第74話「雨のあかつき」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 丸一日酔いつぶれてうなされていた小須賀だが、その夜はようやく熟睡することができ、夜中に急に目が覚めた。
 しばし母屋の中をウロウロしていたが、特にやることもないので、そのまま再びソファにうつぶせになった。
「…こんな明るいのに、よく寝ていられるね」
 次にうっすらと耳に聞こえてきたのは、ちょっとハスキーな男の声。
 小須賀は最初、自分がどこにいるのか分からなかった。さっきまで、美津子と何か懇ろに話をしていた気がするが、目を開けると、目の前には誰もいない。書斎のローテーブルとソファだけが、視界に入った。
 頭痛は抜けた。でも、びっくりするくらい体が重い。ソファと接していた体の前面に汗をかいている。
「あれ?雨降ってきた…」
 居間から先ほどの声が聞えて来た。が、やはり聞き覚えがない。
「あ、ほんと…」
 次にした声は聞き覚えがあった。
 その声でやっと、小須賀は、今いるのはあかつきで、自分は送別会で酔いつぶれ、仕事に間に合うようあかつきで睡眠をとったことを思い出した。今日がその仕事のある土曜日なのか?小須賀は頭が回らない。
「靴をしまってこなきゃ」
 誰かが書斎に入ってくる気配がして、小須賀はまたうつぶせになった。
「蓮くん」
 誰かの後を追いかけてきたのは、杏奈である。それは声で分かる。しかし、
─…誰?蓮?
 杏奈が「蓮くん」と呼んでいる先ほどの声の主は、いったい誰だろう。面識がない。
「もうお昼にするけど、食べる?」
「えっ?いいの」
 蓮と呼ばれた人物は、弾んだ声を出した。
「あ、でも…柴崎さん食べるかな」
 小須賀はそっと目を開けて、自分の足元の方を見た。杏奈と喋っている人物は、中学生くらいの男の子だ。杏奈よりも背が高く、半袖のティーシャツから覗く肌や顔は日に焼けていた。
「聞いておいてくれる?」
「うん」
 蓮は快活に返事をすると踵を返したが、すぐに後ろを振り返った。
「今日は髪おろしてないんだ」
「え?」
 杏奈は男子学生ごときの言うことに動揺して、後ろに高く結った一本髪を両手で押さえた。恰好はいつもとさして変わらず、ふんわりとした五分袖の白いブラウスと、黒いズボンという姿だった。
「ポニーテールも好きだけど」
 蓮はじーっと杏奈の首筋に視線を当てていた。襟までふわふわとしたブラウスが、その首筋の半分を覆っていた。
─ああん?
 小須賀は開眼早々、イラっとした。
─思春期のクソガキか。かったりぃ…

 順正は曲げた片膝に両肘を預け、そこに頭を突っ伏すいつもの格好で、アカガシの木にもたれかかりながら、目を閉じていた。伸ばしている足の裏は、アカガシの倒木の、硬い幹に触れている。 
 以前は、今順正がもたれかかっている、この生きているアカガシと南北に並んで立っていたのだろうが、南側に位置するその木はもう、死んでいる。
 しかし、苔むしたその倒木の幹からは、このあたりの高木、または低木、あるいは飛んできた花の、新しい命が芽生えようとしていた。
 木漏れ日が順正の前髪のあたりにかかり、ゆらゆら揺れる。
 順正は目を閉じてはいたが、寝てはいなかった。
 時々南天丸が彼の方へ歩み寄り、そばで伏せたり、鼻先を体に押し付けたりしている。
 森の中でのんびりするのは気持ちが良かった。目を閉じてじっとしていれば、昨日までの、あらゆる出来事が脳裏に蘇ってくる。
 三月末で一人の助産師が退職し、新米の若い助産師が入って来た。
 足込町・上沢市の一市一町で唯一、分娩を扱う松下クリニックは、まさに奥三河の孤島。隣接する別の市町村から妊婦が通うこともある。そこに務める看護師、助産師は、貴重な人材である。その助産師・夏目は、まだ頼りないが、これから未来のクリニックを支える地域の希望の星ともいえる存在。
 しかし、夏目は分娩介助の途中、大量の血を見てショックを起こし、精神的にまいってしまったのか、その後の勤務でもミスが続いた。それを見て順正は、夏目に多少、厳しい言葉をかけた。年嵩の看護師・助産師たちは、叱られて当然という風に見ていたが、若年層の者たちや、松下からは、もう少しオブラートな表現にしろと、後で順正のほうが叱られる羽目になった。
─そんな厳しいことを言って辞めたらどうするのか。
 順正としては、声を荒げてもいないし、二度と間違わぬよう性根を据えさせるべく言ったことであって、理不尽な仕打ちをしたつもりはない。
 名古屋にいた頃は、仕事がきつくて誰かがやめたとしても、代わりは別にいた。むしろ、自然淘汰を生き残った、精鋭揃いのチームの中で働きたいと思ったものだ。
 しかし、この過疎地域ではそうもいかないらしい。一人がコケたら、補充はない。
─最近の若い子は、褒めると伸びるっていう傾向があるから。
 そんなバカげた風潮、蹴り飛ばしてやりたい思いを抑えて、夏目にかける言葉の一つ一つに気を遣う日々。しかしそれはまだ、大した問題ではない。
─先生、お世話になりました。
 ハイリスク出産が予想される妊婦に、順正は転院を勧めた。そして彼女は松下クリニックで最後の健診を受けた。この地域では高度医療を受けられる病院がないため、いつでも通院できるような便利な街中に、一時的に住むことにしたそうだ。
