「すみません、松下先生ですか?」
トイレから応接間に戻るところだった杏奈は、書斎から美津子の声が聞こえて、さっと壁に張り付いた。
「ご無沙汰しております」
電話相手は、松下クリニックの院長だろう。
扉が閉められているのでよくは聞こえないが、美津子は単刀直入に話を切り出してはいなかった。普段あまり接触がない人だからなのか、気候のことや、自身の近況報告など、アイスブレイク的な話をしている。
杏奈は少し、ドキドキしていた。亡くなった、ミス、訴訟…先日、加藤と美津子との会話で流れて来たそれらの言葉。美津子は松下から、クリニックと順正の今の状況を聞き出そうとしているに違いない。その結果を知るのが、なんだか怖かった。
結局杏奈は、その場を立ち去った。中途半端に聞きかじるのは心臓に悪い。電話が終わったと思われる頃、居間側から、書斎への扉をコンコンと叩いてみる。
「はい」
中から聞こえてきた美津子の声に、悲嘆や絶望の色はなかった。美津子の表情もまたそうであったので、杏奈は、最悪の事態には発展していなさそうだと推測した。
「美津子さん、松下クリニックに電話かけてたんですか?」
「ええ」
「あのう…どうでした?」
杏奈は美津子の表情を見ながら、遠慮がちに尋ねた。隠すことでもないから、美津子は心配そうな顔をしている杏奈に今しがた聞いたことを話した。
今月上旬、一人の妊婦が経腟分娩にて女の子を出産。妊娠は順調で、二人目ということもあり分娩の経過も早く、分娩中の異常も特になかった。その妊婦が分娩後まもなく、突然苦しみ出し、大量出血を起こし、すぐに心肺停止になり、死亡した。解剖の結果、羊水塞栓症と判定される。
その日は日曜日で、クリニックに詰めていたスタッフは少なかった。その場に居合わせたのは、順正、助産師が二人、看護師が一人。緊急事態との連絡を受けて松下も駆けつけたが、その時にはもう、手に負えない事態になっていたという。
─処置に問題や、ミスがあったということは…?
─それはないよ。
松下は言い切った。
─じゃあ、遺族の方は、訴訟を起こしたりは…
─あのケースで訴訟を起こされて、仮に勝訴されたりしたら、この国の過疎地域から、産科医はいなくなりますよ。
美津子を安心させようとしたのか、松下はそうも言った。
─でもね…
電話の向こうで、松下がギリリと歯を噛みしめるのが聞えた。
─だからって遺族が納得するわけでは、ありませんからねぇ…
苦々し気にそう言うのを聞いて、美津子は、故人と遺族のことを思った。
悔しすぎる。
無事出産を終えた後の、突然の死。
─クリニックの皆さまは、大丈夫ですか?
大丈夫か、などと聞くのは、ふさわしくないような気がしたが、それでも美津子は、そう訊くしかなかった。
─大丈夫ではありませんが、前を向いていますよ。
目の前には、向き合うべき患者がいるのだから。それでも仕事を、続けなければならない。
─柴崎先生は…。
と、松下は美津子の知りたいことを察してか、順正の状況について述べた。
─いつも通り、仕事をしています。
順正にとって母体死亡は初めてではなかった。今まで大学病院や市民病院で勤務する中で、残念ながら別のケースに立ち会ったことがある。母体死亡ではなくとも、産科に務めていれば、様々なショッキングなケースを目にする。今回もその不幸なケースと割り切っているのか、順正は落ち込んだ様子を見せるでもなく、誰かに愚痴を言うでもなく、仕事に影響が出るような動揺を見せることもない。
─でも、だからといって…今回のことが堪えていないということにはならないです。
それは、松下の見解であり、敬子の見解であり、他のスタッフの見解でもあった。
遺族はクリニックに直に怒鳴り込んでくる。弁護士からの連絡も来ている。あらぬ噂も立っている。あの場面を、一番間近で見ている。遺族の悲しみと怒りを受け止め、説明する責任を負った。そういったことがある中で、何も感じないわけがないのだ。
順正と美津子の関係性を知っているからこそ、心配をさせてしまうようなことでも、松下は敢えて話した。
─そのご家族と柴崎先生は、医者と患者という以外に繋がりは?
