東京で会社員をしていた頃、杏奈はほぼ毎日弁当を作った。尾形と同棲していた頃は、彼の分も一緒に。休憩時間がかぶらないので、同じものを食べていることを同僚に気付かれる心配はなかった。
献立は極力マンネリ化しないように気をつけていたが、よく作ったのは、玉子焼き、豚肉とピーマンの炒め物。なるべく手作りしたいのだが、夜のうちに作るので、疲れている時はスーパーで買ってきた惣菜を詰めるだけになってしまう。
─ただいま。
ぼんやりした意識の中で、尾形の声が聞えた。夜九時を過ぎて、仕事から帰って来たところだ。たぶん。
─遅くなってごめんね。
─おかえり。
と言って尾形に抱きつきながら、心の中で冷静に分析する自分がいる。尾形がこのくらいの時間に帰って来るのは、自分に早く会いたいからではなく、午後九時からのドラマを見るためなのだ、と。そしてそう思っている自分を、さらに冷静に見ている別の自分がいる。
杏奈は尾形がテレビを見ている間、翌日のお弁当のためにお米を研いだ。メインのおかずにメンチカツを買っておいたので、明日の朝卵焼きを作って、ブロッコリーを詰めれば十分だろう。
今度は杏奈は、別のところにいた。
通い慣れた、かつてのオフィス。ふと尾形を見ると、相変わらず身を乗り出すようにして、夢中でパソコンの画面に喰らいついている。尾形宛ての電話も頻繁にかかってきて、忙しい時は三分に一回くらいは尾形に電話が回されているような印象だ。
杏奈は会社用パソコン内のコミュニケーションツールである「チャットワーク」を尾形とつなぐ。
―お昼食べた?
杏奈はそう打ち込むと、返事が返ってくる前に、別の作業をした。
―まだ。
尾形から返事が帰って来た。
豚キムチとコロッケ、そして卵焼きのお弁当。
尾形はいつも休憩する時間がないと言う。同じ部署の他のメンバーの中には、もっと暇な者もいる。もう少し、仕事を分担できないのだろうか。
―セキュリティーカードの件で守衛からメールがきてる。やるね。
―ありがとう。
杏奈はこんな風に、度々尾形に変わって各問い合わせに対応した。
尾形と暮らし始めてから、毎日、何を食べるかを考えるのは杏奈だった。料理は嫌いではないし、簡単なものであっても、お弁当という形に整えて尾形に渡す時、充足感を抱いた。好きな男を、料理で喜ばせるのが好きなのだ。
尾形は杏奈の作るもの、買ってくるものに文句を言ったことは一度もなかった。疲れている時にはやらなくていいと言ってくれるし、洗い物もしてくれる。
杏奈は尾形が大好きだった。
仕事が忙しくても、弁当のおかずを買ってくるのは忘れない。
杏奈は自分の習慣から離れようとはしなかった。習慣を一つ一つこなすことは、心を安らかにさせてくれる。
しかし、そんな小さな日々の習慣すら守れなかった時が、一度だけあった。
それは…
フーッ。
細く長く吐き出した息が、白い蒸気となって消えていく。
杏奈はアカガシの木の下にいた。
ヨガニドラの長いガイドを聞いていたら、途中からまどろんでしまい、しばらく見ることのなかった幻影を見た。
尾形の顔など、もう、明確に思い出せなくなっているというのに。
それにしても、自分は男が家に帰ってきたら「おかえり」なんて言ってぎゅっと抱き着くような女だったのだろうか。今や見る影もない。それはただ対象がいないからなのか。
男という生き物にほとほと愛想が尽きたからなのか。自分が可愛い女ではなくなったからなのか。そもそもそういう性質ではなく、あの時が異常だったのか。分析してもしょうがないようなことを考えてしまう頭を振り、杏奈はノートに視線を落とした。このような幻影を見るのは、潜在意識の中に、未だに彼との記憶を色濃く残しているということなのか。
─意味深なものを、見せてくれる。
それはゲイルのヨガニドラが優れているということにしていいのか…
前にも感じたことだが、ヨガニドラのガイダンスの内容も大事だが、同じくらい重要な要素がある。
音だ。
単純にガイドしている者の声質、BGMが好きかどうか。これも集中力に大きな影響を与える。ゲイルの声は鈴のような高い音色で、杏奈にとって聞き心地がよかった。
─声、か。
杏奈が新任の頃、尾形が自分の後ろについて、耳元で話をする。その声がきっかけで、心がざわつき始めた。次に恋をするとしたら、それもまた、声から始まるのだろうか。
─なぜこんなことを考えているのか。
杏奈は、その答えが、あの知らせにあると思った。
咲子の妊娠。
それが、杏奈の中で、一つの区切りになったのかもしれない。過去に終止符を打ち、前に進んで良いという、きっかけに。
─浮かれてる…
杏奈はまた、自嘲するように笑う。咲子が妊娠したのは、自分一人の功でも、ましてや、あかつきの功でさえ、あるとはいえないだろうに。
けれど、あの知らせは、確実に杏奈の心を明るくした。
─声…といえば。
と、意識は再びそこへ飛ぶ。
─なんでここにいるの?
