第1話「あかつき」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 あなたが今、身体的な不調に悩み、自己否定的なあらゆる感情の中で追い詰められているのなら。
 彼女の仕事は、あなたのその苦しい時間を止めることだ。時間を止めるとは、物理的に時空の流れをどうこうするということではなく、過去や未来に旅するあなたの心を、今ここに留めるということである。今ここが暗闇であったとしても、その中でいかに快適に過ごすかということを、あなたに教える。
 教えるといっても、彼女は最初、その術を知らなかった。むしろ彼女自身が、人生が変わってしまうような出来事を経て、精神的にも身体的にも追い詰められていた。
 彼女はコミュニケーション能力に乏しく、カリスマ性はなく、知識もスキルもない。持っていたものといえば、悲しみ、寂しさ、怒り、罪悪感、後悔、自己嫌悪。そしてこの心のアンバランスを物理的に実証する、皮膚の炎症。唯一彼女が持っていたポジティヴなものといえば、
─人を癒し、人を変えることで、自分を癒し、自分を変えたい。
 その思い一つだった。
 彼女は、自分自身を回復させる手段として、インド五千年の伝統医療・アーユルヴェーダを選んだ。
 そして、愛知県東部奥三河の、自然に囲まれた小さな町で、アーユルヴェーダの癒しの館「あかつき」の運営に携わる。
 この物語は、彼女が周りの人々、何より自分自身をどのように癒せるかを模索する過程を描いている。
 ありがたいことに。あなたがどのような経験をしたとしても、同じような経験をしたことのある人はおそらく、たくさんいる。誰かが、どこかで、あなたの物語を理解してくれるはず。
 
 彼女や、彼女が出会う様々な人々に、自分自身を投影し、あなたの苦しい時間の中に、わずかなりとも穏やかな瞬間を見つけられますように。
 癒されますように。
 Atha。
 これから始まる物語が、あなたにとって良いものでありますように。

 森のにおいを含んだ心地よい風が、杏奈の頬を撫で、その髪をゆるやかに揺らし、通り抜けていった。
 世界を震撼させた感染症の猛威が落ち着き、ようやく元の生活が戻ってきた、この年、二〇二三年。世界では未だ戦争が起こり、日本の経済成長は失速し、少子化は留まるところを知らない。物質的な豊かさには飽き足りる一方、精神的な豊かさには欠けてしまったかに思える、ストレス多き現代社会。見渡す限り一面の緑に囲われた、この小さな山間の町も、おなじ風雲に包まれている。
 ここは足込町。愛知県東部、奥三河の、里山に囲まれた小さな町。
 そこに「あかつき」はあった。アーユルヴェーダとヨガをツールに、身体的、精神的な癒しを、クライアントにもたらす癒しの館。
 季節は夏の始まり。といってもまだ山や里の木々が讃える葉は新緑と呼べるものだったが、気温の変動は落ち着きを見せている。
 あかつきは、広大な敷地をもっていたが、田舎においては珍しいというほどでもない。その敷地の南東に設けた畑と、敷地を覆う槙の生垣の間。そこに芽吹く、里芋の葉を小さくしたような形のハーブは、まだその繁殖の勢いを見せていない。ぽつり、ぽつりと出て来た芽は、ひっそりとその傘に、水滴を溜めている。もっと暑くなれば、このあたり一面に今年も群がるだろう。
 杏奈は、その葉を三つだけ摘み、願をかけるような視線をその葉に注ぐ。ポニーテールにした長い黒髪が、体の前側に流れる。彼女は小柄で、幼い顔立ちをしているが、ひどく落ち着いた雰囲気をまとっているので、知らない者から見れば年齢不詳。
 杏奈は立ち上がり、槙の生垣ごしに、道路の様子に目を凝らした。かすかなエンジン音が聞こえたからである。すぐ傍で土に膝を付き、草むしりと土を耕すのに精を出していた美津子と柳も、顔を上げて杏奈と同じ方を見やる。二人は同じ竹笠をかぶっていた。
─来る。
 平常時はゆっくりと鼓動を刻む杏奈の心臓が、この時だけは大きく高鳴った。
 音は次第にこちらに近づき、敷地の北東の方へ回り込んで、そこでバックする音に変わる。
「誘導してきます」
 杏奈は土がはね上がらないように足元に気を付けながら、敷地の南にある正門へと歩みを進める。摘み取った葉は、そっとハンカチに包み、エプロンのポケットへしまった。美津子は再び屈んで、元の作業に戻った。
 やがて門扉が開き、スーツケースを引いた女と、その女の荷物の一部を引き受けた杏奈が、畑を右手に横切り、正面の二階建ての建物─あかつきの者は単に母屋と呼んでいる─へと入っていく。
 母屋は白い外壁で、伝統的な日本家屋と洋館の造りをミックスさせたような、独特な建築様式であった。
 杏奈と来客の姿がなくなっても、美津子は畑から動く様子はない。柳は美津子の顔を覗き込むようにして、
「ここ一列やったら帰るで、美津子さん、お客さんの相手して来やあ」
 と言って、枝豆が育つ一帯を指差した。
 柳は長年農作業に励んできた者とすぐに分かるほど、日に焼けた肌をしている。その顔には深い皺が刻まれ、シミも多かった。背は中背だが細見で、話しながら草を取り、土をかぶせていく姿には老いを感じず、手際が良い。
 柳の申し出に、しかし美津子はかぶりを振った。
「今日はあの子に任せてあるんです。でも、肝心なところは見守っていないといけませんから、あと十分もしたら、私も戻ります」
 竹笠の影が顔にかかっていても、一目で血色が良いと分かる美津子の顔色。頬骨が高く、鼻筋が通り、大きな目はくっきりとした二重瞼。ほとんど初老といっていい年齢であるはずなのに、その容貌は不思議なほど若々しかった。女性にしてはどちらかというと低い声は、彼女の穏やかさと、心の平和さを表している。
「あの子はここに来て半年くらいになるか」
「もう一年くらい経ちます」
 この前もそんなことを聞かれたな、と思ったがそれは言わずにおいた。
「ようやく、試験飛行といったところです…」
 美津子はそう言うと、作業をする手を止めた。あと少し、ここで作業をすると言ったものの、心はすでに、ここを離れてしまった。射かけるような目で母屋の玄関を見据え、まだ若く未熟な弟子のことを思う。
─しっかりやりなさい。杏奈。