─ないと思いますけどね…
しかし、美津子は思い当たることがあった。それが順正に今までよりも大きな打撃を与える要因であるとは、考えにくかったけれど…
「あかつき大作戦の直前に、私がダリアの花を買ってきたのを覚えてる?」
「あ、はい。上沢まで買いに行ったんですよね」
美津子は頷いた。
「その時、妊娠している店員さんがいた」
家族経営らしい店だったから、店長か、店長の奥さんだったのだろう。
「明るくて、とても感じが良かった」
彼女とその夫は、花屋を一緒に経営しており、仲が良い夫婦だったらしい。二人の間にはすでに息子がいる。二歳と半年を過ぎたくらいの、小さな子供が。
「少し前に、上沢のその花屋へ行った時、定休日でもないのに店が閉まっていたから、おかしいなと思ったの」
長い間、店を閉めていたように見えた。
「聞いたら、亡くなったのは、その時対応してくれた妊婦さんだったみたい」
そしておそらく、順正もその花屋を訪れたことがある。綺麗に包装されたカーネーションを貰った時の喜びを、美津子はまだ鮮明に覚えている。
杏奈は、順正に業務状の過失がなさそうだと分かっても、あまり表情が晴れない美津子を見て、心が痛んだ。
その妊婦や遺族のことにしても、あまりにも痛々しくて、心が苦しくなる。
─バーンアウトしかけている。
杏奈の脳裏に、かつてあかつきを訪れた救命救急士・薫の言葉が蘇った。彼女も、とあるきっかけで、職場で働く意欲をなくしてしまったと。
「羽沼さん、ちょっと教えてください」
「ん?」
その日の午後、インスタに投稿する動画の件で打合せしていた羽沼に、杏奈は尋ねた。
「私、昔から母とあまり折り合いがよくなくて」
杏奈は訊いたあとで、前置きから始めた。
「性格が違うっていうのもあって、相性がイマイチというか」
「ふうん」
「それでも、すごく嫌なことがあったり、辛いことがあったりしたら、お母さんに電話して相談したいって思うんです」
仕事を辞める時もそうだったし、ちょっとしたことでも身体に不調が出ると、電話をした。
「男の人って、そうではないものですか?」
自分の不安を外に出そうとは思わないものだろうか。
羽沼は少し考えていたが、
「…男の人って一括りにはできないけど、女の人よりは、そういう傾向があるかもね」
羽沼はマウスとキーボードに乗せていた両手を、膝の上にすとんと下ろした。
「僕もそうだったな」
「…羽沼さんも?」
「うん」
羽沼は唇を結んで、数回瞬きをした。
「自分の弱いところとか、かっこ悪いなって思うことは、特に、話したがらないよ」
そう言ってから羽沼は、あくまで自分の意見だと強調した。
「そうですか」
杏奈はそれ以上、この質問について深堀りしなかった。
翌日は早朝から、新しいクライアント・佳奈を受け入れた。小須賀に休日をあてがっていたため、杏奈は料理担当に徹する。沙羅が午前中、美津子が午後の施術を受け持った。
佳奈はヴァータが優勢。季節的にもヴァータが優勢であるため、食事の方向性としては、ヴァータの鎮静に重きをおいた。佳奈は無月経と軽い関節痛に悩まされていて、非常に痩せている。ヴァータが優勢な場合、油分と水分たっぷりの、ボリュームのある食事を提供する。もちろん、アグニを弱めない程度に。温かく調理された食べ物、身体を温め循環を良くするスパイスを使用するのも良い。
杏奈は昼食用に、久しぶりにビーツのカレーを作った。作り方はとてもシンプル。先にビーツをオーブンでローストすることで、甘味を凝縮させる。焼いたビーツを少量の塩と水、カルダモンやコリアンダー、ターメリックなどのスパイスと一緒に煮る。最後にココナッツミルクを加えて甘味を加えれば完成だ。
それから豆の煮物、小松菜のスパイス炒めなど、オーソドックスな料理を作る。
「お疲れさまです」
沙羅がキッチンに入ってきたのは、十二時少し前。杏奈はバットに、ほぐした鶏肉を漬けこんでいるところだった。
「珍しいですね。今日はお肉出すんですか?」
沙羅は目を真ん丸にして尋ねた。
「佳奈さんには、スープだけです」
佳奈は動物性のものは苦手と言っていた。特に肉は、もともと好きではないらしい。しかし、肉のヴァータを減らす特性を加味し、ここは敢えて鶏肉を活用しようと決めたのであった。特産が少ない足込町だが、地鶏はそこそこ有名で、それを使いたかったのもある。
古代文献の中で、良質な肉はブリムハナ(強化と構築)、バリヤ(強さを促進する)の性質をもつと述べられている。肉のスープ(マンサラサ)は体に最も良いものの一つであり、サルヴァロガプラシャマナム(すべての病気を軽減する)であるとされている。
そして、以下の要素を強化、または促進する。
・ヴィディヤム(知恵)
・スワリヤ(良い声)
・ヴァヤ(年齢)
・ブッディ(知性)
・インドリヤ(感覚)
鶏肉は滋養強壮効果があり、声を明瞭にし、体力を増強し、発汗を促す。
肉のスープはヴァータをにとって良い強壮剤であり、呼吸困難、咳、結核に効き、記憶力が弱く、精液が減っている人にも良い。特に冬は、肉を含む動物性たんぱく質の摂取を増やしてもいい時期と言われている。それは遺伝的に獲得した、年間の食事サイクルの慣れである。冬には果物、野菜、穀類、ナッツ、種子の収穫が少なくなるため、祖先は狩猟を余儀なくされ、自然と冬の時期に脂肪とたんぱく質の摂取を増やした。つまり冬には、腸内微生物叢の中に、たんぱく質の消化をより得意とする菌株を生み出す体のサイクルが、再び始まると考えられるのだ。
「漬けたお肉、あとで賄い用に少し焼きますね」
「どうやって味付けしたんですか?」
「味噌です」
発酵食品は酸味をもち、この時期に勧められるものでもある。
「スパイスも入ってます。胡椒とか、ナツメグとか」
「味噌とスパイスの組み合わせって、いいですね!佳奈さんも食べたいって言い出すかも…」
そう言う沙羅に、杏奈はにこっと笑った。バットにラップをし、業務用の冷蔵庫にしまう。
