ヨガニドラは「ヨガの睡眠」と直訳できる。
これは深い意識のリラックス状態であり、意識を内に向けるプラティヤハーラ(制感、感覚のコントロール)の一形態である。瞑想の積極的または予備的な形態であるとも考えられている。
「ヨガニドラは通常の睡眠とはまったく異なります」
ヨガルームにて、翌日も午前中から、ゲイルの講義が続いていた。
「ヨガニドラの状態では、体は眠っているように見えますが、意識は鋭く存在します」
心は目的もなくさまよったり、迷い込んだりすることはない。むしろ、「目撃者」が現れるという。
「それは、私たちの経験を無関心な場所から観察する自己の一部です」
感情がなく思考をしない目撃者の意識は大きな喜びと平和をもたらす。
─どこかで…
聞いたことのある話だと、杏奈は思った。それどころか、むしろ、自分がそのことをクライアントに伝えていた。
─体、心、魂…
感情をもち、思考をするのは心であり、魂はそれを見る者。本質的な自己である。
「この真のリラックス状態において、私たちは心の潜在意識と無意識の層にアクセスすることができるのです」
生徒たちは、圧倒されていた。ゲイルは一見、つかみどころのない「不思議ちゃん」であった。その声の可愛らしさは、彼女を女性らしく、感情豊かに見せるが、実は、豊かなのはその知識のほうである。そのことに、生徒たちはだんだんと気づき始めた。
「ヨガの教えや、インドの他の哲学的伝統によれば、私たちは肉体と精神を通して人生を経験している純粋意識です」
─純粋意識…
Purusha(プルシャ)と呼ばれる、永遠の魂。創造と物質を越えた内なる存在(高次の自己)。
このあたりは、ヨガ、アーユルヴェーダの知識に加えて、サーンキヤ哲学の予備知識がなければ、理解するのが難しい。ゲイルは時々、ホワイトボードを使って、それらの知識を補完してくれた。それでも、あかつきでの仕事を通した学びの土台がなければ、杏奈は理解が及ばなかっただろう。
「私たちの肉体には、ナディと呼ばれる経路が存在します。ナディは数万とも、数十万あるとも言われています」
─数万…
圧倒的な数である。
「それらのナディのほとんどは肉体と精神の機能に関係していますが、意識に関連する特定の経路もあります」
杏奈はその話に思い当たる経験があった。マノヴァハ・スロータのことを学び、その観点からクライアントについて分析したことがある。似たような話に聞こえる。
「程度の差はありますが、私たちはみんな、これらの経路の中で、ある程度の閉塞を経験します」
この閉塞により、本質としての魂と、すべての存在に内在する完全性を忘れてしまう。純粋意識からの、分離である。
「その結果、私たちは分離と苦しみを経験します」
部屋の中はしーんと静まり返っていた。
「ヨガニドラの実践は、これらの経路を浄化し、より高い意識を取り戻す積極的な実践です」
その恩恵は意識の経路だけでなく、数万、数十万に及ぶナディすべてで感じられる。
「ヨガニドラの実践により、プラーナは肉体と精神をより自由に流れ、治癒プロセスをサポートします」
免疫系、神経系、内分泌系、および身体のすべての器官をサポートする。さらに、がん、心臓病、自己免疫疾患、慢性疲労、痛みなどに苦しむ患者の治癒プロセスをサポートする、優れた補完的アプローチなのだ。
「ヨガニドラは、自己治癒に最も有益な実践の一つです」
アカデミックなヨガニドラの解説は、さらに続いた。
「ヨガニドラのメリットを、伝えておいたほうがいいですねェ」
ヨガニドラのメリットとは。
まず第一に、ストレスや不安を軽減するのに役立つ。深いリラックス状態に導くことで、休息と回復を司る副交感神経系が活性化される。体がリラックスすると、ストレスホルモンが減少し、落ち着きと静けさに包まれる。これは全体的な健康に大きな影響を与えるだろう。
第二に、睡眠の質の向上。ヨガニドラにより心を静め、体をリラックスさせた結果、眠りにつきやすくなり、一晩中眠り続けることができるようになる。
第三に、高次の精神的成長。ヨガニドラにより潜在意識の奥深くへと旅すると、真の自分との深いつながり、内なる静寂と静けさを体験できるかもしれない。この実践により、直感、創造性、内なる知恵を活用することができ、自己発見と個人的な成長への扉が開かるのだ。
ゲイルはまた、現代科学が明らかにする、その深い効能にも言及した。
数多くの科学的研究により、ヨガニドラの実践は心身の健康のさまざまな側面に、良い影響を与えることが分かっているらしい。
たとえば、脳に与える影響である。脳は深いリラクゼーションと瞑想状態に入り、アルファ脳波が増加する。アルファ脳波はリラックス、創造性、学習能力の向上に関連する。
─シロダーラと同じ…
杏奈はシロダーラの恩恵に、思いを馳せた。
そして、神経系にも良い影響を与える。体の不随意な機能を制御する自律神経系を調整するのを助けるのだ。自律神経系の副交感神経を活性化することでリラクゼーションを促進し、慢性的なストレスが体に及ぼす悪影響を軽減するのに役立つ。
「ここまででなにかご質問はありませンか?」
