朝の会が始まる前。
莉子は左側─窓際の一番後ろの席─に目を向ける。蓮が同級生と一緒に雑談をして笑い合っていた。少し前には、見られなかった光景だ。
「ねえ、莉子もそう思わない?」
友人から話を振られ、莉子は目線を元に戻す。なんの話だったか、あまり聞いていなかったが、適当に相槌を打つ。
そういう莉子も、少し前までは、この女子グループの輪から外れていた。莉子が両親との関係性に悩み、女であることを厭い、髪をベリーショートにしたのは、もう1年以上も昔のことである。
かつての交友関係が戻りつつあることは、莉子にとって嬉しいことだったが、同時に自覚しているのは、一抹の寂しさ。
─私とあんたは、仲間外れ。
蓮とのその連帯感は─別にその感覚を共有することはなかったけれど─、交友関係が元通りになるにつれ、薄れていったような気がした。
「蓮」
その日の授業後、それでも莉子が蓮に話しかけたのは、ある噂を聞いたからであった。
「最近、先生と会ってる?」
先生とは、順正のことである。
「ん?ううん…」
咄嗟に返事をした蓮は、子供っぽい言い方になってしまったことに少し後悔を抱いた。
「…なんだ」
莉子は呟きながら、蓮の周りにいる男子生徒たちに視線をやった。ちょっと、外してほしいという意味合いを込めて。
男子生徒たちは、
「じゃ、先帰るわ」
「またな」
冷やかすような笑いを浮かべて、その場を去っていく。
一人残された蓮は、心なしか心臓の音がうるさくなっているように感じたが、莉子に対して努めて平静…というか、無関心を装おうとした。
「あのさ」
一方莉子は、真剣な面持ちだった。
「松下クリニックで、子供産んだばかりのお母さんが死んじゃったらしいよ」
「…え?」
蓮は目を見開いた。
莉子の話によると。
莉子の母・美穂は、三か月健診に上沢市役所を訪れた際、他の母親からその噂を耳にした。
─出産直後に亡くなったらしいんだけど、医療ミスじゃないかって、遺族が訴訟を起こそうとしているらしいですよ…
信憑性は確かめていないが、その話はその場にいた複数人が知っていた。担当していたのは若いほうの医師らしい、ということも。そして、松下クリニックに通う妊婦は減っているという。
蓮はにわかに信じられなかった。順正は蓮にとって、間違うことのない、完全な男に見えていた。
「…本当なのそれ」
「分かんない」
莉子は肩をすくめた。
「それで、最近先生に会ったかなって…」
蓮は、莉子から顔を背けた。
蓮の祖母・うめは、退院し自宅に戻ってきたのだが、次に体調を崩したら、もう危ないかも…と言われている。それで、母・すみれがいない時に、連は家を空けないようにしている。家にいて何かしてやれるというわけでもないけれど、最期を迎える時、家に誰かがいてやらなければと思う。だから蓮は、しばらくハイウォールに行っていなかったし、山にも登りに行っていなかった。ましてや、順正に声をかけてなど…
ふう~と息を吐いて、蓮は天井を仰いだ。
「噂だろ」
そう信じる気持ちが半分、不安な気持ちが半分だった。
「どうせ、尾びれがついてまわってんだよ」
「…」
「尾びれとか、背びれとか、胸びれとか…」
莉子はふっと苦笑を漏らした。そうであるといいのだが。
蓮はその夜、ベッドの上に横になりながら、時々スマホを開いた。ラインするべきかどうか、さっきからずっと迷っている。
もし、その噂が悪い方に正しいのであれば、蓮のラインに返信するどころではないかもしれない。
─いや、でも…
順正はよく自分からのラインを無視する。今回も既読スルーになってしまったら、いよいよ状況が読めなくて変な邪推をしてしまいそうだ。連絡をしないに越したことはない…
─春になったら登れるように、ここでコソ練しとけ。
天井を見る蓮の脳裏に、最後に順正と会った日、彼に言われた言葉が蘇ってきた。
─もうすぐ春だよ、柴崎さん。
二月上旬。まだまだ寒いが、暦の上では、明日、明後日頃が立春だ。
しかし、仮に春になって外岩に連れて行ってもらえたとして、自分は登れるだろうか?全然登れなかったら、今まで何をやっていたのかと痛烈な一言を浴びせられるのだろうか。
─いや。
が、蓮は思う。
─それならいい。
そっちの方がずっといい。仕事上の問題があったことが本当で、今後会いにくくなってしまうくらいなら…
蓮はもう一度スマホを取り出し、ラインを起動した。
順正もその頃、自宅のベッドに仰向けになっていた。この頃は、例の一見に関して、通常業務以外の書類作成に時間がかかり、やや仕事に行くのが億劫になっている。研究もはかどらない。
部屋の明かりから目を遮るように、順正は手を額の上に乗せた。電気を消して寝ればいいのだが、気持ちとは対照的に体は休息を求めていない…
ピコン。
スマホが鳴った。
─こんばんは。
蓮からだった。ラインそのものは起動せず、通知画面で送られてきた内容を読む。
─最近ハイウォール行ってます?