杏奈は大きく頭を振った。確かに、その低く落ち着いた声は好みだけれど。
─犬の散歩だよ。
その声に、少し柔らかさが混じると、さらに温かく包まれるような心地よさを感じるけれど。
「…」
杏奈は、ちょこっと後ろを振り返った。この間、あのひとは確かに、この木の幹一本を挟んで後ろにいた。
今日は日曜日だが…
─忙しいのかな。
最近順正は、あかつきに来ない。
その頃美津子は、上沢まで車を運転していた。仕事に少し余裕が出て、少し足を延ばして、いつもと趣向の異なる花でも仕入れようかと思ったのである。
駐車場に車を停めるために減速しながら、花屋のほうに視線を向けた時、
─あら?
嫌な予感がした。シャッターは下ろされていないが、店は薄暗く、入り口に張り紙のようなものがある。今日は定休日ではないはずだが、まさか休みだろうか。
「…」
─しばらく休業します
走り書きのような字で、短くそう書いてあった。
ガラス越しに見える店内に、生花はほとんどなく、生けてある花もしおれて見えた。
「師長」
受付スタッフの堀場が診察室近くまで歩いてきて、
「先ほど、遠藤さんからお電話がありました」
看護師長におずおずと話しかけた。
「転院したいそうです…」
「…そう」
その声は、診察室の中にいる順正にも聞こえていた。
母体死の一件以来、過疎地域を支えるこの小さなクリニックから転院したいと申し出た妊婦は、これで三人目だった。
それ以外にも、母体死の経緯を知りたがる妊婦はたくさんいる。クリニック側の処置ミスであったのかどうか、知りたいからだ。近い未来にやってくる自分のお産を担当するのも、このクリニックの医師と、助産師、看護師たちなのだ。
事情を説明すると、納得する妊婦も多かった。しかし、出産というものが死と隣り合わせだということに、必要以上の意識を抱き、出産前に不安や恐れの色を濃くする者も多い。
─羊水塞栓症…
吉川香織の解剖結果が分かった時、松下は額に手を当てて、気が抜けたように息を吐いた。
羊水塞栓症は約六~八万件の分娩に一例と、きわめて稀な疾患である。羊水塞栓症は羊水成分(羊水、羊水中胎児由来細胞、胎便など)が母体血中に流入し、急性呼吸循環不全をきたす疾患あるいは症候群と定義される。近年では、物理的塞栓により発症するという考え方だけでは本症の病態を説明できないとされ、種々のサイトカインやケモカインが本症に関与することも示されている。
─予測はできないの?