ゲイルは説明をそこで止め、生徒たちを見渡した。
「あ、あの」
「はい、妙子さン」
「えっと、ヨガニドラと瞑想は、どう違うんですか?」
部屋の一番奥に座る妙子が、素朴な質問を投げかけた。
「ンフフフ。いい質問ですねェ」
ゲイルはにんまり笑った。ンフフフの声は、通常よりひと際高くなった。
「ヨガニドラと瞑想は、時には交わることもある、二つの異なる実践です」
これらはお互いを補完するが、どちらかがもう一方を置き換えることはできない。
「それぞれ別の、精神的な筋肉を発達させ、異なる利点をもたらします」
精神的な筋肉…と言われても、抽象的な話で、生徒たちは呆然とするばかりだった。しかし、ゲイルはそんな生徒の反応に少しも動揺した様子を見せず、
「みなさンはアシュタンガヨガ─八支則をご存知ですね?」
と、前提知識があるかどうか尋ねた。杏奈とひかりはおもむろに頷いた。妙子と楓は、頷く代わりに首を傾げた。
「あら、そうですか」
ゲイルはホワイトボードに向き直って、八支則を書き連ねた。
八支則は、『ヨガ・スートラ』の中で示されている、最適な人全の生き方を説明したものだ。
「八支則はここに記すとおりです」
①Yama(ヤマ):5つの禁戒
②Niyama (ニヤマ):5つの規律
③Asana(アーサナ) :ポーズ
④Pranayama (プラナヤーマ):調気
⑤Pratyahara (プラティヤーハラ):制感。感覚のコントロール
⑥Dharana (ダーラナ):凝念。心の作用から離れ、内側に集中すること
⑦Dhyana(ディヤーナ):静慮。集中の対象物との絶対的一体感
⑧Samadhi (サマディ):悟り。ブルシャ、あるいは内なる神と完全に一体になる状態
「ある意味、ヨガニドラ中に感覚から離脱すると、ダーラナとディヤーナの準備が整います」
アシュタンガヨガの六番目と七番目の段階である。
「つまり、ヨガニドラは瞑想の準備をすると言っても過言ではありません」
瞑想では、実践者はすべての努力を手放すことから始め、ただ観察者になる。時間が経つにつれて、人は真の自分、高次の自己とつながることを学ぶ。
瞑想に没頭した状態であるディヤーナに達すると、本当に手放してただ存在することが可能になる。言い換えれば、瞑想は心、体、魂を同時に一つの場所に導く。
「そこに到達するにはさまざまな方法があります。ヨガニドラも、その一つといえるでしょう」
「さあさあ、話が長くなってしまいました」
そう言うと、ゲイルはふっと笑った。
「講義ばかりしていても退屈でしょう」
それは、間違いない。硬いフローリングの上に一枚のブランケットを敷いたくらいでは、だんだんとお尻も痛くなってくる。
「いよいよ、ヨガニドラをやってみましょう」
生徒たちは、期待に胸を膨らませた。さんざん予備知識は入れられたものの、肝心のヨガニドラを、まだ一度も実践していないのだ。
「ヨガニドラは、いくつかのプロセスを踏みます。詳細は後で学びますが、実践の前に、そのプロセスを大まかにお話しておきましょう」
ヨガニドラは、ガイド付き瞑想や講師の指導を通じて練習するのが最も一般的である。
講師は声を使って生徒の意識を導き、生徒をより深いところへ導く。講師の声が最初の焦点である。講師は生徒が体の個々の部分に集中し、保持、制御、または緊張している部分を探すように導く。これらはプラーナの流れが乱れている部分だ。講師の指導に従って、生徒はそれらの部分をリラックスさせ、プラーナがより自由に流れるようにする。体のそれぞれの部分が二番目の焦点である。
プロセスの最後には、体全体が深くリラックスし、生徒は目覚めたまま、ヨガニドラと呼ばれる意識状態になる。
「あ、そうだ」
そこまで話して立ちかけたところで、ゲイルはもう一度腰を下ろす。
「まだ大願について話していませンでした」
大事なことなのに、と言いつつ、ゲイルは居ずまいを正す。
─まだ、始まらんのかい。
生徒たちは心の中で呻いた。
しかし、ゲイルが言う通り、大願はヨガニドラにおいて重要であり、実践する前に、話しておく必要がある。
「ヨガニドラの大きな特徴の一つは、瞑想の最初と最後に大願を心の中で三回唱えることです」
「タイガン?」
「大きな願いと書きます」
そもそも、瞑想とは、あらゆる願いや想いを手放して、心を「空」にしていくもの。しかし、心は放っておくと、無制限に動き続けてしまう傾向にある。
「そんな心を鎮めるには、強い動機が必要になってくるのです」
この「瞑想を深めるために必要となる動機」は、「サンカルパ(大願)」と呼ばれる。ヨガニドラの最も大切なコンセプトの一つである。
「大願を心の中で強く抱くことで、瞑想中の集中力を引き出し、私たちの心を空に近づける大きな支えとなります」
そのためにも、大願の設定の仕方と唱え方には、ちょっとしたコツが必要になる。
「最も大切なポイントは、刹那的な欲望や快楽を満たすだけの願いにするのではなく、人生を通して恒常的に持ち続けることができる願いを設定することです」
─人生を通して、持ち続けたい願い…!
