第90話「出産」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「あ、柴崎先生…」
 看護師長は順正がスタッフステーションに入って来たのを見て、安堵のため息を漏らした。
「夜間にすみません」
「朝までもたなかったな」
「はい」
 その妊婦は予定帝王切開のはずだったが、夜中の内に前期破水し、陣痛が起こったので、緊急帝王切開になった。帝王切開は医師一人ではできない。この場合、夜間でも呼び出される。
 順正はすぐにオペ着に着替え、帽子、マスクを着用する。
「背中を丸めてください」
 麻酔を打つ体制を整えようとするが、妊婦は怖がっていて、なかなかうまくいかない。
「ここ大事ですからね。呼吸をして」
 妊婦はすう、と呼吸をした。
「旦那さん、ここに座ってくださいね」
 助産師の森が、おどおどしている妊婦の夫を椅子に誘った。
 男は妊婦の手を握りながら、恐る恐る、処置をしている医師の手元へ視線を向ける。メスが入った時、男は卒倒しそうになった。
「おぎゃー、おぎゃー」
 赤ちゃんは無事取り上げられた。
「旦那さんに、最初に抱いてもらいましょうか」
 男は感動しながらも、おそるおそる赤ちゃんを抱いた。その時、大量の血と、取り出された胎盤らしきものを見て、また頭がくらくらした。
─絶対、おれが倒れちゃいけない!
 頑張ったのは妻なのだ。ここで倒れたら、一生言われる。
─あなたが望みさえすれば、ちゃんと何もかもを愛おしむことができる人だと思う。
 オペ室から出て、マスクを取ると、順正の脳裏には美津子のその言葉が蘇ってきた。
「柴崎先生」
 看護師長が困った顔で、手術を終えたばかりの順正を呼びに来た。
「二十七週の△△さんが、激しい腹痛を訴えて来ておられますが」
「分かった」
「柴崎先生」
 後ろを振り返ると、松下が立っていた。
「代わります。昨日も夜間対応しているでしょ」
「…大丈夫です」
 美津子の言葉は優しい。優しいが、字面だけ受け取っていてはいけない。あれは、お前はもう次のフェーズに移るべきだと、暗に諭されたのである。
 けれども、順正は、自分はきっと「連鎖させてしまう」と思う。そしてそう思っている自分が、嫌であった。強くない自分が。
「ただの便秘です」
 検査結果を伝えると、妊婦とその夫は、拍子抜けしたような顔をしたが、至極安心したようだった。
「先生、お腹が強く張るという妊婦さんからお電話が…」
 翌日の診察時間まで待てばいいと思うようなことでも、いつどんな変化が起こるか分からないので、気になることがあると、こうして受診したいと言ってくる妊婦はいる。
「…見ようか」
 確認してみると、特に切迫早産の兆候はなく、赤ちゃんも元気だった。セックスをしたというから、それで子宮が収縮したのだろう。
「すぐ早産につながるわけじゃないですが、気を付けてくださいね」
「…はい。もう、産まれるまで、しないようにします」
 なんだかんだ時間外診察をしていたら、夜が明けた。
「ふあ、ああ~」
 一旦自宅に帰っていた松下が、大あくびしながらスタッフステーションに入って来た。
「お疲れ。あの後、ちょっとは寝た?」
「いいえ。なんだかんだ朝になりました」
 松下は「ええ?」と言って、順正の顔を覗き込む。
「大丈夫か」
 しかし、その場にいた看護師、助産師の目には、順正よりも松下の方が「大丈夫か」と問いたくなるほど、お疲れに見えた。
「柴崎先生って一体、どんな身体能力してるの?」
 朝の申し送りの後、助産師の岡本は、鈴木と夏目がそんな話をしているのを聞いた。
