第61話「星に書かれていること」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 午前は沙羅がカティバスティ、午後は美津子がピンダ・スウェダを行った。
 料理好きな真奈は、さらにアーユルヴェーダ料理教室を所望し、急遽夕方からキッチンにてレッスンを行った。
 真奈は、アーユルヴェーダは学び始めだが、発酵食品と薬膳を普段から取り入れているとのことである。
「薬膳とアーユルヴェーダ、どっちも知りたいのですが、どっちかだけに絞った方が良いのでしょうか?」
 確かに、薬膳を学ぶ人の中には、アーユルヴェーダを学ぶ人もいる。その逆もまた然りである。
「私個人としては…どっちも共通点はありつつ、独自の奥深い考えがあるので、両方一気に学ぶと、パンクしちゃうような気がします」
 特に、今の真奈はいろいろなことに手を付けない方が良い。事前コンサルを通して、真奈の状況を知る杏奈はそう思った。
「どっちを先に学ぶかですが、好きな方で良いと思いますよ。直感で」
「ふふふ、直感ですか」
 真奈には笑われたが、杏奈は真面目に答えているつもりだ。
「相性は、明らかに存在すると思うんです」
 アーユルヴェーダの概念が、すんなり腑に落ちる人もいれば、そうでない人もいる。
「自分が理解しやすいほう、実生活で活用しているイメージを持ちやすいほう…結局、そっちが自分に向いているんです」
 杏奈は、以前よりも明確にものを言うようになった。
「私としては、アーユルヴェーダを学んでくださったら嬉しいですけど」
 とはいえ、アーユルヴェーダと中医学には多くの共通点がある。どちらを選んでも、健やかな生活をサポートしてくれるはずだ。
 杏奈は、二つの共通点について話をした。
「双方とも、個人の体質を重視します」
 病気ではなく患者に焦点を当てている。
「そして、総合的な治療をもって、直そうとします。問題だけにアプローチするのではなく、根本的な原因を排除することに注力します」
 問題を総体的に捉えるために概念を用いるのも、二つの共通点だ。たとえば、双方に共通する「五行」や、アーユルヴェーダでいうとドーシャ、中医学でいうと気血水、陰と陽。
 さらに、どちらも能動的なアクションを必要とする。バランスをとるには受動的ではならず、患者自身のアクティブなアクションが必要なのだ。
「今日は、鶏粥を作ります」
 真奈は消化力が弱く、最初の体組織であるラサや、次のラクタの形成からうまくいっていない可能性がある。
 中医学もアーユルヴェーダも、消化力を考慮に入れた料理を作る。鶏粥は、消化力を損ねず、同時に真奈に体力をつけさせるためのメニューだった。
「アーユルヴェーダでは、消化力をアグニという概念で捉えますが、中医学では?」
「脾胃で捉えると思います」
 真奈は、少し自信がなさそうだった。まだ薬膳も覚えたてのようだ。
「ご自宅にスパイスはありますか?」
「あります」
 真奈は手持ちのスパイスを挙げた。シナモン、ナツメグ、胡椒、クミン、カルダモン、ターメリック…他にもいろいろ。主要なスパイスのほとんどは持っているようだ。
「先生、スパイスって、やっぱり冷蔵保存した方が良いんですか?」
「ここでは、ほとんど常温、冷暗所で保管という形を取ってますが、パプリカパウダー、トマトパウダー、ガーリックパウダーは冷蔵庫の方が良いですね」
 もっとも、その三つはすべて、あかつきでは使わないスパイスおよび素材であるが。
「そうなんですか」
「はい。その三つは、とても湿気りやすくて、カチカチになることがあります」
 パプリカパウダーはまだましだが、他の二つは一回カチカチになると、削るのに相当な労力がいる。
 鶏粥には、生姜、黒胡椒、なつめを使う。なつめは、あかつきではほとんど使わなかった食材だが、最近、杏奈が菓子類や粉物系の試作で使っている。
