日の出の時間が早くなり、目覚ましを掛けなくても、杏奈の起床時間は自然と五時代を保てている。
舌を磨き、鼻うがいした後、六時半頃まで寝室で仕事をする。朝一番の仕事は、インスタの投稿の準備。十一月にあかつき大作戦を、七月から八月にかけて、その前夜祭となるキッチャリークレンズを開催することが決まった。そのため、インスタの内容は、両企画の潜在顧客が好みそうな内容に刷新している。
─インスタライヴもしていったほうが良い。
羽沼は、しきりに投稿以外のツールを使うことを勧める。
─インスタに優良アカウントだと認識してもらうためには、インスタが出してるツールをまんべんなく使うことが大事なんだ。
なぜインスタにそう認識をしてもうらのが大事かというと、そうすることで、あかつきが検索欄に上がりやすくなるから。つまり、フォロワー以外の人の目に留まりやすくなり、広く認知されることにつながる。
羽沼は時々、リール(ショート動画)にそのまま使えるような動画を送ってくれる。これにはとても助けられた。なにしろ動画を編集するのは、相当な時間を要するからだ。
六時半を過ぎると、荷物を持って外へ出る。庭には、すでに美津子の姿があった。
「おはようございます」
「おはよう」
美津子は畑の手入れをしている。
杏奈に任せられる仕事が多くなった分、美津子は畑の仕事をしたり、居室にこもったりすることが多くなった。
「きゅうりが大きいの二本、これはもう使わないとだめね。持っていってくれる?」
「はい」
きゅうりを受け取ると、そのとげで手がチクチクする。
母屋に入るとキッチンに直行した。玄米を炊き、出汁を取ってみそ汁を作る。採れたてのきゅうりを斜め切りにし、しらす、すりごま、亜麻仁油と混ぜて、簡単な和え物を作った。
玄米が炊きあがるまで、応接間で仕事の続き。インスタの投稿づくりに、だらだら時間はかけない。朝ごはんを作り終わるまでには仕上げると、自分で決めていた。
他にも、やることは山ほどある。キッチャリークレンズの内容を決め、どのスタッフに、いつどんなレッスンをしてもらうかを決める。企画の中身を練ると同時に、美津子や、他のスタッフと議論をしていると、一日があっという間に過ぎていく。本命商品であるあかつき大作戦のコンセプトも固めなければならない。特典であるテキストの編集にも膨大な時間がかかる。こうした今後の企画の準備に重ねて、直近であかつきを訪れるクライアントの集客や、予約管理、問診票の確認。
そして何より、トリートメントの練習が、杏奈にとっては大仕事だった。アビヤンガについてはもう、マニュアルなしで、流れや、手技のポイント、目的を把握しながらトリートメントできるようになってきたものの、体を見る目は養い切れていない。アイモデルで練習すると、半日以上の時間がかかった。練習をするたびに、課題が次から次へと浮彫になる。特に初期の頃は、練習をすると体がヘトヘトになった。今後はアビヤンガの技術を磨きつつ、別のトリートメントも習得していかなければならない。
杏奈にはもう、就業時間とそれ以外の時間の垣根がなかった。けれど、少しもそれに抵抗感がない。自分の進みたい方向に、自分の人生を動かしているから。
ピピピピ、ピピピピ。
タイマーの音が聞こえて、杏奈は席を立った。土鍋の火を止めなければ。
「七月に、単発の予約が入ってたわね」
美津子がそう言ったのは、朝ごはんを食べ終わった後だった。
「あなたのセラピストデビューは、そのお客さまにしましょう」
そう言われた瞬間、杏奈は顔が少し熱くなるのを感じた。頬が上気しているらしい。
「分かりました。頑張ります」
そうと決まれば、早いところ、正装姿での練習をしなければならない。
「永井さんに、施術着を早く仕上げてもらえるよう、頼んでおくわ」
あかつきの施術着を仕立てているのは、永井だった。
昔のセラピストのお古だが、杏奈は平均よりだいぶ小柄なため、着丈や袖の長さなどを直してもらわないといけなかったのだ。
その日の午後は、フェイシャルのみの予約が一件だけ。杏奈も美津子も、多くの時間を事務仕事に割いた。
杏奈がこの日専念したのは、テキストの製作。個人料理教室時代の資料は、編集は必要だが、多くの部分を活用できた。先に編纂した「女性の健康と生殖能力」も、そのままテキストに組み入れる。
アーユルヴェーダ入門のテキストなので、基本的な概念と、生活習慣・食習慣に、そのページの多くを割くことになる。何章に分けられるか、どのくらいの規模になるか、まだ分からない。
