第55話「予期せぬ来訪」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「全然登れないじゃんかよ」
 蓮はマットの上に落ちた状態のまま、悔しそうに言った。樹冠の間から見える空は、花曇りだった。
 蓮の頬に一枚の木の葉が落ちる。ぱっと身を起こすと、その木の葉は頬を離れ、マットの上に落ちた。
「あれだけマントル返し練習したのに」
 マントル返しはクライミングのムーヴの一つ。蓮は藤野のアドバイスを得ながら、のっぺりとした大きなホールドに乗り上がる練習を、ジムで何度もして、何度も成功していた。
 しかし、この「エイム」という外岩課題の前では、
「手も足も出ないな」
「そんなことはない」
 否定したのは、マットの近くの岩に腰掛けていた前原だった。
「前よりも体が持ち上がってる」
「本当?」
 蓮は立ち上がり、服についた砂を払った。意見を求めるように、順正の方を振り返る。順正は少し離れたところで、岩の上に座っていた。その横には、凛々しい顔つきのジャーマンシェパードドッグ・南天丸が寄添うように伏せている。
「変わっとらん」
 が、順正から浴びせられたのは痛烈な一言。前原は岩の方を向いたまま、苦々しそうに顔を歪めた。
 新年度を迎え、蓮は中学二年生になった。始業式が始まる前、春休みの間が外岩に行くチャンス。ということで、蓮は前原と順正に同行を頼み、明神山の岩場まで登りに来ているのであった。
 春は、外岩を楽しむのに良い季節。早朝、ジムの前で順正と待ち合わせて、明神山を登った。そのスピードについて行くのに必死で、蓮は岩場に着くまでに、やや体力を消耗した。一方、前原は車である。
「もうそこは諦めて、途中から登ったらどうだ」
 順正はマントルを登った先を見やった。返した岩の上には、普通に立ち上がれるほどのスペースがある。横からトラバースして岩の上に立てば、確かに次の手からトライすることは可能だ。
「そうだな。同じ筋肉ばっか使っててもしょうがない」
 前原も同意した。
「ちょっと休憩していい?」
 昼にはまだ早いが、早朝から登山をしてお腹が空いた。蓮はリュックの中から、ウインナーパンを取り出して食べた。
 それを尻目に、順正と前原とで組んで、近くの課題を登る。二人は明神山の課題は登り尽くしているようで、単に暇つぶしというか、トレーニングだった。

「こんちわー」
 杏奈はキッチンでつくしのはかまを取っている女性を見て、すぐに声が出てこなかった。
 黒髪に金色のメッシュを入れた女性は、だぼっとした白いシャツとベージュのチノパンを履いている。飾り気がないが、流行りのオーバーサイズなのが、どこかこじゃれた感じがする。
 女性は杏奈を見ても特別表情を変えなかった。
「小須賀さーん」
 女性は調理台に立つ小須賀を、毛だるそうに呼んだ。
「なにー?」
 小須賀も気だるそうに答える。
「なにーじゃなくて、こっち見てください」
 小須賀はちょこっと振り返って、また背を向けた。それからもう少し早いスピードで振り返って、背を向けた。二回ほど、そんな動きを続けてから、
「あっ、ごめん。誰か来てたのか。存在感がなさすぎて分からなかった」
 杏奈は目を細めて、小須賀を非難するように唇をすぼめた。
「大丈夫。怪しい人じゃないから」
 小須賀は女性に説明するように言った。
 杏奈は内心、驚いていた。この女性はついこの間、明神山で出会った人だ。
「この前、ふきのとうの採り方を教えてくれた方ですよね?」
「あー、そうですー」
 女性は抑揚のない喋り方をした。
「はじめまして、尾関空楽です」
「どうも…古谷杏奈です」
 杏奈は名乗りながら、彼女の名を心の中で反芻し、目を丸くした。
「えと…本日、ご予約されてますよね?」
「はい、九時半から」
 杏奈は説明を求めるように、小須賀を見た。この女性は、今日アビヤンガを予約している新規の客なのだが。小須賀はどこ吹く風で足込温泉へ納品する弁当を作っている。空楽の方が、杏奈の動揺を察してわけを説明した。空楽は、少し早めにあかつきに到着し、敷地内に入ってウロウロしていたところを、お勝手口でタバコを吸っていた小須賀に発見されたようだ。
「そこで短い間おしゃべりして…」
─ナンパかよ!
 杏奈は小須賀を見て、再び非難するように目を細めた。小須賀は知らんぷりをして、鼻歌を歌いながら野菜を切っている。
「それがどうして、つくしのはかま取りなんてやってるんですか?小須賀さん、お客さまなんですけど…」
 話している間にも空楽は要領よく手を動かし、次から次へとつくしのはかまを取っていく。
「これ、全部空楽ちゃんがやってくれたんだよ。きれいじゃない?」
 小須賀はボウルに入っているつくしを指さした。
「誰かさんよりよっぽど手際がいいし、器用だよ」
 杏奈は一瞬、むっとして言い返せなかった。確かに、黙々と作業をしている空楽の手先は器用に動いている。
「いやいや…爪や手が黒ずんじゃいますよ」
「あー、いいんです。いつもやってるし」
 いや、というより、お客にキッチンで仕事をしてもらっていることが問題なのだ。
「小須賀さん、もう時間なので、えと…空楽さんを、玄関へ案内してくださいよ」
「はあ~」
 残念そうな顔をして、小須賀はため息を吐いた。
「せっかく、楽しかったのに」

