十一月ともなると、早朝は冷え込む。しかし、起きてすぐに、離れの寝室でエアコンをつけることはない。着替えをする間だけハロゲンヒーターを頼り、着替えが終わるとすぐに消して、杏奈は別の火元へと急ぐ。
それはキッチン。
居間のエアコンを入れてからキッチンに入ると、ひんやりと冷たい。けれど、炊事をしていると、寒さを忘れるばかりか、蒸気で温まる。
普段の食事は、ごくシンプル。五分づきの米を炊いている間に、出汁を作り、野菜を切り、豆腐と一緒に煮込んで、みそ汁にする。味噌汁ができる頃には、居間が温まっている。他の部屋への扉という扉を閉めておいたこともあって、早い。
杏奈は椅子の上にパソコンを置き、youtubeでヨガ動画を流した。絨毯敷きの居間の床は、マットを敷かなくてもあまり滑らず、マットなしで練習することが多い。臥位での背伸びから始まり、ツイスト、風のポーズ。四つん這いになり、キャットアンドカウなど、準備運動的な動き。この朝ヨガは、最近のお気に入りで、三十分ほどの間に、ウォーミングアップ、立位、後屈、ねじり、前屈と、バランスよく体を動かせる。普段の生活でしみついた体のクセを修正し、爽快な一日を始めるために、ぴったりのヨガだった。
ヨガインストラクターの資格を持っているものの、根っからの運動音痴な杏奈は、こういう動画に頼ってヨガをしたほうが楽に思えた。ポーズの組み立てなどを考えなくても良く、ガイダンスに従うだけ。何も考えなくて良いというのが、最大の魅力かもしれない。とはいえ、ポーズを取っている間は、本来の正しい骨の並びを意識し、ゆがんだ体を修正するような意識を持って行う。
四つん這いのポーズはチャイルドポーズで落ち着き、そこからは立位である。タダーサナ(山のポーズ)は、すべての立位のアーサナ(ポーズ)のアライメント(姿勢)の原則を示すポーズである。一見したところは「ただ立っている」ポーズだが、実は難しい。支持基底面となる足裏の三点で床を踏み、骨盤が正面を向くよう保ち、背骨をまっすぐに伸ばし、胸骨を引き上げる。意識するべき点は数え切れない。しかし、流れるようなシークエンスにおいては、体の様々な部位に意識を働かせる暇はなく、次のポーズに移る。
次はウトゥカターサナ(椅子のポーズ)。両膝を曲げ、椅子に座るように、息を吐きながらお尻を後ろに引いて下ろすポーズ。このポーズは、「サンスカーラ」というヨガ哲学を体感するのに良いポーズだ。やってみると分かるのだが、単純な動きなのに、きつい。だから、次は、このポーズはやりたくない、長い間キープしていたくない、加減を緩めたい。そう思ってしまうかもしれない。以前、杏奈はサンスカーラの意味を、宇野に伝えた。サンスカーラとは、残存印象・潜在意識のこと。過去に経験したものから、その経験に対する印象ができ、心のクセができる。このポーズの場合、「きつかった」というサンスカーラを乗り越え、何度も挑戦することができたなら、いつしかこのポーズに、安定感や快適さを感じるかもしれない。このように、サンスカーラは変えることができる。サンスカーラを変えるチャンスは、人生のあらゆる出来事の中に転がっている。それを、思い出させてくれるポーズなのだ。
ヨガのポーズは、一つひとつが持っている解剖学的、哲学的意味が深い。体に働きかけるだけでなく、心にも良い影響があるという点も、広く知られており、他のエクササイズとは一線を画している。
パダハスターサナ(手の上にのる前屈のポーズ)、パールシュヴァチャンドラーサナ(立位の三日月のポーズ) 、ナタラジャーサナ(ダンサーのポーズ)…立位のポーズが長く続く。
パールシュボッタナーサナ(足裏を伸ばすポーズ)に移った時、戸が開いて、美津子が応接間から顔を出した。
「あ…」
杏奈は、少しポーズを緩めて美津子を見やるが、
「いいのよ。そのまま続けて」
美津子はそう言って、
「ここは、開けさせてね」
応接間と居間を仕切る戸を開けた。杏奈は骨盤を正面に向け、身体を前へ倒したまま、こくんと頷いた。
手を背中の後ろで合掌させる。このポーズは、前脚の裏側が伸びるポーズ。ハムストリングスが硬い杏奈にとっては、きついポーズだった。
応接間の戸が開け放たれると、冷たい空気とともに、キッチンからわずかにお米が炊けるにおいが漂ってくる。
寒くなってからというものの、杏奈が居間の暖房を入れてヨガをするのを、美津子は容認していた。その代わり、応接間の暖房は入れない。
美津子は杏奈の隣のスペースに立ち、小さなパソコンの画面を見つめた。次のうつぶせのポーズから、美津子も一緒になってヨガをした。杏奈が毎日ほぼ一緒の動画で練習していることに気づいてから、時々、こうやって一緒にヨガをしてくれるのだ。
美津子は、杏奈の親と同じくらいの年齢であるようだが、体はしなやかで、どのポーズも、苦もなくキープできているように見えた。杏奈は、自分のほうが体が硬いので、ちょっと恥ずかしいが、一緒にヨガをする人がいるのは嬉しいものだ。