 住み慣れた、家族のいる地元から離れることなく分娩できる、地域に密着した産科診療所があることは、妊婦やその家族にとってありがたいはず。地域の周産期母子医療センターにとっても、負担軽減となる。この機能分担は必要とされている。
 しかし、地域の産科に正常分娩で入院したとしても、最後の数時間というところで、何らかの変化が起きることはある。重篤で出血が多く、母子の命に危険が状態になった場合には、地域周産期母子医療センターに送る。例外的なことではあるが、いつでも起こりうることだ。その時、母体搬送に長く時間がかかることが、母子の命取りになることがあってはならない。
 産科診療所か、予期せぬ事態が起こってもより安心な周産期センターへの集約か…後者に一本化するのが現実的でない以上、地域の産科診療所は、常に最善の判断をしなければならない。
 順正は松下クリニックに来る前は、高度医療が可能な大学病院や市民病院に務めていた。つまり受け入れる側。
 だが今はその逆。地域の産科診療所は、自らの施設の限界を十分に認識し、搬送のタイミングを常に念頭に置き、診療に当たる。順正がその妊婦に転院を勧めたのも、そうしたことが念頭にあるからだった。ハイリスクな妊婦と接するたびに、順正は、こうした一連の問題を感じさせられる。
 判断ミスは、一度も許されない。
 けれど、順正はそうした地域の産科診療所の難しい事情や厳しさを知った上で、松下の下に来ている。
─絶対に間違わない。
 高度医療や臨床研究に携わりたいと思いもあるけれども、産科診療所ならではの壁─難題─も、登りがいのある高さがあった。
 安心して出産・子育てができない地域は、人気が集まらない。分娩を扱えるクリニックの存在は、地域全体の活性を支えるものでもある。
 順正は目を開けて上体を起こし、背中を幹に預けると、ふぅと吐息をした。再び目を閉じた時には、善光寺の水子地蔵菩薩が脳裏に浮かんだ。ぽつり水滴が頬に当たると、その情景は、水面に波状が広がるように消え去った。
 樹冠から垣間見える空には雲が広がり、西から東へ、早いスピードで動いている。
 順正は、まだそこを動かなかった。
─在宅医療のほうか…
 松下は、今後、緩和医療、在宅医療に力を入れていくと言っていた。
 若者が減り、高齢者が増えていく地域であるから、今後その方面の需要が増えていくことは、目に見えていた。
 松下は在宅医療と緩和医療をしながら、産婦人科の仕事もこなすつもりだろうか。非常勤の服部も若くはない。
 もし松下がクリニックの機能を二分し、服部も当てにできない場合は、産科として対応できることが減ってしまう。医師が二人以上いなければできない処置というものも、存在する。勤務体制の問題もあった。その時、松下クリニックでは、分娩を扱えなくなるかもしれない。
 それでも、この一市一町で唯一の産科医として、今のところに残りたいだろうか?新しい医師を招くという手もあるが、上沢に来てくれる、若い産婦人科医がどのくらいいるだろう。
 順正は、再び樹冠から空を眺めた。キャリアについて考える時の視点が、それまでとは変わりつつある自分を感じながら。
─小児科だと思っていたが…
 もしクリニックの役割を変えるとしても…
 先日、美津子は川を例に取り、子供の健やかな生誕と成長を支える一連のサイクルについて話をしていた。しかし、松下が在宅医療のほうをやりたいと言うのなら、それに抗うことはできないだろう。
 順正は考えていることに答えを出そうとはせず、ゆっくりと息を吐いた。答えは出ないまでも、澄み切った足込町の自然の中にいると、自分の考えていることが、より明確になって、頭の中がすっきりするように思える。
 ぽつり、ぽつり。
 水滴は気のせいではなかった。
 木の葉がすれ合ってザワザワと音を立て、落ちてくる雨粒は増える一方。
 順正は立てかけていたザックからカッパを取り出した。
「南天丸」
 その一声で、離れたところにいた南天丸は、飛び跳ねるように主人のもとへ走り、彼について森と杜とのはざまの小径を歩いて行った。

「なんでしじみ入りの味噌煮込み?」
 蓮は出された丼を、しげしげと見つめた。
「なんでだろうね…」
 小須賀は一つ咳ばらいをして、かすれた声を出した。
 応接間の長テーブルには、美津子と杏奈がいつもの席に座り、杏奈の隣に小須賀が、美津子の隣に蓮が座った。
 赤味噌としじみ。二日酔いに良い食材といえば、これらしか杏奈には思い浮かばなかったのだ。そこで、しじみ入りの味噌煮込みうどんを皆で啜ることになったのである。
「柴崎先生は食べないって?」
 美津子は杏奈に訊いた。
「返信、来なかったんだよね」
 杏奈は顔を斜め向かいに向け、蓮に訊いた。
「既読スルー」
 つまり返事はなかったということだ。
 蓮は今日、順正と二人で岩場に登りに行っていたらしい。が、登り手が蓮だけだと消耗が激しく、雲行きも怪しくなってきたので、早めに下山したという。そして順正はまだ近くにいるようだ。そのため、彼にも昼食が必要かどうか問い合わせてみたのだが。
「無視はいかんな」
「無視はだめね」
 小須賀と美津子の声が重なった。
「うどんの乾麺が一本ありますが、つゆはもう付け分けちゃいましたよ」
 生麺を三人分買ったが、蓮の分が必要になり、急遽乾麺を足しに使った。その余りがあった。
 美津子は首を振りつつ、箸を取った。
「いいわよ。どうせ食べないって言うわ。いただきましょう」
