第110話「アカガシの木の下」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 創作和食居酒屋・彩は、夕方の開店時間を目前に控えたところだった。このところ宴会続きで、今日も仕込みが忙しい。
 そんな時、引き戸をドンドン叩く者があった。
 翠はちっと舌打ちする。弘道は「コワ…」と呟きながら、
「まだですって言えば…?」
「そのうち帰るよ」
 しかし、扉をドンドン鳴らす音はしばらく続いた。
「クソ。まだ開店前だっつーの」
「クソって…」
 我が妻ながら、言葉が悪い。
 弘道の隣では、母の万喜が黙々と仕込みを続けている。息子の篤は、カウンターで宿題をしたり、簡単な仕込みを手伝ったり、座敷に寝転んでゲームをしたりと、気の向くままだ。
 ドンドン。
「っるせーな。ったく」
 翠は耐え兼ねて腕まくりをし、ずんずんと引き戸に歩み寄る。
「はいはーい」
 ガララッ
「すみませーん、開店はもう少し後…」
 と、言いながら翠は、その男の風貌にちょっと言葉を失った。
 首元に大きなファーのついた、ぐるぐると目が回るような模様のジャケットに、カーキのズボン、ハイカットの茶色いブーツ…
─ヒッピーか?
 と思わせる独特な服装だが、それを着ている男自身は清潔感のある整った顔立ちで、センター分けにした長めの前髪が、風に吹かれてはらりと顔周りに落ちている。
「…すみません、まだ開店時間じゃなくて」
 翠は気を取り直して、男に告げた。弘道には、その声音が急に優しくなったように感じたが、果たして気のせいか…
「もう少し待ってもらえます?」
 普通そう言ったら引き下がるところだが、男は引き戸が閉まらないように手で押さえて、へらへらと笑みを浮かべた。その男の指にはたくさんの指輪、腕には腕輪もしている。
「すみませーん、僕、お客さんじゃなくて…」
 喋り方までへらへらしている。
─なんだこいつ。
 翠は反射的に猟銃を構える体制を取った。もちろん、そんなものはここにはないのでエアーだったが。
「えっ?」
 男はびっくりしたような顔で翠を見た。
「あ、あの。すみません。僕怪しい者じゃないんですけど…」
「そーなの?あんた誰?」
「えっと、僕、彼女がここで働いてるって聞いて…」
「彼女?」
 翠は呆然として、目の前に立っている変わった風貌の男を、今一度眺めた。
 にこっとして男が顔を傾げると、サラサラとした黒髪が揺れ、片方の耳が露わになった。耳には、たくさんのピアスをつけていた。

「え…?彼氏さん、こっちに来てるんですか?」
 彩に怪しい男が現れる少し前、沙羅宅にて。みんなから少し離れたところで電話に出ていた空楽から事情を聞き、沙羅が素っ頓狂な声を挙げた。
「あー、そう…みたいです」
 空楽は苦笑いして、頬を掻いた。
「そうみたいって、知らなかったの?」
「…今こっちに来てるって連絡が」
 空楽はスマホをポケットにしまいながら、元の席に戻った。
「あ…じゃあ、早いとこ帰らないと」
 と、杏奈。
「ん、大丈夫です。放っとけば」
 空楽はにべもなく言った。
「いや、でも…」
 祥子と瑠璃子は二人とも気づかわしげに、お互い目を見合わせた。
「彼氏さんいつまでこっちにいるんですか?」
 沙羅は一人で目を輝かせている。
「さあ…年末からこっち来るって言ってたんですけど、なんでもう来てるのか分かんないです」
「そんなの…!」
 淡々と言う空楽に対し、沙羅はオーバーリアクションで、テーブルをトントンと叩いた。
「クリスマスを一緒に過ごしたいからに決まってるじゃないですか!」
 沙羅の声があまりにも大きかったので、リビングで遊んでいた沙羅の娘たちは母親の方に顔を向けた。 
「え…そうなの?やだな」
─やだって…!