「杏奈ちゃんは、施術と料理、どっちが好きですか?」
「え?」
突然の問いに驚いたが、答えは、考えるべくもなかった。
「料理ですね」
「やっぱり」
沙羅はデシャップの上に頬杖ついた。
「いや、なんとなく聞いてみたんですけど…こうして見てたら、やっぱり料理が好きな人が料理してるのって、いいなあって…」
杏奈は、楽しそうに料理をする。ニコニコしているわけでも、鼻歌を歌っているわけでもないけれど、楽しそうに見えるのだ。
「そうですか?」
杏奈は頬を掻いた。沙羅の顔を見ていたら、杏奈も訊きたいことが出てきた。
「沙羅さん」
「ん?」
「あの…子供を産む時って、自分が死ぬかもしれないって…思いましたか?」
杏奈に訊かれて、沙羅は当時の記憶をさかのぼった。
「あー…考えましたね、それは」
まず、快を妊娠した時。
「でもどちらかというと、自分よりも、赤ちゃんのほうが心配でした」
妊娠が進んでいることは、なんとなく感覚としても分かるし、健診に行けば赤ちゃんが大きくなり、体重が増えていると言われ、順調な経過を踏んでいることが分かる。それでも、産むまで赤ちゃんがちゃんと育ってくれているか、小さな不安は常にあった。
しかし、出産が近づくにつれ、もう一つ不安が大きくなった。無事出産できるのか…死への不安である。
「どんな妊婦さんでも、多少は考えると思うんですが…」
「そうですね」
「もう子供産んでる友達の家とか行くと、子供向けのテレビ番組とかがついていたりして。私も、いつかこんな風に赤ちゃんを抱っこして、こういうの見る日がやってくるのかな~って。憧れながらその母子を見てたんですけど」
でも、本当に自分がそうなれるなんて、産むまで、信じられなかった。そして、なんとかそこまでたどり着きたいと思った。自分も赤ちゃんも生きて、共に穏やかに過ごす日常を迎えたいと。
「でも、死への不安っていうのは、第二子の時のほうが強かったかも」
天真爛漫でポジティブな沙羅ですら、不安を抱いたという事実は、妊娠・出産がいかに重大なイベントであるかということを如実に物語っている気がした。
「ちょっと自慢話みたいになっちゃいますけど…快、すっごく可愛くって」
第二子の妊活を始めていた頃の快が…である。
沙羅はうふふと笑った。思い出しただけでも、顔が綻んでしまうらしい。ぽちゃぽちゃで、柔らかくて、しぐさの一つ一つが愛らしくて、変テコだけど可愛いことを言っている。
「死んだらもうこの子に会えなくなるのかと思うと、やっぱり、妊娠・出産が怖いなって思いました」
かわいい娘の成長が見られないのも悲しい。自分が死んだら「ママ…」と言いながら、泣きじゃくる日々が続くのだろうか。そんなこと、想像もしたくない。
子供が死んだら、悲しくてやりきれないだろう。けれど、子供を残して自分が死ぬのもまた、苦しくて悔しくて、やはりやり切れない。
「でも、こうして無事に生まれて、今のところ二人とも元気に育っているので…」
沙羅は、虚空を見つめて、
「忘れてました。自分も子供たちも、死ぬかもしれなかったってこと…」
思い出したように、そう言った。
妊娠中、出産に際しては、死ぬ可能性がゼロではないことを意識するけれど、普段の生活では生死をあまり意識しなくなるからかもしれない。
虚空に向けていた目を杏奈に戻しながら、
「松下クリニックで起こったこと、ですか…?」
沙羅は首をかしげて、質問の背景を確認した。
杏奈は質問をしたものの、明確な目的があって尋ねたわけではなかった。
「私は子供を産んでいないので…子供を残して亡くなられた方の無念さが、自分の想像では追い付かなくて」
無念…といって、今わの際に、何かを考える余地がどれほどあったか、分からないが。
「でも、その無念さが分かると余計に…当事者の人たちを前にするのは、つらいかもしれないですね」
愛する人との別離は、苦しい。
「そうですね」
沙羅はしんみりした顔をして、頷いた。
「その亡くなったお母さんのお子さんを目の前にしたら、私のほうが、泣けてきちゃうかもしれない…」
そう言うと、沙羅は顔を歪めた。本当に泣き出しそうな顔に見えたので、杏奈は慌てて、
「…もう十二時になりますから、そろそろベル鳴らしましょうか」
と言いながら、コンロの方へ向かった。
夕食の仕込みを終えると、杏奈は外へ出た。
─さむ…
空は灰色で薄暗い。
─雪が降るかもしれないな。
そのくらい、寒かった。
離れに入ると、いつもの白いシャツと黒いズボンの上から、モスグリーンのダウンジャケットを着、ニット帽をかぶる。白いマフラーをぐるぐる巻きにし、鼻の先までを覆い隠した。
あかつきの門を出て、栗原神社へ向かう。顔に当たる空気が刺すように冷たい。風がないのが唯一の救いだ。西参道に着いたが、神社には人気がなく、しーんと静まり返っている。
─さむさむ。
杏奈は肩を縮こませながら、早歩きに参道を進む。今日は座り仕事が多かったから、夕食前に少し運動するつもりで外へ出てみたのだが、もうすでに戻りたい。
西参道はさらに暗く、人気がないのでどこか寂しい心地がする。
視線を下げ、足元を見ながら歩いている杏奈は、自分の履いている白いスニーカーが大分くたびれてきていることに気付いた。
神門を経由せず、手水舎を横切って境内に入る。社務所には明かりがついていなかった。いつも窓口には、巫女か神主がいるのだが、参拝客が少ないからなのか、窓が閉められている。
杏奈は境内の東奥へ歩みを進めた。本殿と稲荷社との間に立つ花神殿に向かう途中で、花神殿の扉が開け放たれているのに気が付く。中は暗い。
足込町に来てから杏奈が驚いたことの一つに、夜の暗さがあった。ビルがなく、商店街通りでなければ街頭も少ない足込町の夜は、本当に暗い。花神殿の中は、日没後の足込町の夜のように暗く見えた。
杏奈は花神殿の入り口で立ち止まった。
暗さに目が慣れると、祭壇の前に人影を見つけた。先客がいた。先客はこちらに背を向ける形で立っていたが、すぐにこちらに気づいて、ゆっくりと振り返った。黒いマウンテンジャケットに、黒いズボンを履いた、上背のある男だ。