 四人はずずず…とうどんを啜った。しじみの出汁が効いている。具は、卵、人参、しめじ、庭で採れたスナップエンドウ、なけなしの小松菜。付け合わせに、塩とおろし生姜で揉んだだけのきゅうり。
「これ、お客さんからいただいたホーリーバジルティーです」
 杏奈は冷水筒に入った茶色いお茶をみんなにすすめた。
「福井で無農薬栽培してるホーリーバジルなのよ」
 と美津子。
「免疫力アップにいいお茶なんですよね」
 と杏奈。
「ホーリーバジルって何?」
 蓮は首を傾げて誰にともなく尋ねながら、しじみの貝殻を、中央に置かれたボウルに入れた。
「蓮くん」
 小須賀は酒焼けしたがらがら声で、
「ここで見聞きすることを、別の場所でぺらぺら喋んないほうがいいよ」
 と声をひそめて言った。
「どうして?」
「変人だと思われるから」
 小須賀はいっそう声を落としたが、美津子と杏奈の耳にも丸聞こえだった。
 ザアァッ
 本格的に雨が降って来た。
 蓮はうどんの汁まで飲み干すと、そのホーリーバジルティーとやらを飲んだ。うっすらと口の中に爽やかな香りが広がる。嫌な味ではないが、石鹸のような風味だとしか思えなかった。
「蓮くん、よく先生と二人で遊びに行こうと思えるね」
 小須賀はそう言い、尊敬するわ、と嫌味ったらしい一言を最後に付け足した。
「それ、よく言われるんだけど」
 蓮は眉を吊り上げた。
「そりゃあ、厳しいし、あんまりからんでくんないけど…そんなに嫌な人じゃないよ」
 杏奈はうどんを啜りながら、美津子がちょこっと微笑んだのを目撃した。しかしすぐに、丼の中に視線を戻す。いつもの紺色のエプロンを着てはいるが、ブラウスが白いので、慎重に食べなければ。
「いや、でも、なんかあるっしょ」
 美津子が傍にいるので、あまり悪口めいたことを言うのは気が引けたが、小須賀は調子が戻ってきたからか、一旦喋ると口が止まらなくなった。
「だって、あのルックスでまだ独身なんておかしいでしょ」
 誰もうんとは言わないが、小須賀は咳ばらいを一つして、
「結婚できないのには絶対に理由があるんだって」
 とかすれた声で主張した。
 蓮は初対面の男性から、尊敬する先輩の粗探しを促されて、どうしようかと首を傾げるしかない。
「たとえば、変な性癖があるとか」
 小須賀は目を閉じ、おつむに右手を当てた。
 美津子と蓮の目が同時に一方に揺れ、そのまま固まった。杏奈はようやくうどんと具を食べ終わり、丼に口を当てて汁を啜った。しじみの出汁の効いた汁がたまらなく美味しい。
「ちょっとモラハラっぽい感じもしない?」
 誰もうんともすんとも言わない。蓮と美津子は目を見張り、口を「あ」の形に開けていたが、目を閉じている小須賀にはその反応は見えない。
「あとはプライドが高すぎるか、上から目線で自慢話が多いとか…」
 蓮が椅子ごと後ろに退き、美津子が口元に手を当てた。
「今日はずいぶんと酒臭いな」
 真後ろで低い男の声がして、小須賀はおつむに手を当てたまま、ぱっと目を見開いた。
 小須賀はゆっくりと首を後ろにひねり、上目遣いで真後ろに立っている男を見た。
─うわ。
 心の中だけで、小須賀は呻いた。噂の人物、柴崎順正が背後に立っていた。案の定、上から目線というか、上から睨みつけられて、小須賀は背筋に悪寒が走った。だがこれももう、酒のせいではない。
 背を向けるほうに座っていた杏奈も、彼の声でその存在に初めて気づき、危うく丼から汁がこぼれそうになった。せっかく今まで気を付けて飲んでいたのに、台無しになるところだった。
─聞いてたよね…。
 痛いくらいに冷え切った視線から、小須賀はそう思った。
「あかつきは慈善活動でも始めたのか」
 そう言うと順正は、小須賀の肩にぽすんと手を置いた。外は雨だが、意外なほど濡れていなかった。彼は家の外に、ザックとカッパを置いてきたのだった。
「こんな雨の日に、酔っぱらった料理番と中学生に餌付けか」
 順正は引い声で、小言を吐きながら、肩に置いた手に圧をかけた。
「あかつきでは飲んでませんよ」
 小須賀は右肩に痛いほどの圧を感じながら平静を取り繕った声を出した。
「ふうん」
「あ全然興味なさそうですね」
「お前誰の話してたの…?」
「…」
 他の三人は食べ終わった食器を重ねて、そそくさと台所へ向かう。
 小須賀は肩にかけられた圧に体を委縮させながら、妙に納得した。
─こいつが結婚できない理由…今分かった。

 南天丸はその頃、あかつきの玄関先の軒下で雨宿りしていた。雨は強くなる一方だった。
「小須賀さん、送っていくわよ」
「すみません…駅までで十分ですから」
 小須賀は昼食の後、丸一日以上ベッドにしてしまったソファに消臭剤をかけ、周囲を掃除していた。
 美津子は頷いて、書斎から出て行った。それと入れ違いに、順正が書斎に入り、小須賀がきれいにしているソファの向かいに座る。それを視界の隅で捉え、小須賀は心の中で盛大にため息を吐く。
 ちらっと順正の方を見る。視線を感じたのか、窓の方を見ていた彼の目が、ぎょろっと小須賀の方を向いた。
「あ、なんでもないっす」
 そう言ってぺこりと頭を下げた後で、なんだってこう、自分のほうが下手に出なくちゃいけないんだろうと小須賀は思う。
 蓮と明神山の岩場に行っていたというだけあり、順正は山用と思しきティーシャツとズボンをはいていた。足込温泉でも、山の恰好をしている人は度々見かけるが、山の恰好でこんなに決まる人もそういないだろう。