 椅子に座りながら、膝を抱えてそう呟く空楽を見て、他の面子は絶句する。
 今日はクリスマスを目前に控え、沙羅の家に祥子、瑠璃子とその子供たちが集まって、ささやかなクリスマス会をしていたのである。昼過ぎから、午前中あかつきで研修をしていた空楽と杏奈が加わった。サーモンウェリントンやら、リースサラダやら、クリスマスケーキやら、ちょっとあかつきでは食べられないようなご馳走を平らげ、雑談に花を咲かせていたところだった。
「空楽ちゃんの彼氏ってどんな感じの人?」
「彼氏…なのかな」
 沙羅の質問に対する空楽の返しも、またどこか他人事のようであった。
「どういうこと?」
「一時保留になっているんです。その…交際してるってこと」
「一時保留…」
 みんなの声が合った。空楽はちょっと変わっている子だが、恋愛事情もまた独特なのだろうか。
「向こうのほうから保留にしたいって…」
「どゆこと?」
「いや、単純に、付き合ってないってことにする…ってことです」
 みんな、がくっと体が前後左右に揺れた。そういうことを言ってるんじゃない。
「なんで保留にするの?」
 すかさず祥子が問い直した。
「さあ。他の女の子と遊びたかったんじゃないですかね」
 空楽曰く、一人の女に縛られるのが嫌なのだろう、と。
─チャラ男か!
 全員青ざめた顔で絶句した。しかし、そんなことを感情を込めずに淡々と言い放つ空楽も空楽だと思う。
─どうなっとんじゃ。
 しばし沈黙が流れる。リビングで遊び回る子供たちの声だけがうるさかった。
「…でも、こっちに来たってことは、復縁したいってことじゃないの?ねえ」
 祥子が苦笑いを浮かべながら、同意を求めるように瑠璃子を見た。
「そうだよ。空楽ちゃん可愛いし、モテそうだから、クリスマスが近くなって、警戒して様子見に来たんじゃないの?」
 が、空楽は目を瞑って首を傾げた。
「瑠璃子さんのほうがモテそうじゃないですか」
 話をすり替えられて、瑠璃子は面喰った。
「いや、今は私のことじゃないから」
「瑠璃子さんが誘惑したらどんな男でも…」
 膝の上に顔をもたげながら、目を開いた空楽の目が、とても意味ありげだったので、瑠璃子はうっと言葉に詰まった。
─空楽ちゃん、お店の人から何か聞いてるんじゃ…
 彩で、自分と羽沼は何度かサシ飲みしている。関係を勘繰られているのかもしれなかった。
「うーん…確かに」
 沙羅までもが、口に手を当てながら、瑠璃子をまじまじと見つめる。
「ちょっとちょっと、変な目で見ないで」
「いや…瑠璃子さんに言い寄られたらどんな男も…」
「それはないって」
 瑠璃子はため息を吐いた。
「私、離婚しちゃってるし、女としての自信もないよ」
 それも、不倫された上での離婚だ。が、瑠璃子のような容姿の女がそう言っても、嫌味なだけ。
「ほんとだって」
 瑠璃子はしかし、真実、自信を無くしていた。もう一度ため息を吐いて、
「陽介が、シングルマザーはだいたい、一癖あるって」
 と、幼馴染から聞いたことを話した。
「えーっ?陽介くんそんな失礼なこと言ったの?」
 祥子が顔をしかめ、目を細めた。
「あ、私に対してっていうか、その…保護者と話をする中で気づいた傾向らしいんだけど…」
 陽介は小学校教諭で、様々な保護者と面談をする。離婚する人は少なからず性格に一癖ある…その安藤の指摘は偏見かもしれなかったが、瑠璃子は自分のことを振り返ると、完全に否定はできない。
「自分の人格にも不信感があるというか…」
 夫がしたことは道徳的に間違っている。しかし、それ以前に、夫を追い詰めたのは自分かもしれないのだ。
 瑠璃子の顔を見て、沙羅は、
─謙遜して、思ってもいないようなことを言っているわけではない…
 と察した。と同時に、こうも思う。
─でも、その経験が瑠璃子さんに、謙虚さを与えている…
 教訓を与えている。
「あ、ごめん。そうじゃなくて、空楽ちゃんのこと…どうしよ、もうお開きにしよっか?」
 早く家に帰して、彼氏と引き合わせてやらねば。
 子供たちはまだ遊ぶ気満々のようだったが、日が短い十二月。太陽はもう沈んでいた。

 杏奈は空楽をエヌボックスに乗せ、彩まで送っていった。
 ハンドルを握りながら、杏奈の気は重かった。みんなは楽しそうに空楽の彼氏のことを聞いたり、容姿を褒め合ったりしていたけど、杏奈はどの話題にもついていけなかった。自分には彼氏もおらず、この先そういう人ができるのかどうかに、不安があるからだ。
