「え…在庫切れですか」
「はい。発注ミスがあって…」
日曜の午後、杏奈は食品館わかばまで、食材と日用品の買い出しに来ていた。足込町には日用品を売る店がここしかなく、したがって、
「美津子さん、すみません。ちょっと新城まで行ってきます」
杏奈は遠出を決めた。たかだか日用品を買いに、片道三十分も四十分も車を飛ばさなければならない。足込町はそういう所だった。いつもなら諦めて宅配を頼むところだが、杏奈が遠出しようと思ったのには理由がある。
美津子はおそらく、順正を待っている。彼があかつきを訪ねるのは、だいたい日曜日だ。杏奈は、先日順正を引き留められなかったことに一抹の後ろめたさを感じており、次に彼がここに来たら、どのみち自分は場を外そうと思っていたのである。
ハンドルが冷たい。
寒さを感じると心拍数が低下し、全身の血液が停滞する。重要な器官を温かく保つため、血液のほとんどが中心部に集中する。そのため、消化力は強くなるが手足は冷える。けれど、それにももう慣れた。既に一月も最終週に入り、寒さと乾燥に身体はとっくに適応している。これから、まもなく気温は上昇し、乾季は終わる。
─お弁当…食べたかな。
杏奈は我ながら、思い切ったことをしたものだと思った。けれど、順正が能面のような無表情を貫きつつ、胸のうちでは遺児の泣き顔を、何度も繰り返し見て心を痛めているのを察すれば、ああせずにはいられなかった。それが杏奈ができる、唯一のことだから。
─人は、異なるやり方で、心を鎮めようとする。
と、順正は言った。人は、異なる癒しのプロセスを歩む。花屋の忘れ形見は、どのように癒しのプロセスを踏むことができるだろうか。
─お弁当、か…。
運転をしながら、ずい分と昔に、美津子から聞いたある事件のことを、杏奈は思い出した。もしかしたら、片親がいない遺児の今後の苦悩が想像できるからこそ、順正はなおさら心を痛めてしまうのかもしれない。杏奈の予測が当たっていれば、だが…
翌日、杏奈は予期せず、その答え合わせをすることとなった。
キッチンで片付けを終え、少し休憩しようかと書斎の扉を開けると、そこには背の高い女の後ろ姿があった。ブラウンのベースカラーに、シルバーのハイライトメッシュが入った髪が、肩甲骨の上あたりまで流れている。
「あ…」
今日は一日、来客はないはずだったが。
黒とグレーが入り交ざった、濃淡のはっきりしているタイトなワンピースは、女性の身体の線をよく表している。腰はキュッとしまり、胸元と臀部は豊かな丸みを描いていた。横に大きく入ったスリットから足が艶やかに覗いている。寒いのに、ストッキングであった。
扉が開いたのと、後ろに誰かが立つ気配で、その女はゆっくりと杏奈の方を振り返る。
杏奈はその女の顔に視線が吸い寄せられた。見るからに気が強そうであるが、七、三に分けた長い前髪が降りかかる目は、切れ長で大きく、涼し気である。若くはないが、鼻筋がすっと通り、顔のラインがシャープなクールビューティーである。
「ん?」
その女が、少し首を傾げてみせた。お前は誰だ?と訊かれているような気がして、
「あのう、私はここのスタッフですが…お客さまですか?」
杏奈は尋ねながら、女から目を離せなかった。
女の薄い唇には、杏奈が使っているものよりも鮮やかな赤い口紅が塗られている。
「客ではありません」
客ではないが、誰なのかは、女は名乗らなかった。
コートハンガーには、ファー付きのオフホワイトのロングコートがかけられている。
沈黙を破るように、背後から廊下を渡る足音が聞こえ、
「杏奈。ここにいたの」
美津子が書斎の入り口に立った。
「ミツ。お茶を淹れにって…どこまで行っていた」
「仕方ないじゃない。思い出した時にやるべきことをメモらないと…いい年なのよ、これでも」
自室に行っていたらしい。
「ふん」
女は取りつく島もない、といった態度で鼻を鳴らす。
「それにしても、ここは変わらんな」
「一体何年前の話をしているの」
美津子は書斎を横切り、女の対面に座った。
「この様相も悪くないが、やっぱり天の風ハウスに比べたら華やかさに欠ける」
「あらそう。で、どうったの?天の風は」
「サービスはいいけど、あの鼻っ柱の高いオーナーはいけ好かないな」
「杏奈、覚えてる?」
「へ?」
逃げ遅れたようにそこに突っ立っていた杏奈は、美津子にそう尋ねられて、ようやく体が動いた。
「去年の秋頃、ここに滞在したアーユルヴェーダサロンの三人組がいたでしょ」
「ああ…」
その三人なら、いやというほど覚えている。特にオーナーのゆかりからは、料理教室のやり方についてご指摘をもらい、杏奈は少しの間落ち込んでいた。
「伊豆で滞在型アーユルヴェーダリゾートを始めたそうなのだけど…あかつきのようなね」
それが、天の風ハウスだ。
「しおりさん…この方が、昨日までそこに滞在してたんですって」
「純日本家屋なのにハウスっていう名前もいかがかと思うけどね」
しおりは深くソファに腰掛け、脚を組んだ。
「杏奈、悪いけどお茶をもってきてくれる?」
「はい…えと、何にしましょう」
「何でもいいけど、温かいものを」
そう言われて、杏奈はもう一度キッチンに戻った。
次に書斎に入った時、二人はまだその天の風ハウスのことについて話をしていた。
「あのオーナーも視座が低いな」
お盆に乗せて持って来た茶器をローテーブルに置きながら、
─しざ?
