睡眠はすべての生物の自然な活動である。
睡眠は、健康的な人であれば、夜、規則正しい時間に、自然と発生する。
「人は眠らずにいることはできないですよねェ」
杏奈は他の参加者たちと同様、ノートにメモを取った。メモを取りながら、ゲイルが取り立てて特別なことを言っているわけではないことに気が付く。
「ニドラとは睡眠を意味します」
言われるまでもなく、ニドラは肉体的、精神的健康にとって非常に重要であり、健康的な生活に必要なものである。ニドラは肉体的、精神的なリラックスをもたらし、ストレスまたはストレスに関連した病気を予防する。睡眠が足りないと、精神、感覚器官、消化器、排泄器、生殖器など、身体の多くのシステムに障害をもたらす。
「では睡眠は私たちにどんな恩恵をもたらすのでしょう?」
ゲイルはその灰色の瞳を、生徒一人ひとりに向けながら、問いかけた。
「体が回復します」
そう答えたのは妙子である。
「脳も回復します」
杏奈がそれに付け加える形で発言した。
「リラックス」
「起きている間は働いていない機能が活性化する」
口々に考えを述べる。
ニドラは当たり前の習慣過ぎて、それがどうして必要か、どんな恩恵があるかなど、考えることは少ない。ただ、その必要性は、みんなが分かっている。
「いいですねェ、みなさン」
ゲイルの話し方は独特である。話し方だけでなく、きっと、他にも独特な側面を持つ人なのだろうと、杏奈は感じた。
喋っている間、ゲイルはとてもにこやかだ。しかし、生徒たちと深く関わり親しみたいという意思、親密さをとても感じるかというと、そうではない。
「おっしゃるとおり、ニドラの間、私たちは心も身も、リラックスできます。修復、治癒されます」
日々の仕事をこなす能力が回復するのだ。
「熟睡は肉体に栄養を与えます」
ゲイルは、どこか夢見心地の、恍惚とした表情で話した。
「やすらかな、ほどよい長さの睡眠によって得られるのは、幸福、滋養強壮、力強さ、知識、それから、長寿です」
ニドラは若々しさ、目の輝き、血色の良い肌を得るのにもまた役立つ。記憶力と知性を与える。
速記してもとても追いつけないスピードで話が進むが、ゲイルは次の言葉を喋るまでに、十分な間を空けている。生徒たちはその間に必死にメモをした。
「逆に、不適切な睡眠は、悲しみ、衰弱、痩せ、インポテンツ、不妊、さらには死につながります」
適切な睡眠が取れれば、体格や感覚器官は発達し、適切に機能する。ニドラは免疫力を高め、早期老化に抵抗するものなのだ。
「睡眠は、神聖な万能薬に匹敵します」
素晴らしいでしょう?
ゲイルはそう言わんばかりの、うっとりした表情になった。
「ニドラはどのように引き起こされるのでしょう?」
ゲイルはまた、別の問いかけを出した。
生徒たちはノートから顔を上げ、思案した。
「夜になると、眠くなります」
最初に口を開いたのはまた妙子だった。ゲイルは妙子に視線を向けつつ、
「どうして夜になると眠くなるのですか?」
妙子は首を傾げた。
「日中に活動をしていると、疲れてきます」
隣に座っているひかりが助太刀をした。
「心と体が動ける時間は限られていて、一定の期間をおいたら休まなきゃいけないようにできている…」
ゲイルはウフフと笑って、他の人たちの見解を促すように、杏奈と楓を見た。
「私もそうだと思います」
楓はそう答えた。
「太陽が出ている間は起きて、日が沈むと眠りに備えるというように…人間の体には、サイクルができている」
そう答えたのは杏奈だった。
「体内リズムによって、睡眠が起きる…」
なぜ眠れないのかを考えたことはある。けれども、睡眠がどのように誘発されるかなどといったことは、改めて考えたことがない。なぜ眠りたいという生理的欲求が出て来るか、などといったことは…
「みなさン、いいですねェ」
ゲイルはうんうんと頷いた。
「この合宿に参加されている皆さンは、ヨガとアーユルヴェーダの知識をある程度お持ちのはずですが、インドリヤのことはご存知?」
ヨガとアーユルヴェーダの基礎知識を有することが、合宿の参加要項であったとは、杏奈は初耳だった。
─インドリヤ…聞いたことはあるけど…
サーンキヤ哲学を学ぶ途上で出て来た。確か、感覚器官と行動器官だった気がするが、よく思い出せない。他の参加者たちも首をひねった。
