二人だけで明神山に登る。昨日の料理教室で作った、オージャスアップクッキーを携行してもらう。
 彼らの送り出しは美津子に任せ、杏奈は二階の施術室で、琴音に最後の施術を行う。
 シロダーラ。
 シロダーラの語源は、シラ(頭)とダラ(安定した流れ)。ゆっくりと、着実に、額に薬用オイルを垂らす伝統的なアーユルヴェーダの施術だ。
 琴音の準備が整うのを待っている間、杏奈は真鍮のシロダーラポットに指でそっと触れ、ポットに描かれている美しい模様を眺めていた。
 杏奈がシロダーラをクライアントに施すのは、これが二回目である。初めてのシロダーラは、亜里沙に対してだった。もう遠い昔のことのように感じる。
「あ、お願いします」
 琴音の「あ」は、沈黙を破るためのワンクッション。
 杏奈は昔の自分によく似たこのクライアントに微笑みながら、ベッドに案内した。
 初めは、通常のアビヤンガと同じように、全身へオイル塗布をする。シロダーラだけを単体で行うサロンや美容院もあるようだが、あかつきでは、必ずアビヤンガを行って、ある程度ヴァータを鎮静した後でのみ、この施術を行う。
 アビヤンガ後、クライアントがすっかりリラックスし、意識が朦朧としている頃に、シロダーラオイルの準備を行う。シロダーラスタンドを動かし、真鍮のポットをセットし、オイルを温める。繰り返し練習をしていたものの、杏奈はまだシロダーラに慣れていない。内心あたふたしながら、極力音を立てないように配慮しつつ、セッティングを進める。
「シロダーラ始めます」
 静かに、短く告げる。クライアントの多くは、アビヤンガの後半には寝落ちするか、睡眠と覚醒の間を彷徨っている者が多い。琴音は「はい」と返事をしたが、その声は今にも眠りにつく人のものだった(ただし施術中は、静かにしているけれど眠っていない、という状態が推奨される。眠るとスロータムシが閉じてしまうからである)。
 オイルの滴下を開始する。時々左右にゆっくりと動かす。これらを三十分から四十分維持する。滴下速度を一定に保ち、温度を四十度前後に保つ。
 滴下場所は、額の中心。この場所は、第三の目があった場所とされ、現代科学でいう松果体とつながっている。ヨガでは伝統的に、アジュナチャクラがある点として知られているスポットだ。アジュナチャクラは、光、予知能力、はっきりと見通すこと、透視力と洞察力に関連している。個々の魂、直観、知恵、目に見えないものを見る能力とも関連する。
 琴音の目は、柔らかいガーゼで覆われていた。
─眠ってもいいですよ。
 事前にそう伝えておいた。琴音は施術中も、少し気を張っているようであったから、そのように伝えることにしたのだ。
 昨日、沙羅から聞いた話では、琴音はシロダーラ中も意識がある状態を維持していたらしい。それでも、リラックスはしていたようで、施術後、
─眠気を感じてました。
 と報告したらしい。
 杏奈はゆっくりとシロダーラポットを左右に動かすが、微細な振動を抑制しきれない。
─立ち方が悪い。
 両足の位置をベストなところに置く前にポットを触ってしまい、そのまま動かし始めてしまったからだ。まず、立ち位置をしっかり確認してから触れるようにしなければ。
─腰をそらさず、お腹に力を入れて、背骨をまっすぐに…
 ヨガの時の立ち方を意識する。こんなところで、ヨガが役立つのだ。
 オイルが落ちた場所から、波状を描いて、オイルが滴り落ちていく。
 オイルがアジュナチャクラに落ちることによって、瞑想のような効果─心の静けさ─が得られ、ストレスを軽減すると考えられている。
 シロダーラは、リラックスした意識状態を誘発し、心身のバランスをもたらす。リラックス状態を示す「α波」や、深い瞑想時に現れる「θ波」が増加するため、深いリラクゼーションが得られ、記憶の統合や情報の整理が促される。心拍数や呼吸数、血圧が有意に低下し、副交感神経が優位になり、自律神経が安定する。ストレスホルモン(コルチゾール等)の分泌を抑え、ストレス耐性を高める。シロダーラはオイルの種類や温度、流す速度によって影響が異なるため、一律の効果を保証するものではないが、多くの場合、副作用なしに、こういった様々な効果が期待できる、驚くべき伝統技術なのだ。
─容姿に自信がなくて。
 琴音は今日までの滞在中に、自己肯定感の欠如の背景にある要因について、自己分析したことを語ってくれた。
─前の会社にいた頃も、容姿のことでからかわれることもあって。
 後輩の歓迎会の時に、可愛い新入社員を見た同期から「スタートラインからして遅れている」と言われた。
─人見知りな性格を、ダメだと言われるようなことも多くて…
 感染症が世界的に流行する前のこと。会社では飲み会が多く、乗り切れない琴音は、飲み会がある度に憂鬱な気分になることが多かった。
 ある日、飲みの席で、琴音が苦手意識を抱いている上司と再開した。
─この子苦手…と、みんなの前で言われたんです。
 その上司もまた、琴音と相性が悪いと感じていたのだろう。
 他にも。会議の時、眠そうになんかしてないのに、「眠いのか、顔洗って来い」と先輩に言われたことがある。自分が辞めると分かると、今まで琴音が抱えている案件にアドバイスくれていた上司が、「こんなことも終わらせられないのか」と言うようになった。
─私たちは、陰と陽の部分を持っているのですが…
 掘れば掘るほど、過去の暗い経験を明かす琴音に、杏奈は言った。
─社会生活をしていると、陽の要素ばかり求められますよね。
 明るく人と話せる、とか、社交的である、とか。