なんだか、壮大な話になってきた。
こういった願いを、できるだけ簡潔で肯定的に、それが今まさに叶っているような文章、つまり現在形・現在進行形で表現する。そして、できるだけ実感を込めて心の中で三回唱えていく。
「ヨガニドラ中は心がとてもオープンで受容的になるため、大願は人生の方向性を変える強力なツールとなります」
杏奈はもうメモを取っていなかったが、ゲイルのその言葉は不思議なほど心に浸透した。
「決意を繰り返すたびに、決意は強くなります。そのため、大願は一定に保たれるべきです」
ヨガニドラの練習をするたびに、同じ大願を唱えるということだ。それが現実になるまでは。
「大願の例としては、例えば…」
私は幸せに満ちている。
私は、自分を完全に肯定することができている。
私は周囲から信頼され、必要とされている。
「こういったことです」
「…」
参加者たちは沈黙した。ゲイルが指示するまでもなく、どんな大願を唱えるか、思案に入ったのだ。
─人生を通した、願い、か…
杏奈は折に触れて、人生の優先順位を考えている。しかし、自分が掲げている現状の第一優先項目は、ここ数年をかけて達成したいことであって、人生の目標とはいえないかもしれない。
─いや、でも、関連している…
それを簡潔で肯定的な文章で。それがまさに今、叶えられているというように表現する。
「…」
しばらく、生徒たちが大願を考える時間が与えられた。
─直感が大事ですよ。
ゲイルは生徒たちを眺めながら心の中で呟いた。練りに練って考えることではない。
「準備は整いましたか?」
ゲイルが尋ね、生徒たちは頷いたり、首をかしげたりした。
マットを敷き、最初に軽いヨガをする。ほとんどストレッチのような動きだ。それから、生徒たちはマットの上に仰向けになった。
ゲイルは照明を落とし、部屋の中央に立つ。それからゆっくりと目を閉じ、数呼吸おいてから、目を開いた。
─さあ、それでは、潜在意識と無意識の狭間へと参りましょうか…
昼食も共有スペースで、みんなで摂った。
ヨガニドラの練習の間、妙子と楓は思わず寝落ちしてしまったらしい。
「これから自分もガイドをしないといけないのに…」
しかし、ゲイルはウフフフと笑って、
「疲れていたンですよ。仕方ありませン」
なんでもないことのように言った。
杏奈は、ヨガニドラを受けたのは今回が二度目であった。ヨガのスタジオで受けたことがあり、あの時は途中で寝落ちしてしまった。しかし、今回はゲイルの言葉に集中しながら、起きているよう努めた。
通常、日中に横になると(滅多に横にはならないけれど)寝起きが悪いことが多いのだが、今は、驚くほどすっきりしている。そして、やる気がみなぎっていた。
─これが、ヨガニドラ…
ヨガニドラを習得することも、杏奈の「大願」を果たすための道に繋がる。ヨガニドラによって、杏奈は大願への意識がいっそう増したのだろうと思われた。
午後も講義が続く。
「ヨガニドラはテクニックではなく、意識の状態です」
今度は、より実践的な知識…つまり、指導法であった。
「人をこの状態に導くテクニックはいくつかありますが、皆さンには私が踏襲しているやり方で実践してもらいますねェ」
ヨガニドラを実践する方法は、それぞれの伝統によって異なるのだという。
「このテクニックは、段階を踏みます」
ヨガニドラは、身体と心の緊張を解放するように設計された、非常に体系的なアプローチに従う。
ヨガニドラの状態を達成するためのステップは。
一.準備
ヨガニドラは通常、横になって行う。まずはシャヴァーサナ(屍のポーズ)を行う。いくつかヨガのポーズを行ってからシャヴァーサナに入ることもできるし、補助道具を使うこともできる。体を毛布で覆ったり、アイマスクをしたりして光を遮ったほうが安心であれば、そうしても良い。
二.最初のリラクゼーション
意識的に体と心をリラックスさせる。その手段はいろいろあるが、最も簡単でよく使われるのは、ボディスキャン。つま先から頭頂部まで、順番に注意を移し、その途中で感じる感覚を観察する。練習中眠くなっても、そのたびに飛びそうになる意識を呼び戻して、注意を怠らないようにする。
三.サンカルパ(大願)
簡単で、短く、肯定的な言葉で、大願を表現し、それを黙って三回唱える。
四.意識の回転
精神意識を体全体に動かす。講師の声に従い、心の中で体の様々な部位の名称を唱える。それらを心の目で見る。対照を一点から一点へと動かし続ける。この意識の回転により、体の各部分と脳内の関連する神経経路が同時にリラックスする。