 鍋の中が煮立ってきたのを確認すると、杏奈は真奈に、圧力鍋の蓋を閉めてもらった。

「真奈さんは不安になることが多いですか」
 生姜を刻んでいる真奈に、杏奈は聞いた。
「はい。そうなんです」
 圧力鍋から、加圧調理の音が聞こえる。
「どんな時に?」
「以前は、子供と接している時にも、イライラしたり、不安になったりすることがありました…子供って、歯に衣着せぬ物言いすることあるじゃないですか」
「そうですね」
 子供は、親は大人だと思っている。しかし、大人であったとて、不安や迷いを抱えているという事実は、自分自身が大人になるまで、分からないものだ。
「でも、子供たちはもう、親の手を離れるようになって、そこは少し楽になりました」
「そうですか」
「はい。だから今は、パート先の人間関係かなぁ」
 真奈の勤め先は、保育園の給食調理。同僚に価値観を押し付けられたり、ちょっとした役割分担の不平等を見つけたりするたびに、イライラする。
「自分の調子がいい時は、一歩離れた目線で立って、この人虫の居所が悪いんだろうなぁ…って、自己完結させることもできるんですけど」
 最近は、自分自身のメンタルが安定していないらしい。
「更年期も、ピークは過ぎたかなぁ…私の場合は、そんなに症状がなくてよかったなぁ…と思っていたのに、これも更年期症状なのかなぁって」
 杏奈は首をひねった。
「ヴァータが乱れていれば、更年期の時期に限らず、気分の浮き沈みは激しくなります」
 それを更年期だけが原因だと捉えると、ちょっとおかしなことになるかもしれない…と言おうとして、杏奈は口を噤んだ。
「はぁ、ヴァータね。私、ヴァータが乱れてるんでしょうか」
 杏奈はこっくりと頷いた。杏奈や美津子からしてみれば、真奈のヴァータの悪化は明白すぎるほど明白だった。それはあかつきにメールがあった時から分かっている。ヴァータが乱れている人は、メールの誤送信や添付漏れ、それに気づいて連続でメールしてくる人が多いし、予定や希望も土壇場でもころころ変わる。
 抱えている症状─膨満感、思考錯乱、体の痛み、不安症、手足の冷え、気分の浮き沈み─も、ほとんどがヴァータ性の症状。
「ヴァータっぽさが強くなってはいますけど、話している感じの優しさとか、聡明さとか、もともとのカパやピッタの良いところも分かりますよ」
 杏奈は、フォローするつもりで言った。先ほど、鞍馬がクライアントを褒め、やる気を引き出していたのを思い出したからだ。自分の言葉選びが失礼になっていないか、一抹の不安はあったけれども。
「副菜の準備をしましょう」
「はい」
 副菜は、ほうれんそうの胡麻和えなので、教えるというほどのこともない。杏奈が考えるに、アーユルヴェーダ料理作りには、テクニカルな要素はなくてよい。それよりも、何を選択し、どう食べるべきか、理解し実行することが、最大の課題である。
「先生」
 真奈はほうれんそうを洗い終わると、杏奈に訊いた。
「アーユルヴェーダでは、更年期をどう捉えますか」
 杏奈はまだ沸騰していない鍋の水に視線を向けながら、少し考えた。
 女性の健康について資料をまとめた時、更年期のことも書いた。杏奈はまだ更年期を迎えていなかったので、実体験をもって語るのは難しいが、そのアウトプットがあったからこそ、真奈への返答は即座に思い浮かんだ。
「更年期は、心や体に不調が起こりやすい時期というイメージがあり、忌み嫌われていますよね」
 女性として避けられない、自然なことにもかかわらず。
「はい。同僚にも、更年期障害で悩んでいる人がいます」
 ボウルとザルを重ね、洗ったほうれんそうをそのザルに入れながら、真奈は答えた。