 杏奈の気鬱な様子に、実は空楽も気づいていた。
 助手席に座って窓の外を眺めながら、空楽は女子会の最中に電話をかけてきた彼氏を、
─間が悪い…
 と思う。
 杏奈が年齢を恐れ、結婚できていないことに不安があるのは、顔を見ていればすぐに分かった。
─優秀な人なんだけど…
 だからこそ、優等生でなかった空楽は、自分にもそれが押し付けられそうで、実は杏奈をちょっと嫌煙する部分もあった。けれども…
─こういうとこあるから、嫌いになれないんだよなぁ。
 実は、空楽が杏奈に興味があるのは、この先輩が純粋なのだけれど不器用で、悩み多く、暗いところがあるからなのだった。
「ありがとうございました」
 空楽が彩で降りた時には、すでに駐車場には数台の車が停まっていた。
 そうっと引き戸を開けてみると、お客たちのわいわいとした声で賑やかだ。煌々と明かりがさすカウンターから、一人の男がぱっとこちらを向いた。
「空楽!」
 あまりにも爽やかな笑顔を向けられて、空楽はちょっと身動きが取れなくなる。
─紘大…
 と、空楽は心の中で彼の名を呼んだ。
 別に会わなくても平気だし、このまま別れ話を持ち掛けられても、傷つくことなく受け入れられると思っていたのだが…
 ピシャッ。
「あっ」
 空楽が中に入って来ず、引き戸が閉まったので、紘大は驚きを隠せず変な声をあげてしまう。
 空楽は店の外壁に身をもたげながら、ちょっと頭の中を整理していた。沙羅の言う通り、紘大は自分に会いたくて遠路はるばるやってきたのだろうか。彩のことは知らせていなかったはずだが、実家に寄って、彩だと言われたのか。姉や義兄に混じってカウンターの奥に立って、何をしているのだろう。
 カラララッ
 引き戸が開いて、紘大が寒い外に飛び出してきた。
 空楽は表情を変えずに、懐かしいこの男の風貌を眺めた。
「久しぶりっ。空楽」
 相変わらず、この男の喋り方は軽い。
「…会いたかった?」
「…」
 空楽はマフラーに口元を埋めて、無言のまま、壁にはりついていた。目線だけ、紘大のほうへ向けてみると、その笑顔に、懐かしさがこみ上げた。
「…なにしてんの?」
「え?いや、店の人に空楽の彼氏ですって名乗ったら、帰ってくるまで手伝えって無理やり…」
 彼氏、なのか。
「…」
「あ、今日は新鮮なシカ肉をおすすめしてまーす」
 紘大がにこにこ顔になればなるほど、空楽は冷めた顔になって、
「…調理、手伝ってんの?」
「うん」
「しばれ、髪を」
「…」
 この長髪がモテ要素なんですけど…と泣きたい気持ちを、紘大はなんとか抑えた。

 翌日。
 気温が最も上がる昼過ぎを狙って、杏奈は外へ出た。あかつきには客がおらず、休日扱いだったが、家の中にずっといるのも身体が訛る。
 薄暗い栗原神社の西参道を、さくさくと進む。
 昨日は、存外に疲れた。沙羅たちママ友三人と、空楽、それから子供たち。この組み合わせは、杏奈は別に嫌いではなかった。一人ひとりがいい人だ。ママ友同士は関係ができていて、気を遣う感じもないし、会話が途切れることもなく、子供たちは元気で可愛い。
 けれど…
 彼氏や夫の話になると、杏奈には喋ることがなくなる。出遅れているという意識は、圧倒的に不安を煽る。
 会話の内容はさておき、何時間も会話を続けた後は、気が方々に飛んでしまう心地があり、早く日常を取り戻したくなる。自分の内側に閉じこもりたくなる。
─やっぱり…
 人とのコミュニケーションが、苦手だ。
 ヨガとアーユルヴェーダの勉学に打ち込むのは、クライアントに貢献したいという気持ちがあるからだが、何よりも自分自身のためなのだと、杏奈は思う。その時間がきっと、自分にとっての癒しなのだ。
 結局のところ、自分はあかつき以前とそう変わっていないのかもしれない。人との間に壁を作り、心を開かず、自分の弱いところを笑い飛ばせず、自分の殻に閉じこもろうとするのだから。
─もしかしたら。
 と、考えたところで、分岐を右に折れた。神社の花神殿には、今日は行かない。もっともっと、遠くまで歩きたい。西参道と同じくらい、この小径は薄暗いが、夜道を歩くような怖さはなかった。
─このまま、ヨガとアーユルヴェーダの道を進むのに専念するのも、いいのかもしれない。
 と、杏奈は先ほどの思考に戻る。