 二階の客間、施術室。一階の共用のトイレと風呂場、応接間、応接間とひとつながりになった居間。それから、書斎。和洋折衷。この癒しの館は重厚な造りで、どこか大正建築を思わせる風情がある。
一通り母屋の中を案内すると、杏奈はカウンセリングを始める時間を言い渡して、応接間へ移った。
 クライアントは今日からここに二泊三日滞在する。真の健康へ近づく旅を、アーユルヴェーダに導かれたいと望んでのことだ。
 アーユルヴェーダは、はるか昔に、インドで発祥した伝統医療、予防医学。日々の食事や、生活習慣を整えることにより、病気を予防し、健康を守ろうという生活の知恵。サンスクリット語で、Ayurは「生命」Vedaは「科学」。「生命の科学」と直訳される。その歴史は五千年にも及ぶ。世界三大医学の一つに数えられ、その有用性は、WHO(世界保健機構)が認め、代替医療として推奨されている。心・体・魂全てのレベルにおいてエネルギーのバランスと調和をもたらし、病気や不調を回復させるホリスティック医療である。
 そして、ここはアーユルヴェーダトータルヒーリングセンター「あかつき」。アーユルヴェーダのやり方で、クライアントの健康を取り戻す手助けをすることが、美津子や杏奈の仕事である。その事業の名前を、「あかつき」とした。この家自体を、そう呼ぶこともある。
 日本では、アーユルヴェーダは医療と認められていない。そのため、あかつきにおいてクライアントに施す行為は「セラピー」である。クライアントは、あかつきを来訪する一か月前を目安に、オンラインにてアーユルヴェーダコンサルテーションを受ける。あかつきでは、これを略して事前コンサルと呼んでいる。事前コンサルにより、クライアントの状況を明確に把握する。その上で推奨事項を提示し、実践してもらってから、現地に来てもらうのを主流としている。その方が、あかつきへ来る前から浄化が進み、施術が功を奏しやすいからだ。
 あかつきに来ると、クライアントは事前コンサル後の進捗や現在の状況を、施術前のカウンセリングにて報告する。報告された内容を踏まえて、施術、食事、ヨガなどの内容が決められ、生活指導を行う。
 アーユルヴェーダの施術を受けるだけならば、町中のサロンに行けばこと足りるだろう。しかし、あかつきに訪れるクライアントは、施術だけを求めているのではない。自然に囲まれた場所で、アーユルヴェーダで理想的と言われる過ごし方を実践し、非日常を味わい、癒しと活力を得る。たとえ刹那の体験であっても、あかつきへの滞在を通して、正しい生活の基軸を再認識する。そしてその先に、自身が自覚する何らかの身体的・精神的不調が緩和されることを求める。
─ATHA
 これから始まるものが、あなたにとって良いものでありますように。 
 あかつきは、それを望む者には誰にでも、方法を与える。アーユルヴェーダの絶え間ない知識の鎖が、その経典を開いた者に与えられていったように。
 杏奈は東の窓を背にする位置に座り、パソコンと向かい合った。しかし、開く気になれない。
 今日のクライアント・寛子との事前コンサルは実施済。寛子の心と体に、どのような乱れがあるのか。乱れの原因となっていることは何なのか、だいたい把握している。これから待ち受けるカウンセリングにて、彼女があかつきにいる間のアプローチを最終的に決定するのが、担当者である杏奈の役割。そして、杏奈が主担当としてそれに臨むのは、これが初めてだった。
 寛子にとって最善の計画を立てなければと気負ってしまうからか、緊張感を覚えた。
「あ、ゴツコラ」
 杏奈はその存在を思い出し、はっと顔を上げた。
 紺色の大きなエプロンのポケットから、ハンカチを取り出し広げて見せる。そこにあるのは、アーユルヴェーダで重宝されるハーブ、ゴツコラ。まだピンと葉を広げていたが、早く水にさらさなければならない。
 杏奈は席を立ち、応接間の奥(北隣)にあるキッチンへ向かった。キッチンと応接間の境界には扉がなく、ドアストリングカーテンで仕切られている。
 キッチンは、他の母屋とは打って変わった内装であった。カーテンをくぐると、目の前にステンレスのシンク、右手には収納棚を兼ねたデシャップ台(調理された料理を置くところ)。そこまではフローリングが続いている。デシャップ台を超えたところに段差があり、それより先は床がタイル張りになっている。家庭用のキッチンではなかった。中にも広いシンクが二つあり、冷蔵庫も二つ。調理台はステンレス、コンロは業務用。コンロの横には、ガスオーブンが設置されている。
「小須賀さん」
 キッチンにはあかつきのスタッフの一人が、コンロ台に腰をもたげさせて立っていた。
「ああ」
 スマホを触っていた小須賀は、チラと杏奈に一瞥をくれた。
 中背で、色が白く、ひょろりと痩せている男だ。豊かで黒々とした黒髪は、わずかにウェーブを打つようにセットされている。
「早いですね。昼食までには時間がありますが」
「さっき来た。出先から。時間が中途半端だったの」
 通常「お勝手口」と呼ばれる、キッチン側の出入り口から入ったのか、小須賀の気配にまったく気が付かなかった。
「いいよ。時間になったら仕事するから」
 小須賀はこともなげに言う。
 話している間も、切れ長の一重瞼を伏せがちにして、スマホから目を離さず、指だけをせわしなく動かしている。
 杏奈は小さなガラスボウルにほんの少し水を張り、ゴツコラを浮かべ、デシャップに置いた。
「これ、あとでごはんの上に乗せていただけますか」
 小須賀は顔をこちらに向けた。
「ゴツコラ?」
「はい」
「なんだ。言ってくれれば、後で摘みにいったのに。こんなに早く摘んだんじゃ元気なくなっちゃうよ」
 小須賀からは、だいたい一言ある。
「忘れるといけないと思って。すみません」
 杏奈は、今日も小須賀は遅刻すると思っていたのだ。
「まあいいよ。置いといて」
 いつものことだが、小須賀はスマホを触ることに忙しい。特に杏奈の前では。しかし、キッチンを出る直前、
「あ、今日のクライアント、杏奈が担当してる人なんだっけ」
 と、とぼけるように小須賀が尋ねた。少しハスキーな、男にしては高めの声で。
「はい」
「そっか。頑張ってね」
 また、こともなげに言う。
「小須賀さん…」
 杏奈は少し驚いたような顔をして、キッチンの奥を見つめた。
「なんか、逆にしくじりそうな気がしてきました」