「マニュアルづくり終わったの?」
「まだです」
 空楽が施術に入ると、杏奈は弁当作りに参戦した。
 早朝から、杏奈はあかつきの料理担当の業務をマニュアル化する作業を行っていた。今後、杏奈はあかつきの施術を学ぶ。それと入れ替わりに、小須賀以外のスタッフが、料理担当を務める時が来るかもしれない。その時のために、業務をマニュアル化せよという、美津子からの指示だった。
「まったく。弁当作りを引く継ぐところだったのに」
 小須賀は、スパイスをボウルに入れながら小言を垂れた。
「なんで逆に、おれが弁当作り一人でしなきゃいけないわけ?」
「小須賀さんなら、一人でも十分じゃないですか」
 小須賀は小さくため息をついて、
「おれ、ここ辞めるって何回も言ってるんですけど」
 小須賀は事あるごとにそう言っているが、
─美津子さんは、小須賀さんを手放す気なんかない…
 と、杏奈は心の中で言った。この弁当作りの仕事とて、小須賀を引き留めておくために作っている仕事に過ぎないのだろう。
 杏奈は忙しくなっていた。料理担当のマニュアル整備は、数日あれば終わる目途がついているが、それ以外にも、事業計画に合わせて集客ツールを駆使したり、施術のマニュアルを読んで勉強したり、といったことで忙しい。そして、さらに手間のかかる仕事を自ら取った。
 コンサルテーションや、オンラインキッチャリー教室をしていて、杏奈はあることに気が付いたのである。数日の滞在や、たった一回の料理教室から、伝えられることはごく限られている。クライアントや生徒がその後も学び、理解を深めるには、教材があったほうが良い。自宅でも、学びと実践を深められるようなテキストの編纂を思いついた。
─アーユルヴェーダの知識を体系的に記したテキスト、か。
 美津子は杏奈からその提案をされた時、結衣や咲子に渡した資料─女性の健康と生殖能力─を思い出した。外部の書籍ではなく、あかつきオリジナルの資料が揃っていれば、何かと役に立つ。
─思う通り、やってみなさい。
 美津子は承諾した。
 杏奈の事務仕事が増える分、結局、小須賀は弁当作りから離れられなくなった。
 その頃、二階の施術室では、空楽が美津子のアビヤンガを受けるところだった。
「指輪を外していただいてもいいですか?」
「あ…すみません」
 サロンを巻いた空楽はそう言って、細い指から指輪を外した。ピンキーリングだった。美津子は空楽から指輪を受け取り、メイクルームへと運んだ。
「あれも、ご自身で作られたのですか?」
「はい」
 単発のお客に対しては、ここへ滞在するクライアントほど詳しいカウンセリングをしないが、基本的な情報は教えてもらっている。
 空楽は二十四歳、独身。二〇二〇年に名古屋市でウェディングやレストラン事業を展開する会社に入社したが、去年の九月に退職。その後も名古屋市内に部屋を借りていたが、家賃がもったいないのと、花祭以降やはり田舎に戻りたくなり、この三月に戻って来たばかりだという。
 今は、上沢の実家に住んでいる。足込の月地区で飲食店をしている姉夫婦の元で、時折バイトをする傍ら、ハンドメイドのアクセサリーをネット販売したり、イベントに出店して売ったりしている。
─フリーターです。
 と、空楽自身は言った。
─二〇二〇年入社か…
 その年は、ちょうど感染症が流行し始めた頃で、感染症対策も、事業者支援も、行政側の施策は何もかも手探りという状況だった。ウェディング、レストラン業界は、その影響を最も受けた業種といっても過言ではないだろう。
 空楽は、どんな理由で仕事を辞めたのか。
「左脚からオイル塗っていきます」
 美津子は足元から声をかけた。
 空楽は、ぱっちりと目を開けて、ワゴンの上の保温器の中で温められているオイルに視線を当てていた。
「今塗っているのは、何のオイルですか?」
「これは、ココナッツオイルをベースに、十種類以上のアーユルヴェーダハーブや乳製品から作られたオイルです。お肌への刺激が少なく、全身に使えます」
 空楽の脚にオイルを塗りながら、美津子はよどみなく言った。
「ココナッツオイルがベースなんですか。アーユルヴェーダは、ごま油だと思ってました」
「ごま油がベースのオイルも使いますよ」
「私にも?」
「はい。部位によって、使い分けをします。それから、体質によっても」
 空楽は目線を美津子のほうへ動かして、横になった姿勢のまま、顎を下へ引いて頷いた。

