蓮は、クラスでの立ち位置を回復しかけている。
「蓮」
「悠真」
きっかけは、体育の授業で、数合わせで小学校以来のこの友人と組んだことである。
「放課後サッカーするけど、来る?」
「あー、じゃあ、ちょっとだけ…」
十二月は日光不足。晴れていても空はどこか灰色で、日が短く、授業が終わってから日が暮れるまでの時間は、そう長くない。
蓮はその時間を、友人たちと過ごすことに割くようになった。時には、友達付き合いをジムより優先させることも出てきた。そうなると良かったことは、今まで退屈だった学校が、少し楽しいと思えるようになったこと。
「お前、今からでもサッカー部戻れば?」
「なんで今から…もう次の夏で引退じゃん」
蓮たちは来年中学三年生になる。それでも悠真が誘ったのは、蓮がいた方がチームが強くなるとさえ思えたからだ。もともと、蓮は小柄なほうだが、すばしっこかった。それが最近、身長が伸び、やせているが筋肉がついて脚力もあり、基礎体力だけなら、現役部員にも劣らないように感じる。
「今更だよ。じゃあな」
蓮は悠真に手を振り、帰途についた。日が落ちかけている。あと数日も登校すれば、冬休みだった。
チリンチリーン
「ん?」
ベルの音と、シャーッと車輪が回る音がして、蓮は後ろを振り返った。莉子だった。莉子は自転車を蓮の横に寄せると、両足を地面についた。
「よっす」
男みたいな挨拶をする。
「よっす」
蓮も、同じ挨拶を返した。
挨拶は男みたいでも、莉子の髪型はもう、全然、男みたいではなくなっていた。ベリーショートだった髪はいつしか、耳の下まで伸び、肩に届き、今は後ろで一つに結んでいる。顔もなんだかしゅっとして、自分よりも大人びて見えた。
─おねえさん、みたいだな。
事実、莉子は姉になった。
そして、蓮が同級生との仲を修復するのと時を同じくして、莉子も、だんだんと元の女友達に混ざるようになり、馴染んでいった。
「なんだよお前、買い物か?」
かごの中にはエコバッグが入っていて、食料品が覗いている。
「うん。買い忘れがあって」
莉子の弟はまだ生後二か月。美穂は授乳したり、あやしたりで忙しい。ちょっとした家事や買い物くらいなら、莉子は自分から買って出ていた。
「そういえばなんて名前だっけ。おとーと」
「志貴」
「シキ?」
「志に、貴い」
それを聞いて、蓮は思わずふふっと笑った。
「なんか、かっこつけた名前つけたな。あの平凡そうなとーさんが」
数回見ただけだが、莉子の義理の父・文也は、心配性で、常に何かにあたふたして、頼りなさそうな…優しそうなお父さんだった。
「もうデレデレだよ」
莉子は家での文也の様子について蓮に話した。
「コキ使われてるけど」
「やっぱな~」
自分の子供にデレデレになって、あれこれ世話を焼こうとして空回っている様子が、目に浮かぶようだ。
蓮は、並んで歩いている莉子を、ちらっと横目で見やった。
「お前はどうなんだよ」
「何が?」
「…」
─寂しくないのか?