─でも、それもおかしな話です。
 別の世界に身を置いたら、自分の短所だと思っていたことは、そんなに問題ではないと気づくこともある。
 アーユルヴェーダでは、人は生まれながらにユニークな性質をもつ存在である。
 大切なことは、自分の個性を理解し尊重し、その特徴を活かして、いかに周りに良い影響を与え得るか探り、実践することである。
 誰にでも得手不得手があり、良い所も悪い所も持っているものだ。
 不得手や悪い所に対し「これは私の個性だから仕方ない」と片付けてしまいすぎる場合は、もっと内省すべきだが、琴音の場合は内省しすぎる。それに、不得手や悪い所があるからこそ、それを乗り越える過程で「人間として成長する機会」を得られる。
─一見ネガティヴに思える特徴こそ、自分を最も輝かせる要素になりうると、私は思います。
 杏奈は、自分にもそう言い聞かせるように、琴音に話した。自分のこととなると、さっぱり、それができないと感じることもあるのだが。
─自分の中の陰の部分に注目して、それを認めてあげましょう。
 注意深くシロダーラポットを操りながら、琴音の不安が取り除かれるよう、杏奈は念を込めた。途中から、琴音の呼吸が、睡眠時のそれに変わるのが分かった。
「寝ましたか?」
「寝ました」
 アフターカウンセリングにて、琴音はそう言って笑った。杏奈も満足げに微笑み返した。
 計測器の結果を伝えても、琴音の反応は薄かった。琴音としては、数値上どうだったかはあまり重要ではなく、体感として、元気になれたかどうかの方が重要なのだろう。
 担当者である自分との距離は、少し縮まって、自分のことを話してくれるようになった琴音だけれど…
─まだまだ、元気そうじゃない…
 杏奈はカウンセリングの場で、そんな印象を受けた。

 昼食は、サフランアーモンドライス、さつまいもとひよこ豆のカレー。その他、足込温泉へ納品したお弁当のおかずを転用した。
 この昼食の後、琴音は帰った。
「何か変化がありましたら、いつでもメールかラインを入れてくださいね」
 そう言って、何も用もないのに相談してくるクライアントはいないのだが、杏奈は別れ際、琴音にそう言った。昨日作ったオージャスアップクッキーは、おみやげに持って帰ってもらう。
 琴音は丁重に頭を下げ、あかつきを後にした。
 琴音と入れ違いで、あかつきを訪れた者がある。
「近藤さん、来てる?」
 羽沼だった。野球部の練習の後なのか、ユニフォームを着たままだった。
「旦那さんのほう、借りれないかな」
 ホールにて、杏奈が二人はもう客間に上がってしまったと告げると、羽沼はこっそりそう耳打ちした。
─羽沼さん…
 近藤夫妻が前回来訪した際、羽沼は大樹と一緒に山に登っている。不妊という、羽沼と同じ経験をしている二人に対し、何かしらの関わりを持ちたいのだろう。杏奈はそう察して、
「もうすぐ、奥さんのほうが午後の施術に入ります。そうしたら、下にお呼びしますね」
 そう言ってから、杏奈は羽沼のユニフォームを眺め、
「お昼、食べましたか?キッチンに行けば、まだ何か残ってると思いますよ」
「ほんと?助かる」
 羽沼はそれを聞くと、嬉しそうにキッチンに入った。中では、空楽と大鐘と小須賀が騒々しく片付けをしていた。
「あら、野球の練習してたの?おにいさん」
 大鐘が羽沼を上から下まで観察して、声をかけた。
「ええ」
「ちょっとちょっと、そんな泥まみれで入ってこないで」
 小須賀は悪態を吐いた。
「しょうがないじゃん。終わってすぐ来たんだから」
「あ?なんで」
「近藤さん…旦那さんのほうと、ちょっと話がしたくてね」
 羽沼はそう言いながら、ブルゾンを脱いだ。小須賀の片付けを進める手が、一瞬緩む。
「何か食べさせてくれない?」
「今日はベジタリアンカレーですけど、いいですかぁ?」
 羽沼のお願いに答えたのは空楽だった。
「旦那さんと、ここで話すの?」
 小須賀は空楽と羽沼のやり取りに割り込む。
「どうかな。流れ次第だけど…足込温泉にでも行ってこようかな」
 大樹は下山後だし、自分も野球の練習の後だし、汗を流してくるのも悪くない。
「なに、もう裸の中なの」
「いやあね、小須賀さん」
 大鐘はいやあねとかいいながら盛大に笑っていた。
「どんくらい食べます?」と、空楽。
「普通で」と、羽沼。
「え~!くっそー、今日がチャンスだったかー」と、小須賀。
「なになに、何の話?」と、大鐘。
 縦横無尽に会話が飛ぶ。
「分かった」
 いきなり、小須賀が手を打った。
「羽沼、明日おまえんち貸せ」
「え?」
 折り畳み椅子に座りながら、羽沼は目を見開いた。
「なんで?」
「蜜談するんだよ」
「密談?」
 空楽は、羽沼の前に料理を盛った皿を置きつつ、目を細めて小須賀を見た。
「なんか、下世話な響きがありましたけど」
「なになに?」
 大鐘はにこにこ顔で頭を左右に振る。
「今の、ミツ談のミツは漢字がちがう気がしました」
 空楽の発言を聞いて、羽沼は最初の一口からむせ込んだ。
「どういうこと?」

 いつものシャツとズボン姿に着替えると、杏奈は厚手のパーカーを着こんで、栗原神社へと向かった。歩き慣れた道だが、今日はまだ明るいうちに、この道を行く。その手には小さな容器を持っていた。花神様に供えるためのものだ。
─琴音さんも、十のうち九にしてしまった…
 以前美津子は、「十人クライアントがいたとしたら、何らかの結果を得られるのは、一人くらいかもしれない」と言っていた。今、あかつきで施術を受けているクライアントには、十に一つという癒しをもたらしたい。
