「襖を開けた方が自然光が入るし、部屋が広く見えるけど、どっちがいいのかしら」
メイクルームと施術室を仕切る源氏襖。美津子は襖を開け閉めしながら、首をひねった。すでに、セラピストの正装に着替えている。
「そのあたりは、羽沼さんに聞きましょうか」
今日は羽沼に、あかつきの施術室と、シロダーラをするシーンの撮影を頼んでいる。インスタ用と、youtube用と二つ。
先日、調理風景の動画を撮ってもらい、インスタで発信したら、今までとは比較にならないほどリーチが伸びた。そこで、あかつきの目玉商品である、アーユルヴェーダトリートメントも、動画に撮ることにしたのである。
「私がモデルでいいんでしょうか」
沙羅は胸元まできっちりサロンを巻き、カーディガンを羽織った姿で、ベッドの横に立っていた。
「やっぱり、杏奈ちゃんと代わってもらったほうが…」
沙羅は無駄な贅肉はついていないし、肌年齢は実年齢より若いという自負はあるけれど、四十過ぎの女性と、二十代の女性では、肌質は明らかに違うだろう。それに、沙羅は杏奈の真っ白な肌を、足込温泉で見ていた。
「私は羽沼さんの横で、撮影を学ばないといけないですから」
杏奈は両手を振った。最初は羽沼に協力してもらって、それ以降は自分でも動画を撮れるようにしたいのだった。それは本当だったが、半分はモデルにならないための口実だった。沙羅は見目好い人だし、温かく明るい人柄がにじみ出ている。そういう人がモデルになった方が、絶対に反応が良いと思う。
「鞍馬さんの写真は撮れたんですか?」
「はい」
先ほど、居間でいくつかヨガのポーズを取ってもらった。
杏奈が沙羅に画像を見せるのを横目で見ながら、美津子は苦笑いをした。最近の集客のやり方は複雑だ。いい絵が撮れるならなんでも利用し、一目を集めようとする。こういう、ともすればミーハーと思われる行動をしてでも、貪欲に発信していかなければ、新しい顧客の取得は難しくなっている。この泥臭いSNS関連の努力を若いスタッフたちが一手に引き受けてくれているのはありがたいが、
「鞍馬さんの写真を上げるのは、もう少し彼の仕事が定着してからにしないとね」
やんわりと警告をした。美津子に言われて、沙羅と杏奈ははっとしたように固まった。
「失礼します」
舌ったらずな声が施術室の外から聞こえて、引き戸が開いた。ひょっこりと、空楽が顔を覗かせる。
「羽沼さんっていう方見えましたけど」
「通してくれる?」
まるで女中のように取り次ぎをする空楽に、美津子は思わずスタッフに対するような返事をしてしまった。空楽はスタッフでもなんでもないのに…。
ほどなくして、羽沼が施術室に入って来た。野球の練習着を身に着けた男性が施術室にいるのは、かなり違和感がある。沙羅は、思わず顔を背けて笑ってしまった。
「すみません、汚れたままの服で」
羽沼は土埃で少し汚れた服を気にするように見た。かといって、着替える場所もなかったのだ。
「いいんです。すみません、土曜は部活で忙しいのに」
羽沼は部活が終わってから、あかつきへ直行してくれたのだ。
「さっそく撮影、いいですか?」
背景がうるさいと被写体が目立たなくなってしまうという理由で、源氏襖は閉めることにした。
施術室の内窓の障子は、開けたバージョンと、閉めたバージョン、二通りで撮影をする。新緑の緑が入った方が写真としては綺麗だが、季節性が出てしまう。障子を閉めれば、冬でも使えるカットが撮れる。
「古谷さんのスマホはインスタ用の動画、僕のはyoutube用の動画、っていう風に分けて撮ろう」
「分かりました」
インスタ用の動画は縦長、youtube用の動画は横長なので、それぞれに合ったサイズ・向きで撮影が必要だ。同じスマホに入っていても、向きが異なるので、見分けることは容易。それでも、スマホが二つあるのなら、分けたほうがより混乱しにくい。
「インスタの動画は長く撮る必要はないよ」
「はい」
それは、杏奈も分かっている。インスタのユーザーは、じっくり見るよりも、短く、何も考えずに見られる動画を望む。対して、youtubeの方は、より長い時間の撮影が必要だった。