五.呼吸を意識する
呼吸に集中し、ただお腹の動きを観察する。お腹の上下運動を数える。
六.感情と感覚
様々な感覚(身体的または感情的感覚)を探求し、それらを手放す。これは、熱と冷たさ、重さと軽さ、痛みと快感など、相反する感覚のペアで実践されることが多い。これにより、対立する脳半球を調和させると言われている。これらの激しい感情を思い出すことで、感情的な緊張を和らげることができる。この段階の終わりに達すると、落ち着き、リラックスし、ほとんど眠っているように感じるはず。
七.視覚化
講師が挙げるさまざまなイメージを視覚化する。たとえば、夜空の星、浜辺に打ち寄せる波、燃えるろうそく、山の稜線、満月、など。最後は、心の平穏と静けさの感情を呼び起こすイメージで終わる。視覚化は、精神的な緊張を和らげ、自己認識を高めると言われている。これにより、心が前向きな提案を受け入れやすくなるのだ。
八.サンカルパ(大願)
視覚化の後、心は非常にリラックスし、受容的になっている。もう一度、心の中で大願を三回唱える。
これらが、ヨガニドラのステップである。必ずしも、全て行わなくても良い。短いヨガニドラであれば、三番目までで終わることもある。
「今からガイドの例を配ります」
ゲイルは立ち上がって、資料を一人ひとりに渡した。今回の合宿の中で、資料を渡されたのは今が初めてだ。
数十分間、個人で声に出してそれを読むワークを行った。
「ゲイル先生」
練習の途中で、杏奈は質問をした。
「喋り方で気を付けた方がいいことはありますか?」
杏奈がそう訊いたのは、ヨガの資格を取る時に、喋り方に気をつけろと言われていたからだ。まず、癖のある喋り方をしない。語尾はなるべく短く。ヨガの内容に合わせて、抑揚をつける、など。しかし、今の時点で、ゲイルはこれといったアドバイスをしていなかった。
「ヨガニドラの練習をして、録音を聞いているうちに、こうしたほうがいいというのは、直に分かってくるでしょう」
ゲイルは微笑を浮かべたままそう答えた。
「今は自由に読んでください」
自習の時間が終わった後、もう一度ゲイルのヨガニドラを受ける。
午前中の練習では、ヨガニドラというものを体感するために、ただガイドされたことに意識を集中した。完全に、生徒としてヨガニドラを受けた。しかし、今回はそうではない。今、生徒たちはステップを学んだ。ガイドの文言も練習している。その上で、ゲイルはどんなふうにガイドをしているか、間はどれくらいか、声の質感はどうか、どの言葉がどのステップにあたるのか…これから自分がガイドをすることを前提に、技を参考にさせるための実践だった。
そしてその後、ペアを組み、講師役と生徒役に分かれて練習をする。妙子とひかり。杏奈と楓。
ゲイルは部屋の中をうろうろした。うろうろしながら、生徒のガイドの声に耳を澄ませる。
妙子とひかりのペアは、まず最初に妙子がガイドをしていた。ヨガの実践歴がないため、こうしたインストラクションに慣れていないのか、ところどころでつっかえていた。ガイドというより、教科書の音読のようである。声はよく通って、聞き取りやすい。
杏奈と楓のペアは、楓のほうが先にガイドをしていた。楓の声は若い娘らしい響きがある。か細い声だが、可愛らしい。大人しい性格なのが幸いして、自然に読んでも、ヨガニドラに必要な静けさを得られる。ただ、まだガイドの言葉の意味が彼女自身に浸透していないのだろう。言葉が浮いている。
それぞれのペースで、役割を交代した。
次はひかりが妙子に対しガイドを読んだ。ひかりは、もともとヨガインストラクターである。インストラクションには慣れていて、危なげがなかったし、それぞれのプロセスの意味も、だいたい理解できているようである。あとは、雰囲気の問題だ。ひかりはアクティヴなヨガの指導を得意とし、性格も闊達でハキハキとしているので、そのまま自然体でヨガニドラのガイドをすると、ちょっと生徒は落ち着かないかもしれない。ヨガニドラの雰囲気に入り込み、講師になり切るには、他のヨガと同様、練習を重ねるしかない。
ゲイルは踵を返し、もう一組のペアのところへ、静かに足を進めた。今度は、杏奈がガイドをしている。
─おや?
シャヴァーサナをしている楓の傍にいる杏奈は、今、ゲイルに対して後ろ向きに座っている。楓と同様、線の細い子だが、その背中からは楓にはないものを感じた。
そして、その声に耳を澄ませた時、ゲイルはこんな印象を持った。
─この方は…ガイドに慣れている?