夫である松下から結果を告げられた時、敬子はそう訊いた。
─予測はできない。
羊水塞栓症は、いまだに病因が明らかになっていない。発症の予知もできないし、予防方法も明らかになっていない。
確立が低いというだけで、妊娠すれば誰でも、特に合併症のない妊婦でさえ、羊水塞栓症を発症する可能性があるのだ。
─妊産婦死亡の中で最も割合の多い、周産期医学に残された重要な未解決疾患だよ…
典型的な臨床経過は。
妊産婦が分娩第一期後半あるいは分娩直後に、突然呼吸不全、循環不全を起こし、DIC(播種性血管内凝固)が起こり血が止まらなくなる。そして多くは意識の回復せぬまま、死の転帰をとる。
初発症状として、呼吸困難や胸痛がよく知られているものの、必発するものでない。発症後、ショックから心停止と急速に進行する症例は多く、一時間以内に半数が死亡するといわれる。
─死亡率は約六十~八十パーセント。
─はちじゅう…
敬子は眉をひそめた。
─じゃあ、一次医療機関から高次医療機関に母体搬送するような時間の余裕は…
─全くない。
敬子は、安心したように息を吐いた。この事態に安心、というのは不適切かもしれないが、適切に処置が行われていなかったとみなされれば、クリニックの経営問題につながる。
─帝王切開中とか、たまたま手術室内で発症して、発症現場に麻酔科医がいて、発症直後から蘇生の専門家が治療したとしても、助かるとは限らない。
─でもそれが…
─そう。だからといって…
遺族が納得するとは限らない。
敬子は今、松下クリニックのスタッフステーションで、書類の整理をしていた。
─地獄のような一日でした…
そう言った時、鈴木は涙を流していた。あの日、激昂する吉川(夫)に経緯を説明し、泣き騒ぐ子供をなだめながら、新生児に処置をし、各機関に連絡を取り…
そして、あのおびただしい血が流された分娩室の掃除をした。鈴木は何も考えられなかった。感情を捨て、ただ、淡々と処理を進めていくしかなかった。
あの日からずっと、夏目は出勤していない。当日居合わせた田中も、それ以外の者も、誰もが今回の一件でショックを受けている。
こちら側の対処に、特に非がなかったのは、クリニックとしてはせめてもの救いである。しかし、通院している妊婦は不安を抱くようになってしまった。
─悪かった。
松下は、事態がいったん落ち着きを見せた頃、改めて順正に詫びた。
─僕が最初からいてやれず…すまなかった。
─たぶん、誰がいても、何もできませんでした。
順正は淡々と告げた。感情があまり顔に出ないのはいつものことなのに、その時、敬子は無償にやるせなさを感じた。
「…!」
敬子はハッとして、席を立った。今何か、物音が聞こたえた気がする。
「ふざけんなっ」
待合で、妊婦や他の患者がいる前で、吉川弘は受付スタッフに怒鳴り込んでいた。騒ぎを聞きつけて、看護師長や草壁、順正までもが、診察室から出てきている。
「てめぇらがここにいなかったら、助かったんじゃねえの!?」
弘は、カウンターに置かれていた備品を、手当たり次第に投げ落とした。今度は弘は、看護師、助産師、そして順正に正面から向き合う形で立って、
「お前らがここにいなかったら、最初から大きい病院に通ったよ」
そう言いながら、詰め寄った。
待合にいた妊婦たちはカウンターから離れたところに身を寄せていた。
「もともと大きい病院で看てもらってれば…もっと早く大勢の医師に看てもらえていれば…助かったんじゃねえの?」
看護師長と草壁は、すごい剣幕で騒ぎ立てる弘に何も言えなかった。
─うちがなくなったら…そもそも妊娠・出産をする世代の家族は、この地域から消え失せる。
─今回はあっという間に大量出血になった…大きい病院にいたって、助からなかった可能性は高い。
本当は、そう言い返すことはできた。しかし、誰もそんなことは言えなかった。顔を苦渋の表情に歪める弘に対し、みな、恐れと同時に、深い憐れみの気持ちを抱いていた。
「吉川さん」
順正はいたっていつも通りに、静かに言った。
「ここは、他の患者さん方もいらっしゃいますから、別室で…」
順正は吉川の目の前まで歩み寄り、診察室の隅に身を寄せている妊婦たちをちらっと視界に入れた。
「うるせぇよっ」
しかし、吉川は、ともすれば、順正に手を挙げるのではないかという権幕で怒鳴りがかった。
「お前だろっ。お前の処置が適切じゃなかったせいで、あいつは死んだんだろ!」
「吉川さん、それ以上は…」
看護師長は血相変えて二人に近づいた。吉川は順正の胸ぐらにつかみがかっていた。
─業務妨害になります…!