杏奈はしおりと呼ばれた女性の口から出て来た単語が、うまく漢字変換できなかった。
「口を開けば同業者を揶揄するような…アーユルヴェーダの業界人同士で、争っていてどうする」
しおりはややハスキーな、甲高い声の持ち主だった。
しおりはしおりで、ゆかりの悪口を言っているわけだが、ハキハキと、口早にまくしたてるような物言いからは、陰鬱さはあまり感じない。
杏奈は愛想笑いを浮かべて、しおりにちょこっと会釈をすると、そのまま居間のほうへ立ち去ろうとしたが、
「杏奈、この方はね…」
美津子から引き留めるように声をかけられ、足を止める。
「柴崎先生のお母さんよ」
「…ええ?」
杏奈は驚いた顔をして、改めてしおりを見やった。なんとなく、そうではないかと思っていたが…
─この人が…柴崎先生のお母さん!
これがDNAというものなのか。杏奈の母・陶子と同じくらいか、それよりも年上と考えられるが、端麗な顔つきの美魔女だった。この女性がもつ面影、雰囲気、ものの言い方、顔立ち、身長の高さ…それらは、この女性が紛れもなく順正の母親であることを伝えていた。
しおりは順正の母親と紹介されて、なぜか面白くなさそうにまた鼻を鳴らす。
「正月すら家に帰らない親不孝者が、このあかつきには、月に一、二度はやってくるとか」
嫉妬めいた感慨を抱いたのだろうか。
「散歩コースなんですよ」
「犬の散歩で寄るだけよ」
杏奈と美津子がフォローを入れるのが同時だった。しおりは二人を交互に見比べ、
「…なんだか、あいつが能天気呼ばわりされているような」
唇をつんと尖らす。それはそれで、気に食わないらしかった。
─それにしても、なんで先生のお母さんがここへやって来たのだろう…
もしかして…と、杏奈の心は一瞬揺れた。
「あのう、先生の様子を見に来られたんですか?」
あの時は大丈夫そうに見えたが、案外彼は参っているのだろうか。杏奈は美津子にだけ聞こえるようこっそり訊いたつもりだったが、普通にしおりの耳にも入っていた。
「母親にまで心配されて様子を見に来られたんじゃ、あの子もたまったもんじゃないな」
─違うのか。
しおりからは、息子を案じるような様子が見られない。自信満々な、毅然とした態度。
杏奈は今度こそ、席を外した。性格が全然違うように思える二人が、和気あいあいと雑談を始めたからである。ずい分と懇ろな間柄のように思われた。しかしそれも束の間、美津子が杏奈のいる応接間に入って来て、
「今から施術をすることになった」
美津子がしおりに、アビヤンガを施すという。
「悪いけれど、夕飯の準備を代わってくれる?」
「はい」
美津子は礼を言うと、踵を返して応接間から出ていこうとしたが、くるりと振り向いて、そっと杏奈に耳打ちした。
「…前に、唐揚げ事件のことに話したの、覚えてる?」
「…はい」
それは、美津子がアーユルヴェーダのセラピーを初めて人に適用するきっかけとなった出来事であった。
ひょんなことから美津子が居合わせた、小学生の遠足のお弁当タイムでの出来事…一人の男の子がタッパーを開くと、そこには唐揚げしか入っていなかった。のちのち気になって学校関係者に事情を聞くと、その男の子の家の家庭事情はやや複雑であった。男の子の父親が不倫し、離婚。母方の実家のある上沢に、男の子とその母親は移り住んだが、母親がややネグレクト状態。男の子のほうも、遠足でお弁当が必要なことすら、伝えていなかった。
「…柴崎先生がね、その唐揚げ事件の男の子」
「…」
杏奈は、驚いた顔も声も出さなかったけれど、視線をやや下方に下げて、小さく頷いた。
「気づいてた?」
「なんとなくは」
最初に順正と唐揚げ事件を結び付けたのは、順正が渡したカーネーションを、美津子が嬉々として飾る姿を見た時だ。美津子と順正の間には、母と子のような、強い絆があるように見えた。杏奈が美津子から聞いたことがある、それとつながるようなエピソードは、唐揚げ事件の他にはなかった。だからなんとなく、そうではないかと思っていた。
「…そんなこんなで、私とあの人の繋がりも、深いものでね」
美津子は、今二階に上がっていったしおりのことについて、そう言った。
「なんだかんだで、ずっと親友なの。少し時間をもらうわね」
しおりの心身を回復させたのが、美津子なのだ。そしてしおりと美津子は、それ以来仲がいいらしい。
では、順正としおりはどうなのだろう。
「…もちろんです」
いろいろと聞きたいことはあったが、杏奈はうっすら笑って、美津子を送り出した。
送り出しながら、父と母に一度に目を背けられて、遠足に自分で出来合いの唐揚げを詰めて持って行くしかなかった男の子の気持ちとは、どんなものだろうと思った。
その頃順正と松下は、亡くなった産婦・吉川香織の夫・弘との面談時の様子について、敬子から報告を受けていた。実際に面談をしたのは、上沢市役所の福祉課の職員であったが。
「吉川さん夫妻は、市内で花屋を個人経営していて、今は店を開けていない…」
それは収入が途絶えているということだ。
「状況はあんまり良くない。弘さんの怒りはこちらに向いていて、医療訴訟を起こすために弁護士に相談しているという話を聞いたわ」
「いや、それは…」
松下は首を振った。
順正と松下は大学病院まで呼び出され、事情聴取されている。だがその議論の場において、医療過誤があったという意見を述べる者はいなかった。松下クリニックにとっては、そうでなければならないが、弘は訴訟を起こしても勝つのは難しいだろう。
順正は眉間に皺をよせ、目を細めた。弘は、法廷で争い勝訴することが、妻の無念を晴らすことになると思っているのだろうか。よもや、賠償金をあてにしているわけではあるまいが…。今はどこにもやり場のない怒りをそこに向けるしかないのだろうか。
「お子さんたちは、どうしているんです」
守るべき命が、すぐそばにある。とはいえ、急激な環境の変化に耐えながら、手がかかる幼い息子と、新生児の娘の面倒を四六時中見なければならない弘の精神的負担は、計り知れない。特に娘は、妻の死の象徴に見えてしまうだろう。現実に向き合えていないからといって、弘を責められるわけではない。
「今はお二人の両親が、代わる代わる様子を見に来て、お子さまたちの世話を…」
敬子はそう言うと、力なくため息を吐いた。
「弘さんは今、子供の面倒を見れる精神状態じゃないわ」
本来は、子供が生まれたてのこの時期に、触れ合う回数を増やすことが、母性や父性を養うことに繋がるのだが…
「とにかく、こちらは弘さんや、その代理人の方がいらしたら、なるべく誠意をもって聞かれることに答えるのと…」
敬子は語尾を曇らせた。
─再発防止策、か。
順正も松下も、同じことを考えて、気が塞いだ。
羊水塞栓症は、事前に予測するのは不可能だ。高度医療設備が整う病院で起こったとしても、助かるとは限らないが、ここで起こるよりは、助かる可能性が高いとみなされれば…
─てめぇらがここにいなかったら、助かったんじゃねえの!?