ほとんど体を動かしていないのに、いや、だからなのか、共有スペースで休憩している生徒たちは、ちょっとぐったりした様子だった。眠りを誘う呪文のようなガイドを、ただひたすら相手に対し読み、相手のガイドを聞いていたのだから、無理もない。
「眠い…」
さすがの杏奈も、眠気に襲われていた。
「ちょっと外に出て風に当たりましょうか…」
ひかりの提案にみんな賛成して、あたりを散歩することにした。
玄関の扉を開けると、凍り付くように冷たい空気が流れ込む。
「寒っ」
これは、長く散歩していられそうもない。四人は適当に外を歩くと、屋内へ戻った。
外が寒いと、内は余計暖かく感じる。夕食の時間帯になる頃には、暖炉の火は弱くなっていたが、その熱は持続するようで、室内は暖かい。
練習を通して少し距離の近くなった人たちと、火のそばに寄り添いながら、温かい料理を食べるのは素敵なことだった。今日も菜食料理。とてもおいしいので、量が多くても食べるのが苦になることはないが、杏奈は少し、量を減らしてもらった。秋よりは食欲が落ちてくる時期。詰め込みすぎないように注意すべきなのだ。
夕食を食べながら、杏奈はあかつきとすずかげの共通点を見出していた。まずは、民泊を兼ねた学び舎だということ。スタッフが生徒またはクライアントに混ざって、交流をすること。手作りの料理が提供されること。
もちろん相違点もある。部屋の雰囲気や設備。広さ、周りの環境。学べること、経験できること。それから、スタッフの特徴。
昨日、今日の食事中の会話や、合間の雑談で、杏奈はゲイルについて、こんなことを知った。
ゲイルはやはりハーフだった。母の朝子は日本人だが、父はアイルランド人である。年齢は三十代後半。菜食主義者。蕎麦とりんごの生産に携わる傍ら、登山シーズンを中心に、自宅であるこの家をペンションとして営業させている。ヨガニドラや他のプラクティスのレッスンは、それぞれ週一回程度で開催している。養成講座は、希望者がいれば、年に一、二回。もっちーこと望月は、ゲイルの年下の彼氏である。ゲイルに兄弟はいない。
ゲイルにヨガニドラを教えたのは、母親の朝子。朝子は、松本市立博物館の学芸員として勤務する傍ら、マントラのチャンティング、チャクラ瞑想、ヨガニドラを教える講座を松本市で開いていた。当時はまだ、日本ではまだヨガニドラは珍しく、学びに来る者も少なかったらしい。
本人曰く、ゲイルは「感覚的な人間」である。
─昔から、曖昧な教科や、答えが決まっていないことを考えるのが、得意だったかなぁ。
と言っていた。自由に、柔軟に、物事を捉えることが好きだと。
そんなゲイルは、アーユルヴェーダとの親和性もきっと高いのだろうと、杏奈は思った。
とらえどころのない不思議な雰囲気と、その可愛らしさと、物腰柔らかな雰囲気からは一見想像がつかないが…
─この人はきっと…
飲み込みが早く、ずば抜けた知性の持ち主だ。ゲイルについて、杏奈はそんな印象を抱いた。
翌日も、朝からペアになってガイドの練習をする。
今度はペアを変えた。妙子と杏奈。ひかりと楓。
杏奈は妙子のガイドを聞きながら、優れたヨガニドラの講師に必要なことは何なのだろうと、一方で考えていた。正直、最初はアーサナを教えるよりも、容易いことなのではないかと思っていた。生徒は基本、目を閉じていて、講師は声に出してガイドをするだけで良い。ガイドの言葉をある程度理解し、記憶してしまいさえすれば、形だけはヨガニドラができる。だがもちろん、形ができていればいいという話ではあるまい。
─記憶…できるかな。
そもそも、それも問題だが。この長いガイドは、杏奈にとってはまだ、呪文であった。
─最終的には、ガイドを完全にそのまま記憶したり覚えたりするのではなく、自分がイメージをすることで、自然と言葉が出て来るようになります。
ゲイルはそう言っていた。
─経験、だな…
まだ、生徒としてヨガニドラを練習した経験も少ない。どの先生のヨガニドラが、なぜよかったのか。その見識もないまま、優れたヨガニドラの講師に必要なことなど、分かるはずがない。
─練習を重ねなければ…
それは、ヨガニドラに限った話ではないが、経験を積む中で見えてくるものがある。
─今後も、ヨガニドラの練習を重ねるにはどうしたら良いか?
杏奈が心配するまでもなく、ゲイルはヨガニドラの録音という名の課題を山ほど生徒たちに送りつけてきた。ゲイルのヨガニドラを受けた後のことであった。いつでもゲイルまたは朝子のヨガニドラにアクセスできるよう、URLがメールに届いたのである。十種類以上ものヨガニドラの音声ファイルが、クラウド上で保存されていた。
「これでいつでも、ヨガニドラの練習ができますねェ」
ゲイルはそう言って笑った。
─こうなったら、帰りの車の中でも聞いてやるか…
杏奈はそう思ったが、すぐ、
─それは危険か…
と考え直した。眠くなったらまずい。
その日、生徒たちはすずかげで過ごす最後の夜を満喫していた。ようやく打ち解けてきたのに、明日で最終日とは、名残惜しい。
暖炉の炎の余熱で、共有スペースは暖かく、ゲイルが淹れてくれたホットチョコレートを飲みながら、生徒たちは談笑をしていた。ゲイルが同席していないのを良いことに、話題の多くは、ゲイルに関するものとなった。講義の印象、ヨガニドラのスキル、そして、彼女自身の人となり。
「口コミでねェ」
妙子は今回の講座に参加したきっかけについて話した。口調がどこか、ゲイルに寄ってきているが、本人はあまり気づいていない。
