第86話「男性性と女性性」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 あかつきの客用駐車場に、日産のノートが停まった。降りたのは瑠璃子と、この春から地域振興課に配属された新人。少しふくよかな体型をした、空楽と同じくらいの年齢の男性であった。
「どうも、お世話になります」
 玄関先にて、この新人・井上は、美津子と沙羅に頭を下げた。
「広報担当者の仕事は、月に一回発行する広報誌を通して、町民の皆さんに町の情勢や、イベントや式典の様子を発信することでして…」
 書斎に通されると、井上は自身の仕事内容についてつらつらと説明した。
「今回の取材では、お仕事の内容や思いなどを教えていただき、写真の撮影にもご協力─」
「井上くん、井上くん」
 かなり緊張している様子の井上をなだめるように、瑠璃子は軽く声をかけた。
「趣旨はお伝えしてあるから。そのくらいでいいよ」
「あ、はいっ。すみません」
 部屋の中は涼しいというのに、井上の額からは汗が噴き出している。それをハンカチで押さえながら、井上はぺこぺこと頭を下げた。
 瑠璃子と沙羅は目を見合わせて、にこっと笑う。二人とも、あかつきの正装をしている。
─あかつきを取材させてくれない?
 瑠璃子が一番に打診をした相手は、オーナーの美津子ではなく、沙羅だった。
 十月からは秋の登山シーズンに入り、紅葉を見に、足込町内の名所を訪れる観光客が増える。そうした自然のアクティヴィディと抱き合わせで、他の体験を求めている観光客を受け入れられるスポットとして、あかつきに白羽の矢を立てたのだ。
─ホームページで情報発信すると同時に、広報誌へ掲載させてほしい…。
 あかつきはもともと、足込町における数少ない観光資源として、知る人は知っていた。現に美津子は、役所の人間とはそれなりに濃いつながりを持っている。けれども、広報に掲載されたり、新聞に載ったりといったことは、感染症以降、めっきりなかった。
 メディカルツーリズムは、近年需要が高まっている。足込町の自然を求めて来る観光客は、身体を癒せるスポットとして、あかつきに興味をもつかもしれなかった。瑠璃子は、そこに目を向けたのだ。
「時間が取れたら、私が受けたいくらいです」
 一通り、あかつきの理念や、滞在中行えることなどについて美津子が話をした後、瑠璃子はそう言った。
「首や肩の凝りにもいいですか?」
 瑠璃子の問いに、
「ええ。体や関節に痛みを覚えている方も、トリートメントを受けに来られますよ」
 と美津子は答えた。
 そういえば、瑠璃子は長らく、右の肩と首筋を痛めている。普段は意識するほどでもないのだが、万里子を抱っこした時や、衝撃を受けた時などに痛みを感じると言っていたのを、沙羅は思い出した。
 話が一通り終わると、トリートメントルームを見てもらうことになった。
「瑠璃子さん」
 ホールへ移動しながら、沙羅はこっそり瑠璃子に話しかけた。
「取材先に選んでくれてありがとね」
 沙羅は少しぎこちない笑みを浮かべた。遭難事件の謝罪に、あかつきを一緒に訪れて以降、瑠璃子とはあまり話す機会がなかった。
 瑠璃子は沙羅と歩調を合わせて、
「ううん。今、広報誌の担当はあの子なんだけど、取材先の選定に苦労してるって言うから」
 と言ったものの、実は井上をうまいこと教育し、上司にこの案を通すのにも瑠璃子が一役買った。
─町役場では唯一、前の仕事に似たことができる部署に思えるけど。
 足込町の魅力をアピールしていくことは、個人や企業の優れたサービスを世に売り出していく広告代理店の仕事と似た要素があると、瑠璃子は前々から思っていた。似ているからこそ前の仕事を思い出してしまいそうで、瑠璃子は今までこの課にいることをプラスに捉えられていなかった。
 けれども、地域振興課に配属されていることを、チャンスと捉えていかなければならない…先日、羽沼と会話したことがきっかけとなって、瑠璃子は自分の中の認識を変え始めた。
 もともと、あかつきに来る客と、足込町の観光資源は親和性が高いと思っていた。そこで、沙羅を通し、あかつきに取材を依頼したのである。遭難事件で世話になったあかつきに対して、何か貢献したいという個人的な理由もあったが。
「今日はお客さんがいるの?」
 階段を上りながら、瑠璃子は耳を澄ました。人の声が聞こえる。
「料理教室をしているの」
「料理教室…取材に来て大丈夫だった?」
「うん。オンラインだからね」
 瑠璃子はぽかんと口を開いた。

 あかつき大作戦の最後の集客の砦、スリーデイズライヴが始まった。
 初回は、アーユルヴェーダ料理教室。インスタとズームで同時に配信する。杏奈、小須賀、空楽がこれにあたり、羽沼が撮影協力をしている。
 この日のために、杏奈と美津子はアーユルヴェーダテキストの編纂を急ピッチで進めた。昨日、刷り上がったテキストが印刷会社から納品されたばかり。開封し、中を確認した時、杏奈は自然と笑みがこぼれた。
─上出来じゃない。
 美津子も、嬉しそうに目を細めた。レイアウトのズレもなく、ほぼ思い通りの刷り上がりだった。テキストを一つ完成させたという達成感は、杏奈の想像していた以上のものだった。
─私もこれほしいです!
