朝から呼び鈴が鳴って、杏奈は戸惑いながら玄関まで急いだ。
今日は鞍馬の都合がつかないため、朝ヨガは休みで、一階はシーンとしている。
玄関扉を開けると、そこには一人のおじいさんが立っていた。
「笹塚という者ですけどぉ」
日に焼けた顔に、深いしわが刻まれたその老爺は、一言名乗ると茶色い紙袋を杏奈に差し出した。
「これ、うちで採れたもんだけど、食べたってください」
紙袋には、柿やら大根やら、さつまいやらがぎっしりと詰まっていて、今にも破れそうだった。
おじいさんは渡すだけ渡すと回れ右をして、さっさと帰って行った。
「隣の敷地の持ち主さんよ」
あかつきの隣のだだっ広い土地は、その一区画を畑や果樹栽培に利用している他は、ただの草原。高齢の管理者には管理しきれず、草がぼうぼうと生い茂る季節には、あかつきがその区画の草刈りを行うこともある。つい先日も、小須賀、羽沼、空楽の三人が草刈りをしたところだ。美津子におじいさんの来訪を話したところ、きっとそのお礼だろうということだった。
─柿と、さつまいもと、大根か。
採れ立ての野菜や果実は、なんであれありがたい。
「おはようございます」
キッチンの外で声がして、杏奈はストリングカーテンをかき分けた。
「お白湯、もらえますか」
咲子が水筒を持って立っていた。杏奈は水筒を受け取りながら、
「昨日はよく眠れましたか?」
「はい」
咲子はそう言いながら、お腹をさすった。
「お腹がとても空いてきて…昨日のキッチャリーは、本当に消化が早かったです」
昨日の夜は、クラシックキッチャリー。バスマティ米、イエロームングダル、スパイス、ギーを使った、アーユルヴェーダの伝統的な養生粥。軽くて柔らかい食感で、ごく消火に優しい。体を浄化し、栄養を与える。
「私も、週に数回キッチャリーを食べますが、いつも気分が良くなります!」
杏奈は少し大げさに言った。
「少し待っていてください」
「ありがとうございます」
「あ、咲子さん」
ふと思い出したことがあって、踵を返す咲子を杏奈は呼び止めた。
「今日も、鏡の中の自分を見て、にっこり微笑んであげてくださいね」
そう言うと咲子はにっこりして、小さく頷いた。
「にんぎょーもってく」
七瀬は玄関まで来ておきながら、思い出したようにリビングに戻っていく。
「ナナちゃん!人形は後にしよう?」
家を出る直前は、バタバタと慌ただしく、スムーズに外まで行けた試しがない。
沙羅は七瀬に声をかけつつ、ふとんを肩にかつぐ。月曜日は、持ち物が多い。
「快、自分の荷物は持ってって」
「うん。いいよ」
「できたら七瀬のも。あー、やばい。時間がない」
沙羅はリビングを覗いた。
「ナナちゃん!人形はいいって」
「にんぎょーにんぎょーああーん」
七瀬は泣き出した。これでは埒が明かない。
沙羅は七瀬を強制的に抱っこして、靴下と靴を履かせ、スモッグを着せた。仕事がない日であれば、子供たちの気が済むまで気を長く見守ることもできるのだが。
「くしゅん!」
最近、車に乗るとすぐ、七瀬はくしゃみをして、「ティッシュ!ティッシュ!」と喚く。もはやルーチン化しているので、先にティッシュを渡してチャイルドシートに乗せるのだが、すぐに放り出してしまう。そのくせ、放り出した直後にくしゃみをするのだった。
沙羅は朝からげっそりしながら、足込幼稚園まで車を飛ばした。
「いかないよー!」
最近、七瀬は言葉がたくさん出て来た。それはいいのだが、意思表示も激しくなり、保育室に行き渋ることもしばしば…
「ほら、お姉ちゃんも一緒に行くよ!」
「やー!」
「快、鞄持った?」
「うん」
「よし、じゃあ、いくよ」
半ば強引に七瀬を抱き上げ、園に入る。
園に入った後も、七瀬は脱走しがちだ。先に快を送り、それから七瀬。りす組の敷居をまたいでしまえば、七瀬も落ち着くのだが。
「お願いしまーす」
沙羅は保育士たちに笑顔を向けて会釈をすると、廊下を急いで渡った。その時には笑顔は消えて、再びげっそりとした表情になってしまう。
九時ちょうどくらいに、沙羅はあかつきに到着した。あかつき大作戦の期間中は、幼稚園とその保育室にお願いをして、少しだけ登園時間を早めてもらっている。
既に空楽と美津子が、午前中の施術に向けて準備をしていた。二人は二階で、それぞれ咲子、菜奈の施術を担当する。
「おはようございます」
沙羅はみんなに挨拶をするや否や、一階の施術室へ直行する。空調や備品は既に、あらかた整えられていた。沙羅はそのまま、そこで施術着に着替えた。
今日は新しいクライアント・玲がやって来る。沙羅は彼女の担当で、この一階の施術室を使うことになっている。一部屋を二組が使う場合、入室のタイミングがあまりにズレると、物音などが気になるため、時間の読めない玲を別の部屋にしたのだった。
「こんにちは」
沙羅が着替え終わって、施術室の環境を整えてから五分も経たないうちに、玲が訪れた。バタバタと体制を整えた後で、沙羅は気持ちを落ち着ける暇なく、少し興奮した状態で玲を出迎えた。
「こんにちは~。どうぞ、お上がりください」
そのため、テンションがいつに増して高くなる。