「ベッドの上にクライアントが通常使うような備品を置きませんか?」
羽沼はそう提案した。三人はあたふたしながら、案を出し合い、結局、サロンとタオルを置くことにした。
最初は人が入らない施術室のみの撮影。それから、正装をしたセラピストの姿も入れて撮影をする。次に、クライアント役の沙羅に、美津子がシロダーラをするという体で撮影する。オイルを垂らす前から撮影をし、実際にオイルを垂らしている場面も撮る。
「オッケー。次、障子を閉めてくれる?」
杏奈は自分も撮影をしつつ、照明や備品、窓の開け閉めなど、環境の調整も行った。長い動画を撮っている羽沼としては、オイルが手についていないアシスタントが一人いるというだけで、撮影がはかどる。
─一人でも撮影はできるかもしれないけど、大勢人がいた方が、いい動画が撮れるな…
自分にもできることならできるだけ経費をかけない。それが杏奈のスタンスだった。だからこそ、今日も撮影風景を横で見ながら、ポイントをおさえようとしている。けれど、いっそのこと動画の部分は、羽沼に委託したほうが早いし、クオリティが高い。その分を、自分は施術の練習に当てて、クライアントに対応できるようになっていたほうが、効率的な気がした。
「いいんじゃないかな」
撮影は三十分程度で終わった。
「もう終わったんすか?」
羽沼が下へおりると、居間では空楽、大鐘、小須賀が、快と七瀬の相手をしながら雑談していた。
「ええ。でもこのまま少し施術の練習をするって」
羽沼以外の三人は、そのまま施術室に残った。
「杏奈と打合せあるんじゃないんですか?」
「そうそう。だから早めに切り上げるって言ってたけど…」
その間に、昼食を食べていてくださいと言われたのだった。もう二時近い。
「メシっすね。ちょっと待っててください」
小須賀はキッチンへ向かい、羽沼も後に続いた。小須賀は手際よく、料理を再加熱し、ちょうど先ほどみんなで食べたのと同じように、ワンプレートに盛り付けた。
羽沼はいつの間に備品の場所を覚えたのか、折り畳み椅子をセットしてその場で食事をする。
─なぜかみんな、ここで食事を摂りたがるな。
小須賀はそう思ったが、羽沼の好きなようにさせた。
「さっき居間にいた子、かわいくないっすか?」
急に訊かれて、羽沼はスプーンですくったスナップエンドウを皿の上に落とした。
「見慣れない子だったね」
羽沼にとってはこれも見知らぬ老女とともに、快と七瀬の相手をしていた。ずい分若く見えた。まだ学生かと思うほど。
「近所の子で、今日の弁当作り手伝ってくれてたんですよ」
「そうなんだ」
スタッフではないらしい。
「…彼氏、いるのかなぁ」
「小須賀くん、彼女探してるの?」
「いや、彼女はもういるんすけど」
なんだ、と羽沼は思った。見たところ、小須賀は若く見えるが、実際には自分とそう変わらない。
「結婚しないの?」
「よく聞かれるんすけど、なんでみんなそんなに結婚にこだわるんすかね」
咄嗟に、羽沼は皿に沿えていた左手を見た。
「三十過ぎて結婚してないと…」
羽沼は、会社員だったころを思い浮かべた。
「なんかあるのかなって思われそうで、嫌だと思ったことはあるよ」
もっとも、当時は完全に他人事だったが。
「ああ、社会的信頼性ってやつっすね」
しかし、最近ではそれも、昔ほどは重要でなくなっている気はする。生き方が多様になっている時代だ。
小須賀は鍋を奥のシンクに浸すと、すぐには洗わずに、コンロの奥のタイル張りの壁を拭き掃除しだした。
「羽沼さんの動画、ちょいバズってたじゃないっすか」
「え?」
「この間、ここの調理風景を撮ったやつ」
「…ああ。六千回以上再生されてるね。でも、それじゃバズってるとはいえないよ」
「まあ、そうっすね」
それでも、あかつきとして今まで投稿された動画の中では、最もよく見られていた。
「このまま、あかつきのインスタ運用代行になれば?」
「それはオーナーさんと古谷さん次第だね」
頼まれたら、やらないこともないというような言い方だった。
「代行の依頼とか、来ないっすか?」
「去年から、役所の仕事を引き受けていたけどね」