「いつまで休んでる」
 エイムの近くまで戻ってきた順正は、蓮の手からスマホを取り上げ、担いできたロープを下ろした。早くやれ、とばかりに、ロープを顎でしゃくる。
 怖い指導者がいるためか、蓮はロープワークのやり方をすでに覚えた。手早くロープを結ぶ。ビレイは順正が務めてくれるようだ。
「登り切ると、つらら状の岩の後ろに、空間があるだろ。そこに乗って、ちょっと休め」
 マントルをショートカットしたところからトライしようとする蓮に、前原はアドバイスをする。意外にも、途中からつらら状の岩までの登りは、難易度が低かった。蓮は思いがけず高い位置に到達し、手に汗がにじんだ。
「その後、つららと後ろの壁で、突っ張るようにして上に登る」
「前原、やめろ」
 順正は少し後ろを振り返って、アドバイスを与えすぎる前原に言った。
「あいつに考えさせろ」
 この課題には、先に順正が登って命綱をかけた。その時、ちゃんと観察していたら、登り方が分かるはずだ。
 前原は閉口した。
─厳しいな。
 子供なんだし、体格差もあるのだから、アドバイスするという温情を与えるくらい、いいと思うのだが。
 蓮はつらら岩から先を登るのに手こずった。結局何回かテンションを張りトライさせたが、その先に行くことはできないまま、蓮は降ろされた。
 休み、ビレイヤーが変わってまたトライし、また下りて休み、再びビレイヤーが変わり、トライする。
 蓮は最終的にマットの上に転がった。
「やめるか」
「うん」
 蓮は眠気を覚えていた。筋力を使い果たしたらしい。
「お前がロープをしまえ」
 前原がロープを手に取るのを見て、順正はすかさず蓮に言った。
「お前が一番登ったんだから、当然だろう」
「え~…」
 蓮は小さく呻いた。しかし、以前順正がロープを束ねている姿を見て、自分もできるようになりたいと憧れていたのは確か。蓮は起き上がって、ロープに近づいた。前原と順正とが傍に立って、やり方を教えてくれる。肩の後ろに何度もロープをいったりきたりさせているうちに、ずっしりと肩に重みを感じた。命綱となる長いロープは、十分な重みがあった。このロープや厚いマットを一人で持って、前原は駐車場からここまで登ってきたのか。
「お前、また背が伸びたな」
 蓮の首から垂れるロープごと蓮の体躯を見て、前原がつぶやいた。
「うん。もっと伸ばしたい」
 蓮は飄々と言った。ロープがどんどん頭の上のほうへ積み重なるのにつれ、蓮は前かがみになっていった。