 今朝、完成品を見た沙羅がそう言ってくれたのは、何よりの賞賛であった。
 しかし、そのテキストを視聴者に見せるのは、スリーデイズライヴの最後である。販促の要素を出すのは、三日目だけ。それまでは、ひたすら価値提供に徹する。
─楽しく料理を作りながらも、あかつきへ滞在したいと思わせるような仕掛けを散りばめなきゃいけないよ。
 羽沼はライヴの前に、三人に念を押した。
 料理教室の様子を無料でライヴ配信するのだが、これは単なるサービスではない。商品を売るための最初の一歩、価値提供であった。これを見ている人たちに、「滞在したい!」と思わせるのだ。
 料理教室は、瑠璃子と井上が訪れたタイミングとほぼ同じ、十時半から始まった。
「次に、あかつきでもよく作る、チャナダルのカレーを作ります。小須賀さん、お願いします」
「はーい」
 小須賀は作る役に徹し、杏奈が進行を務めた。空楽は調理補助をしながら、
「チャナダルのカレーも美味しいけど、ひよこ豆のカレーもおいしいんですよね」
 と、さも自分の感想のようなセリフを時々挟む。もちろん、これも仕組まれたセリフだった。
「そうですね。あかつきではいろんな豆料理を日替わりで出しますが、ひよこ豆のカレーもおいしいですね」
 そうやって、種をまくのだ。
「いろんな豆料理に出会えますし、植物性のものだけでも意外と満足感があるって仰ってくださる方も多いです」
 小須賀は失笑した。カメラに背を向けているので、自分の表情は視聴者にはバレない。カンペを知っている小須賀からすれば、めちゃくちゃわざとらしいやり取りに聞こえる。
 スマホではインスタに、パソコンとブルートゥースでつないだカメラではzoomに、それぞれ映像を流している。zoom用のカメラは全体用、手元用で二つ用意し、何を見せるかに応じて羽沼がカメラを切り替えた。
「杏奈さんはあかつきで働いてもう一年以上になるんですよね」
「ええ」
「ここの料理を毎日食べると、やっぱり体調ちがいますか?」
 空楽は完全に棒読みだったが、これが空楽の素なので、どうしようもない。
「体調いいですよ。でも、一回だけこういう料理を食べたから変わるっていうわけじゃなく、続けていくことが大事なんですね」
「なるほどー。でも、あかつきなら上げ膳据え膳かもしれませんが、家だとなかなか作れないですね」
「と思うじゃないですか。意外と作り方簡単なんですよ」
「はーい、あとは煮るだけになりましたー」
 小須賀が鍋を持ち上げて、カメラの方へ向けた。その時、羽沼が口パクで何かを言っているのが見えた。
─笑って!