「分かりません」
「詳しくは…」
参加者が口々に正直に答えると、
「分かりました」
ゲイルは部屋の隅からホワイトボードとペンを持ってきて、例のチャクラが描かれた柱に立てかけた。柱の支えがないところにペンを当てると、ボードが傾いてしまい、ゲイルは「あううっ」と言いながらホワイトボードを押さえた。
─Pancha jnanendriya 五知根・五感覚器官
─Pancha karmendriya 五作根・五行動器官
すらすらっと英字と漢字を並べて、ゲイルは生徒たちに向き直る。
「ニャネンドリヤはエネルギーを物理レベルで知覚する機能。五つの感覚器官とは、目、耳、鼻、舌、それから、皮膚です」
ちなみにパンチャが五を意味する。パンチャマハブータのパンチャと一緒である。
「カルメンドリヤは、運動の働きを担うもの。具体的には、生殖器官、排泄器官、歩行器官、把握器官、発声器官です」
この五つの行動器官を通し、行動を生み出したり、世界と関わったりする。
「先ほどどなたかがおっしゃっていた通り、私たちは日中、これらのインドリヤを活用しています」
例えば今、ゲイルは目で生徒の反応を捉えて、発声器官を通して説明をする。
「感覚や運動知覚に耽った後、心は疲れ果て、それ以上心を働かせたり、知識を受け取ったりすることができなくなり、世俗的なものからの離脱が起こります」
この段階で、人は眠りにつくのだ。
「さらに睡眠中、これらのインドリヤは、知覚すること、それぞれの仕事から切り離され、不活性になります」
睡眠により、インドリヤは休む時間を与えられ、回復する。
科学的には、脳には睡眠を誘発する中枢がいくつかあり、そうした中枢を刺激すると睡眠が誘発されると言われている。刺激の中には、杏奈の言う通り、太陽光も含まれる。しかし、これらの中枢が損傷を受けると、不眠や不眠症になる。
「ニドラは、それが引き起こされる原因によって分類されます」
ニドラには種類がある。
「いろいろな分類の仕方がありますが、ここでは、アチャリヤ・ヴァグバタ(Acharya Vagbhata)氏の分類の仕方を紹介することにいたしましょうか」
そう言うと、ゲイルはホワイトボードの文字を消し、新しい文字をすらすらと書き連ね、それぞれどのような原因による睡眠なのか言及する。
その説明によると。
・Kalaswabhawaj(カラスワバワジ):夜、慣れた時間に生じる。
・Amayaja(アマヤジャ):病気の影響によって生じる。
・Mana(マナ・心)の枯渇によって生じる。
・Sharira(シャリラ・肉体)の疲労によって生じる。
・Shleshmaprabhavaj(シュレシュマプラバージ):カパの優位性により生じる。
・Agantuka(アガンチュカ):外的要因(トラウマなど)によって生じる。
・Tamobhava(タモバヴァ):タマスの優位性によって生じる。
この中で、カパの優位性、タマスの優位性という言葉は、アーユルヴェーダを知っていなければ、理解できなかったであろう。
杏奈はノートに写した文字をまじまじと見つめ、理解不能な部分がないか探っていった。
「睡眠」という一つのテーマを、杏奈はここまで広げて喋れない。
ゲイルが睡眠について掘り下げて説明しているのは、後に伝える「ヨガニドラ」の価値を、生徒たちに強く意識してもらいたいからであろう。
ゲイルは次に、日中の睡眠(Divaswapna ディワスワプナ)について話した。
彼女によると、日中の睡眠は間違いなく不適切であり、すべてのドーシャを悪化させる。したがって、人は夜起きていてはいけないし、昼間に眠ることも避けるべきである。ただし、日中に眠り夜起きる習慣のある人は、そのような睡眠や覚醒は害をもたらさない。
「次に挙げる人たちは、日中、一ムフルタ(muhurta)、つまり四十八分の睡眠は禁止されていませン」
─四十八分て。
参加者たちは絶句した。短い、という印象よりも、その半端な数字に驚いた。
杏奈は、後に自身で調べ、その意味を知ることとなるのだが…ムフルタとはヒンドゥー教の時間測定単位であり、時間の区分である。一日の三十分の一、または四十八分間を表す。「瞬間」という意味もあるようである。このムフルタで考えるから、分に直した時に半端になるのは仕方ないことなのかもしれない。