しかし、その言葉は、看護師長の口からは出なかった。吉川には、それほど深い同情が向けられていた。
順正は胸ぐらをつかまれても、びくとも動かなかったし、表情も変わることがなかった。そのことが、余計に吉川を逆上させる。
吉川が目を怒らせ、拳を振り上げるのを見て、その場にいた者たちは息を呑んだが、順正はそれでも動かなかった。吉川の目から読み取れるのは激しい動揺だった。彼はもう、どうしていいのか分からず、がむしゃらに体を動かして、心の動揺をいなしているのだ。そんな風に、冷静に吉川を観察している自分がいた。
「やめてください!」
看護師長の声と、三人のほうへ走り寄ってきたもう一人の声が重なった。もう一人の声の主は敬子だった。
「吉川さん、お願いです。妊婦さんたちもいますから。別室で、お話を伺いますから!」
敬子は順正にぴたりと寄り添うようにして、そこへ吉川に向き合った。吉川が順正を殴れば、敬子も巻き添えを食らうような立ち位置だ。看護師長が吉川を別室へ誘導しようとするのを振り切り、吉川は嵐のようにクリニックを去って行った。
「…追って、話をしますか」
「先生は、診察があるでしょ」
敬子は、小声で諭すように順正に言った。
待合室で待っていた妊婦たちには敬子が謝罪をし、その後、一度診察室へ入った。
「順ちゃん」
順正は次の妊婦のカルテを手元に置きながら、パソコンの画面を見ていたが、どこか虚ろな表情だった。
「…ん、大丈夫?なんだったら、うちの人を呼んで診察を代わってもらいましょうか」
敬子は順正の傍に歩み寄った。
「あんなことを言われて、動揺したでしょう」
妊婦も、今しがたあの光景を見聞きした後で、順正から診察を受けるのを不安がるかもしれない。
「…」
順正は視線をパソコンに向けたままだった。一度彼の肩が上がり、それからすっと下りた。
「痛いところを突かれたな…」
「…え?」
なんのことか、敬子にはすぐに分かった。松下もあの一件以来、最も心を悩ませていたことがあったから。
「敬子さん」
と、順正は、自分に言うように言った。
「診察は、今日だけじゃなく、明日も明後日も、ずっと続きますから」
いちいち松下に代わってもらっていたのでは、限がない。
「すみませんが、出てもらえますか」
「…そうですね」
「はい。患者を待たせてますから。僕は動揺してはいないですし」
「そんなわけがないでしょう?」
敬子は少し声を荒げていた。順正は、最後の一言が余計だったと思い悔やんだ。
椅子の向きをくるりと変えて敬子に向き合うと、
「今こそ、ソーシャルワーカーのサポートが必要だと思います」
それは、敬子の仕事だった。ここから先、弘に寄り添えるのは医師ではない。
「…そうよ。でも、まともにお話できない状況なの」
「あの方が受けられる支援は、いくつもありますよね」
「ええ。基本的な手当てや減免、助成、上沢市の取り組みでシッターや家事代行のサービスを受けられる制度もあるわ」
「じゃあ吉川さんが次にいらしたら、なんとしても捕まえて、その話をしましょう」
敬子はぐっと詰まった。順正のメンタルを気遣ったつもりが、逆に早くお前の仕事をせよと促されたような感じだ。
「吉川夫妻の両親はどちらも、離れたところに住んでいます」
「…」
「今日は誰に預けてきたのか知りませんけど…あの方は、ここに殴り込みに来ている暇なんて、本来ないはずだ」
足元の生活がある。なのに、前を向いて歩けていない。起こったことを、受け止めきれていない。
彼の気持ちを受け止め、心のケアをし、これから子供たちを健やかに育てていく支援をするのは、残念ながら、産科ではない。だが敬子は、この松下クリニックの中で唯一、その後の支援までできる立ち位置にいる。
「お願いします。僕も、今度吉川さんがいらしたら、無理やりにでも、談話室へ連れていきます」
敬子は、少しの間じいっと順正の顔を見ていた。何にもなかったかのような、何も感じていないかのような、落ち着き払った顔を見ると、敬子はやはりやるせない気持ちになる。
敬子には分かっている。表面的に見えているものが全てではないと。冷静なのと、何も感じていないのとは、違う。
「先生、もう診察、いいですか」
草壁が診察室に顔を覗かせ、ひそひそと訊いた。
「少し待て」
順正は敬子から目を離さぬまま、静かに言った。
敬子は目をつむって、一度大きく息を吸い、ゆっくりと息を吐き出した。
「分かりました」
それから目を開け、
「でも、無理やりはだめですよ」
と、釘を刺した。
「あれ?美津子さんは?」
小須賀はキョロキョロと応接間を見渡した。
「昼ご飯デシャップに置いたまま、ずっと取りに来ないんだけど」
「さっきご縁さまが来て、自室に入られましたよ」
杏奈がさらっと答えた。施術着姿の沙羅が、その隣でまかないを食べている。
「美津子さんの部屋に?」
そう言うと小須賀は、目を細めた。下世話なことを考えている顔だな、と沙羅は思った。
「ずい分久しぶりじゃない?あのお坊さん来るの」
「ええ」
「あかつき創立に関わったくらい、深いい関係なんだよね」
「深いいって…」
沙羅はさらに怪訝な顔をした。何を邪推しているのか。
「何の話しに来たの?」
「知りませんよ」
沙羅はにべもなく答えた。
その隣で事務作業をしていた杏奈はタイピングする手を止め、
「でも、最近美津子さん、元気がないように見えませんか」
一日中一緒にいる杏奈は、特にそう感じる。
三人はちょっと、沈黙した。
「お茶でも持ってくか…」
座卓にお茶を置くと、小須賀は美津子の部屋を出て、襖を閉めた。前室の襖を開くと、杏奈と沙羅が忍び足で前室に入った。そのまま、そこで息をひそめる。
─さっむ。
暖房をつけていない前室は、いやに寒い。そこで三人縮こまって、美津子と加藤の会話に耳を傾けるなど、悪趣味もいいところだ。気づかれたらなんとするのか。
「…そうか。ミツはその店に、行ったことがあるのか」
「はい」
会話をする二人の声からは、浮ついた感じは全くしない。
─深いい話なんかしてるように思えませんけど?