 そういえば、楽しそうにやれと、釘を刺されていたような。小須賀はそれを思い出し、無理やり笑ったが、顔が引きつった。
「お疲れさまでーす」
 十二時近くにライヴが終わると、沙羅がキッチンまで杏奈を呼びに来た。
「セラピストの写真を撮るそうなので、着替えてください」
 杏奈は後の処理を三人に任せて、キッチンを出た。
「あと、お料理の写真も撮るそうなので、一つ盛り付けてくれませんか?」
「はーい」
 沙羅に頼まれて、小須賀は掠れた声で返事をした。たった四品作るだけだったが、オンラインで配信するというだけで、どっと疲れる。
「盛り付けたら、ここに置いといていただければ、後で取りにきますね」
「いや、おれが持ってくわ」
 小須賀はそこは譲らなかった。朝、あかつきに取材に来る担当者の名前を聞いた時、
─やったー。
 と、小須賀はのん気に喜んだ声を出して、ガッツポーズまでしてみせた。
 遭難事件の日、初めて見た沙羅のママ友というその女性は、とても美人だった。面食いの小須賀は、瑠璃子と関わりたくてしょうがないのである。
 羽沼は瑠璃子の名前を聞いた時、一瞬どきっとした。また何か、会って話したいような気もするが、そうするのはふさわしくない気がする。狭い足込町に住み、共通の知り合いがいるから、こうして時々、時間と場所が交差することがある。でも、それだけのこと。
「片付けるか」
 小須賀は綺麗なワンプレートを仕上げた後で、二人に声をかけた。

 一方、杏奈は美津子の部屋の前室でユニフォームに着替えた。あかつきの正装は、独特の二部式着物で、すぐに着られるよう工夫がされている。とはいえ、洋服を着るのとはわけが違う。
「急がなくていいよ」
 小走りで書斎に入って来た杏奈に、瑠璃子は朗らかに言った。
「井上がネタの整理をしてるところだから」
 井上と沙羅がパソコンの画面に向かって座っている。井上が入力した内容を沙羅がチェックしているらしい。
「お茶を持って来るわ」
 美津子はそう言って、くるりと踵を返した。
「じゃあ、私髪の毛を結い直してきます」
 杏奈はポニーテールのままになっている後ろ髪を触った。施術の時は、髪をネット付きのリボンバレッタで留めている。
「髪型には規定があるの?」
 瑠璃子は、杏奈にとも、沙羅にともなく訊いた。
「ううん。髪がお客さまに触れなければ」
 と、沙羅が顔を上げて答えた。
「ちょっと触っていい?」
 瑠璃子は言いながら、杏奈にソファに座るよう促した。瑠璃子は杏奈の髪をほどいた。杏奈は少し驚いたが抵抗せずに、瑠璃子が指で髪の毛を梳くのに任せた。
「ネット付きのバレッタって、動いているうちに髪の毛が出ちゃったりしない?気にならない?」
「あ、はい…そうかもしれません」
 実際に、杏奈は施術中に髪が乱れてしまったのを、後になって気がついたことがある。
 お客はセラピストの顔をほとんど見ないので、指摘されてはいないのだが、それ以降、ネットで覆う前に、頭皮にはあまりよくないかなと思いつつ、お団子をかなりきつめに作るようにした。
「これだけ長いんだったら、編み込んでアップにしたらいい感じになるんじゃない」
 全く癖のない杏奈の髪は、柔らかくて、万里子の髪の毛を触っているような感覚になる。
「櫛を持ってきましょうか」
 機転を利かせて、沙羅が席を立った。
「あ、うん。あとゴムとピンももらえる?」
 杏奈の髪の毛を触る瑠璃子は、まるで妹の世話を焼く姉のようだ。
 お茶を持って来た美津子は、この状況に少し驚いたが、瑠璃子の手先の器用さに感心した。
「上手ですね」
「ありがとうございます」
 井上は、顔をパソコンから上げて、見慣れないこの風景をぼうっと見やっている。上司であり、役場一の美人と評される瑠璃子の整った細い顔が、目の前にあった。そんな瑠璃子が色の白い女性スタッフの髪を弄んでいる。
─尊い!