町のピーアール動画。花祭の要素を入れるのが必須だったので遅くなったが、羽沼は先月末、ようやく町役場へ動画を収めた。今年度から町のピーアール動画として、公式ホームページにも掲載されている。花祭の裏方たちをインタビューしたドキュメンタリー動画も別に作っていたが、これも好評だった。
─でも…
羽沼は、スプーンに視線を落とす。
あれ以来、瑠璃子は素っ気ない。万里子をかたぐるましたことが、そんなに気に障ったのだろうか。
─とはいっても、万里子ちゃんのほうからしがみついてきたんだから…
羽沼には、どうしようもなかった。受け止めなければ、万里子は落ちてしまうところだったのだ。
しかしあの時、明らかに、瑠璃子は気を害していた。万里子は女の子だから、触ってほしくなかったのか。父親ぶった振る舞いをした自分に嫌悪感を抱いているのか。
「動画製作代行も、どんどん需要伸びそうですよね」
小須賀がそう言って、羽沼はやっと回想から抜け出した。
「どうかな。エーアイが普及してきてるから」
「そうなんすか。もう仕事なくなっちゃいますね」
「ほんとだよ」
羽沼は他人事のように言って笑った。
空楽はおもむろに離席して、階段を上がって二階へ向かう。施術室の傍へ歩み寄ると、中から小さく人の話し声が聞こえた。
「脇の線のところまで広げるのよ。もっと…そう」
「中指をここまで…しっかりとらえる」
「戻る時はそんなに触れない。ううん!それは、触れなさすぎ」
「今度はベッドに手がつくまでよ」
「うーん、そこはもっと練習が必要ね」
喋ってるのはずっと美津子だ。優しげで、言葉少ななイメージだったが、びしばしと指導している。
「はい。次は背面。脚は飛ばして背中をやりましょう。沙羅、楽にしていて」
先ほどのシロダーラの撮影で、沙羅の髪の毛はすでにオイルまみれだった。硬めにしぼって結った髪をタオルに包んでいる。起き上がると背中にオイルが足れそうになるため、沙羅は次の施術に備え、うつぶせになって待機した。
「ちょっと…待ってください」
杏奈はタオルで手を簡単に拭くと、マニュアルをめくり、流れを確認した。ここ数日の練習で、すでにマニュアルはオイルまみれだった。
「すみません…」
その時、引き戸の奥から声がして、美津子と杏奈は入り口を振り返った。
「すみません、ちょっと見学させてもらってもいいですか?」
内窓の方へ顔を向けている沙羅にも、その声で外にいるのは空楽だと分かった。美津子が返事をし、空楽は施術室にそうっと入ってきた。
「…続けましょう」
美津子は続きを促した。空楽は、壁に背をつけてしゃがみこむ。
「はい、縦ストローク…長いからね。ちょこちょこ動いて…」
杏奈は背が低いので、目的箇所を真下に捉えるために、こまめに歩かなければならない。
「次横ストローク」
杏奈の黒髪は、ポニーテールではなく、後頭部の低いところでお団子にされている。何かの拍子に、髪がモデルの体に触れたり、髪の毛が落ちたりするのを防ぐためだった。
「体を筒型にするよう意識するのよ」
注意をするように美津子が言った。体を下から上に、内側に寄せるように横ストロークをかけるこの動きは、クライアントの満足感がとても高い。ウエストや体幹部の引き締めにつながる手技だ。
「肩甲骨周りに圧がかからないようにね」
「はい」
人間の背骨は、本来ならば綺麗なS字のカーブを描いている。しかし、現代生活でパソコンやスマホを長時間操作したり、多くのストレスを抱えたりしている場合、体重が前面にかかる姿勢でいる時間が長くなり、この自然なカーブが損なわれてしまうことも多い。うつ伏せの状態での施術は、本来あるべきS字のカーブに注意を払い、過度に上から圧を加えることのないように慎重に行うべきだ。また、二つの肩甲骨の間が開き過ぎてしまわないよう、注意を払う。
障子を左右に開け放った窓から光が入り、空楽の目に、三人の姿は逆光となって映っている。
「頭頂部に立って、リンパトレナージュ三回」
美津子は指示を出し、立ち位置を変える。美津子の着ているセラピストの制服は、独特な二部式着物。美津子が動く度に、前に結んだ大きなリボンがゆらゆらと優雅に揺れた。杏奈はまごつきながらも、施術を覚えようと真剣だ。