座位のねじり、前屈、臥位でねじりを加えた後、最後のポーズ、シャヴァーサナで終わる。シャヴァーサナのまま一分ほど呼吸に意識を集中し、体を起こす。
「杏奈」
美津子が杏奈に声をかけたとき、杏奈は律儀にも、動画の中のインストラクターにナマステ(合掌)をしていた。
「あなた、左脚に体重をかける癖があるわね」
美津子の言葉に、杏奈は素直に頷いた。
「はい、美津子さん」
料理をする時など、気が付けば左脚に体重がのっている。その癖が定常化しているためか、普段の立ち姿勢も、わずかに右肩の方が上がっている。おそらく、骨盤の高さにも、左右差がある。
「でも、反り腰は大分直ったわ」
ヨガをしているところを美津子に見られるのが恥ずかしくて、最初の頃は、離れで自主練をしていた杏奈だったが、母屋でヨガをするようになってすぐ、反り腰のことは美津子から指摘を受けた。自分でももともと自覚していた。体の背面を壁につけて立つと、背中と壁の間に、手のひら一枚分よりやや広いスペースが開く。反り腰が続くと、内臓も正しい位置に収まらなくなり、内臓が下垂したり、腰痛になったりする。杏奈は、おしりのしっぽを下に向けるようなイメージで、お腹を引き上げ、生活する意識をしてきた。不思議とお腹の張りも少なくなり、姿勢が整ったことを自覚している。
─次は、左脚の癖か。
美津子は、しかし、杏奈には別の癖もあると感じている。やや前傾姿勢だ。注意深く見ていなければ、不自然に感じない程度ではあるが。これは、事務仕事が多い人、最近はパソコン、スマホを見ることが多い人の特徴だ。それだけではなく、感情も関わっている。頭を前に突き出すような前傾姿勢は、恐れを抱く者がなりやすい姿勢である。危険がないか、察知しようとしているのである。
前々回、順正があかつきを訪問した時、買い物に出ていたのは、タイミングが悪かった。もし、自分が一緒にいたら、杏奈は順正から手厳しい言葉を受けずに済んだかもしれなかった。苦味は成長の味とはいえ、過度の苦味は、体と心を収縮させる。
杏奈は、左手にあたたかなものが触れたのを感じて、顔を美津子に向けた。美津子は、杏奈の指先を目で見て、自分の指先で触れて、何か観察している。
「指先が冷たいわね」
「はい、末端が冷えます」
杏奈はもともと、循環が弱い。寒いこの時期は、心拍数が低下し、全身の血液が停滞する。重要な器官を暖かく保つため、血液のほとんどが中心部に集中することもあって、手足はますます冷たくなる。
「肌の調子はどう?」
触った感じは、会った当初よりしっとりとして、弾力を取り戻しているかに思えるのだが。
「かゆみはもうほとんどないのですが、ところどころ、粉を吹いたようになります」
杏奈は、袖をまくって、肘を美津子に見せた。カサカサしている。体の硬さ、循環の弱さ、冷え、乾燥肌は、全てヴァータの乱れが関与する症状であった。
「今度から、沙羅の練習のモデルになりなさい」
美津子は、口元に微笑を浮かべた。杏奈は、目をぱちぱちと瞬きする。
「ヴァータを整える絶好のチャンスよ」
願ってもない話だった。遠くからピーッピーッと炊飯器の音が聞えた。米が炊けたらしい。
沙羅の研修の日。十時ごろ、キッチンにはハーブの強い香りが立ち込めていた。沙羅は私服のままで、今しがた蒸し器の蓋を開けたところだ。沙羅の後ろから、杏奈が蒸し上がったハーブボールを覗き込んでいる。
「蒸し終わったら、施術室の保温器に入れておくの」
美津子はそう説明した。なるほど、そこまでなら自分にもできそうだと、杏奈は思った。
─面白い。
ハーブボールの作り方は、これから助手が作ることもあろうということで、杏奈にも教えられた。
杏奈は、料理以外に、薬効を考慮に入れてハーブを組み合わせる作業を始めて目の当たりにした。木綿の布に、目的に応じていくつかのハーブを組み合わせ、麻紐で縛る。ハーブボールが半分浸かるくらいの水に、五分ほど浸す。余分な水分を摂り、蒸し器で五分から十分、香りが立つまで蒸す。このようにして作る。
沙羅が着替えをする間に、杏奈は綿手袋をしてハーブボールをボウルに入れ、二階へ持って行った。
─良い香りがする。
中身は、月見草、蓬、カモミールローマン。モデルである杏奈の体調を考慮して配合されている。月見草は、女性ホルモンのバランスを整え、抗アレルギー作用がある。蓬は、身体を温め、血行促進や皮膚疾患の改善が期待される。カモミールローマンは、神経鎮静作用があり、抗アレルギー作用、抗炎症作用がある。
─貴重な材料なのに。
足込町では売られていないものばかり。ネットで仕入れているのだろう。安価に手に入るハーブや他の材料を組み合わせても良いところを、美津子は、あかつきの在庫が許す限り、惜しみなく最適なハーブを調合してくれた。保温器の電源をつけ、ハーブボールを入れながら、杏奈は美津子に手を合わせたい気分だった。
ハーブボールは、二つ。一つは、沙羅が作った。沙羅はハーブボール作りが初めてではない。根元がしっかりとしていて、持ちやすい。杏奈が作ったハーブボールは、根元の方の布がややだぼついていて不格好だし、持ちにくい。ハーブボール作り一つとっても、練習が必要そうだ。