沙羅はすでにこの場を出て行った方が良いのではないかという気がしている。
「足込町ではちょっと仕入れられないような、アーバンな感じのする花を売っているお店で」
「仏花をその店で買っていたという人から、その噂を聞いて…ミツには何か連絡があったかと」
「なにも」
前室にいる三人は、顔を見合わせ、首を傾げた。なんのことか、てんで分からない。
「けれど、産科であれば、全くない話ではないじゃありませんか」
「ああ。だが、旦那さんのほうが、怒鳴り込んできているらしい」
「…」
「クリニックの評判に、関わる話にならないといいのだが」
「…ミスがあったのですか?」
「分からない」
そこまで聞くと、前室にいる三人にも、あかつきの顧問医である順正の勤務先が話題になっていると、なんとなく分かった。
─医療ミスがあったの?
それで、誰かが死んだのだろうか。
「…訴訟にかけられているんですか?」
美津子の声は、緊張をはらんでいた。最近の美津子の憂鬱な感じは、これが原因か。
杏奈は耳をそばだたせた。
加藤の声は聞こえない。どんな表情をしているのか、どんな動きを見せているのか、前室にいる三人には分からなかった。
「…連絡を取ってみようかしら」
途方に暮れたような、美津子の声。前室の三人は顔を見合わせた。
「…ミツ、すまん」
加藤の声が、低く響いた。
「情報が不確定なまま、お前にこんな話をしてしまった」
「いいえ。ご縁さまも、それだけ心配だったんですね」
「…」
「あの子は、私たちが─」
ぷつんと、会話が切れた。
何が起こっているのだろう。
小須賀、沙羅、杏奈の三人は金縛りにあったようにそこから動けなくなった。
と、その時。
ぴしゃっ
勢いよく美津子の部屋の襖が開き、聞き耳を立てていた三人はびくっと体を震わせた。
襖を開けたのは、加藤だった。上背のある加藤に見下ろされると、かなり威圧感があった。
「…すみません、お茶のお替りが必要か聞きにきました」
小須賀が、しれっと、かなり無理がある言い訳をした。
「三人でか」
「…」
「お茶は、もういいよ」
そう言った加藤の声は、いつもと変わらず朗らかだったし、表情も柔和であった。
三人はしずしずと応接間に戻った。
「…なんか、大変なことになってるみたいですね」
沙羅が最初に口を開いた。だが、詳しい状況はよく分からない。
杏奈の感覚は、あかつきにいながら、アカガシの木の下で感じるにおいを呼び戻していた。順正は、人に厳しい言葉を浴びせるが、おそらく、自分にはもっと厳しい。自分の仕事に対しても、妥協することはなかっただろう。過疎地域の貴重な産科として現場を支えるだけに甘んじず、研究を進め、必要な論文は三年で千本読むと言っていた。患者である莉子を、遠回しに気にかける素振りも見せていた。
その努力や仕事に対する態度を知っているからこそ、美津子と加藤との話は、杏奈の心にも陰を落とした。
「でも、医療ミスとかなら、多少ニュースにもなってるんじゃない?」
小須賀がさっぱりとした口調で言った。けれど、そのようなニュースはネットにも出ていない。
─そうなのか…。
小須賀の話を聞いて、杏奈は少しほっとした。
「噂があるのかなんなのか知らないけど、あのお医者さんがヘマするとも思えないしな」
「まあ、最初はネガティヴな噂が広がるものですしね。他者に対し優しい地域ですから、本当のことが分かれば、自然と悪い噂は消えますよ」
沙羅も楽観的な意見を述べた。
「ま、仮に本当にやばいことが起こってたとしても、新城にも産科はありますしね」
小須賀の言葉に、沙羅も、杏奈もしばし沈黙した。
「…うーん。までもクリニックがなくなったら困りますよ」
そう言ったのは沙羅だった。
「上沢に松下クリニックがあるから、上沢や足込出身の妊婦さんたちは、仕事を諦めずに、里帰りを諦めずに、地元に残っていることができるんですから」
「…そうなんですか?」
市街地である長久手出身での杏奈は、沙羅の言っていることがすぐに腑に落ちない。