玲は沙羅よりわずかに背が高く、体格は普通くらい。髪の毛は肩までつかないくらいの長さで、ややうねりがある。少しだけふくよかな頬は、ちょっぴり赤らんでいて、そばかすがあった。
玲はつぶらな垂れ目をきょろきょろとさせて、沙羅に導かれるまま居間に入った。
「今、二階で他のお客さまが施術をしているので、お荷物一旦こちらに置いてください」
玲は今日から、咲子と相部屋になる予定である。
キッチンに入ると、杏奈がお茶を淹れてくれていた。今日は小須賀に休暇を出しているため、杏奈は午前中施術を行わず、昼食と夕食の仕込みをしているところだった。
「朝、すごく早かったんじゃないですか?」
応接間までお茶を運ぶと、沙羅はさっそく、玲に話しかけた。
「ええ。五時代には起きてましたね」
「お子さん、大丈夫でした?」
「もう昨日のうちに実家に行って、祖父母に預けてきましたので」
玲は始終、眉尻が垂れさがっていて、常に恐縮したような表情をしている。年齢は、三十六歳。埼玉県狭山市在住。夫と二歳の娘との三人暮らし、マンション住まい。あまり長いこと実家に子供を預けてはおけないらしく、滞在期間は二泊三日。
「お仕事は大丈夫でしたか?」
「はい、今回はリフレッシュ休暇を当てました」
玲は某化学メーカーの一般職で、今年の四月に職場復帰した。九割方は事務作業で、主に電話応対のルーチンワーク。休んだからといってさほど仕事が滞るわけではない。
「事前コンサル後、お体の調子はいかがですか?」
健康日記から読み取れる範囲では、気にしていた便秘が良くなったり悪くなったりを繰り返しているが…
「またこのところ、お通じが悪くなってきて…生理中はちょっと良くなるんですけど、先週終わってからかな…またお腹が張っています」
「分かりました。疲れはどうですか?」
「取れないというか、力が入らないですね。今日も、移動中に少しアーユルヴェーダの勉強進めようかなって思ったんですけど、眠くなっちゃって」
沙羅は事前コンサル時に提示した推奨事項をもとに、取り組み内容を続けてヒアリングしていった。
玲は生真面目な優等生気質で、推奨されたことはできる範囲で実践していた。取り組みをする中での悩みは、お腹が空きにくいこと。便秘だからかもしれない。便通を改善するために繊維質のものを摂ろうと思うのだが、甲状腺機能亢進症なので、厳格に…ではないものの。海藻を控えるよう、医師からは指導されている。野菜料理や豆料理を多く取り入れようと心がけているのだが、それもなかなかできない。
料理は嫌いではないが、疲労感が強く、キッチンに立つ気力が起きず、いつも簡単なもの、子供と夫が食べそうなものばかりになってしまう。
「この間もね、あかつきさんのインスタ見て、お豆の入った具沢山スープを作ってみたんですが…なんか、また変な料理だねって言われて食べてもらえなかったんです」
「そうですか…」
見知らぬ豆やスパイスを使った少し変わった料理を、家族が食べてくれないというケースは割と多い。
「子供は食べてくれたんですけどね」
「そうなんですね。それにしても、実家のご両親がお子様を預かってくださってよかったですね。旦那さんも、少しリラックスできるんじゃないですか?」
そう訊くと、玲は渋い表情をした。
「快くは見送ってくれなかったですけど、内心、喜んでると思いますよ。三日も子育て免除されて…」
そう言ってから玲は、「と言っても普段大してやってませんけどね」とぼそりと付け加えた。
玲のあかつき滞在目的は、便秘の改善と、ダイエット、慢性的な疲労感の改善。しかし、玲の最も大きな悩みは、夫との関係性であった。玲がダイエットをしたいというのも、本人が必要性を感じてのことでなく、夫に「二の腕や腹がたるんでる」と言われて悔しいから、という理由。
健康日記を通して玲の日々の鬱憤を知っている沙羅は、いろいろと思う所はある。しかし、今は深い話はせず、簡単な施設案内をした後、施術に入った。
「よく噛んでくださいね」
食事を提供する際、杏奈は毎回さりげなく念を押す。
今日のごはんは大麦入りサフランライス、さつまいもとごまの白和え、大根チャツネ、しらすと青菜の和え物、蓮根サブジ。和風の要素が入っているが、ワンプレートに乗せて提供した。
菜奈が来てから、食卓はいつも賑やかである。菜奈はとんでもなくテンションが高い。自分が喋りたいことだけ喋ったり、話が独り歩きしたりしてしまうことが多いのでは…と思いきや、全くそんなことはなかった。話をしっかり聞くのも上手で、決してその場の和を乱さない。むしろうまく話を振ることもある。ただ、話を盛り上げたがるので、落ち着いて心のうちをひっそりと吐露したい…という人にとっては、なかなかそういう雰囲気になりにくいのが玉に傷。
「あの方は、常連さんなんですか?」
午後の施術に入る前に玲に尋ねられ、沙羅は首を振った。
今度は二階の施術室で、もう一つのベッドは、午後から新しくやってくるクライアント・琴音が使う。
「とても元気な方ですよね」
土日に休みを取っていた沙羅は、菜奈に会うのは実は今日が初めてである。話には聞いていたが、先ほどの昼食の様子を傍から少し見ているだけでも、彼女のエネルギッシュさが伝わってきた。
その頃杏奈は、先ほどやって来た琴音に、母屋の一階を案内していた。