 更年期とは、閉経の時期をはさんだ前後10年間のこと。個人差はあるが、一般的に女性の平均閉経年齢は五十歳といわれている。年齢を重ね、卵巣の機能が低下し、女性ホルモンの分泌が急激に減少することに伴い、様々な心身の不調を経験する人もいる。
「アーユルヴェーダでは更年期を、女性としての役割…つまり子供を産む能力から離れ、今まで培った叡智をシェアすることに向かう、役割の変換期と捉えています」

 杏奈が一息に言い放った言葉を聞いて、真奈は目をぱちぱちさせた。
「アーユルヴェーダでは、体の組織が、段階的に出来上がると考えられています」
 ラサ(血漿、乳糜)、ラクタ(赤血球)、マンサ(筋肉)、メーダ(脂肪)、アスティ(骨)、マッジャ(神経系)、シュクラ(生殖組織)の順である。
 生きるのに必要な組織から栄養が充填され、生殖組織は一番最後だ。
「更年期を境に、生殖組織に充填されていた栄養は、どこに行くと思いますか?」
「うーん…」
 真奈は、指を口元に置いて考えた。そんなこと、考えたこともない。答えが思い浮かばない。体組織が段階的に出来上がることとて、初めて聞いた。
 シンキングタイムを設けても答えが出ないので、杏奈は回答を伝えた。
「内なる叡智に補充され、高次の行動を起こすためのエネルギーとして、使われると言われています」
 まずは、堅い言葉で。
「更年期を迎える女性は、すでにその人生の中で、多くの経験を積んでいます」
 思慮深く、女性性(優しさや献身性)が育まれ、他の人を導けるような女性になっているはずなのだ。
「女性のサイクルに振り回されることなく、自分のエネルギーを、高次の自己の達成のために使えます」
 それは、今まで培ってきた叡智をシェアすることかもしれないし、家族や周りの人の助けになることかもしれない。芸術性の高い創造をすることかもしれないし、誰かの気持ちに寄添うことかも。
「更年期は、自分のもつエネルギーを何に注ぐのかが変わる変換期です」
「変換期…」
 本来、この身体的、精神的な変化は、素晴らしいものだ。
「けれど、更年期以前からのバランスの乱れがある場合、その変化の時期に、何かしらの症状が現れることがあります」
「そうなんですね」
 なかなか湯が沸かないので、調味液を先に調合することにした。少量のみりんと酒を沸かし、出汁、醤油、すりごまを入れた簡単なものだ。
「スパイスを加えるとしたら、何がいいでしょうか?」
 単なるほうれんそうの胡麻和えに、ひねりを加えるとしたら。
「ジンジャーパウダーとアムチュールパウダーを混ぜたもの」
「アムチュールパウダー?」
「マンゴーの粉末です」
「へえ、マンゴー」
「マンゴーの味はしないですが、甘酸っぱい風味があります」
 他にも、様々な選択肢が思い浮かぶ。
「柑橘の香りを入れてもいいですね。七味唐辛子には陳皮が入っているので、七味唐辛子も合います」
 この間、蓮の食事に七味唐辛子を入れた。
「トリカトゥという、三つの辛味を混ぜたものをまぶしてもいいですね」
「三つの辛味ってなんですか?」
「黒胡椒、ひはつ、生姜…」
 ほうれん草に入れるスパイスを列挙し終わると、ようやく湯が沸いた。
「さっきも言ったんですけど、同僚に更年期障害がひどい人がいて」
 話しながら、真奈は鍋の中にほうれんそうを入れる。調理を平行して行いながらだから、話が行ったり来たりする。
「私も先生みたいに、アーユルヴェーダの観点から、どう整えるべきか、教えてあげたいです」
 杏奈は苦笑を浮かべ、圧力鍋の火を止めた。
 まだ杏奈は、誰かを整えたことはない。おそらく、真奈が思っているよりも、それは簡単ではない。
「湯を切ったら、水けを絞って、和えればいいですね」
「お願いします」
 杏奈は真奈に作業を任せた。料理教室では基本的に生徒に手を動かしてもらうことにしている。
 片付けをしながら、杏奈の脳裏には、現実にあるかどうか分からない、真奈と、その同僚が一つ所に居合わせ、会話をするシーンが浮かんだ。