「腋窩のリンパに老廃物を流し込むように意識して」
背骨に沿って手をすべらし、臀部、ウエスト、胸、肩甲骨の順に、円を描きながら優しくストロークする。
空楽は体操座りの姿勢のまま、身を丸く縮める。その瞳には、何かを懸命に成そうという、女性たちのひたむきな姿が映っていた。
野球部の練習に加え、昼食の時間が遅くなったのでお腹が空いていたのか、羽沼の皿はすっかり空になっていた。
「足りました?」
「うん。まだ食べれるくらいだけど」
食べれるのかよ、と小須賀は胸の内で独りごちた。
─今日はもう、おかわりはないぞ。
「運動してる男の人には、ちょっとヘルシーすぎますね」
「小須賀くんの彼女は、料理うまいの?」
彼氏がこんなに料理が上手いのでは、料理も食べさせにくいのではないかと思った。
「うまいっすよ。彼女も飲食やってるから」
「へえ」
「要領がいいんすよ。食材のやりくりもうまいし…」
ずい分と、小須賀はのろけた。料理がうまいことだけでなく、いかに女らしい立ち振る舞いをするか、デートの時にどんな気の利かせ方をするのか…
羽沼は、小須賀の彼女について訊いたことを後悔した。
「なんすか、自分が訊いてきたんでしょ」
羽沼が項垂れているのにやっと気が付いて、小須賀は憤慨した。
「おれの話聞きたくなかったら、そもそもそこで飯食べるべきじゃなかったんですよ」
どうしてだか、応接間でなく、ここでご飯を食べたがる者は多い。たいていみんな、一つしかない折り畳み椅子に座って、料理やら片付けやらをする料理番に話しかけながらご飯を食べるのだ。
「分かりました。じゃあ、次は羽沼さんの番です」
「何が?」
「付き合っている女性について、のろけていいっすよ」
「付き合ってる女性なんていないよ」
嫌な話題だ。羽沼はその話題を避けようとするように、そっぽを向いた。
「いないんすか?」
が、羽沼の反応は無視して、小須賀は追い打ちをかけた。
「三十過ぎて結婚してないとなんかあるんじゃないんですか?」
さらに、まくしたてる。
─面倒くさいやつだな。
こんなことなら、子供の相手をする老女を傍らに見ながら、食事をしたほうがましだったか。
「分かりました。じゃあ、好きな女性のタイプでいいですよ」
なぜかエラそうに言う。羽沼は首を振った。
「公平じゃないっすよ。おれにはしゃべらせておいて」
「勝手にしゃべったんだろう」
「なんかあるっしょ。美人で、いつまでも女を捨てなくて、気が利いて、料理がうまくて…」
─それは、小須賀くんの彼女の話じゃないか。
羽沼は絶句した。
「…分かったよ」
しょうがないから考えてみたが、適当な答えが見つからない。
「どうだったかなぁ…好きになった子の特徴が好きって感じだったから」
「うっわ」
いちいち、小須賀は癇に障るような相槌を打つ。
「いるいるいる。そういう男」
「なんだよ」
「あー、いいや。じゃあその、好きになった子の特徴は?」
小須賀は恋愛事情を話すのが好きらしい。壁を拭く素振りを見せながらも、体は羽沼の方に向いているし、ニヤニヤを隠しきれていない。
「…どこが、っていうこともなかったな。小さい頃から家が近くて、仲が良くて、いつも一緒にいて…気が付いたら、意識してたって感じ」
「なにその少女漫画的展開」
しかも、長い間同じ子が好きだったということではないか。
「その子とは、結局付き合ったんですか?」
「付き合ったよ。結婚もした」
「…え?」
小須賀は、自分が墓穴を掘ったことに気付いた。おそるおそる羽沼を振り返り、その左手に視線をゆっくり移す。羽沼はさりげなく、でも急いで、両手を後ろに隠した。
「何も見てないですよ!」
「しらじらしい!」
言いながら羽沼は、手を隠そうとした自分がばかばかしく思えた。ここに弱点があります、と言わんばかりではないか。羽沼は、はぁ、とため息を吐いた。
「…離婚したんすね」
小須賀は、もう壁を拭いてはいなかった。
「もう皿洗っていいっすか?」
「え?うん」
小須賀は羽沼の皿を取ると、シンクに持っていって、ジャっと水を掛けた。
キッチンに流れる沈黙。
「聞かないの?」
「聞きません」
「いや、ここで話を切られると、すっごい消化不良なんだけど」