キッチンからは水の音と、時々話声が聞こえる。大鐘と空楽が片付けをしてくれているのだ。
「琴音さん」
慣れない場所を訪れて、不安げな顔をしている琴音に、杏奈は優しく声がけをした。
「応接間へどうぞ」
「はい」
琴音は浜松市から来た、三十三歳、独身の女性。可愛らしい響きをもつ、女性らしい名前をもっているが、琴音自身は至極ボーイッシュだった。杏奈と沙羅の中間くらいの背丈で、体格は平均的。少し茶色みがかった髪の毛をショートカットにしていて、眉は少し濃いめ、ややエラの張った顔。顔つきはどこか男顔だった。
「どうぞ」
ウェッジウッドの華奢なティーカップにハーブティーを淹れ、琴音の前に置いた。
「あ」
琴音は「あ」と言ってほんの少し状態を前に傾けた。彼女なりの「ありがとう」なのである。薄手の取っ手にぎこちなく指をかけ、口元に運ぶしぐさも、どこかぎこちない。
杏奈は初めて来た人に書いてもらう案内シートを挟んだバインダーを渡しながら、そんな琴音の様子を観察した。
「会社を辞められてから、いかがですか。少しは落ち着かれましたか」
「はい」
琴音は、物流会社の事務職員だったが、十月いっぱいで退職した。
「住んでいる場所は、今までと同じですか?」
「はい。惣菜製造の仕事を、市内で見つけましたので」
ゆくゆくは、調理師の資格を取って、学校や保育園、老人ホームなどで、食事を提供する仕事をしていきたいと思っているらしい。
「しばらくは収入がマイナスになるかもしれませんが…」
前年の所得に基づいて税金が発生するので、再就職先の給料が安定していない場合は、痛手となることが多い。
杏奈は同情するように頷いて、
「私も仕事を辞めた年は、税金に関する知識が希薄だったせいで…びっくりしました」
「ああ…」
この件に関しては、杏奈も辛酸をなめたので、琴音の心配はよく分かる。今とて、経済的に安定しているとはいえないのだが。
「琴音さんは、田原の出身でしたよね」
「はい」
「やはり、山より海で遊ぶことのほうが慣れていますか?」
「そうですね…海も好きですけど、山も」
カチャカチャと音を立てて、琴音はティーカップを置いた。それから一つ咳払いをしたが、続く言葉はなかった。
「今日から六日間、割と毎日ぎっしり施術の予定が入っているのですが、もし自然散策に出かけたいなど、ご希望がありましたらおっしゃってくださいね」
近くにちょうど良い山があるんですよ、と補足して、杏奈は微笑んだ。琴音も口元を綻ばせた。
表情豊かな菜奈と接した後だと、琴音の表情の乏しさが際立つ。琴音が表情を出しにくい理由を、杏奈はよく知らない。それでいて、理由もなく共感できた。杏奈自身が、表情に乏しい子だとずっと言われ続けてきたからでもある。
─それにしても…。
収入が減るのであれば、家賃を払い続けるのは痛手だろうに。琴音の実家は、田原市。調理師免許の取得のために必要な調理業務は、何も、浜松市でなくとも見つかるだろうに。それでも琴音は実家に帰らない。一見、徒労に思える。しかし、杏奈にはその理由も、分からないではない。
「アーユルヴェーダの施術を受けるのは、初めてですか?」
「いいえ。ヨガの仲間と海外に遊びに行った時、海外で受けました」
琴音はヨガを学んでおり、自宅でも実践している。ヨガをするのは癒しだ、と言っていた。
「どこに行かれたんでしたっけ?」
「フィリピンです」
南インドやスリランカでなくとも、東南アジア圏にもアーユルヴェーダの滞在リゾートはあるらしい。
その後杏奈は、いつも通り、施術に使うアーユルヴェーダオイルの説明をした。カウンセリングを終えると、琴音を客間に通し、荷ほどきと着替えをしてもらう。その間杏奈は下に降り、大鐘に客間の清掃に入るタイミングを告げた。
「杏奈さん」
施術室に向かおうとする杏奈に、空楽が声をかけた。空楽はすでに、施術着から何の変哲もないトレーナーとズボン、エプロン姿になっていた。
「さっき美津子さんにもお渡ししたんですけど、これ」
香皿にのせた、円錐状のお香。
「施術の最後、どっちかが発汗に入ったくらいのタイミングで焚くといいと思います」
「空楽さんが作ったんですか?」
杏奈は香皿を受け取りつつ、尋ねた。空楽は頷いた。
「ありがとうございます。これは、マッチかライターで火をつけるだけでいいですよね?」
円錐香を使ったことがなかったので、一応訊くと、空楽はまた頷いた。
「どんなにおいがするんですか?」
「…お香みたいな匂いです」
杏奈はがくっと膝が折れそうになった。
「なんともいえません。普通はたぶ粉と白檀で作るんですが、明神山で採集した木片や、陳皮、クローブなんかを混ぜてるんです」
つまり、身近なもので作ったということだ。
「変な香りだなと思ったり、クライアントが嫌がったりしたら、使うの止めて下さい」
と、空楽は言った。
─クライアントが香りから癒されればと思って…
空楽なりに配慮して、作ったのだろう。それが分かっている杏奈は、
「きっといい匂いがしますね」
と言って、微笑んだ。
施術中の、香りの演出。
─それも地のものを使った…