と訊こうとして、さすがにそれは言えなかった。なんだか、恰好をつけてると言われそうだ。
「かわいいよ、おとーと!」
にっこりと笑う莉子の言葉には、嘘はなさそうだった。
実際、莉子は自分でも意外なほど、弟を可愛いと思っている。志貴は文也よりも、一緒にいる時間が長い莉子になついていて、よくそれで文也をからかっている。
─ならいい。
蓮は家のことについて重ねて問い正す代わりに、
「たまにはジムに来いよ」
と言った。今度は莉子が、横目で蓮を見た。
「二か月もサボってると、弱くなるぞ」
「…分かってる」
しかし、ジムへ行く頻度が減っているのは、自分も同じだ。
蓮は家に帰ると、ちらっと祖母・うめの様子を覗いてから、二階に上がった。うめはコホ、と少し、咳をしている。
宿題を少しやり、それからうめの部屋へ行く。蓮は、オムツ交換をするようになった。性別の違う祖母の下半身を目にするのは、中学生の蓮にとって長い間抵抗があったが、それでも、蓮はやるようにしている。
うめの身体を、蓮はもう苦労せずに支えられるようになった。蓮の身体は成長しているが、うめの身体は衰えている。
それから、すみれの作っておいた夕飯をあたため、まずうめの部屋へ持っていく。うめはもうほとんど自分一人では食事ができなくなっていた。
その後で自分も夕食を食べ、風呂に入る。うめは、施設で入浴したり、拭き取りをしてもらったりしているため、家では風呂に入れることはない。
テレビを見て、漫画を読み、宿題を済ませると、もうジムに行く時間はなかった。午後十時までは空いている。しかし、中学生の蓮は、その時間まで一人での外出を許されていない。
蓮はスマホを開いた。順正には、クリニックで会ったきりだ。
「ご質問はありますか?」
松下クリニックの診察室で、順正はその女性に最後に尋ねた。
「いえ。ありません」
けろっとした表情をしていた。
順正は今日の午後一で、この女性の人工妊娠中絶手術(手動真空吸引)を行った。
「おひとりで帰られますか?」
「いえ、彼が来るので、待合で待たせてもらっても良いですか?」
「ええ、いいですよ」
看護師の田中にそう言われると、女はにこっとして、順正と目を合わせた。
「ありがとうございましたっ」
女性ははつらつとした…とも言える調子で、診察室を出ていった。
「ありがとうございましたって…」
ぼそっと、田中がつぶやく。順正はカルテに視線を落としたまま、それには反応しない。
あの女性は、別の産婦人科でも、中絶手術を行っている。
中絶手術を行った後の女性の反応は、たいてい、あの女性のようではない。母体や胎児の命に関わらない事情で、中絶を選んだ女性がここに座る場合は、特にそうだ。項垂れて、医師と目を合わさず、どこか…悟ったような、諦めたような表情をする。恥ずかしさと、後悔と、罪悪感とで、自分の顔を他の者に見せられないのだ。そしてその姿勢は、その後の女性の人生にも、染みつく。だからあの女性のような反応をするほうが、少数派である。
「〇〇さん、まだ待合にいるわ」
まだ診察室の中にいる順正にも、田中と受付スタッフの話し声が、聞こえてきた。
「え…でも診療時間終わったのに…どうするの?」
「寒い中外で待たせるのもあれだし…まだ中に」
「彼が迎えに来るって言ってたけど…本当に迎えにくるのかな」
「さあ…」
順正はおもむろに、診察室を出た。
廊下を渡り、待合を見ると、先ほどの女性がまだ一番後ろの席に座って、スマホをいじっている。けろりとした表情は先ほどと変わらない。
彼女は、未婚である。迎えに来ると言った相手─彼女を妊娠させ、中絶の承諾をした男性─とは、どのような間柄なのか知らないが、早く迎えに来てもらわねば困る。
が、順正が彼女に近づく前に、入り口の自動扉が開いた。
「ごめん、遅れた…」
「あー!遅かったぁ」
彼女は跳ねるように彼に近づき、甘えるようにその胸にしなだれかかった。順正が見ていることには気が付いていない。
「ごめん…痛かった?」
「ぜーんぜん。何も覚えてないよ」
「あー、しくったなぁ。今度から気をつけるから」
「うん。いいんだよ、これでなかったことになったから」
そうして彼女は、彼に肩を抱かれながら、外に出て行った。
「…」
「…」
受付にいて、まだ事務処理の途中だったスタッフたちも、彼らのやり取りを聞いていたが、黙りこくっていた。順正もまた、まっすぐに自動扉の外に視線を向けたまま、沈黙を通した。
誰もいない待合は、がらんどうだった。
─あの女の子宮の中と同じ…
扉ごしに車が通り過ぎて行ったのを見ると、順正は待合を横切って、外に出た。
頬に当たる風が冷たい。空を見上げると、澄み切った夜空に、きらきらと星が輝いている。
─なかったことになった、か。
真にそうか。あの女の心の中もまた、がらんどうになったのではないのか。