 真奈は、精神的な浮き沈みはあるものの、比較的安らかに更年期を終えようとしている。
─その真奈さんが、心身の整え方を教える、か…
 その時、その同僚はどう思うか。
「…先ほど、更年期以前からバランスの乱れがあると、更年期症状となって現れることがあるとお伝えしましたけど」
 独りごちるように、杏奈は言った。真奈は、杏奈を振り返った。
「確かに、コンディションを整えるために、自分にもできることはあります。でも、私はここで働いていて思うに、自ではコントロールできないこともあると思うんです」
 それは、更年期の不調に限った話ではないのだけれど。たとえば、咲子は考えられる限り全ての手を尽くして、妊活に励んでいるが、子供ができない。そして、羽沼もまた…
「同じようにバランスの乱れがあっても、症状が現れる人もいれば、現れない人もいます」
 それを左右するものの一つが、先天的な体質(プラクリティ)なのかもしれない。免疫力の強さ、体の強さは、後天的なものにもよるが、生まれもったものもある。受精のタイミングで、その人の星に書いてあるのだ。自分の先天的な特徴や、将来かかりやすい疾患は。
「私たちの体は、とても個人的な性質をもっています」
 同じものは一つとしてない。
「それぞれに、心と体に、良い所と悪い所、弱い部分と強い部分があります」
 人一倍健康に気を付けていたとしても、人よりホルモンバランスの乱れに対して影響を受けやすいことだって、ありうる。
「もし、その同僚の方が…」
 話の的はここだった。
「個人的に努力しているにもかかわらず、更年期の不調に悩まれているようなら」
 真奈に釘を刺すために、この話をした。
「自分を責めないよう、真奈さんからも肯定的な言葉をかけてあげるのは、いいのではないでしょうか」
 杏奈はそう言うと、真奈に微笑みかけて、圧力鍋の蓋を開けた。
「いい感じに柔らかくなってますよ」
 真奈は傍に寄って、鍋の中を覗き込みながら、杏奈が遠回しに言わんとしたことを想像した。
─どう整えるべきか、教えてあげたい。
 自分は、うぬぼれたことを言ってしまったのだろうか。
 相手がどのように自分の心と身体に向き合っているか、よく知りもせずに、安易なアドバイスはするなと。ストレートに言えば、杏奈の言葉は、そういうことになるのだろう。
 このスタッフは醸し出す雰囲気が柔らかく、安直な言葉を発した自分に向けられる、非難は感じられない。しかし、オーナーの弟子のように見えていたこのスタッフが、急に思慮深い大人に見えた。息子たちと、あまり年齢は変わらないように見えるのだが。
「真奈さんの舌は、少し歯形がついていましたね」
 杏奈は、思い出したように言った。昨日、美津子とともに真奈の舌を確認した。
「はい。消化不良の証拠なんですよね」
「ええ」
 真奈は思考をぐるぐる回らせていたが、杏奈に言われて、急に我に返った。
「消化力は、強くしておきたいです。アグニが強ければ、たとえドーシャが乱れても、アグニが弱い状態でそうなるよりも、立て直すのがずっと楽です」
 反対に、ドーシャがバランスしていれば、アグニが弱くても挽回しやすい。
 ドーシャとアグニは、切っても切れない、密接な関わりがある。
「消化力を上げる食事や、食べ方をすると同時に、鞍馬がお伝えしたプラクティスやヨガを実践することも、とても役立つと思います」
 真奈の消化の弱さは、姿勢や、内臓下垂も関わりがあると考えられた。
「ドローインでしたね」
「はい」
 杏奈は圧力鍋の蓋を開けた状態で、再びとろ火にかけた。少しだけ、水分を飛ばしたい。
「胃下垂の場合は、胃の働きが悪くなります。正常に比べて、消化力の強さがが三分の一まで減ることも」
 鍋の中をお玉で混ぜつつ、内臓下垂の消化力への影響を伝える。
「三分の一…」
