遭難事件のあった七月最後の日曜は、とても長い一日になった。
栗原神社に預けられていた南天丸は、翌日、神社まで出向いた藤野にピックアップされ、帰っていった。
栗原神社の花神殿には、連日のように、ぐう爺の好物であるゴツコラジュース、あかつきで摂れた野菜、デーツのギー漬けなどが供えられている。美津子と杏奈が代わる代わる、連日のように訪れて供えたのだ。むろん、お詫びであった。
お詫びといえば、事件の数日後に、瑠璃子と沙羅はそれぞれ菓子折りを持って、あかつきまで謝礼に訪れた。
「お詫びはいいから、僕に代行頼まないでほしいな」
鞍馬は沙羅が帰ってから、ぼそりとそう呟いた。あかつきは未だに、キッチャリークレンズのオンラインレッスンで忙しい。
「お詫びはいいからとか言って、鞍馬何にもしてないじゃん」
鞍馬の発言は、すぐに小須賀によって咎められた。小須賀などはあの日、夕方からイタリアンレストランで仕事の予定だったのだが、急遽仕事を休んだ。大捜索に付き合わされた上、その後羽沼の病院の付き添いから送迎まで、世話を焼く羽目になった。
「どうせ世話焼くなら女性の世話を焼きたかったよ」
沙羅は、快の精神状態を心配して、あの一件から少なくとも数日は、家で子供たちとゆっくりしていた。そのため、沙羅が担当するはずだったヨガ哲学とヨガレッスンは、鞍馬が代行することになった。
小須賀は「鞍馬をやる気にさせるためのさしすせそ」を考案し、女性陣は事あるごとに鞍馬をもてはやした。
「急な代行でもさらりとできちゃうんだから、さすがですね」
「ヨガ哲学ってこういう伝え方もあるんですね、しらなかった~!」
「今日のレッスンも、生徒さまの満足度高かったです!すごいです」
「やっぱり鞍馬さんは、センスありますね」
「そうなんですね!」
鞍馬は美津子や杏奈から毎日のようにそう言われると、鼻高々な様子で、嬉々としてレッスンを代行した。
「そりゃそうさ。男だもん」
小須賀に言わせるとそういうことだった。女性から褒められたら、嬉しいに決まっている。
「杏奈も、腐っても女だから」
「腐ってもは余計です」
こういった経緯があって、オンラインキッチャリークレンズへの、鞍馬の貢献度は甚だしいものとなった。
瑠璃子が万里子を連れて、羽沼の住む丸太小屋に向かったのは、遭難事件の翌々日の夕方であった。
自分の監督不行き届きで、万里子が大変な目に遭ったことに、瑠璃子は責任を感じていた。あまり詳しいことを話すと心配するだろうから、両親にはかいつまんだ話しかしていない。
瑠璃子が心配しているのは、今後の沙羅との関係性だった。花神岩に行こうと提案し、快を誘ったのは万里子なのだという。沙羅は自分たちを責める様子もなく、あかつきにも一緒にお礼に行ったけれど、心の内ではどう思っているか。快も、今まで通り万里子と遊んでくれるだろうか…。
足込町は小さな町だ。今通っている幼稚園の同級生とは、今後、少なくとも中学まで、同じクラスで過ごすことになる。気が合う子が多ければいいのだが、そうでない場合は、逃げ場がなくなる。
─万里子が問題児だと思われたらどうしよう。
しかし、瑠璃子は万里子を叱らないと決めていた。万里子が花神岩へ行った事情とやらを、羽沼から聞くまでは。
羽沼といえば、彼にも申し訳ないことをした。瑠璃子に代わって山の中で捜索をした結果、足首を捻挫し、仕事や生活に支障が出ていることだろう。しかも、足込中学校の野球部の外部顧問をしている羽沼は、夏休みだというのに、練習も休まざるを得なくなった。
瑠璃子はお詫びに、昨日、仕事の後寝るまでの時間のほとんどをかけて料理を作った。そのせいか、もともと痛めている右肩から右の首筋にかけて、つったような感じを覚えてしまった。
すぐにお詫びに行かなかったのは、少し間を空け、自分の頭の中を整理したかったから。
─羽沼さんと会ったら、何を話すか…
これが他の人であったら、お詫びに行って、菓子折りを渡して終わったかもしれない。でも羽沼には、話したいことがたくさんあるような気がした。
─旦那とのことも…
