ここは愛知県東部、足込町。里山に囲まれた小さな町である。このあたりではやや標高の高い山である、明神山の麓の近く。二階建ての白い外観の建物を母屋とする、一軒の邸宅がある。その二階の一室で、一人の女が、東側に設けられた窓を開け放った。わずかに湿り気を帯びた風が入ってくる。
風を顔面に受けながら、美津子はしばし呼吸に意識を向けた。この窓は両開きで、内障子がある。肩よりも少し長い位置で切りそろえられた髪が、風に揺れる。つややかな、オレンジがかった黒茶の髪。
窓枠の内障子。隣の部屋とを隔てる仕切り戸は源氏襖。やわらかであたたかみのある生成り色の土壁。柔らかいコルクボードの床板。八畳ほどのその部屋は、和のたたずまいであるのに、照明は趣向が異なる。すずらん形のシェードを三灯吊るした、アンティークなシャンデリア。すずらんのシェードは斜め外向きに開く形で吊るされ、色は乳白色。シェードを支えるアームは真鍮だが光沢はなく、優雅なカーブが蔓のようだ。木製の土台はこげ茶で重厚感があるが、華奢なアームと不釣り合いなほど太くはない。
揃いのシェードが、部屋の入り口である引き戸の近くにも一灯、これは真下を向いてひそやかに設けられている。
そしてもう一つ、和室にそぐわない異質な存在が、その部屋の中心に座している。高貴な紫色の、つややかなクロスに覆われているそれは、シングルサイズの木製ベッド。
美津子は窓を背にし、ベッドをまわり込んで再び窓のほうを向く位置に立った。クロスを隔ててベッドに置いた編みかごから、壺のようなものを取り出す。壺は大きく、平べったい水盆形。壺の真ん中あたりに、波打つような模様と、丸くカーブを描いた格子柄が施されている。真鍮製だが、光沢はなく、使い込まれたものと分かる。
後ろを振り向き、美津子は部屋の隅に歩みを進めた。入り口側の土壁の近くには、ひっそりと佇む、木製のスタンドがある。一見コートスタンドに見えるが、アームは一つしかない。大人の肩から指先ほどの長さのアームの先は、上向きに曲がり、何かをひっかけても落ちないようになっている。
美津子はそのアームの前で立ち止まり、壺の中に手を入れる。リング形の金具を親指と人差し指でつまみ、上に持ち上げると、ジャラジャラと音を立てて鎖が伸びた。鎖は壺の上端三か所と繋がっている。壺を吊るすためのものらしい。
美津子は金具をアームの端にかけ、壺を吊るした。彼女の背より高いスタンドと、そこから伸びるアーム、そしてそのアームから吊るされている真鍮のポットこそ、異質な存在に見えるのに、不思議なほどこの和室によく馴染んでいる。
かすかにエンジン音が聞こえ、美津子は源氏襖を両側に開いた。
隣は四畳半ほどの広さの部屋。南側と西側に窓があるが、ここは内障子ではなく、カーテンがかかっている。ふんわりとしたレースカーテンが窓の中央まで閉められ、窓の両縁には、クラシックなダマスク柄のピンクベージュのカーテンが、共生地のタッセルにきちんと収まっている。そのためか、今までいた部屋よりも、和室っぽく見えない。
部屋の中央あたりにはペンダントライトがぶら下がっている。シェードは一つだけ。隣室と揃いの乳白色のすずらん。斜め外ではなく真下を向いている。
南の窓の近くにローテーブルと飾り棚、北側の壁に沿って化粧台が置かれている以外には、目立った調度品のないその小さな部屋を、美津子は颯爽と横切った。
南側のレースカーテンをシャッっと開き、窓を開ける。視界いっぱいに、新しい葉を伸ばした草原と、新緑を湛えた山裾が広がる。眼下には広い庭と、敷地内に作った畑。
ほどなくして、生垣の槙の木の間から、誰かが正門に近づいていくのが見えた。
美津子は開けたばかりの窓を閉め、レースカーテンをひっぱった。和室に戻り、窓を閉め、内障子も閉める。
空気の入替ができたのは、ほんの束の間だった。
「ご縁さま」
階下に降りた美津子は、やがて一人の客を玄関で出迎えた。
「棚経で近くに」
深みのある低い声が、美津子の鼓膜に心地よく響いた。
涼感のある黒紗の改良衣を着た僧侶が、くっきりとした穏やかな目を柔らかく細める。
玄関のたたきとホールの段差にも関わらず、二人の目線は同じくらい。僧侶はそれほどに背が高かった。体の線を隠す法衣を着ていても分かるくらい、体格の良い、大柄な男だ。
男は、足込善光寺の住職、加藤幸永僧侶。
「時間がなければ、ここで良い」
そう言って加藤が左の袂に右手を入れようとするのを、
「いえ、お上がりください」
美津子はそう声をかけて遮った。
加藤が草履を脱ぐのを見ながら、美津子は、長い年月が流れたことを知った。かつて加藤は、美津子が上がってくださいと声をかけても、決して、上りはしなかったものだ。
階段のあるホールを横切り、東側の扉を開けて応接間に入る。
「お茶でも」
加藤を振り返って声を掛けたが、加藤は視線を前方にやったまま小さくかぶりを振った。
加藤はこの頃、六十を過ぎたところだ。しかし肌の色は健康そうな濃い小麦色。
「仕事があるだろう。すぐ帰る」
その場を離れようとした美津子を、加藤は軽く制した。
南北に長い応接間。東側に窓が連なっている。カーテンこそ閉められていないが、この清々しく過ごしやすい時節、窓を開けていなかったということは、帰ってきたばかりか、これからどこかへ出かけようとしていた、ということだ。ここは一日の中で、美津子が最も長い時間を過ごす場所。そう知っているからこそ、加藤はそう思った。
二人は長テーブルの両端に、斜めに向かい合う位置に座った。
「これを返しに」
座ると間もなく、加藤が袂から取り出したのは、小さな長方形の電子機器だった。
美津子は両手を差し出し、恭しくそれを受け取る。その両手に収められたのは、使い古した、白いICレコーダーだった。
「役に立ちましたか」
美津子は少し恥じらうように身をすくめた。しかし、自然と口角は引き上がり、くっきりとした二重瞼の大きな目が、加藤の目をまっすぐに見据える。
加藤は静かに微笑み、しかし首をわずかに傾げる。
「なかった習慣を、実践させようというのは、難しいものだな」
視線を机の上に下げていたが、視界に入る美津子の口元が、先ほどより萎んでいくのが分かった。
「その者が乗り気でない場合は、特に」
淡々とした話しぶりだった。声色からは、自嘲しているのか、失望しているのか、分からない。
加藤は伏せていた顔を上げ、美津子と目を合わせた。美津子はもう、微笑んではいない。そのまなざしから、加藤は美津子の心に浮かんだであろう感情を汲み取る。
加藤は美津子を労わるように、目だけで笑ってみせた。お前のツールが悪かったわけではないのだと。加藤の目尻に、皺が濃く刻まれる。
頭の形が良く、坊主頭であるのに、この男が不思議なほど端麗に見えるのは、きらきら輝く光を宿した大きな目のせいか。
斜め向かい合って座る加藤の膝のあたりに、今度は美津子が視線を落とした。
「実は、私も似た心境になっていました」
そう言って、ほう、と息を吐く。
「どうした」
「先日、一人のクライアントをここへ迎えたのですが」
美津子は膝の上で両の手指を組んだ。
「気持ちの入れ方が、変わってしまったように思いまして」
「お前の、クライアントに対する気持ちの入れ方が?」
「はい」
加藤は黙って、言葉がつづくのを待った。
この洋室の南には、もう一つの部屋があり、部屋と部屋とを遮る引き戸は、通常開け放たれている。南に位置する居間には掃き出し窓があるため、この部屋よりも光がよく届く。カーペット貼りになっている居間には、椅子と飾り棚の他にはほとんどものがなかった。
美津子は加藤を視界の隅におきながら、ぼんやりとその居間の様子を眺め回す。それから、視線を応接間の調度品に移した。骨董品のティーカップをしまっている飾り棚、東の窓に沿って連なる引き戸棚。機能性がありつつも、心地よい空間になるようにと、美津子が選んだものばかりだ。
「アーユルヴェーダのセラピーは、ヒーラーが参加した時にのみ癒しになる」
美津子は再び視線を加藤に合わせた。
アーユルヴェーダ。
果たしてこの言葉を知っている者が、どのくらいいるだろうか。
「この医療は、気持ちが入っていないと、クライアントを良い方向に導けません。それなのに、必死さに欠けてしまったような」
美津子は独り言のように、淡々と言った。
美津子の仕事は、アーユルヴェーダをツールとして、クライアントをバランスの取れた状態へ導くこと。この家は、美津子の住居であると同時に、クライアントが本来の自分を取り戻すための、癒しの館だ。ここで、クライアントの毒素を溶かすことに集中してきた。身体だけでなく、心の毒素も。
どのように人は癒されるのか。
その過程や最適な方法は、一人ひとり異なる。美津子はそれを、クライアントの内から探し出し、相手に伝えてきた。そして、そういう美津子を尊敬し、見守ってきた加藤であった。古くからの盟友のようなこの女が、愚痴めいたことを言うのは珍しい。
「アーユルヴェーダの治療には、ヒーラーの他に、もう一人、特別な人が関わっている」
加藤の低い声が響く。静かに語りかけられているはずなのに、その声の波動は、全身に浴びせられるようだ。
「クライアント自身に思いが足りなかった…必死さに欠けていた…そういうことじゃないのか」
加藤の言う「思い」とは、変わりたいと願う気持ちのことだろう。
─そうだ。アーユルヴェーダでは、自分の健康の責任は、自分が持つ。
もう一人とは、他でもない、クライアント自身。美津子にとっては言わいでものことであった。
加藤は改めて、美津子の仕事の複雑さを思う。
健康を取り戻す旅を、アーユルヴェーダに導かれたいと願うクライアントを、この館へ迎え入れる。忙しい現代社会を生きていると、どんなバランスの乱れがあるのか、その原因などは、当の本人ですら、把握できていないものだ。それなのに、美津子は会ったこともない他人のそれを、あらゆる手段を通してなるべく詳細に把握する。バランスが崩れた原因を、クライアントの日々の行動様式や選択の中から探し出す。原因と結果を結び付ける。クライアントに因果関係を理解してもらった上で、原因を根こそぎ排除することを促す。
実際に原因を排除するのは、クライアント自身。クライアントは、自らが自分の医者となって、意図的に自分をケアしなければならない。
でもそれは難しい。
不調の原因が、長年習慣になっていることや、好んで食べているものだった場合、それらを排除するのは、苦痛を伴うからだ。頭では理解できるし、納得していても、行動には起こせない者は多い。そもそも、指摘された原因を否定する者、嫌悪を抱く者もいる。
ヒーラーがどんなに粘り強く、原因と結果のつながりを説いても、最終的に変容を起こせるかどうかは、クライアントに委ねられている。
だからこそ、アーユルヴェーダの治療は、優れたドクターがいても成り立たない。クライアント自身が参加する必要がある。クライアントが自分自身に本気で向き合う気がなかったら、ヒーラーにできることは、限られてしまう。
だから、加藤の指摘は、見当外れではない。
「ここに来るクライアントの本気度には、ばらつきがあります」
「そうだろう」
「クライアントのやる気のほどがどうであれ、行動を起こせるよう、知恵と手段を尽くすのも、ヒーラーの役目」
「…」
「それなのに、相手がほしいものを渡すことにエネルギーを注ぐことなく、行動しないなら変化も望めないが、私は知らぬと、そういう気持ちになってしまいました」
「珍しいな。お前に惰性など」
美津子は自嘲するような笑みを浮かべてかぶりを振った。
「私も、人間です」
「悪魔や妖怪の類と思ったことはない」
茶化すように加藤は言った。二人はお互いを見るともなく見て笑った。
「あるいは」
美津子は笑いを収め、
「感染症で規模を縮小していたのを、元に戻したにも関わらず、クライアントの足が遠のいているので、拗ねた心地になっているのかもしれません」
「であるのなら、なおさら一人ひとりを大切にしなければ」
「はい…いいえ。嘘をつきました」
今日の美津子はいつになく、歯に物が挟まった言い方をする。思考を巡らせながら話しているのだろう。答えを出したいのに出せない問題があるらしい。あともう少しのところで、答えに気付けるような気がするのに。
─直観力がほしい。
無意識にそう願った自分に気づき、美津子はふふっと苦笑する。
「このツールが必要だったのは、私なのかもしれませんね」
そう言って、先ほど僧侶から受け取ったICレコーダーに左手を伸ばす。その手を、加藤はただ目で追っていた。
─直観、か。
しかし、気付きを得る方法は他にもある。例えば、こうして問答することによっても、気付きは得られるはずだ。そして、自分の問いから、気付きが与えられるのであれば…
「お前の人生で果たすべきと思うことが」
再び、美津子は加藤の声から発される波動を感じる。
「今までとは微妙にズレてきたのかもしれないな」
美津子はICレコーダーから手を引き、両手を膝に置いた。もう苦笑いも浮かべていない。
─目的。
自然と、瞼が閉じた。
核心に触れた。熟考すべき対象が見えた。そこをもっと深堀したいのに、同時に全く別の想念が起こって、美津子は心の中で、加藤に手を合わせた。
「感染症の最中、仕事が少なくなって、時間ができた時」
浮かんできた考えを、そのまま、ゆっくりと声に出す。
「このまま、畑仕事と、コラムを書く仕事だけをして、余生を過ごすのも、悪くないと思ったんです」
「六十にも満たないくせに、もう余生とか」
「それほどに、あかつきでしてきた仕事には、ある程度満足したということでしょう」
「ふうん」
「でも、これは仕事に生きてきた女の執着なのか。やっぱり、まだ足りないと思ったんです」
「まだできることがあると?」
「ええ。でもそれは、今までしてきたことと、少し違う」
「…」
「自分自身が何かを成し遂げることについては、もう、私の人生の優先順位の中で、上位ではなくなったのかもしれません」
思ったことが口に出ていた。いつしか虚空を捉えていた視線を、再び加藤に戻し、美津子は、ごまかすように言葉を紡いだ。
「すみません。心の声が漏れてしまいました」
しかし、心に浮かんでいるもう一つの可能性については、美津子は口を割ることはなかった。美津子はその可能性をまだ、ぼんやりとしか捉えられていないし、そのおぼろげな方向性を明確にするために話をすることを望んだにせよ、加藤に話すべきことではないと思った。
加藤は何も言わず、目を細めた。一方通行な妹の話を優しく聞いてくれる、兄のように感じ、美津子はふふっと笑った。
「それによくよく考えれば」
美津子は、どこを見るともなく、視線をあたり一面に泳がす。
「一人で畑仕事だけをして暮らしていくのに、この家は広すぎます」
だからこそ、やはりあかつきの事業の場として活用しなければ…。そういうニュアンスを込めて、美津子は言ったのだが。ほんの一瞬、加藤の眉がぴくッと持ち上がったのを見て、美津子が浮かべていた笑みは消えた。
加藤の、一瞬の垣間見えた感情の動きを読み取って、美津子は言葉を続けることができない。
「この場所が、お前の自由な選択を奪うことになるのは、心苦しい」
また、静かに、けれど響きのある、加藤の声。顔からはもうどんな感情も読み取れない。
「私のお節介は、お前を困らせたか」
「いいえ。ご縁さま」
思いがけない、加藤の苦悶の表情が、まだ瞼の裏に浮かんでいる。美津子は自分ばかりが狼狽するのを感じた。
「私には、まだこの家が必要です」
しかし、次の瞬間には加藤は、もう目元と口元、両方に微笑を浮かべていた。それだけで、美津子はぴたりと口をつぐむ。
─むきになるな。
そう、たしなめられているような気がして。
「そういえば、小須賀くんは来ているのか」
加藤は話題を移した。美津子は気持ちを整えるために居ずまいを正した。
「はい。以前よりも頻度は減ってしまいましたが、足込温泉へ物品を出す時には、手伝ってくれています」
「フーン」
「実は今日も、彼が準備してくれたものを出品しに行くところで」
それは、イレギュラーな案件だった。
「そうか。では、そろそろお邪魔するかな」
加藤はゆったりと席を立った。美津子もそれと同時に立ち上がる。
「運ぶのを手伝おう」
しかし、美津子はかぶりを振った。
「軽いものなので。それに、納品時間までまだ時間がありますから」
「そうか」
美津子は、加藤を門まで送ることにした。
外に出ると、加藤は両手を後ろで組んで、ゆっくりと歩く。庭の中ほどまで進んだところで後ろを振り返り、
「今度、クライアントを一人受け入れてほしい」
「え?」
「こう閑散としていちゃ、資金繰りにも一苦労するだろう」
そう言って不敵な笑みを浮かべる。美津子はちょっと顎を引いて、眦を吊り上げる。
「情けをかけてくださるということですか」
「ああ」
「あかつきにはクライアントが少ないので、善光寺のご住職さまから」
「そうだ。ありがたく思え」
それからまた僧侶は、ゆっくりと歩みを進める。
「法話のたびに人生相談されて、これがまた、話が長い」
ぽつりと、つぶやくように言った。美津子は再び眦を吊り上げる。
「つまり、厄介払いしたいと」
「送客してやらんでもない、と言っている」
「引き受けてください、でしょう」
加藤はもう一度振り返る。お互いに悪戯っぽく笑っている。目と目を合わせるだけで、二人にはそれきり会話はなかった。
その日の昼下がり。
穏やかだった日射しは、季節外れとも思えるくらいに強くなっている。
後部座席に足込温泉へ出品する品々をのせて、美津子は白いエヌボックスを納品先まで走らせた。
あかつきは明神山の麓にあり、標高が高いところに位置するので、町の中心地へ向かうには、坂を何度もジグザクに下らなくてはならない。林道を下り切ると公道に出る。このあたりでは最も交通量の多い主要道路。この道路を南に突っ切ると、町役場や郵便局、スーパー、病院などが集まる街の中心部・野郷である。が、美津子はここを左折した。公道を東に向かって進む。公道の北側は山の斜面。道のすぐ南側には御殿川が流れている。そのさらに南には、雑木林の中に点在する民家や、畑や田んぼが見える。
どこまでも長閑な田舎。
道なりに車を走らせると、十分も経たないうちに、道が南にカーブする。やがて開けた、平らな土地にさしかかる。山間の風景の中でひときわ目を引く大きな建物に向かって、美津子は車を走らせた。平屋造りの大きな建物は、一目で温泉施設と分かる。こんな田舎のどこにこんなに人がいたのかと思うほど、車が多く停まっている。
美津子は正面の入り口から近い場所に、車を停めた。後部座席から、通い箱を一つだけ持って、温泉施設の中へ入る。
入口の看板には「足込温泉」とあった。
靴を脱いで中に入ると、右手に広い食事処、左手に施設利用券の自動販売機と、番台。その向かいに物品販売コーナー。
番台のスタッフに声をかけると、ほどなくして物品担当の女がそろそろとやって来た。女は美津子の姿を捉えると、軽く会釈をした。ちりちりとした黒髪が顎のあたりまで伸び、やや猫背が目立つ女であった。
「永井さん、こんにちは」
「こんにちは。そこの、唐辛子味噌の隣に、スペースを取ってるわよ」
永井と呼ばれた女は、美津子の持っている物品を納める場所を、右手で示す。
「ありがとう。今日は、いつにも増して賑わってますね」
「登山客が多いのよ」
確かに、食事処でくつろいでいる客は、初老の歳頃の男性が多いのだが、だいたい登山リュックやポーチを椅子に置いている。
「梅雨までは、こんな感じよ。出品物、今増やしたら売れるかも」
飄々とした口ぶりで話しつつ、永井は美津子の持っている通い箱に視線を当てた。
「今日は何を持って来たの?」
「スパイスソルトと、バーベキュースパイス」
美津子は箱を床に置き、蓋を開けて、中からパウチ入りのミックススパイスを取り出して見せた。
「こういうの、いろいろな香辛料がブレンドされてるんでしょ」
「ええ」
「ここには野宿して焚火料理する人も多いし、いいかもしれないわね」
「…キャンパーのことを言っていますか?」
「私、香辛料ってよく分かんないけど」
永井は箱を挟んで美津子と向き合う形でしゃがみ込み、出品物を手に取った。
実のところ、永井と美津子は、そう歳が離れていない。しかし、美津子の少しオレンジがかった髪の毛には、白髪が一本も見当たらず、顔や首筋にも張りがあり、背筋がしゅっと伸びていて、姿勢が良い。外国の食材を使いこなしているあたりも、どこか若々しい。永井はどこか感心したようなまなざしを美津子に向けていた。美津子はそれに気づいて、
「作ったのは、私じゃないですよ」
「あ、あの男の子でしょ」
言ってすぐ、永井は名前はなんだっけ、と遠い目をする。
「小須賀です」
「あ、そう。小須賀くん」
「次の土曜には、彼がお弁当の納品に行くと思いますけど」
「そう。パートのおばさんたちが喜ぶわね。あの子、おばさん受けいいのよ」
一見物静かそうな永井だが、喋り出すと、意外とこれが止まらない。
「久保さんが時々ここにおはぎ持って来るでしょ。あの人、いじわるだから、ちょっと自分のが目立つように、勝手に配置変えるのよ。でもね、小須賀くん、さりげなーく、それを直させるの。名札が見えなくなってるよって言って。でも、久保さんがいつも明るいとか、おはぎの形がいいとか、ちゃんと最初に褒めとくもんだから、久保さんも小須賀くんには怒れないっていうか、女気取りでね」
ここに来ると、だいたい、野郷婦人会のリーダーである久保の噂話か、久保と、その永遠のライバルである大鐘との小競り合いの話を聞かされる。
オリジナルスパイスの納品はあっという間に終わってしまった。美津子は、小さなクーラーボックスから、もう一つの別の何かを取り出し、
「これ、二つしかできなかったのですが」
と、永井の話をさりげなく流し、小さなパウチに入った緑色のジュースを掲げて見せる。
「これは売り物ではないのですが、従業員の方で、どなたか欲しい方がいらっしゃったら差し上げてください」
「あっ、それ、なんとかっていう薬草のジュース?」
美津子はこくりと頷いて、
「はい。ゴツコラジュースです」
と言った。永井は「ああそんなような名前だったわね」とぶつくさ言いながら、自販機横の冷蔵ショーケースをちらりと見やり、
「じゃあ、あそこに保管しておいてもらおうかしら」
「分かりました」
「二つしかないのは、そんなに量を作れないの?」
「ええ。まだ時期じゃないから…」
「ふうん。ねえ、一つは私がもらってもいい?」
美津子は一瞬目を丸く見開いたが、すぐに「もちろんです」と返事をした。
「これ、脳にいいんでしょ?」
永井は美津子からゴツコラジュースを受け取ると、それを両手で持って、まじまじと見つめた。
「最近物忘れが激しくって」
それから永井は思い出したように、美津子と検品作業にうつった。
美津子は足込温泉での用事を終えると、元来た道をまっすぐ戻る。今日はもう一つ、大事な用事があるのだ。
運転席側と助手席側の窓を半分くらい開けると、外から気持ちよい風が入ってくる。
運転しながら、あまり重要なことは考えたくないし、考えられないのだが、今日加藤と話したことを、美津子は頭の片隅で考えていた。
今まで、クライアントの生活をより良くするサポートに邁進してきた美津子だった。健康を維持・増進するためのアーユルヴェーダのやり方は、西洋医学のそれとは大きく異なる。西洋医学が問題そのものを除去するのに非常に長け、即時的に効果をもたらすのに対し、アーユルヴェーダは問題の根本にある原因に着目し、それを排除しようとする。一貫した、継続的な取り組みにより、時間をかけて結果をもたらす。
アーユルヴェーダでは、「結果には原因がある(原因と結果の法則)」「自分の健康に対する責任は自分が取る(自己責任の概念)」ことを教える。その準備ができている人に向けて設計されているのだ。
現代は、明らかな不調を感じた時、初めて医者のところへ行く。そこで処方された薬を飲んだり、施術を受けたりする。しかし、これでは根本的な原因の排除になっていない。表面的な問題は取り除かれたとしても、根本的な原因が排除されていなかったら、症状は繰り返されるか、別のところに出現する可能性がある。
アーユルヴェーダでは、ちょっとした不調の段階から自分のバランスの乱れに気付くよう啓蒙する。日々のどんな食習慣が、生活習慣が原因となって、それらの不調を感じるのか、自分自身で気づき、自分で病気の根を断ち切るのだ。誰よりも自分のことをよく知る自分自身が医者となり、病気を予防し、若返りを図る。
しかし、アーユルヴェーダ的な視点から観察し、自己管理する具体的な指針をもつことができない人もいる。というより、最初はみんなできない。だから美津子の仕事は、客観的にクライアントを見て、その人に必要な生活指針を与えることだった。小さな不調から解放されたいと望む者には、不調の原因に言及し、モチベーションを与えた。自分を健康に導く食事を知りたいと望む者には、現況の体質を明らかにし、方法を与えた。
けれども、最近になって、美津子のコンパスは、違う方向を指し示し出したように思えた。今まではこっちの方向に行きたいと思っていたが、今は別の方向性で生きていきたいのだと。
それが、つい先ごろ、加藤と話をしている時に、コンパスが差す方向は、以前と変わっていないと思い直した。だが、主語が、変わった。自分がそのコンパスの差す方向に行きたいのではない。同じ方向を目指す誰かが、その道を進むのを、導きたい。自分はその者を通して、その者が誰かの人生を変えるのを見るだけだ。
─私の人生の優先順位は、変わった。
感染症以来、客足が戻ってきていないのは事実だった。その間に、人の価値観や、暮らしの在り方などは、大きく変わったと思う。
時代の変化を、感染症が加速させた。今までと同じやり方で事業をしているだけでは、成長は望めまい。所詮は自分ひとりで行っている事業。自分の仕事を求める最後の一人がいなくなったら、そのまま、引退しても良いかと、思わないでもなかった。
そしてその先に、美津子には、自分が携わるべきではないかと思うことがあるのである。今までヨガとアーユルヴェーダに散々深く関わりながら、美津子はもう一つのコンパスが、その道を指し示したことがどこか可笑しかった。
─けれど…
美津子は、白い木綿のズボンのポケットに、ICレコーダーを入れたままだったことに気が付く。
日々、生活の中で取り入れるべきと、クライアントに言い聞かせてきたことは、そのまま美津子の普段の実践項目でもある。それらをしていると、美津子は自分の正直な気持ちに、自然と気がつく。
─思いは、変わらないのだ。
だが、もはや自分が第一線に立つステージは終わった。
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