そんなアイディアも、技術も、杏奈にはなかった。空楽がいたからこそ、こういった付加価値をつけられるのだ。
「空楽さん」
小さくてかわいらしい土色の円錐香を眺めながら、
「次に何かを採集することがあったら、私も連れて行ってくれませんか」
と、空楽に頼んだ。空楽が土に膝をつき、集めた木片で作られているお香は、とても尊いもののような気がした。
「でも杏奈さん、忙しいでしょ」
そんな暇があるのだろうか。空楽の疑問をよそに、杏奈は苦笑いを浮かべて、
「頭が回らなくて、ぼーっとしている時間も多いですから」
「お疲れさまです」
杏奈が美津子の部屋の前室に入った時、沙羅もそこで着替えをしていた。
杏奈の方が、かなり遅れて施術に入ったのに、終わりの時間が一緒になるとは…
「玲さんは午後、ウドヴァルタナでしたよね」
「はい」
施術自体に時間はかからなかったのだが、アフターカウンセリングに時間がかかったらしい。
「施術中話せない分、アフターで話をする時間が長くなるんですよね…」
もともと、アーユルヴェーダの施術中は、マッサージを受ける側は静かにしていた方が良い。そのほうがヴァータが鎮まるからだ。それでも、施術中に喋りたがる人もいる。だが、一部屋で二人の施術を同時にする場合、さすがに外聞を気にするのか、あまり込み入った話にはならない。そのことは杏奈も認識している。
「玲さんは、どんな話を?」
前掛けの紐をしゅるりと解きながら、杏奈は尋ねた。
「旦那さんとの関係性について…まあ、とりとめもなく」
ほぼ愚痴であった。玲は健康日記を、夫へのストレスの捌け口のように使っていたので、沙羅はなんとなく状況を知っている。玲の夫は、某大手食品メーカーのサプライチェーン全般、および間接業務に対し、システムの保守・開発・運用を行う情報システム会社で働いている。
「システムに不具合があると、夜中でも対応をしたり、月末月初は在庫確定されるまで残ってないといけなかったりと、忙しいみたいです」
「分かります。私が前いた会社でも、システム系の人たちって、大変そうでした」
彼らを見た先輩が、「犬のように扱われている」とよく言っていた。
「だから、旦那さんを頼れないんですって」
給料がより高く、拘束時間も長いという理由で、平日はほぼワンオペだし、休日もなんだかんだ理由をつけて子供の面倒を看ないことが多い。
「玲さん、一度流産してるんですって」
「流産…」
質問票には書いていなかったことだ。
「玲さん、その後軽いうつ病を発症していたようで。旦那さんは、子供はいなくてもいいって言ったらしいんですけど、玲さんは諦められなくて、なんとか一児を…」
そうした経緯もあって、夫は何かと「おれは望んでなかった」「欲しいと言ったほうが、自分が育てるという気概を持ってて当然だ」という言葉を浴びせるらしい。
「そんな…」
杏奈は眉根に皺を寄せた。
寒い前室は、ハロゲンヒーターだけが熱源だった。着替えるならさっと着替えたいのだが、杏奈は話に夢中になってしまって、前掛けを取ってからその後に進めなくなっている。沙羅はすでに着替え終わって、二部式着物をたたんでいた。
「だけど、二人の子供なのに」
「機嫌がいい時には、手伝うみたいなんですけどね」
手伝う、というスタンスでいること自体どうかと思うのだが、沙羅は自分のことを振り返っても、それはよくあることなのかなと思う。
「でも二歳の子供なんて、大人の思う通りにいかないわけですよ」
沙羅は苦笑した。
「それで、旦那さんが声を荒げる度に、玲さんは旦那さんには任せられないって思っちゃうらしくて」
気持ちは分かりますけどね、と沙羅は付け加えた。
─子供の面倒を看ながら、旦那のことも気を遣わないといけなくて…
顔色を伺いながら生活しているので、家に帰っても、気が休まらないらしい。
「本当に、夫婦というのは難しいなと思います」
沙羅が話している間に、杏奈はようやく自分の着物に手を掛けた。
「親が子に対する愛情のかけ方って、まだ、無償の愛なんですけど」
そう言った後で、「あ、これは持論ですけどね」と、また付け加えた。
「夫婦って、子供よりは、結局他人なんです」
二人の仲に愛情がなければ、彼らを繋ぐ縁は弱い。
子育てに関しては、どちらかがやらないことでどちらかが反動を食らう。お財布は同じでも、時間的、労力的に平等を求める。が、人間というのは基本的に、負の面のほうが強調されて見えてしまうようで、どうしても「自分のほうが辛い」と思ってしまう。
「夫婦の関係性を良好に保とうと努力することは、その人が人間的に成長するチャンスなんですけどね」
しかし、感情が邪魔をして、なかなかそれができない。だからこそ、玲は自分の感情をどう扱ったら良いのか、そのヒントを探しに来た。
「直美さんにカウンセリングした時の経験が、今回役に立ちそうです」
と言ったが、すぐに沙羅は頭に手を当て、顔をくしゃくしゃにした。
「でも時間がないんですよね~」
この後、沙羅はすぐに子供たちを迎えに行かなくてはいけない。玲とじっくり話をする時間を持ちたくても、持てない。沙羅が無理をしない限りは。
「しかも、夫婦の悩みって…私も悩んでるし」
杏奈はシャツの袖に腕を通しつつ、沙羅を見て瞬きをした。