今日の研修は、このハーブボールを使った施術・ピンダ・スウェダの練習だった。ピンダはサンスクリット語で球という意味。ハーブボールを指す。スウェダは発汗という意味。ピンダ・スウェダは、温めたハーブボールを患部に当てる、アーユルヴェーダの発汗法の1つである。
今日は、ピンダ・スウェダだけを行うのではなく、アビヤンガとセットだった。
「杏奈には、度々モデルになってもらう」
美津子は意図を説明した。
「杏奈の体の変化を観察しなさい、沙羅」
「はい」
「使うオイルも、ハーブボールを使うのならハーブの調合も、この子を例にとって考えなさい」
「はい」
「カウンセリングでは何を話すべきか、それも私に教えて」
施術用の下着のみを身に着けて、タオルにくるまって寝ている杏奈は、二人の会話を聞きながら、セラピストの課題もまた、大変そうだと思った。
研修といえど、何もかも、本番を想定して行う。杏奈は身一つで施術室に入り、沙羅がベッドへ誘導した。
モデルを誰かに任せることで、美津子は、自分がモデルになっている時よりも細かくセラピストを観察することができる。声かけ、態度、姿勢、手技。セラピストの動き全てを。
─こんなの、私にできるのかな。
ゆくゆくは、杏奈もセラピストの技能を身につけなければならないはずだ。
「左脚にオイル塗っていきます」
美津子に全てを見られているにも関わらず、沙羅は大したもので、最初から堂々としていた。
柔らかいバスタオルをよけ、左脚をベッドの端の方、自分が施術しやすい位置に少しだけ寄せる。
沙羅は、美津子に言われた通り、杏奈の観察をした。すんなりとした、白い脚。
─軽い!
最後に施術をしたのが、やや大柄な果歩だったので、杏奈の軽さと小ささはひと際印象的だった。
オイルを塗布すると、みるみる吸収する。肌は繊細そうで、乾燥している。そしてもう一つ印象的なのが、その冷たさ。
「足は寒くないですか?」
「…足先が、少し寒いです」
そう言うと、手順としては足へのアプローチはまだであるのに、沙羅は杏奈の足先を手で包み込むようにしてさすってくれる。
「マットの温度は大丈夫そうですか?」
「はい」
杏奈は少し、ドキドキしてきた。アビヤンガを受けた経験は一回だけ。美津子が誕生日プレゼントとしてサービスしてくれた。その時は、完全にお客さまの気分だったのだが、今回は、モデルとして、何か適切に感じ取り、フィードバックする義務がある気がした。
杏奈はオイルを塗布される感覚や、どのタイミングで、何をセラピストに望むか、記憶しようと懸命になった。
「杏奈ちゃんは体の面積が小さいからか」
沙羅は施術しながら、内窓をバックに椅子に座っている美津子に、顔を向ける。
「すごく塗りやすいです」
ストロークの長さが短くて済む。手を筒状にして塗布するにも、脚は両の手にすっぽり収まるので、効率が良い。内ももと太ももは肉付きが少なく、絞るような動きに入っても、通常よりも少ない力で事足りる。体力が奪われにくいという意味では、モデルとして最適のように思われた。
美津子は、沙羅の言葉に軽く頷く。美津子も、同じことを思った記憶があった。
─沙羅さん、すごいな。
美津子のチェック付きで施術をしながら、感想を述べる余裕があるとは。
沙羅は右脚に移ると、肌質とは別のことに気が付いた。ふくらはぎの太さが左右で異なる。見た目は微妙な違いであったが、触ると、弾力も異なる。
足裏の方に立ち、足先から頭の方に向かって、全身を観察する。
─右脚のほうが、長いな。
沙羅は、その左右の差を修復するように、足首を持って、少しだけ力を入れて、脚をひっぱる。
「沙羅、いいところに気が付いたわね」
美津子は、沙羅に向かって微笑んだ。沙羅は、内心ほっとしながら、にっこりと微笑み返す。杏奈だけがわけが分からず、足元にいる沙羅と、杏奈から見て左側にいる美津子を、交互に見ていた。
「普段どんなことに気を付けていたらいいのか、杏奈に教えてあげて」
沙羅が杏奈の姿勢について、改善すべき点を伝えると、次は体幹。沙羅がお腹に手を当てている時、杏奈はもそもそと身じろいだ。緊張するのか、体が硬くなる。デコルテ部分、うつぶせの体制になって、脚、背中と続く。
どうやら杏奈は、体幹部分が弱いらしい。背中は特に敏感なようで、尾骨の部分から肩甲骨の間まで、一気にストロークをかける段では、杏奈は声を抑えきれなかった。くすぐったいらしい。そのため、続いてのピンダ・スウェダでは、角度や強度に問題がないか尋ねながら進めていった。
杏奈は、ハーブボールを受けたのは初めてだった。アビヤンガで、十分体が温まっている所に、腰部分にハーブボールをあてがわれると、体がぽかぽかして心地がよく、うかつにも意識が飛びそうになった。
研修は昼過ぎに終わった。
三人で少し遅めの昼食を摂った後、美津子と沙羅は、休むことなしに、施術のフィードバックや、マニュアルの読み合わせを始めた。