「時々眠そうにしてるけど、よっぽどのことがないとしんどそうな顔しないし、泣き言も言わないし」
「そうですよね…柴崎先生を見てると、自分のスペックの低さを思い知らされるようで…」
「はあ~。私も先生みたいなメンタルがほしい!」
 岡本は、二人の会話には参加せず、休憩室に入った。
 散らかったデスクに、順正の姿があった。
「先生、もう帰ったらどうですか?」
「もう帰るよ」
 順正はちらりと岡本に視線をやっただけで、机の上のものを片付けようという気配がなかった。
 岡本は息を吐いて、そっと休憩室を出て行った。

「杏奈」
 自室から出て来た美津子は、応接間にいる杏奈に声をかけた。
「琴音さんへのフィードバックを見たのだけれど、彼女は、カパ性の乱れが多いのかしら?」
 杏奈は作業を止めて、琴音への提案事項の内容と、その根拠を思い出そうとした。
 四人も見ていると、誰にどういう不調や疾患があり、どんな体質で、どのような生活習慣を送っているか…頭の中がごちゃごちゃになる。
 杏奈は健康に関する質問票のエクセルを開いて、内容を確認した。
「もともとピッタカパですが、現在はヴァータカパ優位になっています」
 そして、彼女は体重を気にしている。推奨できない食材やアルコールも取ってしまうので、軽さをもたらすような食事や生活法を連ねている。
「確かにカパを増やすものを多く食べているし、体重は重いけれど、その食欲に影響を与えているのは、ヴァータだよ」
 杏奈は、どきっとした。
 この間の事前コンサルでは、自分でも、今はヴァータが増えてますねと話をしていた。
「この食欲の根底にあるヴァータを鎮静する手段について、もう少し強調したほうがいいんじゃない?」
 このままだと、カパを下げることに最も注力せよと言われたのだと、捉えられかねない。
─誤った見解を書いてしまったのか…?
 アーユルヴェーダは定性的な伝統医療であり、病理について、解釈が分かれることがある。必ずしも、美津子の方が正しいとは限らなかったが、この場合は自分が適切なことを書けなかったと判断せざるを得ない。
「も、もう一度考えてみます…」
 そして、見直せば見直すほど、やはりヴァータの性質に言及し、アプローチするべきだという結論に至る。
─生ぬるい。
 白黒はっきりつけない伝統医療の世界だから。
 見解が異なるものだから。
 間違った指摘をしたところで、すぐに重篤な状況に繋がるわけではないから。
 だからといって、間違っていいとは、決して思えなかった。
─アロパシーの医者は…ミスをすることは一度も許されない。
 そういう厳しい環境でやっている。
 自分が呼び込んだクライアントに対して、間違った提案をしてしまうところだった…
─恐ろしいことをしている。
 癒しか、いかさまか。
 注意深くクライアントを見ていなければ、簡単に後者になる。
 クライアントの時間と労力とお金を盗むという罪を、負いたくはなかった。

「あーあ。おれも行きたかったなー」
 ハイウォールにて、久々に順正と会うと、蓮はこの間の鳳来の件で愚痴る。
「昔からそうなんだよ。おばあちゃんに食べ物を合わせろ。おばあちゃんがいるからどこどこへ行けない」
 順正が相槌を打つことはないが、蓮はスピーカーのように喋り続ける。
 母親は勝手だとか、仕事がいつも最優先だとか、祖母の面倒を看ることが自分にいい影響を与えると勘違いしているとか。他の中学生はこんなことやっていない、とも言った。
「今度、いつ行きますか?」
 順正はクライミングシューズを脱ぎながら、蓮を一瞥した。いつになく煙たそうな目をしているので、蓮はさすがに口を閉ざした。
─怒ってる?