─やっぱり、顔か。
 小須賀は泣きたい気分だった。
「お前まだここにいたのか」
「はいはい。もう帰りますよ」
 小須賀は雑巾を持って立ち上がった。
「そういう意味じゃない」
 順正は静かに小須賀を見上げた。
「まだあかつきで働いてたのか」
「…あ、うん。まあ…」
 小須賀は内心、にやりとした。
─小須賀さんには、あかつきに残ってほしい。
 美津子にそう懇願されたのは自分なのである。この透かしたお医者さん先生ではなく、自分。と思うと、ちょっとこの無愛想な医者の上に立った気持ちになった。
「今日はちょっと、やんごとない用事があってですね…」
「ふうん…」
 聞いておきながら、順正は先ほどと同じように、鼻先だけで返事をした。
─興味なしか。
 小須賀は舌打ちしながら、順正の目線の先にあるものを追った。ローテーブルにのっているテレビ。
「…ああ、最近、スタッフ同士でミーティングすることが多くなったんで、ここに置いたんすよ」
 順正はまた、心でふうんと言った。こんなもの、前にはなかったので気になった。
「あかつき大作戦をやるんですって」
 順正は白けた表情で、小須賀を見た。小須賀は自分が考えたネーミングじゃないのに、自分がバカにされている気分になって、
「おれが考えたわけじゃないですから。企画も名前も」
 慌てて手を振った。順正は雑巾がぶらぶら揺れるのを見つめた。雑巾をもったまま手を振るのはやめてほしいものだ。
「忙しくなりそうだから、今よりもっと仕事の融通利かせて、ここに来ることになりそうですよ」
 小須賀はちょっと誇らしげになって、
「ま、美津子さんの頼みじゃしょうがないっすねー」
 と挑戦するように言い放った。
「おれ、頼りにされてますから。頼りにされてるのは、おれですから」
 あんたじゃなく、という言葉は心の中だけで言った。順正は窓の外を眺めながら、足を組んだ。
「そうか。新しい料理番が入ったから、お前はいなくなると思ってた」
 ねちねちと嫌味ったらしく言う。
─そういうとこだぞ。
 小須賀はこめかみがひくひくするのを感じた。
「はあ?杏奈ですか?あの子は料理番じゃないっすよ。セラピストになる準備をしてるし…まそのうち、美津子さんの仕事も引き継いでくんじゃないっすかね」
 順正は外を眺めたまま、目を瞬いた。そういえば、前にここへ来た時にも、美津子が彼女に信頼を寄せていると感じた。
「あの人にミツの代わりが務まるのか」
「さあ…大丈夫なんすかね」
「?」
 逆に訊き返した小須賀に、順正は怪訝そうな顔を向ける。
「いや、知らないっすよ。おれ、そっちの方面は」
 順正は小首をかしげて、再び窓の外を見やる。
「ああ、そっちって、セラピスト関連の仕事のほう。なんか、オイル試験はすっごい成績良かったみたいで、美津子さん喜んでましたけど」
「オイル試験?」
「ええ。どういうクライアントにどういう種類のオイルを適合するかっていう…」
 セラピストとしての土台があった、今までのスタッフをもしのぐ点数だったと聞く。
 杏奈は先ほど、背後からの気配にも気づかず、うどんの汁を啜っていた。彼女はいつも、くたびれた紺色のエプロンをつけている。顔もどこかやつれていて、最初の頃ではないが、冴えた印象は受けないのだが…
「そうか。あの人はセラピストの素養があるのか」
「いやー、どうなんすかね」
「…」
 また小須賀は煮え切らないことを言う。
「理論はできても、セラピスト向きの体型じゃないことからしても、だいぶ不利みたいですよ」
 そういうことか、と順正は納得した。杏奈は随分と体が小さかった。クライアントが安心してその体を預けるには、頼りなく思えるし、実際に頼りないのだろう。
「いくらアーユルヴェーダのトリートメントが、普通のマッサージみたいに圧をかけるものではないといっても、指圧が弱すぎるみたいで、最近筋トレしてますよ」
 小須賀は右手の指を動かした。指の筋トレのことを言っているらしい。
「…別に小柄なセラピストもいるだろう」
「さあ、知りませんけど…」
「知らない?お前の職場だろう。他人事みたいに言ってないで良き計らえよ」
 順正はいっそう声を低くし、唸るように言った。
「はあ?」
 小須賀は天を仰いだ。まったくこの人は、たまに来たと思ったら無茶なことばかり言うし、どうも高圧的だ。
 頭に来たし、言い返したかったが、小須賀は頭がまだ完全には回らなかった。しかも、余計なことを言うと何倍にも返されそうで、面倒くさい。
「大丈夫っすよ。美津子さんが師匠ですから」
 と捨て鉢に言った。
 順正が眉をひそめたので、小須賀は逃げるようにその場を立ち去った。

「最近、莉子ちゃんはどう?」
 杏奈はゴム手袋をはめながら、調理道具を運んできてくれた蓮に訊いた。蓮はシンクに道具を入れつつ、首をひねる。
「どうって…わかんないなぁ」
 全部の食器や調理道具がシンクに溜まると、
「なんで?」
 と蓮は杏奈に訊いた。
「うーん」
 杏奈はすぐには答えず、食器洗いを始めた。
 母親が再婚相手との子を妊娠した。莉子は、なぜかそれに抵抗感を感じているらしい。莉子の無月経の原因は、おそらく両親との関係性だと思われるのだが、具体的にどういう部分がストレスになっているのか、情報はまるでなかった。
 莉子との接触がないので、これ以上は手出ししようがないが…