ともかくも、日中一ムフルタの睡眠が許される人とは。
・子供
・老齢者
・衰弱者
・負傷者
・疲労困憊している者
・妊婦(特に初期)
・夜中に授乳をしている者
・歌手
・学問に励む者
・酒に酔った者
・夜中に性行為を行った者
・パンチャカルマをしている者
・重い荷物を持つ、長距離を歩くなど、肉体的な消耗の激しい職業に就いている者
・乗り物による旅で疲れた者
・怒りや悲しみ、恐怖に悩まされた者
・昼間の眠りに慣れている者(深夜労働者)
これらに該当しない場合でも、グリシュマ・リトゥ(夏の季節)の間は、日中の睡眠を取ることがふさわしい場合もある。夏は乾燥し、夜が短く、ヴァータが蓄積するという特徴をもつからだ。ただし、夏以外の季節の日中の睡眠は、カパとピッタの乱れを引き起こすため、好ましくない。
さらに、お腹がいっぱいな状態で昼寝するのも望ましくない。
日中の睡眠は不規則性を引き起こすが、座った姿勢であれば影響は少ない。
夜間に目を覚ましていた人は、その覚醒していた時間の半分だけ日中に眠ることが望ましい。
また、次の者は昼寝をしてはならない。
・Meda(メーダ):脂肪過多の者
・Sneha Nitya(スネハ・ニティヤ):不潔な物質の摂取による中毒者
・Shelshmala(シェルシュマーラ):カパ体質の者
・Shleshma Roga(シュレシュマ・ローガ):カパ性疾患に苦しむ者
・Dushi Visha(ドゥシ・ヴィーシャ):毒に苦しむ者
「みなさン、大丈夫です?」
すでに集中力を切らしてきている生徒がいるのを見て、ゲイルは声をかけた。
「ごめンなさいねェ、私、よく眠くなる声だって言われるので」
─そうじゃないよ…
と、その場にいた生徒たちの誰もがそう思った。眠気を覚える原因は、明らかに、ゲイルの声質の問題ではなく、講義内容の難解さだ。
ゲイルの声は、高くて、か細くて、鈴が鳴るようで心地が良いと、杏奈は思う。杏奈もまれに「一緒にいると眠くなる」「喋ってるのを聞くと眠くなる」と言われることがあった。しかし、それは声の性質のためではない。その時自分が眠たかったからだ。やる気のない状態で接していたり、喋っていたりすることが多かったので、周りにそういう印象を与えたのだろう。あかつきに来てからは、日中眠さを覚えることはほとんどなくなったが。
「今日の講義は、ニドラナーサ(Nidranasa)についてで終わりにしますねェ」
言葉が踊っている。ゲイルの口調を比喩すれば、そういう表現になる。穏やかで一定のリズムの言葉の流れの中にも、抑揚がある。
さて、ニドラナーサであるが、これは睡眠不足、睡眠障害、不眠症を意味する。アニドラと呼ばれることもある。
ニドラナーサは次のことが原因となる。
・恐怖、不安、怒りなどといった感情
・喫煙
・過度の運動
・断食
・寝心地の悪い寝具
・タマスの抑制
・仕事に打ち込んでいる
・メディアなどからの刺激
・過度の思考
・過度な性交
・老齢
・体調不良
・痛みを伴う病気
・瀉血や嘔吐による過剰なドーシャの体外排出
・過剰な吐血・出血
この他、アーユルヴェーダでいうところの、ヴァータとピッタが悪化しても、ニドラナーサに陥りやすい。
ニドラナーサに陥ると、うつ、心身の疲労、涙目、目に関連する他の問題、攻撃性、興奮、記憶及び知性の喪失、身体の痛み、身体の重さ、眠気、あくび、惰性、めまい、消化不良、怠惰などが起こりやすい。
「ニドラナーサの症状を和らげるには、毎日の心地よく規則的な習慣と、食事、浄化と自然療法、そして何よりも…ニドラナーサを引き起こしている原因を排除することが効果的です」
そして、ニドラナーサを緩和するテクニックの一つが、ヨガニドラである、というわけだ。
ゲイルは生徒たちに向かって、にっこりした。
「ご質問は?」
杏奈は、岩手県出身の都内在住OL、楓と相部屋になっていた。
夕食までの時間、杏奈は先ほどの講義内容をパソコンにまとめために、共有スペースに行くことにした。すると、楓は杏奈について来た。
「私、作業してると思いますよ」
暗に「話し相手にはなれない」ことを伝えたが、楓はそれでも杏奈の向かいに座った。