 思った以上の影響力である。
「腸が下垂すると、便秘を引き起こします」
 真奈は、二、三日に一度くらいの周期で排便がある。ものすごいひどい便秘ではないが、便通が良いともいえなかった。
「実は、私も反り腰で、少し胃下垂気味だったんですが、同僚からトリートメントを受けて、姿勢の改善の仕方を教えてもらってから、お腹が平らになったんです」
「そうなんですか」
 真奈は目を見開いて、改めて杏奈の腹部に視線をやった。エプロンの紐が巻かれているウエスト部分は、確かに羨ましいほど平坦だった。
「鞍馬の提言したドローインは、私もやったんです」
 だから杏奈は、その効果ややり方をよく知っていた。
「内臓の筋肉を鍛えると同時に、呼吸を行うので、ヴァータの鎮静にも役立ちますよ」
 杏奈は真奈に笑いかけた。
「少し、練習しましょうか」
「はい」
 鞍馬から教えてもらったことを思い出しつつ、杏奈と一緒に練習をした。お腹をひっこめながら呼吸を繰り返している間、真奈は、傍らに立っている杏奈を視界の中に捉えた。
 アーユルヴェーダは更年期をどう捉えるか。この問いに、こんなにボリュームのある回答が返ってくるとは思っていなかった。いや、どんな疑問を投げかけても、詳細に、明確に、返事が返ってくる。
─どこで知識を身に着けたのだろう。
 呼吸に集中する真奈の脳裏に、そんな疑問が浮かんだ。この若いスタッフが、美津子から口頭伝承を受けるだけでなく、書斎の本棚にしまわれている本や、海外の文献、論文を、千本ノックを目指して読み漁っているとは、思いもしなかった。

 知識はインプットするだけでなく、アウトプットすることで、より自分のものとなる。
 杏奈の知識のアウトプット先は、クライアントへの応答であり、美津子との問答であり、テキストの編纂であり、そして、SNSだった。
 もはや、情報はどこでも手に入る時代となった。事業者は、惜しみなく知識や情報をギブし、経験やサービスを買ってもらう時代である。
 十八時。この時間は、あかつきとしての投稿を、インスタに上げる時間である。
 今日投稿するリール(インスタのショート動画)は、羽沼に撮影を手伝ってもらった自信作である。
 杏奈は書斎のソファに座って、音楽を選んでいた。動画は容量が重いので、操作中にアプリが落ちることがある。そこで、動画はあらかじめ、動画製作ツールを使って仕上げていた。なので、今やることは、動画に音楽をのせ、キャプションの文章を入れることくらいである。
 羽沼はあの日、動画製作まで付き合ってくれた。あんなにも優しく接してくれていた彼が、生物学的な男としての機能不全に悩み、路頭に迷っていたとは、信じられない。
─あかつきと関わりたいと言ったのは…
 杏奈を手伝う中で、気付いていたのかもしれない。ここには、自分と同じ悩みを持った人がやってくると。
─あかつきをサポートすることを通して、共通の悩みをもつ第三者が、少しでも救われればと思ったのか…。
 杏奈は羽沼の、憂いを帯びた笑顔を思い浮かべる。少し自嘲気味な笑顔。
 羽沼は尾形と似たところがある。
 リールを上げ終わると、スマホを持つ手を、力なくソファにおろした。この期に及んで、尾形の影が頭にちらつくとは。
 尾形は背の低い人だったけれど、体格が逞しく、胸板の厚い人だった。体の前面をその胸板に押し付け、頬を摺り寄せると、後頭部と腰に手を回される。そうやって抱きしめられている時の、途方もない安心感。それを思い出すだけで、杏奈の体は今でも火を噴くように熱くなる。あの日々はもう戻らない。
 未だに心を捉えている想念を振り払うように、杏奈はかぶりを左右に振った。
─それよりも…
 杏奈は、羽沼の問題に意識を移した。
─長年の付き合いだった恋人とも、子供が原因で、別れることがある…
 杏奈は、この問題のインパクトを、生生しくと見せつけられたような気がした。