暗闇の中で、わずかに光が見えた。男の目だ。
「…柴崎先生」
杏奈の口から、無意識に声が出た。
順正は挨拶をするでもなく、棒のように突っ立っていた。いつも表情が顔に出ていない男だが、ジャケットの襟に鼻から下がすっぽり隠れていて、なお表情が分からない。
杏奈は順正ごしに、花神さまの祭壇に目を向けた。花神さまは、日本神話で日本に医薬を広めたと言われる神・薬祖神の化身と言われる。この地域の大切な神様だ。その神様が祀られているところへ、このひとは何の用でやって来たのか。
「…あのう、参拝に」
順正に用事を尋ねる代わりに、(聞かれてないけど)自分がここに来た事情を短く伝えて、マフラーを顎下まで引き下げた。ゆっくり祭壇の前まで進み、順正と並ぶ位置に立つ。目を瞑って手を合わせながら、杏奈の神経はすべて、この場の微細な空気の流れに向けられていた。
「…」
しかし、空気感から順正の感情を読み取ることは、できなかった。どういった感情も顕著には感じられない。薄目を開けて、目線だけを横に向けてみたが、順正とは身長差がありすぎて、顔はまったく視界に入らなかった。順正は、先ほど振り返った状態のまま、体の向きを変えずに、つまり杏奈とはほぼ反対の方向を向いたまま、突っ立ったままだった。
杏奈はそうっと、アウターのポケットに手を滑り込ませる。
「…ミツには連絡するな」
杏奈はピタッと手を止めた。なぜ気づかれたのだろう。
─勘づかれた。
勘の鋭い男だ。後ろに目でもついているのだろうか。
「…でも美津子さん、先生のことを気にしてましたよ」
─私も。
心の中でぼやきながら、さりげなく手を下ろした。
「…クリニックで起こったこと、聞きました」
もしかしたら、順正はそれに気づいた上で、美津子には連絡するなと言ったのかもしれないが。杏奈には、やはり解せなかった。自分だったら、気持ちが揺さぶられて、今この時を過ごすのが耐え難くなったら、誰かに相談する。人間関係が希薄な、自分でさえそうなのだ。順正とて、ここへやって来たということは、美津子に話をしに来たのではないのか。
「…あかつきに来ないんですか?」
誰かに気持ちをシェアすれば、気持ちが紛れるかもしれないのに。
足元に視線を落とすと、順正が山靴を履いているのに気が付いた。山を越えてきたのだろうか。とすれば、この時間からまた元来た道を戻るのか。すでに日は沈みかけているというのに。それでも体を動かし、山を越えて来たのは、やはり心の中がざわついているからか。
仕事上の小さな問題ですら、息詰まると、こうして杏奈も花神殿まで散歩に行く。目の前で命が失われ、責めを受けるというストレスをいなすには、いかほどのことをしなければならないだろう。
「あの人たち、うるさいから」
順正が返事をしたので、杏奈はやっと、彼のほうに体の向きを変えた。言っている内容はともかくとして、口調に尖りはない。
「あの人たち?」
「あかつきの人たち」
順正は分厚いジャケットの襟に、再び鼻先を埋めた。
─黒い服もよく似合う。
杏奈は深刻な状況を忘れてそんなことを思った。しかし、それよりも、声が聞きたかった。
「…最近、よく書斎で食事をしながらお喋りしていて、楽しいですよ」
じろじろと順正の顔を見るわけにもいかず、そもそも首を上げているのも疲れるので、杏奈は再び視線を祭壇に移した。
「ん?」
順正は杏奈のほうを向き、少し腰を折った。杏奈は順正の顔が思いがけず自分に近づいたことに気づき、一瞬寒さを忘れた。しかし、腰を折った理由は分かっていた。
「最近、あかつきのみんなは、よく書斎に集まっておしゃべりをしているんです。実のない会話ですけど、楽しいですよ」
杏奈は少し声を張り上げて、はっきりと言った。
「…溜まり場になってるのか」
「え?…すみません、聞こえなかったんですけど」
順正はもう腰を伸ばしていたし、口が襟に覆われているので、声がくぐもってよく聞こえない。
「…別に大したことは言ってない」
なぜこんなところで、お互いに聞こえないと言い合っているのだろう。順正はちょっとばかばかしくなった。視線を下に向けると、杏奈のかぶっている灰色のニット帽の、てっぺんが見える。こうして並んで立つと、二人は体格差がありすぎ、高低差がありすぎた。
そのニット帽のてっぺんが動き、青白い顔がこちらを向いた。
「馴染みにくければ、私が橋渡ししますよ」
杏奈が喋ると、白い息が上がる。ぐるぐる巻きにしている白いマフラーから覗いている唇が、少し紫がかっていた。
「…橋渡しなんかできるのか」
せっかく、あかつきのスタッフとの間を取り持つと言った杏奈だったが、順正は可愛げもなく一笑に伏してしまった。
「お前こそ、あの中で少し浮いて見えるぞ」
杏奈は、驚いたような、気を害したような、複雑な表情をした。
─このひとの目には、そんな風に見えていたのか。
少しショックだった。自分は、あかつきのメンバーに対しては、心を開いていると思っていたのに。人との間に壁を作るのは、まだ直っていないのか。
しかし順正は、杏奈の弱みを突いてしまったことに気付いても、悪かったなどと思わなかった。杏奈が他人と連れ合わない人間であることは、見ていれば分かった。今更それを指摘されて、傷ついていてどうするのだろう。
「話ができるなら誰でもいいってもんじゃない」
乾いた空気が、順正の低い声を明瞭に伝えた。淡々とした、しかし、穏やかな口調だった。
「お前もそうだろう」
「…ああ、まあ…」
暗に同類だと言われたことが、杏奈はそこそこ嬉しかった。
「人は、異なるやり方で、心を鎮めようとする」
順正ははっきりと言った。
「ある人は、人に話をすることで、気を紛らわそうとする」
杏奈は目線を上げて、順正のほうを見た。
「ある人は、山に登る」