 おじさんが多い町役場で働く井上にとって、目の保養であった。
「私、美容部員をしてたので、女の子を可愛くするのが好きなんです」
 美津子に説明するように、瑠璃子は言った。
「そうだったんですか」
 美津子は答えながら、茶托に湯呑を乗せて、テーブルに置いた。
「井上くん、手が止まってるけど」
「あ、すみません」
 井上は慌てて、視線を画面に戻した。瑠璃子は杏奈の髪を触りながら、
「キャッチフレーズは何にしようねえ」
「キャッチフレーズですか」
 井上はオウム返しに言う。
「誌面をパッと見た人が、読んでみたいと思うフレーズを考えなきゃ」
 実際、内容よりもここが重要だと言っていい。
─スローな時間が流れる私らしい旅
─時を忘れて癒しの世界へ
─里山で味わう極上のアーユルヴェーダ体験
─森に抱かれた足込トリップ
─足込町のちょっと気になるスポット
─新しいヘルスツーリズム
「ままま、待ってください。もう一度…」
 瑠璃子が次々にアイディアを口に出すので、井上は慌ててタイピングをした。
「何言ってるの。これは思い付き。キミが考えるんだよ」
 杏奈は二人の会話を聞きながら、目を瞬かせた。さすがは、元広告代理店社員。他事をしながら、こんなにもつらつらと、キャッチフレーズを思いつくとは。美津子も沙羅も、同じことを思っているのに違いなかった。インスタやブログの題名も、瑠璃子が考えれば、もっといいものができる気がする。何しろ瑠璃子は、この道のプロだったのだ。
「できた」
 全く別事を考えている間に、瑠璃子は杏奈の髪を完成させた。耳の後ろに手をやると、ボリュームのあるシニョンができている。杏奈はくるりとみんなの方へ向き直りながら、照れ笑いを隠せない。
「わあ!いいです。その方がいい」
「あとで結い方を教えてもらったら」
 沙羅と美津子にそう言われて、どんな仕上がりなのか気になったが、杏奈は恥ずかしくて、自分から鏡を見に行くのがはばかられた。瑠璃子は杏奈の髪を見て、満足げに微笑んだ。
「あのう…」
 小須賀が書斎に顔を出した。
「お料理、どうします?もうとっくに盛り付け終わってるんですけど」
「あ、そうだった」
 井上と沙羅は立ち上がって、応接間へ向かった。美津子も後へ続く。
「その着物の色、杏奈ちゃんのパーソナルカラーにぴったり合ってるね」
 瑠璃子はあかつきの独特の和装を見ながら、口元を綻ばせた。瑠璃子にパーソナルカラー診断をしてもらったのは、去年のクリスマスの頃だった。
「色のアドバイス、とても役に立っています。この前教えてもらった作家さんの服も、すごく良かったです」
「あはは…ハンドメイドの人たちのとこで買うとちょっと高いけど、かわいいのいっぱいあったでしょ」
「はい。どうやってああいう作家さん見つけるんですか?」
「私、SNSとかアプリで、洋服ばっかり見てるからさ」
 大人用の服も、万里子の子供服も。
「そうなんですね…」
 髪型を整えるのにしろ、服を購入するのにしろ、美容面のアドバイスは瑠璃子から教われば間違いがない。
「余白を取った写真も撮っておくといいですよ」
 応接間から声が聞こえて、瑠璃子と杏奈の会話は途切れた。
「こっちの窓から自然光が入るので、向きはこの方が…」
 応接間に入ると、その声の主はやはり羽沼だった。井上に写真の撮り方を教えている。彼は広報担当ではあるが、カメラに詳しいわけではないので、羽沼の指示に素直に従っていた。
 ふとこちらを向いた羽沼と、瑠璃子の目が合った。瑠璃子は視線を逸らしてしまったが、
「こんにちは」
 羽沼は他の人に対するのと同じ態度で、瑠璃子にも穏やかに挨拶をした。
 ストリングカーテンから撮影の様子を伺っていた空楽は、
「あ」
 瑠璃子の姿を見て、思わず声が出た。
「あの人」
 後ろから覗いている小須賀と傍に立っている沙羅が空楽を見る。
「どうしたの?」
「この前はぬ…」
 言いかけて、空楽は口をつぐんだ。
「なになに」
 小須賀は空楽をキッチンの中へ引き入れて、問いただした。沙羅はストリングカーテン越しに、二人の会話に耳をそばだてる。
「羽沼さんが私のバイト先で一緒に呑んでたの、あの女の人ですよ」
「…ええ?」
 小須賀はがくっと膝を折った。
 沙羅はそこに立ったまま、少し離れたところにいる友人に目を向ける。

 瑠璃子と井上が帰ると、料理教室で作った料理をみんなで食べ、その後女たちは午後の研修に向けて準備を始めた。
 小須賀は昼食の片付けを引き受け、羽沼はそれを手伝おうと、シンクまで皿を運んだ。
「ワンチャンあった?」
 いきなり小須賀に尋ねられ、羽沼は危うく皿を落としそうになった。
「はあ?」
 なんとかシンクに皿を置きながら、羽沼は体が熱を持つのをどうしようもない。大方空楽から、先日自分と呑んでいた相手は瑠璃子だと聞いたのだろう。
「おれなら、あんな美人と二人で呑んだら、なんとかして、そこにこぎつけるね」
「…小須賀くんは、そんなことばっかり考えてるのか」
「そんなこと考えずに何考えるんだよ」
 みじんも恥じらいを見せずに、小須賀はどこ吹く風で食器を洗いはじめた。
「どっちが誘ったの?」
 ぬっと顔を羽沼に向け、探るような目をする。
「僕だけど、もともとあの事件があった日に、話せなかったことを話すって約束してたんだよ」
 別にやましい気持ちがあって誘ったわけではない。
「なに話してたの?」
 羽沼は言いよどんだ。興味本位で聞かれることに、答えなければならないだろうか。しかし、変な想像をされるほうが迷惑だった。
「万里子ちゃんの気持ちを代弁しただけ」
「万里子?」
「長谷川さんの娘さんだよ」
「ああ…」
 確かにそんな名前だったような…と小須賀は思い出した。
 遭難事件の日、羽沼は万里子を背負って山を下りた。その時に何事か話したのか。
「それだけ?」
「…あと少し、長谷川さんの個人的な相談とか」
 小須賀が意地悪そうに目を細めたので、
「相手が悩んでるの知ってたら、話のついでに聞き出すことだってあるだろう?」
「好きでもないやつの相談にのるかよ」
 と言ったが、小須賀は夜の仕事をしている時、あらゆる女の子の相談に乗っていた。が、恋心とまではいかないまでも、「好き」という気持ちはあったから、間違ったことは言っていない。
「で?その後どうしたの?」
「その後って…?」
「居酒屋で飲んだ後」
「その後は一回も会ってないよ」
 さっきそこで見かけたのが、それから初めての接触だ。
「そうじゃなくて。その日居酒屋で飲んだあと、何もなかったの?」
「変な想像するな」
「ちっとも変じゃない。男なら、誰もが夢見るだろう。あんな美人と…」
 と言いかけて、小須賀はようやく思い直したように、口をつぐんだ。こういった話は、羽沼の弱点なのではないかと思い当たったのである。
 羽沼はもう一つのシンクに浸けてあった鍋やフライパンを洗い始めた。
 キッチンに、少し気まずい沈黙が流れた。
 通常はよくしゃべる小須賀がだんまりすると、気を遣われているようで、余計にみじめになる。羽沼は思わずため息を漏らした。
 小須賀は食器を全て綺麗に洗い終わると手を止め、洗った食器を見つめながら、少し黙っていた。
「…すみません」
 小須賀がぼやくと、羽沼も手を止めて、小須賀を振り返った。
「何謝ってんの?」
「いや、その…そういう気持ちが起きにくくても、個性ですから」
 こんな時ばかり改まった言葉遣いをする。
 羽沼は再び手を動かし、最後のフライパンをゆすいだ。洗った調理道具をすぐにふきんで拭こうとするのを、小須賀は見咎めた。
「あ、ちょっとおいて乾かしてください」
 羽沼はちらと小須賀を見て、おもむろにフライパンを置き、ふきんを元の場所に戻した。
 小須賀の態度が急にしおらしくなり、羽沼は違和感を覚えて仕方がない。
「…あのね」
 羽沼が声を出すと、小須賀はすかさず目線を動かした。羽沼が何か言い出すのを、待っていたような目だ。
「僕だって、腐っても男だよ」
 小須賀は顔だけ羽沼に向けて、
「…そういう気持ちは起きるんだ。それは、問題ないの?」
 気づかわし気に訊かれて、羽沼は話の続きをしたことを後悔した。
「僕、帰るね」
「あ、うん。最近忙しい?」
「まあ…大分案件貰えるようになってきたしね」
 貰える…と言ったが、羽沼は積極的に営業をかけている。自分の足で立った状態でなければ、自信をもって、瑠璃子や万里子に接することはできないと思ったのだ。
 だから早く、結果を出したい…その先に彼女たちに対して何かアクションを起こしたいわけではないけれど。
「羽沼」
 小須賀は珍しく真面目な顔をして、羽沼と向かい合った。
「腐ってもなんて言うなよ。繁殖力がどうだろうが、男らしさには関係ない」
 これはまた、ずい分と直球を投げたものだ。
 羽沼はぐっと言葉に詰まった。
─お前が、言うのか。
 前に似たようなことを言われた時も、今も、羽沼はそう思う。おそらく、正常な男性としての機能を持っている小須賀が、それを言うのかと…
「おれは結婚してるとかしてないとかは、どうでもいい。子供をもとうと思ったこともないよ」
 小須賀は、ハンドジェスチャーをつけて、熱っぽく語った。
「そんなことで、男が廃るのか?」
 羽沼は冷静な目で小須賀を見やった。きっとこの男には、悪意はない。しかし、羽沼にはあまりにも酷な話だった。
「選択肢があるのと、選択肢がないのとでは、余裕が違う」
 羽沼は、小須賀から目を逸らして言った。小須賀は少し怒ったように、眉を吊り上げた。そんな小須賀を直視できぬまま、羽沼は踵を返し、キッチンを出ていった。
 残された小須賀は、調理台に腰をもたげ、
「そんなこと言ってるうちは、本当に男らしくなんかなれないよ」
 そうぼやくと、スマホとタバコを持ち、お勝手口から外へ出た。

 空楽は手技のポイントを念頭に置きながら、杏奈のお腹にオイル塗布をした。
・素早く、効率よく、あたたかいオイルを身体に吸収させる
・押さない
・トリガーポイント、マルマポイントを意識した施術
「う…」
「あ、すみません。大丈夫ですか?」
 杏奈は薄目を開けて、少し体をよじった。
「お腹の施術は飛ばしましょうか」
 沙羅がそう提言をする。食事をして間もないので、いくら消化に優しいアーユルヴェーダの食事といっても、お腹を触られれば不快感がある。
─うわ。
 空楽は杏奈のお腹をタオルケットで覆う時、その白さに目を奪われた。次の施術部位は胸部とデコルテ部分。浮き出た鎖骨の下から胸にかけても白い。このような雪肌をもつ人は、空楽はちょっと見たことがない。
 空楽は慎重に、マッサージをするというよりは、ただオイルを置いていくというくらいの感じで、手を滑らせていく。
「足先から足の付け根まで見て、正しい位置に整えていく意識で…」
 美津子は一応監督をしているものの、指導をしているのは沙羅だ。マッサージの指導について、今まで美津子が担っていた役割を、沙羅ならばもう引き継ぐことができる。これは空楽の研修であり、指導者としての沙羅の研修でもあった。
 杏奈の姿勢の癖は大分改善し、沙羅が杏奈をモデルに施術の練習をした時よりも、全体的にプロポーションが整って見えた。
「んんっ…」
「あ、すみません。大丈夫ですか?」
 先ほどと同じやり取りを繰り返したのは、背中の施術に入った時だった。杏奈は背中が敏感なのだ。
「空楽ちゃんは、センスありますね」
 沙羅は美津子を振り返り、微笑んだ。美津子も口元に笑みを浮かべながら、空楽の手技を見守る。空楽は手先が器用で、そこをセンサーにして、身体の状態を読み取るのに長けているようだ。
 フェイシャルまで進んで、発汗の段階になって、空楽はようやく額の汗をぬぐった。
 沙羅がフィードバックをした後、美津子が補足をする。杏奈はその間、まどろみかけていた。本当はこの研修の間に、モデルをしながら自分も学ぶべきことがたくさんあるのだが。毎日事務仕事が長く、集客も佳境を迎えていて、精神的にも肉体的にも疲労度が高かった。
 空楽は道具を洗い、片付けの準備を始めた。発汗もあと少しで終わりを迎える頃、沙羅は美津子に話しかけた。
「美津子さん。アーユルヴェーダの教えやトリートメントを、そこまで興味がない人に勧めるのは、あまりよくないでしょうか?」
 椅子に腰かけてのんびりしていた美津子は、
「なぜ?」
 と逆に沙羅に問うた。
「実は…あのう」
 沙羅は声を落として、
「瑠璃子さんは、別れた旦那さんと、自分自身のこれからについて、ずっと悩んでいて」
 あの遭難事件の日も、子供の見守りがおろそかになったのは、その話に夢中になってしまったからだった。
「ヨガやアーユルヴェーダは、自分の進むべき道や、その道を進むに足る健全な体を作る方法を、教えてくれますよね」
 アーユルヴェーダとヨガは「姉妹科学」と呼ばれている。どちらもサーンキヤ哲学という共通の基盤をもつ。
 アーユルヴェーダは自己治癒のシステム。体・心・魂のレベルで痛みや苦しみを解放し、健全さを育み、維持する方法を示す。
 ヨガは自己実現のシステム。体・心・精神のレベルで真の自分に近づき、解脱(悟りまたは自己実現)に至る実践的な行法の体系を示す。
 ヨガはアーユルヴェーダの実践で培った健全な体と心を、何の目的のために使うのか思い出させてくれる。アーユルヴェーダはヨガの道(目標)に向かって歩むのに足る健全な体と心を、維持するための方法を思い出させてくれる。だからこそ、アーユルヴェーダとヨガを一緒に実践することで、自分が歩むべき道を知り(ヨガ)、その道を歩む力を保持する(アーユルヴェーダ)ことができる。
 二つは相性が良く、お互いを補填し合い、真の変容を助けてくれる。飛躍を助ける、二つの翼なのだ。
「ヨガとアーユルヴェーダは、心の扱い方についても教えてくれます。私は瑠璃子さんに、何か伝えたいと思うのですが、瑠璃子さんから聞いてこないのに、そんなことを言うのは自己満足かなって」
 ママ友だからこそ、余計に気を遣う。
 もっとも、瑠璃子は施術自体には、まるきり興味がないわけではない。さっきも、時間があれば自分も受けたいくらいだと言っていた。
 まどろみかけていた杏奈も、沙羅の問いに興味が湧き、意識を戻した。空楽も片付けをしながら、二人の会話に耳を傾けている。
「アーユルヴェーダだとか、ヨガだとか、そういう言葉をわざわざ使わなければいいのでしょうか」
 美津子は穏やかな表情を保っていたが、部屋に流れる沈黙が、この問いの難しさを物語っていた。
「沙羅は、瑠璃子さんの助けになりたいと思うの?」
「はい」
 澄んだ声で、沙羅は返事をした。美津子はゆっくりと頷いた。
「その思いがあるなら、それを伝えなさい」
 美津子がそう言うのと、時を同じくしてタイマーが鳴った。発汗が終わったのだ。
 空楽は洗い物を止め、手を拭く。
「どういう言葉なら、どういう段階を経たら、瑠璃子さんに響くか。それは、瑠璃子さんを見ていないと分からないわ」
 けれど、注意深く観察していれば、きっと分かる。
「空楽」
 ベッドに歩み寄っていた空楽は、沙羅との話の途中なのに美津子に呼ばれて、少し驚いた顔をして振り返った。
「はい」
「杏奈の身体に、違和感を感じるところはあった?」
「違和感…」
 お腹を押すと、痛がったことだろうか。それは、ご飯を食べたばかりだったからだが。
「…右手が、硬かったかもしれません。張っているというか」
 前腕のあたり。
「右手か。杏奈、何か覚えがある?」
「朝起きた時…」
 杏奈は、はっきりと覚えがあった。
「筋肉痛みたいに、左右の指と、右の前腕が痛かったです」
 それは、長時間のタイピングによるものだ。
「あと実は、起きた時、肩や背中の痛みもありました」
 美津子は頷いた。
「デスクワークのしすぎね」
 アビヤンガで、緊張した体も柔らかくなっただろう。
「片付けが済んだら、みんな書斎に来なさい」
 そう言って美津子は、トリートメントルームを出て行った。

「ふふ。女子が増えましたね」
 沙羅はお茶をポットに入れて、ティーカップを書斎のローテーブルに置きながら、嬉しそうに言った。空楽はうーんと伸びをする。
 ほどなく、着替え終わった杏奈が下に降りてきた。胸の下まで届く黒髪はオイルを含み、つやつやと潤っている。
「たまには、講義らしいことをしてみようか」
 最後にソファに座った美津子が、朗らかに言った。
「みんなは体の左右どちらかに、痛みや痒み…明らかに偏って不調を感じることはある?」
 いきなり、美津子は問うた。三人は思案顔になった。
「私はさっき言ったように、今日は右手が…」
 杏奈は、右手が腱鞘炎のようになっている。美津子は頷いた。他の二人は、特段思い当たる節はないようである。
「あるいは、左右の鼻腔のどちらがより通っていて、どちらがより塞いでいるのかしら」
 三人とも、確かめるように、片鼻ずつを指で押さえて、呼吸の通りを確認した。
「今日は男性性と女性性について話をするわ」
 美津子はさらりと言った。杏奈は耳をそばだたせた。
「昼と夜、夏と冬、水と火…自然界に存在するこれらの極性と同様に、私たち全員の中に神聖な両極性が存在する」
 男性と女性のエネルギー。
「それが、男性性と女性性というものなの」
 男性性と女性性は、性別に関わらず、すべての人の内に存在する。誰もが男性性と女性性のエネルギー両方を併せ持っていて、その両方とも価値があり、両方とも使用している。
「男性性はピッタ、左脳、右半身に関連し、外の世界に向かわせるもの」
 次のような性質や特徴をもつ。
 知性、行動、直線的、構造的、保護、太陽、光、陽、与える、自由、論理的、集中、安定、独立、規律、自信がある、火、速い。
「女性性はカパ、右脳、左半身に関連し、内の世界を照らし出すもの」
 次のような性質や特徴をもつ。
 感性、慈悲、愛情、優しさ、曲線的、創造的、育成、月、暗さ、陰、受容、降伏、共感、直感的、水、ゆっくり、敏感。
「両方をバランスよく使えていればいいのだけれど、私たちはどちらか一つのエネルギーに強く頼ることがある」
 ある部分に頼りすぎて他の部分を無視すると、不調和を引き起こす。
「似たものが似たものを引き寄せ、相反する性質がバランスをもたらすというアーユルヴェーダの基本原則は、男性性と女性性にもあてはまる」
 空楽はぱちぱちと瞬きをした。施術のような技術的な部分はまだしも、アーユルヴェーダの理論的な部分は、まだ理解が浅いのであった。
 美津子はみんなの反応には構わず続けた。
「たとえば、女性は職場でまともに扱われるために、女性性を葬り去ろうとするかもしれない」
 しかし、理性を働かせ、行動を起こすという男性性のエネルギーが優位になっていることに無意識的でいると、家の中でも同じエネルギーを引きずるかもしれない。不必要に子供に厳しく接したり、家族に競争心を抱いたり。それでは家族の関係性が崩壊し、結果的にその人の活力を弱らせる。
「現代では特に、男性性の要素を尊敬したがる傾向にある」
 たとえば、家事と育児だけをしている女性よりも、仕事上で成果を出している女性、あるいは家事育児と仕事を両立させている女性のほうが評価される。
「自己主張することや行動することといった男性性を重んじる社会に、私たちは住んでいるの」
 美津子の意見に、この中の誰も、否定しようがない。
「男性性と女性性、どちらかに偏ると、どうやらそれがそれぞれ体の右側、左側に不調を来すようなの」
 杏奈は思わず、左手で右手を掴んだ。
「もっとも、腱鞘炎のような、特定の部分の使い過ぎという明らかな原因がある場合もあるけれど」
 と、美津子は補足した。
「男性性のリストを重視しすぎるとどうなるの?」
 美津子は、みんなに問いかけた。
「目標を成し遂げ、規律を作り、独立を善しとし、すべてをなるべく早く終わらせることばかり高く評価すると、どうなる?」
 少し、沈黙した。
「女性性の側面が、ないがしろにされる…」
 控えめに、杏奈が答えた。
「受容力がなくなって、優しさが薄れ、直感が鈍り、ゆっくり何かに取り組むことができなくなる?」
 沙羅はより具体的に答えた。美津子は軽く頷き、
「私たちは自分を見つめる機会を失う」
 自分の魂と繋がるということが、できなくなる。
 なぜこのような人生を送っているのか。
 これが本当にやりたいことなのか。
 本当は自分はどういう人間なのか。
「立ち止まって自分に尋ねることがなくなる」
 体の右側の不調は、そんな自己のバランスの乱れを、物理的に実証するものなのだ。
 沙羅は、あることを思い出して、はっとした。
─いたたた…
 万里子を抱っこした瑠璃子が、低く呻いている様子が脳裏に思い浮かぶ。瑠璃子が長い間、右の肩から首筋にかけて、鈍い痛みを訴えていたのを思い出した。
「男性性と女性性の不調和は、どうしたら治せるんですか?」
 そして、それにより引き起こされていた身体的損傷は…沙羅は、身を乗り出して尋ねた。
「それが、最も重要なことよね」
 美津子は沙羅をなだめるように微笑んだ。
「漠然としてはいるけれど」
 美津子はそう、前置きをした。
「自己の内へ向かう修行を通して内なる女性性を育む、ということが、その答えになるのでしょうね」

 

 


 

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