弘の言葉がまたも脳裏に反響する。それは松下クリニックの、ひいてはそこで働く者たちの存在意義を脅かす言葉だ。
順正の脳裏に、またもや、吉川夫妻の息子・達磨の不安そうな顔が映る。そのあとの処理の中で何度も耳にした、彼の泣き声も。
─なにもしてやれん。
この社会の誰かが、遺族に手を差し伸べてくれることを、支えてくれることを、祈るしかない。
順正は達磨の顔が頭から離れなかった。形は違えど、大好きな人と別れる苦しさは、順正も知っている。
五歳くらいの時のこと。
─パパ、好きな人ができたんだ。
父・細川は目の前にゆっくりとしゃがみ、順正と目を合わせると、低く掠れた声でそう言った。
大好きな父親が、家を出ていくと。五歳にして、順正がその意味をよく理解できたのは、母親と父親の関係性が変わり、家の中の雰囲気がおかしくなっていくのを、日に日に感じていたからである。
─どうして?
好きな人ってなんなんだ。
どうして自分と母親ではなく、その人たちのところに行くのか。
─その人たちはね、パパがいなきゃ、生きていけない。
勝手なことを言っているはずの父の目が、悲哀に満ちていたのを覚えている。
─でも、順正とママは強いから、パパがいなくても、生きていける。
父の理屈は分からなかった。
─いやだ!
強いってなに?
僕は強くなんかないよ。
分からない。そんなの分からないよ!
父は、優秀な麻酔科の医師だった。
もともと面倒看が良く、情に厚い性格で、順正のことをひどくかわいがっており、お互いの両親からも子煩悩と言われたものだ。
順正も、父のことが大好きだった。優秀な医師である父を子供ながらに尊敬していた。今度、新しい車のおもちゃを買ってくれるって言ったのに。
その父が。
生活と人生設計が一気に狂わされた母は、心にどす黒い感情が住み着き、荒れていく。
母はその後ずっと、順正と細川が面会することを、許さなかった。
「細川と柴崎だったら、絶対柴崎のほうがかっこいい」
それは、しおりがごく初期の頃発見した、離婚のメリットだった。柴崎は、しおりの旧姓である。
「せっかくいい名前に戻してやったのに、親のことをいつまでも許さぬバカ息子が」
「…名前のことは関係ないでしょう」
美津子はしおりのデコルテにオイルを塗りながら、苦笑いを浮かべた。バカ息子呼ばわりも、どうかと思う。
「…あなたも気になるなら、順正に連絡を取りなさいよ」
「やなことだ。いつまでも反抗的な態度を取る憎たらしい男だ」
「今更、今までと違う態度を取れないだけよ」
いつまでも母親を目の敵にするような、そういう子ではないと、美津子は思う。
「どうだかな」
が、しおりはずい分悲観的だった。
「私と順正は、結局、ずっと冷戦状態だからな」
お互いの気持ちをさらけ出して、ぶつかり合ったことがない。
「そのせいで心の傷がなかなか癒えず、恨みや嫌悪を未だに持ち続けているかも」
そう言うとしおりは大きなため息を吐いた。
「ああ、やだやだ。三十半ばになってまで子供のような」
「…年齢は関係ないわ」
その感情にきちんと向き合い、消化できていなければ、三十を過ぎようと、老人になろうと、自分の中の子供は癒されないままである。安心できない家庭で幼少期を過ごすことも学びだったというには、あまりにも勝手な親のエゴの仕打ちと思っているかもしれない。
「親が無知だった」
しおりは、やすやすと認めた。
「私も、細川もバカだった。でも今のこの親子関係があるのは…同時に順正も無知だった、ということに尽きる」
当時、自分の人生を取り戻すことに躍起になるしか方法を知らなかったしおりのことを、順正は理解して許すしかない。
「理解はしているわよ」
そう言ってから、美津子はしおりに、うつぶせになるよう告げた。右脚の方へワゴンごと移動する。
「私が一つ気になることといえば…順正は、自分が無意識のうちに、子供に同じような接し方をするようになると、恐れていることだ」
しおりは瞑っていた目を、うっすらと開けた。
親子関係が他と比べて厄介なのは、「連鎖」が起こることだ。親がしてきたとおりに、自分もその子供に、同じように接してしまう。
親も、自分も無知だった。そのことに気づけば、自分の子供に対して同じことはしないだろう。ヨガによれば、そこで、カルマは浄化されるのだが。
「…ふん。だからあの子には女のおの字もないのか」
しおりはそう言うと、ふうと息を吐き出した。
「せっかく、綺麗な顔に産んでやったのに。私に似て」
「ふふふ」
美津子はひっそりと笑った。
とげとげしいことしか言えないこの女の肌に触れるのを、懐かしく感じながら。
施術が終わった後、外を散歩したいと言うしおりに、美津子の頼みで、杏奈が栗原神社まで同行することになった。
化粧を落としたしおりは、先ほどよりも少し角が取れて見えた。
杏奈は案内役として同行しているにも関わらず、なぜかしおりの後ろを歩いていた。しおりは案内などされなくとも、この道をよく知っているのだろう。
杏奈はコートを着ているしおりの背中を見ながら、どことない後ろめたさを感じていた。
この人は…いわば、自分と不実な関係を持った、尾形の妻の立場にいる人。
「…」
しおりは歩きながら、後ろを歩く杏奈に意識を向けた。美津子は話し相手としてこの子をつけたのだろうに、当の本人はさっきから後ろで黙りこくっている。
しおり少し歩く速度を緩めて、杏奈と並んだ。
─小さ。
大柄なしおりには、杏奈は子供のように小さく見えた。
「あの子はちゃんと食べているのか」
杏奈は、いきなりぶつけられた問いの内容に戸惑った。
「あのう、分かりません」
数日前、その順正に一方的に弁当を渡したことなどは、黙っておいたが。