「蓮くんは、莉子ちゃんのお父さんに会ったことがある?」
「どっちの?」
 蓮から意外な答えが返ってきて、杏奈は、そうか…と思った。
「どっちも」
 本当は、今の父親に対して訊いたのだが、どっちも知りたくなった。
「…普通、かな」
 蓮は遠い記憶を呼び起こした。
「正直、小さかったから覚えてないよ。おじさんって、みんな同じに見えるしさ」
 杏奈はふふふと笑った。正直な子だ。
「眼鏡をかけていた気がするなぁ…」
「何歳くらいの頃、亡くなったの?」
「それも覚えてないんだ。でも、小学校低学年くらいかなぁ」
 それなら、莉子の記憶には残っているはずだ。
「今のお父さんは?」
「今のお父さんは、知らないんだ」
 いくら田舎とはいえ、ご近所同士の事情ならなんでも筒抜け…というわけではないようだ。
 杏奈は鍋の底をこすった。蓮は食器が上がって来るのを、布巾を持って待っている。
「莉子ちゃんは、学校でどういう感じ?」
「莉子のことが気になるね」
 杏奈は手元に視線を向けながら、ただごまかすように笑みを浮かべるだけ。
「…莉子は気が強いというか、活発で、クラスの中心にいるような子だったんだけど」
 髪も長かったし、女の子っぽい服装もしていた気がするが、それは黙っていた。
「最近は、人と連れなくなったよ。一人でいるほうが好きみたい」
 水切り台に上がった食器を、蓮はさっそく拭いた。小須賀がいたらそのまま乾かしておけと言いそうだったが、杏奈は蓮のするようにさせた。
「蓮くんとは、連れ合ってたじゃない」
「だからそれはたまたま」
 蓮はうんざりしたように言った。
 蓮も莉子も、お互い、淡い恋心などを抱いている感じではなさそうだ。しかし、恋心はなくとも、一人の人として、彼女の身に起こっていることを案じ、気にかけようとする気持ちは、この子にはあるだろうか。蓮はもう、理解できる年頃だ。
「莉子ちゃんが蓮くんに何か自分のことを話してきたら、それをしっかり聞いてあげてほしいんだけど」
 杏奈はなるべく朗らかに言った。蓮は目を丸くする。
「どうして?」
「…内緒の話だけど、真面目に聞いてくれる?」
「うん」
 杏奈は声を潜めた。
「女性には、心と身体がピンチの時に、それを知らせてくれるサインがある」
「え…」
 蓮はちょっと聞くのが恥ずかしい気がした。男女の差が気になり始める年頃の蓮だが、女性特有のもの…というと、思い当たるのはあれくらいしかない。
「莉子ちゃんはもうそのサインを出してる」
「…」
「こういう話をしたってことは、莉子ちゃんにも、誰にも言わないでね」
 杏奈は思い出したようにそう前置きし、話を続けた。
「…でも莉子ちゃんはここには来ない。だから、私には手の出しようがない」
 蓮は黙って、拭いた食器を調理台にのせていく。
「だからもし、莉子ちゃんが困ってたら、蓮くんが相談に乗ってあげて」
 蓮は、唇を結んだ。
─莉子ちゃんのお父さんに会ったことがある?
 さっきの質問が、莉子の問題に関連しているのだろうか。しかし、蓮は自分が介入して、莉子が喜ぶとも、自分と莉子の周りの誰かが喜ぶとも思えなかった。
「まあ…きっかけがあったらね」
 蓮がそうつぶやくのと、誰かがカーテンをくぐってキッチンに入ってくるのとが同時だった。
「…はぁ。あの人と同じ空間にいると、息が詰まりそうだ」
 そう吐き捨てるなり、小須賀はクロックスを履いてキッチンに入った。
「あ、ありがとね」
 小須賀は洗い物をする杏奈に言った。
 感謝の言葉の理由が、味噌煮込みなのか洗い物なのか分からなかったが、杏奈はちらっと小須賀を見て頷いた。
「おれ、もう帰るわ」
「はい」
「美津子さんが送ってってくれるって」
「分かりました」
 あかつきのキッチンという場所は、至極落ち着く場所だ。小須賀は調理台に右の腰を当ててもたれかかり、杏奈と蓮の方に身体を向けて、ふう~と息を吐いた。
「しっかし、あの先生、おれより昔からあかつきに出入りしてるよね」
「…」
「…」
 「よね」と言われても、杏奈と蓮には分からない。
「あの先生こそ、美津子さんに呼ばれてもないのに、何でここに来るのか、謎だよ」
「訊いてみればいいじゃないですか」
 杏奈がぬけぬけと言った。
「あのね、確かにあかつきにくる女性はみんな、訊かれるのが好きだよ」
 小須賀は腕を組んで、持論を展開した。
「自分の過去のトラウマとかもさ、ドラマチックに話して涙ぐんじゃったりするじゃん」
「まあ、ドラマチックかどうかは分からないですけど…」
 杏奈は答えながら、正面でスプリングカーテンが揺れるのが視界に入った。
「女は喋りたがるのよ。杏奈はそれに慣れてるから、なんでも聞き出そうとすんじゃん」
「クライアントでなければそうでもありませんよ」
 杏奈は唇を尖らせた。といいつつも今莉子の話をしていたのだが。
 蓮はキッチンの入り口の方を見て一瞬、手が止まった。
「女には、よかれと思ってそうしても、男に同じようにしちゃいけないよ」
 小須賀は杏奈の言うことは耳に入っていない様子で、手を振った。杏奈と蓮は顔を見合わせる。
「男はさ、自分のかっこ悪いところとか、弱みを見せたくないわけ。特にああいう、プライドの高そうな人は」
「おい」
 いきなり背後から低い声がして、小須賀はそのまま調理台の上につんのめりそうになった。振り向くまでもなく、誰が後ろに立っているか分かる。
「蓮」