沙羅は始終真剣なまなざしで、美津子の話を聞いていた。集中力がずば抜けている。沙羅の様子を見ていれば、この人の優秀さがどのように養われているか、分かる気がした。
ところで、杏奈は片付けを終えた後、今日はじめて、ようやく化粧をした。いつもより、目がぱっちりとしていた。発汗をして、余分な水分が抜け、むくみが改善されたのかもしれない。
これから外出するわけでもないのに、改めて化粧をしたのは、先ほど羽沼から連絡があったからである。夕方、例の件であかつきまで来てくれるらしい。沙羅は、その話を杏奈から聞くと、なぜか嬉しそうに口角を上げた。
羽沼があかつきを訪れたのは、沙羅が帰ってから二時間ほど後、四時になろうかという頃だった。
「ごめん。下山してから、バイクを拾いに行ってたら、遅くなっちゃってさ」
杏奈は門の外まで、羽沼を迎えに行った。羽沼は大型のバイクに乗っていた。光沢のある黒とグレーの車体である。ホンダのNC750Xだったが、バイクやら車やらに、興味も知識もほとんどない杏奈は、車種を聞いたところで何の感慨も浮かんでこなかった。敷地の西にある駐車場に停めてもらい、正門からあかつきに入ってもらう。
「大きなお屋敷だね」
羽沼は敷地内をぐるりと見渡した。西側には平屋の日本家屋、その手前には小さな庭、東側には家庭菜園にしては大きな畑に、畑用の道具を入れていると思われる物置。正面には二階建ての、白い外壁の大きな建物。古くからの日本家屋の要素に、洋風の要素が混じった、複雑な建造物だった。
羽沼は、黒い厚手のダウンに、ジーパン、トレッキングシューズという恰好だった。小さめの、黒い登山用のリュックを背負っている。
「登山をしてきたんですか?」
玄関の戸を開けながら、杏奈は尋ねる。
「うん。明神山って、面白い山だね。登り方がいくつもあってさ…」
玄関からホールに入った羽沼は、思いも寄らなかった重厚で高級感のある内装に、話も忘れて目を奪われた。深い茶の床板と、同系色の飾り棚、その上に置かれた花の活けてある花瓶、壁にかかる絵画。アンティークな落ち着いた感じのシャンデリア、赤いカーペット敷きの階段…
「すごいところだね、ここ…」
杏奈は呆気にとられる羽沼を横目に、書斎へ続く扉を開けた。
「こちらへどうぞ」
羽沼は、書斎に入ってからも、キョロキョロと左右を見渡していた。今住んでいる丸太小屋とはまるで違う。あかつきは宿泊施設を兼ねていると聞き、生活感の漂う民宿のようなところを想像していたが、そうではなかった。書斎の格子窓には、高そうなレースカーテンがかかり、向かい合う形で置かれたソファとローテーブルには、西日がかかっていた。
杏奈は、クライアントにするのと同じように、羽沼から上着を預かり、スタンドにかける。
「どうぞ」
ソファを勧めた後、キッチンへお茶を取りに行こうとしたが、居間から美津子が入って来て、杏奈を制した。
「お茶を持ってくるわ」
杏奈に言った後、美津子はくるりと顔を羽沼に向け、挨拶をした。
─あれがオーナーさんか。
ふわっとした前髪を左右に流している。髪の色は明るく、目鼻立ちがくっきりとした美人だった。年の頃は分からない。
「明神山には、登山道がいくつもあるんですか?」
杏奈は西側のソファに座って、先ほどちらっと羽沼がしていた話の続きを聞きたがった。
「うん。メインの登山道はちゃんとあるんだけど、それ以外にも、下山地が異なるいくつかのルートがあるんだ」
羽沼の推測では、それはもともと明神山一帯は里山であり、山での用事を済ませた人が、早く集落や耕地に戻れるよう、道が作られたのではないか、ということだった。
ヘルメットをかぶっていたためか、羽沼の黒髪はなだらかになっている。羽沼はそれを直そうとするように、髪をくしゃっと揉んでいた。
「とはいっても、ほとんど獣道だったな」
「獣道?それは、普通の登山道とは違うんですか?」
杏奈は、山に関する知識もほぼ皆無だった。昔、岐阜城がそびえる金華山には登ったことはある。関東にいた頃は、高尾山にも登ったことはあるが、いずれもロープウェーを使った気がするし、山ではなく観光地として赴いたような記憶がある。
「人が通るには、藪とか木の枝が張り出しすぎていて、快適じゃないね。踏み跡もほとんどないし」
「?」
山の用語はよく分からない。
「今度、明神山に登ってみようと思っているんですが」
「まだ登ったことがないんだ」
杏奈は頷いた。美津子がお茶を持って入って来たので、杏奈は口をつぐみ、お盆を受け取った。お盆には煎茶の入った急須と湯呑、みかんが乗っていた。
軽いアイスブレイク的な話が終わった後、二人は本題に入った。羽沼がリュックからノートパソコンを取り出すと、杏奈もテーブルの端っこに置いておいたノートパソコンを引き寄せた。
羽沼は結論から話した。先日話題に上がっていたプラグインは使えない、と。あかつきへの滞在予約時に、選択項目が多すぎて、複雑なオプションを表示させるには、そのプラグインは簡素的すぎた。