そういえば、最近のゴタゴタで、正直蓮の存在を忘れかけていた。
─次いつ行きます?
何かに対して憂慮することもなく、あそこへ通っていた日々が今となっては懐かしい。中学生のお守りをしながら山へ登ったことも…明神山の岩場で、エイムというビギナー課題を蓮にやらせたことも…
「…」
順正は、遠い昔、初めて明神山の岩場で、その課題を見た時のことを思い出した。
─思いが大事だ。
自分を見守っていてくれていた大人たちが、そう言っていた。
順正はスマホをもう一度眺める。何か、返事をしてやろうかとも思ったが、ぽいとスマホを放った。
目を瞑りながら、ふっと微笑がこぼれる。蓮の扱いは、いつもこんな感じであった。
いつも通りで、大丈夫だ。
「あ、杏奈さん。私のマグカップ知りません?」
台所に入るなり空楽にそう尋ねられた。
空楽は午前中の施術の準備にかかっているところで、ベッドに敷く替えのタオルを抱えていた。空楽は施術の時、金色のメッシュの入った黒髪を後ろで一つに束ねている。
「分かりません」
杏奈はそう応えつつ、そのあたりに空楽のマグカップがないか探した。赤と白のストライプに、星が散りばめられた、なかなかやかましいデザインのマグカップだったはずだ。
「あ、ありました!」
杏奈は、食器棚に逆さまに置いてあるマグカップを見つけた。
「なんであんなところに…」
「自分で洗ってそこに置いたんじゃないの」
キッチンの奥で、小須賀が蒸した里芋の皮を取りながら、にやりと意地悪な笑みを浮かべた。
「違いますよ。さっき白湯を入れて、いったん洗濯物のところに行って、戻ってきたらもうなくなってたんですー」
「じゃあ小須賀さんじゃないですか」
杏奈は非難がましく言った。
「おれは洗ってないって。見てこれ。カツレツの仕込み用の里芋の皮、こつこつ取ってるところなんだよ。誰かさんがやらないから」
憎まれ口を叩いているが、里芋の皮むきをすると手が荒れるかもしれないからと、杏奈をこの役割から遠ざけたのは小須賀だった。
小須賀の言っているカツレツとは、スリランカ風コロッケこのことである。カトゥレットとも呼ばれる。スリランカは、かつてポルトガルやオランダ、イギリスの植民地だったため、西洋の食文化の影響を受けたスナック類が作り継がれている。名前から分かる通り、カツレツもまた、ヨーロッパの影響があるメニューで、スリランカの代表的なスナックだ。普通はじゃがいもで作るが、あかつきでは里芋で代用している。
あかつきでは、揚げ物を出すことはまれであるが、これは足込温泉へ納品するお弁当のおかずであった。揚げ物は、火のエネルギーであるピッタを増大させ、消化に負担がかかる。しかし、サクッとした揚げ物がお弁当の中に入っていたほうが、実際には手に取る者に喜ばれる。
その仕込みは、正直面倒だった。芋を茹でるか蒸すかして柔らかくし、スパイスやツナ、香味野菜と一緒に炒め、コロッケづくりの手順を踏んで揚げる。カツレツは小さな一品だが、手間がかかる。どちらが仕込むか、杏奈と小須賀はいつも爆弾ゲームのようだった。