「は?」
 目だけをスマホから上げて睨みをきかした小須賀の声には、幾分苛立ちが混じっていた。しかし、あくまで戯れの怒気。
「いってきます」
 杏奈はふふっと笑って、くるりと踵を返した。高い位置に結わえた柔らかい黒髪が、さらりと揺れる。
─少しは、冗談を言えるようになってきたな。
 ラインの入力に勤しみながらも、小須賀は頭の片隅でそんなことを思った。

 荷ほどきと休息の時間を与えられていたがクライアントが応接間に入ってきたのは、予定時刻の数分前であった。杏奈は長方形テーブルの短辺に当たる席─お誕生日席─に、クライアントを誘った。そして杏奈と美津子は、お互い向かい合う形で、席に着く。
「カウンセリングをはじめます」
 杏奈は会議の司会者のように宣言した。美津子ならば、もう少しさりげない始め方をするのだが。
 杏奈は緊張しているのか、選ぶ言葉も表情も、ぎこちなく、硬い。それでもちゃんと、アイスブレイクをはさんだ。
─私がここにいないほうが、のびのびできるか。
 そうも思うのだが、まだ試験飛行中なので、見守っていてやる必要がある。
 美津子は今、二人の様子を観察している。アーユルヴェーダの癒しを得るためにここへ来たクライアントの寛子。そして、アーユルヴェーダで人を癒そうという杏奈。
 美津子にとって、杏奈の初々しい様子は微笑ましくもあったが、同時に、ハラハラと緊張している自分を感じている。
 ピアノの発表会に臨む娘を見守る親は、このような心持ちになるのだろうか。

「おはようございます」
 キッチンでベーグルを片手にスマホをいじっていると、一人の女がデシャップから顔をのぞかせ、朗らかに挨拶をした。
「沙羅さん、おはようございます」
 小須賀は愛想よく挨拶を返す。
 沙羅と呼ばれた女は、デシャップから身を乗り出し、小須賀を見据えた。ボリュームのある黒髪を編み込み、やや高い位置で一つにまとめ、そこからはポンポンヘア─玉ねぎのような丸い膨らみが特徴のヘアスタイル─をしている。
「カウンセリング始まったばかりですか?」
 小声で尋ねる。応接間から声がするので、沙羅はキッチンに近い方の応接間の入り口から中へ入り、話をする二人を尻目に、足早にキッチンへ入ってきたのだった。
「ああ…そうかもです」
 小須賀はふと顔を上げて、間の抜けた返事をした。全然気にしていなかったようだ。視線をスマホに戻した小須賀だったが、デシャップからこちらに伝わってくる熱気のようなものを感じて、後ろを振り返った。そこにはまだ何か言いたげな沙羅がデシャップ台に両肘をつけて、頬杖つきながら立っていた。
「どうかしました?」
 沙羅はうふふと笑って、
「美津子さん以外の人がコンサルするの、新鮮ですね!」
 鈴の鳴るような声で言い、少女のようにきゅっと口角を上げる沙羅。
 すでに、あかつきのセラピストが着る施術着に身を包んでいる。
 それは独創的な二部式着物であった。白地の上衣には、両肩のあたりに、薄紫の花菱模様が散りばめられている。半衿は白。袖丈は七分ほどだが、袂はなく、代わりに大きな折り返しがあり、その部分にも、肩の部分と同じ花菱。これは施術の際には、さらに丈を短く折れるようになっている。下衣の巻きスカートは、上衣と同じ色。しかし長い前掛けを着用しているため、ほとんど見えない。前掛けは花菱模様よりわずかに濃い、わずかに灰色みがかった赤寄りのピンク色で、柄はない。その代わりに、前掛けを留める大きくて長いリボンには、鹿の子文が波打つように散りばめられている。
 沙羅は頬杖ついて両手で頬を覆い、喜びを笑い声にして漏らす。大きな目を細めながら。杏奈よりも一回り以上年上であるはずなのに、そのしぐさや言動は杏奈よりもずっと若々しいと、小須賀は思う。
「何笑ってるんですか」
「いえ、今日のクライアントは、杏奈ちゃんが初めて一人で担当すると聞いてたので、なんか私までドキドキしちゃって」
 同時に、自分もさらに仕事に身を入れなければ…と引き締まる思いがする。たっぷりとした前髪の下で、涼し気な瞳が揺れた。
「別にコンサルが杏奈になっただけで、いつもと同じことをするだけでしょう」
 気力がみなぎっている沙羅とは対照的に、小須賀は気の抜けた声を出した。
 沙羅は出番が来るまでの間、キッチンに居座るつもりらしかった。沙羅が相手では適当にあしらうわけにもいかない。陽気な沙羅との会話は楽しいので、つい小須賀も四方山話に花を咲かせた。つい、話声が大きくなってしまった。
 十分も経っただろうか。カーテンが左右に開かれると、いつもよりわずかに頬を上気させた杏奈がキッチンへ入って来た。
「沙羅さん、五分後、客間までお迎えに行ってください」
「終わりましたか」
「はい。すみません。ちょっと長くなってしまいました」
「施術の内容は、特に代わりなしで良いですか?」
「顎関節症のある方なので、フェイシャルの時には気をつけて」
「はい。顎関節症ですね」
「まこもオイル、使っても構わないということでした」
「分かりました。では、いってきます」
 五分後に出迎えとなれば、あまり時間はない。
 沙羅は杏奈ににっこりと微笑んで、足早にキッチンを出る。
 がらんと広いホールには、二階へとつづく階段があり、階段には赤いカーペットが敷かれている。沙羅は前掛けとスカートの裾を少し上げ、階段を上った。足に履いているのは白足袋。踊り場で百八十度向きを変え、音を立てないように登り切る。
 客間は二階の西側に二部屋。寛子は手前の部屋を使うと聞いている。
 施術室はその向かい、廊下を隔てて東側に位置する。
 木製の重い引き戸を、これも音を立てないように開け、中に入ってすぐに閉める。あたたかみのある生成りの土壁に、コルクタイルの床板、源氏襖、窓には内障子。障子は先ほどここで準備をしていた時、左右に開け放っておいた。庭の木が風に揺れているのが窓から見えて、目も安らぐし、見ていて心地良い。和室の中心に置かれているベッドには、大きなバスタオルが敷かれている。その上から手を当てると、ちょうど良い温度に温まっていた。念のため温度計も確認する。ベッドの横には施術用のオイルや備品の入ったワゴンがある。上段の保温ポットには、いくつかのボトルが温められている。そのうちの一つに手を振れると、これもちょうど良い温かさ。