「手としては、あかつきのメニューを単純化することだけど」
クライアントは通常、事前コンサルを含め、自分が希望する施術や、滞在日数を連絡し、事前に基本料金を支払う。滞在日数が伸びたり、金額が大きくなるほうに施術の内容が変わったりすれば、差額を、現地にてクレジットカード決済または現金支払いしてもらっている。
「前払い分の選択項目を、減らすってことですか」
「うん。複雑すぎると、難しく感じて、結局電話とかメールで問い合わせる人も多くなるんじゃないかな」
「それでは、今と変わらないし、プラグインを導入する意味がないですね…」
「若い人なら慣れてるかもしれないけどね。ここに来るお客さんの年齢層は…?」
「三十代から五十代くらいの女性ですね、ほとんど」
稀に二十代の若者が来ることもあるが。基本的に、自分の心や体に不調を感じている人が来る場所なので、メインのターゲットは若者ではなかった。
「微妙なところだね」
ネット予約に慣れている人もいれば、不便に感じる人もいるだろう。
「集客が、今はインスタがメインになってきてるなら、そこからお申込みまでの導線をはっきりさせてあげる方がいいかもしれないよ」
羽沼が言うには、インスタから、ラインやメルマガなどのクローズドメディアに引っ張り、ラインやメルマガで情報を流したり、お申込み画面に直接つながるリンクを貼ったりした方が良い、とのこと。
「どういうサービスがあるのか、どこから予約するのか、ホームページを作ってるこっち側としては、明記してるつもりでも、案外読まないものだからね」
ラインやメルマガで、ピンポイントの情報やお申込みフォームへの入り口を、こまめに教えてあげた方が良いかもしれない。
「そこがスムーズに行けば、途中離脱も防げそうですね」
杏奈は羽沼に同調するように言ってみたが、問題は、クローズドメディアを構築しなければならないことだった。開設するのは簡単だが、登録者を集め、運用しなければならないとなると、また工数が増える。
現代の集客メソッドは複雑化している。スムーズに予約できないのであれば離脱するほど、顧客は忙しい日々を送っている。美津子がこれまで、口コミでクライアントを集め、電話やメールなど従来の連絡手段だけであかつきを成り立たせてきたことを、改めて信じられないと思う。
「あとは、いっそホームページをECサイトにして、オプションを商品として選択させるっていう方法もあるだろうけど」
「どういうことですか?」
「ECサイトって、使ったことあるでしょ?商品を販売・購入するためのサイト。そのプラットフォームは、もともと決済機能付きのものも多い」
つまり、決済機能はデフォルトなので、新たにプラグインなど入れずとも済むらしい。
「プラットフォームを変えるとなると、ドメインが変わるのですか?」
「いや、そこは変わらずに引き継げるけど、移行しないといけない」
その処理は初心者には厳しそうであった。
結局、予約・決済機能の導入は、思っているほど簡単には出来なさそうであるということが分かった。導入できれば、事務作業の工数が減ると思っていた杏奈にとって、それは残念な知らせであった。
そして、クライアントを増やしたいなら、他にもやった方がいいことがたくさんあるということも分かった。
「羽沼さんはずいぶんと詳しいですね」
「ちょっと勉強してたから」
「勉強…?」
「うん。古谷さんこそ、よくこの話についてこれるね」
羽沼はそっちの方が驚きだといわんばかりだ。
「私、昔個人で事業をしていて、ホームページを触ったり、集客したりしていたので」
今も、あかつきで同じようなことをしているが。
「今は、ここの広報もしているの?」
「いいえ…広報っていう役割の人は決まってないです」
本当は美津子のように、直接お客と関わって、癒しの道を示せるようになりたい…と思っているのだが。なんだか、なかなか本命の仕事にたどり着けないまま、自信をなくしてしまっている。
「そうなの?お客さん取ってくる仕事って、どの業界でも一番大事なのに…」
その担当者がいないのに、どうやって客を集めているのだろう。
「人不足なんです。羽沼さんみたいな方がいたら、もう少し円滑に進みそうですけど…」
しかし、あかつきに新たな人材を雇う余裕はない。
喋りながら、杏奈は無意識に足首をクロスしていることに気が付いた。先ほど沙羅から注意されたばかりなのに、もう。
「解決にはつながらなかったね」
パソコンを閉じながら羽沼は言った。詫び入れるような声音だった。杏奈は急いで首を横に振る。
「いいえ、いいんです」
やろうとしている仕事の規模感は分かった。
「そうだ、ゴラカを渡すお約束でしたね」
杏奈は席を立った。
「ちょっと待っていてください」
羽沼はパソコンを閉まっていて、引き留められなかった。ゴラカは、もう別に必要ないのだが…
ほどなくして、杏奈は戻り、約束のスパイスを羽沼に渡した。ジッパー付きポリ袋に入った、不気味な黒い物体を、羽沼はまじまじと見つめた。このようなスパイスは見たことがなかった。