そういえば、順正が食事をしているところを見たことがない。医者の不養生、という言葉はあるものの、引き締まった体つきをしているし、そう不摂生はしていないと思うが。体が資本のような職業でもあり、仕事は彼にとって大事なことであるはずだから、自身の健康のために、食にも何らかの気を使っているはずである。
「あなたはあかつきで何をしているの?」
しおりは、先ほどの問いにこだわりを見せることなく、話題を変えた。
「料理番と、セラピストと…集客です」
「集客?」
他にもいろいろ役割があるが、最後の言葉に、しおりは食いついた。
「あなたは集客が何か知っているの?」
そう訊かれると、杏奈は「はい」とは言えない。
「マーケティングをどこかで学んだことは?」
自信をもって「ある」といえるような教育は受けていない。杏奈は正直にそう答えた。しおりが呆れ顔をしたように見えたのは気のせいか。
「ミツは、マーケティングの本質的な部分は知っている。私があれほど伝授したのだから」
もう少し、誰かこの人について補足説明をしてくれないものか。
「…しおりさんは、マーケティングを教えている方なのですか?」
仕方なく、杏奈は自分で訊いた。
「マーケティングも教えている。でもそれがメインじゃない」
しおりは誇らしげに言った。
「私は、女性が自分らしく自由に生きることを助ける、女性の起業サポーターなの」
「女性の…」
「そう。女性専門だ」
でも最近男もいるな、とぼそっと付け加えて、
「私も昔…人生が丸きり変わるような出来事に遭遇してね…なーんにも、なくなってしまったんだ」
「お、お子さんがいらっしゃるじゃないですか」
杏奈は、順正のためにも、そこを強調したかった。
「自分の人生を歩むのと、子供がいるかどうかというのは、実はあまり関係ないんだ。ミツの弟子よ」
「えっと…杏奈です」
「杏奈か。うん。でね、杏奈ちゃん。私は、人の人生を変えることで、自分の人生を変えようとしたんだ」
「人の人生を変えることで…ですか?」
しおりは頷いた。
「私の人生は、夫にめちゃくちゃにされてしまったんだ。子供を産んで、夫の仕事と生活に合わせて、私は仕事を辞めたが、あいつは何も変わらなかった。それなのに、勝手に女を作って、子供を作りやがった」
「…」
「あ、ごめんね。口が悪い…順正と一緒だな。似たもの親子で申し訳ない」
そう言うと、しおりはククク…と笑った。
「杏奈ちゃん、あの子に最初に会った時に、こっぴどい言葉を掛けられたそうじゃないか」
そんな話を、美津子としていたのか。杏奈は肩をすくめた。それは事実だが、いつ頃からか、順正はその時のような物言いはしてこなくなった。愛想は良くないが、雰囲気は悪くない。
それに、性格的には、似たもの親子なのかどうかは疑問が残る。少なくとも、しおりは順正の十倍くらいは饒舌である。
「話が逸れた。ま、そうやって、人生を自分じゃないものによって歪められた女たちを、正しい方向に導いてやるのが、私の役目なんだ」
起業を助けたり、コミュニティ内で、仕事を生み出したりする。マーケティングもその一環で教えるらしい。
「けれど、集客の方法というのは、刻一刻と変化するものだ。そろそろ、あかつきもやり方を更新せねば」
西参道を、至極低速で歩きながら、しおりは話し続けた。
「あかつきには強力なオファーがある。それを全面に出さなければ損だ。伝え方次第ではもっとお客を引き寄せられるのに」
「オファーってなんですか?」
「価値提供の手段のこと。今や、情報が溢れかえる世界でしょう?そんな世界の中で、コンテンツで差別化することは難しい。それ以外の手段を駆使して、客に変化を与える必要がある。そこが大切だ。わかる?」
「…なんとなく」
「たとえば」
しおりは自らさらなる説明をしてくれた。やはり、饒舌なところは順正と似ていない。
「分かりやすい例がダイエット。ダイエットの情報なんて、巷に溢れているでしょう。だけど、行動できないのが問題なの。行動が続かないのが問題なの」
だからダイエットのメソッドだけ提供しても不十分なのだ。
「じゃあ、あなたが痩せるまで、コーチングしますよ。食べた物、毎食送ってください。改善案を送りますよ。僕たちのジムに来て、言われたプログラムを全部こなしてください。僕たちが、忙しいあなたの代わりに、それを管理しますよ。こうして、痩せられる環境を作る。こんなオファーがあったら、痩せられそう、やってみよう!って思うでしょう」
「そ、そうですね」
生徒でもない、初対面の杏奈に対してさえ、これだけ熱っぽく語れるしおりがすごいと思う。
「あかつきも、これと同じ。ヒーリングのための環境が整っている」
確かに、杏奈もそう思っているし、羽沼も同じようなことを言っていた。
「アーユルヴェーダとは何か。個性を見て、消化力が大切で…って、どこの誰でも発信できる情報。けれど、その概念を反映した生活や食事を、こちらで体験できますよ。トリートメントも受けられますよ。自然豊かな場所で、あなたはリラックスしているだけでいいんです。これが言えるのって、日本国内ではまだ数えるほどしかないと思わない?」
伊豆に天の風ハウスができたのが、数少ない競合である。
「競合も見て来たが、あかつきは他のアーユルヴェーダ施設にはない強味がある」
「え…どういうところが」
「足込町というバックグラウンドとのつながりが深いということさ」
近所の人と会っても挨拶もしない都会や、出入りの激しいリゾート地にある施設には、この要素がない。
「自然と共に生きるとはどういうことか。人と人とのつながりがなければ生活しにくい田舎で、人に信頼される自分であるにはどうしたら良いか…ここはそういうことを教えてくれるところだ」
杏奈には、分かるようで、まだ理解しきれない要素だった。