この世で産婦人科医師だけが、命の種を摘み取ることを許されている。
中絶する女性は少なくない。順正も、もう何度もこの処置に当たる中で、若干流れ作業的になってしまうところがあるのを、否定できない。けれど決してこんなことはやりたくない。後味が良いものではない。
順正はふと、足元に一枚の紙きれが落ちていることに気が付いた。拾い上げてみると、
─妊娠は、間違いないですね。
その時あの女に渡した、一枚のエコー写真だった。
その命の影は、もうどこにもない。ただ今はまだわずかに、プラスチックケースの中にその命のかけらが残り、業者に回収されるのを待っている。
─中絶をなんとも思わない女性なんて、絶対いないよ。
松下医師は、そう言っていた。
─だから、少なくとも中絶という経験を本人が消化し、前を向いて歩いていける手伝いはしなければならない。
とはいえ、自分たちにできることは、とても限られていると、順正は思う。せめてクリニックにいる間は、本人が出す小さなサインを見逃すまいと、ひそかに心がけているのだが…
ああもあっけらかんとされると、穏やかではいられない。
順正はそのエコー写真を、白衣のポケットにしまい、唸るような音を立てながら息を吐き出した。その息は白い蒸気になって空に立ち昇った。
スタッフステーションに戻ると、岡本が忙しく書類になにか書き込んでいた。
「夏目さん、また体調悪くなっちゃったみたいですね」
浮かない顔をした順正が、無言で席に座ると、岡本が話しかけた。
「ああ」
順正は短く答えた。岡本はふうとため息をついて、
「大丈夫なんですかね…あの子」
岡本に言わせると、助産師としてやっていくには、メンタルが弱すぎる。中絶手術でショックを受けているくらいでは、この先が思いやられる。
順正は背もたれに背をもたげて、足を組んだ。そこで放心したように動かなくなってしまった順正を見て、岡本は手を止めた。
「次は、赤ちゃんを産むために、来てほしいですね」
順正は一瞬、視線だけを岡本に向けて、また正面に戻した。
「…そのために、こっちは最善を尽くしているのですから」
しかし、あの女性のあっけらかんとした顔を見た順正には…あの表情が心をそのまま映し出しているのであれば…もうここへは、来てほしくなかった。
子供は、産んで終わりではない。
岡本は黙りこくってしまった順正をちょこっと眺めてから、再び書類にペンを走らせた。
日本で行われている初期の中絶手術の手法は三種類ある。
その一つが掻爬法。スプーン状の金属の器具で子宮内を掻き出す手法だ。日本では最も一般的に行われているが、WHO(世界保健機関)は、子宮内膜を傷つけたり、子宮の壁に穴があく子宮せん孔などのリスクがあり、より安全な方法に切り替えるよう勧告を出している。
他の方法の一つが電動吸引法。金属の吸引器具を子宮内に入れ電動で吸引する手法である。しかし、これだけでは子宮の内容物を完全に取り切れないことがあり、掻爬の器具を併用することもある。
最後の一つが、手動真空吸引法。金属に比べて柔らかい、プラスチック製の簡易器具を使って手動で吸引する方法で、海外の多くの国で用いられている。大がかりな手術器具が不要だが、コストが割高である。
松下クリニックでは掻爬法による中絶手術を行っていたが、順正が来てから間もなくして、手動真空吸引法で手術するようになった。日本の中絶医療の現場で手動真空吸引法を用いている医師は少ないが、順正はそのうちの一人だった。
切り替えの話を聞いた時、助産師の間では、松下と順正の勇断であると、ひそかに二人を評価したものだ。
─堅い金属の器具で子宮の中を操作されるよりも、ソフトな器具で操作されるほうが、身体的にも精神的にも負担が少ないと思う。
その時、岡本自身もそう言った。
─手術中は麻酔をかけられていて、その感覚がないとはいえ、冷たくて硬い金属で掻き出されるのは…
しかし、順正からしてみると、使う器具が硬いか柔らかいかは、さして問題ではない。やっていることは、変わらない。これにより女性が受ける精神的ダメージは、器具が金属だったかプラスチックだったかで、軽減されるものではない。
─私たちにできることは、本人がいつか子供を望んだ時のために、なるべく傷つけないように、処置をすることだけだ。
それがどんな妊婦であっても。
切り替えに関する議論の場で、順正がそう言った時のことを、岡本はよく覚えている。あの言葉があったからこそ、みんな切り替えに対して前向きな気持ちを持てた。人使いの荒さ、同僚としての付き合いにくさを呑んで、新参の医師に歩み寄ろうという気持ちにもなった。
「フーッ」
と、ため息のような吐息を吐くと、順正はすっと立ち上がって、そのままスタッフステーションを出て行った。
─一緒の空間に座っといて、ほとんど何の言葉も交わさないの?