アーユルヴェーダコンサルテーションを続けてきた杏奈にとって、感情を外に出すことはデトックスであり、積極的に行うべきだという認識があった。コンサルティショナーはその受け皿になる。話されたことを受け止める。
だから、今この瞬間、順正に対しても、それをしようとした。この男が感情を吐露できるように、話をもっていこうとしたのだが、その糸口が見つかった。
「…心は、鎮まりましたか?」
杏奈は勇気を出して聞き出した。
「その…山に登って…」
順正は視線を横に移した。自分も感情を外に出すほうではないが、この女もたいがいである。聞きたいことをうまく聞けない。平静を装っているが、それは感情を隠すため。順正にはそれが、よく分かった。
どうやらかなり気を遣われているらしい。
「…クリニックで起きたことはもう、どうしようもないことだから」
順正の思考は、最終的に、そこに行き付く。
死んだ母親やその家族が、可哀そうだ。何とかしたかったと悔やんでいる。あの家族は今後どうしていくのかも気がかりだ。だが、自分にできることはもう、何もない。
─お前らがここにいなかったら、最初から大きい病院に通ったよ。
─もともと大きい病院で看てもらってれば…もっと早く大勢の医師に看てもらえていれば…助かったんじゃねえの?
あの男の言ったことが、順正にはよく分かる。順正や松下だけでなく、クリニックのスタッフたち全員も、自分たちの存在意義と、男の言ったことの正当性に、葛藤している。
「どうしようもない」
順正は同じ言葉を繰り返した。
何よりも、あの子供の顔が、忘れられない。だけどそれを言ったところで、もうあの母親は戻ってこない。
「ほうっておけば落ち着く。用が済んだならもう戻れ」
杏奈は順正の目を見たが、順正の視線は杏奈の唇に置かれていた。
「冷えるぞ」
目は、多くのことを語る。
杏奈は、順正の心境を推し量りきれなかったが、彼の心の健全度は、それほど深刻ではないような気がした。勘であったが。
─このひとは、ストレスに対して、ある程度一人で対処できる人なんだ…
今回の一件も、彼のストレス耐性の中に収まり切らないものではないらしい。
「…そうですね」
順正は、話してもどうしようもないことだと言った。確かに、事実は変えられない。
杏奈は顔を下げ、マフラーでそっと口元を覆った。祭壇に向き直り、しずしずと一礼する。しかし、そのまますぐに踵を返すことは、憚られた。
気の利いたことを言えないだろうか。杏奈の頭の中は、その一念に席巻された。一人で感情を処理することは可能かもしれない。けれど、誰かが手伝えば、その処理はもっと容易に、楽になるのではないだろうか。
杏奈が脳内をぐるぐるさせている間、順正は祭壇を見ていた。しかし、祭壇の視覚情報は次第に薄れ、脳裏に、あの日の情景が蘇ってくる。
母体死亡の際、順正は処置中に、感情に振り回されることはなかった。他事を考える余地がないほど、夢中で処置に当たっていた。
「…嫌になる」
順正の声に、杏奈は目を開いた。そのまま、深いため息が聞こえる。
「腹が立つ」
言葉にしてしまえば、言葉通り、腹の中で黒い気持ちが渦巻く。しかし、順正は声色に、その気持ちを乗せることはなかった。あくまで淡々と述べる。
「分娩を行う過疎地域の産科で、絶対起こってはいけないことだった」
いつも通りの、つぶやくような、凪いだ声。そして、またため息。
「花屋の息子…二歳くらいだった」
「…」
「なんであの子の母親が…?」
杏奈は右、上方に視線を向けた。順正は左、下方に視線を向ける。
「…なんでだと思う?」
「…分かりません」
杏奈は、気が利いたどころか、気の抜けたことしか言えなかった。
頭の中を内側から鈍く殴られるような心地がし、頭の中が真っ白になったのは、松下が分娩室に入ってきて扉が開いた時に、小さな子供の姿を見た時だった。
─自分がやさしいまなざしを受けられなかったのなら…
いつか、加藤はそう言った。
─お前が誰かにやさしいまなざしを向けることで、お前も自身も、癒されるんじゃないか。
愛する人との別離は、苦しい。
「あの子が…可哀そうだった」
母体死亡は初めてではない。だけどそれが、あの光景を見て何も感じない理由にはならなかった。
「母親の命が失われようとしているのを止めることができなかった」
男の子は泣いていた。
順正の肩が上がった。息を大きく吸い込む。
「…悔しい」
家族の怒りを受け止めなければならないこと。クリニックが風評被害を受けるであろうこと。訴えられるかもしれないこと。どんなに経験豊富な医師でさえ、気が遠くなるほど憂鬱なことが、一度に起こった。
けれど、順正の心を最も脅かしているのは、そういったことではなかった。
─…そこなんだ。
杏奈は目を閉じた。
沙羅が昼に言っていたことを思い出した。それから、沙羅の娘・七瀬や、祥子の息子・朝日の姿を思い浮かべた。あの二人よりも小さい男の子が、母を亡くしたと。
その母は、自分の不在により、男の子が寂しがって泣いても、何もしてあげられない。男の子は、どんなに泣いても、もう母には会えない。
順正は、今杏奈が思い浮かべたようなことを既に何度も、何度も思い浮かべているのか。杏奈は目頭が熱くなる。
「先生!」
杏奈が心の中で呼ぶのと、ぐう爺の声が聞こえるのとが同時だった。花神殿の入り口に、口をあんぐり開けたぐう爺が立っていた。この時間だというのに、もう部屋着姿で、この間と同じどんちを羽織っている。
ぐう爺は入り口付近に立つ杏奈には目もくれず、まっすぐに順正を見つめると、じわじわと目に涙を浮かべた。
「…」
順正は迷惑そうに顔をしかめた。
「なぜ、宮司さまが泣くんですか」
杏奈はぼそっと訊いた。
「馬鹿もん。先生に何かあったのではと思って心配しとったんだわ」
このおじいさんも、勘は鋭いらしい。
杏奈はうっすら目を開けて、ぐう爺を見やった。その視線にやっとぐう爺は気づいて、はっとした。
マフラーとニット帽に覆われて、杏奈の顔はほとんど露出していなかったが、唯一まともに外に出ている両の目が赤らみ、潤んでいた。
─へ?