 彼氏だの、夫だの、結婚だの、子供だのと考えず…ただ健康で活き活きとした自分になるための旅路を、ヨガとアーユルヴェーダに導かれたいという人に、献身的に尽くすような生き方をするのもありではないか。美津子のように。
 家族といえど、人付き合い。人付き合いが苦手な自分が、家族に憧れること自体が、そもそもおかしいのかもしれない。実家の親兄弟たちとの関係性も、ぎこちないというのに。
─でも…
 仮に道を究めるとしても、人間関係が希薄な者よりも、いろいろな人との関わりを経て、精神的な成長を遂げている、コミュニケーション能力が高い者のほうが、うまく導けるように思えてしまう。それならば、コミュニケーション能力が向上するよう、努めるべきだと思う。人との交わりの中に身を置くべきだと。けれど、それがつらい。ものすごくエネルギーを消費する。あかつきの書斎で、あかつきのメンバーが集う時は、なぜかその自分の心の傾向を忘れるので、最近は意識していなかったのだが。
─私はもともと…
 とても人を選ぶ。人の輪の中にいるのが、好きではない…
「ふふ」
 杏奈は思わず、笑ってしまった。それこそが固定観念であり、思考の癖であり、過去そうだったという経験に、心が縛られている。クライアントには、傍観者となり、心の動きを観察することを教えているのに、自分事になるとさっぱりではないか。
─ばかだな。
 昨日の集まりで、なぜ自分が陰鬱な気分になっているのか、杏奈は明確に分かっている。独身で年下の空楽に彼氏がいるということを、より認識させられたからだ。
─そんなことを思うのは私の性格の悪さなのか歪みなのか。
 それとも、引け目か。
「…」
 ばかばかしくなってきた。
 まっすぐに空に向かって幹を伸ばす、神々しいアカガシの佇まいと、それとは反対に、倒れて朽ちかけようとする同じアカガシが目前に迫ると、杏奈は感情を手放すように、深呼吸をした。
 その幹に背を預け、足を倒木の方へ向かって投げ出すと、背負ってきたリュックを開き、ノートとペン、イヤホン、スマホを取り出す。
 心地よい風が吹く。このあたりは木々の間隔がまばらで、神社の者が定期的に手入れをするのか、雑草も鬱蒼と生い茂るほどではなく、虫が少ない。少しの間、ヨガニドラの練習をするのにうってつけだ。
 すでに、たくさんのヨガニドラのバリエーションを聴いた。ゲイルに教わったものとは、違うステップを踏むものもあった。集中させられるなら、順序は多少入れ替わっても問題ないのだろう。
 ノートを開き、書きかけのヨガニドラのガイドを眺める。まずは短いバージョンから考えてみた。体勢の準備と、呼吸に意識を向けるためのガイダンスのところまでで、昨日は力尽きてしまった。ここからは体の部位に順番に意識を向けていくステップである。
─ほとんど丸写しだけど、いいのかな…
 指導者によって、身体の部位の呼び方や、言及する部位の数に違いがあるものの、順番はほとんど同じだった。おそらくそれは、自分などよりよっぽど鋭い感覚をもった先駆者たちが、何度も臨床を重ねた結果、最も効果的と踏んだ順番であるのだろう。オリジナルのガイドを作らなければならないからといって、その順番をいじるのは、得策ではないと思われた。理由がない限りは。
─でも、もしかしたら…
 ガイドの順番や言葉などは、そもそも問題ではないのかもしれない。ガイドの言葉などではなく、別の部分を磨く必要があるのかもしれない。それが何なのか今の杏奈には分からないが。
 追究しなければならないことはたくさんある。
─そんなことやってる暇があるのか…
 三月までに、やることがいっぱいあるのだが…と、あかつきの仕事のやることリストに意識が飛びそうになったので、ぶんぶんと頭を振る。
─集中だ、集中。
 学びをある程度のところまで完結させなければならない。
「右手の親指、人差し指、中指、薬指、小指、手の平…」
 さっそくガイドの練習を始める。
「脇腹、腰、お尻、ふともも、膝、脛…」
 声に出しながら、該当の部位に意識を向けてみる。
「右足の親指、人差し指、中指、薬指、小指…」
 呪文のように、ひたすら。ガイドをする時の声色は、ガイドを聴く者にとってとても重要だ。だから杏奈は、声を出しながらも、自分の声に注意深く耳を傾けた。
「手首、前腕、肘、上腕、肩、脇、肋骨の外側…」

 かすかに人の声が聞こえる。風上から風にのって流れてきたのだろうか。
 その声を聞いた時、順正は思わず深く吐息をした。
─なんで…?