面会の候補日について、連絡が来ていたが、瑠璃子は回答を保留にしている。遭難事件の日も、結局、元夫のことで頭を悩ませていたから、万里子の世話がおろそかになった。
けれど、それは言い訳。
─私のせいだ。
結局はそう思う。詰まるところ、何年も過去を引きずり、融通の利かない怒りを払拭できない自分に問題があると、瑠璃子は反省したところである。
万里子は、あれ以来大人しい。が、自分の顔色を伺っているのが、目に見えて分かった。
二人は手を繋いで、林道を歩いた。いつもは万里子がじっとしていないので、短距離でも車で移動するが、今日の万里子の大人しさなら、徒歩でも大丈夫と踏んだのだ。
「はぬま」
しおらしくしていた万里子が、明るい声を出した。ちょうど、羽沼は屋外に出てきたところだった。サンダルを履く捻挫したほうの足にテーピングをしているのを見て、瑠璃子は申し訳なさでいっぱいになる。
「だいじょうぶ?」
万里子は羽沼に駆け寄って、足を見つめた。
「大丈夫だよ」
羽沼は笑うと、目尻に皺が寄り、頬にも縦に笑い皺ができる。
「万里子ちゃんは大丈夫?」
長いこと雨に濡れたので、風邪でも引いていないか、心配していたのだ。
「うん。だいじょうぶだよ」
羽沼は万里子の頭を撫でようとしたが、すぐ近くに瑠璃子が立っているのに気付いて、手をひっこめた。
「羽沼さん、この間は本当にありがとうございました。それに、本当にすみません」
瑠璃子は重箱の包みを手に持ったまま、深々と頭を下げた。
「頭を上げてください」
羽沼は、ああいう非常時には少し強引なところを見せるが、普段は至って穏やかで、今も怒っている様子はみじんもなかった。
「これ、お詫びにもならないですけど」
瑠璃子が大きな風呂敷を差し出すと、羽沼は足を引きずりながら近寄った。
「あの、お口に合うか分からないですけど、少しですけど、おかずになるものを…」
それを聞くと、羽沼はまた、くしゃっと笑った。
「へぇ。嬉しいな」
「ママね、きのうすごいじかんかけてつくってたんだ」
「万里子。余計なことを言うんじゃないの」
叱るなと言われたのに、つい、万里子を叱ってしまった。でも今のはしょうがない。
「昨日の夜作ったので、なるべく早く召し上がってください。下段のは、冷凍できます。あの…何か困ったことがあったら、いつでも呼んでください。うちすぐ近くなんで…」
瑠璃子はそう言ったが、実家暮らしといえど、仕事に子育てに忙しく、実際には他人の世話をする暇などないだろう。それを思えば、前に瑠璃子が言っていたこと─
─守るものがあると好き勝手できないですよね。
それも確かだ、と羽沼は今更のように思った。あの日、その言葉に対して注意してしまったが、そうすべきではなかったのかもしれない。自分は、子育ての大変さを知らない。
「ありがとう」
羽沼は動揺しながらも、瑠璃子の心遣いが嬉しかった。
困ったように笑う彼の顔を見て、瑠璃子は、この人は生活に不便があったとしても、自分を呼ぶことはしないだろうと思った。
万里子が花神岩に行った事情はじめ、いろいろなことを話したかったが、今日は万里子が一緒だし、何よりまだ怪我が治っていない羽沼の様子を見たら、何も言えなくなった。
瑠璃子と万里子は、手を繋いで帰って行った。
羽沼は部屋の中に戻って、風呂敷の包みを開けた。二段のお重に、おいしそうな料理がずらりと詰められている。瑠璃子は、料理が得意なようだ。
視線を弁当から、散らかっているデスクトップに移すと、羽沼は先ほどの二人の後ろ姿を思い出した。
仕事と育児に忙しく、一生懸命生きている瑠璃子。それに比べて、自分は今、誰の何のために一生懸命になっているだろうか。誇らしく胸を張れるような生き方をしているだろうか。
羽沼は首の後ろに手を当て、少し頭を下げ、目を閉じた。
─自分がどんな風に、自分の人生と向き合い、生きているか…。
いつか自信をもって、彼女たちに示したいという気持ちが強くなっていることに、気が付いた。
八月五日。
キッチャリークレンズを締めくくるレッスンは、杏奈による料理教室だった。