ぐう爺は杏奈と順正を交互に見ると、
「あれ?っていうか、わし、ここに居ていいの…?」
順正の片方の眉は無意識のうちに、ぴくっと動いた。ぺちゃくちゃと喋り散らかすぐう爺に、舌打ちしたい気分だった。面倒くさいやつに見つけられてしまったものである。
「宮司さま」
杏奈は囁くような小声で、
「先生をあと、十五分だけ引き留めてください」
「へ?」
言い終わるや否や、杏奈はぐう爺の視界からすぐに消えた。
外に出ると、雪がパラついている。
境内を抜け、参道に差し掛かると、杏奈は強く地面を蹴った。
全速力で、あかつきへと走る。
杏奈は正門をくぐると、玄関には向かわず、お勝手口まで直行した。
幸い、まだ夕飯までには時間がある。
お勝手口の扉を開けると、まだ施術が続いているのか、キッチンの外から物音はしない。
フライパンに火をつけ、油を敷くと、帽子もマフラーも上着も脱いで、適当なところにおく。冷蔵庫の中から、昼に漬けた鶏肉、残ったご飯、ビーツのカレー、野菜の付け合わせを手当たり次第に引っ張り出す。鍋の中には、先ほど仕込んだ豆の煮込みがあった。なるべく豆の部分だけをすくって、小鍋に入れ、火をつける。フライパンが温まっているのを確認すると、菜箸で一掴みくらいの量の鶏肉を、そこへ入れた。ちょうどいい大きさのガラス製の密閉容器を取り出すと、詰められるものから詰める。それから、それに合う紙袋やら風呂敷やらを探す。鍋の中の豆の汁気が程よく飛んだのを確認すると火を止め、鶏肉の面倒を見る。
─残りものだらけだな…!
それは仕方がないが、せめて少しでもフレッシュなものを入れたい。
─プラーナ。
少しでも、それを届けたかった。
杏奈はフライパンの火を止めると、再びお勝手口から外へ飛び出した。
─なにもない…。
雪は止んではいなかった。こんな寒い時に、フレッシュなハーブや新芽などありはしない。
しかし、一つ当てがあった。先日、垣根の傍で、プランター栽培している植物の様子を見ていたら、落ち葉の影に埋もれて、ゴツコラが生えているのを見つけたのである。何かに埋もれることで寒さをしのぎ、生き延びたゴツコラが、見つかるかもしれない。
杏奈はプランターの傍の土の上に両膝ついて、背の低い草や落ち葉の中をあさり始めた。あたりはすでに暗くなり、そもそも生えているかどうか分からないゴツコラを見つけるのは至極困難だった。
探すこと数分。
─あ…
杏奈は一茎のゴツコラを摘み上げ、目の前にかざした。少し厚みのある、縁がギザギザとした、脳の形にも、ハートの形にも似た葉。
杏奈は寒さに震えた。
夢中になっていて気付かなかったが、雪が降る中、アウターを羽織らずに外にいるのはきつい。
再びお勝手口まで駆けた。
まだフライパンに入っている鶏肉と、鍋の中の豆を、器に盛る。冷めたごはんの上に、一茎のゴツコラを飾ると、蓋をした。もう少し熱を取りたいが、あいにく時間がない。風呂敷に包み、さらに紙袋にいれる。
再び防寒すると、紙袋の空間部分を折り畳み、コンパクトにまとめて抱え、再び外へ飛び出した。なるべく弁当を揺らさないように走る。
大急ぎで準備したが、もしかしたら、あのひとはもういないかもしれない。それならそれで仕方ないが、できることなら渡したい。
杏奈は昔、自暴自棄になって、自分をゴミ箱のようにみなしていたことがあった。愛情、滋養、希望…そういったものを入れる、宝箱ではなくて。孤独、取るに足らないもの、絶望…そういったものの溜まった、ゴミ箱だと。
けれど、内なる消化の火を大切にせよという、アーユルヴェーダの教えを知り、考えを改めた。
自分を大切にすることを、料理を通して、表現してきた。
─自分を…
大切にしてほしい。
杏奈は再び、全速力で、西参道を走り抜けた。
あたりはしんとしていた。
雪が降り積もる景色の静けさは、特別な安らぎをもたらす。
順正は神門を出て、登山口まで歩いていた。視界が明るいうちに、山を駆け登るつもりだった。それでも、もはや上沢方へ下山する頃には、真っ暗になるだろう。
「先生!」
ちょうど登山口に差し掛かったところで声が聞こえて、順正は後ろを振り返った。だんだんと足音が近づいてくる。
「先生!」
杏奈が大声を出すのを、順正は初めて聞いた。白いマフラーを後ろで跳ねさせながら、息を切らして登山口まで近づいてくる。本人は一生懸命走っているつもりだろうが、
─おそ…。
順正からすると、とてつもなく低速に見えた。
振動でニット帽が目深になり、目線を上にあげると、上瞼がニット帽に触れるのを感じる。走ったら少し熱くなったのもあり、杏奈はズレてしまったニット帽を取った。帽子が押さえつけていた長い髪が、ばさっと揺れる。
─ん?