空楽はポットのお湯をマグカップに入れると、ふうふうと息を吹きかけて冷まし、一口だけ飲んだ。
「また戻ってくるんでここに置いておいてください」
午前中、単発のお客を出迎えるにはまだ時間がある。
空楽はキッチンを出て行った。
「仕込み、手伝いますよ。どこからやればいいですか」
杏奈は小須賀にそう尋ねたが、
「ん、いいよ。他にやることあんでしょ」
視線を手元に向けたままそう言った。
正直そう言ってくれるとありがたい。三月からの予約枠拡大に向け、ホームページにテコ入れをしていたし、集客力アップのための施策も打ち出していた。さらに、ここへ滞在した人がその後もアーユルヴェーダの学びを深められるよう、オンライン学習サイトを立ち上げようとしている。それで今、杏奈はいろいろと考えることがあって忙しいのだった。
「それに今日は…」
小須賀がぼそっとつぶやくのと、ドタドタという音とともに、
「あー、いそがし、いそがし」
大鐘が、危なげな足取りでキッチンに入ってくるのとが同時だった。
大鐘はカレーリーフを摘みに庭に出ていたのだ。カレーリーフは越冬が難しい。小さな苗は室内に入れて育てるが、庭のカレーリーフは直植えしてあって、防寒ネットを被せることで、なんとか冬越できている。
「ちょっと大鐘さん。埃が立つでしょう」
大鐘の挙動には何か一つ言わないと気が済まない小須賀であった。
「あーら、ごめんなさい。でも、ちゃんと摘んできたわよ」
大鐘はにこにこして、カレーリーフの枝をかざした。
「それだけ摘むのにどんだけ時間かかってるんです」
はあ~とため息を吐きつつ、小須賀は杏奈に目配せをした。
─こんなおばあさんだけど、アシスタントがいるから…
そう言っているのが分かる。
「間に合わなさそうだったら手伝いに来ますね」
杏奈はそう言うと、キッチンを出て行った。
「あら、今日は何を作っているの?」
カツレツの食材を調理台に出している小須賀に大鐘は尋ねた。小須賀は人参を切る手を止めて、ちらっと大鐘を見やり、
「カツレツです」
「まあ、何だったかしらそれ。お肉?」
「見たことあるでしょう。小さな丸いコロッケみたいなやつ」
「どんなだったかしら。私、食べたことある?」
「多分あるよ」
「あら、そう。でも、忘れちゃったわ。後で出来上がったら一つくださる?」
「はあ?」
食べ物を恵んでもらえる当てがあると、大鐘はことさらによく働く。仕込みは大して手伝えないのだが、料理をするのに使った道具を次々と片付けてくれ、キッチンを綺麗に保ってくれる。
「大鐘さん、そこにあるレンズ豆、ザルに入れて洗ってくれますか」
小須賀はそんな大鐘に、なるべく仕事を与えた。
「え?どの豆?」
「それ」
「えーっと、このオレンジ色のやつ?」
「何度も見たことあるでしょ。なんで覚えらんないかな」
大鐘は覚えられない理由を何かしら述べていたが、意味がよく分からなかった。小須賀と大鐘はいつも、意味のない、喧嘩のようなじゃれ合いのような会話をしている。
「これも洗っていい?」
「はぁーい」