レッスンの終わりに総評をする。杏奈はその日ライヴに参加した生徒一人ひとりから、キッチャリークレンズに参加した感想や変化などを聞き出した。
たとえば、横浜市に住む四十代、一児の母で、美容師をしている女性・つぐみはこう話した。
「基本的に健康なので、キッチャリーで何が変わるか見たかったです」
それが参加理由だった。普段、空腹を感じることが少なく、お腹が空く感覚がどんなものか知りたい、という気持ちもあったらしい。
「どんなことに取り組まれましたか?」
キッチャリークレンズは、オンラインレッスンやラインでのフォローはあったものの、自己実践が基本である。
つぐみは主に次のことを意識していた。
・今までは朝ごはんは食べないこともあったが、クレンズ中はキッチャリーを食べるようにした。
・夕食は十九時までに食べるようにし、それ以降は何も食べないようにした。
・飲み会の日が一日あったが、なるべく油っぽいもの食べないようにした。
「どんな変化を感じていますか?」
この問いに対し、つぐみは様々なポジティヴな変化を挙げてくれた。
・クレンズ三日目くらいから、朝一番で排泄があるようになった。
・排泄の質も良かったし、今までよりスムーズに出て、すっきりした。
・キッチャリーを食べたら二時間後に必ずお腹が空いた。その間、体の中が綺麗になっているというイメージが湧いて、いいことをしている気分になった。
・ちょうど、夫があまり元気がない時期だった。今までの自分だったら、怒ったり口を出したりしてしまっただろうけれど、クレンズのおかげか、穏やかになろうという意識ができた。夫とも普通に言葉のキャッチボールができた。
「ラインで相談できて心強かったです」
つぐみはそうも言った。
「いつも素早く返信をくれて、丁寧だなーっと思ってました」
そう言って、つぐみは笑う。
「気軽に相談出来てよかったです。それがあったから続けられたのだと感じています」
こんな理想的な回答をもらえるとは思っていなかった。
基本的に健康だった人が、ますます健康になる。これこそがアーユルヴェーダの魅力だった。健康な人をますます美しく輝かせる手法は、対処療法にはない。
が、誰もがつぐみのように変化を感じられたわけではない。
「一日一食をキッチャリーに置き換えることが、完全にはできませんでした。でも、意識を定着できました」
意識はしたけどできなかったという人もいる。まだこれはましだ。中には、行動の変化を起こさなかったにも関わらず、体の変化が起きなかった、と文句にも似た感想を言う人もいた。キッチャリークレンズに申し込んだものの、ライヴに一度も参加していない人もいる。
─どんな順序で進めたらよかったんだろう。
─もう少し段階的に進めるべきだったかな。
─行動を管理できるツールがあったほうがいいのかな。
杏奈は悶々と悩んでいた。生徒が行動を起こさなければ、変化は起きない。
美津子はそんな杏奈の様子を見て、
「こちらが行動を促せば相手は動く、というものではないからね」
と言った。
「だからといって、監視して相手を縛るのもまた違う」
何かを強制するようなアプローチは控えるべきだと、美津子は言った。
「私たちは常にサットヴァな姿勢を、相手に見せていかなければならない」
杏奈はお盆の初日から、二泊三日の予定で実家に帰省した。
沙羅も時を同じくして、家族で鳥羽へ出かけたので、その間に入っている単発の予約は、全て美津子がこなすことになった。
─ココちゃんがね、うみにいきたかったって…
あの遭難事件の日、万里子は沙羅にこっそりとそう伝えた。
万里子と快は、願をかけた榊を花神岩に供えた。快の願いは何だったのか考える余裕もなかったが、万里子にそう言われて沙羅は後悔した。
─寂しかったのか。
その反省もあって、家族旅行を決めたのである。
─もっとけじめをつなきゃ…
沙羅は改めてそう感じた。
子供たちが幼稚園に行かない土日祝であっても、仕事をもらえるなら、仕事に行く。沙羅はそういうスタンスだったが、それも見直す必要があると考えた。