─疾患別のアーユルヴェーダの見解までは、書く必要はない。
美津子にはそう言われた。
様々な疾患の一つひとつについて、アーユルヴェーダの観点から紐解いていたら、何年経っても仕上がらない。第一、杏奈はまだそれを書けるほど、経験を重ねていなかった。
でも美津子は、杏奈が今のレベル感でまとめたものが、アーユルヴェーダを学んで間もない人や、知識はあるが専門家未満という人には、ちょうどよいと思っている。
「ほどほどにして、十時には寝るのよ」
その日の夜八時過ぎ、美津子は風呂から上がると、まだ応接間にいる杏奈に言った。
「戸締りをお願いね」
美津子は自室に戻ると、まだ布団は出さずに、座椅子に座った。座卓に置いたままになっている本を開き、しばらく読書をする。
杏奈があれほどあかつきの仕事に打ち込んでいるのに、その隣であかつきの仕事とは関係のない本を読む気には、なれなかった。それで日中も、美津子は自分の勉強がしたくなると、静かに自室に退去するようにしていた。
その翌、明け方になってからのこと。
美津子は物音がして、目を覚ました。
母屋の中は、しかし、静まり返っている。玄関から誰かが入った様子はない。
息をひそめて、美津子はキッチンへ向かった。遠くから音がしたような気がしたのだ。明かりをつけ、キッチンを見渡したが、誰もいない。
「はっ」
美津子が大きく息を呑んだのは、くぐもった声がしたからだった。
クロックスを履き、調理台を周りこんで、声がした方をおそるおそる見ると…
「前にもこんなことありませんでした?」
杏奈は書斎のソファで酔いつぶれて寝ている小須賀を見ると、小声で美津子に言った。
─今日のお弁当作り、小須賀さん無理そうだから、杏奈にやってもらうことになりそう。
美津子から朝の五時代にラインがあった。
ソファのすぐ下には、ビニール袋をかぶせたバケツ、テーブルの上にはティッシュ、水の入った水差しとコップが置いてあった。美津子が持って来たものらしい。
「何があったんですか?小須賀さん」
「分からない。私がキッチンで倒れているのを見た時には、意識がもうろうとしてて、喋れる状態になかったから」
小須賀は寝息を立てているものの、顔色が悪く、今にも飛び起きて、嘔吐しそうな感じだった。
「どうやって来たんでしょう」
「分からない。でも車がないから、タクシーを使ったんじゃないかしら」
このやり取りが、朝の六時過ぎ。
足込温泉へ納品する弁当作りは八時半頃から始めるのが通常だが、それまでに小須賀が回復することはまずなさそうだった。
「私も手伝うわ」
美津子はトリートメントの練習とデスクワークに追われている杏奈を気遣い、そう言った。余裕をもって、杏奈は八時過ぎから弁当を仕込み始めた。
「なんでわざわざあかつきに醜態を見せにくるんです?」
手伝いを兼ねて遊びに来た空楽が、小須賀のことを聞き、不思議そうな顔をした。
「たぶん、今日はお弁当作りの日だっていう意識があったんでしょうね」
起きたらすぐ仕事にかかるために、あかつきに来たのだ。
「その意識はあったのに、呑む量は調整しなかったんですね…」
空楽は例の調子で淡々と言い、こつこつと枝豆を莢から出していた。
─調整できなかったのかもしれない。
と、美津子は思う。
小須賀は、白いシャツに黒いスラックスを履いていた。昨日は夜の仕事だったのだろう。付き合いで飲みに行ったのなら、激しく飲まされるようなことも、あるのかもしれなかった。
弁当作りは終わったが、小須賀は昼を過ぎても起きなかった。酒臭いにおいが応接間まで届き、杏奈と美津子は一階の窓という窓を開けて換気をした。
小須賀がようやく身を起こせるようになったのは、夕刻。しかしまだ食べ物は受け付けず、シャワーだけ浴びて、そのままソファに横になった。
「美津子さん、今日はこれで…」
杏奈は風呂から出ると、いつもより早く、母屋を後にした。小須賀の世話は美津子が買って出ていて、できることはなかった。
「小須賀さん、まだ二日酔い治らないんですね…」
「深夜になって飲み始めたと言っていたからね」
何時まで飲んでいたかは知らないが、まだ二十時間も経過していない。
美津子は風呂から上がった後、再び様子を見るために小須賀の前に立った。
「すみません、美津子さん…」
小須賀は、スーツに着替える前に着ていた私服に着替えていた。
「いいのよ」
