浅いホールドに左指をかけながら、右足に体重をかけ、体を壁に押し付けるようにしながらじりじりと右方向へ体重移動する。思ったよりも、最後のホールドは遠い。ここまで、さんざんテクニカルなムーヴを取らせておきながら、最後は、飛べということか。しかし、飛ぼうにも、右足をかけているホールドは踏み切るには小さすぎるし、浅すぎた。
だが、迷っている暇はない。
順正は微細な反動をつけて、頼りないホールドを右足で強く蹴った。右の指が、最後のホールドの天面に触れる。しかし…
─悪い!
こんなに飛ばせておきながら、最後のホールドは、思ったよりも浅く、傾斜していた。
壁から離れていく体を右手で支え切れず、順正は音を立ててマットに落ちた。起き上がりながら、今しがたぶら下がっていたホールドを見つめる。
思いっきり飛んで届けばなんとかなるものではなかったのだ。最後のホールドに達した後も、体が降られすぎないよう、絶妙な距離感と強度で飛ばなければならなかったわけだ。
衝動でマットについた右膝を伸ばし、立ち上がって、マットから降りた。改めて、今しがた登っていた、百数十度傾斜した壁─通称三壁と言われる─を見つめる。
仮に右指でホールドをキャッチしても、一時的に両脚はホールドから離れてしまう。身体が右から左に振れた瞬間に、もともと右手で掴んでいたホールドに左足をつければ、安定する。そして、左手を離し、最後のホールドをキャッチする。
「さすが柴崎さんですね」
カウンターから順正のトライを見ていたジムのオーナー藤野は、課題の書かれた紙を見直しに来た順正に声をかけた。
「たった一回で、ムーヴを見破りましたね」
「…オンサイトならず、でした」
クライミングの世界において、初見で、一撃で完登することは「オンサイト」と言われている。
「当たり前ですよ」
藤野はニヤッと笑った。角ばった顔の輪郭、太い眉、黒縁眼鏡、高身長の藤野は、どことなくインテリな雰囲気があった。
「一級なんだから」
課題の作成者の名前を見て、順正は、なるほど意地の悪い課題なわけだと思った。
明神山を挟んで足込町と隣接する上沢市で、唯一のボルダリングジム・ハイウォール。トタン板外壁の、ガレージ風の建物の入り口付近には、オレンジ色の灯りがともり、ジムの名前を書いた看板を照らしている。ジムを囲むように設けられた駐車場には、四、五台ほどの車が停まっている。入口近くには、一匹の中型犬が犬小屋で伏せっている。黒地に茶色の毛が混じった、ジャーマンシェパードドッグ、南天丸だ。南天丸は、耳を立て、伏せていた上半身を持ち上げた。一台の車が駐車場に停まろうとしている。
「半年くらいブランク空いてましたよね」
カウンターを挟んで、藤野は順正に話しかけている。順正は返事をする代わりにごくりとボトルに入れた水を飲んだ。まだ右手に持つ課題シートを見たままだ。
「それなのに、最後の一手まで行っちゃうんだから、みんな嫉妬しますよ」
順正は返事の代わりに、唸るような、笑うような低い声を漏らしただけだった。
「なに、柴崎さん最後の一手まで行ったんですか」
ジムの常連、田沼が、大きな目をさらに大きく開けて、二階から降りてきた。二階というよりは、ロフトと呼ぶべきスペースには、机と漫画が置かれており、そこで一休みできるようになっている。
田沼は肩を上げ下げしながら、二人に近寄ってきた。顔がニヤけているように見えるが、それがこの男の常である。
「前原さんなんかは、ここで落ちてましたよ」
と言って、田沼は紙面の該当部分を指差した。
「中盤の持ち変えのところで、ミスる人は多いですよ」
「ふん」
「柴崎さんは、そんな罠はお見通しですか」
お見通し、ではなかった。確かに変だなと思ったが、そこはやみくもに押し切った。今思えば、ここで力を使っていなければ、最後の一手も耐えられたかもしれない。
「ちわーす」
入口の扉が開き、男が入って来た。
「寒いっすね」
男は小声でそう言い、財布からカードを出した。男はややつり目の一重瞼で、黒髪がつんつんと奔放に跳ね、サイド部分だけは刈り上げられていた。
「お、噂をすれば、前原さんじゃないですか」
田沼は声を掛けながら、ジムスペースと受付スペースの間に設けられたトレーニングボードにぶら下がった。前原晃は視線を田沼に向けた。前原は消防士という仕事の関係上、ジムに来る曜日は固定されていない。一方、このひょうきんな男・田沼は、水曜日か金曜日の夜、そして大抵土日のどちらかに、ハイウォールに出没する。
前原は田沼から視線を左側に逸らすと、長身の男がファイルを見ているのが視界に入った。上から下まで黒づくめの恰好をしている。
「柴崎さん」
と、名前を呼んだ。それで初めて、順正は来店した男を見た。
「珍しい。しばらく来てなかったじゃないですか」
前原は話しながら、厚手のダウンを脱いだ。
「今日は非番ですか」
「ああ」
そう言う前原は、今日は日勤だったのか、あるいは、休みだったのかもしれない。
前原は更衣室に入り、田沼はロッカーに向かった。田沼がタバコを持って、受付スペースの前を横切った時、外で再び車のライトが点滅した。
「今日は繁盛しますね」
というのは、田沼の皮肉か。
藤野は振り向いて、窓の外の光に目を細めた。
「おーや、珍しい。八時代に中野さんがおみえだ」
田沼は出入り口の扉を開ける前に、黒いダウンを着た。そのくせ、足は裸足のまま、クロックスをつっかける。
順正は壁に背をもたげて、片膝立てて座った。ぼんやりと他のクライマーが壁を登るところを見ている。
シャッと更衣室のカーテンが開き、トレ着に着替えた前原が肩を上下させて、早くもウォーミングアップを始めている。
外に出た田沼は、タバコを一本歯で咥えた。
「今日は強者どもが勢ぞろいだね」
ハイウォールには、通常、ラジオが流れている。ハイテンポな音楽に合わせるように、クライマーたちがリズミカルに壁をつたい、登り、ジャンプする。
午後八時過ぎ。仕事を終えた男たちが、ようやく趣味に没頭できる時間が始まる。
「きっつ!」
この日、中野も初めて、先ほど順正が挑戦した新たな課題に取り組んだ。
中野は背はそれほど高くないが、肩幅が広く、逆三角形の上半身をしている。ジーンズに白い半そでのティーシャツという姿。色白だが、顎の部分は少し青く見えた。ギラギラと光る目は、気が強い中野の性格をそのまま表している。
順正はぼとりと中野が落ちるのを、例によって冷静な目で見ていた。そんなに大声を上げて落ちなくてもよかろうに。
中野が敗退した後の三壁に、前原がホールドをつたってやって来る。長物課題は、この男のウォーミングアップなのである。傾斜角のない九十度の一壁から、やや傾斜したニ壁、上に向かうにつれ傾斜が増す三壁…壁から壁へと、数字が書かれているテープを追って移動する。三壁を上下に登った後で、最後に三壁のてっぺんに登って、ゴールである。
「…からの?」
前原がゴールにたどり着いたところで、中野が、チョークバックに手を突っ込みながら、巻き舌気味に声を上げる。前原は思わず、ふっと笑いを漏らした。ゴールにたどり着いても、前原はそこで壁を降りず、今度は数字を逆に伝っていく。
「いいですねぇ」
前原がストイックなウォーミングアップを続けるのを見て、中野は満足そうな声を出した。
一、二、三壁の向かいの壁には、これまた傾斜した壁が二つ。その壁のうち、入り口に近い四壁を登っているのは、これも常連の君塚であった。まだクライミング歴は浅いが、熱心な客である。君塚は、次のホールドを取り損ねて、派手に落ちた。立ち上がって、チョークにまみれた指をこする。左右のいくつもの指に、テーピングがしてあった。背は中野と同じくらいだが、君塚は中野より痩せている。というより、中野ほど筋肉はなかった。黒縁眼鏡、目はほどほどの大きさだが、くっきりとした二重瞼で、まつげが長いので、どこか可愛らしい顔つきである。
田沼は階段の下に立って、スマホをいじっている。近くに座っている順正にタバコのにおいが伝わった。
「あらっ、一往復で終わりですか」
前原が一番目のテープまでたどり着いたところで、中野が挑戦的な声を出す。
「ドSですね」
前原はマットから降り、事務スペースのマットを囲うように設置されているベンチに腰掛けた。田沼はスマホから目を離して笑う。
「ウォーミングアップで力尽きてちゃ、本命は落とせないもんねぇ」
順正は何の前触れもなくすっと立ち上がり、三壁と向き合っている中野を追い越しながら、チョークバックに手を突っ込んだ。自然、ジム内にいた者たちの視線が順正の背中に向く。そこからは何の無駄もなく、頭の中でシミュレーションした通りに登るだけだった。周りに人がいるのに、順正の意識は対象物から逸れない。藤野はカウンターに両肘ついて、そのトライを見守った。
─相変わらず、すごい集中力だな。
もう何度も練習したかのように、一気に最後の一手まで進み、いよいよ右足を踏み込む段階になった。
呼吸が、大事である。
短く、素早く息を吸うと、次の吐く息で、順正は右足を強く蹴った。絶妙な飛距離であった。右手は最後のホールドを捉えていた。ほんの一瞬身体が宙を舞ったが、振り子のように身体が壁に戻った時、左足でしっかり指定されたホールドを押さえた。二点支持の間、順正は肩甲骨を寄せ、体を壁の方に近づける意識をし、すばやく左手で右手と同じホールドをつかんだ。
「おお!」
男たちから歓声が上がり、マットの上に降りた順正が振り向くと、皆がみな、右の拳を突き出していた。順正はそこで初めて、口元に笑みを浮かべ、全員の拳を、軽く自分の右の拳で突いた。
「オンサイトっすか」
中野が、感心しながらも、妬まし気な様子で尋ねた。
「いや」
順正は呼吸を整えながら、マットから降りた。
「二回目です」
前原は呆れ顔で、
「この課題二回で登っちゃうんだ…」
と、恐れ入ったという表情をする。
「視聴率百パーセントでしたよ」
君塚の言葉に、順正を除く全員が「ははは!」と快活に笑った。
「柴崎さん、何カ月ぶりっすか」
田沼は手足をぶらぶらさせながら尋ねる。順正は少し首を傾げた。いちいち正確なことは覚えていない。
「半年くらい」
「すごっ。家でどんなトレーニングしてるんですか」
順正はその問いには答えず、水を取りに行った。カウンター越しに、オーナーが拳を突き出している。その拳にも答えた。
男たちの様子を、ロフトから、じいっと見ていた者がある。
「かっこいい…」
その者は目を輝かせて、格子状の柵に顔を押し付けるようにして、下の様子を見守った。
季節はまだ、本格的な冬ではない。しかし、山の麓にある、それも夜のハイウォールは、室内でも寒さが厳しい。受付、ジムスペースに、それぞれストーブが二つずつ。二つを稼働させても、広く、天井が高いジムを温めるには十分とはいえなかった。それでも、登っていれば体が熱くなる。カウンターにいる藤野を除いて、全員が、長袖または半袖一枚という姿で、代わる代わる壁にアタックしていた。
「中野さん、すごいっすねぇ」
饒舌な田沼は、暇さえあれば誰かに話しかけている。中野は今、二壁の課題に取り組んでいるところだった。
「服の上からでも、三角筋が浮き出てますよ」
水泳選手のような体つきをした中野の背中の逞しさは、登っているとひと際目立った。
「最近彼女ができたもんで、どういうムーヴで背中の筋肉を目立たせられるか、研究中なんっすよ」
壁をトラバースしていた中野は、君塚の言葉にぶっと噴き出してしまった。
「バカ言え」
ドサッとマットに降りた中野は、しかし、顔がニヤつくのを抑えられない。
「そんな周りくどいことしなくても」
カウンターで聞いていた藤野もまた、ニヤニヤして、
「ホテルに行けば分かることっすよ」
「藤野さん」
田沼は笑いながらも、声を落として、
「二階にはまだあいつがいますから、そういう話はもっと、こそっと」
「え?まだあいついるの?」
「ええ」
「いかんな。そろそろ帰らせな」
時計を見ると、もうすぐ午後九時。
「ふぇ。一休みするか」
中野が両腕を回しながら、カウンターを横切り、ロッカーへと向かう。そして、君塚が最新のクライミング雑誌の購入を希望したので、藤野の注意は二階から削がれた。
中野は受付スペースのベンチに腰をおろすと、足を組んで、コンビニのおにぎりを食べ出した。
「中野さん、夜の炭水化物、解禁したんですか」
トレーニングボードに手をかけながら、前原が尋ねる。前原のすぐ斜め後ろでは、順正が相変わらず片膝立てる姿勢で壁に背をもたげ、見るともなしに壁を見ていた。時々その立てた膝に両腕をかけ、その中に顔を埋めるようにして背中を丸くしている。
「前は、帰宅後に豆腐と、サラダ」
「ストイックっすねぇ。豆腐ですか」
「豆腐が一番いいよ。胃もたれしないし。帰宅したら十一時でしょ。あんまり食うと、睡眠の質が悪くなる」
「でも、誘惑ないっすか?」
藤野は金庫をしまいながら、
「前原さんは、相変わらず甘いもん食べとるんですか」
「はい。好きなんすよね。みんなそういう執着ないんですか?」
「前原さんはタバコ吸わないからじゃないですか?」
中野の隣に腰掛けて、君塚は買ったばかりの雑誌を開いた。
「僕はタバコ吸うんで、たぶんそこで満足するんだと思います」
真面目そうな、神経質な挙動とは裏腹に、君塚はヘビースモーカーだった。
「おれは普段は節制してるけど、時々パーッと飲むから」
中野は仕事関係での飲みが多いのだった。
「前原さんはお酒も飲まない?俺はたぶんそこで糖分補給してるから」
「酒は時々飲みますよ」
だいたいがビールなので、糖分もたっぷり入っているはずである。
「でも、天秤にかけたら、もしかしたら甘い物の方取っちゃうかも」
「見かけによらないねぇ」
中野はおにぎりを食べながら、背丈はそれほどだが、筋肉質な前原を眺めた。
「ギャップ萌えってやつで彼女落としたんですよ」
誌面を見ながらも、冗談を言う君塚の口元は緩んでいる。
「え?彼女できたの?」
「この前、クライミングデートしてましたよ」
「マジで?」
前原は恥ずかしそうに顔を背けて、壁の方へ去っていく。
「誰?ここの客?」
「まあ、僕の口からは…本人に聞いてください」
「面白そうな話してますねえ」
今度は田沼が会話に入って来た。
今日の常連の面子の中では、妻帯し子供がいるのは田沼だけ。君塚は妻はいるが、子はまだである。他は、全員独身だった。
男が複数人集まって女の話題になると、女性客がいないのをいいことに、いつしか色めいた話に花が咲く。藤野は話に参加しないまでも、時々顔をニヤつけかせながら聞いている。
「前原さァん、前原さァん」
田沼が、もはや酔っぱらっているような調子で、前原を手招きする。
「中野先生が、女の落とし方についてご指導くださるそうですよ」
「なんすか、それ」
前原は苦笑を浮かべつつ、目的もなく手近にあった課題ファイルをめくった。
ジムにいる間、登っている時間よりも休憩している時間の方が長い。たて続けに登っていると消耗が激しいので、休み休み登るのが普通だった。
今日は常連客ばかり。基本的には一人でジムに来て、一人で登っていた客たちも、自然と集まり、いつもよりも解放感のある会話を楽しんでいた。
藤野は休憩中も、積極的に誰かと関わることなくひたすら黙り通して座っている順正を見た。
─柴崎さんは、のってこないな。
他の三十男、四十男たちは、珍しく色話をしているというのに。
「僕は作業的なの好きじゃないんすよ」
話題は、まだ君塚は子を作らないのかという話に移っている。
「やっぱりそういうのは、成り行きで…っていうほうがいいじゃないですか」
田沼は可笑しそうに笑って、
「奥さんも同じ年齢でしょ。君塚さんはそう思っていても、直に女の方から仕掛けてきますよ」
「そうですか」
「女は、計算高いよ」
中野は、わざと真面目な顔を作って、
「何度、今日は安全日だからって迫られたことか」
「迫られたら中野さん、どうするんですか?」
田沼が好奇心旺盛な様子で訊いた。
「あっそ。って言って、相手の望み通りに」
「大丈夫なんですか、それ」
君塚は、田沼よりは慎重派である。
「もしもの時は責任取る覚悟ですか。相手は、既成事実を作りたいんじゃ…」
「相手に寄りますよ」
あっけらかんとした様子で、中野は答える。
「中には、お子種だけほしい人もいますけどね」
ずい分と生々しいことを言う。
前原は、会話に参加するわけではないが、登り場と受付の境で佇んでいる。
「端から旦那はほしくない、けど子供はほしいっていう人も結構いますよ」
もちろん、最初からその意志を見せるわけではないが。
「でも、実際二世がどこかにいると思うと、気になっちゃうじゃないですか」
「冗談だよ」
中野は、君塚を小突いた。
「ちゃんと安全かどうか、確認してますって」
順正は男たちの会話に、さして興味がない。
時々登っては降り、登っては降りを淡々と繰り返していたが、何度目かで壁に背中を預けた時、
─先生。
順正は両手の間に伏せていた顔を少し上げた。鮮やかなホールドがたくさん埋め込まれた壁とマットは視界から消え、勤務先である松下クリニックの、無機質な診察室が蘇ってきた。
─聞きたいことはありますか?
順正がそう尋ねた後、女は力のない声で「先生」と呼んだ。それきり、言葉がつかえたように出て来ず、押し黙る女。女は看護師に手を引かれてそこに座っていた。頭が重く、くらくらすると言っていた。女は顎を引き、うつむいたままで、長い前髪が目を隠していた。
─出されたものは…
しかし、女はそこで、口をつぐんだ。
─なんでもありません。
順正は術後の生活と、次の検診について簡単に話をする。
─次回の検診が終わったら、性生活も通常に戻して問題ありませんが…
女がすでに痛いほど身に染みているであろうことを、重ねて言った。
─子供を望まないなら、避妊してください。
見慣れた無機質な空間は消え、順正の目には、再び色とりどりのホールドで埋まった、慣れ親しんだ壁が映った。
何かのきっかけで、クリニックでのことが脳裏に蘇ることがある。だとしても、ただ蘇ってきた、潜在意識の中に印象が残っているのだなと、認識するだけだ。それに対して感傷的になることはない。
順正は入り口の傍で団子になっている男たちを避けながら、ロッカーから上着をつかむと、他には何も持たずに、外へ出て行った。
順正が外へ出て扉が閉まると、男たちの話声は、一瞬止んだ。
「…乗ってこないな、柴崎さん」
中野が、横目できっちりと閉じられた扉を見る。こんなに面白い会話をしているのに、と言いたげだ。
「お勤め先でいろいろな患者さん見てるんじゃないですか」
藤野は前かがみになって、両肘をカウンターについていた。
「苦い場面もいっぱい見とるんですよ」
「さっきみたいな話はまずかったですかね」
君塚が、いささか心配そうな顔をする。順正にも聞こえていたはずだ。
「大丈夫っすよ」
楽観的に言ったのは、田沼。
「柴崎さん、メンタル強いっしょ」
「いや、むしろ、メンタルがないな」
前原の言葉に、全員が笑った。藤野は苦笑いした。
「メンタルがない」
うまく表現するものだ。中野はベンチの縁をバンバン叩きながら、小脇を抱える。
声がでかい男たち。しかも、入り口間際での四方山話。扉一枚隔ててはいるが、むろん、順正の耳にも聞こえている。
順正は白いジャケットの襟に、鼻先まですっぽり隠す格好で、入り口近くの水場付近に、片膝立てて腰を下ろしていた。
南天丸が順正のそばにすり寄ってくる。
次はいつ、南天丸を連れて登れるか。
今日の月は明るい。しかし、満月ではなかった。
満月近くになると、どうしてだか、お産が増える。お産は時間に関係なく、深夜でも対応が必要なことがある。今日はオンコール体制ではないが、緊急帝王切開の必要性が生じれば呼び出されるかもしれなかった。
最後に長物課題をやるか、難度の高い課題をやるか、とにかく、力尽きるまでトライしたい気持ちはあった。限界まで筋力を使えば、次の時には、限界が伸びるからだ。しかし、予期せぬ手術があることもあろうと思うと、そんな無理はできなくなっている。今日は久しぶりに張り合いのある課題を落とせただけでも、よかったとするべきか。
ジムを少し南に歩けば、明神山の、上沢側からの取りつきだ。この山一つ隔てたところにあるあかつきのことを、順正はふと想った。
男たちの会話はいつしか止んでいる。
夜の森は黒々と暗い。順正はその暗闇と、空に浮かぶ光を交互に見ながら、しばらくの間、南天丸の傍で休憩をした。
ふいに入口の扉が開き、田沼が外に出てきた。
「ども」
口にタバコを咥ええながら、目だけで笑った。続いて、君塚もタバコを手に持って外へ出てきた。
「さむ…」
そうは言いながらも、寒さより、タバコが優先のようだ。
順正はすっと立ち上がった。
「風下でお願いしますよ」
順正は二人にそれだけ言った。
「おっと、失礼」
田沼はタバコを宙にかざして、煙の流れる向きを追った。
「風向きは、北北東」
外にいる人間と犬の並びは、東西。
「大丈夫ですよ、柴崎さん」
順正はその声を背中で聞き、中に入るとドアを閉めた。
「外岩に行くんですか?」
入るとすぐ聞えたのは、やや掠れた、高い、若い声だった。
「行くんなら、おれも連れてってください」
上下とも黒いジャージに身を包んだ少年の後ろ姿が目に留まった。声変わりのまだ終わらぬ声は、女と思えなくもない高さで、この年代らしいハスキーさがあった。
二階に誰かがいるのは気づいていた。この子供か。
「聞かんやつだな」
藤野は、少年からの頼まれごとを拒否している。
「月曜はお前、学校だろう」
「少しくらい休んだって、平気だよ」
順正はするりとジャケットを脱いだ。最後にあとひと登りするつもりだった。少年の後ろを通ってロッカーに行き、ジャケットを置く。
後ろを振り返ると、こちらを見た少年と目が合った。少年は一瞬、「あ…」と口を開けたが、その目はまっすぐ順正の目を捉えていた。
くっきりとした目をした少年は、顔にまだ幼さが残る。背丈はそれほど高くない。中学生くらいだろうか。前髪は厚くつくっているが、えり足と耳まわりはすっきりとしており、肌の色は小麦色だった。
順正は彼から視線をそらし、ジムスペースへと移動する。
「半年ぶりじゃ、もうパンプしてるんじゃないですか?」
前原からそう尋ねられた。パンプアップは、特定の筋肉が張ってくる現象である。長い時間ボルダリングをしていれば、筋肉疲労を起こすことも多い。
「まだだ」
順正は、先に述べた職業上の理由で、バッファを取っている。けれども、職務を向こう見ずがむしゃらに登っていたとすれば、確かに、パンプするのは早かっただろう。なにせこの半年間は、登るのに必要な筋肉をほとんど使っていなかったのだから。
つい最近まで、ボルダリングや登山はろくにできず、机に向かっている時間が長くて、身体的な活動量も少なかった。それでも体重は落ちた。筋肉が落ちたのかもしれないし、食事がおろそかになっていたからかもしれなかった。ボルダリングをするなら体が軽い方が都合が良いのだが、筋肉が落ちてしまうのは都合が良くない。
「これ、やりました?」
順正よりわずかに年下の前原は、敬語を使う。前原が持っている課題シートを覗き込むと、順正は首を振った。最初の難題よりは難度が低いが、終わりがけに取り組むにはちょうど良さそうだった。
「ガンバ」
四壁の、これも際どい課題にトライしている中野に、君塚が声援を送った。中野は、ドカッと音を立ててマットに落ちた。
「ふぇ~。わりィな、これも」
順正にとって、まだ試したことのない課題だった。半年来ていなかっただけあって、面白そうな、未開の課題がたくさんできている。
このジムの常連は、基本的には寡黙な男たち(田沼を除いて)でだ。彼らが時々発する掛け声以外には、通常、ラジオの音しか聞こえてこない。しかし、今は違った。受付側で、少年と藤野がしきりになにか話している。
しばらく登ったあと、順正は店じまいすることにした。クライミングシューズを脱ぎ、チョークバックの口を締めると、受付スペースに設置されている洗面で、前腕部分を流水に当てる。凍るような冷たさだが、クールダウンしておいたほうが、疲労が抜ける。
その間、少年と藤野の間で、目線だけの、無言の論争が繰り広げられた。後ろを向いていた順正には知る由もないが。
「お前、本当に帰れよ」
着替えをしている間、藤野がかすかに怒気を含んだ声で言い放つのが聞えてきた。
「お前の母親から苦情の連絡がくるだろう」
「今日は夜勤だもん。母さん」
更衣室のカーテンを開けると、再び、順正は少年からの視線を感じた。
「どうも」
カウンターの前に順正が立つと、藤野はカードを探した。少年は無意識に、腰を下ろしていた木製のスツールから降りた。立ち上がっても、その頭の天井は順正の肩にも届かない。
カードを閉まっている順正の影から、少年はそっと顔を出し、藤野に何か目配せをする。藤野はうなだれながら、
「柴崎さん、最近、外は行ってますか」
ここでいう外とは、外岩という意味で、自然の本物の岩に登るボルダリング、またはフリークライミングをしに行っているかと尋ねているのである。
「いや」
順正は首を振る。ジムにさえ忙しくて来られなかったのだ。ましてや外岩など…言わいでのことを尋ねてしまい、藤野は気まずさを感じる。
「こいつが、外に行きたい、行きたい言うんですけど」
藤野は、順正の後ろで直立する少年を指さした。
「外に行く予定があったら、連れて行ってやってくれませんか?」
少年は、期待に満ちたまなざしで、順正の目を直視した。しかし、順正のほうは少年を一瞥しただけで、オーナーに向き直る。
藤野は、切れ長の順正の目をおそるおそる見た。
─こいつは誰だ?
順正の視線から、そう尋ねられているのを、藤野は感じ取った。
「近所の子で、この夏からジムによく来てます。ちょっと外に出る時なんか、こいつに店番頼むことも」
最後のほうの情報は別にどうでも良いが…
順正は体を斜めに向けて、顔だけを少年に向けた。ひたむきな目がじいっと順正を見つめている。多くの大人は、順正とにらめっこをすれば大抵目を逸らすものだが、若さゆえへの遠慮のなさか。藤野も、このひたむきさに根負けしたのだろう。
「お前、何級まで登れる」
「えと…四級かな」
外岩に臨もうというほど強いのか、と思って聞いてみたら、夏から来ているというのに、大人の男なら初日で落とせそうなグレードだ。
「話にならんな」
順正は財布をポケットに突っ込むと踵を返した。
「待って待って」
少年はバスケのディフェンスのように、横跳びに飛んで順正の前に立った。
「外岩に登ってみたいんだ。いいでしょう?」
誰も外岩に行く予定があるなどと言った覚えはない。しかし、順正が言い返す前に、
「またおねだりか」
後ろで、田沼の笑いを含んだ声がした。
「藤野さんも、鬼ですねえ。初めての外岩の同行者が、柴崎さんとは」
順正はため息をついた。こんなところで足止めを食らいたくないし、子供を山に引率する暇があるのなら、それこそ、自分一人で登りに行っている。
「いきなりだな。どうして外なんか行きたくなったんだ」
田沼は蓮に尋ねた。もっとも、外岩に登りたいというのは、クライマーとしては自然な衝動だ。中野のように、滅法外には興味がなく、ジムで鍛錬に励む室内クライマーもいる。しかし、ジムでの鍛錬は、外岩の課題を落とすための練習である。外岩課題に取り組んでこそ、という思いを田沼とて持っている。藤野もジムのオーナーでありながら、天気と時間が許す限り、ジムより外岩に行く方を推奨している。
少年はなんのてらいもなく、田沼の問いに答えた。
「かっこいいじゃん」
少年は、いかにも少年らしい憧れを顔いっぱいに滲ませていた。その様子は、思春期の真っただ中にいる、この年代の男の子とはまだ遠いように感じられる。それよりも、幼い。
藤野はがっくりとカウンターにしなだれかかった。答えがうまくない。
「分かった。帰る」
順正は足を踏み出そうとしたが、後ろから田沼がその肩をつかみ、順正をベンチに座らせると、親友のように肩を組んだ。直立した姿勢では、順正よりも頭一つ分背の低い田沼。こうでもしなければ、肩を組むことは難しかっただろう。
「まあ、まあ、まあ、柴崎さん」
この男の悪い所は、馴れ馴れしすぎるところだ。
「この年代の少年の言葉が分からなくても、気にすることはありませんよ」
田沼は順正の耳に顔を近づけた。
「謎なんすよ、思春期っていうのは」
厳密には、この少年はまだ思春期の手前である。しかし、言動の至らなさの口実にするには便利であった。
順正は無造作に田沼の腕を振り払った。
少年は再びスツールに腰を下ろし、片方の膝に片足の外踝をのせ、腕組をした。
「校庭でボール蹴って遊ぶより、クライミングしてたほうがかっこいいね」
それを聞いた藤野、田沼、順正は、失笑した。
─何を言っとるんだ、こいつは。
難しい歳頃の子供の相手は面倒くさい。呆れ顔の大人三人と、飄々とした少年の間を、何も知らない前原が突っ切っていく。
「あ、前原さんでもいいですけどぉ」
藤野が、この険悪な雰囲気を破ろうと、頼みの綱を前原に託した。
「は?」
前原は水道で手を洗い、タオルで手を拭きながら、受付スペースに漂う謎の空気を感じた。
「何の話?」
「おお、前原さんと柴崎さん、いい組み合わせじゃないですか」
藤野は唐突に、とあることを思い出した。
「前原さん、外岩いく予定ないっすか?」
「外岩?」
前原はのんびりとした様子で少年の前まで歩みを進め、
「ないな」
「なんだよ」
冷めた大人たちの反応に、少年は思いっきり気を損ねた表情を見せる。順正はその表情から、礼儀のなっていない坊主だという印象を受けた。
「お前のわがままに付き合っている暇はない」
順正はすっと立ち上がった。
「お前じゃないよ」
少年は、高く、よく響く声を張り上げた。
「蓮っていうんだ」
少年は高らかに名乗った。
「本当は、蓮太郎」
順正の背後で、田沼がぼそっと囁いた。
歯に衣着せぬ子供の言葉は残酷だった。
蓮は、何の考えもない軽率な同級生のそしりが、赦せない。
─おうい、蓮太郎。
授業が終わるとまっすぐに帰途につく蓮太郎を、グラウンドから大声で笑う者がいる。
─もうおうちでお留守番か!
─ゆうれい部員はいいなぁ!
─うるさいなぁ。
蓮は一応、サッカー部に入部したが、部活動をして帰ることはない。先生たちには、家事をしなければならないと説明している。看護師をしていて、勤怠が不規則な母親の代わりに、やることがあると。母親は、高齢の祖母の介護もしているので、その手伝いもあると。半分は本当のことだが、半分は口実だった。蓮はそれほどの家事を任されてはいないし、祖母の送迎は母が行う。祖母は認知症だったが、足が悪く、徘徊しないよう監視が必要ということもない。
ヤングケアラーというほどの重荷を背負っているわけではないけれど、それでも蓮は、常に母親のことを気にかけてはいた。母親に迷惑をかけないように、幼いころから配慮してきた蓮だから、中学に上がった瞬間に、急に横暴になり、自分たちと違うことをする者のことを蔑む同級生たちの配慮のなさには、嫌悪しかない。心の中で、侮蔑していた。だから、部員たちに馴染めるはずもなかった。
部活の中の人間関係というのは、それ以外の場所でも尾を引く。蓮はもともと、運動神経が良く、整った顔立ちをしていたから、付き合う仲間は、スクールカーストの中では上のほうだった。しかし、部活や業後の遊びに連れない蓮は、次第に仲間外れにされた。カーストの下のほうの者たちと付き合おうとしたこともあったが、趣味が合わず、言ってしまえば自分が落ちた気持ちになるので、付き合うのをやめた。
だから蓮は、だんだんと学校の中で孤立していった。
─いってぇ!
体育の授業でサッカーをした時、蓮はサッカー部員に負けじとボールを蹴った。その時、横を走っていたクラスメイトの男子と、蓮の足が、わずかに触れただけ。それもどちらから触れたとも分からないのに、その男子は大げさに地面に転がった。
─ファウル!ファウル!
─うるさいなぁ。
サッカー部員というのは、アピールが激しいというか、大げさだと思う。結局、蓮がボールではなく、故意ではないが相手の足を蹴ったということになった。蓮は判決を下した担任を睨みつけた。
蓮の母親が、蓮が入部早々にゆうれい部員になり、クラスの中でやや孤立気味であることを知ったのは、夏休み前の保護者面談の時だった。
─しっかりしなさいよ。
母は、詳しい話を蓮から聞くことなく、疲れた様子で、肩に鞄をかけながら言った。
─お母さん、忙しいんだから。
母は夕飯の支度を終え、これから祖母を迎えに行くところだった。
テーブルの上に並べられ、ラップがかけられた料理。夕方、祖母と二人で食卓を囲み、祖母の補助をすることを任されている。
母が出て行った後、蓮は、用意された小鉢のうちの一つをつかむと、扉に向かって思いっきり投げつけた。
夏休みのある日。蓮は昼過ぎから明神山へ向かっていった。部活をしている生徒たちは、夏休みでも部活のために学校へ登校する。夏休みの間、何もすることのない蓮は、ここで同級生たちとの体力差をつけられたくないという思いで、山登りという運動をすることにした。何より、暇だった。
その時、ほとんど何の装備も持たず、登山口のほうへ向かっていく蓮の姿を目撃した者がある。藤野だった。昼過ぎになってジムのシャッターを開けている時に、明らかに子供と思われる後ろ姿が、山に消えていくのを見たのである。
─大丈夫なのか。
後こそ追わなかったけれど、気にはかけていた。
七月の昼下がり。木々が生い茂る山の中といえど、暑いはずだ。
午後三時になって、藤野は男の子がふらふらと降りて来たのを見た。時間的に、頂上までは登らず、途中で引き返してきたものと思われた。
─おういっ。
ジムの前の草原に、腰を下ろした少年に向かって、藤野は叫んだ。そんな日照りがひどいところにいて、熱中症にでもなられたらたまらない。
─お前、家は近いのか。
尋ねてみると、自転車を使ってニ十分の距離ということだった。
─休んでいけ。
藤野はとにかく水を与えた。
蓮はその時、初めてジムの中を見た。反り立つ壁に、いくつものカラフルなホールドがくっついている。前々からここにトレーニング施設のようなものがあることは知っていたが、想像とは違っていた。
通ううちに分かった。ここに来るのは屈強な肉体をもった、大人の男たち。平気で人のことをそしる残酷さのない、社会性を身に着けた大人たちだ。
蓮は、そういう男たちと群れることを、好むようになった。まるで、自分までそういう大人たちの仲間入りしたかのような気分になる。
「確かに、歯に衣着せぬ子供は、残酷だよねぇ」
蓮がハイウォールに入り浸るようになった経緯を藤野が簡潔に話した後、まだ幼い息子が二人いる田沼は、しみじみと言った。
「僕も、よくお父さん近寄らないでって言われるよ」
「そりゃ、タバコ臭いからですよ」
藤野がはっはと笑う。
「同級生から逃げて、大人たちに面倒を見てもらおうというわけか」
順正が牙をむいた。前原は、まずいなと思う。この男は、率直すぎる。
「同級生たちに勝ちたいなら、同じ土俵で戦え」
順正は椅子に座ったままだったが、十分に高圧的だった。蓮は息を呑んでいる。そんなことを言われるとは思わなかった。
「不戦勝で満足か」
「ふせんしょう…?」
「勝てない勝負はしない方がマシだ。マイノリティの中で、自分は人とは違うことをしていると思っていたい。そんなところだろう」
田沼が、順正の肩をぽんぽんと叩いた。順正は目を細めて、蓮の顔を直視したままだ。蓮はしばらくの間、順正に負けじと目をこじ開けていたが、急に顔を赤らめ、唇をわなわなと震わせた。そんな蓮の肩に、前原が左手をおき、落ち着かせる。
藤野は苦い表情を順正に向けて、親指と人差し指の指先を近づける動きをし、
─もうちょっと、オブラートな言い方にしてください。
と念を送った。
外岩に行きたいという気持ちは、このジムで登っていて、自然と芽生えたものであって、中二病的な考えだけではなかったのだろうから。蓮は右目に涙をにじませていたが、きっ、と反骨精神を顔ににじませ、順正から少しも目を逸らさない。
順正以外のその場にいた男たちは、ちょっと蓮のことが不憫になってしまう。それはこの夏から、蓮が一生懸命課題に取り組む姿を見ていたからだ。
「柴崎さん」
前原は、極めて温和な語調で、
「明神の岩場に新しい課題ができたの、知ってます?」
順正は眉をひそめ、両腕を組んだ。
「いや」
その順正の隣で、田沼がウインクをしながら、前原にグーサインを送る。
「もし、十二月までに予定が合ったら、久しぶりにザイルを組みましょう」
「ああ、いいね!それいい」
藤野が、わざとらしく明るい声で同調した。
「そういえば、柴崎さんと前原さんは、ビレイパートナーでしたね」
ロープを使用し、高さのある壁を登ることをリードクライミングといい、基本的には二人一組で行う。順正と前原は、時折一緒に外岩を登っていたものだ。ちなみに、クライミングをするクライマーの安全確保のことをビレイといい、安全確保する者のことをビレイヤーという。
「ほんと?じゃあ、おれも連れていって!」
蓮は期待に目を輝かせた。
順正はゆっくりと吐息した。そう言い出すだろうと思っていた。新しい課題には興味がなくはないが、子連れとはいかにも面倒くさい。
─前原。
苦々しい気持ちで、心の中でビレイパートナーの名を呼んだ。前原とて、そんなに面倒見の良い奴だとは思っていなかったが、子供に同情したのだろうか。
蓮は期待に満ちたまなざしを順正に向けた。しかし、順正は首を縦には振らず、
「他にも組む相手はいるだろう」
視線を前原に向け、田沼と、登り場のほうを顎でしゃくった。田沼は、はて誰のことを言っているのだろう、と言わんばかりに、額に手を当てて登り場の方を見やった。
「蓮くんはドMだから、厳しい人のほうがいいって」
前原は、蓮の肩に再び手を置いたが、
「ドMじゃねえよ」
蓮はそれを払った。
─ちくしょう。
心の中で悪態をつき、
─絶対に、見直させてやる。
唇をつんと尖らせて、順正を睨んだ。
しかし、蓮の決意とは裏腹に、
「おい、蓮。仮について行ったとしても、お前は見るだけにしろ」
という藤野の忠告があり、蓮は愕然とした。
「なんで?」
「当たり前だ。保険も入ってないのに、何かあったらどうするんだ」
蓮に何かあったら、誰が責任を取ることになると思っている。
「そんな」
蓮はがっかりした様子でうなだれた。
前原は、もし蓮を同行させるのなら、当然少しばかりトライさせてみようと思っていたのだが、そう言われてみればそうだなと思った。
「不満ならやめろ」
順正は冷ややかに言った。
同行しても、登れないのでは意味がない。さすがに諦めるかと思っていたが、
─いいさ。実際に向こうに行ったら、登れそうなところだけでも登ってやる。
蓮は、その意思は心に秘めて、
「分かった。見るだけでいいから」
しおらしく納得してみせた。
「そういうことですから、柴崎さん。まあ、犬をもう一匹連れていくと思って」
「犬呼ばわりしんといてよ」
蓮が気を害したように藤野を見る。
「南天丸を引き合いに出しているなら」
すぐに順正の低い声が轟く。
「間違ってるぞ。そこらの中学生の小童より、よほど賢い」
順正の毒舌に、前原も田沼も閉口する。順正は、席を立った。まだ返事らしい返事をもらっていない前原は、
「柴崎さん」
名を呼び、扉を開けようとする順正を引き留める。少し開いた扉の隙間から、冷たい風が入り込んだ。
「予定を見てから、また連絡する」
不承不承ながらも、外岩行きが承諾されたということだ。前原は少しほっとして、
「おれの連絡先、まだありますか」
「なければ、ここを通して連絡させてもらう」
順正は、そう言ってから確認するように藤野を見た。藤野は軽く会釈をした。
「予定が当日変わることもあるが、その時は諦めろ」
順正は最後に蓮を見下ろして、それだけ言った。
それは、当日気が変わったらやめる、ということだろうか。蓮には、順正の言っている意味が分からなかった。
順正は外に出てからも、ジムの入り口のオレンジ色の光の下で、少しの間佇んでいた。傍に控える南天丸に、別れの挨拶をしているのかもしれない。ほどなくして、順正の黒いランドクルーザーのライトが点滅し、エンジン音が聞こえた。
「なんだよ、あいつ」
エンジン音が遠く聞こえなくなるのを待って独りごちた蓮の頭を、
「こら」
と田沼が軽くたたく。
「なに」
「世話になる人に対して、そんなこと言うんじゃありません」
蓮は唇を尖らせたが、外岩に行く約束ができたことを思い出し、顔を明るくする。
「お前も、早く帰れよ」
「いや、遅いで、おれが送っていくよ」
藤野はそう言うと、ニット帽をかぶった。もう午後十時になろうという時刻である。中学生を一人で帰らせ、何かあってはたまらない。
「お前も物好きだねぇ」
藤野に促されて帰り支度をする蓮に、前原が言った。
「あの冷淡さ、見たでしょ。よく柴崎さんと一緒でも、連れて行ってもらいたいと思うね」
藤野は苦笑いを浮かべ、
─柴崎さんとザイルを組んでるあんたが、それを言うのか。
そう言いたい気持ちを抑えた。この男は天然か。
蓮は自分でも、なぜムキになったのかよく分からない。ただ、二階から見ていた順正のトライが、妙に印象に残った。
「強そうだったから。あの人」
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