「あかつきには、その強みがある」
そう言って、しおりは嘲笑じみた笑いを浮かべた。
「菩薩のように澄ました顔をして、ミツが自分の生活のすべてをそこに捧げているおかげで、な」
─生活のすべてを…
美津子は普段、全然、鬼気迫った感じを見せない。あかつきの事業にがむしゃらになっている様子なども。
けれど、美津子がいるおかげで、あかつきが成り立っている。ヨガをする場所、果物や野菜の差し入れ、近隣住民への事業への理解、大鐘や永井などといった助っ人の存在…美津子が足込町の中で顔が利くおかげで助かっていることも多い。それに、美津子が育ててきた、仕事のベース、あかつきの信頼、地元の顧客…美津子がしっかりと土台を作ってくれたおかげで、杏奈や沙羅が、安心して新しい企画を打てるのだ。
「あのう…あかつきの伝え方がイケてないのは、私のせいだと思います」
「あなたの?」
「はい。私があかつきの発信をしているので」
杏奈だけではないが、一番長期で携わっているのは自分である。
「それは聞いた。でも、内容はミツも考えているでしょう?」
「はい」
「あなたに、マーケティングの目線からのアドバイスはないのか」
「…」
「ふうん…」
杏奈の反応を見て、しおりは眉を吊り上げた。
「ミツも意地悪だな。知っているなら、山のてっぺんから導いてやればいいものを」
「…」
しかし、美津子の教育方針は、マーケティングに限らず、そうである。スタッフにじっくり、考えさせる。教えてやったほうが早いにも関わらず、答えを導き出すのを、気長に待っていてくれるのだ。
「相変わらず寂れた御殿だな」
花神殿の前に立つと、御殿を眺め渡して、しおりはぽつりと呟いた。
「これがあなたやミツの散歩ルートか」
「はい…」
「はぁ…とんだ田舎だな」
─あなたもこの周辺の出でしょうが。
しおりは今横浜に住み、東京を中心に都市圏で活動を行っているらしい。都会風を吹かしているが、しおりの出身は足込と同じく緑豊かな上沢である。
「めちゃくちゃ寒いな」
夏は平地より涼しいが、冬は寒い。
杏奈としおりは早々に並んで立って、花神さまの祠に手を合わせた。
横目でちらっとしおりを見る。数日前、ここで順正と出くわしたことを思い出した。
─元気…だといいな。
もっとも、順正が元気な様子というのも想像がつかないが。
しおりも、息子が元気でやっていることを祈っているのだろうか。
帰り道、杏奈は再びしおりの後ろを歩いていた。その背中をぼんやり見つめながら、杏奈は先ほどと同じ感慨を抱く。
謝りたい気分だった。
思考がぐるぐると巡る。
─もし、私が選ばれていたら…
尾形が、妻子を捨て、杏奈を選んでいたら。
─あの人の子供は、今の先生のように…
と思ったところで、杏奈は一人、眉間に皺を寄せた。
─先生のように、なんだというのだろう。
順正は、杏奈の目には、厳しいながらも至極まともに見えた。過疎地域の医療を支える、立派な医師だ。産婦人科医としての仕事に熱心で、現状に甘んじず努力を怠らない。
─でも、そういうことではない…
もしも順正が、円満な家庭で、愛を浴びて育っていたら。
─先生はもっと人に頼り、もっと…
笑顔を見せているはずだ。
─私は…
誰かの、笑顔を奪うところだった。
─選ばれなくて…よかったんだ…。
杏奈は、初めて、そんな風に思うことができた。
誰かの苦しい時間を止め、癒しをもたらし、明日への活力を取り戻させる。自分の人生が変わった時から、杏奈はずっと、そのことだけを思ってきた。
誰かの人生を変えたい。けれど、変えるとしたら、良い方向にだけだ。
誰かの人生を、悪い方に変えてしまったら、自分の人生も、悪い方に変わってしまうのだ。
誰かの人生を捻じ曲げて何かを得たとて、その先に自分の幸福はない。
─よかった…選ばれなくて。
尾形と、その家族の人生を、変えることがなくて、よかった。
だからといって、自分の罪が軽くなるわけではないけれども。
杏奈は顔を上げた。
参道の木々が風に吹かれ、ザザ…と音を立てながら、樹冠を揺らしている。その時、木漏れ日を浴びながら佇む、無表情だけれど、涼やかな、順正の姿が思い出された。山を越えてくる順正からかおってくる、森のにおいとともに。
「アーユルヴェーダ業界が、世界に対してできることってなんなの?」
歩調を緩め、顔を上げて樹冠を見やっていた杏奈は、しおりから突如として尋ねられて、
「せ、世界に…?」
その質問のスケールの大きさに唖然とした。
「そうだ」
少し立ち止まり、再び杏奈と肩を揃えて歩き出したしおりは、当然の質問をしたまでだ、という顔で言った。
「やれうちのサロンの方が結果が出るだの、うちの講座の方が知識を学べるだの…どうでもいいことで競り合っていてどうする」
天の風ハウスに滞在したことから、この業界の中にはびこる雰囲気を察知したのだろうか。
「もっと高い目標を持て」
業界内でパイを取り合うのに忙しくしていてどうする。これがしおりの言う、「視座」の低さなのだろう。もっと高い目標のために力を注げ。しおりが言いたいのは、きっとそういうことだ。
「アーユルヴェーダ業界全体が奮い立った時に、力を合わせた時に、この世の中に対して何ができる」
「…」
健康寿命を長くする。
自分らしく生きる姿勢を身に着けることで、幸福度を上げる。
若い頃から健康に関する啓蒙をすることで…
─子供が欲しいと思った時に、子供をもうけられるようにする…
世の中に向けてどのような貢献ができるかといえば…そのようなことが、考えられた。 最後のは、杏奈の希望だったが。
「私には」
杏奈が特定の答えを口にする前に、しおりは言った。
「ヨガやアーユルヴェーダの実践者というのは、負け犬にしか見えない」