「すごいヨガニドラの先生がいるから、受けてみたいって、お客さまが言ってたの」
その講師は、高齢の女性だと聞いていた。だが、蓋を開けてみると、講師として生徒の前に立ったのは、その娘。
「綺麗だけど、なんかちょっと、不思議な人ですよねェ」
そう言いながら、やはり妙子は、ゲイルの口調がうつっている。
「不思議」とは、オブラートな表現だと杏奈は思った。ゲイルはずっとにこにこしているし、いつも浮かれたような高い声音で話すので、上機嫌に見える。しかし、実のところ、ゲイルは生徒たちとの間には、一定の心の距離を保っている。フレンドリーに見えて、フレンドリーではない。講義の時間や、ちょっとした合間の時間にゲイルと接する度に、杏奈はなんとなくそれに気が付いていた。それでいて…
─嫌いじゃない。
杏奈はゲイルのことを、そう思っていた。むしろ、よく理解できるほうの人間だと直感していた。
ズズ…。
分厚いカップにまだ七割方残るホットチョコレートを啜る。
─うま…
杏奈は頭をがんがん殴られたようだった。久しぶりの濃い甘味。カフェイン。この一杯で、アホみたいに仕事が進みそうだった。
かくして、杏奈はお風呂から上がり、三人が部屋に戻った後も、ずっと共有スペースでパソコンを開いていた。
あかつき大作戦を通して見えて来た、あかつきの今の力量。それを踏まえて、今後の事業のやり方を修正していく必要がある。そう美津子と話していたのだった。そして今は、そのための情報整理をしていた。もちろん、その前には、今日学んだことを振り返って、覚えておきたい知識や気づきを整理していたが。
ごく…。
今度は、杏奈は白湯を飲んでいた。先ほどのホットチョコレートの効果か、頭が冴えている。いや、ヨガニドラの効果なのかもしれなかった。
─まだよく効果は分からないけど、すんなり寝れてる気はする。
先ほどの生徒たちとの雑談の中で、ひかりはそう言っていた。なるほど、睡眠の質が良くなったり、頭をリラックスさせた結果仕事がはかどったりと、やはり良い影響があるのだろう。
共有スペースのライトは電球色で、夜に事務作業をするにはちょっと不向きだ。
杏奈は頬杖をついて、パソコンの画面を眺めた。今入力したことを、読んでいるのである。集中していたので、その人が扉を開けたことに気付くのに、一瞬遅れを取った。
「杏奈さン」
杏奈が顔を上げると、ゲイルが共有スペースに入ってきていた。既に寝間着姿で、暖かそうなガウンを羽織っている。
「窓際は、冷えませンか?」
そう言われて杏奈は、そうかもしれないと思った。
「新しいお白湯が必要かしら?」
「…いえ。もうそろそろ、寝ますので」
ヨガニドラの合宿に参加しておいて、いつまでも睡眠の妨げになるようなことをしていてはいけない。杏奈は、今読んでいた部分を確認したら、パソコンを閉じるつもりで、画面に視線を戻した。
ゲイルはまだそこを動かなかった。
ようやくパソコンを閉じると、ゲイルの視線がこちらに向いていることに気が付いて、杏奈は首を傾げる。
「ンフ」
ゲイルは口角をキュッと上げて笑っていた。もともと堀の深い顔にダウンライトが照らされて、より顔の陰影が濃くなっている。
「私の見立てだとねェ」
杏奈の目の前に立って、いきなり、ゲイルが口を開いた。
「今回の参加者の中で、ヨガニドラを活用していけるのは、たった二人」
「え?」
杏奈は口をぽかんと開けた。ゲイルはンフフと笑って、
「やだ。たったじゃないわね。今回は二人もいるわ」
「…」
ドキッとするようなことを言う。どうしてそんなことを話すのだろう。
「一人はヨガインストラクターの女性」
─ひかりさん…
ゲイルの見立ては当たる。なぜか杏奈には、そんな気がした。
残るはあと一人。
ゲイルがなぜ自分にそんなことを話すかという疑問は解消されないまま、杏奈は自分の名前が呼ばれなかったらどうしようと不安になった。ここまで来たのが、無駄足になる。睡眠の問題を抱えるクライアントに、効果的と思われるツールを提供できない。
「もう一人はあなたですよ、杏奈さン」
「…」
呼ばれた…そう安堵すると同時に、次の疑問が押し寄せた。
なぜそう思ったのか?
「私ねェ、ンフフフ」
しかし、そう尋ねる暇もなく、杏奈がいない方のダイニングテーブルのソファに座りながら、ゲイルが小さく笑った。
「久しぶりに面白い人が来たなーって思って、ちょっとお話したかったの」
「あ…そう…なんですか」
光栄のような、恐ろしいような。だが、杏奈もゲイルと少し話をしてみたいと思っていたので、ちょうど良い。
「さっそく聞かせてほしいことがあるンだけど、いいかしら?」
「…はい」
「大願」
「え?」
まさか、それを聞かれるとは思わなかった。
「あなたがどんな大願を設定したのか、聞かせてほしいの」
杏奈はぽかんと口を開けたまま、塞がらなかった。
何を願ったかなど、普通は聞かないし、答えないものである。それを、やすやすと聞いてきたゲイルは、やはり不思議な人である。
しかし、
「私は、健康で自分らしく生きるのための道へ、その人を導いている」
杏奈もまた、やすやすと答えた。唱えた言葉通りに、言った。
「…」
「…」
わずかだが、沈黙が流れた。その沈黙を最初に破ったのは、
「ンフ」
ゲイルである。
顔をゆがめると、「ンフ、ンフフフフ」と笑い声を漏らした。馬鹿にされているのかと思った。
「あら、ごめンなさい」