 そんな風に見えた。
 実は蓮は、人の感情に人一倍敏感だ。すみれの様子を伺い、身の処し方を選んできたのだから。
「愚痴ったのがいけなかったのかな」
 蓮は傍で聞いていたであろう、前原に尋ねた。
「柴崎さん、言い訳とか愚痴とか、嫌いだもんね」
「分かってんじゃねえか」
 前原はチョークバックに手を突っ込みながら、こともなげに答えた。
─見損なわれちゃったかな。
 こんな愚痴っぽい子供にはもう、付き合っていられないと、見離されたのだろうか。
 蓮は順正のことを気にしながらも、少し登った。が、やっぱり気が散ってしまうので、詫びようと受付スペースへ行った。順正はベンチに座って、クライミング専門誌の新刊を読んでいる。
「あのう、柴崎さん…」
 蓮は順正の隣には座らず、床に座った。
 藤野はカウンターからジムスペースの方を覗いていたが、蓮と順正のほうへ意識を向けた。
「ごめん」
 蓮はおそるおそる、順正を見上げる。
「うるさかった?」
 順正はまだ、パラパラと雑誌をめくっていたが、
「おれが急診で予定をドタキャンした時、おれに怒ったか」
「え?」
 そういえば、そんなこともあった。
「まさか」
 仕事だから、仕方がないことだ。そんな風に求められる仕事をしているということも、蓮が順正をリスペクトする理由の一つですらある。
「じゃあなぜ、母親には怒る」
「…」
 順正は相変わらず雑誌を見ていたが、もう読んではいなかった。パラパラとページを飛ばし、最終的に、ぱたりと閉じた。
「つまり、お前は甘えてるんだ」
 その声は静かだったが、軽蔑するような、揶揄するような響きがあった。
 確かにいつも順正は優しいことなど言わないけれど、声にそんな響きを含ませることは、稀であった。
 それに、
─甘えている…
 その言葉は蓮にとって、ショックだった。
「お前くらいの年であれば」
 順正の低い声が、静かに蓮に突き刺さる。
「母親の代わりに家族の面倒を見られて当然だろう」
 順正は雑誌を棚にしまい、背を壁にもたげ、足を組んだ。視線は自分の膝元に置いている。
「むしろ、成長のチャンスとは思わんのか」
 蓮の心の中で、静かに怒りの火が燃えた。
「柴崎さんも言うんだ。そういうこと」
 蓮は、小声でそう言った。心なしか、語尾が震えていた。
 すみれは、蓮が小さい時から、呪文のようにそう言っていた。
─おばあちゃんと一緒に暮らすことで、老人への思いやりとか、優しさが芽生える。
─施設には入れないよ。その方が蓮の心の成長のためにも、いいことだからね。
 蓮はちっともそんな風には思っていない。
「ばあちゃんを施設に入れないのは、かあさんのエゴだよ」
 看護師の仕事をしながら、実母の面倒も看ている。自分をそんなスーパーウーマンだと思いたいだけだ。
「そのために、おれがどんな影響を受けているかなんて、知ろうともしない」
 蓮は膝を抱えた。
 藤野は少し、顔を二人の方へ向けた。
「影響とは何のことだ」
 順正は蓮を視界に捉えながら尋ねた。
 蓮は、容易に言葉が出ない。自分が感じている影響はいっぱいある。
 見守りをすることによって、この間のように遊びが制限される。食事の補助をする時間を取られる。ただ単に、介護が苦痛。高齢者独特の体臭、排泄物のにおい、その処理をすることも、やりたくない。うめに手がかかるので、すみれは蓮の面倒を看られない。むしろ、すみれは蓮のことを、自分が仕事をするための時間を作る、ヘルパーの一人くらいにしか思っていないのではと感じることがあった。
 でも、そんなことを順正に言ったら、笑われるか、それこそ見離されそうで、怖かった。
「…同級生と連れ合うのが難しくなる」
 それで蓮は、理由らしい理由を、取り繕った。
「お前が同級生と連れ合わないのは、介護による時間的な制約があるからだと思うのか?」
 順正は、蓮を睨めつけるように見た。
「嘘をつけ」
 藤野は、口を出すべきか迷った。
 順正はなにか、腹の虫が悪いのか、いつになくあけすけな物言いをする。
「人と自分を比べて、自分が惨めになるのが嫌なだけだろう」
 蓮は体がカッと熱くなるのを感じた。順正は見透かしたような目で蓮を見、
「お前は家族の中で感じている孤独を言い訳にして、自分が傷つくかもしれないことや嫌なことから逃げているだけだろう」
 そうして貴重な学びの機会を、逃しているのだ。