美津子が向かいのソファに座ったので、小須賀は横寝の状態でいるわけにもいかず、両手で体を支え、身を起こした。
「今日もここに泊まっていきなさい」
美津子は布団を用意すると言ったが、小須賀は首を振った。そうするとまた、頭が痛い。
「僕は、ここで…」
ここにいられても邪魔かと思うけれど、身動きできない。
「ずい分と深酒をしたのね」
「ええ…」
喋る度に、頭がズキズキする。
「なにかあったの?」
小須賀は今まで、イタリアン料理店と、キャバクラでのボーイ、それからたまにあかつきで料理担当と、三つの仕事を掛け持ちしていた。しかし、イタリアン料理店の方で正社員として働かせてもらえる見込みが立ったので、ボーイの仕事は辞めることにした。昨夜が小須賀の送別会だったらしい。
「そうだったの。これからはイタリアンのシェフとして…」
「はい…長いことふらふらしてましたけど、そろそろ腰を据えなきゃと思って」
小須賀はソファに背中を預けながら、水を飲んだ。しゃきっとしなければと思いつつ、起きているだけでもつらかった。
「でも実は…腰を据えなきゃって思ったのが…そろそろ、彼女にプロポーズしようかなって」
そこで一瞬、間があった。
「したの?」
「しました」
小須賀は、いつもにも増してしゃがれた声で言った。
「どうだって?」
「あ、結果は、保留です」
「保留…?」
小須賀は、それに関してはさして気にも留めていないようで、水を口に含みつつ、何度か頷いた。
「ふう…」
小須賀はコップをテーブルに置くと、ソファの端に移動して、アームレストに身をもたげた。
「なんか、ターメリックミルクが二日酔いに効くとか、そういうのないっすか?」
こんな時でも、小須賀はややアーユルヴェーダを小ばかにしたような口ぶりだった。
「…ああ、杏奈に頼んでおくんだったわね」
美津子は首を傾げた。
「なんかほしいもの、ある?」
「いや、大丈夫です。すみません…」
「そう…」
美津子はソファから腰を上げた。が、そのまま立ち去る気にはなれなかった。
「小須賀さん」
「はい」
「こんな時にお話をするのもどうかと思うけれど…確認しておいていい?」
小須賀は、少し充血した目で美津子を捉え、頷いた。
「私は、小須賀さんにはあかつきに残ってほしい」
もう何度も、小須賀の冗談めかした「辞める」に対して、美津子も「残って」を繰り返してきたが、真剣に話をするのは初めてだった。
「今まで都合の良いように、小須賀さんに頼ってきて、悪かったと思ってるわ」
夜の仕事がいつあるのか把握しないまま、あかつきの手が足りなければ料理担当をお願いし、杏奈が働くようになってからは、人手が足りていれば仕事を減らした。それでも、隔週の弁当納品だけは、ずっと取り続けた。
「頼ってきただなんて、やめてください」
小須賀は、話すのがきついのか、いつもより言葉が出てくるのが遅かったが、いつもより真剣な顔だった。
「僕が好きで…働いてたんです」
小須賀は、あかつきからの収入を生計の当てにしていなかった。あかつきでだらだらしている時間は、仕事時間に含めていない。タイムカードは、実質的な仕事時間に対してだけ、いつも短めに切られていた。
「あかつきの仕事は、好き?」
小須賀は、頷いた。自由にやらせてもらえる職場だった。上がいないので、お山の大将になってしまうけれど。
イタリアン料理では使わないハーブやスパイスのことも、たくさん知れた。
美津子から指示される料理は、小須賀がそれまで外食に必要だと思っていた要素とは、かけはなれたことを重視していた。今は、美津子に代わって、食事の方針は杏奈が決めるようになっている。よりアーユルヴェーダの知恵を反映させた料理を、最初は訝しく思っていた。けれど、他の飲食店では得られない刺激を、静かに与えてくるものだった。
「でも僕は…」
小須賀は、喉元まで声が出かかったが、口を閉じた。
あかつきの仕事が好きという以上に、美津子のことを慕っている。常日頃、女性を口説くのを楽しんでいる小須賀だが、この想いは、そう軽く口にできるものではなかった。
美津子ほど、負のオーラがない人を、小須賀は他に知らない。傍にいると、元気が溢れ出てくるような気がした。
何かを切り出したものの、口を閉ざしてしまった小須賀を見て、美津子は、
「これからのあかつきは、小須賀さんがいないと成り立たないわ」
いつになく咳込んで、早口にそれを伝えた。
「長期滞在のクライアントが増えれば、キッチンの仕事はより重要になる」