 順正は蓮を呼んだ。
「帰るぞ」

「えっ?いいです。おれは先生と山登って帰りますから」
 応接間に戻ると、外出する準備を済ましてきた美津子が、小須賀と蓮を待っていた。しかし蓮は、順正と帰ると言い張った。
「雨雲レーダーでも、あと二時間くらいで止むって出てるし」
「まだに時間もあんじゃん。お言葉に甘えなよ」
 小須賀も蓮に勧めた。外はまだ大降りの雨が降っている。二時間で止む保証もない。
 杏奈はすごすごと三人の傍を通りすぎて、書斎へ向かった。
「い、いいです。歩いて帰りますから」
「…だそうだ」
 順正は別に止めはしない。しかし、美津子はとんでもないといいたげな顔をした。
「だめよ」
 こんなに雨が降っているのに、信じられない。
「足場が悪くなっているでしょう?あなたも、送っていくわよ」
 順正は首を振った。
「南天丸の毛が落ちる。料理を乗せる車だろう」
 と言いながら、順正はやっぱり、歩いて帰りたいのだった。
「雨が止むのを待ってたら、夕方になっちゃうわよ」
「日が延びたから問題ない」
「んもう。強情っ張りね」
 小須賀はいつになく憤慨している様子の美津子を見て、ちょっとビビった。
「分かった。あなたは自己責任で、好きにして。蓮くんは、私が送っていく。いいわね?」
「はっ…はい」
 蓮は今度は気を付けをして、美津子に従った。
「あ、杏奈」
 美津子は後ろを振り向いた拍子に、手元を見ながら近づいてきていた杏奈と軽くぶつかった。杏奈は両手にパソコンやら資料を抱えており、資料の一部がパラパラと床に落ちた。
「ああああ」
「ああああ」
「大惨事、大惨事」
 床に膝をついて、一緒の姿勢になって資料を拾うあかつきの三人。
「みんなを送って来るから」
 美津子は立ち上がって、改めて杏奈に言った。
「はい」
 杏奈は落ちた資料の順番をそろえるのに気を取られて、答えはしたが、ほとんど上の空だった。
 蓮は頭を掻いた。あかつきのスタッフは、誰も彼も、なんだかへんてこりんだ。
 
 昨日はお弁当作りに午前中を取られ、今日も、朝はトリートメントの練習、その後は小須賀のための昼食の買い出しやら、蓮の相手やらで時間を取られ、杏奈はビハインドを取り戻さなければならなかった。
 自分の席に座るや否や、パソコンを起動し、ホーリーバジルティーを相棒に作業を始める。
 順正は玄関の軒下に出ていた。南天丸に水をやりつつ、外の様子を眺める。南天丸も、中に入れてやるべきかもしれない。
 あかつきの敷地の外を、美津子のエヌボックスが通って行った。蓮を連れて来たばかりに、面倒をかけることになった。
 そして、このザーザー降りの雨が止むまで、足止めを食らうのは免れない。けれども、順正はあかつきに留まるのが苦ではなかった。話し相手の美津子が外出してさえ。
─美津子さんに呼ばれてもないのに、何でここに来るのか、謎だよ。
 小須賀はそう言っていたが、別に、特に理由があるわけではなかった。明神山やアカガシの木の下と同じく、ここの空間もまた、心が落ち着き、癒される。しばらく時が経つと、また行きたくなるのである。非常に感覚的な理由なのだった。
 南天丸の身体をタオルで拭くと、玄関まで入れた。家の中は静かである。
 順正は洗面所からドライヤーを持ってきて、玄関で南天丸の身体をさらに乾かした。
「…あの、お茶飲みますか?」
 順正が応接間に入って来ると、杏奈は振り向いてそう訊いた。少し息詰ってきたところだった。
「コップ持ってきますよ」
「…ありがとう」
 それだけ言うと、順正は踵を返して、また廊下へ出た。
 杏奈はキッチンに向かいながら、
─ありがとうとか、言えるんだ…
 当たり前のことだが、最初に会った時の印象からは信じられなかった。ガラスのグラスを冷水筒の近くに置き、作業に戻る。
 順正はほどなくして戻ってきた。自分でお茶を注ぎ、杏奈の後ろに回る。パワーポイント上に、文字がつらつらと書き込まれている。なにかしらの資料作りをしているらしい。
 見られているのを感じると、緊張で作業が滞る。杏奈はパソコンを引き寄せて、画面を隠すようにしながら、順正を振り返った。
「…見ないでください」
 グラスに口を当てながら、順正は苦々しそうに目を細めた。お茶を飲むと、うっすら石鹸のような香りがした。
 杏奈はセラピストになるための準備をしていると、小須賀は言っていた。でも今やっているのは、セラピストの仕事とは関係がなさそうだ。何をやっているのか分からないが。
 順正はそれきり杏奈にはお構いなしで、杏奈の斜め対面に座ると、スマホをなぞり、自分の前に立てかけた。
「雨、強くなってますね」
 杏奈は、ちらっと順正の方を見てそう言った。
「そうだな」
 部屋の中にいても、雨に濡れた土や草木のにおいを感じる。でももしかしたらそれは、順正から感じるのかもしれなかった。
 この男は何をして時間をつぶすつもりなのだろう。杏奈は、それが気になりはしたけれど、訊いていいのか分からなくて黙っていた。
「でも雨の日って結構好きです」
 だから代わりに、別のことを話す。話しながらも、忙しく指を動かした。
「家の外が暗くて、中が明るいと、中の温かさがいっそう際立つというか」
 順正はポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、耳にあてがった。
「そうか」