岡本は少し、期待を削がれたような気分だった。そういう人だと、分かっているのだけれど。
「山本さん」
あかつきの玄関の扉が開くと同時に、見目麗しい若い男に出迎えられた。その男、鞍馬は、たいてい爽やかな笑顔で接してくれるが、今日はこれまでに増して、爽やかに見えた。
「元気ですか?」
「…普通です」
自分の普通はどんなだったか、山本はすっかり忘れてしまっているが、そう答えた。
「すみません、さっき暖房入れたばっかりなんで、寒いですけど」
「…構いません」
居間に入ると、なるほど、少し寒かったが、もともと山本はそう寒がりな体質でもない。
「へえ、羨ましいです。僕、ちょっと寒がりなんで」
「…その割には、バイクで来てますよね」
「あ、わかりました?」
「はい。ホンダのVTR250なんすね。僕が一つ前に乗ってたやつが、それです」
中古ですけど、と山本はぼそっと付け加えた。
「山本さんも、バイク乗るんですね」
「はい。でもツーリングすることもなくて、出勤するのに乗るくらいになっちゃったから、スクーターに乗り換えました」
とはいえ、バイクは好きらしい。
鞍馬は前もって考えて来た、ブレイクアウトの内容は脇に置いておいて、しばしバイクの話に花を咲かせた。
山本は少しずつ、ほんの少しずつであるが、鞍馬に自分のことを話すようになっていた。
「じゃ、今日は、体を温めるために、ちょっと激し目のヨガにしてみますか」
「え…心配です」
「大丈夫です。ちょっと激し目、ですから」
鞍馬はそう言ってまたにっこりした。
ヨガが終わると、玄関まで山本を送る。
「あ、もしかして、今日で今年最後?」
来る日にちや曜日は固定したくないと言っていたものの、山本は二週に一回のペースで、水曜日にレッスンを受けていた。
山本は鞍馬に言われて、初めて今年最後のレッスンだったということに気が付いた。
「…年明けは、さすがにここ、営業してないですよね」
と訊かれて、年末年始の自分の予定がどうだったか、鞍馬は少しの間記憶を探った。結果、思い出せない。
「あかつきは、営業してます」
が、山本が来ることを見越して、なんとなく、予定を開けていたようにも思えなくもない。
「もしお正月にもヨガをしたかったら、遠慮なくおっしゃってください」
にっこりして、山本にそう言った。
「…良いお年を」
「良いお年を」
暮れの挨拶をして山本を送り出すと、鞍馬は居間に戻った。
「ん?」
甘いにおいがすると思ったら、杏奈が大きな鍋を応接間の長テーブルの上に置いたところだった。
「鞍馬さんも食べていきませんか?」
そして朝食の誘いを受ける。
「なんですか?これ」
「りんごです」
鍋の中に入っているのは、茶色っぽい濁った液体に浸かっている、くたくたになったりんごだった。りんごであることはすぐに分かったが、なぜこの状態にしているのかが聞きたかった。
「いい匂い」
ホール側の扉が開いて、美津子が応接間に入るなり、そう言った。机の上の鍋の中を覗き込むなり、
「ギー使った?」
「はい。ギーとシナモン、レーズンが入ったりんごの煮物です」
「冬っぽいわね」
ギーもシナモンも、ヴァータに良い。りんごも旬だ。
「朝食、これっすか?」
「はい」
「…」
鞍馬は、やはりこの女のことが、理解できない。
「あでも、今日は玄米とクルミのパンがあるんです。いただき物ですけれども」
「…あそれは、いいですね」
「はい。本当はフルーツはフルーツだけっていうのが掟なんですけど…十二月は、濃い赤、茶色、紫色の食べ物がいいですよ」
「へえ。なぜです?」
「ラクタを形成します」
さらに適量の甘味と塩味は、身体を潤す、ということで、少量の岩塩を入れたと得意げに話す杏奈を見て、
─聞いたおれがばかだった。
ということを鞍馬は思い知った。
「りんごは、合宿に行った時に買った、無農薬栽培のシナノスイートです。これが最後…」
やはり、このりんごもゲイルが栽培したものだった。
「あ、どうでした合宿」
そういえば、改めてその様子を聞いたことがなかった。杏奈は「うーん」と言いながら席に座って、
「まず、食べましょう。温かいうちに」
「くっ」
─食べるのか。このしなしなになった生暖かいりんごを…
しかも、美津子と杏奈という、鞍馬にとっては異人種に感じる人たちと一緒に。
しかし、りんごの煮物は思っていたより美味しかった。