「負け犬…」
「現実世界で嫌な思いをして、それがやりたくないから、ヨガやアーユルヴェーダを教える側に回っただけの話だ」
先生ヅラをして、求道者のフリをして。
「でも現実世界で、その教えが本当に生かされているのか、世界に貢献しているのか、考えたほうがいい。学びに逃げることなくな」
あけすけな物言いだったが、自分が責められているようには感じなかった。むしろ、それは教育しようとする姿勢であった。
─しおりさん…
価値のある仕事ができないならさっさと辞めろと言った順正と、しおりの姿が重なって見える。
─やっぱり、先生のお母さんなんだ…
そう認識するのと同時に、しおりが言った意味について考える。
─分かっていた。私もどこかで…
アーユルヴェーダを学び、心身を癒した先に、クライアントや自分が、この世界で何ができるか。それが大事なのだと。
しおりは顔を横に向け、沈黙しがちな杏奈に視線を当てた。
「あなたは、この業界の未来に貢献し得ると、ミツが言っていたぞ」
それから、しおりは少し笑って、
「杏奈ちゃん」
おどけた語調で、名前を呼んだ。
「え…」
「だから、教えている。そうだ、これも覚えておけ」
そう言うと、しおりは二、三歩前に出てくるりと杏奈を振り返った。後ろから西日が差し、しおりから後光が差しているように目に映る。
「本物のリーダーというのは、たとえ非難されても、そこに立ち続ける人なのだ」
杏奈は目を見開いた。
衝撃の一言であった。
杏奈は批判を恐れる。誰でも批判されるのを恐れる。だが、自分のやっていることが世界に貢献するという確証があれば、それを続けるべきだ。
─私がこの業界の未来に貢献し得る…
だから、しおりはこの言葉を渡したのだ。
しかし杏奈は、今の言葉は自分以外のもう一人にも向けられている気がした。
─先生に…言っているのか。
リーダーという言葉は、他に置き換えてもいいのだろう。
疑惑をかけられても、風評被害にあっても、自分の仕事が周囲の役に立つのなら、必要としている人がいるのなら…
─負けるな。
この母は、杏奈を見ながら、順正にそう言っているのである。
けれど、順正ならば、この人に言われるまでもなく、そこに立ち続けるだろうと思う。
杏奈はしおりがどういう人間なのか、よく知らない。一時はこの人も、人生を打ち砕かれたように感じ、苦汁を味わったのだろう。実の息子に、目を向けていられないほど。しかし、そこから這い上がる決意と覚悟は、いかほどのものであったのか。努力し続けてきた気概は、どれほどに強いものなのか。
目の前に立つ女の、自信に満ちた、堂々とした態度から、杏奈は彼女が歩んできた人生の一端を見た気がした。高いところにいる女性なのだと感じた。
─やっぱり…
そして、そう思う。
─この人は先生のお母さんなんだ…
「ふふ…」
しおりは頬を緩め、
「はぁ…柄にもなく、熱くなってしまった」
「いえ、お言葉、ありがとうございます…」
柄にもなく、と言ったが、この人からは熱いものしか感じない。
「でも、トップに立つ人の目線というのが…私にはスケールが大きすぎて…」
「そうか?」
しおりは体の向きを変え、再び歩き出した。
二人は西参道を出て、神社の駐車場を横切っていた。車は一台も停まっていない。
「ミツの話しぶりからは、いずれあなたにあかつきの中核に据えようと期待しているように見えたぞ、杏奈ちゃん」
「…」
「破竹の勢いで成長しているそうじゃないか。あなたにも高い志があるのでしょう?」
「いや、あの…」
杏奈は戸惑った。こんなに上げてもらった後で、そんなことを言っていいものか迷った。しかし…
「私、家庭をもちたいんです」
こんなバリキャリに、家庭を持ちたいなどとは言いにくかったが、杏奈は、正直に言った。
「家庭、か…」
言わんこっちゃない。しおりの表情は少し曇った。
「でも、今は仕事に集中しています。仕事ができるようになって…それこそ、誰かに貢献できるようになって、自分に自信を持ってからでないと…」
杏奈はつぶやくように言った。
「誰かを好きになった時、その誰かからも好きになってもらえない…」
だから、早く自分に自信が持てるよう、急いでいるというだけの話だ。
「ふふふふ…ハハハハ!」
心底可笑しそうにしおりが笑うのを見て、杏奈は少し気が沈んだ。
美津子に弟子にしてもらったにも関わらず、超個人的な希望を抱いて、仕事をしている。親友に対し、とんだ弟子だなと嘲笑を向けているのだろうか。
「いつかって…」
しおりはすぐに笑いを収めて、
「自分に自信をもつ、と言って…そのいつかは、いつまで経ってもやって来ない」
しおりが反応したのは、どうやら、その点であるようだった。
「何を達成したら自信を持てる。杏奈ちゃんは」
「…」
咲子のような人が、増えたらだ。杏奈はそう言いたかったが、口から言葉が出てこなかった。思っていることをそうやすやすと口に出せない。それが杏奈という人間だった。
しおりは口ごもってしまった杏奈の横顔を、穏やかに眺めながら、
「限がないぞ。自信をつける、ということは」
言われてみれば、確かにそうだ。
「それに…」
しおりは上体を折って、杏奈の顔をもっとしっかりと覗き込んだ。
「優秀なあなたを認める人よりも、あなたらしい不完全さを認めてくれる人のほうが、良いと思わないか?」
「えっ?」
その言葉を聞いた時、杏奈の心臓はドクンと大きく鼓動を打った。
しおりはもう、前に目を向けていた。手をかざして、眩しい夕日を遮っている。
あかつきに繋がる細い小径には、人気も車通りも全くなかった。
超スローペースで歩みを進めながら、杏奈はしおりの言葉に衝撃を受けている。今までの自分の価値観を、塗り替えるような発言だった。それでいて、しおりの言葉に、妙に納得してしまった自分がいる…