─どうして、望まない人のところにも子供は宿るのに…
 あの暑い夏の日、美真と善光寺まで一緒に歩いたことを思い出す。
─望む人のところに、子供は宿らないのだろう…
 理不尽に思えてならない。子を強く望んでいたのなら、羽沼の前妻を責めることとてできない。
─ある人は、望まないのに子を持つことができ、ある人は、強く望んでいるのに、子を持つことができない…
 二つを決めるものは、何なのだろう。生まれた時、星に書いてあるのだろうか。
 ふと書斎に足を踏み入れた美津子は、ぼんやりと外を眺めている杏奈を捉えた。物思いに耽るような表情をしている。
「浮かない顔をしてるわね」
 美津子は、杏奈の傍に歩み寄った。杏奈は、リールがアップできていることを確かめると、スマホの画面を消す。
「何かあった?」
 最近では、杏奈の精神は安定していると思っていたのに。出会った当初、杏奈の表情に浮かびがちだった翳りを、今また見つけた気がして、美津子は問うた。
 杏奈は、羽沼には申し訳ないけれど、小須賀から聞いたことを話した。美津子は話を聞きながら、ちょうど一年ほど前─杏奈と初めて会った時─と、今の杏奈との変化を思っていた。
 あの時は、杏奈は他人のことなど気に掛けることもなかった。話すこと、やること全てに自信がなく、生きているのに死んでいるような目をしていた。あれは、タマスそのものだった。
「自分が子供を持てるか、持てないか、もし持てるとすれば何人なのか…何かに書いてあればいいのに」
 今ここでそう言った杏奈は、確かにあの時と同じように翳りを見せているのだが、
「そうすれば、余計な期待をすることも、余計な失望をすることもなく、静寂な気持ちで生きていけるのに…」
 あの時よりもよどみなく言葉を発し、意識を向ける対象も、異なっていた。
 今となっては可愛い弟子だ。その弟子に、やっと見えてきたサットヴァ。
 美津子は、杏奈と向かい合う形で、もう一方のソファに腰を下ろした。杏奈は師の静かな佇まいを視界の中に捉えて、言葉を待つ。
「何かに書かれていなくても」
 この師は、いつだって自分を導いてくれる存在だ。
「余計な期待も失望もせず、心を平和に保つことはできる」
 美津子は、穏やかに語った。
「今ここに意識を留め、ありのままの自分の中に安らかさを見出す。それが、ヨガの道なのよ」
 杏奈は、視線を美津子の膝の上あたりに移した。言葉では理解できても、経験をもって体感してはいなかった。
「美津子さんは、ヨガの道を完全に実行できているのですか?どうして…どうやって?」
 しかし美津子は、具体的な方法を示しはしなかった。
「私も、まだ修業の途上なのよ」
 しかも実行できているかという問いを、否定した。
「どうしたら実行できるか、それは人それぞれ…答えは一つではなく、人の数だけ、幾通りもあるものだ」
 それを、杏奈も分かっているだろうに。何かを果たしたいと、気持ちが急くのだろうか。
「クライアントも、自分自身でそれを見つけるしかない。あなたは、あなたのやり方を見つけなさい」

 翌日、美津子が真奈にシロダーラをしている間、他のスタッフでヨガの撮影を行った。ヨガを自宅で練習してもらうために、当初は紙ベースの資料を渡すつもりだった。しかし、
─動画の方が絶対いいです。
 と、鞍馬が強く主張したため、動画を撮ることにした。
 実演者は鞍馬、撮影者は、沙羅と杏奈である。
「シークエンスはこんな感じです」
 鞍馬は、ポーズの名前だけをざっくりと認めたメモ用紙を、沙羅に渡した。真奈にふさわしいシークエンスかどうか確認し、議論した上で動画を撮りたかったが、鞍馬は首を振った。
「大丈夫です。任せてください」
 ずい分な自信である。ぱっと見たところ、そう無理なポーズは入っていない。この二日の間に、真奈に伝えたボディーワークの要素が入っていたので、沙羅は確認もほどほどに、動画の撮影に入った。