今考えれば、子供たちを美津子やスタッフたちに預けてまで施術のチャンスをもらっていたのは、図々しかったとさえいえる。子供たちにとってもストレスだったかもしれない。
沙羅は考えたことを美津子に相談した。
─今すぐ決めなくてもいいじゃない。
と美津子は言った。もちろん、土日祝に出ろと言っているのではないけれど、
─子供たちだって、毎週のように遠くへ行きたがるわけじゃないわ。
あかつきのスタッフたちと関わるのも、それはそれでいい刺激になる。
─私たちも、できる限り手伝うから。
そう言ってくれた。
美津子には分かっているのだ。
─たまに、お母さんがやりたいことをやる休日があってもいいじゃない。
子供たちのほうを向きたいという気持ちは分かるが、自分を犠牲にするべきではない。
─でも今回は、子供たちにしっかりサービスしてきなさい。
そこで沙羅は、娘たちと、その祖父母と一緒に鳥羽へ行った。快と七瀬を、海で遊ばせてやりたかった。
杏奈は帰省二日目・土曜日に、東京にいた頃知り合った友人と、藤が丘でランチをすることになった。
金曜の昼過ぎ、家に着いてから散歩をし、周囲に自生している植物の写真を撮った。それを自分個人のインスタのストーリーにアップしたところ、
─杏奈ちゃん、地元に戻ってきてるの?
と、その友人・吉田美沙子から連絡があった。ヨガスクールの同期で、歳は杏奈より四つ上。
杏奈と美沙子は、駅中の和食の店に入った。店内には、出汁のいい香りが漂っていた。
二人はお互いの近況を話し合った。長らく音沙汰がない間に、二人とも状況が変わりすぎている。かいつまんで話をするだけでは物足りない感じがした。
美沙子はお盆に実家に帰省したものの、まだ東京暮らし。派遣社員として仕事をする傍ら、ヨガレッスンを自主開催している。
二人は、季節の食材が使われた、味噌田楽(豆腐、里芋、こんにゃく)をメインにした菜食料理を食べていた。菜の花ご飯と赤だしのお味噌汁はほっとする味だ。
「そうか。じゃあこれからが勝負なんだね」
杏奈は今しがた、あかつきでの学びと仕事の様子、今後は一大イベントに向けて集客に本腰を入れるところだと、話したばかりだった。
美沙子は、少しハスキーな声で、杏奈の話によく相槌を打ってくれる。
杏奈は誰とでも仲良くなれるわけではなかった。しかし、この年上のヨガ友達は、なぜか姉のように慕える存在であった。杏奈と同郷なのも、仲良くなるきっかけになった。
「杏奈ちゃんが頑張ってることは、遠巻きに知ってたよ」
インスタをフォローしてくれている美沙子は、そんな嬉しいことも言ってくれた。
「でも、こっちが言ったとおりに取り組んでくれるお客さんと、そうでないお客さんがいて」
杏奈は最近の悩みの種を話した。
「杏奈ちゃんは、行動できる人だからね」
美沙子は意味深なことを言った。どういうことだろうと訝りながら、杏奈はこんにゃくの田楽を取る。
「行動できるって、何が?」
「スクールを卒業したばかりの頃は、料理教室やりたいって言ってたよね」
「うん」
「それが本当に教室を開いて、今度はアーユルヴェーダの専門施設で修業して、コンサルをするようになってさ」
「でも、成功してるわけじゃないから」
弾力のあるこんにゃくを咀嚼しながら、杏奈はモゴモゴ言った。
「要点はそこじゃなくてさ…なんていうか、やりたいって言ったことを実現するために、努力ができる人じゃん。でもさ、これをやったらいいよ、っていうタスクの付箋を貼られたところで、杏奈ちゃんみたいに、毎日毎日それを外していける人間ばかりじゃないんだよ」
美沙子は杏奈よりも早く、粗方食べ終わっていて、おしぼりで手を拭いた。
「私も、いつかはパーソナルヨガトレーナーになりたいと思って、発信もしてるけどさ、インスタの投稿一つ取ったって、毎日続けられないよ」
どうしたらそんなに継続できるのだろうと思う。もっとも、単純にその作業の好き嫌い、向き不向きという問題があるだろうが。
「自分も言われてもできない人間だけど、お客さんの中にもそういう人はいっぱいいるよ」