「…なんか、あったんですか?沙羅さん」
「ええ、ありますよ」
沙羅は何かを思い出したように、少し表情を曇らせる。
「あるといえば、たいていいつもあります」
さも当然、という顔で言った。
「向こうはたまにしか会わないことで、いつまでも新鮮な気持ちで居られるから、この生活スタイルも悪くないなんて言うんですけどね」
沙羅の夫・栄治は長らく単身で海外赴任している。家に帰ってくることは、年に二度ほど。
「冗談じゃない。こっちは仕事をしようと思ったら、いろいろと都合をつけなきゃいけないのに」
杏奈は着物をたたみながら、これはまずいなと思った。
「子供育てるのって、生半可な覚悟じゃいけないんです。それを毎日のように、ひしひしと感じていますよ」
しばらく、この部屋から出られない可能性がある。
「いや、いろいろな女性がいることを思えば、子供を育てられるのだって、ありがたいです。そこには、否定の余地はありません。でも、たまーに帰って来て、いつの間にか大きくなってるなーは、なくないですか?いつの間にかじゃないんですよ。私が毎日こつこつ、日々の積み重ねで─」
「あ、あのう…」
杏奈の声はかき消され、しばらく、沙羅の述懐が続いた。ラインをしても、テレビ電話をしても、何気ない夫の発言の一つひとつが、気になってしまうらしい。
「本当に、結婚前の状態を維持するって、とっても難しいですね!」
「はあ…」
「こういう綺麗な着物や、身体の線を出すヨガウェアを着ることで、なんとかかわいくない女になり果てずにいられると思ってますが…」
「さ、沙羅さんは、かわいいと思いますよ。二人のお母さんをしながら、ちゃんと綺麗ですよ」
杏奈がそう言って、ようやく沙羅は我に返った。
「…そ、そうですか?」
杏奈の言葉が、まんざらでもなく嬉しいらしい。
「ええ。小須賀さんだって、隙あらば、沙羅さんを口説こうとするじゃないですか」
その言葉で、一旦ぱあっと明るい笑顔になった沙羅の顔は、また曇った。
「小須賀さんは…当てになりません」
「…」
ふう、と沙羅はため息を吐いた。愚痴り過ぎたと思ったらしく、申し訳なさそうな目で杏奈を見た。
「すみません…こんな感じでさっきもね、自分のこと交えてお話してたら、玲さんとの話が長引いちゃって」
「ああ…でも、いいんじゃないですか。共感してくれる人がいたほうが、玲さんも…」
沙羅は目を細めて頷いた。
ピコン。
ピコン。
ラインの通知音がして、沙羅はスマホを取り出した。二人同時に通知がきたということは、あかつきのグループラインだろうか。
─リール一つ作りました
連絡を寄越したのは、羽沼だった。
─鞍馬ヨガ@神社の動画です。何日にアップすればいいですか?
「ヨガ風景のリール、作ってくださったそうですよ」
杏奈がまだ着物をたたんでいるので、沙羅が内容を読み上げた。
「助かりますね」
中盤戦も今日から佳境。
「羽沼さんて、ほんと絶好のタイミングで助太刀してくれてますよね」
と沙羅は言った。
「そうですね」
前半戦も、それで助けられた。
「基本的に穏やかだし、知識レベルも高いし、外遊びも得意だし…」
杏奈はちらっと沙羅を見た。やけに褒めちぎるが…
「羽沼さんこそ、いいお父さんになりそうじゃないですか。そういう予定、ないのかな…」
顎に指を添えて、沙羅は含みのある発言をする。
杏奈は少し心が揺れた。羽沼の秘密を知っているのは、自分と、小須賀と、美津子だけ。
沙羅が変な気を利かせて、羽沼に何かそそのかすことを言ったり、誰かを紹介したりするようなことがなければいいのだが…いっそ、ここらで沙羅にも、彼の秘密を伝えるべきなのだろうか。
「何日にあげますか?」
急に沙羅が話を戻したので、杏奈はその思考から引き戻された。
あかつきの投稿頻度は、一日一回と決めている。何日の投稿としてアップするか。それはさしづめ、その日に投稿する予定だった者が、一回分お役御免になることを意味する。一枚目の体裁を整えれば、誰の回と差し替えてもいいはずだった。
「沙羅さんか美津子さんの回でも良いですか?」
二人で相談して決めてほしい、と杏奈は言った。
─杏奈ちゃん、投稿ネタたくさん持ってそうだもんな…
一日二回施術がある日は、インスタの投稿まで手が回らないこともあるため、沙羅は土日に作業を進めることもある。が、子供たちが二人同時に大人しくしてくれる瞬間など、何分もないので、それすら厳しい。
─美津子さんの自由な時間を増やすのが、あかつき全体としては良いだろうけど、一回免除されたら助かるな…
沙羅は思案しながら、たたんだ着物をかごに入れる杏奈の様子を無心に見ていた。
この後、杏奈は着物を離れに運び、そこで干すつもりだった。前掛けは汚れたら洗うが、着物は使用頻度に応じて、三日から四日の間隔で洗濯をする。
「杏奈ちゃん、ちょっと痩せちゃったんじゃないですか?」
沙羅の頭からインスタのことが一瞬離れた。
「そうですか?そんなことないですよ」
確かに、仕事に熱中するあまり、食べ物への欲求が薄らいではいるが…それとも、連日夕飯がキッチャリーなので、一時的にそう見えているのかもしれない。
「美津子さんと杏奈ちゃんは、キッチャリークレンズに付き合わなくていいんじゃないですか?」
「まあでも…クレンジングの機会だと思って」
「今日もキッチャリーですか?」
「ええ。でも、昨日よりボリュームがあるやつで、副菜もあります。咲子さんは、今夜は断食されるので、他のクライアントの皆さま向けに」
沙羅は口を開け、少し頭を垂れた。
咲子は、美しくなって帰るために、いろいろな挑戦をしている。
「天体観測ができる施設があるらしいので、ごはん時に、美津子さんが咲子さんを連れて行ってくれるそうです」
「そうなんですか…その間、他のクライアントの対応は杏奈ちゃん一人で?」
「はい。でも、ご飯を出して、片付けをするだけですから」
やっていること自体は、家族の夕飯の面倒をみる主婦と変わらない。
─私たちは施術をしたら帰ってしまうけれど…
あかつきは、単なるアーユルヴェーダサロンではない。民泊を兼ねている。少しでもクライアントの期待に沿うように、美津子も杏奈も、プライベートの時間を割いている。
「ごめんね、杏奈ちゃん。私、瑠璃子さんや祥子さんに話す勢いで、あんな愚痴言って…」
結局、子を持つ母や夫婦の愚痴など、子を得たという幸福に立った上でのものなのだ。
杏奈の口から咲子の名前を聞いて、沙羅はそのことに思い至った。
花神殿までの夜の散歩は、あかつき大作戦中盤戦の間も続けられた。
「そうか。沙羅がそんなことを…」
夜道を歩きながら、美津子は笑った。
「それでも、今の男の人というのは、育児にも大分協力的になったんじゃないかしら」
永井に言わせると、そういうことらしい。永井の娘、恵里は、夫の良助のことをよく愚痴っているけれど、永井からしてみれば娘が甘えてるんじゃないかと思うほど、良助はよくやっているように見えるらしい。このあたりは、世代の差だろうか。
「けれど、家が休まらない場所だと、つらいわね」
「はい」
食事に、睡眠、余暇、家族とのふれあい…家は、最も親密な時間を過ごす場所だ。実家であれ、持ち家であれ、賃貸であれ…多くの時間を過ごす空間は、その人に影響を与える。家具、植物、におい、日当たり、音…そして、家にいる人からも影響を受ける。だからこそ、家は、快適で美しい空間にしなければならないのだ。
─家が休まらないと感じているのは、琴音さんも同じ。
杏奈は琴音のことを思った。
琴音は、劣等感に苛まれやすい性質で、昔から妹との差に悩んできた。親との関係性は、悪くはない。しかし実家には、妹夫婦がいて、その子供たちがいる。
帰る場所があるのに、帰れないと感じる。そのことが、ひどく寂しい。
─少し前までの…
自分に似ていると、杏奈は思う。
「一緒に暮らしている誰かが、自分に悪影響を与えていると感じたとしても…」
美津子が話し出したので、杏奈の思考は遮られた。
「実際には、家族の特定のメンバーだけでなく、自分にも問題がある場合が多い」
このような場合、まず第一に自分自身のバランスをとることに集中することが大切だ。自分のバランスを保つために必要な行動をとれば、周囲の人々の生活も向上するはず。
「周りの環境を変えたいという衝動に駆られる時、本当に望んでいるのは、自分の中の何かを変えること」
そうであるケースも多い。
「周りの人が有害だと思ったら、自分の中に有害なものがないか探す」
自分のバランスがとれれば、最高の自分になれるし、周りの人も良くなる。
夜の参道は暗く、昼間であれば視覚を楽しませてくれるもみじや楓の葉でさえ、今は見えないけれど、杏奈は今年の春、家族と一緒に見た桜を目の前にまた見た気がした。
杏奈はずっと、自分と家族との繋がりは希薄だと思っていた。人生のある段階─小学生の頃─から、家は安心できる場所ではなくなった。ずっとそれを親のせいにしてきた。
けれども、ようやく親に余裕ができて、親が杏奈に目を向けることができるようになった時でさえ、杏奈は親から目を向けられることを拒んだ。それで、自分は家族を拒んでいるのだと知った。そんな杏奈に、どうして親は一方的に歩み寄れただろうか。拒み、否定されていると感じていたのは、自分だけではなく、親も同じだった。そのことに、久しぶりに家族で桜を見に行ったあの日、杏奈は気づいたのだ。
たからといって、すぐに親との距離が縮まっているわけではない。けれど、少なくとも、その隔たりを親のせいにはしなくなった。問題を他責にしている段階では、一向に問題は解決できない。
参拝が終わり、そこから西参道まで、二人は言葉少なだった。もしかしたら美津子も、中盤戦が始まってからここ四日の間に見聞きしたことに対して、思いを馳せているのかもしれなかった。
「今日は新月ね」
ふと空を見上げて、美津子がつぶやいた。
木陰に覆われる西参道を出て視界が開けても、月明かりのない夜道は、ほとんど明るくならなかった。
翌日、杏奈と鞍馬は早朝から、四人を神社まで引率した。中盤戦に入ってから始めて、神社でのヨガレッスンを行うのだ。
「咲子さん」
参道を歩く途中、鞍馬は咲子にこっそり声をかけた。
「無理しないでくださいね。気分が悪くなったりしたら、すぐに教えてください」
咲子は昨夜、断食をした。もともとヴァータ体質の咲子は、無理な断食は勧められないので、特に気を遣ってほしいと、杏奈から頼まれていた。
しかし、この日の咲子は晴れやかな表情だった。
「大丈夫です」
いつになく体が軽くて、調子が良いようだ。
─やれやれ。
結果オーライだとしても、適性がないのだったら、断食なんかするなよと思う。そこまでして、咲子はなぜクレンジングしたいのか。
「先生は、あかつきの以外の場所でも、ヨガを教えているんですか?」
咲子は横に並ぶ鞍馬にそう尋ねた。
「はい」
「うふふ。人気、あるでしょう?」
「まあ、そうですね」
鞍馬は努めてさりげなく答えたつもりだったが、つい声が上ずってしまう。
「ヨガは良い運動です。体格のビハインドをあまり感じさせない」
「体格のビハインド?」
しまった、と鞍馬は思った。心の声がつい出てしまった。
「…僕、背が低いでしょ?」
言いかけてしまったことだ。鞍馬は少し、やけくそ気味に言った。
「ずっとコンプレックスなんですよ」
「そうなんですか…」
咲子は少し、眉尻を下げた。
「この前も、ジムの同僚が陰口を叩いているのを聞いて…」
と、言いかけて、さすがに鞍馬は口を閉じた。ネガティヴなことは、クライアントに話すべきではない。
「すみません」
鞍馬はふふふと笑ってごまかした。
横目で鞍馬を見ていた咲子は、顔を鞍馬の方に向けて、まっすぐにその目を見据えた。
「身長は低くても、鞍馬さんは完全な姿で、この世に生まれてきたじゃないですか。それだけでもありがたいことですよ」
目を細めながら微笑を浮かべる咲子に対し、鞍馬は、少し腹が立った。
─なんにも知らないくせに。
背が高ければ経験せずに済んだ悔しさを、鞍馬はこれまでたくさん味わってきた。
「生まれてきただけで、そのままで、素晴らしい存在なんですよ」
なおも続く咲子の言葉が、鞍馬には綺麗事にしか思えなかった。
咲子に不快な思いをさせない程度に軽く相槌を打ち、話を流しながら、鞍馬は勝手なことを言われて、やはり腹が立った。それに、自分は身長が低いという愚痴をこぼしていただけなのに、なぜ、完全な姿で生まれただの、素晴らしい存在だの、どこか哲学めいた話になるのだろう。
少し先を歩く杏奈のポニーテールが揺れるのを見て、鞍馬は思い出した。咲子がどうして、クレンジングに、とても一生懸命になるのか…
─でもそれって、そんなに重要なことなの?
若い鞍馬には、咲子がなぜ切実にそれを望むのか分からなかった。
咲子は自分のヨガマットを大事そうに抱えながら、みんなの後を颯爽と歩いた。
「みなさん、昨夜は月を見られましたか?」
レッスンの冒頭で、鞍馬はそんな質問を投げかけた。
「月が見えませんでしたよね。昨日は新月でした」
ひっかけ問題だ。一同はくすくすと笑った。杏奈は座敷の一番後ろに座って、みんなの様子を見守る。窓から廊下に向かって、咲子、琴音、玲、菜奈の順に座っている。
「月は僕たちの心に影響します。特に女性は、影響を受けやすいと言われています」
月がだんだん満ちていく時はアクティブ期、心という桶もまた水で満ちていく。桶が大きければいいのだが、入るスペースが少ないと、少し揺れるだけで、入っていた水が溢れてしまう。
「満月が近くなるにつれ、情緒的に不安定になる方もいます」
四人のクライアントたちは、鞍馬の方を見て、熱心に聞き入っている。
「新月の時にしたお願い事は、次の満月の時に叶うと言われています。もし、叶わなかったり、結果が出なかったりしたら、その願いを叶えるために努力してきたことは、やめてもいいかもしれません」
ぴくり。
と、咲子の片方の眉が動いた。しかし、杏奈も鞍馬も、その様子を見ていなかった。
「月がだんだん欠けて行く期間は、満月までにいっぱいにした頭の中、心の中から、いらないものを手放していく。そういう時期です」
月が欠けていく時は、浄化と再配列を支えるのに理想的な時期。物事を終わらせ、新しいものを取り入れるスペースを作る。
窓からの自然光のみを取り入れた、薄明るい座敷の中は、しんと静まり返っている。特別通る声ではない鞍馬の声が、壁を伝って驚くほど深みを持つ。
鞍馬は話し終えると、自然な笑顔を見せた。そんな鞍馬を、杏奈は、優れたヨガの指導者だなと思う。ポーズの解説をするだけでなく、こんな風に、レッスン前、またはポーズをとって静止している時に、いろいろな話をしてくれる。今の話も、女性の心に浸透するような、琴線に触れるような話だ。
鞍馬は胡坐の姿勢で座った。
「坐骨でマットを押すようにして」
とみんなに指示をして、真ん中でお手本を示す。
簡単なストレッチを終えると、次は太陽礼拝。
「足をそろえ、胸の前で合掌し、不安でなければ目を瞑ってください」
咲子は目を瞑った。しばらくそのまま動かなかった。
暖房はついていても、温まり切っていない座敷は、ひんやりしている。
大きな、しかし穏やかな声で鞍馬が呼び掛け、一回目の太陽礼拝が始まった。
「息を大きく吸って……」
合掌した手を上に上げ、両側から遠くを通って床に両手を下ろす。膝とお腹がくっつくくらい前屈して、それから膝と背筋を伸ばす。足を後ろに投げ出し、胸とお腹を同時に地面につけ、上体を起こす。それからお尻を高く上げ、ダウンドッグ(下向きの犬のポーズ)をする。
ダウンドッグで静止しながら、咲子は目を瞑る。
─本当はちょっと…
もう、諦めようと思っていたのだが。諦めた後、ダメだった後、どうして生きていこう…そういうようなことも、あかつきの人たちに話したいと思っていた。
けれど、あかつきの人たちは、今回は妊活の話をあまり出してこない。
太陽礼拝を五回。
鞍馬は水を飲む時間を与えた。マットの上に直立したまま、みんなの準備が整うのを待つ。
次のポーズは、トリコナーサナ(三角のポーズ)。
「深く呼吸しましょう」
一連のポーズを経て、マラーサナ(花輪のポーズ)。これは太陽礼拝でいうダウンドックにあたる、休憩のポーズだ。しかし、足首の硬い者にとっては、休憩のポーズといえどもつらいかもしれない。
─月と太陽のヨガ。
今日のテーマを、鞍馬はそう言っていた。
杏奈は写真や動画を撮りながら、鞍馬の指導に見入り、聞き入っていた。
月礼拝も、五回ほど繰り返す。
トリコナーサナでキープしている間、咲子は天井を見上げた。
─もし、叶わなかったり、結果が出なかったりしたら、その願いを叶えるために努力してきたことは、やめてもいいかもしれません。
鞍馬はさっき、そう言っていた。
─そんなのいや…
諦めたくない。
咲子は目を瞑った。
新しい月になる度に、咲子は願いを込めてきた。今回もリセットされたと分かる度に、もうこんな思いをするならやめてしまったほうがどんなに楽かと思ってきた。それでも、自分が待望の赤ちゃんを抱く夢を、何度も見て来た。
咲子は目を、硬く瞑った。
太陽礼拝のシークエンスに戻る。
「ポーズに呼吸を合わせるのではなく、呼吸に合わせてポーズを取るようにしましょう」
ダウンドックのポーズで、五呼吸ほど静止してもらう。それからまた、太陽礼拝を行う。
ぽたっ。
誰にも気づかれない、小さな音がマットの上に響いた。
鞍馬はクライアントの周りを巡回し続けた。
ある様子が目に入って、鞍馬は目を見開いた。
アルダウッターナーサナ(半分の立位前屈)をする一瞬の間、咲子の目からしずくが落ちるのを、遠目に見たのだ。
─汗…?
ここはそんなに暑くない。咲子は、どちらかといえば寒がりなほうだ。
インストラクションが、一瞬止まった。杏奈と、クライアントの何人かは、鞍馬を見た。
「…息をいっぱい吸って」
鞍馬は咲子から目を背けながら、なんとか元の流れに戻った。
次のインストラクションを考えながら、鞍馬は頭の片隅で、咲子の涙の理由を、直感的に捉えていた。
泣くほどポーズがきついのではない。
ダウンドッグに入った時、鞍馬はある懸念を抱いた。顔が下を向くポーズになる度に、咲子は、泣いているのではないか?
何かを捨てようとするのが難しいのか。
何かを拾い上げようとするのが苦痛なのか。
「両手でしっかりと床を押して」
鞍馬は声を張り上げた。
「足でも床を踏んで。かかとをできるだけマットに近づけて」
張りのある鞍馬の声に、杏奈はいつもと違う何かを感じ取った。
必要最低限の指示しか出さず、自分の内面を見つめる時間を設けていた鞍馬が、急に細かな指示を出すようになった。
─他事なんて…
考えさせない。
先ほどは、五呼吸ほどキープしていたダウンドッグも、ほとんどその時間を設けず、次の動きに進む。ペースを速めながらも、一つ一つのポーズで心がけるべきことがらを、今一度意識するよう、持てる全ての表現を出し尽くして指導する。
次のポーズからまた、月ヨガのシークエンスに入った。
杏奈は鞍馬の指導を目の当たりにしながら、彼の中で、何かが変化したことに気付いた。そして、彼はその心の求めに従って、クライアントの誰かに、自分の思いをぶつけている。
─気。
杏奈感じ取ったのは、「気」の変化だ。そして、鞍馬がシークエンスの速度を早め、みんなの熱気を鼓舞するようなインストラクションに切り替えた理由も、察している。
─今、わかった。
鞍馬と杏奈は、同時に、答えを導き出した。
スペースを作るということは、頭の中を、空っぽにさせることなのだ。
杏奈は、「空を作るヨガ」というお題を鞍馬に出しておきながら、自分でも、回答を探しているところだった。鞍馬もまた、課題を提示されながら、探り探りで、指導案を立てていた。
けれど、ヨガをしている時に、気付いた。
─頭の中を、空っぽにしろ。
確かに、体を動かすのに必死になっている間は、他事を考える余力はない。
みんなの体温が、確実に上昇している。静止している杏奈にも、周囲の熱気が伝わってくる。
「最後のダウンドッグです」
静かに、でも確実に全員に行きわたる声で鞍馬が呼び掛ける。
「腰をおろし、仰向けになりましょう」
ようやくシークエンスが終わり、クライアントたちはどこかほっとした様子で、マットに仰向けになれるのがひどく嬉しそうだった。
「お疲れさまでした」
クライアントたちは起き上がって、達成感を静かに味わっていた。
知らない間に、鞍馬の額には、汗が球のように浮き上がっていた。
鞍馬が汗に濡れた前髪を左右にかき分けた時、杏奈の目に、鞍馬はこれまでよりずっと輝いているように見えた。
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