「おれ、立ち入った話を聞く趣味はないんで」
美津子さんや杏奈じゃあるまいし…と、小須賀は口まで出かかったが、なんとか制御が利いた。
羽沼から非難がましい視線を注がれている。小須賀は蛇口に手を置いて前かがみになった状態で、数秒考えた。
「分かりましたよ」
小須賀は羽沼から視線を逸らしたまま言った。
「なんで離婚したんすか?」
羽沼は目を背けて、物思いに耽るような表情になる。
─ほら、言わんこっちゃない。
こういうビミョーな雰囲気になるから、嫌だったのだ。
「小須賀くんさ」
次に発された言葉で、小須賀は完全に墓穴を掘ったことを自覚した。
「精子が少ない男ってどう思う?」
「あとは、フェイシャルを少しやって、終わりにしましょうか」
「はい」
空楽はそこまで見学すると、静かにその場を後にした。階段を下っている間にも、子供たちが遊んでいる声が聞こえる。居間に行くと、大鐘と子供たちしかいなくなっている。キッチンに歩みより、カーテンをくぐりかけたが、そこで足を止めた。先ほど空楽が施術室へ連れて行った男と小須賀が、ただならぬ雰囲気で話し込んでいる。空楽はそっと踵を返し、大鐘と子供たちの傍に戻った。
「はあああ~」
大鐘は、すでに子守にくたびれてしまったようである。快と一緒に、ピサの斜塔のおもちゃで遊んでいるが、白目を剥きそうである。傍らで七瀬はマイペースに音の鳴る絵本のおもちゃで遊んでいた。
「入ーれーてー」
空楽はカーペットの上に座り、快に頼んだ。
「いいよ~」
快は小さな人形を一つ、空楽に渡した。
「あかつきには、よく子守に来るんですか?」
肩に手を置いてコキコキと首を鳴らす大鐘に、空楽は訊いた。人形をのせると塔はぐらぐら動いた。
「たま~に来るけど、いつも子守ってわけじゃないわよ」
「つぎ、おばあちゃんの番」
「はいはい。ばばあの番ね」
大鐘は緑色の人形を指でつかみ、そっと塔にのせる。
「ああ、よかった。セーフ」
「つぎ、ココちゃんのばんね」
快は真剣に、赤い人形を塔へのせようとする。
「たまにでも、呼んでもらえるだけありがたいわ」
大鐘はそう言って、七瀬の頭をなでた。
「家に一人でいるよりも、ボケ防止になるし」
七瀬は大鐘の手を迷惑そうに振り払った。
「できたー。つぎ、おねえちゃんね」
快は満足そうな顔で、にたーっと笑って空楽を見る。
「よし、じゃあ…」
空楽は再び小さな人形をつかんだ。レトロなおもちゃだ。昔、似たようなおもちゃで遊んだ記憶がある。小さい頃、年が離れた姉とは遊びが合わなくて、空楽の相手はひたすら母か、祖母がしていた。
「一人暮らしなんですか」
「ええ。夫はとっくに死んだわ」
もう少し、やんわりとした言い方があるような。空楽はそう思ったが、口をつぐんだ。
「ほら、沙羅さんも忙しいでしょ。旦那さんは単身赴任で、お仕事もしていて」
「そうなんですか」
今、施術室でモデルになっている女性の夫が単身赴任だとは、空楽は知らなかった。
「だから、私のようなばばあを利用したほうがいいのよ。私も子供たちと一緒にいると元気がもらえるし。うぃーんうぃーん」
─ウィンウィンか。
どちらかというと、元気をもらえるというより、元気を吸われているような気がするが。
「私なんて、棺桶に片足突っ込んでるおばあさんだからね。この年になってやりたいこともそうないけど」
大鐘は、時々何気なく自分を卑下するようなことを言う。
「やりたいことがあるなら、思いっきり、それをやってもらわないとね。どんなことでも」
大鐘は、人形をちょこんと置いた。
「ようし、つぎはココちゃんのばんね…」
快は唇を舐めた。
「あなたは、ここの新しいスタッフさん?」
「いえ、ちがいます」
「あらそう。あなたはなにがやりたいの?」
「私は…」
空楽は、快の指先に視線を集中させていた。
「やりたいこともないし、続かないんで…」
「あーん」
快の一手で、塔は倒れてしまった。快は悔しそうに、脚をバタバタさせた。塔が倒れないようまともに人形を置いていたが、子供相手なんだから、適度なところで負けてやったほうがよかったか。
「あきた~」
「え~」
大鐘は快に負けないくらい残念そうな声を出した。