このポーズがいい、毎日これをやればお腹がへっこむ、などとお客さんの要望に合わせて、美沙子はヨガを教えるのだが、
「だいたいのお客さんが、今絶対に必要なことじゃないと、やれないんだよね」
こちらがモチベーションを保てるよう、手段を尽くして相手を鼓舞したとしてもである。
「いつまでにこれやってくださいって言われても、これいいですよって言われても、ふ~んで終わっちゃうよ」
お客さまは、別に美沙子の言うことに否定的であるわけではない。ただ単に、そのタイミングでないか、他にやるべきことが多いのだろう。
「だから、もっと自由にやらせてあげたほうがいいのかな~と思って」
美沙子は過去のお客さまの誰かを思い出しているのか、思案顔で話を続けた。
「やることリストを送った方が良い人もいるけど、そうじゃない人には、ゴールと大まかな方向性だけ示して、その中で自由にやってくださいっていう風にしてもいいんじゃないかって思ってるよ」
「そうすると、お客さまは自主的に動くようになる?」
「うーん…」
美沙子は首を傾げた。
結局、その人に合ったやり方を選びさえすれば、全て解決というわけにはいかないようだ。どんなやり方を提示したにせよ、その後のフォローは必要になる。
アーユルヴェーダは、即時的に問題を取り除くものではない。あかつきにいる間は受け身で済むとしても、その後も継続的に自分を癒していくためには、主体性を養うことが大事なのだ。そういう意味では、推奨事項を箇条書きにして提示することは、その人が考える練習をする機会、つまり主体性を養う機会を削ぐ行為だと思えなくもない。
「杏奈ちゃんがやろうとしてることって、ほとんどコーチングよね」
アーユルヴェーダやヨガに精通しているのとはまた、別の問題だ。
「確かに…コーチングのスキルを学んだほうが良いのかもね」
自己向上しようと思うと、終わりがなさそうだった。
「美沙子さんは、ゆくゆくはパーソナルヨガトレーナーだけでやっていくの?」
杏奈は美沙子のことに話を移した。美沙子はまた首を傾げて、
「それはないかな。私、そこまで自分に才能あるとは思えないし」
派遣でやっている仕事も、いろいろなことを任せられるようになり、やりがいがあった。近いうちに契約社員にしてもらえるのだという。
「それに、やっぱり生活の基盤って大事だと思うから」
契約社員であっても、会社勤めしていたほうが、安定した収入が入る。
美沙子は未婚だった。子宮筋腫が数え切れないほどあり、妊娠が難しい。男性と付き合うことは避けていないけれど、子供をもつことは諦めているし、絶対に結婚したいとも思っていない。美沙子は、そういうスタンスの人である。
杏奈は、ゆっくりと水を飲んだ。
杏奈は珍しく、その日二度目の外食をしていた。
大学の研究室の同期たちとの、同窓会に参加したのだった。
「そういえば、結婚おめでとう」
仲間たちは、口々にとある男に、祝福の言葉をかけた。杏奈の大学時代の恋人・西村は、まんざらではなさそうな顔で、祝福の言葉を受けている。
杏奈は実際、寝耳に水で、心の中ではひどく動揺したが、知っていた風を装って「おめでとう」と言った。
誰が相手なのか、トイレに入って、久しぶりに西村のフェイスブックを見た。彼は同僚と結婚したようだ。
今はフェイスブックよりインスタを主に使っているため、ここでしか掴めない、リアルな友人たちの情報をチェックする機会を逸してしまっていた。
─なるほどね。
と、杏奈は一人で納得する。
数年前、やはり研究室の同窓会に参加した時、西村の手に指輪が光っているのが見えた。
─この人とのだったのね。
どこかのリゾートで、二人でヤシの木の下でピースしている写真。確かに、その結婚相手は、外見的には杏奈と同じような系統かもしれなかった。
杏奈は西村とは斜め向かいの席に座っていた。お互いに、仲間と一緒にいるから、その会話の延長線上で言葉を交わすことはあるけれども、二人だけの会話になることはない。
西村とふと目が合った時、彼が、勝ち誇ったように、わざわざ結婚指輪をした薬指を見せるように、口元に手を持っていくのが見えた。