「で、どうだったんです。ヨガニドラは」
「ええと…いろんな切り口があって…どこから話したらいいのか…」
もたもたと話す杏奈が、鞍馬にはちょっと面倒くさい。
ヨガニドラに大して興味がなかった鞍馬だが、杏奈が習得しに出掛けたことを聞いてから、急に興味をもった。
「アーユルヴェーダでも睡眠は健康の四つの柱のうちの一つで…」
「人がなぜ眠るのかなんてことは考えたことなかったんですが…」
「大願の設定っていうのがまた難しくて…」
「ステップがあるんですけど、これを自然に踏むのがまた…」
「鞍馬さんもご存知だとは思いますけど、まず体の部分に順番に意識を向けるんです。指先、手の平、手の甲…」
杏奈がぐだぐだと話しているうちに、鞍馬は眠気を覚えた。
「杏奈さん」
「はい」
「よく分かんないですけど、なんか、杏奈さんにはヨガニドラ、向いてる気がします」
「ほんとですか?」
今まさに、あんたの声で眠くなってんだよ、という言葉を飲み込みながら、鞍馬は心の中でため息ついた。嫌味を嫌味と気づかず、軽ーく楽観的に受け流していく杏奈は、やはり自分とは別人種だと感じる。
傍で二人のやり取りを聞いていた美津子は、肩を震わせて笑うばかりだった。
美津子はこの日、自室にこもって、経理処理や、今年一年の振り返りを進めていた。
三月からあかつきのサービスを刷新させるべく準備を進めているが、年末から確定申告のある三月までは、それでなくとも忙しい時期だった。できることは早めにやっておかなければならない。
─それにしても…
やはり鞍馬は、あかつきに欠かせない人材の一人になっている。なんだかんだ言って、山本の様子をしっかりと見守っているし、スタッフたちとも、うまくやっている。
それに、あの綺麗な顔で優しく微笑みかけられたら、男女関係なく、やっぱり嬉しいと思うだろう。あの人に会いたい。あの人に会うだけで元気がもらえる。人からそう思ってもらえるカリスマ性が、鞍馬にはあると思った。
何より、鞍馬には、少し前にはなかった、ある素養が身についてきている。それが身に着いたのは、あかつき大作戦の頃だろう。
無茶な企画だとは思ったが、あかつき大作戦はあかつきの内部にも、大きな影響を与えたのだ。
─無茶な企画といえば…
美津子は数日前に杏奈から聞いた「考えていること」を思い出した。その構想を可視化してよこせと言ったら、次の日にはメモ書きを渡された。
美津子は今、ノートに貼り付けたそのメモ書きに視線を落としている。そこに書いてあることを見て、
─こんなこと、本当に指導できるのだろうか。
と思う。
杏奈が考えた、その企画の内容をざっくりと言えば、健全な赤ちゃんを授かり、産むためのアーユルヴェーダとヨガの指導、だった。
決められた期間に、妊活のためのアーユルヴェーダの知恵を、順序立てて教育し、生活指導を行う。あかつきへの滞在を促すものではなく、家にいながら、オンラインでコンサルや教育をし、ヨガや料理教室に参加してもらう。サポート期間は、六カ月。
ただし、受講条件がある。妊娠するのが目的の人は、この講座を受けてはならない。そうではなく、この講座の目的は、もっとも健康で、自分らしい自分で、人生を歩めるようになること。もしかしたらその先に、妊娠という一つの目的が果たされるかもしれないが、本質的な目的は別のところにあると、最初に釘を刺しておく。
─悪くはない。
あかつきで様々なクライアントを見て、どのようなアプローチが最も効果的か、杏奈は自分なりに考察してきたのだろう。
しかし、妊娠をゴールとしないと銘打っておきながら、実際には、妊娠を求めてやってくる人たちを相手にするのだ。
─デリケートな話題だけに、うまくいかなかった時のあたりはきつい…
第一、自分だったらこの講座は、やりにくいと思う。美津子自身は、妊娠も出産もしたことがないからだ。頭では理解しているつもりであっても、経験をもって語れない。クライアントの気持ちを、分かってあげられないかもしれない。自分がかかったことのない疾患にかかっているクライアントを、今でも相手にしているので、今更ではあるが…
─でも、妊娠を望む女性の熱意は、他とは違うものがある…
妊活、妊娠、出産、mama、baby…
そんなキーワードを目にするだけで、クライアントはやはりそれに執着してしまうだろう。ゴールにしてしまうだろう。
─杏奈は、まだ若い…