沙羅はこくりと頷く。
「町を出れば、産科は他にもあります。けれど、この山間部で、少し町を出るということがどれだけ大変か…」
町までは距離があるし、時間がかかる。冬期、朝夕ともなれば、路面凍結が起こる。大切な命を宿しながら、遠くまで移動するのは精神的にも、肉体的にもかなり負担がかかる。診察時間と仕事等のスケジュールによっては、仕事も時短する、あるいは、見直さなければならないことだってある。
─一つのクリニックが、この地域に住む女性の、QOLに関わる…
杏奈は、過疎地域ならではの事実をまざまざと見せつけられた気がした。もし仮に、この先妊娠することがあったら、自分自身も影響を受ける可能性がある。そのようなことを、今まで考えたこともなかった。
「それにしても、心配してましたね。美津子さんもご縁さまも」
「ああ。あの三人の関係はよく分かんない…知ってる人いる?」
杏奈も沙羅も、首を振った。
「小須賀さん、知らないんですか?」
「ああ。おれは男には興味ないからね。特に顔のいい男には」
「そういえば先生、最近ここに来てませんでしたね」
「はい」
「おれは男には興味ないからね」
「あ、そろそろ午後の施術の準備しないと…」
沙羅はそう言って、応接間を出て行った。小須賀はため息をついて、キッチンへ去っていく。
残された杏奈は、パソコンに視線を落とした。胸騒ぎがする。
その日、花神殿まで、美津子を散歩に誘ったのは杏奈だった。美津子は言葉数が少なかった。
凍るような寒さの中、神門をくぐると、明かりのない神社は暗く寂しげだった。さらに暗い花神殿に行くと、二人は無言で花神さまに手を合わせた。手を合わせながら、杏奈はもう何度目か、咲子の胎内に、新しい命を芽吹かせてくれたことに、心の中でお礼を言う。花神さまのご利益だと信じるわけでもないけれど、そうせずにはいられなかった。
でも今日はもう一つ、祈ることがある。美津子もきっと、同じことを祈っているに違いない。
─きっと、大丈夫ですよ。
心から慕い、尊敬する恩師に、杏奈は心の中でそんな言葉をかけた。
小須賀の言う通り、訴訟が起こるくらいのミスが起こったのであれば、ニュースになってもいいはずだ。いつそれが起こったのかは知らないが、明らかな不祥事として取り沙汰されていないのだから、悪い方にばかり考えなくてもよいように思える。
「…戻りましょうか」
「ええ」
頷いた美津子の顔に、いつも通りの、穏やかな笑みが浮かんでいるのを見て、杏奈はほっとした。
花神殿の入り口付近で人影が動いたのを見て、二人とも足を止める。
「…お、これは美津子さん…と杏奈」
「宮司さま」
そこにいたのは、部屋着に厚手のどんち(ちゃんちゃんこ)を羽織ったぐう爺だった。
「はあ~」
美津子と杏奈の顔を見て、盛大にため息を吐く。
「なあンだ」
そう言ってまた、はあ~とため息。ここまでおおっぴらにため息を吐かれると、杏奈もさすがにちょっと不快感がある。
「どうされたんですか?」
杏奈が尋ねた。
「いや…予感がして来てみたら、ここの扉が開いとって。もしかして!と思ったが…はあ~」
杏奈はさらに気を害したというか、呆れた。しかし美津子は、引き締まった表情で、
「なんの予感ですか?」
と尋ねた。
「いや、なんの」
へへへと笑って、ぐう爺ははぐらかした。
杏奈も、この老爺の言う予感が何に関連したことなのか察して、眉根に皺を寄せた。この歳まで神社で勤めているぐう爺には、神通力でも出るのか。
ぐう爺が笑いを収め、
「胸騒ぎがする」
真剣な顔でそう言ったから、杏奈と美津子の不安は、ますます煽られた。
─せっかく、ここで心を落ち着けていたのに…
師の顔に、わずかだか、不安げな翳が落ちているのを見ると、
─余計なことを。
杏奈はこのおじいさんに対し、初めて心の中で悪態を吐いた。
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