─気のせいか。
杏奈は自分が後悔していることに気付いた。先に態度を変えたのは、自分だというのに。
西村と遠距離恋愛をしていた頃だった。杏奈が尾形と出会ったのは…
つまり、西村のほうが被害者なのだ。杏奈は、気持ちが移ったことを西村には告げず、仕事が忙しくて連絡できない、会えないとはぐらかしていた。最終的に、西村から杏奈に「別れよう」と言った。その時にはきっと、次に付き合う人の目星が立っていたのだろうと思う。しかし、そうさせたのは杏奈だった。
二十代前半の頃は、ずい分と自分勝手な恋をしたものだ。
西村は料理が半端に余ると、その遠慮の塊を、「食べていい?」と聞いて、自分のものにした。今も、一つだけ余った竜田揚げを口の中に入れている。
─昔から、ちゃっかりした性格だったな…。
と、杏奈は、彼の素行を無意識に見咎めている自分に気が付いて、失望感を抱いた。あかつきでいったい自分は、何を学んできたのか。
しかし、中座した西村が、お金を少な目にしか置いていかなかった時も、結婚しなくてよかったと思おうとしている自分がいた。どす黒い気持ちが、湧き上がってくる。
寂しさゆえに、この人を捨てて、物理的に近くにいた尾形に歩み寄った。誰のことも幸せにしない、奔放なだけの恋だった。自分はただ愚かだという気持ちに苛まれそうになる。
「そういえば私、二人目を妊娠してます」
一人の女友達が、遠慮気味に手を挙げながら、そう告げた。高学歴で、大企業で活躍しているこの旧友たちは、結婚している人がそもそも少なく、子供がいるのはこの子くらいだ。
「やっぱりね」
「おめでとう」
その子に、みんなは祝福の言葉をかける。もちろん杏奈も。
─みんな、本当に祝福しているのかな。
なんとも思わないのだろうか。同い年の、かつての仲間が結婚し、子供を産んでいることに。
杏奈は、自分が彼女を羨ましいと思い、それ以上に妬むような気持ちを抱いていることを、否定できなかった。
─どうしてなんだろう。
杏奈は地下鉄に揺られながら、自分の反応の仕方に疑問を抱いた。
あれだけ、あかつきのクライアントに対しては、妊活が実を結ぶよう、手を尽くせるのに。当に妊娠してほしいと思っていたのに。なぜ昔の友人の妊娠はなぜ未だに手放しで喜べないのか。
西村の粗を探しながら、なぜ未だに、彼と付き合っていた頃に戻りたいと思うのか。
─可能性があったから…。
この人と結婚していたかも。自分も今頃家族を作っていてもおかしくなかったかも。そんな可能性があったと思えばそれだけ、期待と現実との落差を大きく感じるのかもしれない。
様々な後悔をしている。
杏奈は、今電車で揺られている自分と、つい昨日まで、あかつきで食事を作っていた自分が、別人物のように思える。
昔住んでいた場所、昔関わっていた人たちと接触したことで、その時には確かにあったはずの可能性を認識するのだが、今はもうその可能性は潰えていることを思い知らされ、打ちのめされてしまうのかもしれない。
杏奈はスマホとイヤホンをつなぎ、久しぶりに、それを聞いた。自分の声を録音した、ガイド付き瞑想。
─人生の優先順位を考えてみて。
目を瞑って瞑想を聞きながら、杏奈は美津子の姿を瞼の裏に思い描く。
─自分の行動がそれに繋がっているかどうかも。
美津子の言葉がいつも、杏奈のそばにある。
こんな風に迷い、人を妬むくらいならいっそ、この身をアーユルヴェーダを通し人を癒すことに捧げると決め、あかつきでロハスな生活を続けたほうが良いのではないかと思う。
─美津子さんのように…。
瞑想が終わり、目を開けると、降車駅まであと二駅になっていた。
─…。
久しぶりに乗る地下鉄のドアを、無心に眺めながら思った。
心の拠り所を探す時、杏奈の心に浮かぶのは、アーユルヴェーダの教えではなく、美津子の放った言葉と、美津子その人なのであった。
─早く、あかつきへ帰りたい。
杏奈は手すりに頭を預けながら、そう思った。
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