 施術が終わり、空楽がメイクルームで着替えをしている間、美津子はメールチェックをした。
「…」
 一件の予約が入っている。
 美津子は口元に手を当てて、思案顔でキッチンを見た。かすかに、洗い物の音と人の話し声がする。果たして、キッチンに入ると、弁当納品を終えたらしい二人が、雑談をしつつ片付けをしていた。
「お疲れさまです」
 二人は美津子に気が付くと、口々に声をかける。
「お疲れさま」
 キッチンには、スパイスの濃いにおいが充満していた。
「杏奈、予約メールが入っていたけど、見た?」
「はい。でもまだよく確認してません」
 美津子は頷いた。
「それなら、後で確認して、メールを返しておいて」
「はい」
 杏奈は調理台の上を整理しながらも、美津子の目を見て頷いた。
「今度のクライアントは、最初から最後まで、あなたが担当しなさい」
「はい。えっ?」
 杏奈は流れで返事をしたものの、どういうことかと目を見開いた。
 奥のシンクに使い終わった調理道具を入れていた小須賀も、少し顔を後ろに向けて、二人のほうを見る。
「事前コンサルと、ここに来てからのカウンセリングと生活指導を、あなたがやるの」
 そろそろ、試してもいい頃だった。
 杏奈はわずかな間、ぽかんと口を開けていたが、やがて口を閉じて、
「はい」
 と、はっきり返事をした。小須賀はもう、奥のシンクに向き直って、洗い物を始めていた。
「あのう…」
 キッチンのドアストリングカーテンから、ぬっと顔を出して覗き込んできたのは、空楽だった。美津子は驚いたように身を翻して、
「すみません、気が付かず」
「あ、いいえ…」
 空楽は答えつつ、くんくんとにおいをかいで、キッチンの中を見渡した。つくしのはかま取りをしていた時よりも、キッチンは散らかっていた。調理台の上は道具や調味料でいっぱい。シンクには調理器具があふれ、床は濡れている。
「どうしたの?」
 空楽に声をかけたのは、小須賀だった。後ろを大きく振り返り、先ほど知り合ったばかりの空楽に、よく知っている後輩に対するような笑顔を向ける。
「お弁当づくり、終わったんですか?」
「終わったよ」
「そっか…完成、見たかったな」
 美津子は空楽を見て、瞬きをした。空楽は美津子よりも少し背が低い。オイルを含んだ髪はしとやかに濡れ、肌はしっとりとしていた。
 小須賀に招かれて空楽がお勝手口から上がり込み、仕込みの手伝いをしていたことは、杏奈から美津子に報告済みだった。
「こちらの料理に興味がおありですか?」
「え?…はい」
 美津子に訊かれて、空楽は素直に返事した。
「カウンセリング終わったら、この子に食べさせていいですか」
 洗い物の手を止めた小須賀はデシャップ越しに美津子に訊いた。
「仕込み手伝ってくれたお礼がしたいんで」
 適当な理由をつけて、大真面目に頼み込む小須賀の顔を見て、美津子は思わず笑ってしまった。
「いいわよ」
 それから美津子は、空楽に言った。
「では、先に施術の結果をお話しますね」