「そこに生徒さんがいるっていう想定で、普通にやりますからね」
 鞍馬は二人にそう断って、居間の窓と平行になる位置にマットを敷いた。
 あかつきとして、ヨガ動画の撮影をするのは今回が初めてである。急なことで、撮影形式も、何を背景にするかも、何も決まっていない。そのため、特に細工めいたことはせず、ヨガ風景をありのまま撮影するに留まった。
─鞍馬さんは…
 ポーズが上手だと、沙羅は思った。杏奈も同感である。真奈には、ポーズをうまく取る必要はないと言っていた。けれど、自分自身は、ポーズをうまく取れるよう、相当練習を積んでいるのだろう。
─このシークエンスは、どのくらい推敲を重ねたのだろう。
 と、沙羅は思った。パーソナルなヨガシークエンスを考える…これには、正解はない。だからこそ、自分だったら、際限もなく考えてしまいそうだ。
 スマホスタンドにスマホを横向きに固定して動画を撮っているので、基本、二人は立って見ているだけだった。
─晴れていてよかった。
 と、杏奈は思った。写真と同じく、自然光のほうが、綺麗な動画が撮れる。
 鞍馬は身長は低いが、体幹が強く、手足の指先にまで意識が届き、どのポーズも完成度が非常に高い。
 沙羅は、ごくっと唾をのんだ。朝早くからあかつきを訪れ、鞍馬の撮影に立ち会いたいと言ったのは沙羅だった。そのために、娘たちを幼稚園まで送る役目を、両親に頼みさえした。そうまでして、鞍馬のヨガを見たかったのは…
─刺激がほしいのかもしれない。
 沙羅は鞍馬のヨガを見ながら、自分も身体を動かしたい衝動に駆られた。そして、自分も誰かにヨガを伝えたい。
 動画は二種類。十分のショートバージョンと、三十分のロングバージョンを撮った。二種類に分けることを最初に発案したのも鞍馬である。この男はちゃらんぽらんに見えて、意外と顧客の立場でものを考えているようである。
「じゃ、僕帰りますんで。オーナーさんによろしく」
 撮影が終わると、鞍馬はお腹が減ったと言って、あっさりと帰っていった。
 鞍馬の仕事はこれで終わりだが、杏奈の仕事は、またこれで増えた。撮った動画の編集を行い、真奈への共有方法を考えなければならない。雑音を消し、アフレコをしたほうが、動画としての完成度は高い。しかし、そのノウハウを知らないので、これもまた、羽沼に相談することになるだろう。
─近いうちに…
 また、羽沼と会わなければ。何も知らないふりをして。
 杏奈はスマホとパソコンをつなぎ、撮った動画をさっそくパソコンに送った。
「杏奈ちゃん、私も何か、手伝います」
 この妹弟子が受け持つ業務が多様になってきていることに、沙羅はとっくに気が付いている。
「そうですね…」
 沙羅に振れる仕事があるか考えたが、これは美津子マターだった。今の時点では、沙羅は特定の業務しか行えない。そういう契約なのだ。やるとしてもタダ働き。
「今度、美津子さんに業務内容の見直しを、お願いしてみます…」
 沙羅は杏奈の困惑を察してそう言った。育児の合間に、施術のみ担当する。そういう働き方をしてきたが、もはや、今までと同じ働き方では満足できない。
─あかつきでの仕事も中途半端。自分のサロンをもつ計画も、何も進んでいない。
 沙羅は、どんどん業務の幅を広げていく妹弟子と、彗星のごとく現れた鞍馬と接して、珍しく卑屈になりそうだった。
─比べちゃいけない。
 自分と彼らとでは、仕事に集中できる時間が違うのだ。育児から離れる時間ができれば、楽になると思っていた。けれど、この焦燥感はなんだろう。逆に苦しくなった気さえする。
─今までは、育児があるから仕事ができないって、言い訳してたんだ。
 でも、これからはその言い訳は利かない。それに、仕事に手をつけると、もっともっとと上を求めてしまう。しかし実際には、育児がない人に比べて使える時間は限られている。
