第76話「アレルギー」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「食事の時間をずらしていただけませんか?」
 愛梨が美津子に直談判してきたのは、彼女があかつきに滞在して二日目の夜だった。
 美津子は愛梨と真正面から向き合いながら、動揺を見せることはなかった。
「杏奈」
 朝六時前。台所に立つ杏奈に、美津子は後ろから声をかける。
「食事の時間をずらすんですか?」
 起きて間もない杏奈の声はかすれて小さく、少し困惑した響きがあった。
 七月七日、七夕。
 この日滞在しているのは、愛梨とその息子の善心、それから一花という若い女性の二組。食事の時間をずらすことは可能だが、あまり効率が良いとはいえない。
 この特別対応の理由が必要になった理由は…。

 愛梨は昨日の朝、一緒に食事を摂っている一花の皿を見て、ぎょっとした。
─一花さん、パンは食べないんですか?
 一花は、あかつきが特別に用意した米粉パンを、二口ほどかじったものの、大部分を残していた。
─あー、最近糖質は摂らないようにしてるんで。
 一花はそう言って、首をすくめて、ニコッとしてみせた。
 思えば一花は、昼食も、夕食も、自分が摂りたくない料理は、量を減らしてもらったり、残したりする傾向があった。
 あかつきにとって、一花は新規のクライアント。名古屋市から一人で、あかつきに滞在しに来ている。年齢は二十七歳。もともとフリーのヨガインストラクターだが、最近ではパーソナルボディメイクトレーニングを行っている。ボディビルドにハマり、大会に出場したこともあるのだそうだ。そういうわけで、一花は食べ物に気を遣っている。特定の質の料理を避けているからといって、別に悪意があるのではない。
 愛梨は、けれど、皿の上に残された米粉パンの残骸を見て、涙が溢れそうになった。
─なんでも食べられるのに、食べるものを選べるのに、どうして、それに感謝しないんでしょう。
 愛梨は美津子に話すと、唇をぎゅっと結び、苦々しい表情をしていた。
 一時の安寧を求めてあかつきにやってきた愛梨。たとえ数回、数時間でも、愛梨の心が揺れ、ストレスがかかるのならば…
「仕方ありませんね」
 美津子から話を聞き、杏奈は時間をずらして料理を提供することにした。
 朝から重い話を聞き、眠気もどこかへ行き、不必要に頭が冴えてしまった。

 愛梨は静岡県葵区からやって来た新規のクライアント。二児の母、社会労務士をしている。現在仕事は週に二日か三日だが、家事と育児もあり、簡単に言えば、疲労困憊している。
 育児上のストレス要因の一つは、長男と長女の食物アレルギーである。五歳の善心は、小麦、卵、乳製品、ナッツ、えび、カニにアレルギーがあり、三歳の娘は卵アレルギーである。そして善心は、アレルギー性皮膚炎の疑いがある。
 善心は去年、食物経口負荷試験で、小麦アレルギーが解除になりそうなところまできた。しかし、寒く、乾燥する季節に変わると、赤く乾燥した発疹が出て、それが全身に広がってしまった。かゆがり、夜通しうなされながら、かいてしまうという事態に陥った。皮膚科で処方された塗り薬やかゆみ止めの薬を用いていたが、それでも、寝苦しい夜があった。
 愛梨はなんとか息子の気をまぎらわそうと、夜中でも懸命に看病を行っていた。
 愛梨たち夫婦は最近、葵区に家を買ったばかりである。なんとか子供たちに良い影響があればとの思いで、住環境を変えた。街中を離れ、交通の便は悪くなったものの、その分地価が安い所を選んだので、小さいが庭つきだし、以前よりも周りに自然が多い。床はフローリングにして、頻繁に布団を干せるようになった。
 しかし、それから息子の皮膚炎がさらに悪化してしまった。
 新しい土地は、愛梨にとっても住み慣れず、知り合いも少ない。仕事は続けていたが、以前よりも通勤に時間がかかるようになり、持ち場も変わったので、いろいろな変化に一度に対応することになった。
 というような具合で、精神的に不安定な状態が続き、ある時、何かの理由で夫と大喧嘩をしてしまう。
 愛梨は、そもそもこんなに一度にいろいろな変化を起こすきかっけとなった、息子のアレルギー体質に向き合いたいと思い、様々な情報を調べた。その時、アーユルヴェーダと、あかつきのことを知った。
 息子のアレルギーの改善にヒントを得られればと思い、娘を夫に預け、二人で滞在することを決めたのだ。それとともに、愛梨には苛立っている自分を落ち着け、少しでも体を休めたいという気持ちがある。
 しかし、一花と一緒に食事をすると、どうしようもなく、苛立ちや理不尽さを覚えてしまうのであった。息子が食べたくても食べられなかったパンを、一花はやすやすと残してしまったのだから。
 事前コンサルの時に、愛梨は美津子に尋ねた。
 なぜ息子はこんなに食べられないものが多く、アレルギー体質になってしまったのかと。
 善心は生後三か月の時点では、乳児湿疹というにはひどすぎるくらい、皮膚がぼろぼろになっていたそうだ。
─アレルギーは、人生の早い段階で発症します。
 その時、杏奈と沙羅も事前コンサルに同席していたが、質問に答えたのは美津子だった。
─受精時の両親の状態が影響することもあります。
 体内毒素(アーマ)、過剰なピッタが影響を及ぼす。妊娠中の母親が有毒なら、胎児に多くの抗体を送るかもしれない。アレルギー体質は出生前であっても赤ちゃんの体で始まる可能性がある。
─アレルギーは、免疫力と抵抗力が弱い状態です。
 これを取り戻すためには、アグニを整え、ドーシャを整え、プラーナ、テージャス、オージャスが育まれる必要がある。
─アレルギーには、感情的抵抗やストレスも関係しています。
 最近、事前コンサルの議事は、沙羅が取るようになっていた。出勤可能日数が増えたため、新しい仕事を割り振られるようになったのである。
 アーユルヴェーダのことをよく知らない愛梨は、困惑顔で、画面の向こう側にいる美津子たちを、ただじっと見つめていた。助けを求めるような目をしていた。
─食べ物や感情、経験を消化する力が弱まっていると、免疫力が低下し、アレルギー体質からの脱却を妨げる可能性があります。
 美津子は、いつも通りのゆったりとした口調で言った。
 愛梨は不安げな表情のまま、質問を重ねた。
─感情や経験というのは、子供たちが強いストレスを感じているということでしょうか。 
 成長期の子供には、食べられるだけ食べ物を与えたいと思っていた。食べ物を消化する力のことなど、考えたこともなかったが、感情や経験の消化などはなおさらだった。子供がそんなに強いストレスを感じているとも、考えられないのだが。
─だって、善心は、生後三か月の時にはもう、アレルギーっぽい感じだったんですよ。
 生後三か月の息子が、どんなストレスを抱えるというのか。
─ストレスにも、いろいろあります。
 少し感情的になりはじめた愛梨とは対照的に、美津子は寄り添うような視線を向けながらも、粛々と考えを述べた。
─季節が移行するだけで心身に不調を来し、すごくストレスを感じる人もいます。
 都会の空気に我慢できない人もいる。肌に身に着けるものが、不快に思うこともある。
─遺伝的要因も、関わっていますが。
 愛梨自身には食物アレルギーはないが、花粉症があり、ストレスが溜まると皮膚が痒くなる。夫は昔卵アレルギーで、今は改善している。夫も疲れが溜まると、局所的に肌が荒れる。
 素因はあるのである。
─大切なのは、アーマを溜めないこと。アーマというのは毒素のことです。毒素が溜まる原因を根本的に排除することです。
─具体的には、何をすればいいんですか。
 愛梨は、答えを知りたがった。
 杏奈と沙羅は、沈黙していた。誰にでもあてはまる、決定的な答えなど、ありはしない。
─この難しいケースに対し、どう対応するのだろう。
 杏奈も沙羅も、固唾をのんで見守った。
 美津子は愛梨に、健康日記を書くことを勧めた。アレルギー反応と、生活習慣、食べ物、その日起こったこと、対人関係などとの関連性を追うためだ。
─アレルギーの原因について私が言ったことに対して、どう思った?
 事前コンサルが終わってから、美津子は二人に尋ねた。
─納得できないんじゃないでしょうか。
 沙羅はそう答えた。
 遺伝性があるということは分かる。しかし、ともすれば受胎前と妊娠中の彼女を責めているようにも、受け取られかねないことを言っていた。
 沙羅は、以前、美津子から課された臨床研究で、アレルギーのクライアントの事例を勉強したことがある。受胎時の状態が影響することも知識としては知っていた。でも実際のクライアントを前にしたら、その時のことに言及するだけの意味があるとは思えなくなった。
─妊娠中のアーマが、ピッタが…と言われても、その時に戻ることはできません。
 愛梨が、他の人と比べ、特別悪い生活習慣だったようにも思えない。
 ではなぜ、他の人の子供はアレルギーがなく、自分の子供はアレルギーがあるのか?
─受胎時のことを今更言われても、嫌な気持ちになるだけ。
 沙羅の意見はもっともだと、杏奈は思った。美津子は、決して愛梨を責めたのではないということも、分かっているけれど。
─どのくらい乱れれば影響を受けるかは、個人によって違う。
 他の人に比べて愛梨が健全な状態であったとしても、ほんのわずかな乱れであっても、影響を受ける場合がある。それが、個性というものだ。
─具体的に何をすればいいのかと聞かれましたが、抜本的な改善策が、私には分かりませんでした。
 杏奈は正直に言った。
 食事を改善する、寝具を変える、ストレスの原因となることを避ける…小さな努力はすることはできるし、今もやっているだろう。でもそれで、アレルギー体質を改善するほど、免疫力の強化が期待できるだろうか。
─ここに来る人たちは、みんなそれを聞きたがる…。
 即効性のある解決策を。
 しかし、健康に関する質問票を見て、事前コンサルをしただけでは、美津子にも確かなことは言えないのだった。
 ともかくも、愛梨と善心の滞在中の食事は、特別なものとなった。アレルゲンを除くのはもちろんのこと、アレルゲンではないとしても、アレルギー反応を起こしやすくする食物の一切を除いた食事を用意することとなった。
 沙羅がアレルギーの事例をもらったのと時を同じくして、杏奈はアレルゲン特定原材料を除いた食べ物の試作をするようになった。主におやつやパンの代替となる食べ物だ。
 なんでそういう食べ物の試作をしたのかというと、いつかクライアントに、おやつから離脱するための第一歩として、おやつ感はあるがよりヘルシーなおやつを提案するためだった。
 その試作を進める中で、アレルギー体質を底上げする要因について、自己学習ではあったが、知識を得た。その時の学びが、今こうして活かされようとしている。
 杏奈は朝食を作りながら、改めてあかつきのキッチンを見回した。
 様々な米類、雑穀、穀物のパウダー。たくさんの種類の豆、お茶やハーブ。小麦、卵、乳製品、ナッツ、大豆のような、主要な食品を使えなかったとしても、それだけが、食品の全てではない。ここには、代替できる可能性のある、多くの、ユニークな食品がある。彼らの味方になってくれるだろう。
 台所にある様々な食材を眺めながら、杏奈は心強さを感じた。

 朝七時前。
 鞍馬が書斎に入ると、そこには先客がいた。ネグリジェのような、ルームワンピースに身を包んだ一花だった。体が細く、手足が長く、茶色っぽい髪が背中にふんわりと流れている。
 書斎のソファに座って、机に本やノートを広げ、何かを勉強していた様子。
「おはようございます」
 鞍馬は一花に挨拶をした。一花は鞍馬に視線を向けて、にっこりと笑った。細く小さな顔に、大きな目をしている。
「あと十分で始めますよ」
 そのネグリジェでは、ヨガはできまい。鞍馬は暗に、着替えてくるよう促した。
「はぁい」
 すでに慣れ親しんだ場所であるかのように、書斎を占領していた一花だったが、鞍馬にそう言われて足取り軽く二階へ上がっていった。
 立ち上がると、一花は鞍馬よりも背が高い。鞍馬はだから、一花が立ち上がる度にちょっと落ち込んだ。
─あと五センチでも、背が高ければな…
 自分のコンプレックスをひしひしと思い起こされる。
 鞍馬と一花は、昨日一昨日とヨガレッスンで顔を合わせただけだが、もうすっかり打ち解けている。
 綺麗な女性だから、今まで人に褒められ、ちやほやされ、卑屈になることなく生きてきた。一見、そう見えるのだが、美津子たちから一花のプロファイルを聞いている鞍馬は、人はそう単純ではないことを思い知った。
 鞍馬は居間にヨガマットを広げて、ウォーミングアップをしながら、クライアントたちを待った。先に居間にやってきたのは一花。黒いヨガ用ブラトップに、淡いピンク色の七分丈のレギンスを合わせている。体の線が完全に分かるヨガウェアだが、一花は若い鞍馬の前に出ても、一向に恥ずかしそうな様子はなく、堂々としている。
 鞍馬もまた、そういう一花の様子を見ても、はにかむでもなく、いたってナチュラルに相対している。
「何の勉強をしてるんですか?」
 と、一花に尋ねてみる。一花は先ほど、勉強をしているように見えた。
「解剖学の勉強だよぉ。お客さんにしっかり、解剖学的にポイントを言えるようになりたいんだよね」
 意外と真面目らしい。
 一花は長い髪を後ろで一つに結んだ。
 一花はフリーランスだが、顔が広く、企業やヨガ仲間の紹介で、仕事の案件は途切れることがないという。
─大変だけど、そんなに苦でもないかな。楽しいんだ。私、ヨガ大好きだから。
 昨日、ヨガの後で一花と話をしていた時、一花はそんなふうに言った。
─ヨガインストラクターになってから、やっと、自分の人生を生きてる、楽しめてるって思えるようになったんだ。
 一花は高校時代、引きこもりがちだった。躁鬱だったのだという。
─朝鏡を見て、ああ、今日ぶすだなって思うと、学校に行くのも、なにもかもが嫌になった。
─ぶすねぇ…
 美人には美人の次元で、悩みがあるものだ。
─目が腫れぼったくて一重になっているだけで、死にたくなった。
 それは話を盛り過ぎではないか。鞍馬は、一花の当時の心境を計りかねた。
─へへ。私のは病気だから。
 理解できなくても無理はないよ、と一花は言った。
 一花が躁鬱だったとは、鞍馬には想像がつかなかった。あかつきでの朝ヨガで、ほんの三十分ほどしか顔を合わせていないが、基本的にこの人は笑顔で、明るい。
─みんなそう言うよ。基本、ハイだからね。
 それは、極端に一方に振れているということで、逆に極端に鬱に振れることもあるのだという。前より気分の差はなくなったが、調子に乗りすぎていると思ったその直後、一気に落ち込むこともある。
─感情のコントロールが相変わらず苦手なんだよね。
 しかし、一花があかつきを訪れた理由は、そういう精神的な問題の解決を求めてのことではなかった。単純にアーユルヴェーダのトリートメントを受けて、体をより美しく、健やかにしたいという気持ちからだった。
 次に居間に入って来たのは美津子。クライアントが二人以上いると狭いので、美津子はマットを敷かず、子連れで参加する愛梨の補助のために同席している。
「あら、一花さん…今日も決まってますね」
 美津子は、「露出が多いですね」と喉元まで出かかったが、それを飲み込み、別の言葉を選んだ。
「肌出したほうが、お客さんの反応がいいんで、こういうウェアばっかりになっちゃいました」
 一花は小悪魔的な笑みを浮かべてそう言った。
「仕事の依頼、写真見てする人が多いし…」
「僕が働いているジムでも、お腹出してるインストラクター多いですよ」
 鞍馬も、露出があることには否定的ではないようだ。
─そういうものか。
 露出が多い、などと言うのは老婆心だろうか。言わなくてよかったと、美津子は思った。
「体作り大変ですよね」
「そうなんだよ。いつもはあんまりご飯とか、炭水化物系摂らないで、筋肉作るもの食べようって意識してる」
 一花の偏食は、仕事柄の配慮なのであった。
「そのくせ、お菓子いっぱい食べちゃうんだよなぁ」
 一花はそう言って笑った。
「アイスとかやめられない」
「プロテイン入りのやつ、この間食べましたけど、割とおいしかったですよ」
「え?本当?どこのやつ?」
 二人が盛り上がっているのを傍で聞きながら、美津子は一花の今の発言を、愛梨が聞いていなくてよかったと思った。
 しかし、一花にとって自分のスタイルを磨くことは、仕事上の必要性以上に、自分を好きでいるために必要なことなのだろう。
 何を食べるべきかは、その人の果たしたい目的によっても、異なるものだ。
 一花は、その日の昼食の後、あかつきを去った。
 
 愛梨は、午前中にしっかりとしたトリートメントを受ける。午後は善心が昼寝をしたタイミングで、軽いマッサージを受けたり、善心と一緒に体験できるアクティヴィティに参加する。一昨日は、畑仕事を手伝ってもらったし、昨日は明神山の花神岩まで行って帰ってきた。
 善心にはアーユルヴェーダのトリートメントは行わない。ハーブオイルが身体に合わないこともあるので、やるとしても、ホホバオイルを塗るくらい。
─パンチャカルマはできないのでしょうか?
 愛梨は予約段階で、滞在プランを決定する際、そう質問をしてきた。善心にデトックス法をあてがい、体内毒素を排出させたいと思っていたのだ。
─断念ながら、パンチャカルマの処置は、あかつきでは行えません。
 それに、善心は非常に若い。短期間のパンチャカルマが功を奏する時というのは、患者に体力があり、病状が軽い場合だ。たとえインドやスリランカと同等の処置ができたとしても、三泊四日という短い期間で、満五歳の善心にパンチャカルマは厳しい。
 だからせめて、自然に触れたり、普段は食べられないものを食べたりして、楽しんでもらいたい。なにより、愛梨がリラックスすることによって、穏やかに、母子の時間を豊かなものにできる。
 この日の午後は、愛梨と善心向けに、杏奈が料理教室をすることとなった。
 善心が早めの昼寝をしている間、杏奈は健康日記を活用し、愛梨たちが普段食べているものを振り返ってもらった。
「おやつに、ポテトチップスを食べることが多いですか?」
 杏奈は愛梨に尋ねた。書斎のテレビには、パソコンの画面─愛梨が記入した健康日記─が映っている。
「はい…アレルゲンが使われていないお菓子って、市販品では少ないんです」
 この健康日記はオンライン上で編集可能であり、愛梨と、あかつきのスタッフに閲覧・編集権限が付与されている。杏奈が健康日記の活用を美津子に提案してから、最初に試験運用が適用されたのが、愛梨だった。愛梨は自分が食べているものとは別に、善心が食べたものも毎日記入してくれていた。
「食べられるお菓子が少ないので、ポテトチップスくらいはと…」
「甘いものは、ゼリーや、グミをよく食べるんですね」
「はい。七大アレルゲン不使用のものを定期購入してます」
 善心の場合、いろいろな食品にアレルギーがあるので、買える商品が限られている。
「お菓子は食べたがる年頃なんですよね。保育園でもおやつの時間があるんですが、乳、卵、ナッツは対応していても、小麦は使うことが多くて」
 米粉のお菓子が出る時も、えびやかにを使っている煎餅などは、与えられない。愛梨はおやつを家から持参させていた。
「でも毎回同じようなものだし、みんなと違うものを食べてるから、そういうのはストレスになっていると思います」
 愛梨は喋りながら、美津子が感情の消化も大切だと言っていたことを思い出す。
「私はお菓子作りが上手じゃありませんし…」
「仕事もしているので、毎回手作りは難しいですよね」
「はい。でも、こちらでアレルゲン不使用のお菓子を教えていただけると知り、楽しみにしていました」
 杏奈は、自然と頬が綻んだ。
「作ること自体は、レシピがあればできますので、あとで善くんと一緒に楽しんでやりましょう」
「はい」
 杏奈がここで愛梨に伝えたいのは、レシピの意図─主に食材の選び方─である。たとえアレルゲンがなかったとしても、お菓子はお菓子である。安く出回っているお菓子に使われている油や砂糖は、良質なものでないことも多い。酸化した油や砂糖、添加物は、消化力を弱める。
 一方で、お菓子は心の豊かさをもたらし、人生を楽しくするもの。善心のような年頃の子供にとっては、大切なエネルギー源でもあった。
「でもアレルギー体質であれば、使う食材には気をつけたいですね」
 今日作るのは、型抜きクッキー。杏奈はレシピを見せつつ、それぞれの食材と、アレルギーとの関連性について伝えた。
 
・ラギ粉
・オートミール粉
・大豆粉
・ココアパウダー(無糖)
・塩
・ココナッツオイル
・メープルシロップ

 これが今回作るクッキーの原材料である。
「普通、クッキーには粉の重量の半分程度の油を使います」
 そのため、たくさんクッキーを食べていると、油をたくさん摂ることになる。
「アレルギー体質の場合、油の質には注意が必要です」
 クッキーによく使われている油は、バターや、植物油。市販の安いクッキーなどは、ショートニングが使われていることも多い。
「油の中には、アレルギー疾患の悪化が引き起こされる可能性があるものもあります」
 それが、多価不飽和脂肪酸(n-6系脂肪酸またはω6脂肪酸)の一つ、リノール酸。
「植物油を使ったお菓子はヘルシーと考えられがちですが、注意が必要です」
 愛梨は唇を結んで、パソコンに表示されている健康日記を見た。
「うちでは、オリーブオイルと米油をメインに使っているのですが、それもリノール酸ですか?」
「油は、一つの脂肪酸だけでなく、複数の脂肪酸で成っているので、たとえば米油イコールリノール酸ではありませんが、米油はリノール酸が多いです。オリーブオイルは、オレイン酸(ω9系脂肪酸)が多いです」
 杏奈の個人的な意見としては、普段使う油は、米油よりはオリーブオイルのほうが、善心にとっては安心だと考えている。ただ、脂肪酸は、それぞれ働きが違うので、本来はまんべんなく摂ったほうが良い。
「揚げ物は、週三回くらい摂ってますね」
 健康に関する質問票では週一と書かれていたが、実際に健康日記を書いてもらうと、揚げ物が続く日もあった。とんかつ、唐揚げ、コロッケなど…
「揚げ物は、子供たちがよく食べてくれるのでつい…。家では作らなくて、たいてい買ってきます」
 それならば、なおのこと、安い植物油が大量に含まれている可能性は高い。つまり、リノール酸はお菓子だけでなく、普段食べる料理に、すでに大量に含まれているのだ。
「では、バターのほうがいいのですか?」
「バターは飽和脂肪酸で、飽和脂肪酸は、食べ物から摂取しなくても、体内で合成されます」
 しかも長鎖脂肪酸なので、消化が難しい。
「じゃあ、ここに書いてあるココナッツオイルが、最も良いのですか?」
「最も良いかどうか分かりませんが、少なくとも炎症を惹起させる性質は少ないと思います」
 杏奈はテレビ画面に、メジャーな油の脂肪酸組成を示したグラフを表示した。
「ココナッツオイルは、植物油には珍しく、飽和脂肪酸、中でも中鎖脂肪酸が多いです。消化吸収がすみやかで分解が早いのが特徴です」
 抗菌・抗酸化、免疫力アップ、皮下脂肪・内臓脂肪低減、アルツハイマー型認知症の症状軽減など様々な健康効果をもたらすことが期待されている。
 ココナッツオイルやパーム核油から中鎖脂肪酸のみ抽出したMCTオイルは、健康効果・ダイエット効果があるとされ、一時ブームになった。
「とはいっても、油脂類なので、摂りすぎは厳禁ですが」
 愛梨はグラフをじっと見つめた。パッと見てもどういう意味なのか分からない。
 アレルゲンを除去した食事にもいい加減慣れて、健康的な食事を作れているという自負はあったのだが。
「アレルゲンを除去できていても、アレルギー体質を底上げするものが身体に蓄積されることはあります」
 油、畜産物、添加物、ハウスダストや花粉など環境的なもの、ストレスなど精神的なもの。たとえばポテトチップスには、アレルゲンは入っていないが、油はたくさん入っている。
 そして、他にも気をつけなければならない食材がある。甘味料だ。
「お菓子には当然、甘味料がたくさん入っています」
 なので、どのような甘味料を使うかも、非常に重要。
「砂糖の主成分であるショ糖は、炎症を促進する可能性があるといわれています。アーユルヴェーダ的にいうと、アグニを弱め、ドーシャを乱します」
「はぁ…どうしておいしいものほど、体によくないんでしょうね」
「本当ですよね」
 杏奈は同情するように笑みを浮かべた。
「なので、料理やお菓子に使う甘味は、できるだけ健康的なものを使いたいです」
 甘味の健康度は、様々な観点で測れる。杏奈はその中で、三つの観点を述べた。糖に含まれるミネラルの総量、GI値(およびGL値)、ショ糖含有量だ。
 主要な甘味料のショ糖含有量を示した表を、テレビに映した。
「お菓子によく使われるグラニュー糖、和食によく使う上白糖は、ショ糖含有量が高いです」
 グラニュー糖は九十九パーセント以上、上白糖は九十七パーセント以上が、ショ糖。
「なので、比較的ショ糖含有量が少ない甘味が、より安心と見ることができます。その中でも、メープルシロップは、味も作業性もいいです」
 メープルシロップのショ糖含有量は六十パーセント弱であり、グラニュー糖より大分低い。
「うちでは、健康にいいと思って、てんさい糖を意識的に多く使うようにしてましたが、てんさい糖もショ糖が多いんですね」
「はい。ショ糖が多い甘味には、お菓子作りにおいては優れた特徴もあるので、よく使われているんですが」
 たとえば、ショ糖には温度変化による甘味の変化が起きにくく(甘味が安定している)、メイラード反応を起こしにくいため、焼き色が濃くなるのを防ぐことができる、などの特徴がある。
 つまり、お菓子の品質を安定させ、美しく仕上げるために、優れているのだ。
「みりんや蜂蜜なんかは、もっとショ糖が少ないんですね」
「はい。でも、みりんはお菓子に使うには、糖度が低すぎ。蜂蜜は、アーユルヴェーダでは加熱してはならないと考えているので、今回はメープルシロップを使います」
 メープルシロップは、作業性と甘味、健康度のバランスがいいと、杏奈は思っている。
 愛梨は油と甘味の話に関心が高いようで、しきりに頷いている。
「お菓子を学ぶつもりだったんですが、普段食べている食事について、考え直すきかっけになりそうです…」
 油も甘味も、よく使うものだからこそ。
「私、アーユルヴェーダの言葉で、お菓子の説明をされるんだと思ってました。でも、こうやって科学的根拠を教えていただけると、やっぱり分かりやすいですね。もちろん、アーユルヴェーダの見方も好きですが…」
 杏奈はふふっと笑った。
「そうですね」
 アーユルヴェーダではそもそも、間食は勧めていない。しかも、それができた時代、今のようなお菓子はなかったのだ。
「アーユルヴェーダが生まれた国のお菓子のレシピには、蜂蜜や、デーツ、ココナッツシュガーが使われることがよくあります。自然と比較的ヘルシーな甘味が用いられているんです」
 アーユルヴェーダは、科学的根拠がなくても、自然と健康的なものを選んできたのだ。その時代には、今のような精製技術がなかったので、致し方なくということになるのだろうが。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか」
「はい。善心が起きてるか見てきます」
 それから三人で、キッチンで「ラギココアクッキー」を作った。米粉よりも栄養価が高い粉類や、より体にやさしいオイルや甘味を使ったクッキーである。
「先生からまだ、いろいろと学びたいです」
 嬉々としてクッキー生地を伸ばしている善心の後ろで、補助をしながら、愛梨が言った。
 杏奈はにっこり笑った。
「先ほどの資料は、後で差し上げますね。アレルゲンなしのおやつのレシピは、今後ホームページやインスタなどでも紹介しますので、また見て下さい」
「嬉しい。小麦を使っていないクッキーって、たいてい米粉とナッツで作られていて、この子はナッツが食べられないので、クッキーはもう諦めていたんです」
 そう言うとまた、愛梨は目に涙を浮かべた。
 みんなと同じものが食べられない。そんな息子の姿を見て、ずっと心を痛めていたのだろう。
 七夕にちなんで、星形の型で抜いたクッキーが出来上がった。
 善心は、ラギだけは食べたことがなく、一つだけという約束で、出来上がったクッキーを食べてもらった。
「もっと、もっとたべたい!」
 こうなるのは分かっていた。
 愛梨は、クッキーを明日におあずけにするのに一苦労したが、それは今までに比べれば、幸せな苦労だと思った。

 滞在最終日の午前中は、沙羅が愛梨にシロダーラをすることになっている。
 沙羅はこの日、娘たちをあかつきに連れてきた。愛梨の施術中、子供たち同士で遊ばせようと思っていたからだったが、別の目的もあった。
「関節部分は円を描くように…」
 沙羅は七瀬の脚に、オイルマッサージをした。それを見ながら、愛梨も善心にマッサージをする。
「ひひひひひ」
 善心はくすぐったそうに笑った。脚で蹴ったり、転がったり、まともにマッサージなどできやしないが、それでもなんとかオイルを塗る。
 使っているオイルは、まこもの葉から抽出したエキスの入ったアロマオイルだった。このエキスは、先日、空楽と杏奈、小須賀の三人で時間をかけて作ったものだ。アロマの調合は空楽が行った。なるべく皮膚への刺激が少ないものを選び、昨日、パッチテストをした。
「こころも~」
 七瀬がくすくす笑いながらマッサージを受けていると、快は自分もとねだった。
 沙羅は快を寝かせて、同じようにマッサージをする。オイルマッサージが身体に良いというだけでなく、親子のスキンシップを通して、子供を安心させようというねらいもある。
「こんにちは~」
 トリートメントが始まった頃、空楽があかつきにやって来た。
「空楽さん、子供たちの相手に来てくれたんですか?」
 暑くて外に出るわけにもいかず、美津子と杏奈は、善心、快、七瀬たちと、居間で紙風船を飛ばして遊んでいるところだった。空楽は「いや~」と言いながら首を掻いた。あかつきの人たちはよく子守をしているなあと思う。
 今日は足込温泉への弁当納品日。空楽は小須賀を手伝うのと同時に、まこものむしろの使用感を確認しに来たのである。
─まこもには電磁波抑制効果があるらしいんです。
 そう言って、空楽がまこもの葉で作ったというむしろを持って来たのは、四日前のことであった。
─お釈迦さまは、まこもを編んだむしろに病人を寝かせ、まこもの薬を与えて、病人を蘇生させていたそうですよ~。
 その言い伝えの信憑性はともかく、まこもが電磁波を抑制するというなら、試しにその上で寝てもらおうと、むしろを採用したのである。
 むしろの上で寝ることを善心が嫌がったので、効果はいかほどか分からないが、むしろの上に布団を敷いて寝てもらった。
 現代では、電磁波に身体がさらされる時間が長い。肌や目の角膜は、常に電磁波で覆われている状態─帯電状態─になる。テレビに埃が溜まるように、帯電しているものには、埃や塵が集まる。つまり、アレルギー症状の出やすい条件を作るのだ。
 あかつきのグループラインになぜか入っている空楽は、次のクライアントがアレルギー疾患をもっていると知り、まこものむしろを持ってきてくれたのだ。
 キッチンへ向かう空楽の後ろ姿を見て、美津子は口元を緩ませた。

「私が悪かったんでしょうか」
「え?」
 沙羅はオイルを手に取りながら、どういうことかと首を傾げた。
「妊娠前とか、妊娠中の私の行いが悪かったから、子供たちがアレルギーになっちゃったんでしょうか」
 愛梨は、事前コンサルを思い出しているに違いなかった。美津子は、受胎時の両親のバランスが、子供のプラクリティに影響を与えると言っていた。
「夫とは、その…婚活アプリで知り合いました」
 それは、愛梨から聞く新しい情報だった。
「年も年だったので、恋愛じゃなく、結婚がしたかった。もっと言うなら、子供がほしかった」
 夫も同じだったかもしれない。社会的信頼性を上げるための結婚。
「結婚式の準備とかで、いろいろあって…彼はあまり、準備に協力的じゃないし、ドレス選びとかも、後々掘り起こされると嫌だから、高いやつでも気に入ったの借りたらとか。なんだか、私大切にされてないんだなって思っちゃって」
 愛梨は結婚して家族を作ることにこだわったことを、その時から疑問視するようになった。
「欲を言うと、私が喜ぶのが嬉しいって思ってくれる人と、結婚したかったなって」
「…」
「すみません、私がこう思ってたってことは、彼にも同じように、不満がありましたよね…」
「いえ…そんなことは」
 沙羅は一応否定をしたが、だいたい、自分が相手に不満をもっている時というのは、相手も自分に対して、そうだろうと思う。
「結婚式の後、夫と子供作りに励もうとした時には、すでに気持ちはなかったな…」
 それっておかしいですか?と愛梨は沙羅に聞いた。
「いえ、おかしくはないと思いますよ」
 沙羅はまた、愛梨をフォローした。
 それがいいかどうかは別として、そのような人はこの世に五万といるだろう。
 愛梨は自嘲っぽい笑いを浮かべた。 
「行為自体が苦痛で…毎回、早く終われって思ってました。子供ができたら、もうこんなことしたくないって」
「旦那さんとは、うまくやってらっしゃるんですよね」
「…まあ、もともとは、優しい人ではあります」
 子育てには協力的だ。今回だって、なんだかんだいって、愛梨と善心をあかつきに送り出し、実家の両親とともに、下の子の面倒を看てくれている。
 背面に移る段階になって、沙羅は愛梨の背中に声をかけた。
「うちのスタッフに、杏奈っていう子がいるんですけど」
「あ、はい。もちろん知っています」
 昨日はずい分勉強をさせてもらった。善心は、あのクッキーを午後のおやつに食べるのを楽しみにしている。
「あの子も、アレルギー体質なんですよ」
「そうなんですか?」
 だから、自分の体質の改善のためにいろいろ勉強して、あんなに詳しかったのだろうか。
「ちょっと前まで、手湿疹があって、鯖に当たって顔を真っ赤に腫らしたこともあるそうです」
「鯖に当たって…」
「はい。でも手湿疹も、最近改善したんです」
「どうして…?」
 愛梨は興味深そうに尋ねた。
「分かりません。でも、彼女はアーユルヴェーダに沿った生活をしていますし、洗剤を使う頻度を減らしたって言っていました。あと……」
 沙羅は、会ったばかりのころの杏奈と、近頃の杏奈の顔つきを思い出した。
「目標と生き方を一致させて、心の安定というか、自信がついたからなんだと思います」
 結局は精神的なことなのか…。
 愛梨は顔を横に向けてうつぶせになったまま、考えこんでしまった。自分たち夫婦は、善心に精神的ストレスを与えているのか?
「親が整えた環境に関わらず、子供も、子供ながらに、ストレスを抱えるものだと思います。外からも、内からも、ストレスは発生します。立派な一人の個人ですから。でも、善くんはラッキーです。お母さんが頑張り屋で、善くんのために、いろいろ考えてくれてるんですから」
 沙羅のその言葉で、愛梨はまた、涙ぐみそうになった。顔を横に向けたまま、小刻みに頭を左右に振る。
「アレルゲンの除去は立派にやっていたと思っていたんですが、それじゃ足りなかったって、思い知りました」
 知識が足りていなかった。
「今の家に引っ越したことも、本当に良かったのかなって…」
 環境の急な変化で、善心にストレスを与えてしまったかもしれない。
「環境の変化は、多かれ少なかれ、多くの子供たちが経験します」
 良い変化になるかそうでないかは、変化したあとの考え方や、行動にもよる。
「大切なのは、変化をどう受け止めて、どう対処するかです。変化のポジティヴな側面を見ていくことが、役に立つと思いますよ」
 沙羅はにっこり笑った。その顔を見て、愛梨も、無理やりにでも、笑ってみせた。
 これからの家族の毎日を楽しいものにするためには、母親の健康が欠かせない。
 全身へのオイル塗布が終わると、沙羅はシロダーラの準備に入った。オイルを額に当てながら、神経組織にゆらぎを与え、深いリラクゼーションを与える、アーユルヴェーダの代表的なトリートメントだ。
 沙羅は、愛梨の思考回路がポジティヴな方向に転ぶよう、念を込めて、オイルを当てた。

 トリートメントが終わり、愛梨がメイクルームに入ると、沙羅は洗濯物を持って一階に降りた。子供が三人いるはずだが、一階は静かである。
「空楽さん…杏奈さんも」
 キッチンに入ると、空楽と杏奈が片付けをしていた。小須賀は配達に出かけたのか、キッチンにはいない。
「お疲れさまです。あの、子供たちは…?」
 美津子と一緒に子守をしていたはずの杏奈に、沙羅は尋ねた。
「庭にいます」
「庭に…」
 いよいよ気温が上がる時間帯なのに、どういうことだろうか。美津子がついているから、心配はないと思うのだが。
「さっき、羽沼さんが来て」
 気温が高くなってきたので、野球部の練習が早く終わったらしい。
「子供たちは、中遊びじゃ間が持たなくなったので、少しだけ庭で、キャッチボールをするって」
「じゃあ、羽沼さんと美津子さんがみてくださってるんですね」
 しかし、中学生の部活時間が短縮されたほどの暑さ。小さな子供たちならなおさら、そう何十分も外で遊ばせてはおけない。
「もう少しで戻ってくると思いますよ」
「そうですか」
 沙羅は安心して、片付けに戻った。
 そういうわけで、外では羽沼が、善心と快を相手にキャッチボールをしていた。七瀬も一応加わっている。
 美津子は木陰で、子供たちと羽沼の様子を眺めていた。
 羽沼は今日、特に仕事であかつきに来たのではないらしかった。空楽と同様、羽沼も、グループラインでのあかつきの予定を見て、手伝いに来てくれたのではないか。美津子は、そんな気がした。
 一年前、美津子と杏奈、小須賀の三人で、細々とつないでいたあかつきの仕事。それが今は、少しずつ、頼れる仲間たちが増えてきている。
 その日のお昼ごはんは、あかつきのスタッフと沙羅の子供たち、愛梨と善心という、大人数で食卓を囲んだ。
 アレルゲンは除いていても、満足のできる食事。みんなが同じものを食べる。
 愛梨と善心は昼食を食べ終わると、昨日作ったクッキーをお土産に持って、あかつきを去って行った。
 その後、美津子は自室に下がった。
「むしろを布団の下に敷くってどういうこと?」
 沙羅とその娘たち、小須賀、空楽、羽沼は、クライアントが帰っても、なぜかあかつきの書斎に居座り、四方山話に花を咲かせていた。
「あー、羽沼さん絶対バカにしたでしょう」
「いや、だっておかしいでしょう」
 羽沼は同意を求めるように、小須賀を見た。
「空楽、あんまりあかつきの女の人たちから変な影響受けないでね」
 小須賀は、いつしか空楽を呼び捨てにしている。
「どういうことですか、それ」
 沙羅は声を尖らせた。
 書斎はそんな感じで賑やかだったが、杏奈は気になることがあって、応接間に一人残り、パソコンを開いていた。
 作りかけのテキストを開き、女性の健康と生殖能力の章、その中でも、受胎時のことについて書いた部分を参照する。咲子と結衣が滞在していた時に、言及しようかどうか迷ったパートだ。
 アーユルヴェーダでは、愛するパートナーとの満足感のあるセックスが、満足感を基礎とする健全な生命を形成すると言っている。
 セックスには相互の喜びが不可欠である。
 すべての性的能力を高めるものの中で、最高のものは、愛するパートナーだ。
 体組織が、最後のシュクラまで健全に形成されると、オージャス(活力素)が生み出され、オーラとなる。オーラは、自分を外部から守るエネルギー。
 ところが、性行為の時は、自分と自分でないものの境界─オーラ─が、一時的に融合する。もしその時、心理的に抵抗感があれば、オーラは融合せず、逆に防御が崩れ、他人に乗り込まれたような、圧倒されたような感覚に陥る。このような場合、発作的に、パートナーを肉体的または感情的に拒絶してしまう。
 満足感のないセックスや、受胎時の両親が強力でねじれた感情に悩まされていた場合、その子供は、満足感を抱きにくい、精神的な飢餓に陥りやすくなる可能性がある。
 杏奈は画面から目を逸らし、両肘をテーブルについて、両手を合わせて、額の前で組んだ。
 子供を生み出すための直接的な行為をする時、大切なことは、二人が真に愛し合っていること。
 いかに子供がほしくても、愛がない結婚は、良い結果を生み出さないということとも言える。
─でも…
 杏奈は目をうっすらと開いたまま、額に当てた手に、頭をもたげた。
 心から愛せる人が、またできるのだろうか。
 それは、今の杏奈には、ひどく困難なことに思えた。

 

 


 

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