 杏奈は順正の様子をちらっと見ると、視線をもとに戻し、それきり黙った。書斎もあるのに、一緒の空間に居座るのが不思議だった。飲み物があるからだろうか。
 順正はというと、ブックマークしていたページを開いたところだった。五月に開催された産婦人科学会の学術講演会のオンデマンドだ。しらばく、どの講義を聴くか悩んだ。
 足込町に入ったら、無意識に仕事のことを思い出すことはあっても、話はしないし、勉強することもない。しかしオンデマンドが発信されてからは、事情が違った。何しろ講演の録画数は膨大だったが、一か月しか保存されないので、この機を逃したら、聴くことができない。
 順正は任意の動画の視聴を始めると、すぐに二倍速にした。
「紙とペンない?」
 冒頭で演説者がうにょうにょ言っている間に、順正は杏奈に言った。順正のペースでいきなり話しかけられて、杏奈は「え?」と訊き返すように小さく声を挙げた。
「…コピー用紙とかでいいですか?」
「なんでもいい。裏紙でも」
 杏奈は席を立ったが、何か思い直し、机の上にあった自分のノートを開いて、びりりと一枚破った。
 ペンと一緒に机に置いて、順正のほうへ押しやると、
「ありがとう」
 と一言。先ほども思ったことだが、一応、お礼が言えるらしい。
 それきり順正は講演に意識を集中し、時々メモを取った。

 十分あまりが経過した頃。
 ゴロゴロゴロ。
 雷の音がしてきた。まだ音は小さいが、この頃は雷もいきなり激しくなるから、油断ができない。
─美津子さんたち、大丈夫かな。
 小須賀と蓮を送って帰ってくるのに、どのくらいの時間がかかるだろうか。
 果たして、もう五分もすると、雷の音は徐々に大きくなった。
 ガラガラガラッ
 雷鳴の前の電流がほとばしるような音がして、杏奈は時々耳元まで手をもっていった。
 掃き出し窓の外を見ると、バケツをひっくり返したような雨が絶え間なく降り注いでいる。
─こんなんじゃ山道を走るの危険だよ…
 車がカーブの多い山道を、ライトを照らしながら走る様子が脳裏に浮かぶ。最近はゲリラ豪雨のように一時的に雨が強く降って、それから収まることも多いので、それまで、安全なところで待機できているといいのだが。
─むしろ、雨が収まってから家を出た方がよかったかもしれないな。
 ゴロゴロゴロ。
 ドーン。 
 雷が鳴るたびに、いちいち微妙に反応している杏奈とは対照的に、順正は鎮座した仏像のように動かなかった。
 こうも頻繁に雷が鳴っていると、さすがに集中力が途切れる。ひと際大きな雷鳴があって、杏奈は息を呑んだ。
「雨は好きなんじゃなかったのか」
 順正は苦笑いして、視線を手元に向けたまま、いちいち反応している杏奈に素っ気なく言った。
「雷は嫌いです」
 杏奈は肘を机につけて、両手で両耳を塞いでいた。
「雨戸を閉めれば良い」
 今度は順正は、杏奈の顔を見て言った。
 確かにそうなのだが、雨戸は重くて引きにくい。
「いや、今外に出るのも怖いですし」
「中から閉めればいい」
 順正はいつでもド正論を垂れる。
─それはそうなんだけど…
 杏奈は腰を上げた。
 軒があるとはいえ、掃き出し窓を開けると、横殴りの雨が入ってくるし、雷鳴がより大きく聞こえる。
 母屋の雨戸は横からスライドするパターンだった。杏奈は雨戸を閉めようとするが、例によって、うまく動かない。そうこうしている間に、雨がどんどん室内に入って来て、居間の絨毯を濡らした。
 ピカっと外が光ったので、杏奈は後ろに退いて、耳を抑えた。
 ドーン。
「…」
 順正は杏奈の様子を見て、ぽかんと口を開けた。窓が開いているのに雨戸を閉めようとせず、雷鳴を怖がって耳を塞いでいるばかりだ。
─これがミツの愛弟子か。
 心の中で皮肉りながらも、順正は動画を止め、居間へ移動すると杏奈の代わりに、すみやかに雨戸を閉めた。
 ガラガラガラッ
 という音とともに、居間の中が暗くなる。
 ガラガラガラッ
 窓は雨戸で完全に覆われた。
「…すみません」
「…」
 足元の絨毯や窓のサッシがだいぶ濡れてしまった。
─雨戸の一つも閉められないで…
 この女は、生活の知恵を解いているらしいが、生活力があるのかないのか分からない。そういえば、指圧が弱いから筋トレしていると、先ほど小須賀が言っていた。筋トレの効果はまだ出ていないようだ。
 杏奈はぞうきんと新聞紙を持ってきて、絨毯やサッシの濡れてしまった部分を拭き、新聞紙を被せた。順正はその間に、応接間の東側の窓も雨戸を閉めた。
「雨戸は毎晩閉めてるの?」
 ずい分と、滑りが悪くなっているようだった。
「いいえ…」
「閉めておいたほうがいい」
 順正は席に戻ってきた杏奈に、静かに言った。
「その方が防犯になる」
「ぼ、防犯ですか…」
「この前も、その前も、玄関の鍵が開いてた」
 杏奈はいつだったか、覚えのないことで、口をつぐむ。
「ちなみに、今日も」
「え…そうでしたか」
 順正はまたイヤホンをつけながら、
「無防備過ぎる」
 それだけ言うと、視聴を続けた。
「すみません」
 もう彼には聞こえていないかもしれないけれど、杏奈は小さく謝った。それからブラウスの袖の、濡れてしまった部分をまくって、再びパソコンに向き合う。
 居間がより暗くなると、明かりのついているこの応接間だけが、より明るく、温かく感じた。

 一時間もすると、テキストの内容を組み立てる集中力に欠いてきたので、杏奈は別の作業をした。