 栗原神社の神門をくぐり、花神殿にまっすぐ向かう。建物の中は薄暗く、誰もいない。祭壇の前に小さなガラスの密閉容器を置いた。中には、デーツのナッツ詰めが入っている。裏の名を、「オージャスアップデーツ」と名付けた。
 デーツの別名なつめやしは、紀元前数千年も前から灼熱の地域で暮らす人々の健康を支えてきた果実。砂漠の過酷な条件で育つ生命力の強さから「生命の木」と呼ばれる。滋養に富み、生命力の源である「オージャス」を作る果実として崇められている。そんなデーツに、これまたオージャスを上げる物質であるナッツとはちみつを詰めたこの食べ物は、さしづめオージャスの塊だ。後で同じものを、咲子に食べてもらう。
 杏奈はお供え物をすると、両手を合わせた。
 咲子の妊娠を妨げているものは何なのか。
 彼女は赤ちゃんを迎えるために、生活の中にも彼女自身の心の中にも、「スペース」を設けている。しかし、もしかしたら、長年赤ちゃんを授からなかったので「自分が妊娠できる」ということに疑いを持っているかもしれない。だとしたら、どのくらいその疑いを払拭し、無意識な状態を作れるか。
 一つの有効な実践としては、瞑想がある。瞑想は朝のヨガの時間、および夜に、毎日のように実践してもらった。古い思考や感情を整理し、精神的なデトックスをするのにも役立つ。瞑想をして、自分との結びつきを深めれば、ネガティヴな感情から自分自身を守ることができる。そうすれば「自分は妊娠できる」ことに絶大な信頼を持ち、意識をそこに持っていけるかもしれなかった。
 自分が意識した身体の箇所へ、プラーナが流れていくように、人生もまた、自分が意識を向けた方向に流れていくものだ。
─あとは…
 シロダーラ。
 深いまどろみの中で、意識に揺らぎを与え、凝り固まった思考回路や固定観念を変える。深いリラクゼーションを与えられる残りの機会は、明日の午前中、一回だけ。
─力をください。
 結果はどうなるか分からないが、ベストを尽くさなければならない。
 シロダーラを施す側もまた、精神を安定させなければならない。杏奈の両腕は今、少し重たかった。シロダーラにはまだ慣れていない。シロダーラのために重い物を運ぶのも、施術後に多くの洗い物をこなし、次のために新しい備品をセッティングするのにも、体力を要した。明日の朝には、もっと腕の重さを覚えていることだろう。
「お、杏奈」
 花神殿から出て来たところで、ぐう爺と、その孫である巫女の小夜とばったり出くわした。二人とも寒いのに白衣に袴姿だった。
「なんだ、今度は何持ってきたんだ」
「今日は、オージャスアップデーツです」
「?」
 二人が沈黙したので、杏奈はナッツの詰め物をしたデーツだと説明した。
「栄養価が高いですが、やや消化がしにくいので、一日一個くらいを召し上がってください」
 花神さまにお供えしたものは、そのままお下がりとして、神社の者の口に入る。
「わー、おいしそー。食べたーい」
 小夜は無邪気にそう言った。杏奈は苦笑いした。願をかけたばかりなので、お供え物は、もうしばらくそのままにしてほしいものだが。
「このところよーくお供え物があるもんで、うちに空になった容器がたまっとるぞ」
「本当ですか…今から引き取りに伺ってもよろしいでしょうか」
 杏奈はぐう爺と一緒に、神社の裏手にある栗原家まで歩いた。ぐう爺や神職たちの家の前まで足を運ぶのは初めてだった。
「ほいよ」
 タッパーやら瓶やらが入った紙袋を、ぐう爺は玄関の前で渡す。
「そういえば、大広間を貸してくださってありがとうございました」
 二人は並んで来た道を戻る。ぐう爺は鞍馬と同じくらいか、それよりも低いくらいの背丈だった。
「これからしばらくは、借りずに済みそうです」
「ほお、そうか」
 境内に戻ると、小夜が掃き掃除をしていた。まだ七五三の撮影に来る人も多いらしく、いつも以上にきっちり清掃しているらしい。
「そういえば、またしばらく見かけんくなったな~」
「柴崎先生ですか?」
「おお。例の大広間のことで、ここで話したのが最後だった…」
 と言うと、ぐう爺はいきなり切ない表情になった。
「あん時も先生マジでborn to be historyだったわ」
「?」
「思慮深そ~に見えて、たまーに短気というか、強引なところがあるじゃん?そこがたまらん」
「はぁ…」
「最近は目の保養の機会が少なくていかん。たまに会うともう涙腺デストロイ…」
 ぐう爺が妄想なのだか、回想なのだか、順正のことを想いながら力説する姿を見守りながら、杏奈は彼から少し遠のいた。すぐ後ろに小夜が立っているのに気付いて、
「ぐう爺さま、語彙が崩壊してませんか…?」
「あー、私が押し活してる時に使ってる言葉を真似してるんですよ。たぶん、よく分かってないまま…」
 杏奈は項垂れながら、神社を後にした。
─お祈り先、本当にこの神社で大丈夫なんだろうか…
 一抹の不安が残る。

 足込町といえば、花祭という神楽(民俗文化財)で有名。
 足込温泉の湯舟には、その花祭で登場する鬼の形をしたモニュメントから、湯が注がれている。
 連れ立って温泉まで来たものの、羽沼と大樹は浴場では、好き勝手に過ごしていた。
 大樹は内湯に入って、ふくらはぎを揉む。登山用のタイツは着圧がきつく、縫い目の痕がくっきりついている。湯量が豊富で、浴槽の床に座ると、首の半分くらいのところまでお湯がくる。ちょっとだけ身体全体を湯に沈めてから、踏み石に座って、お腹より下までを湯につけるにとどめる。
─子供の頃、何になりたかった?