順正は帽子を取った杏奈の顔に、違和感があった。何かいつもと違うような。
杏奈は数歩順正との間合いを詰めると、
「登って帰るんですか?」
と訊いた。順正は頷いた。
雪がぱらぱらと降っている。
杏奈は呼吸を整えながら、山の中を見渡した。わずかにまだ明るいが、雪も降って来たし、日没まで時間がない。
「送っていきますよ」
ここで順正を見送るつもりだったが、気が変わった。
「いや、いい」
しかし、順正はにべもなく断った。
「遭難したらどうするんです」
「明神山なら目を瞑ってても登れる」
「そんなバカな」
─バカ…
言ってくれる。
「…こうしているうちに、どんどん暗くなるんですけど」
呼吸を整えている間に、皮肉るようなことまで言われて、杏奈はもうどうなろうと知ったことかと思った。順正の方に、えいと持って来た包みを差し出す。
「えっと、お弁当持ってきました」
「なんで?」
「え?」
差し出した後で、急に恥ずかしくなった。いったいどういうつもりでこれを渡すのかと聞かれたら、なんと応えれば良いのだろう。いや、もう聞かれている。
順正はまだ「え?」という顔をしている。なかなか順正が受け取らないので、杏奈はいよいよ顔が熱くなった。寒いのに。
「…いらなければ、捨ててもいいですから」
顔を背けて小さく言った。両手にかかっていた重力は、しかし、まもなく軽くなった。
順正は受け取ると、ちらっと中を覗いた。なかなか難儀なものを手渡されたと思った。これを持って、山を走れと。これだけ寒ければ、腐る心配はなさそうだが。
杏奈は順正が受け取ったのを認めると、一、二歩退がった。
「あのう…」
杏奈は再び、順正と、その後ろに広がる薄暗闇を見て、
「…やっぱり、下山したらラインもらえますか」
こんな遅い時間から入山するのを見送って、万一何かあったら、後味が悪い。
「スタンプでもなんでも、簡単にでいいんで」
「え、なんで?」
順正はぼやきながら、杏奈の顔に違和感を覚えた理由が分かった。前髪が変わったのだ。
「…安否確認です」
以前は分厚く額を覆っていた前髪が延び、左右に分けられ、今は額が見えていた。前よりも大人っぽく見える。
「聞いてますか?」
順正は聞いていなかった。
「遭難事件の時のグループラインから、私のアカウントが見つかると思いますから、下山したらスタンプをぽちって」
杏奈は、ぽちって押すしぐさをする。
「なんだそれは」
ようやく杏奈の言葉が耳に入ってきて、さっそく悪態を吐く。
「なんでそんなことを」
「だから、安否確認です」
人の話聞いてるのだろうか。
手袋をしていなかったせいで、紙袋を抱えて風に当たった手がいやに痛い。杏奈は手をこすり合わせた。
もう行けばいいのに、順正はまだそこを動かず、じっと杏奈を見下ろしていた。こんな端麗な男に、まっすぐに見つめられると、杏奈はさすがに気が動転した。額にかかった雪を振り払うふりをして、手で目を覆う。
杏奈がそういう仕草をすると、順正は視線を杏奈から離し、改めて袋の中身を覗いた。
─ガラスか…?