 なんでここにいるのだろう。
「足首、かかと、足の甲、足の裏、右足の親指…」
 澄んだ、透明感のある声。淀みなく出て来る言葉…けれど、その内容が独特すぎる。
 最初は誰がいるのか、分からなかった。だが、こんなところで、こんな怪しい文言をつぶやくような変わり者に、心当たりはそう多くなかった。大方予想はついたが、いつもと少し、声質が違うように感じた。
「フゥーッ」
 呪文が止み、深く息を吐く音が聞えてきた。声がなければ、順正はそこに人がいたことに気が付かなかっただろう。声の主の身体は、アカガシの幹によってすっぽり隠れていたのだから。
 他者の存在にはもちろん南天丸も気が付いている。普段なら倒木を飛び越えて、このあたりを自由に散策するのだが、さっきから順正の後ろに控えている。
 杏奈は、今度はノートを見ずに復唱しようと、目を閉じかけた。意識を指先に集中しようとした時、誰かが地面を踏む音が聞こえて、さすがに気配に気づき、後ろを振り返った。
「あ、先生…」
 杏奈は順正と南天丸を見てピンと背筋を伸ばしたが、順正は特に視線を杏奈に向けるでもなく、再び深く吐息しながら、アカガシの近くに歩み寄った。
「…なんでここにいるの?」
 杏奈は動揺した。声を聞かれたかと思うと恥ずかしかった。
「えっと…あ、新しい仕事の、練習で…一人でやりたくて」
 訊いてくれて助かった。声を聞かれただろうが、こんなところで一人で、何の理由もなく体の部位ばかり読み上げていると思われたとしたら、怪しすぎる。
─というか、すでに変だと思われたかも…
 と思って順正の顔を伺うが、相変わらず、感情が読めなかった。マウンテンパーカーの襟もとに口を埋めているせいで、よけいに。
 風が吹くと、少し長い前髪が揺れて、切れ長の目にかかる。その様がとてもきれいで、杏奈は少し、見惚れそうになった。
「先生はどうして?」
 順正は片膝ついて、南天丸の首を撫でた。自由にせよという合図だと受け取ったのか、南天丸は自由にあたりを歩きだした。
「犬の散歩だよ」
 そう答えた自分の声には、ひどく間の抜けた響きがあるように順正は思ったけれど、杏奈はそのリズムにどこか安堵した。彼は心なしか、いつもよりゆっくり喋っているように思う。
 順正と南天丸は、いつものように明神山を越えてきたところだった。順正にはまた、捨てたいものができてしまったからだ。その後、お気に入りの場所に足を進めたら、先客がいたというわけだ。
「…あ、すみません。この間、私うっかり寝てしまって…」
 杏奈はぼそぼそと言った。順正に最後に会ったのは、あかつき大作戦の直後に、書斎で映画を見た時だ。
「…疲れてそうだったからしょうがない」
 存外に優しいことを言ってくれる。杏奈は言葉に窮し、顔をノートに戻した。
「ここにはよく来るの?」
 順正がそう尋ねたのは、今後も先を越される可能性を探るためだった。順正がここに来るのは、一人になりたいからだ。
「あ、いえ…そんなには」
 答えは曖昧だった。
「先生はよく来るんですか?」
 杏奈が順正にそう尋ねたのも、全く同じ理由であった。
「まあ時々」
 シャカシャカと、マウンテンパーカーの生地が擦れ合う音がして、杏奈は再び後ろを振り返った。順正は木の幹を隔てて杏奈と反対側に背を預け、座ったようだ。普段は多分、自分が今座っているところに座るのだろう。
「すみません。私、邪魔ですよね…」
 順正の私有林でもあるまいし、謝るのもどうかと思うけれど、他に言うべき言葉もなく、謝ってしまう。
「別に…」
 けれど、返ってきたのは、意外にも邪険にするような言葉ではなかった。そっけない言葉なのだけれど、声の温度は冷たくない。そして、すぐに苦笑が聞こえてくる。
「変わってるとは思うけど」
 笑うと腹に圧がかかる。その圧が抜けた時、順正は体が弛緩したのが分かった。
「え、先生がそれ言いますか…」
「ん?」
 順正は靴紐を解いた。この位置からは、南天丸の姿は見えないが、カサカサと落ち葉を踏む音が消えたので、少し離れたところにある山椿の根元に近くに、腹を落ち着けたのだと思った。南天丸はしばしばそこで休むことがあるから。
 杏奈は、ようやくこのひとに対して、少しは軽口を叩けるようになったことに安堵した。
 でもまさか、こんな辺鄙な所でこのひとが羽を休めているとは思わなかった。あかつきが目と鼻の先にあるのに、どうしてわざわざここへ寄るのだろう…と、考えてすぐに、大した理由などはないのだろうと思い直した。