「…虫みたいだね」
「ええ。見た目はちょっと不気味ですけど、いい味出してくれるんですよ」
「そ、そうなんだ」
「はい。スリランカでは、お魚のすっぱい煮込み料理にそれが使われるんです。そのままだと硬いので、柔らかくなるまでふやかしたゴラカを粉砕して、ペーストにして使います。ペーストの状態のゴラカも売られているんですが…」
お魚のすっぱい料理だとか、この黒い物体をペーストにするだとか、わけが分からない。ウェブ関係のことが専門ではないくせに、そこそこ知見があるようだったが、聞いていた通り、彼女は料理担当なのだ。スパイスひとつとっても、この知識量。
「古谷さんは、どうしてここの料理担当になったの?」
「アーユルヴェーダを通して、人の体や、心を整えるサポートがしたくて…」
「体や、心を…?」
「はい」
杏奈は、また無意識に足首をクロスさせていることに気付き、その姿勢を改める。お茶を一口飲むと、目の前の気の優しそうな男に、再び向き直った。
「羽沼さんは、どうしてyoutuberになったんですか?」
杏奈が質問をしたのは、単に好奇心からだった。実直そうなこの男が、youtuberという大胆な職種に切り替えた理由が、想像できない。
「それは…」
羽沼が目を泳がせたのを、杏奈は見逃さなかった。
「もともと自然とか工作が好きで。自然に囲まれた場所で、不便だけど豊かな生活ができるっていうことを知ってほしいし、それを見た人に楽しんでもらえたらいいなと思って」
「そうなんですか」
杏奈は機械的に答えた。なぜか、羽沼の言葉が、ほとんど胸に響かなかった。しかし、その理由はすぐに分かることとなった。
「…て、いうのは嘘で」
「嘘?」
羽沼は苦笑した。それは、小学生の前でスピーチするためにこしらえた理由であって、本当は違う。心のこもらない話だったからこそ、杏奈にも、何も響くものがなかったのである。
「休憩中なんだよ」
「休憩中?」
羽沼の口から、まったく予想外の理由が告げられた。
「うん。精神的に、しんどくなっちゃってね」
杏奈は、瞬きした。優しく、穏やかに見えていた羽沼だが、その大人しさは、憂鬱から来ていたものなのだろうか。
「一度、仕事も住む家も何もかも、変えようと思ったんだ。で、今に至るんだけど。そのうち、また違う仕事を探すつもり」
「でも、足込町に家を買ったのですよね?」
といっても、あの丸太小屋だが。
「うん。リモートでできる仕事にするかもしれないし、あの家は別荘にして、サラリーマンに戻るかもしれない」
今の時点では、これからのことを深く考える段にはいないらしい。それでも、どっちに転んでもいいように、何かしらの勉強はしているというわけか。
しかし、杏奈が気になったのは、羽沼のこの先の仕事のことではない。
「休憩中って…あのう、どうしてですか?」
遠慮がちに聞いた。精神的に病んでしまったのは、仕事が原因なのだろうか?
「仕事をやめてまで休息が必要になった理由は…あの、もし聞いても良ければ」
羽沼は、心がぐらりと揺れたような気がして、めまいまで起きそうになった。
─誰かに吐露できたら…
話したいという気持ちが湧き出てきた。しかし、話したら楽になるのだろうか?
「はは…」
羽沼は、笑うことによってごまかした。
「そんなに大したことじゃないよ。でも、恰好悪くて、古谷さんには言えないなぁ」
やっぱり、この人は優しいのだ、と杏奈は思う。みな、杏奈には格好悪いことを打ち明けることがある。それは、杏奈を下に見ているから。が、この人はそうではないのだ。
「羽沼さんを見ていると…」
杏奈は、羽沼から顔をそむけた。
「昔の上司を思い出します」
「本当?それは光栄だなぁ」
人を嫌な気持ちにさせない。自分を受け入れてくれるという安心感がある人だった。羽沼の受け答えやしぐさ、顔の表情に、尾形と共通のものを感じる。こんなことを喋ったり、相談したりできるのは、それゆえからかもしれなかった。だとしたら、そんな自分に抱くのは、嫌悪でしかないが…
「羽沼さんは、面倒見がよさそうですよね。部下を持っていらっしゃたのですか?」
杏奈は、話を続けることで、脳裏に浮かびあがる尾形の残像を払拭しようとした。
「ううん。僕は調達部だったんだけど、海外赴任が多くて」
「そうだったんですか。英語もご堪能なんですね」
「堪能ってほどじゃ…語学は苦手で、苦労したよ」
会社の中でも、重宝されている人材だったのだろうに。それでもなお、会社を辞めなければならないほどの、苦痛があったというのか。けれど、羽沼がその理由を話そうとする気配はない。とすれば、深追いはできない。
「さあ、そろそろお暇しようかな」
羽沼は湯呑に残っていたお茶を飲み干した。
「また、何かあったら相談乗るよ」
「本当ですか」
「そんなに力になれないかもしれないけど」
オーナーさんにもよろしく、と言って、羽沼は立ち上がった。
この日は杏奈にとって、長い一日に感じた。いつもと違う出来事が多かった。マッサージのモデルに、ホームページの相談、その件に関して美津子への報告。これに加えて、個人的に登山の計画を立てた。