小須賀は横眼で確認して答える。
大鐘はそこらに出ている洗い物らしきものを次々に回収した。
「これも洗うわよ」
大鐘が確認するのにいちいち答えるのが面倒になり、小須賀はほとんど適当に返事をした。
「あ、そういえば」
大鐘は小須賀を振り返って、
「この前、掃除道具を買った時にお金を立て替えたんだけど、そのレシートは、誰に渡せばいいのかしら」
と思い出したように言った。
「んー、美津子さんか杏奈に。ま、おれでもいいですけど、月末までに出してくださいね」
「分かった。忘れないように、今持って来るわ」
大鐘は手についた水滴を床に落としながら、またドタバタと音を立てて出て行った。
「汚してるんだか片付けてるんだか」
小須賀が小言を言うのと、空楽が入って来るのとが同時であった。
「ふう」
「あ、準備終わった?」
「はい」
空楽はにこやかに答えて、
「ちょっと一服させてください」
と言って、デシャップに両肘ついた。
キッチンは既に、スパイスやカレーリーフ、香味野菜のにおいが混ざった、複雑なにおいで充満している。小須賀はちょうど、炒めた具材とつぶした里芋を一つに合わせて、生地を作ったところだった。ピンポン玉より少し小さめに丸め、バッドに並べていく。
「わー、どろんこ遊びみたい」
空楽が無邪気に言った。
「そうだよ、空楽もどろんこ遊び好きでしょ。やっていいよ」
小須賀が皮肉っぽく言った。
「え~、でももうお客さん来ちゃうよ」
間をあけてカツレツの種を置きながら、小須賀はため息を吐いた。
「面倒くさいなあ、これ…そうか。これを大鐘さんにやらせればいいのか」
空楽は小須賀の独り言を全然聞いておらず、
「あれ?ここに置いてあった私のマグカップ知りません?」
と、またきょろきょろとあたりを探していた。そういえば、空楽がデシャップ台の上に置いたマグカップが見当たらない。小須賀はもしやと思い、水切りマットの上に視線を移した。
「あ、ここにあるよ」
「え~、後で飲みに来るって言ったのに」
時間がない空楽は、調理台の上に身を乗り出すようにして小須賀の方を向き、非難がましげに声をかけた。
「おれはやってないよ」
哀れにも、またもや疑われてしまった。
「お湯とかお水が入っていると、大鐘さん、洗い物だと勘違いしてすぐ片付けちゃうから、気をつけてね」
「小須賀さん、お腹空きましたぁ」
「はあ!?」
単発のお客が帰ったにも関わらず、あかつきの中はスタッフで賑やかだった。
デシャップ台に上体を乗り出して、食べ物をねつらっているのは鞍馬だった。
「なに?今日なんか用事あった?」
納品から帰ってきて、片付けに入って間もなくのことだった。先ほどから、とにかくいろいろな人から昼食をせがまれ、閉口していたところに、また一人。
施術を終えた空楽からは、
─小須賀さん、お腹空きましたぁ。
と先ほどの鞍馬と全く同じ文言で、昼食をせがまれ、
─お弁当のおさがりをいただけるのかしら。いいわねぇ。
首振り人形のように顔を左右に振る大鐘に便乗され、
─小須賀さん、お昼ってあります?