 保育室を使えたら使えたで、また次の悩みが浮上してしまった。けれど、今日泣きながら沙羅とバイバイをした七瀬のことを思うと、泣き言を言ってはいられなかった。
─保育室に預けてる時間を、有効に使わなきゃ…

 真奈を見送った後、美津子は自室で一息入れていた。ここ最近、何かと忙しく、考えることも多く、ゆっくりする時間も持てなかった。
 美津子は座椅子にもたれかかり、ふと床の間に置かれている花瓶に視線を当てた。
─花を生ける余裕も、なかったな。
 新しい命が芽吹く、春になったというのに。
 花屋に行かずとも、庭に、道端に、そこここに、床の間を飾るべき花は見つかる。でもここに花がないのは、そこに意識が向いていないからである。
 美津子は、目を瞑った。何も思い浮かべないようにする。しかし、何かがうっすら、瞼の裏に浮かんだ。小さな和室。たくさんの医療機器。チューブが挿し込まれた、小さな体。そんな小さな体からも感じる、命の温かさとぬくもり。そして、その子を日中、たった一人で見守る母親。母親はやつれた顔をして、髪がぼさぼさで、いいかげんな服装をし、肩を落としている。
 すうっと、美津子は息を吸った。と同時に、体を起こし、肘をテーブルにつけると、手で顔を覆った。
─ミツがそうしたいと望むのなら、それも良いんじゃないか。
 順正の、低く落ち着いた声が、脳内に響く。
─私は、あかつきであの子たちの成長を見守らなければ。まだ私の役割は残っているわ。
 記憶の中の順正に、美津子は言った。
 美津子は手を下ろした。鞍馬のことを、実は少し心配していた。真面目に仕事をしてくれるのかと。けれど、思ったよりも頼りになりそうだった。時々、黒い部分が垣間見えるのが玉に傷だが…
─あの子は相手やその場の状況を見て、瞬時にうまく立ち振る舞うことができる。
 ヨガの指導力も、申し分なかった。やや自信過剰というか、高飛車なところが見られるが、問題となるほどではない。
─けれど、あの子はあかつきで働くことで何を得られるのか。
 美津子が気にしているのはそこである。もともと志があり、あかつきで働くことが、その志を全うすることに繋がるならば、あるいは志はなくとも、あかつきの理念に深く賛同しているならば、高いモチベーションをもって働けるだろう。しかし、そうでないならば、あかつきと長くは関わることはないだろう。そして、スキルは高くても、クライアントを癒すことはできない。
─ヒーラーに必要な条件…
 比較してはならないが、杏奈の雇用を決めた時のことを、美津子は自然と思い出していた。彼女は今の鞍馬とは逆で、専門スキルや経験に乏しかった。それ以前にコミュニケーション上の問題はあった。しかし、あかつきで働くことで自分が得るものがあるのだということ、人を癒すことが自分の成長につながるのだということを、頑なに信じていた。その希望の光が、いつだって杏奈を導き、手足を動かさせた。彼はその光を持っているのだろうか。
 沙羅の契約も見直さなくてはならない。先ほど、本人からそう希望があった。杏奈の契約については、度々変更していたが、そろそろ沙羅にもその必要がある。彼女も、自分が進むべき道を捉えているのだから。
─やるべきことは、まだまだ山積みだな…
 美津子は座椅子からゆっくりと立ち上がって、前室に向かった。前室と居室とを隔てる壁に沿って、和箪笥が置かれている。美津子はその箪笥の最上部、小物を入れるための小さな引き出しを開けて、古いリングケースを取り出した。中には、ダイアモンドの指輪。
 美津子はその指輪をそっと取り出して、目の前に、静かにかざした。

 

 


 

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