 昼過ぎに解散となった。頑張って外岩に登った後、楽しく一緒にランチするでもなく、打ち上げをするでもなく、実にさっぱりとした関係である。
「前原、こいつを送っていけるか」
 ロープをトランクにのせながら、順正は聞いた。
 前原のジムニーは、神社の奥にある関係者用駐車場の一番端に停まっていた。
「ああ、いいですよ」
 前原はそう返事をし、蓮のほうを見る。
「お前、乗ってけば。疲れただろう」
 蓮は、帰りも順正と一緒に山を登って帰るつもりだった。しかし、存外に疲れてしまったので、心が揺れる。
「乗せてもらえ」
 お前がいると足手まといだと言わんばかりだ。蓮はその圧に押されたのだと自分に言い訳をして、
「じゃあ…」
「じゃあじゃない。お願いしますだろう」
 ドスの効いた声で言葉尻を取る順正。まったく、怖い先輩だ。
「お願いします」
 蓮は前原にぺこりと頭を下げた。
「柴崎さんも、よかったら送っていきますよ」
「いや、おれはいい。寄るところがある」
 順正が明神山の岩場に来た時は、たいていそうだ。それを知っている前原は、すんなりと頷いた。
 順正と南天丸は、すたすたと神社のほうへ去っていった。
「ごめんね、前原さん」
 蓮はサンダルに履き替えて、靴底についた泥を落としていた。
「遠回りさせちゃうね」
「別にいいよ」
 前原は上着を脱ぎ、トランクに入れた。
「よく考えると、南天丸を乗せるとシートに毛が付くな」
 自分から言い出したことながら、順正が乗って帰ると言わなくてよかったと、前原は思った。
「掃除すればいいじゃん」
「まあそうなんだけど、犬猫にアレルギーがあるんだよ」
「前原さん?」
「おれじゃない」
「…」
 蓮は、目を細めて前原を振り返った。
「彼女?」
「ん?あ、ああ…」
 口がすべった。
「ふうん。彼女、車に乗せるんだ」
「そりゃあ、乗せなきゃどこにも行けんだろう」
 路線が張り巡らされ、そこら中に駅のある東京や大阪にいるのではないのだ。
「もしかして、今日も会うの?」
「…」
「…」
「会わん」
─会うんだな。
 蓮は、そこで靴底の泥を落とすのを止めた。
「おれ、やっぱり柴崎さんと帰るよ」
「なんでだよ」
「いいの。ちょっと休んだら元気が出てきたし、明神山走って帰るから」
─全然休んでねえじゃねえか。
 前原は曇った顔をした。こんな子供に気を遣わせるのも不本意だった。
「あの~う」
 二人の傍に、のそのそと近寄ってきた者がある。やせこけた、白い袴を履いた老爺であった。
「ここ、神社の関係者の駐車場なんで、一般の方は向こうの駐車場に停めてもらえますか」
 注意しながらその老爺・ぐう爺は、
─そこに関係者以外駐車禁止と書いてあるだろう。字が読めんのか。
 と心の中で悪態ついた。
「すみません。僕たち、柴崎さんという方とさっきまで一緒だったんですけど」
─先生が!
「その方が、ここに車を置いていいって…」
 誰かに何か言われたら、自分の名前を出すようにと、言われていた。
「で、今先生はどちらに?」
 ぐう爺は急き込んで訊ねた。
「ここで別れたので、分かりません」
「ふうん…まあ、どうせまたあかつきに行ったんだろうな」
 ぼそぼそとつぶやいたぐう爺の言葉を、蓮は聞き逃さなかった。
「じいさん、柴崎さんがよく行くところ知ってるの?」
「え?う、うん。まあ。わしと先生は特別な間柄だからね」
 前原はいかがわしそうに目を細めた。
─特別な間柄…?
 しかし、蓮は得たりとばかりに顔を綻ばせた。
「そうなんだ!じゃあ、その場所を教えてください。ちょっと予定変更になっちゃって」
「蓮、いいって。おれが送ってくから」
 引き留めたが、蓮は聞く耳を持たなかった。ザックを背負うと、ぐう爺の背中を押すようにして車から遠ざかった。
「大丈夫。柴崎さんにライン送っとくからさ!」
 蓮は片手を高く上げて、前原に手を振った。
 夜勤のある前原は、彼女と会える時間が限られている。そんなことは、蓮にも分かっていた。野暮天だけは、ご免なのであった。
─ったく。
 前原はどうしたものかと頭に手を当てた。肯定しなかったものの、今日は遥香と会う約束があった。実際、蓮を送っていくと、時間をロスするし面倒でもあった。とはいえ、中学二年生になったばかりの子供を放置するのは無責任である…。