疲れた顔をした杏奈から訊かれ、
─小須賀くん。なんか久しぶりだね。今日は練習試合で…。
いかにも野球してましたという恰好をした羽沼から、遠回しに腹減ったアピールをされ…
「カップラーメンとか食べてよ」
小須賀は、捨て鉢気味に鞍馬に言った。
「え~、ないでしょそんなの」
「あるよ。防災用の備蓄に」
「防災用食べちゃだめじゃん」
鞍馬は、最近では徐々にアーユルヴェーダ料理に気を許していて、カップラーメンに魅力を感じてくれそうにない。
しかし、食べ物を乞われたら断らないのが小須賀である。結局、弁当の残りだけではスタッフの昼食が賄えないので、適当に作り足し、みんなが集まる書斎へ持って行く。
「なんで客もいないのにこんなに集ってんだよ」
書斎には空楽、大鐘、杏奈、羽沼、それから鞍馬もいる。女たちはすでに食事をしていた。
「ほい」
鞍馬は飢えた表情をしている男二人の前に、皿をおく。
「うわ~、なんか変わり種ある」
空楽が羨ましそうに首を伸ばした。
「で、なにしに来たの君たち」
小須賀は男二人に訊いた。
「僕はこの後杏奈さんと打合せ」
大義名分がある羽沼は堂々と言った。
「僕はこのあと羽沼さんに編集してもらった動画の確認」
対照的に、鞍馬は声を潜めた。
「お前のは別にここ来なくてもできんじゃん。さては食いモン目当てだな…」
弁当納品の日はいろいろなおかずが余るのでねらい目だと思われているようである。
「ちがいますよ」
飄々とうそぶく鞍馬に対し、小須賀はため息を吐いた。
「ま、いいけど。弁当代、給料から引いてもらうから覚えといてね」
「え」
聞いてないぞ、と抗議するような鞍馬を無視して、小須賀はもう一つの皿を持って書斎を出た。美津子に届けに行くのだろう。
杏奈は昼食後、羽沼と打合せをした。
「他の人のを観察してたら、どうもパスワード付きホームページを利用しているようで…今のあかつきのホームページにサブディレクトリを設けて、LMSのプラグイン入れればいいんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?」
LMS(Learning Management System)とは、学習管理システムのことだ。あかつきは最近、オンライン学習システムの導入を検討し始めたところで、杏奈と羽沼はそのプラットフォームを探している。そしてこのシステムの導入から、羽沼はあかつきときちんと契約を結んだ上で、仕事を請け負う予定である。
「なんていうプラグイン?」
羽沼は杏奈が探し出したプラグインの名前を聞くと、パソコンにそれを打ち込んで、評価を調べた。
「ダウンロード数は九万、か…評価も高いけど、最近セキュリティ面での脆弱性が報告されてるね」
「セキュリティ…?」
素晴らしいプラグインを見つけ出したと思っていた杏奈は、目をぱちくりさせる。
「うん。個人情報管理したり、決済したりするにはちょっと心配かな…」
「そうなんですか」
セキュリティのことは、正直見落としていた。
「だからみんな既存のプラットフォームを使うんだよ」
セキュリティの面でより安心だ。できるだけ経費をかけないように構築したいという杏奈の気持ちも分からなくはないが…
「決済は別で済ますので、講座を買う時にシステム上で決済情報の入力はしないのですが」
「でもログインにメールアドレスを使うよね」
「あ…個人情報だからダメなのか」
「ダメってことではないよ。でも、対策がプラグインの開発者に委ねられてるからね…そこがしっかりしてないと」
杏奈は口に手を当てた。自分では見落としてしまう側面がある。だからこそ、相談役がいるのは心強いと思う。
「何の話してるの?」
書斎でくつろいでいる鞍馬は、杏奈と羽沼の打合せ内容を空楽に訊いた。
「オンラインで動画を売ったり、学習ツールを配布したりしたいんですって」
「へ?」
「っていうか、鞍馬さんなに?今日サボり?」
本業である旅館業はどうしたのだろう。
「失礼な」
「今はなんでもパソコン使えないとできない時代ね~。私のようなアナログな人間にはついていけないわ」
大鐘はそう言うと、またニコニコ顔で頭を左右に振った。
あかつきが一番注力したいのは、従来の対面でのサービス提供(滞在施設の運営)であった。しかし、直近の話でいうと、一気に四人のお客を定常的に取れる集客力がまだない。それでいて、沙羅と空楽の契約が変わったため、人件費は以前よりかさむ。そこで、新規顧客の開拓およびファン化を促進しつつ、売上を補填するための別の手段を講じる必要性が生じたのである。それが、オンラインで動画を売ったり、オンライン講義をしたりすることであった。