小須賀は急に咳をして、慌ててコップを取った。美津子は、小須賀の咳が収まるのを待って、
「小須賀さんには、今まで以上に、あかつきで働いてもらわなきゃって、思っていたの」
小須賀はふーふーと息を吐きながら、
「へっ?そうだったんすか?」
と、うそぶくように言って、笑った。
「僕は、アーユルヴェーダのことを全く知らないのに?」
意外なことを言うものだ。それを気にしたことなんてないのだろうに。
「…知らないから、いいの」
美津子が微笑すると、反対に小須賀の笑みは引っ込んでいった。
「常識的な視点をもつって、大切なことだわ。あなたは一般的な目で見て、私たちの言動がどう映るのかを伝えてくれる」
今度は小須賀の方が、意外なことを聞くものだと思った。
「それは、柴崎先生の役目だと思ってましたよ」
美津子は、首を振った。美津子にとって順正の位置づけは、また大分異なるものなのだが、彼のことは今は、置いておく。
「小須賀さんも分かっていると思うけれど、杏奈は、料理担当にはならない」
「…ああ」
小須賀は、かすれた声を出した。
「あの子は、頭脳派ですからね」
「誰に、何をもたらしたいか、というところの違いなのよ」
美津子がさらりと言ったその言葉の意味が、小須賀には、すぐに理解できなかった。
「あなたは、料理で人を喜ばせるのが好きね」
そう言うと、美津子はまた、穏やかな笑みを浮かべた。
「…それしかできないだけです」
「誰にでもできることじゃないわ」
小須賀の言葉に覆いかぶさるように、しかし優しく、美津子の言葉は発された。
「こちらの言葉の意図を察して、自己主張を抑えて、こちらが思った通りのものを作ってくれる人は、なかなかいない」
二日酔いで、いつもよりも青白さを増していた小須賀の顔に、ほんのりと色が指した。でもそれは、もう酔いのせいではなかった。
「クライアントの様子に気を払い、最高のタイミングを見計らい、細やかなところにも、意識を注げる」
鞍馬が指先、足先の一つひとつにまで、意識を向けてヨガをするのと一緒。
小須賀は、料理を通して、ヨガができる人なのだ。
大きさをそろえて野菜を切る。スパイスの香りや食材の旨味を最大限に引き出すための細やかな温度管理。料理の仕上げに胡椒やパセリを添える時には、一度手の平に食材を出して、反対の指でつまんで丁寧に振りかける。料理を提供した後の、余った料理にさえ、愛情を注ぐ。衛生的に、適切に保存をして、なるべく無駄をなくす。料理をする工程の最初から最後まで、小須賀は対象に意識を向け続ける。繊細に。
料理への小須賀の姿勢は、杏奈にも受け継がれた。杏奈はあかつきに来た当初、人生の節目に立っていて、常に不安があるのか、あちこちに意識が飛んでいた。でも料理をしている間は、比較的意識を集中しやすいようだった。うかつなことをするとすぐ指摘する小須賀が傍にいたことで、なおのこと、杏奈の意識は一つところに留まるようになった。
小須賀は優れた料理人であり、人のことをよく見ることができる人。
「…やめてください」
小須賀は、でも、真面目な顔をしていつまでも話ができる人ではなかった。
「そんなこと言われたら、今後料理がしにくくなるじゃないですか」
小須賀はもう褒め言葉は受け付けない、とばかりに、アームレストにもたれかかったまま、体の前面を縮こませた。
─今後。
美津子はそれを聞いて、破顔一笑。
どうもあかつきのスタッフは、褒められることに慣れていない者ばかり。
「イタリアンのほうには、影響が出ないように配慮するから」
小須賀は顔を伏せたまま、こくこくと頷いた。
それでも、こちらが頼めば、小須賀が無理にでも融通を利かせてくれることは、美津子には分かっていた。
「分かりましたから…僕、もうちょっと寝ます」
「おやすみなさい」
美津子はにこっと笑って、席を立った。美津子が去っていくと、小須賀は体の力を抜き、ソファの上に両足を伸ばす。背中を丸めながら、美津子の言葉によって得られた感動の余韻に、静かに浸った。
いつでも温かく、すべてを受け入れてくれる、母親のような存在。
小須賀が小さかった頃、小須賀の母親はストレスを溜め、よく怒っていた。小須賀が何の親孝行もできないまま、母親は早くに死んでしまった。彼女からの愛情は、もう二度と感じることはできない。
けれども、あかつきに来ると、家に帰ってきたかのように心が安らぐのだ。
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