今後、杏奈自身がこのテーマに、身をもって臨む時がくるかもしれない。
─このテーマでの開講は、それからでも良いのではないか…
今の時点では、美津子には、そう思えるのだった。
一方、美津子には分かる。杏奈がどうしてこれをやりたいか。
そして、この企画を通して全力を出し切り、納得するまでは、杏奈自身が当事者となってこのテーマに当たることは、ないような気もする…
うめが体調を崩し、入院したのは、山本があかつきを訪れた日と同じ、水曜のことだった。肺炎になりかけているらしい。
そして金曜、昼過ぎ。終業式を終えた蓮が、母・すみれと昼食を終えた頃、珍しい人が押しかけてきた。うめの長男でありすみれの弟である男と、その妻であった。つまり、蓮の叔父と叔母である。
すみれは二人を和室に通し、お茶を用意しに台所に立つ。
「母さん」
声で誰だか察した蓮は、すみれに訊いた。
「おれも会ったほうがいい?」
すみれは急須に新しい茶葉を入れながら、
「あんたは一緒におらんくてもいいよ。でもまあ、挨拶くらいは」
そこで蓮は、和室に挨拶だけしに行った。
「大きくなったな」
「ほんとう。だんだん…お父さんに似てきたんじゃない?」
「そうだっけ。もうどんな顔だったか忘れちまったなぁ」
「あんた」
妻に小突かれている叔父に軽く会釈すると、蓮は二階の階段に足をかけた。
うめが倒れたのは、蓮がまだ幼い頃で、蓮は詳しい経緯は知らない。そして、実の子でありながら、今までほとんどうめの様子を見に訪れなかったこの夫婦のことを、蓮は好きにはなれなかった。
─だからといって…
親戚の前で愛想よくできないところが子供だなと、蓮は自覚している。
蓮は階段を登り切らず、低段に座って、和室からの会話に耳を澄ませた。二人は今、豊橋に住んでいるが、うめの入院の話を聞いて駆けつけたとのことである。
「ごめんね。私、今日夜勤だもんで、病院についてったれんけど…」
「ええよ。ついでに持ってくもんあれば持ってったるで」
その後は、四方山話ばかり。なんの話をしに来たのかと思ったが、これでは聞いている甲斐もない。蓮は退屈して、自室に入ろうと、再び立ち上がった。
「ところで、母さんの遺言はあるの?」
ぴたりと、蓮は足を止めた。
「そんなのないよ」
認知症のうめに、遺言など書けるはずがない。倒れる前にも、それを書いていたとは思えなかった。何しろ、急に倒れたのだから。
─遺言…
蓮は再び、音を立てないように階段に座った。
うめの子である二人の間で相続争いが起こるほど、うめに大した財産があるとは思えなかった。しかし、もしこの場で諍いが起こりそうなのであれば、蓮は、すみれに加勢しなければならない。
─母さんが損をするようなことは…
それだけは、見過ごせない。
「なんで肺炎になったの」
と、今度はこの度のすみれの体調不良の経緯について、叔父が尋ねた。
「さあ。空気が冷たいし、乾燥しとるからね」
数日前に咳をするようになったと思ったら、それから先は早かった。
「あの部屋がさみいんじゃないの?」
叔父は、彼の実家でもあるこの家の構造をよく分かっている。
「暖かくしてるよ。ちゃんとエアコンつけとるし」
「そしたら乾燥してまうで」
ちっと蓮は舌打ちした。だから、加湿器だって置いている。…水の入替をたまに忘れてしまうことは、否めないけれど。
「やっぱ、はよ施設に入居させた方がよかったんでねえの?」
「そうもいかんよ。あんた、そんなお金がどこにあるの」
「けど、車から降りたり乗ったり…それで外の空気に当たっとるうちに、風邪引いてまったんでねえか」
─だったら、お前が入所代払えよ。
ちくちくと、叔父にすみれの介護方法に難癖をつけられるのは、蓮にとって不快だった。
確かに、蓮自身もうめを介護施設に入れたほうがいいと思ったこともあった。それをしないのはすみれのエゴだとも。けれど、うちにはその余裕がなかったのだと、蓮は今になって、この家の経済的な側面に気が付いた。
─なんにも知らないくせに。
父が死んでから、収入源はすみれの給料のみになった。すみれは一人で、蓮を養いながら、すみれの介護医療費を払い続けてきたのだ。
「あんた、やめときゃあ」
次に聞えたのは、叔母の声だった。
「看護師さんだで、お義母さんのことを任せても安心だと思っとったけど、様子見にくるのが遅くなったのはこっちの非だで」
─はあ?