「そうやって心を閉ざすうちに、自分がますます孤独になるとは、思わんのか」
 蓮には酷だと思われるようなことでも、構わず話す。
「言い訳をしたり、嘘をついたりしているうちに、自分の本当の気持ちが、見えなくなる」
 静かな物言いだったが、順正の声には、明らかに苛立ちの色が見えた。
「そういうことにちゃんと向き合わないまま、他人との接点も失ってしまえば、自滅してしまうぞ」
 蓮は、体操座りをしたまま、身を硬くしていた。
 順正は、視線を再び自分の膝に戻し、それ以上、何も言わない。
 ジムスペースの方ではクライマーたちがトライする音や、雑談する声が聞こえる。
 おもむろに、蓮は立ち上がった。ジムスペースへは戻らず、店のクロックスを履いて、暗い外へと出て行く。
─はあ。
 藤野は、ため息を吐いた。

「柴崎さん、ちょっと厳しいんじゃないですか、あの言い方は」
 藤野はベンチの方に体を向けた。
「僕には、蓮の寂しさも、伝わってきますけどね」
「ふん」
 順正は足を組んだ。
「まだ中二っすよ。子供でもない、大人でもない。すごい微妙な年頃じゃないっすか」
 藤野は、カウンターの上で両手を組んで、諭すように言う。
「甘えたくもあるけど、強がろうともする。でもそういう、矛盾や迷いを経て、みんな大人になっていくんじゃないですか」
 蓮は我儘に見えるけれど、その実とても母親に気を遣っていて、甘え切れないのだ。おそらく、もっと小さい頃から、ずっと。
「その年に応じた、その年らしい子供であることが、ある意味健全なんです」
 だから蓮は今、甘えられないことに怒ったっていいし、もっと我儘であってもいい。
「それを無理やり、早く大人にさせようと誘導するのは、どうかと思います」
 このジムの他の客の中にも、蓮に大人になれと言う者はいる。しかし、藤野は長い時間を蓮と過ごしてきて、蓮の寂しさがよく分かるようになっていた。
 順正は少し顎を引いて、膝の一点を見たまま、微動だにしない。
「人は、正しいばかりではいられませんよね」
 同意を求めるような口ぶりで、藤野は続けた。
「蓮が母親に対し腹を立てるのは、正しくなかったかもしれない。でも、そうなってしまう気持ちは、分からないでもない」
 順正には、そういう気持ちは分からないのだろうか。とても慕っている、この男にこそ、蓮は共感してほしかったのだろうに。
「蓮が母親に対し腹を立てるのは、正しくなかったかもしれない。でも、そうなってしまう気持ちは、分からないでもない」
 藤野は、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「僕は、蓮の母親にも、いけないところがあると思いますよ」
 確かに、蓮の母は、女手一つで子供と実母を養い守らなければならず、仕事の性質上、蓮を頼らざるを得ない時がある。
 蓮がなんと思おうと、すみれにはすみれの事情がある。藤野も、それは分かっている。けれど、その上で、すみれの蓮への責任感、義務感は希薄であると感じる。
「母親っていうのは、子供がたっぷり甘えるためにいる存在じゃないすか」
 そこが、不十分だった、ということだ。
「蓮の気持ちを、誰かが受け止めなければ、偏っていってしまいますよ」
 そこまで言った時、順正は組んでいた足をほどいて、背中を壁から離した。
─何か反論されるか。
 藤野は思わず、身構えた。
「じゃあ、蓮を甘やかす役は、藤野さん、お願いします」
 藤野はだははと笑った。そうきたか。
「いや、僕もどっちかというと、叱るタイプですけど」
 これが莉子であれば、まだ少しは優しくできる気がするが。
「僕、女の子には優しいですけど、男には厳しいんで」
 男らしさ、女らしさ。男だから、女だから。そういう垣根をなくしていこうという風潮がある。
 しかし藤野の年代の、このジムにいるような男たちは、みな、男には厳しく、女には不器用な優しさを見せるところがあった。
「まあ、子供のいない僕らが、いくら議論したところで、蓮の母親の気持ちは分かってあげられませんけどね」
 母親の気持ちを代弁して、蓮に伝えてやることもできない。
 ただ、蓮のことを知る第三者として、見守ってやることくらいしかできないのだ。
 藤野の言葉には答えず、順正はすっと立ち上がり、ジムスペースの方へ移った。
 蓮の愚痴が耳障りで、先ほどは、登りに集中できなかった。三壁の新しい課題を考察して、登る。
「柴崎さん、蓮を叱っちゃったんですか」
 何度目かのトライが終わった時に、田沼がいつも通りのおどけた表情で話しかけてきた。少しタバコ臭いのは、今しがた外にタバコを吸いに行ったためか。そこで蓮の様子を見かけたのかもしれない。
「柴崎さん、メンタル強いから。それを軸に物を言っちゃうと、きついんじゃないかなぁ…」
 顔はへらへらしているが、田沼は真面目に考えたことを喋っている。
「蓮はなんていうか…普通ですから」
 順正とは対角線上にある壁を眺めていた前原は、背を向け合って立っている順正を、ちらりと振り返った。
 田沼の言葉に順正は答えず、ただ自分の登る壁だけを眺めている。
─感受性、か。
 順正は課題の最初のホールドに触れた。
 蓮と自分とでは、それが異なる以上、もう余計な口出しをしない方が良いのかもしれない。
 順正はごく小さなホールドを足先で蹴った。
─受容。
 のっぺりとした二つ目のホールドに手をかける。
─共感。
 右足と左足をスイッチして、体を壁に寄せながら、左手でホールドを押しつつ、右手で次のホールドを捉える。指二本しか入らないそのホールドで、体を支えながら、のっぺりとしたホールドに右足をおく。
─優しさ。
 左手のホールドに、左足をのせ、指二本で身体を支えながら、左足に乗りこむ。 
─育成。
 不安定なホールドを左足で押し、左手で、最後から二番目のホールド、指をかける面積が極めて少ないカチを取りに行く。
─降伏。
 右指二本を入れたホールドに、右足をかけ、右手を離す。カチを両方の指で捉え、右足を信じて、乗り込むしかない。指がかかっている面積が非常に少ないだけに、終了点に手を伸ばし、二点支持になった瞬間に、落ちる可能性があった。
─愛情。
 はたして、指で支えきれず、順正は落ちた。
 思えば、自分はそのどれもが足りていない。美津子が昔話していた、すべての人がもつ対極となる性質。今順正が思い浮かべていたのは全て、女性性の特徴だ。蓮に対して、自分がそれらを補填できるとは思えない。
 代わりに誰が、蓮の甘えを受け止め、向き合うべきことに向き合わせてくれるだろうか。
「おしかったっすね」
 田沼の声かけは、右から左に耳を通り抜けていった。
─自分が傷つくかもしれないことや嫌なことから逃げているだけだろう。
 蓮に言った言葉は、そのまま自分に返ってくる。

 上沢中、桜台中の二、三年生が上沢中学校の体育館に集められ、性教育講演が行われた。
 講演者は、松下クリニックの助産師・森。
 テーマは大きく二つ─妊娠の仕組みと性的同意。センシティブな内容も含まれていたが、中学生たちはびっくりするくらい真剣に聞いていた。
「柴崎先生じゃなかったね」
 桜台中学校まで移動するバスの中で、通路を挟んで隣に座っている莉子が、こっそりと蓮に言った。
「ああ」
 蓮は曇った表情で、くぐもった声を出した。少し不貞腐れたような顔に、莉子には見えた。順正と喧嘩でもしたのだろうか。
「もうすぐ産まれるんだ」
 莉子が、ぽそっと言った。周囲の学生たちの声で埋もれるくらいの、小さな声で。
「弟」
 蓮は通路の床をぼんやりと眺めながら、
─もうそんなことになってるのか。
 と、ちょっと驚いた。
 莉子が新しい家族の中で疎外感を感じ、髪をベリーショートにして学校にやって来たのは、ついこの間のことのように記憶に新しいのに。
「すごいことが、起こってたんだね」
 母・美穂の身体の中で…
 今バスの中にいる学生、先生、運転手…すべからく、同じ道筋を辿って、産まれてきた。誰も教えていないのに、産まれる前から、産まれるためのやり方を知っていたのか。
 妊娠のしくみは、莉子にはとても不思議に思えた。そして、無事に生まれてくることは、奇跡であるということ。
「もしかしたら、死ぬかもしれないんだ」
 出産には、何があるか分からない。いっそう小さな声でつぶやいた莉子の顔を、蓮は、横目でひっそりと捉えた。
 その日の最後の授業は、体育だった。
「はーい、じゃあ、ペアを作って」
 この日の授業はマット運動で、体育館で行われた。
 交友関係が得意でない学生にとって、学校生活は、時に酷だ。仲のいい友達がいない子は、グループでことを進めなければならない時に、苦痛を感じる。学生の数が奇数であれば、なおのことそうだ。余り物になって恥晒しになって、適当に違うペアのとこに入れられて、気まずくなる未来がもう見えている。
「どうする?」
「今日あいつ休みだしな…」
 いつも四人でつるんでいる男子グループが、ひそひそと話し合いをしているのを、蓮は聞いた。そのうちの一人が、今日は欠席しているのだ。
「悠真」
 蓮は、三人のうちの一人に、声をかけた。蓮が小学校の頃、仲が良かった男子生徒だ。
「一緒にやろう」
「…」
 悠真は、珍しく蓮から話しかけてきたことに、少し戸惑っていたが、他の二人と顔を合わせると頷きあって、
「いいよ」
 それから蓮に、そう言った。
 この日練習する技は、倒立前転。
 タブレットに入っている授業カードに自分の課題を記入してから、ペアでアドバイスをしあって、自己課題を克服する。その時、お互いの動画を撮り合い、授業カードの動画部分に貼り付けなければならなかった。
「それ、後でやれよ」
 蓮は端末と向き合っている悠真に言った。
「なんで体育の授業なのに体を動かさずに、こんなタブレット操作なんかしなきゃいけねえんだよ。ばかばかしい」
 こういった痛烈な批判をする癖は、どうやら順正からの伝染らしかった。
「動画撮るのに必死になって相手を見ずに、撮った動画をもう一回見るなんて、二度手間じゃね?」
 悠真は、後でやれなんて指示されたことにムッとしていたが、そう言われてみると、自分も蓮と同じことを思っていた。
「ほんとだよな」
 悠真はタブレットを置いた。
「体育なんか、体を動かせればいいんだよ」
 唯一そういう授業なのに、他の授業と同じようにタブレットを触っていてどうするのか。
「ほら、やってみろよ」
 悠真は、マット運動が少し苦手だった。
「大丈夫だよ。ヤバそうだったら支えてやるから」
 そう言った蓮が、悠真には、少し心強く思えた。
 小学生の頃は、蓮は自分よりも身長が低く、線の細い体つきをしていた。今でも細いのは変わらないが、背丈は平均よりやや高くなり、自分たちより筋肉が発達してみえた。
「にしても、いる?倒立前転って。人生において」
 悠真が着地に失敗して、マットからはみ出しそうになったのを補助した後で、蓮は言った。
「本当だよな」
 悠真は思わず笑った。
 
「じゃあ、行ってきます」
 その日、文也は遠くの現場に行くからと言って、いつもより早めに家を出た。
 美穂はそれをキッチンで莉子と一緒に食事をしながら見送った。美穂はその時、生理痛のような痛みを覚えていた。
「莉子も、あと十五分くらいだよ」
「分かってる」
 莉子はご飯を適度に噛むと、あとは味噌汁で流し込んだ。この頃、夜は少し肌寒くなり、布団の中が心地良くて、つい寝すぎてしまう。
「流しに置いといて…」
「うん」
 莉子は食器を持ってキッチンへ回った。
─う…
 美穂は心の中で呻いた。また、生理痛のような、下す前のような感覚。予定日が、近い。
─もう一回来たら…
 気のせいではないかもしれない。美穂はお腹に手を当てた。念のため、陣痛バッグは玄関のクローゼットに入れてあるが、使う時が近いのかもしれない。
 莉子は洗面所で髪を梳かし、歯を磨いた。ベリーショートにしていた髪は、今、肩につくかつかないかというところまで伸びていた。
「お母さん、行ってきま…」
 声をかけようとダイニングまで戻ってくると、美穂はテーブルの上に両肘をついて、なんというかこう…
─力んでるみたい。
 少し険しい表情をしていたが、莉子が来たことに気が付くと表情を和らげて、
「ああ、行ってらっしゃい」
 まだ美穂には、陣痛が来たという確信はなかった。莉子には自分の状況を伝えず、学校に送り出す。
 莉子は通学路を歩きながら、母親の様子が気になった。
 一時間目が終わり、二時間目も終わりに近づいているけれど、莉子はちっとも、授業には集中できなかった。
─出産は命がけだ。
 順正がそう言っていたことを思い出す。それから、数日前の、あの講演。
─言いたいことがあるのなら…いつでも言えるとは、思わないことだ。
 また順正の言葉が脳裏に蘇る。
 まさか、そんなこと。
 美穂に限って。
 確率は極めて低いが、しかしゼロではない。
 莉子は急に不安になった。
 二時間目が終わると、莉子は一目散にロッカーへ行って、スマホを起動する。そして誰に憚るでもなく、その場で美穂に電話をした。
『なに、莉子。どうしたの?』 
─お母さん!