風呂敷で包まれているから中身は見えなかったが、質感で、この弁当箱の材質はガラスのように思えた。おそらく、アーユルヴェーダでは保存容器の材質にこだわるのだろうが、山を走って帰ろうと思っていた身としては、なにせ重い。せめてホーローか木にしてほしい。
杏奈は、なぜ順正が現物確認したのか解せないまま、突っ立っていた。どうして帰らないのかというと、まだ順正がこちらに背を向けていないからだった。
順正は再び杏奈に視線を向けた。小さい人だと、いつも思う。でもこの小さい人が、小さな手で、自分よりも大きなクライアントを癒す。クライアントが抱える、未知の、大きな問題を前に、小さくとも解決のヒントを探る。
「先生は、南天丸も連れずに…夕暮れの山が怖くないんですか」
「…なぜ」
「クマが出るかもしれないですよ」
「…ああ…」
順正はぼんやりと答えた。
「…ブキを、持ち歩いてるから」
「え?そうなんですか?」
手ぶらに見えるのに?杏奈は順正のジャケットの、どこに武器がしまわれてるのだろうと目を凝らした。何もなさそうに見えるが。そもそも武器ってなんなんだろう。
じろじろ見られるのが落ち着かなくなった順正は、
「古谷」
杏奈の注意をそらしつつ、気になることを尋ねる。
「…あの母親の遺族は、今この瞬間を生きることが、至極辛いだろうと思う」
意外にも、順正のほうから話題をぶり返されて、杏奈は視線を順正の目に向け、次の言葉を待つ。
マフラーをぐるぐる巻きにしている杏奈の姿は、どこか間が抜けて見えたが、その目はこちらからの言葉をひたむきに待っていた。
「古谷だったら、遺族になにができる?」
と、難解な質問をしておきながら、間が抜けて見える杏奈を見て可笑しく思っている自分が、可笑しかった。その感慨は、表面には一ミリも現わさないけれど。
「…」
杏奈は、即座には答えられなかった。
困ったように沈黙する杏奈を見て、順正は少しだけ笑った。
「…古谷は人を癒す道を究めようとしているな」
「…はい」
「だったら、何かアイディアを持っているのではないかと、思っただけだ」
アイディアがある、と言ったら、なんとするつもりだったのだろう。その内容を問うて、できることであれば遺族にそれをしたいのだろうか。それとも、杏奈が答えを持っているなどとは期待しておらず、単なる冷やかしの問いなのか。
「…考えてみます」
おそらく後者ではあるまい。杏奈は順正の佇まいから、そう判断した。
順正はそれを聞くと、くるりと背を向けて、雪降る山道を登って行った。
ピコン。
─下山。
順正から無愛想なラインが届いたのは、夕食後、接客が落ち着いた後であった。
杏奈は、その知らせが来るまでは、美津子に順正と会ったことは言わないと決めていた。雪が降る中一人で山を登って帰って行ったと知らせたら、また心配させる。
無事に下山したことが分かると、杏奈は美津子に順正が花神殿にいたことを話した。美津子は驚いて、いろいろと尋ねたそうな顔をしたので、話せるようなことは、みんな話した。といっても、実際、そんなにたくさんのことを話したわけではない。
「大丈夫そうに見えましたよ」
杏奈は、そんなおおざっぱな感想でもって、美津子を安心させようとした。
「そう…」
美津子は、少しほっとしたようであったが、それでも少し物足りなさそうな顔をしていた。できることなら、自分で彼の状況を確かめたかったのだろう。
「…ところで、美津子さん」
「うん?」
「先生に、クマが出るかもしれないのに、山道は怖くないんですかって聞いたんです」
「…ええ」
「そしたら、武器をもっているから平気だって。でも武器を持っているようには見えなくて」
美津子は、ぽかんと口を開いた。
「武器ってなんなんですか?クマスプレーのことですか?」
美津子はしばし沈黙していたが、やがてふっと肩を揺らして笑い出した。
「…杏奈、山をやる人たちが言うブキっていうのは、たぶん…」
杏奈は美津子の答えに、怪訝そうに眉を寄せた。
その翌日。
「先生、お弁当来てますよ」
休憩室に順正が入ってくると、入れ違いで出て行こうとした岡本が、ソファの上の紙袋を手で示した。
順正は冷蔵庫から別の紙袋を取り出し、中身を取り出すと、代わりに配達された弁当を紙袋に入れ、冷蔵庫に閉まった。今届いた弁当は、夕ご飯にスライドするしかない。松下クリニックが取っている弁当は、夕食にするには重いのだが…
電子レンジにガラス製の保存容器を入れ、温めた。
散らかったデスクの上を片付けて、弁当の蓋を開けると、たちまち立ち昇ったスパイスの香りに、順正は面喰った。においが部屋の中に充満しないよう、仕方なく窓を開ける。寒いけど。
においだけでなく、見た目も相当なものだった。改めて容器の中を見ると、いくつかの料理が詰め込まれているのだが、割と汁気のある料理が多く、昨日山行中揺り動かしてしまったこともあって、ぐちゃぐちゃな状態。
それでなくとも、入っている料理は見たことがなく、得体が知れない。特にピンク色の千切りにされた何かと、黒い粒粒が混ざった黄色い豆は、ひと際目を引いたが、食欲がそそられたわけではない。
─やめるか。
やっぱり、これはごめんなさいすることにして、冷蔵庫にしまった弁当を食べるか。
しかし、白米の上に乗せられた、小さな一枚の葉っぱを見て、順正はそれを手に取った。
─ゴツコラか。
そのハーブの名前を、順正は知っていた。冬には枯れてしまう葉なのに、なぜ入っているのか。
順正の脳裏に、昨日の杏奈の姿が浮かんだ。
─アーユルヴェーダの料理人…
ゴツコラを口に入れ、咀嚼する。苦味が濃い。
意を決して、弁当にも手を付けてみる。どこから手をつけても、もはや、全ての味が混ざってしまっているような状態に見えた。
箸ですくうのは無理そうだ。流し台の箸立てから、適当なスプーンを失敬して、ようやくひとすくい取って、食べた。
そういえば、蓮などはあかつきに行くと、食べ物を恵んでもらっていたが、順正が杏奈の料理を食べるのは初めてだった。
カタンッ。
落としたスプーンがデスクの上に転がる。
─うま…
順正は一種の衝撃を受けていた。見た目によらず、存外においしい。食べたことがないような味だった。
しかし、困ったことに、順正は自分が今何を食べているのか、さっぱり分からないのだった。
《 前の話へ戻る 》次の話へ進む
》》小説TOP
LINEお友達登録で無料8大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします
