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第111話「同じ夢を見る」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「あ、鈴木さん、あけましておめでとうございます」
「森ちゃん、あけおめ~って前も言わなかったっけ?」
「そうでしたっけ?」
 森はあくびをしながら、ほとんど脊髄反射的に答えた。
 松下クリニックでは、今日から外来診療が再開する。といっても、年末・年始の間も入院業務は続いていたので、助産師たちはこれが仕事始め、というわけではなかった。
「ま、寝正月になるよりマシか」
 クリスマスから正月にかけては、ご馳走をたべる機会が続く。
「体型管理に役立つとプラスに考えよう」
 鈴木はポジティヴな発言をしたが、森は顔を曇らせて、
「いや、仕事あるとかないとか関係なく、太りましたよ、私…」
「え~?そういえばここらへんがふくよかになってきた気がするなぁ…」
「イテテテ」
 鈴木に頬をつままれて、森は抗議するように手をバタバタさせる。
「年始の当直ごはん、めっちゃおいしくなかったですか?」
「はぁ?私食べてないんですけど」
「おいしかったですよ~。普通にデパートの高級おせちよりおいしいと思った」
「その結果がここに出てるわ~」
「あわわわ」
 先ほどと同じことを繰り返す二人に、
「おはようございます」
 と大人しい声で挨拶をしてきた者がある。
「あけましておめでとうございます。あの、お休みありがとうございました」
 新米助産師の夏目だった。
 年末年始、スタッフが連休を取れるようシフトは配慮されたものの、人数が少ないため、大した連休にはならない。その中で、唯一まとまった休みをもらっていたのが、夏目だった。夏目は勤務中に体調を崩すことが多く、メンタルの弱さを自覚しており、このまま助産師を続けるべきか悩んでいた。家族や友人に相談する時間が必要だろうと、看護師長が配慮したのである。
「夏目さん、どう?少しは元気になった?」
 あけすけに、森は訊いた。スタッフの中では最も年齢の近い森と鈴木は、夏目のメンターのような役割を自主的に担っており、遠慮は不要だった。
「あ、はい…なんとか」
 夏目はちょこっと笑った。
「よし。またなんかあったら相談するんだぞ」
 鈴木は拳を夏目の方へ向けた。
 アドバンス助産師の草壁や岡本を筆頭に、助産師は仕事への使命感が強い者が多く、夏目はそういう先輩たちと自分を比べてしまう節もある。自分の仕事への熱意が、他と比べて薄弱だと。
 しかし、最初から意欲に燃える必要はないし、産婦人科の中で目にすること聞くことに、若い助産師がショックを受けるのは当然だと、鈴木は思う。若い自分たちは、まだ、子供を産む可能性がある。鈴木も、今よりもっと若い頃、自分と同じくらいの妊婦が正常な出産ができなかったり、妊娠を継続できなかったりした現場に立ち会う度に、漠然とした不安に襲われたものだ。妊娠・出産を恐れた。子供をもつことを諦めて、助産師として、他の妊婦が健全な出産ができるよう尽力しようと思ったことさえある。だから、夏目が今抱いている不安は、個人的な悩みも含めて、共感してやれることなら共感して、支えてやりたい。
 きっとそれは、鈴木だけでなく、他のスタッフみんなが思っていること。

 申し送りの時間が近くなると、スタッフステーションには夜勤だった岡本と田中も集い、さらに、珍しい人物が現れた。
「お疲れさまです」
 院長である松下の妻・敬子だった。目鼻立ちのはっきりした顔立ちをした敬子は、高い鼻を少し赤らめていた。
「ごめんなさい、今日も松下はお休みをいただきます…」
「まだ良くなりませんか?」
 岡本が気づかわしげに言った。
「なんとか明日には…あ、そうだ。岡本さん。マタニティヨガクラスの相談なんだけどね…」
「はい」
 敬子は、ソーシャルワーカーとして必要に応じ妊産婦・赤ちゃんへのサポートをする他、マタニティビクス、ヨガ、お灸やマッサージといった、クリニックの各種サービスの運営と管理を担っている。
 敬子が岡本と話をしている間、
「院長、どうかされたんですか?」
 夏目がこそっと森に訊いた。
「年末の大掃除でぎっくり腰やっちゃったって…」
「え?年末…」
「うん。だから年末年始はずっと柴崎先生が」
 長期休みであっても緊急事態に対応できるよう、オンコールの医師が決められている。幸い、急を要する案件は少なかったが、オンコール体制にあると、クリニックから離れることができないという制限がかかる。
「これ、よかったらみなさんで」
 敬子は差し入れをテーブルに置いた。パッケージには「花まる餅」とある。
「これ知ってます。さといもが練り込まれたお饅頭ですよね」
 さといもは、新城市の特産だ。
「私の妹が新城でね。奥三河の郷土菓子なんて、食べ慣れてるかもしれないけど、どうぞ」
「わー、いただきまーす」
 さっそく森が手に取った。
「さっき太ったって言ってなかった?」
 すかさず鈴木の指摘が入り、森は「う…」と手を止める。
「森、これ高瀬さんの。中確認して、転院先に送っといて」
 いきなり低い声で呼ばれて、森は慌てて包みから手を離した。
「順ちゃん」
 マグカップを片手にみんながいるところまで歩み寄っていた順正は、敬子の呼びかけに少しむせそうになった。他のメンバーも微妙な表情になって沈黙する。
─順ちゃん…?
 おそらくこの気難しい医師をそんな愛称で呼んでいるのは、この人くらいだ。
「あけましておめでとう」
「…おめでとうございます」
 順正は低い声でぼそぼそと言った。
「ごめんねぇ、うちの人…順ちゃんに迷惑かけるわ」
「別にいいですけど…」
 迷惑がかかっていることに否定はしない。ただ、もともと今日の診療は松下の担当ではないし、無理に出勤して治りが遅くなるほうが迷惑だから、休んでもらっていたほうがいいと言ったのは順正だった。
 敬子は順正が椅子に座る姿を、目を細めながら眺めて、
「頼りになるわ。それにしても、連勤してもやつれないわね~、順ちゃん」
 とろけるような笑顔で褒めたたえた。
「年明け早々、目の保養ができてよかったわ」
「は?」
 順正はマグカップに口を付けて、熱いお茶をすすりながら、眉をひそめた。
 院長夫人と順正のやり取りを呆然と見ていたスタッフたちだが、順正から申し送りを促されて、やっと夜勤の田中、岡本から引き継ぎの内容が伝えられた。その間も、敬子はずっと同席していた。申し送りの終わりには、自ら饅頭の箱を空け、一人ひとりに労うようにそれを渡していった。
 敬子が帰った後、森は順正から手渡された封筒の中身を取り出す。
「なんですか?それ…」
 夏目が隣から中を覗き込んだ。
「多胎妊娠の妊婦さんいたでしょ」
「あ、高瀬さん…」
「別の病院への転院が決まったから、その病院へ書類を送るんだよ」
 妊娠の進み具合など、様々な情報を共有するのだ。
「柴崎先生の書く情報はすごく細やかで、なんというか…気が籠ってるんだ」
「気ですか?」
「うん。転院先の医師も、状況をよく把握できると思うよ」
「へえ…」
 夏目は、けれど、未だに順正のことが少し怖かった。口数が少なく、何を考えているのか分からない。仕事が早く的確で、森のいう「気」を入れるべき場面では常に「気」を入れている。連勤、ハードワークに対しても、愚痴を言わない。実際、苦もなくこなしているように見えるし、助産師たちも彼がいかにタフか、よく話題に上げている。だからこそ、自分が次元の低いことで悩んでいるのを見下されそうで、怖かった。
「先生、忙しいのに…一体どこで気を養ってるんでしょうか」
「さぁねえ」
 森は適当に答えつつ、書類をめくった。
「夏目」
 いきなり呼ばれて、夏目はびくっと肩を震わせた。順正の声は低く、静かだったのに、夏目からしたら、地響きがしたかのようであった。
 スタッフステーションに顔を覗かせた順正は、しかし、そのまま中には入らずに、
「これやる」
 と言うと、ぽんと何かを投げた。さっき、敬子が差し入れた花まる餅だった。
「診察始まるぞ」
「は、はい!」
 夏目が返事をするのと、順正が踵を返すのがほとんど同時だった。少し感動した様子で立っている夏目の隣で、森はちっと舌を鳴らした。
「いいなあ~。私もおかわりほしい~」
「顔が饅頭になるぞ」
 二人のいるところをすたすたと横切りながら、鈴木が毒づいた。

 年始、能登半島地震があったものの、あかつきは大きく予定を狂わすことはなかった。能登半島出身、または現地に親しい人がいるというクライアントはおらず、急な予定変更を希望する者はいなかったのだ。あかつきは奥三河の山里にあるため、豪雨や台風の時には、クライアントのほうからキャンセルをしていなくとも、安全のために、あかつきから滞在をキャンセルすることさえあった。里山の自然に囲まれた場所にある、というのがあかつきの強味だが、自然災害がからむと、弱みとなった。
 年始めから悲しく、不穏なニュースが続き、余震も心配である。
 あかつきは、少し揺れた。杏奈はその時応接間におり、ティーカップとソーサーを入れている飾り棚がガタガタいって、倒れてこないか心配になったものだ。そしてニュースで情報をキャッチして、二階で施術をしていた美津子に伝えた。
 幸いなことに、それ以降、あかつきのある地域では、大きな余震はない…
 松下クリニックにて、敬子が花まる餅を持参してみんなを労っていた頃、あかつきでは午前中の施術の準備が始まっていた。昨日からクライアントが三名滞在している。
 沙羅、杏奈、空楽の三人が、午前中の施術に入ってしばらく経った頃、キッチンでは。
「こんにちはー」
「…誰?あんた」
 スマホを眺めていた小須賀は、怪訝そうに目を細めて、デシャップ前に立った男に焦点を当てた。応接間に美津子がいるはず。美津子がキッチンに入るのを許したということは、あかつきの関係者か?
「おー、ここが空楽が言ってたキッチンかー」
「ああん?」
 だいたい誰なのか検討はついた。この手のことに関しては、小須賀は鋭いのである。が、検討がついたことで、小須賀はちょっと残念な気持ちになった。残念な気持ちになりつつも、突如として現れた男に興味が湧くのだから、矛盾している。
「小須賀さん、ですよね?」
「そうだけど。こっち入ってくるんならそこで履物はいてね」
 そう言われて、男は足元を見た。合点がいった様子でクロックスを履き、キッチンの中を見渡しながら調理台に歩み寄ってくる。
「空楽の彼氏?」
 スマホをしまいながら、小須賀は静かに尋ねた。
─呼び捨てか。
 と、心の中では思いつつも、男はにっこり笑って、
「はい!河合紘大です。よろしくお願いしまーす」
 と名乗った。
─う。結構イケメンだな。
 前髪が長く、左右にかき分けていて、そこから覗いている耳には、ピアスがいっぱいついている。目は一重瞼だが大きく、女のように綺麗な顔立ちなのに、首はがっちりとし、突き出た喉ぼとけもやけに色っぽい。
「空楽の職場、一度見ておこうと思って」
「あっそ…うですか。残念ですね。施術してるところは見られないですけど」
「ははっ。ですよね~」
 紘大はにやにやしながら答えた。喋り方が軽い。空楽よりも、喜怒哀楽がはっきり顔に出る。
「何時に終わりますか?空楽」
「ん、夕方じゃない。…あ、午前中の施術は、十一時半くらいには終わるけど」
「じゃ、それまで待ってよっかな~」
 そう言いながら紘大はキッチンの中を改めて見渡し、最後にその視線を小須賀に落ち着けた。
─相手しろってか。
 小須賀は項垂れた。
「…ヒマなら、簡単なことだけ手伝ってもらっていいっすか?」
「あ、もちろん」
「その前に…ジャラジャラしたものは、外してもらわないと」
「ジャラジャラしたもの?」
「ピアスとか、指輪とか…」
 とりあえず、目につく装飾物を指摘した。
─どんだけつけてんだ。
「あ、そうですよね~」
「容れモン、なんかそこらへんにあるやつ使って」
「はい」
 紘大は素直に頷いて、キッチン側からデシャップ台にもたれかかり、そこで装飾品を外した。
 ガチャガチャガチャ。
「…」
「はい、外しました~」
「すっごい、つけてんですね」
「ジャラジャラしたやつ?そうなんですよ。みんな空楽の手作りで」
 そういえば、空楽はアクセサリー作りが得意で、ハンドメイド作品をネットで売っていると言っていた。
「僕につけさせたがるんです。いや~、独占欲強くて困っちゃうな」
 小須賀の顔から急に血の気が引いた。
─ああ?