 いつもと同じ声色だったが、言葉の合間に聞こえる呼吸が苦しそうだったので、
「ねえ、大丈夫?」
 莉子が察したということに、美穂も気づいた。
『…大丈夫だよ。もう少し、陣痛が強くなってきたら、お医者さんとこ行くから』
「私、そっち戻るから、待っててね!」
 莉子はそう言うと、美穂が何か言う前に、電話を切った。
「先生!」
 次の授業を担当する教師に、莉子が急き込んだ様子で何かを伝えているのを、蓮は窓際の席から見て、
─きたのか。
 状況を察した。
 莉子は、早退した。
 セーラー服のスカートをばっさばっさと揺らしながら、莉子は全速力で走る。
 はっはっはっはっ
 息を切らして、人通りの少ない歩道を駆ける。
「お母さん!」
 自宅に帰った時、美穂はちょうど、電話を切ったところだった。
「タクシー呼んだから。…莉子も来る?」
「うん」
 莉子はリュックを置いて、母親に駆け寄った。
 美穂は膝を床につき、ソファに肘と上体を預けて、陣痛に耐えている。もしかしたら自分が戻るまで、タクシーを呼ぶのを待っていたのかもしれなかった。
「…学校に行ってても、よかったのに」
「いやだよ」
─心配じゃん。
 莉子はその言葉を飲み込んで、美穂の腰をさすった。
 美穂は、今日陣痛を迎えても、莉子には学校に行っていてもらうつもりだった。陣痛は長い。その間ずっと、莉子に付き添わせるつもりはなかったし、あの痛みに耐えている間の自分を莉子に見せていいものか、不安があった。
─お前もいつかは…。
 そう思うと、取り乱さずかっこいいお母さんとして、出産に臨まなければならない。それがプレッシャーだった。
 松下クリニックに着くと、検査をした後、美穂は分娩室ではなく、個室に入れられた。まだ陣痛のピークを迎えていないのだ。
「ピークじゃない?こんなに痛がってるのに?」
 莉子は愕然とした。
 この時病室まで美穂たち母娘に付き添ったのは、助産師の岡本。
「でも、お母さんは経産婦だから、初めて出産をする妊婦さんの半分の時間で産めるかもしれないね」
「は、半分?」
 莉子は血相を変えた。
─じゃあ、私を産む時には、この倍の時間、こんな風に痛がってたってこと?
 莉子は母親の背中に手を当てながら、もうすでに泣きそうになった。美穂の体が熱を帯びている。
─痛いんだ。
 母親が痛がっている姿を見るのは、莉子には苦痛だった。
「莉子ちゃん」
 岡本は莉子を見つめて、冷静に言った。
「まだ時間がかかると思う。談話室で待っていてもいいよ」
 莉子は岡本をみつめた。ラベンダー色のスクラブを着た、まつ毛の長いきれいな助産師。
 莉子には見覚えがあった。まだ春を迎えた頃、無月経になった自分に色々なことを聞いてきた助産師だ。美穂がこんなに痛がっていても冷静に、落ち着いた対応をしている。
「…い、いいです」
 莉子は母親の手を、握り直した。
「私、ここにいちゃダメですか?」
「…いいえ」
 岡本は目を細めて、
「すぐ戻るから、お母さんの背中、しっかりさすってあげててね」
 そう言うと、岡本は踵を返し、個室から出て行った。
 莉子は美穂に視線を戻した。美穂は痛みに耐えながらも、懸命に呼吸を整えようとしている。
「お母さん…」
 莉子は自分の手が汗ばんでいるのを感じた。母親の熱が伝わったのもあるだろうが、それだけではない。
「私、そばにいるよ」
 それを伝えるのに、とても、勇気がいったのだ。
 今だけじゃない。
 莉子は美穂の背をさすりながら、心の中で、もう一度言った。
─ずっと、そばにいるよ…。

 

 

 


 

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