蓮は怒りがメラメラと燃え上がってくるのを感じた。様子なんか見に来る気もなかったくせに、いかにもそうだったフリをして、母を非難する気か。
「まあ、仕事じゃしっかりやらなかんけど、自宅介護は、別に誰が見とるわけでもないしなぁ…」
蓮は拳を握った。
─なんで…。
なぜ、すみれは言い返さない。うるせえ、お前ら調子のいい時にだけ現れやがって。どうしてそう、啖呵を切らない。それが大人だということなのか。
「ま、おふくろもそう長くねえだろうからよ」
叔父がそう言ってからほんの少し、間があった。
「最期に良い食べ物や、寝具なんかを、揃えたってくれよ」
「あんた、いいわ。こんなの」
蓮は眉をひそめた。和室で何が起こっているか、見なくても分かった。
蓮はずかずかと廊下を歩み、和室の襖をさっと開けると、びっくりした様子でこちらを振り返る三人の視線をものともせず、座卓の端に座った。
「ごめん、お茶取りに来たら、声が聞こえてきて…」
すみれは、視線を座卓に落とした。叔母はもじもじと身をよじった。
「介護が行き届かないのは、家にいるくせに、介護を手伝わないおれのせいなんです」
蓮は努めて、冷静に、静かに言い放った。すみれは目を細めた。
「叔父さん、そういうことだから、母さんを責めるのはちょっと違うよ」
「蓮」
「…」
すみれは押し殺したような声で、蓮を諫めた。蓮はまっすぐに叔父の顔を見やった。
「まあ、お前はまだ子供だで」
「…」
「なんなら、この金をこの子のために使ってやってもいいでよ」
そう言って、叔父は薄っぺらい封筒を座卓に乗せ、指ですみれのほうに滑らせた。蓮は、その叔父の手首をがっと掴み、押し戻した。
─こんなんで今までばあちゃんの面倒を看に来なかった、あんたの罪悪感が清算されると思うなよ。
叔父の手は、少し震えた。存外に強い力に、驚いた、というところだろう。
すみれは頭を垂れていたが、目を見開いた。叔母も戸惑った表情で、蓮と叔父を交互に見ている。
「いいよ叔父さん。おれもあと一年もしたら、働ける」
怒りに燃えた目でまっすぐに叔父を捉えたまま、蓮の声だけは冷静だった。少し力を込めて、手首を振り離すと、
「ふん」
叔父の眉間にも一瞬、深い縦皺が寄った。
「こんな田舎に、高校生を雇う職場があればな」
「…」
最後に皮肉を浴びせると、叔父は封筒を叔母に渡した。
それから茶を飲むと、そそくさと、二人は帰っていった。
蓮は玄関まで見送らず、空いた湯呑と急須を台所へ持って行った。足音がして、すみれがこちらに近づいてくるのが分かった。怒られるだろうか。
「塩取って」
しかし、すみれが最初に発した言葉は、それであった。
蓮はおそるおそる塩の入ったいれものを渡すと、すみれはむんずとそれを掴み、荒々しい足取りでまた玄関に戻っていく。蓮もそれを追いかけた。すみれは玄関から一歩だけ外に足を踏み出し、塩をつまむと、バッとそれを庭に蒔いた。
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