ノートを見ながら、先ほどの講義で聞いたことを入力していく。その過程で分かりにくかったところをあぶり出し、調べ、知識を補強する。質問も捻出しようと思ったが、これという質問は出なかった。
楓はスマホを触りながら、途中ちらちらと杏奈の様子を伺っていた。作業してる、とは言ったが、本当に喋らず三十分近く黙っているとは思わなかった。その間、杏奈は一言もしゃべらなかったし、楓は一言も話しかける気がなかった。
─すごい集中力…
話しかけられるような雰囲気ではなかった。
カタカタとタイピングをしたり、マウスをクリックしたりする音はしばらく止まず、それが止んでからも、杏奈は鋭く視線を動かすだけで、喋りはしない。
「杏奈さんて」
楓がようやく声をかけたのは、杏奈がふうと一息吐いたからだった。
パソコンの操作音が聞えなくなると、いつの間にか、隣室からなのか、炊事の音が聞こえてくる。
「…はい?」
「あ、すみません」
楓は肩をすくめた。楓はとても痩せており、オーバーサイズのセーターの袖口が、手の平の真ん中まで届いていた。恐縮したような楓に、杏奈はにこっと笑いかけて、
「ちょうど、今終わりました」
何だろう?という顔で、楓を見る。
「杏奈さんて、ヨガの先生ですか?」
「いいえ。ヨガの資格は持っているのですけど、仕事として活用できてはいないんです」
ノートパソコンを閉じながら、楓の問いに答えた。
「そうなんですか」
楓は意外そうな顔をした。
「てっきり、生徒に伝えたいからヨガニドラを教わりに来たのかと」
「あ、それはそうではあります」
ヨガは教えてないのに、ヨガニドラができるかは、いまいち自信がないが。
「楓さんも?」
「私もゆくゆくは。今は普通に会社員なので、いつやるかは分からないんです。でも、いつか…と思って」
ちょうど休みが取れたので、講座は受けておくことにしたのだそうだ。
「杏奈さんは、お仕事は何を?」
「私は…」
楓から逆に尋ねられ、杏奈は、あかつきというアーユルヴェーダ施設で働いていると告げた。
「あかつき…」
ちょうどその時、共有スペースの扉が開いて、妙子とひかりが中へ入った。その後ろには、ゲイルの姿がある。
「みなさン、もうそろそろ夕食の時間ですよ」
みんなを同じテーブルに座らせると、ゲイルはちょこっと首を傾けて、目を細めた。
「いただきながら、みなさンでおしゃべりしましょう」
用意された料理は、全て、ベジタリアン仕様だった。
玄米ごはん、豆腐ベースのグラタン、海藻ときのこのネバネバ和え、野沢菜のお浸し、車麩の煮物、高原野菜のロースト、それからなぜか、パパダン。
食べながら、それぞれ自己紹介しあった。みんなそれぞれ目的があって、ヨガニドラ養成講座に参加している。
ヨガを自主開催しているひかりは、そのプログラムにヨガニドラを組み入れるという目的があった。
サロン経営者である妙子は、睡眠の問題を抱えるお客に、ヨガニドラを受けるという選択肢をもってもらうために、まず自分が知識をつけにきた。
杏奈の目的も、先の二人とほとんど同じであるが、現在の勤め先とその異質性が、聞く者の注意を引いた。アーユルヴェーダの施術、ヨガ、食事、自然体験、ディナチャリヤに沿った生活…統合的なアーユルヴェーダサービスを提供できる施設自体が、珍しかったのである。
「アーユルヴェーダの料理人、かつ、セラピスト?」
そのあかつきで、杏奈が果たす役割に興味を持ったのは、参加者だけではない。
「素敵」
お誕生日席に座っているゲイルは、合掌するように両手を胸の前で合わせた。
「私、アーユルヴェーダにとっても興味があるんですよ」
鈴が鳴るような可愛らしい声が響いた。
─いや、興味があるどころではないでしょう。
─さっき、自分が講義してたんじゃ…。
ゲイルの何気ない発言に、みんな心の中で突っ込みを入れた。
窓側に座る杏奈は、ひかり越しに、ゲイルの顔を覗き込む。ゲイルは、美人であることには違いない。けれど、正統派美人というよりは、どこか不思議な、個性の強い美人顔だった。顔つき自体が独特、というよりは、彼女のもつ雰囲気が、そう見せているのかもしれない。
話題が一人に集中しないよう、それぞれ気を遣って、話題を分散させていたが、いつの間にか話題は杏奈とあかつきに傾いた。
「アーユルヴェーダのごはんって、どんな感じなんです?」
「どんな…」