「今までもインスタライヴやってたじゃん」
あかつき大作戦の前に、さんざんライヴ発信していたことを、鞍馬は思い出す。
「それは集客のために、無料でやってたことでしょ。今度から教育のために、有料の講座を作るんだって」
「なんでそんなこといきなり?」
鞍馬の疑問の答えとしては、先に述べたようなあかつきの経営事情もあったが、
「お客さんからの需要があるんだって」
空楽の言う通りであった。あかつきの顧客の中には、アーユルヴェーダの施術を受けるのが最終目的の人もいれば、アーユルヴェーダ関係の仕事をしていくことを希望する人もいる。後者の人たちが悩んでいるのは、アーユルヴェーダをどう学ぶか。どこで学びを深めていけばいいのか分からないという人が多い。そういう人たちが立ち戻るべき場所として、情報が体系的にまとまった学習ツールを立ち上げていくことは、アーユルヴェーダ業界への貢献になる。
─この業界が、世界に対し何ができるか。
杏奈はしおりの言葉から、それを考えるようになった。その時、あかつきが今までしていなかった「教育」分野の必要性を感じたのである。個々の知識が深まれば、それぞれの顧客への貢献度が高まる。もちろん、相手が競合となり、顧客というパイを取り合うことになる可能性も十分あるので、諸刃の剣ではあるのだが。
美津子はしかし、これについて否定的な意見は出さなかった。
─今のあかつきになら、できるかもしれないわね。
自分一人では無理だけれど…スタッフが協力すれば、いいものができるだろうと言って、検討に入らせたのである。
「オンラインの学習管理システムか。大学でフツーに使ってたけど、自分で立ち上げるとなると大変だな」
鞍馬は経営学部で使っていたシステムを思い浮かべた。使うのは簡単だが、作るとなると素人では難しいだろう。自前で作るなら、羽沼の手助けが必要なわけである。
「あら、お二人も手伝っていくんじゃないの?」
大鐘は自分は関係ないと思っているのか、気楽そうに言った。
鞍馬と空楽はぎょっとした顔をする。確かに、プラットフォームの構築は羽沼がするのかもしれないが、そこに入れるコンテンツを作るのは、自分たちかもしれなかった。
「またヨガ動画撮らされるのか…」
「私も学習ツール作るとかは…」
「あら、大丈夫よお二人なら」
大鐘は自分は手伝わされることはないだろうとタカをくくって、二人に余裕の笑顔を向けた。
夕暮れ時。
みんなが帰って行ったあと、杏奈は栗原神社まで散歩をした。いろいろな学習管理システムを探していたら、どっと疲れてしまった。
あまり難しいことに感じていなかったが、この分野も考えるべきことが山積みのようである。先ほど羽沼と杏奈が話していた、個人情報管理の問題もしかり。既存のプラットフォームを利用するにも、月間使用料がかかる。あるいは販売時に手数料をもっていかれる。自前でやる場合も、コンテンツを入れていくとサーバーに負担がかかるので、動画の保存先が別に必要になる。そうするとそこでもまた月間使用料がかかる。サブスク破産とはよく言ったものだ。
本命商品への集客が安定するまでの売上補填として、オンラインのコンテンツを売りたいという思惑もあるのに、ちゃんと売らなければ、その運用にお金がかかるだけで終わってしまう。
羽沼からは、使えそうなオンライン学習ツールや動画プラットフォームの名が次々に挙げられた。が、どれも一長一短あるようで、結局何が良いのか釈然としない…
─プラットフォームって次から次に新しいのが出てくるんだよね。
羽沼も、この方面に関しては最近探りを入れ始めたばかりらしく、今の時点ではコレという着地点を見つけられないようであった。
─いつか乗り換えること前提に、その時最適と思ったものを選んでいくしかないね。
杏奈は頭の中がぐるぐるした。こういう時は、頭を空っぽにするに限る。
アカガシの木の下まで行こうかと思ったが、さすがに日が落ちてきてから、人気のない森の中へ行くのは気が引けた。
いつも通り、花神殿まで行き、そこで手を合わせて、もと来た道を戻る。
─あれ?
あかつきの生垣が目に入るところまで来た時、お客用の駐車場に、一台の車が停まっているのが目に入った。
─あれは確か…
車の持ち主を思い出す前に、杏奈は、誰が来たのかを知ることになった。
あかつきの門前に、一人の男が立っていたからだ。
ドクン。
杏奈の心臓は、強く鼓動を打った。
門前に立っていたのは、咲子の夫・大樹であった。
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