美津子が夕食のための炊事をする音とにおいが、応接間まで漏れてくる。その時、沙羅からラインが届いて、杏奈の平坦な日常にまた小さなイベントが発生する。
「美津子さん」
杏奈は、コンロに向いている美津子の背中に声をかけた。今日の夕食は何か分からないが、出汁のにおいがする。
「なに?」
割烹着を着た美津子には、田舎の、親戚のおばさんのような親しみやすさがあった。
「沙羅さんがお風呂に誘ってくださったんですけど、行ってきてもいいですか?」
「お風呂?」
「足込温泉へ」
ああ…と言いながら、美津子は、そんなことにもいちいち許可を取って来る杏奈が可笑しかった。今日は誰も、クライアントはいないというのに。
美津子の快諾があって、杏奈は午後七時前にあかつきを出た。美津子のエヌボックスを借りる。杏奈の運転はここ数ヶ月で大分上達した。もう足込温泉くらいなら、ドキドキすることなく行ける。しかし、民家のないあかつき周辺は暗く、車のライトをつけても心もとないくらいだった。林道から主要道に出て、初めて杏奈は緊張が解けた。
よく知った道を走りながら、杏奈はなぜか、父親のことを思い出した。杏奈の父・正博は、もとは中学校教諭だったが、精神疾患を理由に、一時休職。その後、結局職場復帰を果たすことなく、仕事を辞めた。求職活動ののちに、別の仕事についたが、その間しばらく、母・陶子が家計を支えていた。
羽沼は、まさに、あの時の父と同じように、心を休めている段階なのだろうか。正博が心を病んだ原因を、当時の杏奈は知らなかった。尋ねようとも思わなかった。親たちからそれを話すこともなかった。当時、小学校高学年だった杏奈を不必要に不安にさせまいという配慮だったのかもしれない。まだ社会の厳しさを想像できないし、理解もできない年頃だと思っていたのかもしれない。
そもそも、精神疾患にかかった本人ですら原因を特定できてはいないようだ、と陶子が誰かに話していたのを聞いた記憶がある。仕事の性質が嫌いなのか、労働時間の問題なのか、トラブルがあったのか。はたまた、仕事のこともあるけれど、家庭環境も含めたそれ以外のことに原因があるのか。
当時、正博の両親が立て続けに体調を崩し、軽度の介護や、病院への入退院を繰り返していた時期ではあったが…
─心のことは、分かりにくい。
心の問題は、目に見えない。しかし、体と同じで、起こったことや、言われたこと、インプットしたすべての情報から何らかの影響を受ける。状態が良いこともあるが、傷ついたり、酷使した結果機能不全になったりする。
父は、どうやって心の問題を乗り越えたのだろうか。
目に見えない心の状態を、アーユルヴェーダでは、マハグナの概念─サットヴァ、ラジャス、タマス─を使って表そうとする。正博は、一時頑張り続けた(ラジャス)結果、もう何もできないといった状況(タマス)に陥ってしまったのだろう。そうなる前に、心をサットヴァに導くにはどうしたら良かったのか。
「杏奈ちゃん」
沙羅は自動発券機の傍のベンチで、杏奈を待っていた。
「ごめんね、急に」
「いいえ。お子さんたちは大丈夫なんですか?」
「親が見てくれているので。でも、九時までには帰らないと」
二人も子供を育てていれば、時間的な制約がある。プライバートで羽を伸ばすのも大変なことだ。
お弁当の納品で幾度も訪れている足込温泉だが、客として入浴施設に入るのは初めてだった。平日だが、お客はちらほらいる。
回廊を渡って女湯に入る。古い歴史をもつ足込温泉は、数年前にリニューアルをしたらしく、施設内はどこも新しく清潔で、更衣室も広々としていた。
内湯には、内湯、掛け湯、サウナ部屋と洗い場がある。掛け湯をすると、一度結い上げた髪をすぐに解き、二人並んで、最初に全身を洗うことにした。
「職場以外で会うところが温泉だなんて、面白いですね」
杏奈は化粧を落としつつ、隣の沙羅に話しかけた。沙羅はうふふと笑う。
「時々来るんですか?」
「近頃はあまり。でも、夜出かけられるスポットっていったら、ここくらいしかなくて」
それぞれ、食事を摂ってきているとなれば、行先として考えられるのはカフェくらいだが、足込町には、午後七時以降空いているカフェなどはほとんどなかった。
「でも、ここは大きくて綺麗でいいですね」
午前中にアビヤンガをしていた杏奈は、石鹸を使わず、お湯洗いにとどめた。今日はオイルマッサージに、温泉にと、思いがけず温活をすることになった。
内湯の真ん中には、赤い顔をした鬼のようなオブジェが置いてあり、その鬼の口からお湯が出ていた。鬼、と思ったのは、ツノが生えているからであったが、その面構えは天狗のようであった。
内湯に入る沙羅を、杏奈は視界の隅で捉えた。骨格がしっかりしているのか、体の線は細身といえるほどではなかったが、余計な肉はついておらず、滑らかな身体つきをしていた。
「はぁ。癒されますね」
沙羅はデコルテ部分まで体を鎮めた。
「今日の羽沼さんとの打ち合わせはどうでしたか?」