 空楽は、昼を待っているだけでは飽き足りず、カウンセリングが終わると、再びキッチンに顔を出した。
 杏奈はちらっと小須賀を見るが、気にしていないようなので、空楽をそのままにし、鍋に火をつける。
 空楽は興味深そうに、キッチンの備品を眺めていたが、杏奈が調理を始めたのを見ると、
「何作ってるんですか?」
 顔をにょきっと上に持ち上げ、首を長く伸ばして杏奈の手元を見ようとした。
「これは、厚揚げと長ネギのカレーです」
「へー、アーユルヴェーダにもそんな和っぽいメニューがあるんすね」
「これがアーユルヴェーダかどうか分かりませんが…」
 今日のお弁当のおかずの残りだった。
「同い年、くらいですよね?」
 空楽の方から尋ねてきた。杏奈は自分の年齢を言った。
「あー、そうなんだ」
 空楽は相変わらず単調なトーンで呟いた。小柄でベビーフェイスだからかそうは思えなかったが、意外なほど年上だった。
 小須賀はつま先でトントン床を叩きながら、片付けをしていた。二人の世界に入って、自分が無視されているのが気に入らないのだろうと、杏奈は察した。
「小須賀さん、カチュンバルまだ残ってましたっけ?」
「あるよ」
 小須賀は業務用のほうの冷蔵庫を開け、ラップをしたボウルを調理台に置いた。
「これはなんですか?」
 空楽は小須賀のほうへ歩み寄り、ボウルの中身を尋ねた。
「カチュンバルは、スパイス入りのサラダみたいなもの」
 小須賀は空楽のほうから話しかけられ、気を良くしたようだった。杏奈は別の料理─筍のカレー─が入った鍋も火にかける。
「今日は紅心大根、人参、カブだね」
「サラダなのに、火を通しているんですね」
「そう」
「これは、どういうところがアーユルヴェーダなんですか?」
 その質問には、小須賀はちょっと顔を曇らせた。今空楽自身が言及した点こそ、アーユルヴェーダの要素だと思うのだが。
「それはあの人に聞いて」
「杏奈さーん」
 杏奈はおもむろに振り向いた。
「やっぱやめな」
 杏奈に話を振っておきながら、小須賀は杏奈が口を開こうとするのを、手を上げて制した。
「意味わかんないから」
「え~、もっと聞きたいな~」
 小須賀はボウルのラップを取りながら、横目で空楽をちらっと見た。涼しい目元をした、可愛い女の子だが、やっぱりちょっと変だ。沙羅にしろ、大鐘にしろ、永井にしろ…もちろんこの杏奈も、この職場にはびこる女たちは、みんなどこか変だ。
「変なのー」
 と思っていたら、このメッシュ頭の小娘に、逆に自分が変だと言われた。
「小須賀さんは、この職場にいるのに、アーユルヴェーダに興味ないんですかー」
「そんなことないし。めちゃ興味あるし」
「杏奈さんのインスタのアカウント教えてくださいよー」
 杏奈は再び空楽を振り返った。
「あかつきをフォローすればいいじゃん」
 にべもなく、小須賀が言った。
「もうフォローしてます。でも、杏奈さんの個人アカウントが知りたいんですー」
「アーユルヴェーダ料理のうんちくを読みたいってこと?変わってんな」
 杏奈は鍋の火を弱めて、
「個人アカウントの方は、最近停滞してますけど」
 と、前置きした。
「そうなんですか~?なんて検索すればいいですか?」
 しかし空楽はフォローする気満々のようだった。杏奈はアカウント名のつづりを教えた。
「うわ、フォロワー稼ぎしてる」
 小須賀が毒づいた。空楽はマイペースに入力を続けた。それからしばらくスマホの画面に見入っていたが、小須賀がそれをひょいと取り上げた。
「空楽ちゃん、もういいから、自分で盛り付けしたら?」
 食べられる分だけ、自由に盛ればいい。空楽は嬉しそうな笑顔を浮かべて、
「どうすればいいんですか?何から盛れば?」
 お皿を両手に持ちながら、杏奈にとも、小須賀にともなく聞いた。
 空楽が、おそるおそる、でも、要領よく楽しそうに盛り付けをする姿を傍らで身ながら、
─器用に盛り付けるなぁ…
 と、杏奈は思った。
 ハンドメイドが得意で、アクセサリーを自分で作って売っていると言っていた。手先が器用なのはもちろん、美的感覚があるのだろう。つくしのはかま取りにしても、ふきのとう採りにしても、空楽は効率的で、無駄のない動きをする。おっとりとした口調だし、気だるい雰囲気を出してはいるが、実は反射神経が良く、瞬発力がありそうだ。
 盛り付けが終わっても、空楽は応接間には戻らなかった。折り畳み椅子に座って、調理台をテーブルにし、そこでご飯を食べた。
 空楽がもりもりとスプーンを口に運ぶ姿を確認すると、小須賀も杏奈も、満足そうな顔で片付けを進めた。