 ちょっと面倒臭いやつだ。
 紘大は結べるほど髪が長かったので、後ろで結ばせ、前髪はピンで留めさせた。こうしていると、女と料理しているようで、ちょっと笑える。
「空楽ン家泊ってたの?」
「いえ、おねえさん家に」
「ああ…年末年始、あかつきの仕事結構入ってたもんな」
「そうなんですよ。その間、僕はおねえさん家の家業の手伝いで。いや~、おにいさんおねえさん、その息子さんやおばあさんとも仲良くなって、もうすっかり家族の一員でしたよ」
─かっる~、こいつ。
 絶対他の人はそう思ってなかったに違いない。と思いつつ、小須賀はこの男の人当たりの好さが嫌いではなかった。
「そういうわけで、ここ数日ずっと調理してたんで、腕には自信ありです」
「あっそう。じゃ、カリフラワーを小房に切ってくれる?」
「はいはい!」
 紘大は小須賀からカリフラワーを受け取ると、手の中でしばし弄び、じーっと見て、
「カリフラワーってどこからどう切ればいいんですか?」
 と間の抜けたことを言うので、小須賀はがくっと膝が折れた。
「腕に自信あるんじゃなかったの?」
「カリフラワーは扱わなかったんで」
 紘大はちらっとスパイス棚を見て、
「それよりも、僕スパイスのブレンドとかやってみたいです」
「やってみたいって…ここは料理教室じゃないの!」
─疲れる…。
 小須賀は紘大に与えられる仕事を考えるのが面倒臭くなった。
「じゃあケール切っといてよ。それ終わったら…そこに折り畳み椅子あるから、座っててもいいし、外行ってきてもいいし」
「はーい…ケール?」
「…」
 
「一時保留ねぇ…」
 今しがた聞いた、空楽と紘大の関係。
 小須賀には紘大の気持ちが全く分からないでもなかった。
「そりゃ、いろんな女の子と付き合いたいのは分かるけど」
「んー、別に他の子と付き合いたいからそうしてるんでもないですけど」
 結局、紘大はコンロと調理台の間で、調理台に腰を預けて、小須賀が調理しているところを腕組みをしながら眺めている。
「ちょっといいなーと思う子がいたら、飲みに行ったり、遊びに行ったりもしたいじゃないですか。でも、彼女がいるのにそうするのは罪悪感があるし、向こうも…」
「だから、いろんな女の子と付き合いたいってことでしょ」
─頭悪いんとちゃうか、こいつ。
 小須賀は心の中で独りごちた。
「そうなのかなぁ…」
 紘大は煮え切らない表情をしている。
「空楽が本命なんすか?」
「え?」
「最終的に戻ってくる場所は確保したいから、一時保留なんすよね」
「…」
「河合さんにとっては都合いいかもしれないけど、空楽にとってはいい迷惑だよ。ちゃんと自由にしてやらなきゃだめじゃん」
「小須賀さん…」
「足込町だからって、油断すんなよ。足込町にも若い、いい男はいるんだから」
─おれのことだけど。
 と小須賀は心の中で付け加えた。
 小房に切ったカリフラワーが、フライパンの中で黄金色に色づいている。
「ふふふ」
 紘大は腕を組んだまま、困ったような顔で笑った。
「保留にしたいって言ったのは僕なんですけど…結局、それを言った時も空楽の反応、あっそ、って感じだったので、僕としては逆に自分のほうが振り回されてる感がありますよ…」
 本当に付き合ってたよね?と聞きたくなる。
「も…ってなに?」
「え?」
「今、一時保留にすると言った時も、反応があっそ、だったって言ってた」
「…ああ」
 紘大は顔にはらりとふりかかった前髪を耳にかけた。お役御免になってから、前髪のピンは早々に外していた。
「空楽とは、合コンで知り合ったんですけど…」
「ふうん」
「人を職業とか、家柄とか…そういうので評価しないし、僕の良い所にも、悪い所にも、あまり関心がないというか…」
 それこそ、「あっそ」という感じだった。
「そこがよかった」
 小須賀は思わず吹いた。
「変わってますね」
「そうですか?」
 小須賀は深く頷き、
「だいたい、今どき家柄とか、気にする女の子いる?」
「いますよ…」
「へえ…ちなみに、どういう職業でどういう家柄なんです?あなた」
 そう言うからには、よっぽどひどいか、よっぽど優れているのだろう。
 紘大はふっと笑って、調理台にもたげていた腰を浮かした。
「別に由緒正しい家柄とかではないですけど…うちはいわゆる、エリート一家です」
─自分で言ったよ。
「僕の実家は豊田にあるんですけど。父はT自動車社員、母は弁護士。祖父も優秀な人でした…」
「…で、あんたは?」
 いつの間にか、紘大に対する呼び方がぞんざいになっていた。
「僕は証券会社で働いています。去年、証券アナリストに合格したんですよ」
 小須賀には、証券アナリストに合格することがどのくらいすごいことなのかよく分からなかった。が、証券会社で働くということは、この男も優秀なのに違いない。
「ちなみに僕は文系なんですけど、弟は理系で、今大学院に在籍してます」
「あんた、何歳?」
「二十八です」
─杏奈と同じくらいか…。
 話せば話すほど、
─こいつは面倒くさい野郎だ。
 と小須賀は思った。優秀で、人当たりが好くて、顔が良くて…きっと給料も良い所で働いているのだろう。面倒くさい…というか、嫌味なやつだ。
「ちょっといいかな~と思って、女の子と遊んでも、結局すぐ面倒くさくなっちゃうんですよね」
「はあ」
「最終的に空楽の気楽さが思い出されるだけというか…人とか物事の、本質的なところを見ているのも、またいい」
─のろけに来たんか。
 面倒くさいやつはお前だよ、と言ってやりたい気持ちを押さえながら、小須賀は豆の状態を確認した。
「…で、どうすんの?」
「へ?」
「あんたもそれなりの歳なんだろ?空楽と結婚して、名古屋に連れてく気?」
「…」
 小須賀は冷蔵庫まで人参を取りに行った。シンクで皮を剥き、ボウルと一緒に調理台に持って行き、紘大とは反対方向を向く形になって、そこで人参を千切りにする。
「…空楽は、夢を抱いて入った会社が傾いて、そこを辞めた後しばらく何もしてなかったんですよ」
「ああ…なんかそんな話聞いたことあるな」
「だから僕の部屋でゴロゴロしていて…」
 急に生めかしい話題になりそうで、小須賀は聞きたくないような、でもやはり興味津々という、矛盾した気持ちを抱きながら、次の言葉を待った。
「ずっと浮かない顔してたな」
「ふうん。落ち込んでたところを、慰めてやってたわけですか」
「慰めてっていうか…慰められてたかな」
「?」
「優越感ですよ。はいはい、つらいね。でも僕がいるから大丈夫だよって」
 小須賀は恥ずかしいやら馬鹿馬鹿しいやらで、顔がニヤついてしまい、紘大がいない方に顔を背けた。
「自分より悩んでたり、窮地に陥ってたりするやつがいると、自分はまだマシだと思うっていう…器の小さい奴の優越感に浸っていたわけですよ」
 が、紘大の口調が自嘲気味な色を帯びていたので、小須賀は急にニヤニヤが引っ込んだ。
「空楽が放浪の旅だと言って実家へ出戻った後、しばらく音信不通になってたんですが…」
 交際を保留にした頃だ。
「また連絡を取り始めた時に、なんかに夢中になってるな…って感じて、驚いた」
 トントントントン、とリズムよく人参を切る音が止んだ。小須賀は切った人参をボウルに入れる。
「浮気してんじゃないかと疑いました」
「…自分も浮気してるくせに」
「保留中ですから」
 ああいえばこういう男だ。
「でも、夢中になってたのは男じゃなかった」
 紘大はなぜか、眉をひそめていた。
 小須賀は再び調理台に向き直り、新しいフライパンを火にかけた。

「紘大…」
「あ、空楽!」
 空楽がキッチンに入ってくると、紘大はぱああっと明るく笑って、デシャップ越しに空楽と向き合った。
「へえ~、それがセラピストの服装?綺麗じゃん!」
「…」
 冷蔵庫に張り付いてスマホをいじっていた小須賀は、
─いちゃいちゃすんなら外でやれよ…
 と心の中で独りごちる。
「何しに来たの?」
 しかし、あけすけに浮かれているのは紘大だけで、空楽はむしろつっけんどんな態度を取った。
「ん、まあ、ちょっと見学にね」
「…」
「ここ、すっごいスパイスあんのね。家も立派で綺麗だし、広いし、庭には畑もあったし。驚いちゃっ─」
「いつ帰るの?」
「…あと一時間もしたら。空楽が仕事してる姿見たいんだけど」
「だめ。絶対だめだよ」
 この後、クライアントが降りてきたら、アフターカウンセリングに臨むが、その姿は絶対見られたくないと空楽は思った。
「河合さん」
 小須賀はキッチンの中の時計を見ながら、
「そんじゃ、空楽と一緒にメシ食べてけば?」
「え、いいんですか?」
「うん。空楽、カウンセリング終わったらなるべく早くキッチン戻りな」
 空楽は表情を曇らせた。午後の施術に備えて、片付けとか、いろいろあるのだが。
─一緒にメシ食べてけばとは言ったけど…
 その数十分後、調理台の上で並んで食事をしている空楽と紘大を尻目に、小須賀はため息を吐く。
─何もここで食べなくても…
 折り畳み椅子を新調したのは間違いだったか。
 この二人のやり取りを聞いていると、喋るのはもっぱら紘大で、空楽はいつもよりもずっと無愛想にしていた。小須賀に気を遣っているのかもしれない。
「これは何?なんていうスパイスが入ってるの?」
「知らないよ。見てたんでしょ、作るの」
「うん。でも見てても分からないんだよ。教えて」
「…小須賀さん」
「あー、ごめごめ。おれ忙しいから」
 小須賀は二人から死角になるところに身を縮こませて片付けをしていた。
「小須賀さん、もうそろそろ食事にしていいですか?」
 そこへ入ってきたのは杏奈だった。小須賀にそう訊くや否や、調理台の前に座る二人の姿に気が付く。
「あ…」
「どうも」
 紘大は杏奈の方を振り返って会釈した。
「十分後」
 会釈を返している杏奈に、小須賀がそれだけ言った。ベルを鳴らすタイミングのことだ。
 あれは誰かと紘大から尋ねられ、空楽は「杏奈さん」と伝えた。
「ああ…」
 空楽の彼氏と思しき男が笑みを浮かべながら、自分の姿を下から上へ眺めているのに気が付き、杏奈はたじろいだ。
「空楽の先輩ですよね。料理が得意の…」
「…そんなこともないですけど」
「今日の料理も杏奈さんが考えたんですか?」
 紘大は初対面の人物相手にも、打ち解けた話し方をする。
「いえ、方向性はお伝えしてますけど、献立を決めるのは小須賀さんです」
「へえ~、めっちゃヘルシーですね」
 今日は動物性のものは使っていない。クリスマスから年末年始にかけて、食べ過ぎてしまったクライアントが多かったので、軽質(ラグー)、および、消化のしやすさを重視してもらった。
 杏奈は紘大と何かしらのコミュニケーションを取るべきかと思いつつ、
「空楽ちゃん、片付けやっておこうか?」
 それよりも、この二人が一緒にいる時間を長く取ってやるべきだと思い直した。しかし、空楽はすぐさまかぶりを振って、
「いいです。もう食べ終わります」
 四割方残っているにも関わらずそう言って、口を動かすスピードを速めた。
 食べた後すぐに動くのは推奨されていないが、空楽は食べ終わると間を空けず二階へ上がった。それと入れ違いにクライアントが応接間へ降りて来て、昼食を摂る。
「小須賀さん、じゃあ…」
 帰りの時刻が近づくと、紘大は小須賀に挨拶をした。
「ほーい。さよなら」
「また来ますね」
「うーん、それはどっちでもいいかな…」
 紘大はキッチンを出ると、ホールから二階へと繋がる階段を見つめた。赤いカーペット敷きの階段は、あまり意識しなくても足音が立ちにくい。
─ひっろ…
 階段の幅が広く、吹き抜けになっている空間もばかに広い。
 二階に上がると、廊下を挟んで右側に引き戸が二つ、左側に一つ。施術室がどこだか聞かずに上がり込んだ紘大は、どうしようかと一瞬迷ったが、左の部屋から音が聞こえて、ゆっくりとそちらに歩み寄る。
 そっと中を覗くと、奥のベッドの前に空楽がこちらに背を向ける形で立ち、掃除機をかけている。横を向いたが、窓から漏れる光で逆光になって、その横顔はよく見えなかった。
 紘大はそっと引き戸を締め、あかつきを後にした。

 その日は、久しぶりに家族の元へ帰って来た栄治が、再び赴任先であるアメリカへ出発する日だった。
「パパあ、でんわして」
「あ、うん。また電話するよ」
「ちがう!」
 七瀬は、ぶんぶんと手を振って、真ん丸な手でおもちゃの電話を取る。
「もしもしー?ドーナツやさんですかぁ?」
「え?」
 栄治はいきなり七瀬が始めるおままごとで、自分がどんな役割を果たせば良いのか、よく分からない。
「でんわして、でんわ!」
「あ、はーい。ドーナッツ屋さんでーす」
「えっとー、なにしますかあ?」
「えーっと…このねこちゃんの顔のついたドーナッツかなぁ」
 そう言って、折り紙で作ったドーナッツを手に取ろうとすると、
「ちがう!」
 とまた言われ、七瀬が陳列棚を模した段ボールに近寄ってきた。
「これでねー、ななちゃんとってー」
 どうやら、取るのは自分でやりたいらしい。
 厚紙を折って作ったトングでドーナッツ型の折り紙を取ろうとするのだが、もうトングがぼろぼろでへたっているせいで、うまく取れない。
「うーん!とーれーなーいーよー!」
「ただいま」
「あ、おかえり」
 沙羅が帰ってくると、栄治は明らさまに「助かった」という表情をする。
 栄治は年末に帰国すると、実家に寄って両親に同乗させてもらい、この足込町の自宅へと帰った。その日一日だけ、両親を孫二人と会わせることができた。本当は泊まってもらい、もう少し孫と触れ合わせたかったのだが、沙羅が仕事で家を頻繁に空にするので、その様子を見られないうちに帰したのである。別に、後ろめたいことなんてないが、その方が沙羅も気兼ねなく仕事に行けると思ったのだった。
「すっごい喋るようになったね」
 電話口では話していたものの、これほどまでとは思わなかった。
「そうだよ。すごいよ」
 七瀬は十二月で三歳になった。
「いまいち求められてることがよく分からないんだけど…」
「適当だよ」
 栄治は子供たちと遊ぶのに慣れていない。
「二時に家出れば大丈夫?」
「うん。でも余裕もってもう少し早く…」
「オーケー。急いで食べよう」
 と言っても、昼食の用意は栄治に任せていた。
 沙羅は午前中、あかつきで施術をし、アフターカウンセリングと片付けが終わるとすぐに帰ってきたのだ。
「ピザ買っといたよ」
「ピザか…」
 チョイスがアメリカナイズされている。あかつきではなかなか食べないものだ。
「ねえパーパ、なんでもういくの」
 快は床にべったり横になりながら、不貞腐れた表情をしている。
「お仕事なんだよ。パパお仕事」
「ママもおしごとしてるけど、うちにいるけど」
「うーん、そうだねぇ」
 栄治は快の前に座って、
「でもパパ、快が小学校に入学する頃には戻って来られるから」
 と言ってなだめた。
 沙羅はピザの箱を急いで開けながら、年末に栄治から聞いた発表が、まだ信じられなかった。海外赴任が終わるのである。
「さ、食べようか!」
 だから、栄治は今日の夜の便でアメリカへ発つが、今度の別れは、そう長くない。
「たーべーなーいー」
 口をそろえて言う姉妹に、二人とも閉口する。ピザとコーンスープ。この二つのメニューで食べないと言われると絶望的だった。

「ところで沙羅」
 なんとか二人を席に着かせると、なんだかんだ二人はピザを夢中で頬張っていた。
「うちの中でヨガサロンやる話、進んでるの?」
 小上がりの畳スペースにはおもちゃが散乱しているが、リビングにはほとんど物がない。この空間を設けているのは、そのためなのだろうと思っていた。
「あー…うん。計画はしてるんだけど」
 沙羅はなんだかんだ、あかつきの業務と子育て・家事に忙殺され、そのことを考える余力がなかった。七瀬を保育室に入れてからは、それに向き合う時間が取れると思っていたのに。計画を進めたり、引っ込めたり、一進一退を繰り返している。
 しかし、栄治としては、自宅に戻るとなれば、計画が進んでいないほうが好都合だった。
「できればリビングに、ソファ置きたいんだよね」
 家族の憩いのスペースだ。疲れて家に帰ってきたら、ソファで寝っ転がりながらテレビを見たいとも思う。
「…」
 沙羅は返答に窮した。栄治が帰ってきてくれるのは、もちろん嬉しい。でも、その分この家のことを自分の自由ばかりにはできなくなる。
「そもそも、沙羅…あかつきでの仕事が増えてるのに、なんで自分のサロンも持ちたいって思うの?」
「それは…」
 何度か話をしているはずだが。
「自分の色を出していきたいの」
 あかつきは素晴らしい施設だ。設備も、サービスも、理念も。けれど、すべてが沙羅の好みに合っているわけではない。それに、客層が微妙に異なる。あかつきには、不調をなんとかしたいとか、アーユルヴェーダの生活をしてみたいとか、本気度の高いクライアントが訪れる。対して、沙羅は地元の子育て世代が気軽に立ち寄れる、安心できる場所を作りたかった。もちろんそれは、自分が子育て中に、そのような場所があれば嬉しいと思っていたからである。
「自分の色、あかつきで出しちゃだめなの?」
「え…?」
 沙羅はピザの端っこを片手に持ったまま、手を止める。
「けんかしないで!」
「喧嘩じゃないよ、七瀬」
 どこでそんな言葉を覚えたのか。七瀬はその後もしきりに「けんかしないで!」と諭してきた。
「沙羅がやりたいこと、あかつきでやらせてもらえばいいじゃん…」
「…」
「別に、あかつき主催ってことにしなくても、沙羅の名前とか、屋号を出していくのじゃ、だめなの?」
「いや別に、私は名前にこだわってるわけじゃ…」
 沙羅は少し不貞腐れた。
「うちに人が集まるのが嫌なの?」
「そういうわけじゃないんだよ。ね、聞いて。おれは別に、自分の都合の良いように沙羅を誘導しようってんじゃないんだ」
 栄治は至極穏やかに言った。
「おれはさ。チームじゃないとできないようなことをやってるから」
 栄治は自分の仕事について話した。
「沙羅も、あかつきにはいいメンバーが揃ってるって言ってたじゃん」
「うん。まあね」
「沙羅のやりたいことは、沙羅の力だけでやったほうがいいのか、あかつきのメンバーの力を借りた方がいいのか…」
 沙羅は、栄治の真意がどこにあるのか考えた。栄治は先手を取って、自己本位に沙羅を誘導するつもりはないと言ったが、自分が好きなように自宅を使いたいから、恣意的な誘導をされているのかもしれないとも思えた。被害妄想をすれば、そういうことになる。けれど、思考に色を付けずに栄治が沙羅を見た時に、単純に違和感があるのかもしれなかった。
「子連れの親子を一人で相手にするって、大変じゃない?」
「…それはそうだけど」
「この家は確かに、沙羅がいつかヨガサロンを開くことを前提に考えたけどさ」
 広いリビングも、床材も、採光も。
「でも、そこに固執しなくてもいいんじゃないかな」
「…」
 沙羅はすぐに返事ができなかった。
 自分のヨガサロンを開き、自分が整えた空間で親子の交流をしたり、ヨガを楽しんでもらったりするは、長年の沙羅の夢だった。
 けれど、あかつきの仕事が忙しくなると─企画を任された後は特に─両立は難しいのではと、自分で思うようになっていた。企画の内容を練り、集客するのは、施術をする実働時間以上に、労力と時間がかかるといっても過言ではない。
─だからといって、あかつきの仕事を切りたいかというと…
 沙羅の脳裏には、キッチンにいる小須賀や、夜にヨガの相談をしたいと言ってきた鞍馬、一緒に研修に励んだ空楽、破竹の勢いで成長し、刺激を与えてくる妹弟子の存在…そして、正社員として雇いたいと言ってきた美津子の顔が浮かんだ。
─そうは思わない。
 夫婦仲に悩む結衣や、玲…あかつきに来るクライアントの中にも、沙羅がこの家に迎え、関わりたいと思っていたような人たちはいる。彼女たちを様々な方向から力強く支えるには、自分一人よりも、チームで協力し合ったほうが効果的。これは自明であった。
─彼女にとって、何が必要なのか、分かりません。
 お調子者の鞍馬が、今までになく神妙な顔をして、沙羅に告げた言葉。
─沙羅さんのほうが、彼女に親身になって、彼女に必要なヨガができると思うんです。
 自分が直接教えるのでなくても、間接的に、沙羅が届けたい人に、気持ちを届けることはできる。たとえば、沙羅が鞍馬をサポートすることで、鞍馬が誰かの力になれたら、それも素晴らしいことだ。
 沙羅は栄治の顔をちらっと見た。
 栄治は少し、日に焼けた。頬骨や顔のラインが夏に会った時よりも角張り、痩せたように見える。年齢相応に老けたが、変な老け方ではないと、沙羅は思う。男としての深みを増したような…。
 何度も栄治のことをずるいと思った。子供が生まれても、自分一人だけ影響を受けずに、自由に仕事をしていてずるいと。それゆえに、気持ちが離れたこともあった。愛情ゆえにでなく、目的のためにこの人と結婚したにすぎないのだと、何度もそう思った。
 でも、あかつきで仕事をする中で、自分の態度を改めていきたいと願うようになった。
─自分の中の、女性性を輝かせたい。
 夫にとって、居心地の良い空間を作ることは、地元の親子の居場所を作ることと同じように、大事なことだ。
─あかつきの事業の一環として、自分のやりたいことをさせてもらうのも、ありなのだろうか…
 今まで相談したことがなかった。しかし、あかつきというスペースを利用して、足込町の子育て世代の娯楽を作るのは、自分の家を解放してそうすることよりも、ずっとハードルが低いように思える。あかつきは足込町の住民たちに、すでによく認知されており、人手もある。子供の手が離れたら、あかつきに通っていた母親たちが、施術を受けに来るかもしれない。それならば、あかつきにもメリットがある。
─私がやろうとしていたこと…
 あかつきのみんなで、やってもいいのかもしれない。あかつきの可能性を広げることにもつながる。
 沙羅は気づいた。あかつきの使命は、もう、自分の使命になっていると。美津子があかつきに描いた夢は、沙羅の夢でもある。
─きっと…
 小須賀も、杏奈も、そうだろう。そして、鞍馬や、空楽の夢にもなりつつある。
「沙羅の夢をさ」
 栄治の声が聞こえて、沙羅ははっと目線を上げた。
「あかつきのみんなの夢にしてもらえたらいいよね…って、ちょっと前から思ってたんだ」
 単身赴任が終わるからではないのだということを、栄治は最後に強調した。沙羅は、もうその点については、気にしていなかった。
「そうだね」
 残り数ピースとなったピザのうち、一枚を手に取りながら、沙羅は言った。
「夢はシェアしても、なくならないもんね」 

 

 

 


 

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