─外で、緑が多いところで…
 一人になりたかっただけ。自分がここに来る理由も、たったそれだけだ。
 一方順正は、今の座している場所に座り心地の悪さを感じていた。やはり、反対側のほうが良い。足を休めながら、そんな呑気な感想を抱いた。
 順正はいつもの通り目を閉じて、呼吸に意識を向けた。幹を挟んで、五十センチほど向こう側にいる女は、怪しげな呪文を再び声に出すことなく、存外に静かにしているけれど、存在感というのはそうやすやすと消えるものではない。こちらが風下だからなのか、風にのって匂いが届く。書斎に居合わせた時にも感じた、薬草のような、けれど甘い香りだ。この場所の土と木、葉の匂いに混ざって流れてくる。
 順正は無意識にため息をついた。それは杏奈にも届く。
─やっぱり邪魔なのかな。
 だが、さっき「別に」と言った。繰り返すのは良くない気がする。
「…お疲れですか?」
 代わりにそう聞いた。少し、沈黙があった。
「…価値観が違う患者と接してると、疲れない?」
 囁くような声で尋ねてから、「(杏奈の場合は)クライアントか」と言い直した。
「あ…そうですね…」
 価値観というか、人の感覚はこうも違うものなのかと思うことはよくある。たとえば、健康日記で把握できる日々の食生活。人が「良い」と思うものは人それぞれだ。
「それで、気疲れしちゃったんですか?」
 杏奈は少し顔を後ろに向けて尋ねた。
「…気疲れというか」
 順正は、引き出しにしまったままの、一枚の写真を思い浮かべた。
─可哀そうだ…
 感情を払拭するのは、意外と労力がいる。
 以前、莉子のことは杏奈に話してしまった順正だけれど、今思い浮かべている患者は事情が事情だし、個人情報に関わることだから、起こったことをクリニック外の者にむやみに話そうとは思わない。杏奈はそこを汲み取ってくれているのか、それ以上深堀はしてこなかった。
「先生は、ストレスを感じた時、どう解消するんですか?」
 その代わりになのか、そんなことを訊かれた。
「山に登る」
 ぼそっとつぶやくような声。
「良いストレス解消法ですね」
 杏奈は素直にそう思った。ストレス解消の手段が運動というのは、健康的だ。
「…あかつきに寄られますか?」
「うん…分からない」
 どっちつかずの答えだった。
「…山に登ると、筋肉疲労しませんか?スポーツをした後の急性の疲れに良いオイルがあるんですよ。疲労が落ち着いてきたら塗ると、筋力を増強してくれるオイルも」
 順正はふっと笑ったようだった。そのことが杏奈を、ひどく安心させた。
「おれに、それを塗れって?」
「…ああいや…筋肉って、動かすことはするけれど、休ませることはしないって方も多いですから…」
「まあ…そうだろうね…」
 順正の返事は適当だった。余計なお世話を焼いてしまっただろうか。
 それきり会話は途切れた。順正のほうから何も言ってこないと、杏奈は自分から何かを話しかけるのが憚られた。だからといって、もう、ヨガニドラのことは考えていなかった。ゆっくりとした、落ち着いた低い声の波動。その余韻に浸っていた。
─…そうなのか。
 声というのは大事だと、再び実感した。声から、癒される。思いがけずだったが。
 先日、ソファ寛いでいた順正の風貌を想起する。長めの前髪が顔にはらりとかかり、その前髪の奥にある切れ長目は、形が良く涼し気であった。あの時は、自分と同じくらい疲れている様子だったが、今日はそこまでではなさそうだ。木の幹一つを挟んで傍にいるのだから、振り返れば顔色を伺うこともできるのに、できなかった。本当は、話したいことだってあるのに。
─健全な赤ちゃんを産むための、アーユルヴェーダとヨガの教えを、伝えていきたい…
 杏奈は先日、考えている企画を美津子に話した。この企画で持てる力を出し尽くして、それでやっと、自分も前に進むことができる。
 けれども、それは現代医学の医師からしても、有用だと思うだろうか。見解を聞きたいし、自分の知らないことを教えてほしい。資料を作っていると、自分の知識と経験ではとてもカバーできない部分があることに気がつくからだ。自分の理解が合っているか。専門的な部分を、この若く仕事熱心な医師に見てもらえたら心強いのだが。
─言えたらいいのになぁ…
 杏奈は人にお願い事をするのが至極苦手だ。