ゲイルは口元に当てていた手をテーブルの上に戻して、杏奈をチラと見た。杏奈は真顔だった。感情が動いた時、無意識のうちに、杏奈は表情を無にしようと努める傾向がある。隠しきれているかどうかは、別として。
「悪気はないの」
「…変ですか?」
「ンフフ。そんなことないわ」
「…」
「それが、あなたがあそこで働く目的なの?」
あそことは、あかつきのことを言っているのだろう。杏奈は小さく頷いた。
「大丈夫。ちゃんと、理解はできているンですよ。なぜなら私も、そういう奇想天外なことを、朝起きる度にいくつも信じているような人だから」
「…?」
この大願が、奇想天外だというのだろうか。
私はあなたほど奇想天外ではありませんが…と言いたいのを飲み込む代わりに、
「変でないのならよかったです…」
と苦し紛れに言った。
「あなたも、曖昧なものとの相性が良いのね」
「曖昧なもの…?」
杏奈は目を瞬いた。
「それに、不思議な信念があるわ…」
「…」
杏奈はゲイルの思考回路についていこうと必死だった。まず、曖昧なものとは、アーユルヴェーダのことを言っているのかと思われた。しかし…
「曖昧なものと相性が良いと言われたのは、生まれて初めてです」
「そう?」
今度はゲイルのほうが目を瞬いた。
「はい。どちらかというと、堅実なものにしがみついてきましたから」
「うーン。でも、むしろ今までのほうが本質から遠かった…ってこともあるからねェ」
杏奈は、目を見開いた。
「あなたは本来、もっと自由で、柔軟な思考ができる人なのよ。でも、今まで何かが原因で、それが妨げられていただけ」
「…」
「たとえばの話ね」
ゲイルの言っていることは、果たして、真を突いているのだろうか。
自分のことは、よく分かっているようで、分かっていない。もしかしたら確かに、ゲイルのいう通り、自分でないものを今まで自分だと思っていたのかもしれなかった。
杏奈自身が、自分に対して気づけないようなことでも、ゲイルは透視しているというのだろうか。
「…あの、ゲイル先生」
「うン?」
「先生は、どうしてヨガニドラを教えてらっしゃるのですか?」
今度は杏奈が尋ねる番だった。
頬杖ついて杏奈のほうを見ているゲイルの瞳には、きらきらとした光が宿っている。
「私は若い頃、海外で登山をしていて、崖から軽く滑落したことがあったの」
「滑落?」
しかも、軽くとはなんなのだ。
まったく、驚くようなことを、ゲイルは話した。
「私は全身を打ち、高熱が出て、病院のベッドに横になっていた。その間、私は自分の中の目撃者、つまり痛みや不調の影響を受けていない自分の一部に気づいたの」
でもゲイルは最初、自分が自分を見ているとは思わなかった。
「この世に生まれ得なかった、私の片割れを通し、私を見ていると思っていた」
「この世に生まれなかった片割れ?」
「ンフフ。お話してなかったですよね」
ゲイルは目をくりっと大きく見開いて、
「バニシングツインなんですよ」
なんだそれは。
「妊娠した双子の赤ちゃんのうち一人がお腹の中から消えてしまう現象が起こったんです。私は、生き残りのほうです」
「えっ?」
まずゲイルの母・朝子のことについて話をすると。
彼女は考古学の研究員で、アイルランドで遺跡発掘調査中、現地の手伝いとして入っていたアイルランド人の男性と結婚。帰郷し、朝子は学芸員となった。そしてまもなく、双子を妊娠する。二卵性双胎児であった。
しかし、妊娠初期、双子のうち一方が亡くなり、子宮に吸収されていった。バニシングツイン(双胎一児死亡)が起こったのだ。
─なに、それ…
そんなことが起こり得るなんて、杏奈は知らなかった。
「なぜそんなことが起こるかは、わかっていないみたいなンだけどねェ」
「…」
「別に、片割れのことを、そんなに気にしていたわけでもないけど」
妊娠十四週以前に起きたバニシングツイン─それも二絨毛膜二羊膜の場合は特に─は、母体や分娩、もう片方の胎児への影響があることは少ない。
高齢出産ではあったが、朝子は特に問題なくゲイルを出産。
朝子が片割れのことを悲しんでいる、あるいは他の何らかの感情を寄せている場面を、ゲイルは見た覚えがない。そもそも、バニシングツインのことを知ったのだって、ゲイルが高校を卒業する頃なのだ。ゲイルは、そう言われても特に実感が湧かず、したがって、片割れに思いを馳せることもほとんどなかった。
それが事故で入院中、潜在意識と無意識の狭間で、なぜ片割れの目を通して自分を見ているなどと思ったのか、その時のゲイル自身も理解不能であった。
「話が逸れてしまいましたねェ」
「あ、すみません…」
とにかく、その滑落事故が起こった後、ゲイルは二週間ベッドに横たわっていた。その間、意識を集中して自分の微細な体を目撃し、調べ、自分がこの体ではないことを意識した。体内の微細なエネルギーの流れを感知する並外れた能力も発達した。その状態で、エネルギー (プラーナ) の流れの詰まりと、意識的な意図によってそれを解放する方法に気づいた。
「すると体の回復が、わずかに早まった」
「…え」
「気がした」
「…?」
大方体調が戻った後も、身体の治療を続けるためにそれを再現しようと努めた。
それからしばらく経ったある時、ゲイルは、朝子が生徒にヨガニドラの指導をしているのを聞くことになる。
「自分がベッドの上でやろうとしていたことが、母が実践していたヨガニドラとほとんど同じであったことに、その時気が付いたの」
杏奈はぽかんと口を開けたまま、言葉が出なかった。不思議な話だった。
それまで朝子が持っていたテクニックに特段の注意を払っていなかったゲイルだが、その時を境に、関心をもつようになる。絶大な関心を。