今まで、何度も何度もその説明をしてきた。それでも、アーユルヴェーダ料理の説明をするのは難しい。様々な要素があり、答えがあるようでない。
「アーユルヴェーダ料理というのは、本当に個性的なものなんです」
人それぞれ、さらに、食事をする瞬間瞬間で、必要な要素は異なる。
ゲイルは口を挟まず杏奈の話を聞いていた。その口角は常にきゅっと上がっていた。
「みなさんのお仕事のことももっと教えてほしいです…」
杏奈は自分とあかつきから話題を逸らした。もともと、美津子と二人で黙食することが多く、こうして対等な立場の生徒同士で喋りながら食べることに、慣れていなかった。
ちょうどその時、扉が開いて、お盆をもつ一人の青年と、一人の老婆が入ってきた。
「シェフの望月と、母です」
望月と呼ばれた男とゲイルの母親は、生徒たちに会釈をしただけで、声は発さなかった。隣のダイニングテーブルにお盆を置き、ソファに座ってそこで静かに食事を始める。
─この方が…
この老婆こそ、美津子がスリランカのアーユルヴェーダ施設で出会ったという、田島朝子に違いない。もう現役を退いたのだろうか。顔には深い皺がいくつも刻まれ、少し背中が曲がっている。
「じゃあ、今日の料理はみんな望月さんが作ったんですか?」
楓は七割方平らげた後のお皿を見ながら、小声で尋ねた。
「もっちーでいいのよ。もっちー」
ひと際キュートな声で、ゲイルが言った。語尾にウフフをつけて。
名前を呼ばれたもっちーこと望月は、ちょっとだけ顔をこちらに向けた。若く、痩せた男である。
「え、えーと、このお料理はもっちーさんが?」
楓はひどく狼狽し、他の生徒三人は失笑していた。
「ンー、今日はほとんどもっちーね。私が作れない時に、手伝いに来てくれてるの」
すずかげは、登山シーズン、登山客を受け入れるペンションでもある。そういう時には、講義などはせず宿泊業に専念するため、ゲイルが調理をする。
「すごい。おいしいですね」
地のものを使った料理はどれもおいしい。ほんのりゴマの風味がする玄米ごはんも、全て大豆製品で作られたグラタンも、甘味が凝縮された高原野菜も…
ゲイルは参加者に話を振っていたが、杏奈は、ゲイルと朝子のことをこそ、もっと知りたかった。
食事が済んだあと、杏奈は、隣のテーブルで一人お茶を飲んで佇んでいる朝子に、勇気をもって話しかけに行った。
「あの…朝子さん、ですか?」
朝子は、少し腰をかがめて尋ねてきた杏奈に、顔を向けた。
「あの、磯貝美津子の紹介で参加しました、古谷杏奈です」
名乗ったが、朝子の反応は鈍い。
「スリランカアーユルヴェーダ施設で、ご一緒になったと聞きました。あの、磯貝美津子さん。覚えてらっしゃいますか…?」
美津子から話がいっていたはずなのに、おかしいなと思いながら、杏奈は再び美津子の名を出した。
朝子の反応は、遅れてやってきた。正面を向き、二度ほど茶を啜り、フォーと息を吐いてから、
「あの子の顔は、覚えとるよォ」
そう言ってからまた、顔を杏奈に向けた。
杏奈は目を丸くした。焦点が合っているようで、合っていないような視線と、夢見心地な話し方…この人はまさしく、ゲイルの母親なのだ。
「きらきらした瞳の子だったンでね」
「…そうなんですか」
美津子がスリランカに渡航していた時期は正確には覚えていないが、杏奈は、その頃の美津子がどんな感じなのか知りたかった。
「あの、美津子さんとは、その施設で仲良くなられたんですか?」
「いやいや」
予想に反して、朝子は手を振った。杏奈の後ろで二人の話を聞いていたゲイルは、誰もいなくなったソファに音もなく座る。
「軽く会話したくらいだよ」
「そうなんですか」
「ああ。その後、何年か経って、急に私の元に学びに来たンだよ、あの子は」
「朝子さんのところに…」
なんのために?
「あの、美津子さんは何を学びに…」
「チャクラ瞑想ですよォ」
「チャクラ瞑想…」
杏奈はオウム返しに言いながら、
─あ…
と、心の中では一つのことに思い至った。
杏奈が心を奪われ、折りに触れて聞き返している、美津子のガイド付き瞑想…
美津子は今や、様々なバリエーションを作っているが、その瞑想の根本的な技は、この人から教わったのだ。
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