 コミュニケーション能力が高かったらよかったのに。先ほどまで考えていたことをまた考え出す。人との触れ合いを億劫に思う自分でなければ、そんなお願いを、今ここですることができたかもしれない。取り合ってもらえないなどと恐れず、卑屈にならず。
 そもそも、自分がもっと天真爛漫で、明るい笑顔を絶やさない女だったら、実はこのひとも、楽しく会話に参加してくれるのではないか。
─いや…
 ちょっと、目的がズレた。楽しく会話することは目的ではない。
 順正は黙り通している。杏奈は自分からは話しかけられず、かといって再びガイドを続けるわけにもいかず、手持無沙汰になった。そのまま立ち去ることもできたけれど、まだここにいたかった。
 杏奈は呼吸に意識を向けた。普段浅くなりがちな呼吸を、深く、ゆっくりと行う。
 夏の時期とは違い、虫の声もなく、時々風に吹かれて葉が擦れ合う音以外は、とても静かだった。

 その日の夕方。
 蓮はハイウォールの入り口を通り過ぎた人影を見て、転がるようにマットから飛び降りた。
─忠犬か。
 その様子を見ていた藤野は心の中で独りごちた。
「柴崎さん!」
 南天丸を犬小屋につないでいた順正が後ろを振り返ると、声の主は蓮だった。この寒いのに、裸足にクロックスをひっかけて、半袖である。
 順正は顔を蓮から背けて立ち上がった。
「少し背が伸びたな」
「え、そう?」
 確かに、前は順正がもっと大きく見えていた。とはいえ、今でもその背中は大きい。
 蓮は、順正が山行きの恰好をしているのに気が付いた。厚手のジャケットに、ローカットの低山用の山靴。
「明神山に行ってたの?」
「ああ」
 順正は答えながら、蓮の横を通り過ぎて、ジムに入る。
「いらっしゃ─」
「なんだ、連れてってくれればよかったのに」
 藤野の声をかき消すように、蓮の声が覆いかぶさった。藤野は苦笑いしながら、順正からカードを受け取る。
 順正がストレッチしている間、蓮は時々壁に登ったが、内心順正のことが気になって仕方なかった。
 家庭の事情を言い訳に、友人付き合いを避けるようになった自分は、甘ったれだと言い…それでも莉子の弟が産まれた時、莉子を案じてクリニックに駆けつけた自分を、中に招き入れ…
 あれ以来、一度も会っていなかった。その間起こったことを、話したかった。莉子が弟を可愛がっていることを伝えたかった。同級生に歩み寄って関係を修復できたことも報告して、見直してもらいたかった。しかし、友人付き会いを復活させた分、ジムでの練習がおろそかになったと言ったら、笑われるだろうか。うめが入院し、叔父が訪れたこと、自分が取った行動を伝えたら、何と言うだろうか。
 蓮はマットの上から、さりげなく順正に視線を向けた。
─メンタルがない。
─無表情。
 と、ジム仲間は評するが、蓮はそうは思わない。
 最後にジムで会った時は、順正は腹の虫の居所が悪そうだったが、今日はそんなこともない。
「柴崎さん」
 順正がウォーミングアップの長物課題を終えた時、蓮は思い切って声をかけた。
「今度いつ、外岩行く?」
 順正は横目でちらと蓮を捉えると、フンと鼻を鳴らした。
「この寒い時期に、岩に触れるか」
「う…」
─もう少し優しく言えばいいのに…
 二人の会話を背中で聞いていた藤野は、心の中でまた独りごちる。
「春になったら登れるように、ここでコソ練しとけ」
 低く、小さな声で、順正は言った。少しも愛想がない言い方だったが、それでも、蓮を喜ばせるには十分だった。
「分かった!」
 威勢よく、返事をする。藤野はふっふと口元を綻ばせた。
「じゃ、次山登る時教えて!」
 体力づくりするからさ、と蓮は言った。が、順正は真顔で蓮のほうを振り向いて、
「それは断る」
「なんでだよ…」

 うつ伏せになったクライアントの右脚にかかっているタオルをのけると、杏奈はボトルからオイルを手に取った。
 大腿部にストロークをかける。次に膝関節。両手の親指と人差し指で、筋肉の付け根を挟むようにしてストロークする。そして膝下。脚の表面まで、しっかり塗布するのがポイントだ。
 それから立ち位置を変え、クライアントの膝裏が中心に見える位置に立ち、肩幅に足を広げる。脚部の外側から内側(膝)に向かって、テンポよくストロークを行う。きっちりと親指をまわして、手の平全体を密着させる。しかし過度な圧は加えぬように。膝周りを、時計回りと反時計回りに円を描くようになぞった後、もう一度外側から内側へとストロークをかける。