─そんな言葉を、すっと出せるなんて…
それだけ、多くの経験を積んできた人なのだ。
人生の先輩に対し尊敬のまなざしを向ける。その視線に気づいてなのか、しおりはふっと後ろを振り返ると、
「好きな人に認められたい、見合う人になりたい、か。ふふ」
自嘲するような笑みを浮かべ、
「かわいいものだな」
そう言ったしおりの顔は、どこか寂し気だった。
「そんな気持ちは、実際に家庭を持ち、家族になってしまえば、木っ端みじんに消え失せるものだ」
経験に裏付けられた言葉だった。杏奈はそんなしおりに対し、不用意なことは言えない。
「夫やら家族やらに縋る人生など、虚しいものだ」
みんながみんなそうとは限らない。けれど、しおりが持つコミュニティには、家族の中で役割を果たす段階を終え、あるいは捨て、自分の幸せをつかみ取りたいという女性たちが集まっている。その人数や、心に溜めていた鬱憤を聞くと、自身の経験も相まって、しおりはそう思わずにいられないのだという。
「あなた、うちでマーケティングを学ばない?」
「え?しおりさんのところで?」
しおりはこくんと頷いた。
「マーケティングだけじゃない。自分の生き方を変える、自分を変えるために、私のところには人が集まってくる」
それだけ聞くと、手段は違えど、目的自体はアーユルヴェーダと似ている。
しおりはまた笑って、
「そこにハマったら、家庭を持ちたいという夢はなくなるかもしれないけどね」
そうなってほしいと思っているわけではないが、家庭を充実させる必要性を感じなくなるくらい、充実感を持てる。その自信が、しおりにはあった。
「自分らしく活き活きと生きているうちに、自然と男が寄ってくるかもよ?」
今度はしおりは、杏奈に向かって悪戯っぽく笑った。
「しおりさん」
「うん?」
「一つ聞いていいですか」
「なんでもどうぞ」
「あの…しおりさんは、美津子さんがアーユルヴェーダの道を進むきっかけになった人だと聞いているんですが…」
「…ああ。聞いているのか。昔の私の醜態を」
「いえ…醜態などでは…」
杏奈はフォローを入れつつ、
「アーユルヴェーダは、人を癒しうるものだと、思いましたか?」
そう質問した。
先ほど、しおり自身が少し話をしていたが。
夫に裏切られ、上沢の実家に子供と戻ってきたしおりは、打ちひしがれていた。自分がもともと就いていた仕事と比べて、遜色ないやりがい、収入を求めて、仕事に従事した。怒りを忘れるために、子供のことを顧みられなくなるほどに、夢中で。しかし、その怒りはしおりの情緒を不安定にし、肉体的にも精神的にも追い詰められていく。そんな時、美津子はしおりと個人的な関わりを持とうとした。アーユルヴェーダ的、ヨガ的アプローチによって、健全さを取り戻させようと。しおりはそんな彼女に対し次第に心を開いていく。気持ちをぶちまけ、内側の静けさを養う必要性を説かれ、具体的なプラクティスを行い、施術を受け…長年そうしているうちに、しおりは、暗闇の底から引き上げられた。けれど実際、しおりが内なる平和を取り戻すために、何が効いたのか、杏奈は気になったのだ。
「ああ…」
しおりは立ち止まって、天を仰いだ。遠い記憶を呼び戻そうとしているようだ。
「うーん」
ため息のような、吐息を吐く。腰に手を当てたり、髪をかき上げたり、腕を組んだり…
しおりは考えていた。
「確かに、アーユルヴェーダの施術も瞑想もしてたけど…そうじゃないんだよなぁ」
時折こんな風に、ぶつくさと呟く。自分の問いに対し、こんなに真剣に考えてくれるとは思っていなかったので、杏奈は恐縮しつつも嬉しかった。
「うーん…」
首を左右に動かしながら、しおりは唸った。
「そうだなぁ」
もう一度ふう、と吐息して、しおりは杏奈のほうを向き、
「アーユルヴェーダが人を癒しうるか、という質問の答えにはなっていないかもしれないが、私はミツの思いから助けられた」
「…思い?」
しおりはこくりと頷いた。
「そのミツが、アーユルヴェーダの教えに則って私を助けたというのなら…アーユルヴェーダは人を癒しうる、といえるな」
─思い…
思い、とはなんだろう。
「あの…美津子さんの思いって?」
「私の力になりたいという思いさ」
しおりは、それ以外に何がある?という顔をする。
「その思いがなければ、あんなにうちを訪ね、順正の世話まで焼かなかっただろうな」
しおりは足元の小石を見つめた。
「ミツは継続的に私と接触しようとした。何度も何度も…。寄り添いたい、という強い思いがなかったら、できなかったことだ」
杏奈はあっと口を開いた。
─目の前の一人の女性を癒したいと思った、あの熱意に勝る知恵や技術は、なかったと思う…
新年会の挨拶で、美津子自身がそう言っていたことを思い出した。
状況を変えたいという、強い思い、熱意。それを原動力とする、寄り添う力。それが、クライアントを助けたのだ。
「けれど私が思うに、その思いは一方通行であってはならないのだ」
そう言った時、しおりの視線は杏奈に据えられていた。
「その時、私も強く望んでいた。変わりたいと」
杏奈は、その言葉からも気づかされた。
あかつきに来る前、自分もそれを望んでいた。「変わりたい」と。
ようやく分かった。
─優れた料理人や、優れたセラピストが、優れたヒーラーであるとは限らない。
─優れたヒーラーになるために必要なものは、教育を通して養えるものではない。
─けれど、あなたは少なからず、それを持っているのだから、それを大事にしなさい。
その答えをいろいろと考えてきたが、やはり、そうなのだ。
思いが大事。
変えたい、変わりたいと望む、心の火が。
「私も、ミツと同様、強い思いを持っていた。ミツはそれを受け止めてくれた」