 明神山に登っている途中、咲子はそんなことを尋ねてきた。
─私、高校生の時には、英語の先生になりたいってなんとなく考えてたんだよね。
 そして、その夢を叶えた。だが、もう一つの夢のために、その仕事を辞めた。
─でも、またやってみようかなぁ…
 妊活を終えた後のことを考えている。
 一度はこの忙しい仕事のせいで、若かった頃に妊娠できなかったのではないかと、悔やんだこともある。しかし、また戻る場所として、その仕事が視野に入ってきたということは、
─終わりにしようとしている。
 大樹には、そう感じられた。
 大樹は、妊活はもう十分頑張ったと思っている。今後は自分たちが幸せになることに専念すれば良い。そう思うと、どこか気楽だった。
 けれど…
─咲子。
 これだけ大変な思いをしてきたのだから、咲子の方に、先に気楽な思いをさせてやりたかった。それで大樹は、咲子とある約束をした。
 大樹は、再び湯に身を沈め、今度は鼻の下まで湯の中に入った。約束をしたものの、大樹は、自信がなかった。
 その頃、羽沼は露天風呂にいた。たくさんの種類の風呂がある。寝湯のところで仰向けになり、しばしうとうとした。タオル一枚を身体に雑に被せただけの無防備な状態だが、ここでは誰の目を気にするでもない。みんなそうやって、楽しんでいる。
 時間があるクライアントは、ここに連れて来るのがいいだろうと、羽沼は思う。売店でお土産を買うこともできる。足込町にお金を落としてもらえるのはありがたいことだ。
 寝湯から出ると、打たせ湯で肩と背中を打たれた。その後陶器風呂を堪能する。土曜日なので、温泉客は多かったが、幸運なことに二つしかない陶器風呂は空いていた。
「あ、待ちました?」
 休憩処でくつろいでいる大樹を見つけると、羽沼は気づかわしげに声をかけた。
 大樹と話をしてくると言って、美津子のエヌボックスを借りてここまで連れて来たのに、完全に一人で楽しんでしまった。
 大樹は、咲子より一つ年上の三十九歳。しっかりした骨格で、春頃と比べて体系はほぼ変わらない。
 一回きりしか会っていなかった羽沼のことを、大樹はちゃんと覚えていた。明神山に一緒に登ったのと、羽沼が自分の事情を明かしているので、印象に残っていたのかもしれない。
「咲子がお世話になってます」
 大樹は隣の座椅子に座る羽沼に、ぺこりと会釈した。
 羽沼は、自分は特に何もしてないので、恐縮しながらも会釈を返した。あかつきのスタッフたちは、羽沼の目からしても確かに咲子に対して一生懸命になっていた。それはおそらく、クライアントの方が本気で取り組んでいたからだろう。
「咲子、変わりましたね」
「本当ですか」
 そう言ってもらえたら、あかつきのスタッフたちも本望だろう。
「どういうところが…?」
「心が、強くなりましたよ」
 しかし、それは今回の滞在の前後の変化ではなく、あの二月の滞在以降の変化だった。
「たぶん、自分がここまでやったら納得がいくっていうゴールが、明確になったんじゃないですかね」
「ゴールが…」
「はい。妊活って、やめ時がホント難しいんですよ」
 今までは、人のブログやインスタ、セミナーでの経験者の語りを聞いて、人がどうしたかを軸に、自分たちはどうするかを決めようとしていた。
「でも、あの頃から自分たちの軸で考えるようになったというか」
 心と体に対して、精一杯のことをして、それでもだめなら仕方がないと思えるようになったようだ。
「精一杯、何ができるのかって、それが分からなかったのが、二月の滞在を終えた時から急に明確になったみたいで」
「そうなんですか」
「はい。といっても、その後チャレンジして、ダメだった時は、やっぱり落ち込んでました。咲子ほどじゃないですけど、僕も…」
「そうですよね…」
 大樹はパーカーの裾を手のひらの方まで引っ張って、手を揉みつつ、座椅子の背もたれから身体を起こす。
「羽沼さん、僕ね」
 大樹はペットボトルとタオルの置かれた座卓の上を見つめながら、
「咲子に対して、どういう態度で臨むか、考えてみたんです」
 二月の滞在を終え、意志を固めたような咲子を見た後のことだ。
「男って実際に妊娠しないし、妊活…適当になりがちじゃないですか」
 なりがち、という曖昧な表現を使ったのは、全員がそうじゃないということを強調するためだろう。羽沼の過去を知っているので、そこを慮っているのかもしれなかった。
「…適当にできるけど、適当にやらない」
 大樹は、真面目な面持ちになって言った。
「僕も、そこで覚悟を固めました」
 大樹は羽沼の方を向いて、
「咲子に気づかれないようにね」
 と言って、小さく笑った。
「気づかれないように?」
 羽沼は首を傾げた。大樹は頷いて、
「男の思いの強さは、女性にはプレッシャーかなと…」
 プレッシャーは、妊娠の確立を下げる。
「だから、ひっそりと覚悟をしたんです…」
 妊活の勉強をする、妊活に参加する、節制する、運動する、仕事を続ける、稼ぐ…
「妊活が成功したら、仕事を休み、子育てをする…どんな子供でも受け入れる…そういう覚悟もしました」
「近藤さん…」
「もちろん、子供がいない人生を許容する覚悟もね」
 大樹は、きりっと締まった表情をしていた。一生懸命考えて、悩んで、考え抜いた者がする表情だと、羽沼は思った。
「覚悟を決めて、妊活とその先の人生に、全力で挑戦する」
 そう言った大樹を、
─男らしい。
 と、羽沼は感じた。
 羽沼が神妙な面持ちで自分を見ていることに気付いたのか、大樹は羽沼に顔を向けると、ふっと相好を崩して、
「真面目に取り組んで分かりましたけど、妊活、妊活って言うけど、八割方は健康管理なんですよね」
 咲子がなぜ、生活の知恵と言われるアーユルヴェーダに興味を持ったのか理解できるようになり、その健康法を一緒にするようになった。
 咲子の信じることに自分が参加したことで、咲子が以前よりも、自分に心を開くようになったと感じた。なかなか妊娠できない年月の中で、徐々に開いていった二人の距離が、縮まった。