 テキストを印刷するにあたって、印刷会社に依頼をすることになる。綴じ方、書式のサイズによって、左右上下にどのくらいの余白が必要か。印刷会社のホームページで調べ、印刷可能な範囲を、四角枠で囲っていく。左右のうち綴じる方は、より余白が必要となるため、それも加味しなければならない。しかし、まだ全てのページができあがっていないので、どのページが、本を見開いた時左右のどちらになるのか、分からなかった。
 内容を作り上げることのほかに、こういう細かいところに気を遣わなければならないのも、テキスト編纂の難しさだった。
 一方、順正は二倍速で動画を二本見終わると、イヤホンを外して目を閉じ、しばらくそのまま目を休めた。
 いつしか雷は止み、雨脚も弱まっている。それでも、かすかに雨の音がするのが、雨戸と窓ごしに伝わって来た。
 順正は目を開けた。家の中は静かである。
 今は杏奈がキーボードを打つ音もせず、時々、カチッ、カチッと、マウスをクリックする音がするのみだ。杏奈はじーっと画面に目を向けたまま。集中力があるようだが、その顔は疲れて見えた。
 順正は再びイヤホンをつけ、もう一本講演を聴く。
 しばらくして、杏奈が顔を上げたのは、玄関から物音が聞えるのと同時に、美津子の声が聞えたからだった。
「ただいま」
 雨戸が閉められているからか、唯一照明がついている応接間の明かりが、いつもよりも暖色に見えた。
「おかえりなさい」
 杏奈は振り向いた。美津子は、二人が同じ部屋でそれぞれに何かしていた様子を見て、目を瞬かせた。
「雷、大丈夫でしたか?」
「すごかったわ。途中で、車を停めて待機してた」
 美津子は再び応接間を出て行った。手洗いをして、濡れた上着を干した後で、再び応接間に戻る。二人は相変わらず、お互い我関せずといった様子で、机に向かって別々のことをしていた。
「雨戸、もう開けましょうか」
 美津子が声をかけると、杏奈は頷いて、作業を止めて居間の掃き出し窓の雨戸を開けに行った。網戸まで開けて、雨戸を押してみるが、いかんせん、動かない。
「南天丸を中に入れてあげたのね」
 先ほど、玄関を開けるなり、犬とザックで窮屈になっている玄関を見て、「びっくりした」と声を挙げたのだった。
 美津子は東の窓の雨戸を開けた。順正から返事がないので、肩をたたく。順正は片耳だけイヤホンを外し、美津子を振り向いた。
「ん?」
 聞こえていない。順正のスマホには誰かがプレゼンテーションしている動画が映っている。それで美津子はやっと、順正が何かを視聴していたのに気付いた。
「あら、ごめんなさい」
「美津子さん」
 雨戸が動かないのか、杏奈が居間で助けを求めている。美津子は傍に立って、やり方を教えた。動かすのには、ちょっとしたコツがいるらしい。
「あなたがここで勉強してるなんて珍しいわね」
 美津子はようやくスマホを閉じた順正に声をかけた。雨戸を開けると、再び部屋の中が明るくなった。
「今年は学会に行かなかったの?」
「さすがに三日間はきついな」
 杏奈は順正が何をやっていたか、尋ねることができずにいたが、勉強をしていたのだとはじめて知った。そういえば花祭の前に、順正は自分の分野に関連する学会論文を、数年で千本ノックすると言っていた。
「松下先生はお元気?」
 美津子はいつもの席、順正の隣に座って、彼と向き合った。順正はふふっと笑った。
「新しい仕事に手をつけようとしていて、趣味の絵が描けないと文句を言ってたよ」
「新しい仕事?」
「在宅医療をやっていきたいんだそうだ」
 杏奈は作業を終了させるべく、ファイルの保存やら格納やらを進めながら、話をする二人をちらりと見た。
「在宅医療…?」
 順正は頷いた。二十四時間対応可能にするなどと冗談めかして話していた。おおらかに構えているが、松下もたいがい仕事人間である。
「そうしたら、産婦人科は?」
「婦人科はともかく、産科は年々人が減ってる。ゆくゆくはどうなるか分からんな」
 それは順正にとっても、この地域にとっても異常な事態だろうに、順正は他人事のように言った。
「あなた、それでいいの?」
「何が?」
「何がって…そうしたらあなた、別の病院に行くの?」
 すぐにそんな状況になるとは思えなかったが。
 順正は美津子の目をまっすぐに見た。順正は無表情だけれど、澄んだ瞳をしていると美津子は思う。
「この地域に本当に需要がなくなれば、そうせざるを得ない。でもそれがいつなのか、おれには分からない」
 自分の仕事が変わるということだろうに、どこか他人事のように言い放つ人だ…と杏奈は思った。
「帰るか」
 雨はもう、すっかり止んでいた。
 順正が玄関に来ると、大人しく待っていた南天丸はしっぽを振って立ち上がった。順正がゲイター(レインスパッツ)を身に着けている間、南天丸は狭い玄関の中を行ったり来たりし、主人を催促する。
 順正と南天丸が帰った後、杏奈は玄関を開けて外に出た。
─思いのほか…
 午後からは、作業が進んだ。少し休んだら、また続きができそうだった。
 外の空気を肺一杯に吸う。
 眩しいくらいに太陽が照っている。
 畑の作物がその葉や茎や実に溜めているたくさんの水滴が、その太陽の光を反射させてキラキラと光っていた。

 

 


 

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