 足裏のマッサージを行ったらニーディングだ。ふくらはぎに積極的なアプローチをかけるニーディングは、クライアントにとって心地良いはず。ふくらはぎは足の血液を押し上げる第二の心臓。この部分の筋肉の硬さは、前傾姿勢を生み出し、ますます筋肉が緊張を強いられ、硬くなる。ふくらはぎの筋肉は疲れやすく、弾力性が低下しやすい。そのため、ふくらはぎの筋肉が弱いと、立ち姿勢が悪くなり、血液循環も悪くなる。体の外側も内側も、老化が進むということだ。ふくらはぎの機能を回復させるためにも、アーユルヴェーダのトリートメントは有効である。
 体全体にオイル塗布してから、シロダーラを行った。
「どうぞ」
 トリートメントが終わり、そのクライアント、絹江が応接間に入ってくると、杏奈はハーブティーを出した。
 書斎では、沙羅が別のクライアントのアフターカウンセリングをしている。
 あかつきは、年末の繁忙期に入ったのだ。
「今日で最終日…あっという間でしたね、絹江さん」
 一連のフィードバックを終えた後、杏奈はそう言って微笑んだ。
「はい」
 絹江は頷いて、華奢なティーカップを置いた。
 絹江はインド占星術士であった。中でも、疾患予測を得意とし、占いの結果に合わせて、ヨガや食事の指導をしているのだという。もともと予防医学的な目線で、人にアドバイスをする立場だったので、あかつきのサービスにも興味をもっていた。そこで、あかつきでトリートメントを受けつつ、杏奈の料理教室にも参加したのである。
 インド占星術(ジョティシュ)の知識がない杏奈は、どんな難問をなげかけられるかと、内心ひやひやしていた。しかし、絹江はとても落ち着いた、礼儀正しい人で、意地悪な質問などはしてこなかった。
「もう年末ですね」
「ええ。杏奈さんは、ずっとここでお仕事ですか?」
「はい」
「それは、大変ですが…充実してますね」
 絹江のポジティヴな言葉に、杏奈はにっこりして頷いた。
「絹江さんは?」
「私は、年末年始はゆっくりです」
 あまりあくせく働いていない人で、仕事はじめも遅いと言っていた。
「それはいいですね。来年も良い一年になりますように…」
 杏奈はそう言って、カウンセリングを締めくくろうとした。
 しかし、絹江は意味深な笑顔を浮かべ、ティーカップの取っ手に指をかけ、一口飲んだ。
「来年は…多くの人にとって、明暗が分かれる年になります」
「え…?」
 再び、絹江はティーカップをソーサーに置いた。小さく食器が触れ合う音がした。
「…」
 杏奈は、聞いていいのか、悪いのか、判断しかねていた。
「それは…絹江さんが惑星の配置を読み取った結果、そういう未来が見えたんですか?」
 個人や世の中全体を占うにあたって、絹江がどんなことをするのか全く知らないが…
「私もそうですし…その筋の情報をあさると、みんな口をそろえてそう言います」
 その筋の情報とは、どの筋のことなのか。
「そうなんですね…」
 この数日間でいろいろな会話をしたものの、まだまだミステリアスな部分が多い人である。
「自分はそのどちらなのか、気になります…」
「うふふ」
 絹江は笑った。チャートを見れば、それが分かるのかもしれない。
「…でも、怖くて聞く気になれません」
「怖い?」
 絹江はオウム返しに言った後で、
「…杏奈さんは、悪く転ぶような感じはしませんけどね」
 と、ちょっと安心させるようなことも言った。だったらもう少し、断定的な表現をしてほしいものだ。
 杏奈はそれ以上のことは聞かなかった。
 絹江のその予言のような言葉は、それ以後、忙しさにかまけて、ほとんど思い出すことはなかった。
 あかつき大作戦並みではないが、クライアントが常に一人は滞在している状態で、そこそこ忙しい。絹江の言葉を借りて言えば、「充実している」。
 年越しの夜だけは、奇跡的にクライアントがおらず、杏奈と美津子は、去年と同じように善光寺へ行った。そこにはやはり去年と同様、小須賀の姿があり、甘酒を配っていた。
 けれど、絹江の予言は、年明け早々、再び杏奈の脳裏をよぎることとなる。
 二〇二四年、元旦。午後四時過ぎに、能登半島地震が起こったのだ。

 

 


 

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