ヒーラーとクライアントが、同じ思いをもっていること。アーユルヴェーダによる癒しを得るには、ここがとても重要だ。
しおりはふっと笑って、
「ミツは、望む者には、必要なものを与える。そういう人間だろう」
杏奈は頷いた。頷きながら、もう一つの気づきを噛みしめていた。
なぜ、美津子は自分をあかつきへ受け入れたのか。特別な才能はなく、コミュニケーション能力も低い、あか抜けない自分を、なぜ…
─私が受け入れられたのは…
その答えは、杏奈が自分では気づけない、特別なものをもっているからでも、なんでもないのだ。
─私が望んだからに過ぎないんだ…
「どこまで散歩に行ってたの?」
あかつきに戻ると、美津子が待ちかねたように玄関で出迎えた。
「いやいや、話が弾んでしまってな」
しおりはそう言いながら靴を脱ぐ。改めて見ると、高価そうな靴だ。
「お前の可愛い弟子を、勧誘してしまったよ」
「は?」
美津子は真面目に取り合わず、二人の先を歩いて書斎に入る。杏奈としおりは、そこで上着を脱いだ。
「私のコミュニティに入ったらどうかと。あなたも、少しは興味あるでしょう?」
杏奈は苦笑いしながら首を傾げた。美津子はふっふっと笑って、
「マーケティングって、ラジャスが上がるのよね」
と言って、杏奈にこう耳打ちする。
「この人のセミナーを夜に受けてみなさい。眠れなくなるわよ…」
「あー、いやだいやだ。聖人って」
しおりはソファに座ると、脚を組んでくつろぎだした。
「ミツも事業者だろうが」
美津子はそう言うしおりを無視し、杏奈に対し、
「あなたは、今はアーユルヴェーダの癒しのプロセスを体得するステージにいる。マーケティングを学ぶのは、その後で良い」
と言った。杏奈は頷いた。
「マーケティングだけじゃないと言っとるだろうが」
しおりは窓の外に目を向けながら、呆れたように言った。起業コンサルの中ではトップクラスの自分を頼りにしないなんて、なんと愚かなのかとでも言いたげだ。
「しおりさん、今日横浜まで帰るの?」
「今からじゃ遅い。豊橋でホテルに泊まる」
「あら、泊っていってもいいわよ」
「いや、明日もセミナーがあるんだ。朝一で帰らなきゃいけないから、少しでも詰めとかないと」
「そう…」
「あのう、夜ごはんは召し上がっていきますか?」
杏奈が尋ねると、しおりは首を振った。
「いや、もうそろそろ出るから。ありがとう」
杏奈がしおりに軽く会釈をして書斎を出ていくと、美津子はソファに座った。
「…会いに行けばいいのに」
しおりはふふっと、鼻で笑った。
「お前が顔を見ておいてくれれば、それでいい」
「…」
「お前は順正にとって、第二の母親なんだろうな」
美津子は嬉しい顔をする代わりに、顔をしかめた。
「産みの母親よりも、母として慕っているかもしれない」
それは、しおりの心からの述懐であった。そこには、嫉妬はないが、寂しさはある…
「確かにあなたは、ある期間まともな育児をできていなかったかもしれない」
それは特に、順正が五歳から七歳くらいの間。その後の母子の間柄も、ぎくしゃくしたものだった。
「けれど、あなたは十月十日、順正をお腹の中で育て、産み、目を離さず子育てをしたわ」
順正の父親は多忙な医師で、家にいる時は協力的だったが、そもそも家にいる時間が少ない人だった。
「産後から幼児期の育児を、一手に担った」
しおりは窓の外に目を向けながら、黙って美津子の言葉を聞いている。
「そんな母親を、慕えないわけがないわ。ましてやあの子は、産科で出産までの両親の苦悩や、大変さを目の当たりにしているのだから」
美津子は涼やかな顔で静かに話をするが、その心には熱い火がある。それを誰よりもよく知っているしおりだった。そしてその火は、今も健在だと、思い知らされる。
「子供は、成長過程で、何かしらの歪みをもつものよ」
美津子も窓の外に視線をやった。
「でも私は、その歪みを含めて、その子の個性だと思う」
順正は、両親の離婚で大きな生活の変化を強いられ、寂しさを味わった。父親に憤りを感じているし、この母にも…
「お父さんと、きちんと話してお別れをすることができなかった。…努力を、認めてもらうこともできなかった。これも、あの子に大きな歪みを与えてしまったかもしれない」
その歪みは、後悔とか、自己嫌悪とか、単純で単一な感情表現では表せない。
「でも、その苦い体験が、順正の意志を強くしていると、私は思うけどね」
「やれやれ」
しおりは、感情をいなすように、わざとおどけた声を出して、組んでいた脚をほどいた。
「順正のことなら、なんでもお見通しだな」
そしてまた、ふっと笑みを浮かべる。
「まるで、本当の母親のようだ」
しかし、美津子は話しながら、順正のことだけを考えていたのではなかった。少し、声を潜める。
「…ここ一年半、よく似た子を、ずっと手元に置いていたから」
その子を通してそんな風に思っていたのかもしれない。
「よく似た子?」
美津子は、目線だけを右側─応接間のほう─へ動かした。
「…ああ」
しおりは、今しがた一緒に散歩していた娘の顔を脳裏に描いた。彼女のことはよく知らないが、感覚的に、美津子の言うことは分からないでもない。
「…さて、行くか」
「わざわざここまで来てもらったのに、悪かったわね。こっちもほとんど状況が分からなくて」
しおりに続いて、美津子も立ち上がった。
「いいよ」
しおりは美津子に背を向けて、脱いだばかりのコートをコートハンガーから外した。
その後ろ姿を見ながら、美津子にはしおりが心で思っていることが、分かっていた。しおりは順正を信じている。
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