 順正は登山口に向かう道を途中で南に折れ、草木が生い茂る小径をしばらく進んだ。
 明神山の森と、栗原神社の杜との狭間。カシ類の大木が、幹や枝を空に向かって伸ばしている。南天丸がすっかり慣れた様子で、さくさくと前に進んだ。
 一本のアカガシの倒木と、その傍に立つもう一本のアカガシ。そこで一人と一匹は足を止める。
 いつもはほぼ手ぶらで登山する順正だが、今日は荷物があった。ヌンチャクやATCなどのギアのほか、ハーネス、ヘルメット。それらを黒いザックの中にまとめて入れている。
 二本のアカガシの間に立つと、そのザックを適当に転がし、まだ生きているアカガシの根に座り込んで、その幹に背をもたげる。
 深く呼吸をして、目を閉じた。
 森のにおいがする。
 岩場の空気感ともまた違う。それはこのあたりの植生が、岩場のそれとは、全く異なるからかもしれなかった。
 南天丸は順正の隣でうずくまった。
 ちらちらと木漏れ日が降り注いでいる。
 普段は昼寝などしない順正だが、この時ばかりは、心地よさにそのまま眠ってしまいそうになった。
 この空間に立ち入ることは、一つのスイッチだった。ここに来たら、立ち止まって、深く呼吸をする。静けさと穏やかさを取り戻せるきっかけをくれる、数少ない場所なのだ。
 この時間は、誰にも邪魔されたくない─。
 ピコン。
 ラインの通知が鳴って、順正は小さく舌打ちした。
 見たくもないが、早いうちに確認して、すぐまた心地よいまどろみの中にかえりたい。そう思ってスマホを開くと、
─明神山登って帰ることにしました!詳しくは後で。
 と、蓮からラインが入っていた。既読を取り消したい。順正はスマホを持った手をだらりと下げた。
 ピコン。
 と思うや否や、また通知があり、
─で、柴崎さんどこ?
 ラインを閉じていなかったせいで、これもまた、既読になってしまった。
 順正はアカガシの幹に後頭部をつけて、目を閉じた。迎えに行かざるをえないけれども、あと少し。順正は、無視を決め込んだ。
 ピコピコピコピン。
 今度は前原から電話がきた。さすがに蓮と同じように扱うわけにはいかない。
 順正は観念したように目を閉じると、やっとのことで、電話に出た。

 栗原神社にて、蓮はしばらく順正からの連絡を待っていたが、既読にはなっても返事がないので、しびれを切らして、順正がいるであろう場所へ向かった。
 ぐう爺の話では、なんでも、西参道を出て里に向かう道を進むと、一番最初に北の方角に見える大きな邸宅に、順正は時折訪れているとのこと。
─あかつき。
 と、ぐう爺は言っていた。
 でも蓮には、それが邸宅自体の名前なのか、邸宅の主の名前なのか、分からなかった。
 ともかくも、ぐう爺の言う通り足を進めると、なるほど、生垣に囲まれた邸宅にであった。ちょうど生垣の向こうから一台の車が車道に出て、林道を下っていく。
 蓮は土埃が収まるのを少し待ってから、正門に近寄り、表札を見た。
─AYURVEDA TOTAL HEALING CENTER AKATSUKI
 最初の単語以外は読むことができる。そして最後に、AKATSUKIとあった。
「開いてる…」
 門に鍵がついていないことは、このあたりでは珍しいことではない。
 中に入ると、右手に畑らしいスペースがあった。わずかだが、農作物が育てられている。和風庭園を挟んで、小さな離れ。中央奥に、白い外装の大きな建屋。足込町や上沢によくあるタイプの、古い民家とは雰囲気が異なる。
─こんなところに、柴崎さん何の用があるんだろう。
 本当にここにいるのだろうか。蓮は疑いつつ、母屋の呼び鈴を押した。

 

 

 


 

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