空楽は沙羅が持って来たらしい、おもちゃが入っている大きなトートバックの中を探る。ふた付きの容器を見つけて、空楽はあることを思いつく。
「男らしくないよね」
羽沼は一通り、元妻との間に起きたことを話した後で、自嘲気味に笑った。小須賀は奥のシンクに腰を落ち着けて話を聞いていた。
「男らしくないって、何が?」
羽沼は俯いて、小須賀の問いの答えを探した。
「最初は、子孫を残す力がないってことに…自信をなくしたんだけど」
小須賀は、口を真一文字に結んで黙っていた。
羽沼と別れた妻は、幼い頃からお互いのことをよく知る、幼馴染だった。就職後もしばらくは、お互いキャリアを積むことに専念し、羽沼が何度目かの海外赴任を経ると、ようやく結婚した。社会人として、十分に軌道に乗った後だった。
しかし、子宝に恵まれなかった。ほどなく検査をして、精子の量が極端に少ないことが分かった。一年と少しの間、不妊治療に励んだ。しかし、実を結ばなかった。負担がかかっているのは、どちらかというと妻の方だった。
不妊の原因は、羽沼のほうが優勢だと判断せざるを得ない。羽沼はそれにも関わらず、妻を苦しめていることに罪悪感を感じ、妻の方は不満を抱いた。このことがあって、気持ちにすれ違いが生じた。
妻は、子供が好きだった。羽沼は、すぐに行動を起こせば、妻はまだ違う未来を手に入れられると思った。
「今思うと、それを理由に、妻を自分から遠ざけるような言動をしたことのほうが、男らしくなかったかな」
あの頃、別れ話をすすめるのは妻のためだと言い聞かせていた。しかし本当は、妻に子を授けてやれなかった負い目を感じながら、一生、妻と一緒に過ごしていくのが、忍びがたかったのである。
不妊の原因が分かって以来、二人の雰囲気は悪くなっていた。けれども、それも今思えば、いつまでも自分がくよくよしていたから、妻に腹を立てられてしまったような気がする。
─格好悪いことをした。
羽沼は離婚が成立すると、夢から目が覚めたように思えた。自分にまやかしをかけていたのかもしれない。妻と別れなければならないと。
しかし、別れた途端、緊張の糸が切れたように、今まで感じたことのない惰性が襲い掛かってきた。何もする気が起きなくなった。やりがいのあった仕事にも、何の価値も感じなくなった。
困ったことに、二人の実家は近い。羽沼は実家に住んでいると、前妻とすれ違う可能性があった。自然、実家から足が遠のいた。羽沼は逃げるように、足込町へ移住を決めた。
「おれもそう思います」
小須賀は腕組みをしていた。羽沼は、妻を遠ざけることで、コンプレックスから目を背けようとしたのだ。
「精子が少ない人は、男らしくないんですか」
「…」
「男らしいに固執する理由も分かりませんけど。そもそも男らしいって何ですか」
小須賀は、容赦なくたたみかけた。
「子孫を残す力がどのくらいあるかってのは、生物学的な能力でしょ。もっと、別の男らしさもあるんじゃないですか」
小須賀の言うことは正しい。
昨年の秋頃から、ようやく、羽沼は自分を客観的に見られるようになっていた。それ以前に、今小須賀が言ったのと同じことを誰かから言われたとしたら、羽沼は反発していたかもしれない。でも今は、ようやく自分の過ちに気づき、変わってしまった現実を直視することができかけている。
「…いや、むしろ性は関係ないな。人間としての…」
小須賀はさすがに、それ以上は言えなかった。羽沼はもう、十分傷つき、反省しているように見えたから。
「そう。人間として、器が小さかった」
それを受け止めている。そして、どうにかして、前に進みたいと思っている。
「小須賀くん」
羽沼は、小須賀の顔を直視し、
「おれの言ったこと…」
そこまで言って、再び、顔を背けた。
「精子が少なくて…って話」
「…」
「誰にも言わないでくれ」
羽沼は懇願するように、小須賀の目を見て言った。小須賀は、腕を組んだままだ。
「………………わかった」
》》小説TOP
LINEお友達登録で無料3大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします

