2018年4月~2019年1月末まで働いていた、東京蒲田のアーユルヴェーダカフェDidean(ディデアン)。
本稿では、この職場で得られた教訓、エピソードなどをお伝えします。
アーユルヴェーダカフェDidean(ディデアン)・東京蒲田
東京蒲田、ホテルの1階にDideanはありました。
ホテルの1階ということで、朝はホテルの朝食担い、昼はスリランカ料理レストランとなるという、変わった形態でした。
お店としてのディデアンについては、こちらの記事で詳しく書いています。
>>【スリランカワンプレートランチ】アーユルヴェーダカフェディデアン│蒲田
しかし、当店はコロナの影響で、2020年6月に閉店してしまいました。
仕事を辞めてからも、遊びに行ったり、お店を手伝ったりしていて、いつでもそこに在る癒しの空間と思っていたので、とても残念でした。
このレストランで働いていた頃は、しんどくて、人間関係もいろいろで、手湿疹にもなり、生理不順にもなりと、とても楽しくは仕事をできていなかったのですが、
転職した頃から、懐かしく、いろいろあったけど楽しかったと思えるようになりました。
だいぶ前の記憶にはなるのですが、この職場で学んだ教訓を書き留めておきたいと思い、このブログにてお伝えすることとしました。
以下、個人的な主観により書いています。
Dideanで得た教訓
Dideanで学んだことはたくさんありますが、以下4つにまとめました。
- 学ぶためではなく、お客様・お店に貢献するために働く
- お客様を見る
- 一つひとつに気を込める
- 楽しむ
具体的にどのようなことかお伝えします。
学ぶためではなく、お客様・お店に貢献するために働く
お店のコンセプトの理解
会社の理念に共感しているということは、とても大切なことです。
これについて、サティア(正直)でなければいけません。
でなければ、その職場で働いていても、自分がしたい貢献は、できないからです。
アーユルヴェーダカフェと名前がついているので、私は最初、アーユルヴェーダの教えに基づいて、何もかもが組み立てられていると思っていました。
- アーユルヴェーダの要素が入った料理がある
- アーユルヴェーダをよく知るスリランカのスタッフにより、内装や料理が考えられている
この点ではそうだったかもしれません。
当時、私はアーユルヴェーダ料理教室を創立したばかりで、人にアウトプットをしつつ、負けないくらいインプットをしたいと考えていました。
そのため、学びの場として、Dideanを見ていました。
アーユルヴェーダの根付くスリランカの、食事の知恵を、働きながら学べると思っていたのです。
けれど、店主が大切にしていた思いは、もっと一般的なものでした。
- 料理で人を楽しませたい、元気にしたい
- アーユルヴェーダや薬膳が目当てじゃなくても、この店の料理を食べて、ちょっとそういった目線で料理を見るきっかけになったら嬉しい
という思いの方を、大事にされていました。
ガツガツと、アーユルヴェーダを感じにくるのではなく、食事を楽しむ中で、少しアーユルヴェーダの知識が垣間見られれば。
多くの人に来てもらえるよう、手を広げているお店だったのです。
アーユルヴェーダを学んで、お客様にフィードバックをするスタッフであるに越したことはないのですが、
それ以前に、人を楽しませる食事を提供できるスタッフでなければならなかったのです。
けれど、当初私は、「学びたい」という気持ちが多く、お客様に時間をかけることよりも、自分のスキルを上げることの方に気持ちがいってしまっていました。
お店のコンセプトと、自分が大事にしていることとの乖離があったので、当時は、何をしていても、少し不満が残りました。
地道な試行錯誤の中からでしか学べない
私が大事にしていたことは、自己本位の要望でした。
アーユルヴェーダ料理をもっと学びたいという。
けれど、お店からすれば、アーユルヴェーダ料理を学んだ上で、それをお店の仕事に活かし、お客様を感動させて始めて、仕事になったわけです。
当たり前なのですが、職場は学校ではありませんでした。
また、少人数精鋭というお店の態勢の関係で、下積み修行、きっちりした研修のようなものがなく、それぞれが自分で学び、店主に意見を求め、改善を繰り返す形で進化を遂げていました。
やっているうちに、レストランで毎日同じものを作るよりも、毎回違う材料を自分で買って、いろいろなレシピに挑戦して、自分で食べて……を家で何度もやっているほうが、よっぽど新しいことができるような気がしていました。
私は、ただスキルを上げるためだったら、バイト先を、本業に絡んだところにしなくてもよかったのだと気づきました。
正直、それでもまだ学ぼうと、自己本位の姿勢でしばらく働いていました。
お客様や雇用主の求めていることに気づき、それに合わせたサービスや知識、技術、労働力を提供することの方が、アーユルヴェーダ的な実践であると納得できたのは、
実は、お店を辞めて、冷静にみられるようになってからのことです。。
アーユルヴェーダ料理とは何か
とあるグループでのラインでの会話の中に、
「Dideanはスリランカ料理店ではあったけれど、アーユルヴェーダ料理だったかは分からない」
という発言がありました。
(そのグループはDideanとは無関係で、私はグループに入ってはいますが、元従業員であったとは明かしていませんでした)
アーユルヴェーダ料理だったか分からないとはどういうことだろうと思いました。
なぜなら、私の考えでは、アーユルヴェーダ料理とは、食べた人の健康を維持し増進する料理です。
どんな料理でそれが可能かは、人によっても、同じ人でも時々で異なります。
季節の食材は変われど、基本的に誰に対しても同じ食事を提供するレストランで、誰にでも当てはまるアーユルヴェーダ料理の提供はほぼ無理だと思っています。
私の料理教室でだって無理です。
台所に立つ人が、家族の様子を見て、こんなのがおおよそいいだろうと考えて作る料理しか、アーユルヴェーダ料理にならないのです。
Dideanの料理はスパイスたっぷりのスリランカ料理であり、おそらくLineで発言した方のイメージにあったのであろう「体に優しいベジタリアン料理・アーユルヴェーダの流れだけを反映しているスリランカ料理」ではなかったかもしれません。
が、店主のコンセプトである、料理を通して人を喜ばせること、元気になってもらうことを念頭に置いたスタッフが、毎日火を加えている気持ちのこもった料理でした。
レストランで私たちができる最大のアーユルヴェーダの実践とは、あるものの中で、どのような料理をおすすめできるか、どのような食べ方を提案できるか、
一人ひとりのお客様に合わせて考え、お伝えすることでした。
そもそもアーユルヴェーダとは、個々の体質を見て、その人をより心地よくする方向に誘う何らかの取り組みを行うことではないでしょうか。
ご来店いただいたお客様を楽しませることは、当時私が熱心に取り組むべき課題だったのですが、できていた自覚はありませんね。。
実は雇用主に対しても、同じ姿勢で、どのような仕事をすることで、貢献できるか考えなければならなかったのですが、これもまたできませんでした。
だいたい5年も総合職として働いていて、仕事とはどういうものか分かっていなかったのかと思います。。
個人経営の、小さな世帯で学べることの方が、すぐに自分の働く姿勢の良し悪しがフィードバックされるので、怖いけれど、良かったんじゃないかと思います。。
ゴニョゴニョ。。
お客様を見る
私は接客が、大の苦手。
だいいち、人と話すことが小さいころからあまり好きじゃありませんでした。
それまでのバイトも、せいぜいカウンターからファーストフードやコーヒーを出すものばかりで、楽したい時は、冷徹な機械マシーンのように働いていました。
Dideanの接客は、でも、そうはさせてもらえませんでした。
「どんなお客さんだった?」
「どこまで食べ終わってる?」
「急いでる感じだった?」
「たくさん食べそうな人?」
先輩から次々に質問されます。
私はそれに答えられません。
お客様を見ていないからです。
見たくないのではなく、人との間に壁を作ってしまう性格なので、そっと距離をおいて、見てみないふりをしてしまうのです。
だから困りました。
もう一度見てこなければなりませんし、同じことを尋ねられた時のために、次来るお客様のことはよく見ていなければなりません。
厨房のスタッフからは、ホールの様子は見えません。
けれど、料理をつけ分けたり、新しいものを準備する厨房のスタッフとしては、
「常連客でサービスを出した方がいいのか」
「もうデザートの準備に入っていいのか」
「タイミングよりとにかくスピードを求められているのか」
「ご飯をどのくらい盛ったらいいのか」
これをホールのスタッフから伝えてほしかったわけです。
「サービスメニューはサービスだから出さなくても怒られないし」
「デザートはちょっとくらいぬるくなっても分からないし」
「料理を早く出してほしかったら言うだろうし」
「ご飯の量の融通もサービスの域に入るし」
できればいいけれど、できなくてもクレームにはならない。
でも、もしできれば、より満足感を抱いていただける。
気の利くスタッフであれば自然にできることだったのですが、私は気が利かないのでぼーっとしていて、あまり気にかけられませんでした。
「洗い物とかは後でいいから、お客さんを見てて」
先輩から言われても、お客さんの何を見ていたらいいのかよくわかっていませんでした。
じろじろ見てたら嫌がられるし、店員がうろうろしていたらうざくない?
だから、さりげなく、自然に、何かをしながらニーズをつかむという技を身に付けなければならなかったのですが、私にとって難しい技でした。
「あの人は強面に見えるけど、実は構ってほしいタイプの人だよ。料理の説明もちゃんとした方がいいよ」
常連にともなると、このような特徴を私に教えてくれる先輩にはかないませんでした。
一つひとつに気を込める
中医学や薬膳からアーユルヴェーダに入っているオーナーは、事あるごとに「気」という言葉を使いました。
サンスクリット語の「プラーナ」がこの「気」に当たります。
エネルギーの流れです。
これを、一つひとつに込めろというのです。
紅茶のエピソード
お店をクローズした後、お店のスタッフから「紅茶を入れて」と言われました。
片づけをしながら紅茶を出すのです。
茶葉の量、紅茶の抽出時間、この2つのどちらが間違っていても、最高の紅茶は淹れられません。
「渋くなったね」
と言われました。
「気を込めるんだよ。何かをやりながらでも、最高の紅茶を入れて差し上げたいという気持ちがあれば、そこにずっと気が入って、時間を忘れないはずだよ」
身内だからと気を抜いていたら、テストされていました。
「気」が大事なんですね。
確かに、料理のおいしいおいしくないの微妙な違いって、そういうわずかな差から生まれますものね。。
こうやって文章にしてみると、改めて、日本人が「気」をいかに大事にしていたかが分かります。
気合い、気持ち、気を抜く……
いろんなところに、気を使わないといけないんですね。
楽しむ
私は朝のホテルモーニング、昼のスリランカランチと、両方を担っていました。
途中から、ランチメインになりましたが、切り替えのタイミングでは助け合うことが大事なので、朝のことにも関与したり、昼の準備を助けてもらったりしていました。
朝の仕事、昼の仕事。
それぞれに違うスタッフがいて、料理も異なっていて、来るお客様や、お店の雰囲気も異なる。
両方味わえて、とても楽しかったです。
楽しかったのですけれど、当時はとにかく仕事が身についていなくて大変で、余裕をもって会話を楽しんだり、冗談を言われて笑うなんてことができませんでした。
「こなさなければ」
と思っていました。
特にブラックジョークが苦手で、からかわれたりすると、自分がけなされたり叱られたりしているものと思い、真面目にどういうことですかという顔をしてしまいました。
しんどそうにしているので、よく「楽しんでね」と言われていました。
しかし、当時は無理。
辞めてから、それでも時々手伝う時に、「あ、やっぱり楽しかったんだ」と気づきました。
一歩引いてみると、この人って面白いよなとか、ちょっと面白いから観察していようという余裕が出てくるのですが、この時間の責任者は自分だと思うと、それができなかったのでしょうね。
私が料理教室ができているのは、私がオーナーで、失敗しても自分に返ってくるからですね。。
真面目にストイックになってしまう人ほど、実際は楽しめなかったとしても、楽しむ目線をもつのに慣れておくのは重要だなあと思いました。
よく考えたら、ゆったり会話を楽しむお客様の雰囲気も、店内を流れるDVDも、優雅な食器たちも、たくさんの癒しを与えてくれるものばかりに包まれたお店だったのに……
もっとあの空間と雰囲気を、会話を楽しみたかった。
以上、もう帰れないお店を思い出しながら、書かせていただきました。
現在の仕事では、このお店で得られた教訓を生かして、精進していきます。