「ようやく母に教えを求めた」
ゲイルは懐かしむように言った。
朝子の声に導かれて、意識的な深いリラクゼーションの状態に入り、微細なエネルギーの流れを感知し、残っていたブロックを取り除き始めた。
「滑落によって生じていた体の痛みと戦っていたけれど、十数年後、私は完全に回復しました」
「…」
信じられないような話だが、嘘をついて何になる。
「ゲイル先生…」
「…はい」
「あの、滑落した時ってやっぱり、その…全身を打たれましたか?」
「ええ。全身を打ちましたよ」
「…」
「…頭も含めて」
ゲイルの笑みが、苦笑いに見えたのは、これが初めてであった。
「でも、脳の働きは正常ですよ。それ以前と、何も変わらないわ」
「そうですよね。…すみません、今の質問はなかったことに」
「もちろん」
二人の間に、ちょこっと気まずい沈黙が流れた。ゲイルはポリポリと頬を掻いた。
「えっと…ゲイル先生は、ヨガニドラ以外のテクニックも、お母さんから受け継いだんですか?」
「ええ。私も母も、アーサナより、聴覚や心にはたらきかけるヨガのほうを好むという点では、似ていたから」
そうした適正の類似も、教えを乞うまでは、全く気が付かなかったのだという。
「あなたは?」
今度は、ゲイルが杏奈に問いかけた。
「あなたはどうして、そのあかつきという施設で働こうと思ったの?」
今度は目的ではない。ゲイルは動機を尋ねている。
杏奈は、端的にきっかけを教えたが、より深い部分までは、言及しなかった。美津子と沙羅にしか話していない部分は、隠したのである。しかしそのことに、杏奈は一抹の罪悪感を抱いた。ゲイルは、おおっぴらに自分のことを話したのだろうに。
─いや。
だが、ゲイルとて、自分には話していない、もう少し深い事情があるのかもしれない。
杏奈が話し終わると、ゲイルは「ふうン」と短く相槌を打った。それで、終わりだった。
「大願だけれど」
「はい」
「あれは、途中で変わってもいいからね」
「…?」
ゲイルは不可解なことを言うと、杏奈がその意味を問う前に立ち上がってしまった。
「ンフフ」
と不敵な笑みを浮かべ、
「では、おやすみなさい」
そう挨拶をすると、ゲイルは共有スペースを出て行った。
杏奈は荷物をまとめながら、ゲイルの言ったことの意味を考えた。
─やっぱり、あの大願は違うということだろうか…
「継続が鍵です」
翌日、練習と実践が終わった後、ゲイルは今後のヨガニドラの学習方法について言及した。
「ヨガニドラのメリットを最大限に享受するには、定期的にヨガニドラを実践するようにしてください」
少なくとも週に数回。ゲイルと朝子のヨガニドラの録音を活用しても良いし、出回っている他のヨガニドラを参考にしても良い。
「毎日同じ時間帯にヨガニドラを行うことをお勧めします」
ヨガニドラは、休息してエネルギーを補給したい時に、いつでも行うことができる。が、最大の効果を得るためには、決まった時間に行うのが良いようだ。
午前中に行えば、穏やかで明晰な気持ちで一日を始めることができる。夕食前に行えば、リラックスを促し、早めに寝る準備をすることができる。いずれにせよ、やはりお腹がいっぱいな時には練習するべきではない。
「練習の間も、できる限り起きているように努めてくださいねェ」
「先生、やっぱりヨガニドラで寝てしまうことは、良くないのでしょうか?」
と、ひかりが質問した。
「それ自体は悪いことではないですよ」
むしろ不眠症の人には有効だという。
「けれど、セッション中にすぐに眠ってしまうと、そのメリットを十分に享受できません」
メリットが全くなくなるわけではない。しかし、最大限の効果は得られないのだ。
もし午後遅い時間帯は眠くなってしまうのであれば、なるべく早めに練習するのが上策である。
「さまざまな録音を試してみてください」
ゲイルはそれから、おすすめの動画をさらにいくつか送ると約束した。ガイド付き録音は数多くあり、それぞれ独自のスタイルとアプローチを持っている。
「さまざまな録音を試して、自分に合うものを見つけてください」
「はい」
「次の合宿までに、自分のヨガニドラを二つ、作って来てください」
実はこの合宿は、今日で終わりではない。時間を空けて、また春頃に最後の合宿をここで行うことになっている。その時までの課題を、ゲイルは伝えた。
「みなさンが作ったヨガニドラを、実際にここでやってもらいます」
生徒たちに緊張が走った。もちろん、ヨガニドラの指導ができるようになるためにここに来ているのだから、合宿でそれをするのは当然だ。しかし、今の時点ではハードルが高く思えるのである。
「作っていただくヨガニドラは、二つ」
ステップ一から三までの、短いバージョン。すべてのステップを踏む、長いバージョン。
「では、みなさン。今回の合宿はこれで終わりにします」
質疑を経て、ゲイルは閉会宣言をした。
「普段の生活から、自分自身に対して忍耐強く、優しくしてください。ヨガニドラは、自己を委ね、自分を思いやる練習です」
─マットの上でだけでなく、マットの外でも、同じようにせよ、ということか。
杏奈はゲイルの瞳を見つめた。夢見心地な、しかし、常に本質を追求しようとしているような、澄んだ目だった。
「毎日の実践を通して、心と身体をクリアに保ち、大願を実現していきましょう」
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