「こういうことなんだって、分かりました」
 大樹は達観したような笑みを浮かべる。
「こうやって相手に歩み寄る努力ができれば…子供を諦めたとしても、二人で健康的に、楽しく暮らしていける」
 大樹の言葉は、さっきからいちいち羽沼の胸に突き刺さってくる。自分が妊活の当事者だった頃、こういう考え方ができなかった自分が、とても狭量に思えた。
「妊活って、パートナーと一生暮らしていく覚悟を決めることだったんですね」
 妊活を終えても、人生はまだまだ続いていく。喧嘩は絶えなかったとしても、一緒にいた方が楽しいと思える関係性でいたい。大樹は、自分がそう望んでいることに、気が付いた。
「羽沼さん」
 大樹は胡坐をかいて、体ごと羽沼のほうに向けた。
「お願いがあります」

「タイミングを取る手伝いをしてほしい?」
 その日の夕食前、羽沼、杏奈、美津子はキッチンに集合した。キッチンには、まだ小須賀と空楽が残って、まこもオイルを仕込んでいた。
 羽沼は足込温泉で大樹からお願いされたことを話した。
─僕がした覚悟の中で、一番重要視していることがあって。
 それは…
「妊活の責任を、自分が取りたいのだそうです」
 キッチンにいた者は、全員、無言で羽沼を見た。
 近藤夫婦は、最後は自然妊娠を試みたいと思っている。
「男性がタイミングを取る係になる、と…?」
 美津子は羽沼に問い正すように訊いた。
「これが最も男性が妊活に参加できる、当事者意識になれる、妊活の役割だからと…」
「ちょっと待て」
 まこもの葉っぱを選別する手を止めて、小須賀が口を出した。
「自己満足じゃね?それ」
 目的を果たすためには、より精度の高い予想ができるほうが、タイミングを取るべきだ。
「咲子さんは、納得してる」
「え?マジ…?」
 このことを話したのは、今日、明神山の山頂で…らしい。
─こっちがタイミング取ります。
 咲子の反応は、嬉しそうだったと。役割分担することで、咲子の心に余裕ができる。
「…確かに、今日がその日だからと頼んであれするより、ふいに襲われたほうが、ムードは高まるかもしんないけど」
 という小須賀の言葉には誰も反応せず、
「月経周期については、もちろん咲子さんから教えてもらうそうですが、その後の予測については…正直、旦那さんはあまり自信がないそうです」
 美津子と杏奈は、がくっとよろけて、それぞれ手近なものに体重を預けた。
「なにそれ…」
 だから手伝ってほしいと言っている。
「いや、まずいっしょ」
 小須賀はとんでもないと言わんばかりに首を振った。
「それ、全然旦那さんが責任取ってないじゃん」
 あかつきに責任がなすりつけられてしまいかねない。小須賀はそれを心配している。
「でも最終的に決めるのは近藤さんだから」
 羽沼は冷静に言った。大樹は何があっても、誰かに責任をなすりつけるようには、見えなかった。
 大樹はこうも言っていた。
─どんな子供が生まれても、その子を精一杯育てる。子供が生まれなくても、咲子と楽しく過ごしていく。もうセックスはしたくないと言われたら、それを受け入れる。
 それを聞いて、杏奈はふいに目頭が熱くなった。
─そんなことまで…
 考えているのか。
「その言葉…いつか、咲子さんに伝えてあげたい」
 羽沼は頭を垂れながら、そう呟いた。大樹がそんな覚悟で臨んでいたということを…。
 キッチンには、重々しい沈黙が流れた。
「月経周期が安定していれば、比較的予想は立てやすいはずですけれど」
 沈黙を破ったのは、杏奈だった。そのような知識は、今やネットにも本にも溢れかえっている。
「予想が立てやすかったにも関わらず、今まで自然妊娠できなかったとすれば、タイミング以外のことを考慮に入れる必要もあるでしょうね」
 美津子が話を前に進めた。と言っても、具体的なこととしては、精子の質を鑑みて、月何回タイミングを取るか…そういったことしか頭に浮かばなかった。
「いやいや、おれらが今思いつくようなことはもうやってますって、彼ら」
 小須賀は首を振りつつ、意義を唱えるように言った。素人どころか、専門家の指示も仰いだ上で、何度もトライしているだろう。
「でも今度は、奥さんはアーユルヴェーダの若返りを終えてるんですよ」
 空楽が飄々と言った。
「ばーか。そんなんで妊娠してりゃ、アーユルヴェーダはとっくに世界中に広まってるよ」
「ばーか?」
「それに、そういう意識は持たないほうがいいよ…」
 自分たちの仕事が功を奏したと認識することも、自分たちの仕事が功を奏しなかったと認識することも、どちらも危険だと、小須賀は思う。前者は自分たちを高慢にさせ、後者は自信喪失に至らしめるだろう。
「妊娠するかしないかは、その人が何したかとか、誰に何してもらったとかでコントロール可能じゃない。神のみぞ知る領域にしといたほうがいいんだよ」
 小須賀はそう言ってから、
─予防線張っとけよ。
 という念を込めて、ちらっと杏奈を見た。杏奈は特に、咲子には特別の注意を払って、あかつきでの食事や生活法の方針を考えてきた。あまり思い入れがあると良くない。しかし、杏奈はまったく小須賀の視線に気づかず、
「柴崎先生なら私たちよりも深い知見がありそうですね」
 と美津子に言った。
「そうね…」
 相談しにくいことではあるけれど、順正なら相談すれば何かしらの見解をハッキリ述べてくれそうである。
「え~、本当に関与する気ですか?」
 小須賀はやめといたほうがいいぞと言わんばかりに、目を細めた。せめて、免責事項を文章化して事前に伝え、承諾の印をもらうなど、やっておくべき事務処理はやっておいたほうが良いように思う。
─それでもやる価値がある…
 杏奈にはそう思える。
 大樹の申し出は、咲子にとって、きっとプラスに働く。夫の協力的な姿勢と思いやりは、愛情として咲子に伝わり、咲子もまた彼に対する愛情を一層育める。
 そんな気がするのだ。

 翌日、午前十時。羽沼宅の庭には二台の車が停まっている。最初にやって来たのは小須賀、そのあとほどなくして、大樹がやって来た。
─何をするんだ?
 ただ家を貸せと言われていた羽沼は、これから何が始まるのか分からず、ただポットに湯を沸かして待っていた。
「へえ~、本当に丸太小屋じゃん」
 羽沼の家を初めて見る小須賀は、数奇な目で小屋を眺めた。
「すみません。うち中が狭くて…屋外でお話でもいいですか?」
 体が冷えないように、ストーブ台で焚火をする準備をしている。
「はい、大丈夫ですよ」
 大樹はそう言ったが、その隣で小須賀が表情を曇らせた。
 羽沼が焚火の用意をしている間、小須賀と大樹は雑談を始める。
「奥さん、綺麗な方っすよね~」
「あ、そうですか?ありがとうございます」
 大樹はまんざらでもなさそうな顔で笑った。
「仕事は何されてるんですか?」
「僕ですか?僕は自動車部品メーカー勤務です」
「うお、羽沼の前職と同じ系統じゃない?」
「僕が関わってたのは飛行機部品だよ」
 羽沼は答えながら、テーブルの真ん中に設けたストーブ台に薪を重ね、その下に敷き詰めている針葉樹と広葉樹の落ち葉に着火する。
「当たらずしも遠からずじゃん」
 小須賀はふんと鼻を鳴らした。
「全然ちがうと思うけど」
「うお、なにこのハイテクな暖炉」
「いいでしょ、これ。自分で作ったんだよ」
「へー、すごいですね」
 大樹もストーブ台を覗き込みながら賞賛した。
 羽沼がお茶を淹れるために席を立つと、小須賀も連れ立って小屋の中へ入った。
「羽沼、これ」
 小屋の中で、小須賀はさりげなく羽沼に小瓶を渡した。
「何これ?」
「杏奈が使ってほしいんだとよ」
 中にはティーバッグが三つ入っている。
「中身、なに?」
 怪しげな包みをまじまじと見ながら、羽沼は訊いた。
「知らない」
 知らないはないだろう。羽沼は苦笑いを浮かべた。
 中身は、アシュワガンダ、フェヌグリーク、グッグル、シラジット、生姜、甘草などといったハーブだが、二人は知る由もない。
「よく分かんないけど、男の生殖力をアップする強壮剤がブレンドしてあるんじゃない」
 そう言いながら、小須賀はぶるっと身震いした。
「杏奈の旦那になるやつは、知らない間に、こういうの盛られるのかな…」
「ああ…杏奈さん、おっとりして見えて、狙いをつけたことには結構ぐいぐい行くもんね」
 あかつきで仕事をしているところを見る限り、そういう印象を受ける。
「コワ…」
 陰鬱な表情で、小須賀はティーパックを見つめた。一人だけ違うものを飲んでもらうのも、いかにもという感じがして気まずい。二人は一緒のものを飲む決意をした。
「あったかいっすね」
 アウトドアスペースでは、大樹が焚火で暖まっていた。
「っかっ」
 小須賀はお茶を一口飲むなりむせた。飲みやすくするためのハーブも入っているのか、そこまでひどい味ではないが、さりとて何杯も飲みたくなるお茶ではない。
「…僕はイタリアンレストランで仕事してるんすよ」
 隣でコップを片手に顔をしかめている大樹に、小須賀はめげずに話しかけた。
「へえ、コックさんなんですか」
「そうです。あかつきの料理も主に僕が…」
 小須賀は、ほとんど初対面の相手にでもよく喋る。この点はさすがであった。ぺらぺらとレストランでの出来事を聞かせた後で、小須賀は「さも今思いつきました」というような顔で、
「あ、そうだ。これ近藤さんにあげますよ」
 さりげなくリュックからあるものを取り出した。
 それを見た瞬間、羽沼は凍りついた。

「杏奈さん」
 アビヤンガ中、咲子が口を開いた。
「昨日気が付いたんですけど、アンナって、インドの神様と同じ名前ですね」
 杏奈は咲子の腕に手を滑らせながら、
「…ええ。発音は」
 その神様とは、アンナプルナ(Annapurna)。台所と料理の女神。破壊の神シヴァの配偶者である女神パールヴァティの別の姿でもある。ヒマラヤの高山「アンナプルナ」は、彼女にちなんで命名されたといわれている。
「偶然ですか?」
「偶然です」
 杏奈の両親はアーユルヴェーダのことを知らないし、ヒンドゥー教徒でもないのだから。
「偶然にしてはすごいですね。ぴったりじゃないですか」
「そうですか?」
 杏奈は相好を崩した。
 サンスクリット語で、アンナ(Anna)は「食べ物」または「穀物」、プーラ(purna)は「完全、完全、完璧」を意味する。アンナプルナは、食品と栄養の提供者を意味するのだ。
 食べ物は、豊かさであり、愛であり、命。
 アーユルヴェーダでは、心、身体、魂の調和を得るために、愛する人のために調理をする。
─もし、神と同じ名をもつ私が、その神の力にあやかれるのなら…
 願わくば、このクライアントに、新しい命を生み出す力を与えてください。
 杏奈はそう念じた。
 アンナプルナはパールヴァティの別の姿だが、パールヴァティは他に、シャクティ、ドゥルガ、カーリーという別の姿ももつ。そして、アーユルヴェーダによれば、生殖能力はシャクティと呼ばれる女性の創造的なパワーと関係している。
 温かいオイルを、効率よく、まんべんなく、素早く柔らかいタッチで浸透させる。基本の手技に立ち返りながら、その後は無心でオイルを塗布した。呼吸とともに、正しい姿勢でする施術。それはそのままヨガであった。
「シロダーラに入ります」
 杏奈はそう告げて、準備に移った。
 真鍮のシロダーラポットにオイルを溜め、一定の速度で額の中心に当てる。オイルが皮膚の内側に入りこみ、脳の深層深部、神経系にも作用する。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 温かいオイルのゆらめきに導かれて、脳内で繰り広げられる思考の癖が、偏りが、ほぐされていく。シナプスが花火のように浮かんでは消え、浮かんでは消え…そこに、黄金色の滑らかな液体が流れていく。
 ゆるめていく。
 そのイメージをしながら、杏奈は念を込めた。

「どうっすか?ここには男は体、女は脳でって書いてあるんですけど、僕、結構脳であれするタイプなんすよね…」
 小須賀は、誰も知りたくもないような情報を垂れ流して、さっきから大樹を失笑させている。
「二十代の頃は、小手先テクばっかり聞きかじってましたけど、最近はようやく…お互いの満足感っていうところに意識を向けられるようになったっていうか…」
「なに言ってんの」
 小須賀と羽沼の間には、炎がある。羽沼は机を手でトントントンと叩いて、首を左右に振る。
「なかなか、深イイことが書いてある、面白い本ですよ」
 小須賀の話を止めようとしても、無駄だった。
 大樹に小須賀が渡した一冊の本…『BEST S─』
「読んだことあります?」
「いや…初めてです」
 大樹は本の表紙と裏表紙を代わる代わる見てはいるものの、リアクションに困っている。
─せめて、ブックカバーくらいして来いよ。
 という非難が頭をよぎった後で、羽沼は再び首を左右に振った。
 そういう問題じゃない。
 こんなのを渡されて、大樹が気を悪くしたらどうするんだ。
「い、今更ですよね、近藤さん。こんなの渡されても…」
「…は、はぁ…」
「そんなことないって。お前もちょっと読んでみろよ。目からウロコの情報がいっぱいだよ」
 小須賀はいつものように、飄々と言った。
「センスが磨かれるぜ」
 それから小須賀は大樹に向き直って、
「相手が何を感じているか、そこを読み取らないと、ひとりよがりの満足に終わっちゃうんですって。人により何で満足を得やすいかは千差マン別─」
「─やめろ」
 羽沼は小声で言うのと同時に、小須賀の膝を蹴った。
「なになに、人が真面目に話をしてるのに横槍出してくんなよ」
 小須賀は至極真面目な顔で憤慨した。
─本気か。
 羽沼は顔をひきつらせた。
「おれはね、二人に夫婦の生活を楽しんでもらいたいの」
 小須賀は手をグーにして、テーブルをドンと叩いた。
「すみません、近藤さん。近藤さんの覚悟の話は昨日、あかつきの首脳陣の間で共有されまして」
 業務上必要なことなので、と断った上で、小須賀は話した。首脳陣…と言ったのは限定性を強調するためだろうが、あかつきのほぼ全てのスタッフがすでに知っている。
「真面目な話も分かるんですよ。体を綺麗にするとか、タイミングを計るとか…でも、本来の夫婦の姿って、そうじゃない」
 俯いていた大樹は、小須賀の権幕に圧されて、上体をやや後退させながらも、小須賀の顔を見て話を聞いた。
「妊活っていうけど、そもそも子供を作るための好意って衝動的な理由で発生するものじゃないですか」
 小須賀はジェスチャーをつけて、力説した。
「お互いに、そこに情熱がなくなってたり、マンネリ化したりしちゃってたら、楽しくなくなっちゃうでしょ?」
 あ、近藤さんとこがそうだって言ってるわけじゃないんですよ、と小須賀は付け加えて、
「それが楽しかったら、ただコミュニケーションのために、これからもお互いを求めると思うんですよね。いつまでも求められたほうが嬉しいです。あ、僕としては、なんですけど」
 大樹は呆然とした。小須賀と羽沼からは、悪意は感じられない。善意でここに呼び、アドバイスをしようとしているのだ。それが伝わるからこそ、大樹には怒りは生じなかったが、さりとて反応に困る。けれど、
─言われてみれば確かに…
 妊活が終わっても、妊活目的でなくても、お互いを求め合える関係でいたいものだと、どこかで思っている自分がいる。
「妊活も楽しまなきゃ。楽しい妊活の先に、楽しい夫婦の生活があるの」
 結婚したこともないのに、どうしてこう小須賀は達観したようなことが言えるのだろう。羽沼は絶句しながら小須賀の言い分を聞いていた。
「ふっ」
 小須賀と羽沼が、ほとんど同時に、大樹の方を見た。大樹は表情に困っている様子だったが、ふっふっと笑い出した。
「あの…」
 大樹は苦笑いを浮かべて、小須賀と羽沼を交互に見る。
「一応、言っときますけど、僕はその…みなさんに煽っていただかないと困るほど、気持ちがなくなっているわけでは─」
「分かってますよ、分かってます」
 小須賀は大樹との間を詰めて、肩をがしっと掴んだ。
「そこの名誉は失われてませんから。安心してください」
「安心って…」
「僕のおすすめのページを教えます」
 二人はいかがわしい雑誌を初めて買った男子学生のように、本を二人の間に隠して、こそこそっと読み始めた。
 羽沼は小須賀のやり方についていけていないものの、立ち上がって、覗き込むように二人を眺める。小須賀は邪魔くさそうに手を振った。
「なんだよ、気になるなら後でおれの貸してやるから待っとけ」
「別に気になってるわけじゃないよ」
 羽沼は憤慨して座り直し、足を組みつつ、ふと道路側に目をやった。すると思いがけない人たちが傍にいるのに気が付き、
「わー!」
 羽沼は思わず叫んでいた。
 瑠璃子と万里子が、ぽかんとした表情で立っている。
 小須賀は羽沼の声にびっくりしつつ、道路側の方を見て、事情を察した。
─わー!なんて言う人初めて見た…
 心の中で舌打ちしながら、
「あ、瑠璃子さんも参加します?」
 と愛想良く声をかけた。すぐ傍に絶世の美女と可愛い女の子がいるのに気づいて、大樹も面喰っている。
「なに…やってるんですか?」
 瑠璃子が尋ねた。
「今、秘伝のマニュアルを…」
 羽沼は足をほどいて、小須賀の脚を蹴りまくった。
「なんでもない!」
 なぜそんなに慌てているのか、万里子は分からないまま、テーブルの上の炎を見つける。
「キャンプファイヤーだ!まりこもいれて!」
 万里子は無邪気に近寄ろうとする。
「今日はだめ!今日はだめなんだ」
 羽沼は立ち上がって、万里子の行く手に立ちふさがった。
「今、仕事の話してるから」
「いやいやいや。これ仕事っつったらやばいっしょ」
 羽沼は小須賀に近寄り、首根っこを掴んでぐらぐら揺らした。
 さすがの万里子も、いつもと違う羽沼の様子にびっくりして、それ以上近寄ってこない。
「ま、万里子、出直そっか」
「うん…」
「や、やめて~」
「ふざけんなお前、ふざけんな」
 目の前で繰り広げられる異様な光景に、大樹は絶句するばかりだった。

 大樹があかつきに戻った後、小須賀と羽沼はアウトドアスペースに残ったまま、しばし放心状態だった。
「あー…寿命がすり減った」
 小須賀は小須賀で、大樹の墓穴を掘ったらどうしようかと、気を揉みながら話を仕掛けたらしい。
「…コーヒーでも飲む?」
 羽沼はくたびれたように言った。
「ああ。こんなハーブティー飲んでられんわ」
 小須賀のコップの中には、半分ほどお茶が残ったままだった。
「これ効果あったの?」
「え?」
「瑠璃子さん見て、もやもやした?羽沼…」
 羽沼は答えずに、さっと身を翻して丸太小屋の中に入っていった。
「…なんだよ。まんざらでもないくせに」
 なぜ清純ぶるのだろう。もしかして、羽沼にこういう話をするのはご法度なのだろうか。
─まったく、誰も彼も…事情ありな奴が多くて困るわ。
 小須賀はベンチに寝っ転がった。
 羽沼はインスタントコーヒーとポットを持って戻ってきた。
「…まあ、結果的に、近藤さん気を悪くはしてないみたいで…よかったね」
「ああ…」
 小須賀は寝転がったまま答えた。
「あのすかした医者野郎は、タイミングに関しては助言したとしても、こういう話はしないだろうからな…」
 順正のことを言っているらしい。
「そうだろうね…」
 もしこういう話をするとしたら、あの無表情な男が、どんな顔をして話すか、少し興味をそそられるが…
「…でも絶対知識としては持ってるぞ」
 小須賀はおもむろに起き上がりながら、そう言った。
「おれたちより数段詳しいハズ」
「数段って…」
 コーヒーカップから湯気が上がった。
 焚火の炎が弱くなってきている。小須賀はカップを手でそっと覆った。
「絶対、行為に関する相談も受けてるって」
「そうかなぁ…松下クリニックでは、不妊治療はやってないんじゃない?」
「でも関連領域じゃん」
 小須賀はフーフーとコーヒーに息をかけて冷ましながら、
「あの医者野郎のことだ。訊かれて答えられないなんて状況にならないように、あらゆる本を読み漁って、情報を網羅してるハズだ」
「そんなに力説しなくても…」
 羽沼は再びベンチに腰を落ち着けた。
「それにしても…性を求めるよう促すって、変な感じだわ」
 小須賀はやれやれと言った。
「若い頃は、自分がおさかんじゃなくなるなんて思いもしなかったし」
「今もじゃないの?小須賀…」
「むしろ、自分の欲求をどう発散させるかのほうが知りたいくらいだった」
「現在進行形でそうなんじゃ…」
「性行為する気が起きないとか、賢人か」
「近藤さんはそうじゃないって言ってたじゃん」
 あまり人の話聞いてないのか。
 羽沼は時々道路の方をちらちら見ながら、話を続けた。
「あかつきにやってくるクライアントは、どっちかっていうと性欲を何とかしたい人より、性欲減退で悩んでいる人の方が多いのかな」
「まあ、来る人の年齢が上の方だし、女の人が多いもんね」
 小須賀はズズ…とコーヒーを啜った。
「さっき言ったように、女性は気持ちがなくなると、なかなか快感を得にくい」
「…」
「授乳中の女性なんかは、性的欲求を抑制するようなホルモンがでるっていうしね。男の賢者タイムと同じ状況がずっと続いたら、そりゃ二人目不妊も起きるわな」
「…そんなことよく知ってるね」
「あの本に書いてあった」
 小須賀はなんのてらいもなく言った。
「やっぱり、お互い男と女であろうって意識を持ち続けることが大事だって、おれは思うよ」

 杏奈と咲子は、書斎のソファに向かい合って座っていた。
「これ、サフランミルクのレシピです」
 杏奈は一枚の紙を、咲子に渡す。
「小鍋に牛乳、サフランを入れて、弱火でじっくり温めます。ミルクの温度が人肌程度にまで冷めたら、はちみつを入れてください」
 満月の夜に、入浴し、白い衣服を身に着け、パートナーと一緒にサフランミルクを楽しむのが理想的である。
 サフランは、幻想的な赤い輝きを持つ美しい強壮ハーブ。女性のコンディションを整えるのに最適なスパイスで、血液と心臓に滋養と活力を与え、生殖器系を若返らせる。媚薬としても知られ、エネルギーを高め、心を照らす。
「ありがとうございます」
「それからこれ…」
 杏奈はジッパー付きポリ袋に入ったハーブミックスを差し出し、
「今飲んでいただいているお茶です」
「いただいていいんですか?」
「はい。あ、でも、次の生理が終わったら飲むのを止めてください」
 咲子は袋に手を伸ばしながら、じっと杏奈の顔を見つめた。ハーブの中には、思わぬ影響を与えるものがある。つまり、妊活に励む時期になったら、飲まないほうが良いと言っているのだろう。
「ありがとうございます」
 咲子はそれを、そっと手元に置いた。
「他にご質問はありますか?」
「うーん…」
 咲子は窓辺に視線を移しながら、口元に微笑を浮かべて、少し間を取った。なぜ微笑を浮かべているのか。
─怖いのか。
 咲子は、何かを話したそうに見える。けれど、それを聞くのが、怖いのだ。それでわざと笑ってその怖さを打ち消そうとしている…
「杏奈さん」
 短い沈黙のあと、咲子は微笑を浮かべたまま、口を開いた。
「はい」
「私は、人生の次のステージに進む決心が、ついたところです」
「…」
「ですから、どんな結果になっても、怖くありません」
「…」
「私がそういう心境だという前提で、教えてください」
─私は妊娠できるんでしょうか?
「…」
 その問いが発された時、杏奈は息を詰めた。
 おそらく、この滞在期間中ずっと…いやもっと前からずっと、咲子の中で一番の関心事だったに違いない、その疑問。
 咲子は前置きをすることで、第三者からの忌憚ない意見を、聞こうとしている。
「…」
 頭の中で、言葉のパズルは組み合わさらなかった。どんな言葉が、自分の口から出て来るのか分からないまま、杏奈は口を開いた。
「少なくとも、咲子さんは、それを信じていなければ…」
 咲子は、微笑を消さなかった。微笑を消せば、代わりに違うものが、表情に溢れ出しそうで、それが怖い。
 杏奈は、呼吸が浅くなっていることに気付いた。ふうと息を吐き出すことで、新鮮な空気を吸い、
「それに、今目を向けるべきは、赤ちゃんを授かるかどうかではなく…旦那さまのことです」
「…旦那を?」
 その答えは、予期せぬものだったらしく、咲子はパチパチと目を瞬かせた。杏奈は頷く。
「咲子さんが十分に健康であれば、妊娠することを期待できるとは思います。けれど、意識をその期待に向ける代わりに…別のことに集中してほしいんです」
 パートナーへの愛。そして、最も健康で、最も幸せで、最も美しい自分になることに…
 その結果、自然が咲子にもたらすものを、ただ受け止めれば良い。もし、咲子が母親になることが自然の流れならば、とても神秘的な方法で彼女に知らせてくれるだろう。しかし、自然の流れが別の方に流れたとしても、悲観することではない。
「すべての瞬間において、私たちはその瞬間に生きるべき人生を生きるために育てられています」
 咲子が今持っている人生、それこそが本物なのだ。
「今持っているものが…本物…」
 咲子の顔には、微笑も、怖れも、浮かんでいなかった。ただ予期せぬことを聞いた時の表情でいる咲子に、杏奈はもう一度頷いた。
「それこそが、私たちが求めている幸福であり、目と鼻の先にあるものなのです」
 気づけば、自分でも全く想定していなかった言葉を、杏奈は口走っていた。つぶやくように。

 

 


 

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