─よし。
 沙羅は心の中で気合いを入れた。クライアントにとって施術を受けることは、滞在の主目的の一つ。セラピストである沙羅の役割はとても重要である。
 最初の施術は、アビヤンガ。オイル塗布である。この施術の目的は様々だが、ヴァータと呼ばれるエネルギーの鎮静に役立つ。
 軽さには重さを。
 乾きには湿りを。
 頼りなく揺れ動く感情を、しっかりとグラウンディングさせる。

 沙羅が施術を始めた頃、キッチンでは、調理台に小須賀と杏奈が向かい合う形で立っていた。デシャップより先は裸足や室内履きでは入れないので、杏奈は共用のクロックスを履いている。
「思ったより、はっきりとしたピッタ体質の方でした」
 ピッタというのは、ヴァータと同じく、アーユルヴェーダが捉える三つの代謝エネルギーの一つである(これについては、後々のエピソードで取り上げていく)。
「フーン」
 関心なさげな相槌が打たれる。杏奈もそう言ったものの、ただの感想であって、小須賀に建設的な返答を求めていない。食事の内容を予定していたものから変える必要はなさそうだということを、伝えに来ただけだ。
「美人?」
 唐突に、小須賀が尋ねた。
「…は?」
「寛子さん、美人だった?」
 杏奈は心の中でため息をついた。
 寛子は杏奈とほぼ同学年。肩まで届かない黒髪はつややかで、目鼻立ちがくっきりしていて、写真で見るより美人に見えた。
「はい。美人でしたよ」
「よし。じゃああとで見に行こう」
 杏奈はそれには答えず、
「もともと慢性的に消化力が弱い方ですが、今日は朝ごはんを食べてきたみたいです」
 朝食は摂らない日もあると聞いている。
「ん?昼減らしたほうがいいの?」
「お昼は予定通り作ってください。夜は、キッチャリーだけにすることにしました」
 キッチャリーとは、スパイス入りの豆粥のこと。アーユルヴェーダの代名詞的な料理といえるほど、消化に優しい。
 寛子はキッチャリーを食べたことはない。消化力を取り戻すために、ここにいる間だけでも、キッチャリーを取り入れることを提案した。華やかでお腹が膨れる料理ではないので、強要はしないつもりだったが、寛子は食べてみて、どう感じるのか様子をみたいと言った。
「じゃあ夜ご飯の仕込みは何もせずに帰るよ」
「はい」
 キッチャリーだけならば、わざわざ仕込みをするほどの手間はかからない。それにアーユルヴェーダでは、作り立てを食べることを勧めている。
「小須賀さん、まだお昼の準備しないですよね」
「うん。今日の内容だったら三十分でいいわ」
「そうしたら、一つ試作をしておいてもらっていいですか?」
「はい?」
 小須賀はあからさまに嫌な顔をした。
 杏奈は構わず、調理台の上に一枚のコピー用紙を置き、差し出す。テキストの編纂にあたって、試作する必要が生じたレシピだった。
「やだね」
「どうしてですか」
 小須賀はくるりと背を向けて、ポケットをごそごそと探る。
「一服してくるわ。そこ置いといて」
 つぶやくように言って、小須賀はお勝手口から外へ出た。
 はあ~と息を吐いて、杏奈はクロックスを脱ぎ、キッチンを出る。
 小須賀の手を借りろと言ったのは美津子だった。クライアントがあかつきにいる間、最高の経験をしてもらおうと思うと、調べものはキリがない。小さな不調が一つでも良くなるよう、アプローチ方法を考えていると、あっという間に時は過ぎていく。そんな間も、定常業務を途絶えさせるわけにはいかない。だから、美津子は今日、小須賀を呼んだ。
 しかし、お願い事をするたびにはぐらかされたり、苦情の一言があったりするので、どうも小須賀を頼るのは具合が悪いと、杏奈は思う。
 応接間に戻ると、美津子はもう自室に移ったのか、そこにはいなかった。
 杏奈は椅子に座ると、施術前のカウンセリングの内容をもとに、生活指導案を書き直したり、付け加えたりした。
 いつもは聞き役に回ることが多いのに、カウンセリングでは、次から次へと言葉が出てきた。もともと考えていたことが多分にあるからであったが、一度に多くを喋り過ぎてしまった気がする。寛子が気圧されてなければ良いのだが。
 修正が済むと、杏奈は応接間を出て、ホールを横切り、玄関へとつながる扉を開けた。そのまま玄関を左手に横切り、南の部屋へとつながる扉を開ける。
「美津子さん」
 前室の前の廊下で一声かけたが、反応はない。
「美津子さん」
 もう一度呼ぶ。中から「どうぞ」と声が聞こえ、杏奈は前室に入り、襖を閉めた。次の間は美津子の居室である。あかつきのオーナーである美津子は、事業所であるこの家を住居としていた。あかつきの敷地内で寝泊まりしているのは他に、杏奈だけだった。杏奈は、敷地の西側の離れに住み込んで働いている。そのため、日中、他のスタッフが出勤している時間帯以外のクライアント対応は、この師弟のどちらかがする。
「失礼します」
 美津子は、南側に面する掃き出し窓を全開にし、外の空気を入れていた。庭の木々や飛び石が網戸越しに見える。
 長方形の座卓が置かれているだけの、がらんとした和室。床の間には山水の掛け軸と、季節の花が飾ってあった。
─そういえば…この前まで、カーネーションが飾られていたっけ。
 美津子は座布団に座って、何か書きものをしていた。杏奈は襖の近くに正座し、両手を無造作に膝の上に置く。
「寛子さんの問診票、更新したので、確認していただけますか」
 美津子は頷いた。
「見ておくわ」
「ありがとうございます」
 用件を述べると、杏奈は立ち上がろうとしたが、思い直したように座り直した。
「美津子さん」
「なに?」
「あのう、どうでしたか?カウンセリング」
 これを聞くために、わざわざ居室に寄ったのだ。
 自分はうまくやれたのか。過不足はなかったか、出過ぎたマネをしていなかったか。態度は高飛車になっていなかったか。
 つい先ほどの仕事について、評価をもらうのは怖いことだった。聞かなくても、言うべきことがあれば、美津子の方から伝えにきただろう。しかし、それを待っているのも具合が悪い気がして、尋ねてみた。
 美津子は顔を上げ、吊り収納のある部屋の西側に視線をやっていたが、やがてゆっくりと首をひねって杏奈のほうを見た。
「そうね…」
 美津子は、今度は身体ごと杏奈のほうを向いて、
「その場で結論を出すのを、急がなくなったわね」
「…はい」
「それでいいのよ。詳しい聞き取りをするだけで」
「はい」
「寛子さんはあまり、推奨事項を行っていなかったから、方針を変えるようなこともなかったわね」
「はい」
「それから…クライアントの反応を、もう少しよく見たほうが良い」
 いちいち従順に相槌を打っていた杏奈だったが、「はい」の一言を発するのに窮した。代わりに、二回瞬きする。
「素の反応から読み取れることは、意外に多い」
 今、まさに杏奈の反応がそうであるように。
「たとえば、納得したか、不服か。言葉以上に、真実を語ってくれるものだわ」
「…分かりました」
 杏奈は、人と目を合わせて話をするのが苦手である。それ以前に、人と関わること自体が。
 けれど、杏奈は今、美津子の目を見て話していた。フィードバックを受けることを、あれほど恐れていた杏奈が。
─ようやく、か。
 約一年。
 あれだけ、生気のない目をしていた杏奈だったが…
─サットヴァ。
 それだけの時間をかけて、ようやく彼女の目に、それが見えてきている。

 さて、その頃。
 十一時半を過ぎたころから、キッチンはようやく本稼働に入った。
 ごはんを炊く。鍋で豆と野菜を炊く。グラインダーを回してほうれん草をペーストにする。
 賄いを含めて五人分の料理を、小須賀は手際よく仕込んでいく。賄いの割合の方が多くて、この癒しの館の経営は大丈夫なのかと思うけれども。
 ほうれん草のペーストを器に入れる。それからテンパリング用の小さな鍋、タルカパンにオイルを入れ、火にかける。
 本業として働いているレストランでの仕事に比べれば、なんて余裕なんだろう。タルカパンの中に入れたオイルが温まるまでのわずかな時間でさえ、長く感じられる。小須賀は手持無沙汰に口笛を吹いた。
「おはようございまーす」
 バン!と勢いよくお勝手口が開き、うららかな声が飛んできた。小須賀は突然のことに、カレーリーフを入れた後、手を引っ込めるのが遅くなってしまい、
「あちッ!」
 油はねをくらって悲鳴を上げた。
「あーっ、小須賀さん、料理してる」
「料理しなきゃ、なんのためにここにいるんだよ、おれは」
 お勝手口から素っ頓狂なことを言ったのは、黒髪に金色のメッシュを入れた、若い女。オーバーサイズのティーシャツに、黒いパンツというカジュアルな普段着に、黒いキャップをかぶっている。ボーイッシュな出で立ちだが、可愛い子だと、小須賀は思う。顔のパーツはどれも形が良く、大きさが整っていて、バランスが取れている。
 熱したスパイスと油をほうれん草のペーストに回しかけると、ジュッという音と共に、油が煙を立ててペーストの上をすべった。
「なんですか?それ」
「ほうれんそうチャツネ」
「チャツネってなんですか?」
「ペースト」
 なんだかアホみたいなやり取りだな、と思う。
「何しにきたの?」
「遊びに来ました」
 取った帽子を、背中の後ろで両手で持ちながら、空楽は悪戯っぽく笑う。
「今日はスタッフ勢ぞろいですね」
「勢ぞろい?沙羅さんは来てるけど」
「羽沼さんのバイクも停まってましたよ。他にも…」
 そういう空楽は、いつもここまで電動自転車で来ているのだった。
 羽沼が来ている…と言われても、小須賀はそれにはあまり興味がなかった。
「今日のごはんは何ですか?」
「教えません」
「え~、いじわる」
「はい、邪魔です」
 小須賀は用もないのに空楽の立っているほうへ歩みを進め、彼女を追いやる。空楽はきゃあきゃあ言いながら逃げ回る。反応が良い空楽と戯れるのは、実に楽しい。
 同じ女でも、どうしてこう反応がちがうのか。同じようなことを沙羅にすれば、あきれたように、軽くあしらわれる(正直、その反応も嫌いではない)。杏奈は、本当に意味が分からないという顔で「やめてください」と真顔で言う。端から、こういう戯れを仕掛ける相手ではない。
「こんにちは」
 パラパラッとストリングカーテンが揺れて、白いシャツにジーパン姿の男が顔をのぞかせる。
「あ、羽沼さん。こんにちは」
 噂をすれば、当の本人が現れた。朗らかに挨拶を返した空楽に遅れて、「こんちはーす」と小須賀が義務的に声を出した。羽沼と呼ばれた男は、笑うと目尻に皺が寄る、人好きのする顔を中の二人に向け、
「水もらってくよ」
 と声をかける。
「どうぞー」
 自分の所有物でもないのに空楽が許可を出す。
 羽沼は、小さなガラスのコップを二つ棚から取り出し、浄水の蛇口をひねる。
「小須賀くん、鞍馬も来てるけど、後で麻雀でもする?」
「しません」
 即答だった。
 羽沼はすごすご立ち去りかけて、ふと、キッチンに漂う香りに気が付く。
「うまそうなにおいがする」
「悪いけど男どもの分はないからね」
「えーっ」
 期待はしていないが、羽沼は不服そうな声を出した。小須賀と羽沼は、年の頃は同じくらい、三十代半ばであったが、見た目は小須賀の方が若く見えたし、好色な一面も、若い印象に拍車をかけていた。
「残念だね、羽沼さん」
 空楽は他人事のように言う。
「キミの分もないよ」
 言っとくけど、と小須賀は付け加えた。
「ええっ」
 空楽は大仰に驚いてみせた。
 羽沼は応接間を通り抜け、居間を経由して、開け放たれているドアから書斎に入った。
 書斎は玄関と居間の間に位置し、居間側とホール側、双方に扉がある。音が漏れないよう、ホール側の扉は閉めてあった。書斎は、南側と西側に大きな窓を設けた洋室である。そのためか、応接間よりも明るい。若葉色のカーテンが、半分より低い位置に設けられたふさかけに優雅に留められていた。ホールに近いほうの西側の壁には本棚が置いてあり、分厚い本がぎっしりと並んでいる。窓の近くには、それぞれ東西を向くように二つのソファが置かれ、その間にローテーブル。
 一人の若者が、居間から入って手前のソファに座っている。
 小柄で細見。眉と目の間が狭く、血行の良い薄い唇。若者は、女かと見まごうほどに整った顔つきをしているが、男である。前髪は中央で左右に分かれ、髪の長さは肩には届かないまでも、やや長かった。
「鞍馬、水持ってきたよ」
 羽沼はその若者に言った。
「ありがとう」
「選べた?」
 訊きながら羽沼は鞍馬の向かいに座り、グラスを二つ置く。両膝に両肘を置き、体を前傾させて、若者が返事をするのを待つ。
「これと、これ…かな」
 鞍馬は画面上で、写真を二つ選択し、別のウィンドウにスライドさせた。数秒でアップロードが完了し、二つの写真にチェックが入った状態となる。
「どれどれ」
 ノートパソコンを見やすい位置に移動させ、羽沼はカチカチッとマウス操作をした。十数秒経ったのち、羽沼はおずおずと顔を上げ、
「これだと、ちょっと手前のお客さんがピンボケしすぎてて…それからこれは、鞍馬の顔しか映ってなくない?」
「そうかなぁ?」
 羽沼はじーっと鞍馬を見やった。しかし、鞍馬はどこ吹く風で、羽沼の疑いの視線を浴びてももろともしない。
「…ま、いいや。やっぱり僕が選ぼう。公平な目線で」
「ちっ」
 鞍馬が舌打ちするのとほぼ同時に、ホール側の扉が静かに開き、杏奈が中に入ってきた。
 今日もいつもとほぼ同じ、白いシャツに、黒いズボンという恰好で、紺色の大きなエプロンを身に着けている。
「どうも」
 組んでいた足をおろし、鞍馬は杏奈に軽く会釈をした。羽沼は、画面に向けていた顔を少しだけ左にずらし、
「古谷さん。いいところに」
 と言って、手をこまねく。杏奈は歩み寄りながら、
「鞍馬さん、今日はどうしたんですか」
 と訊いた。ヨガレッスンの開催予定も、練習の予定もないはずだが。
「羽沼さんに呼ばれて。花祭の時に借りていたものを、栗原神社に返しに寄ったので、ついでに」
「あ、この間の花祭の…」
「花祭って…二か月も前じゃないか」
 羽沼は呆れたように言った。
「ええ。つい忘れちゃってて」
 鞍馬はへへっと笑った。
 羽沼は今日、杏奈とあかつきのホームページについて、軽く打合せをすることになっていた。新設した、ヨガのページである。
「鞍馬に写真を選んでもらおうと思って。でも…どうも一人よがりでさ」
 語尾は笑いを含んでいた。羽沼は相好を崩したが、鞍馬は唇を尖らせた。
 羽沼はあかつきのホームページやSNS、動画制作などのサポートをしている。あかつきのスタッフではない。が、縁あって、あかつきの事業に一役買ってくれているのだ。今回、新しいページの修正とブラッシュアップを買って出てくれた。
 杏奈はパソコンを覗き込んだ。鞍馬が選んだという写真は、この間あかつきでクライアントにヨガをしてもらった時のものだ。鞍馬だけが目立っていて、練習風景というよりプロマイドである。
 顔を上げると、鞍馬はむすっとした表情で水を飲んでいる。杏奈は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ちょっと一緒に見られる?」
 操作をしながら、羽沼は杏奈に隣に座るよう促す。
 一枚の写真をただ掲載するだけでなく、複数の写真が、代わる代わるゆっくりと投影される仕様になっていた。
「いいですね」
「見せて下さい」
 鞍馬は杏奈からパソコンをひったくり、十秒ほどの間、じっと画面を見つめた。
「ま、いいんじゃないですか」
 と、ふてくされたような表情は変えずに、パソコンを杏奈のほうへ押しやる。杏奈はそれを受け取り、ページ全体を眺めた。言われなければ、ここにのっているヨガインストラクターが、老舗旅館の五代目とは誰も思わないだろう。
 鞍馬の実家は、明治から続く湯の花温泉。このあたりでは一二を争う老舗旅館。鞍馬は若い。まだ二十三、四歳といったところ。肌つやがすこぶる良く、眉目秀麗な美男子だが、背は低い。家業については、まだ手伝っているというレベルである。彼がヨガのインストラクターであるのには、実家の仕事の都合と、彼自身の才能など、いろいろな事情があるのだが。とにかく鞍馬は、あかつきで、たまにヨガの指導をしている。
 ヨガはアーユルヴェーダの姉妹科学と言われる。その位置づけは重要だ。深い呼吸をしながら、ヨガのポーズを取ることは、体の中の風の向きを整え、深いリラクゼーション効果をもたらす。鞍馬はもともと、ジムやヨガスタジオで、決められたプログラムを不特定多数の会員に対し指導していたが(今もジムでインストラクターをしている)、あかつきで求められるヨガはそれらとは趣向が異なる。クライアントの体質に応じ、最適なアーサナ(ポーズ)、および呼吸法や瞑想の仕方を決定する。複数人が同時滞在する時には、同じヨガのシークエンス(一連のポーズの流れ)をあてがうけれども、その時ですら、ある程度個人的な調整をする。時間や状況に応じ、個人ベースでの適応を図ることは、ヨガとアーユルヴェーダ両方の本質なのだ。
「いいですね」
 杏奈は視線をパソコンから離した。その口元には笑みが浮かんでいた。
「問題は、どこからリンクさせるかですね」
 ホームページの見え方としても、メインメニューが多くなると、見にくい。
「ちゃんと目立たせてくださいよ?」
 杏奈は鞍馬のその言葉には答えず、時計を見た。
「あのう、もう少しで施術が終わって、クライアントが降りてきますから」
 杏奈は暗に、この場は解散することを求めた。
 クライアントは施術の際、すっぴんになるし、人によっては、サロン(施術の前に身に着ける巻きタオル状の布)姿で降りてくる人もいる。同じ空間に男性がいると、気を悪くしてしまうかもしれなかった。
「仕方ない」
 二人は荷物をまとめて立ち上がった。行くところは一つしかない。

「そんなに大勢で入ってこないでくださーい。邪魔でーす」
 小須賀が声を張り上げる。大人の男が二人も、ぞろぞろとキッチンへ入ってきたのだ。
「そう言われても、ここくらいしかいるところがないしね」
 羽沼と鞍馬はかわるがわる荷物を棚に置き、靴をタイル張りの床に置いて履くなり、ずかずかと奥に入っていく。
 自主的に洗い物を手伝っていた空楽が、二人と、入り口付近に立ち止まっている杏奈に朗らかに挨拶をした。杏奈は小須賀のほうを向いて、 
「小須賀さん、そろそろ準備…」
「できてるよ」
「うわ、何それ、うまそ…うに見えるけどそうでもないな」
 失礼な発言をする鞍馬に、小須賀は睨(ね)めつけるような視線を浴びせる。
「なんですか?それ。精進料理?」
「悪いけど文句なら考えたやつに言ってくれ」
「時間になったら、デシャップにお茶、お願いしますね」
 杏奈は非難めいた視線をさりげなく無視し、静かに言った。この後、アフターカウンセリングののち、食事となる。
「あ、そうだ。空楽さん」
 何かを思い出したように、杏奈は空楽に声をかける。空楽は前のめりの姿勢で、シンク台にあったものを洗い終えたところだった。呼ばれてふと顔を上げる。
「まこもオイル、今日、使わせてもらいました」
 空楽の背筋が、しゃきっと伸びた。
「新芽のほうの使用感が分かったら、次は葉っぱバージョンも、使ってみたいです」
「あ、はい」
 返事をした空楽は、どこか恥ずかしそうに肩をすくめる。その様子は、先ほどと打って変わってしおらしい。
 小須賀はほうっと息を吐いた。先日、珍しく空楽から連絡があり、仕事でもないのにあかつきに寄った。ろくでもない用事だとは思っていたが、本当にろくでもなかった。まこもオイル作りを手伝わされたのだ。レシピはなかった。ぎゃあぎゃあ言いながら、杏奈と空楽、小須賀の三人で、試行錯誤し、五十ミリリットルのボトル三本ほどのまこもオイルを作った。
 アーユルヴェーダの施術の中で、オイルは重要な意味をもつ。特に薬草の成分を抽出したハーバルオイルには、効能がある。すべての人に向いているわけではないが、適切に使えば、より効果が得られる場合もある。オイルは細胞の深層深部に届く。栄養を与えられた細胞は、その消化の火を強め、体全体の健康度を上げるのに寄与する。
 足込町で生長する植物を使って色々なものを作るのは、空楽にとって楽しい遊び。自分の創作物が、誰かの役に立つかもしれないなんて、空楽には思いも寄らなかったが、かといって、嬉しくないことでもなかった。
 カウンセリングが終わると、そのまま食事となった。
 小須賀は盛り付けを始める。男たち二人が、自分たちも食べるものはないかと物色しているのは気になったが、追い出すのは後だ。せっかく出来立ての料理。最高のタイミングでサーブしたい。
 小さめの平皿に、パラパラとした、薄桃色のお米、豆と野菜の煮込み、ほうれんそうチャツネと呼ばれた緑色のペーストを盛り付ける。
 アーユルヴェーダでは、食べた物は体の中で、栄養にも、薬にも、毒にもなる、と言われる。どれになるかは、消化力が関係している。
 アーユルヴェーダなど知らないが、小須賀は料理で誰かを喜ばせることに長けている男だった。
 
 施術を受けたばかりの寛子の肌はしっとりとしていて、艶めいている。半袖のティーシャツにゆったりとしたズボンという姿で降りてきた寛子の、露出した肌を見て、杏奈はそう思った。
 デシャップに置かれた料理を、応接間の、寛子が座っている席までもっていく。杏奈が摘んだゴツコラは、ケララ赤米と呼ばれる、パラパラした薄桃色のごはんの上にちょこんとのっていた。
 手短に料理の説明をした後、杏奈はさりげなく隣の居間に控え、事務仕事をしたり、埃が立たない程度に備品の整理整頓などをしたりする。寛子が会話を求めるようであれば、会話をし、質問されれば、それに答えるため。
 寛子は今のところ、黙々と食事をしている。
 先ほどよりも風がやや収まってきたので、杏奈は掃き出し窓を全開にし、外の景色を見る。穏やかなそよ風が入ってきて、レースのカーテンが柔らかく揺れた。車の音も、道行く人の話し声もしない。なぜならここを通る車や人は、ほとんどないからだ。虫の音もこの時期は少なく、時折メジロだか、ヒバリだか─野鳥に詳しくない杏奈には、それがなんの鳥の鳴き声なのか、分からない─が鳴く声が聞こえるばかり。
 杏奈は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。生ぬるいが心地よい初夏の空気は、幾分青っぽい草の匂いがする。
 寛子を振り返ると、リラックスした様子で、食事を口に運んでいる。食欲が湧きにくいと聞いていたが、今日はそれほどでもないようだ。
「寛子さん」
 ふいに呼ばれて、寛子は驚いたように目を丸くした。杏奈がそこにいたことを忘れていたようである。
「食事が終わったら、午後のカウンセリングまで時間がありますから、外をお散歩してもいいですよ」
「はい」
 今日の陽気であれば、暑くも寒くもない。それにアーユルヴェーダでは、食後十分程度の軽い散歩は、消化を促すと教えているのだ。
 ただただ、体を労わる施術を受け、上げ膳据え膳で食事をし、その後散歩をするなどとは、なんと悠長なことか。しかし、日々の生活の中ではなかなか空けられない空間を作ってもらうことが、寛子のような性質の人には何より大切だと、杏奈は思う。
 寛子が食事を終えると、自由時間にしてもらい、杏奈は食器類をキッチンへ下げた。この間に杏奈も昼休憩をする。
 キッチンでは沙羅が折り畳み椅子に座って、空楽が蓋をしたゴミ箱の上に座って、寛子と同じご飯を食べている。
─やっぱり、折り畳み椅子、もう一個必要なんじゃ…
 空楽がゴミ箱に座っているのを見て、杏奈はもう何度目か、そう思った。
「お疲れ様です」
 二人は口々に杏奈を労った。
「あれ?男性陣は…」
「外に出てます」
 モゴモゴ口を動かして咀嚼しながら、空楽が答えた。結局、空楽も賄いを恵んでもらえたのだ。
「杏奈ちゃんもご飯食べて」
 寛子の食器をシンクに置く杏奈に、沙羅が気を利かせた。一つしかない折り畳み椅子を譲ろうと、沙羅は椅子をポンポンと叩いたが、杏奈は遠慮して首を振り、小さな深皿に料理を盛る。デシャップには、ガラスの器にゴツコラが二つ残っていたので、そのうち一つを豆の煮込みの上にのせる。
 あかつきのスタッフが同時に賄いを食べることは少ない。時にはクライアントと一緒に食べることもあったが、時間が合わなければ、食べられる時に勝手にキッチンに行き、食べられる所で食べる。
 クライアントの肌や体の状態、まこもオイルの使用感などについて話ながら、三人は食事をした。
 沙羅の手と表情はよく動く。どの部分がよく吸収したとか、肌の色味がどう変わったかとか、楽しそうに喋っている。空楽が時々相槌を打った。棚を壁替わりにして背中を預けて、二人と向かい合う位置にしゃがみ込んでいる杏奈は、食事をしながら、二人の会話を聞いている。
 料理はこれといった特徴のない味。甘味が強いわけでも、酸味や塩味が強いわけでもない。深い緑色をしたほうれんそうチャツネだけが、わずかに塩味が強いが、煎った豆の旨味も感じる。
 六味の揃った、依存性の少ない、消化に優しい料理。それが、アーユルヴェーダ料理なのだ。

 沙羅が午後の施術に入る頃、美津子はキッチンへ向かった。キッチンにはもはや、小須賀がいるのみ。洗い物をしている。
「美津子さん、ご飯食べてください」
 小須賀は目線で、調理台に置いた皿を示す。
「ありがとう」
 美津子は一瞬だけクロックスを履き、皿をデシャップに置いて、クロックスを脱ぐ。
「誰か来てた?」
 美津子は長い間自室にいたが、人の気配がそこかしこに残っていた。
「はい。羽沼と鞍馬が…」
 小須賀は苦笑いした。
「最近、キッチンをたまり場にされていて困ります」
「羽沼さんは杏奈と打合せがあるって言っていたけれど」
「途中まで済んだようです。言伝を預かってますけど…杏奈はどこですか」
「外に出たわ」
「へえ…余裕っすね」
 小須賀はそう言ったが、逆だと美津子は思う。余裕がないからこそ、外を歩きたいのだろう。立て込んでいる仕事の整理をするのに、ブレインストーミングが必要なのだ。
「杏奈、どうですか」
 小須賀はさりげなく聞きながら、きゅっと蛇口をひねって水を止めた。
 寛子のことは、最初から最後まで、杏奈が面倒をみることになっている。それは、小須賀も知っていた。
─美津子さんの仕事が…。
 杏奈に務まるのか。そう聞いているのだろう。
 美津子はデシャップの隅に置かれたガラス容器に、一つ残ったゴツコラを見つめた。少しだけ、間があった。
「良いところを付くのよ」
 小須賀は美津子の横顔を捉えた。彼女は口元をわずかに緩めている。
「素質はあるのよね」
「良かったですね」
 小須賀はサロンエプロンにひっかけていたハンドタオルで、手を拭く。
「あいつは、意外と習得が早いんですよ。こっちの仕事もそうだった」
 そう言ってシンクから少し離れ、調理場を眺める。
 小須賀からは見えなかったが、美津子はゆっくりと頷いた。
 残り一つとなったゴツコラを、美津子はごはんの上においた。

 あかつきの背後には、明神山がそびえている。そびえている…とはいっても、標高六百三十三メートルの低山。あかつきより東に、緩やかな傾斜を登っていくと、さらにその山裾が近くなる。
 杏奈はそちらに向かって、小径を進んだ。
 あかつきのあたりは開けていて、小径の南側は広い草むらだったが、山裾が近くなるにつれ、道の両側に背の高い木々が見られるようになる。林道をしばらく進むと、再び開けた空間に出る。そこは駐車場になっていて、車がちらほら停まっている。寂しい山里。その中でも特に繁華街から離れたところにある神社に、よくも人が来るものだ。
 駐車場の東側には、大きな鳥居。その両側には狛犬。鳥居の向こうは石造りの道が続いている。風に吹かれて、ザァ…と木々が音を立てながら揺れた。栗原神社は、森の中にあると言っても良い。背の高い木々を背景にそびえたつ鳥居の前で、杏奈は一礼し、鳥居をくぐった。
 西参道の両側には、鬱蒼と杜(もり)の木々が生い茂り、晴れているのに薄暗く感じる。参道と森を区切る玉垣が設けられていて、一定の間隔で灯篭があるが、もちろん昼間から灯りはついていない。
 サラサラと木の葉が揺れ、時々木漏れ日が地面を照らした。杏奈は時々、すぅ、と意識的に深い呼吸をした。
 普段気が昂ぶることがほとんどない杏奈であるが、今日は幾分、興奮している。理由はもちろん、これまで美津子だけが行ってきた、あかつきの司令塔ともいえる仕事を、初めて一人で行ったことにあった。もちろん、美津子の監督の下で、ではあるが。
─寛子さんの抱えている問題に、どうアプローチするか…
 が、今はいいアイディアを絞り出すために歩いているというより、ただ自分の中に空間を設けるために歩いている。
 人気のないこの辺りは、夜は怖くて一人で歩けないが、昼間であれば、静かだし、空気は澄んでいるし、あかつきとの距離感といい、散歩にはうってつけだ。
 途中、二組ほどの参拝客とすれ違った。
 長い西参道を進むと、左手に神門が見えてくる。神門をくぐり、本殿まであと半分の距離になったところで、足を止めた。かすかに、犬の声が聞こえたのである。
─あのひとがいるのか。
 杏奈は神門の外へ視線を向け、呼吸音をひそめて、耳を澄ます。かすかにその声がまた聞こえたが、おそらく、その高い鳴き声からして、あのひとの連れている犬より、もっと小さな犬のものだろう。
 杏奈は、心なしかほっとしていた。
─きっと違う犬だ。あの犬は吠えないもの…
 凛々しくて賢い、逞しい犬を瞼の裏に思い描く。その毛色は黒と茶、白の三色が入り混じっていた。
 犬の声のするほうに聞き耳を向けていたため、杏奈の身体の向きは、並び立つ赤い鳥居を正面に見る位置に変わっていた。気のむくままに、その赤い鳥居をくぐり、奥へ進む。鳥居の周りは竹林。笹の葉が揺れる音がする。
 コの字型を描いて並ぶ赤い鳥居の、最初の角を曲がった時、栗原稲荷社の前に佇む、一人の女性の後ろ姿があった。女性は、ゆっくりと横に揺れていたが、すぐに上下に小刻みに揺れる動きに代わった。赤ちゃんの泣く声がした。
─赤ちゃんを、抱いていたのか。
 それで、杏奈は女性の不思議な動きの理由を理解した。
 しかし、赤ちゃんは起きてしまったらしい。母親は体重を右足、左足と交互にかけ、時々体をねじって赤ちゃんをあやす。
 ササ―ッ…
 風が吹いて、頭上で笹の葉がこすれ合う音がする。
 眉まで届く前髪がまなかいに差し掛かる。杏奈は髪を手で押さえつつ、思わず目を瞑る。ポニーテールにした後ろ髪が、サラサラとなびく。
 少し風が弱まったと感じた時、杏奈はうっすらと目を開いた。
 その時。
 赤ちゃんを抱きながら、わずかに体を揺する母親の後ろ姿が、ふいに名も知らぬ別の母親と重なった。
 栗原稲荷は白くかすみがかってフェードアウトし、代わりに無機質な空間を背景に赤ちゃんを抱く女の後ろ姿を見る。女は赤ちゃんをあやしながら佇んでいた。
 視界が四隅からゆっくりと白みがかってぼやけていく。
 ふいに女が首と体をわずかに右に向けた。こちらに振り向くかと思ったがその瞬間、無機質な壁が両側から迫り、瞼がゆっくりと落ちるように視界が上下から黒くぼやけ、何も見えなくなった。

 話はこれより、一年ほど前へ遡る。


 

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