杏奈はお湯の中で、足指を手の指を使って動かしながら、
「…結局、中途半端な改修をするよりは、ホームページ以外の集客の導線をはっきりさせた方がいいんじゃないかという話になって」
新たな課題を再認識したところで、終わった。
ちなみに、それを聞いた美津子の反応としては、既存の集客ツールはそのまま、新しいツールも幅広く扱っていくべきなので、ゆくゆくは作った方が良い。しかし、あかつきの中の体制を整える方が先。その後、戦略的に展開したいので、どのようなツールをどう使うかを練るのは良いが、運用するのは待つようにとのことであった。
「う、中の体制って、私のスキルのことですよね」
沙羅は、顎の先までお湯につかった。
「沙羅さんは最低限の研修日数で、即戦力になられていますよ」
現に、先日クライアントに施術を行ったではないか。役割が宙ぶらりんになっているのは自分のほうだと、杏奈は思う。まだ施術のマニュアルももらっていないし、これから開催することもあろうと思って準備していた料理教室についても、あかつきの名を汚さぬものができるかどうか…
思案顔になった杏奈を見て、
「杏奈ちゃんって、どんな男の人がタイプなんですか?」
沙羅は急に修学旅行中の女子のような話を振る。ずい分と急な話の転換だが、杏奈は少し考えた後で、
「…優しい人、ですかね」
と、ありふれた要素を挙げた。
「羽沼さんのことは、どう思います?」
杏奈はもしかして、と思った。沙羅は、羽沼の今日の来訪に、別の意味があったのではないかと気になっているのだ。
「親切な方だと思いますが」
杏奈は、苦笑した。
「それ以外には、別になにも」
相手も、別に他意はないと思う、と付け加えた。沙羅は、少し残念そうに眉を落としたが、想定外のことではなかったらしい。
「そうなんですね。ちょっと、羽沼さんは年上すぎるかなぁ」
「年齢はあまり気にしませんが…」
たった二回会っただけでは、特別な感情も芽生えようがない。それほど、電撃的なものは感じない。しかもお互いに、現段階で異性との関係を築くことは、求めていないのではないか。今日の羽沼の話を思い出して、杏奈はそう思った。
「何歳くらいなんでしょうね、羽沼さん」
沙羅は視線をやや天井の方に向けて、
「瑠璃子さんや安藤先生よりも年上ってことは分かりますけど…私より、三つ下くらいなのかなぁ」
「え?」
杏奈は、若々しい沙羅の容貌に、目を凝らす。
「沙羅さん、差支えなければ…おいくつなんですか?」
「今年四十になりましたよ」
杏奈は目を見開いた。
「見えないです」
心からの声だった。アラフォーといえるくらいかと思っていたら、もう四十代に届いているとは。
─ということは、少なくとも下の娘さんに関しては、高齢出産だったんだな。
なんとなくそのことが一番印象に残った。
「心の傷ですか…」
二人は内湯から露天風呂に移って、夜空を見上げながら話の続きをした。外灯はあっても、夜空にはぼんやりと星が浮かんでいるのが見えた。
「はい。休憩中なんだって仰ってました」
杏奈は、羽沼が話していたことの一部を、沙羅に話した。
「そういう方に出会った時、どうアプローチするのが一番良いのでしょうね」
杏奈は漠然と抱いた疑問を吐露した。沙羅は湯に浮かんだ葉っぱを両手ですくい上げては、ゆっくりと落とした。
「ヨガや、アーユルヴェーダに関わる仕事をしていると、そういう人に出会う機会は多いですよね」
沙羅も、ヨガの生徒の中で、病名までは付けられていないものの、心の不調を覚えている人に出会ったことはある。
「アーユルヴェーダの料理教室をやろうと思ったのが」
浴槽内の石段の上で、膝を抱えながら杏奈は言った。
「心に不調を抱えていて、今この瞬間を過ごすのがつらいっていう人に、少しでも平和な時を提供したかったからなんです」
沙羅は温まった両手を両頬に当てた。夜風が冷たいからか、頬はひんやりとしていた。
「だけど、それは一時の気晴らしであって、本当は心の問題を直接癒せるようなアプローチができなきゃいけないのかなって」
でも、それがどういうアプローチなのかは、分からない。沙羅は杏奈と同じ段差に腰掛け、横から杏奈の顔を覗き込むようにして、にっこりと笑った。
「杏奈ちゃんは、本当に真面目ですね」
「はぁ、そうですか?」
杏奈は沙羅の視線から逃れるように正面を向くと、両手でお湯をすくって、ぴしゃっと顔にかけた。
「…誰の、どんな心の傷でも、癒す方法があったら素敵ですけど」
二人しか人のいない露天風呂には、お湯が流れるちょろちょろという音と、沙羅の穏やかな声だけが聞えた。
「実際には、誰のどんな問題にも対処できる一律な方法っていうのがあるわけではなくて、一人ひとり違う…」
「そうですよね」
「どんな方法がいいか、実践しなきゃ分からないですけどね。そして、実践するのは、その人自身です」
方法を与えた、プラクティショナーではなくて。
「でも、心の変化って、体の変化よりももっと、つかみにくいじゃないですか」
「はい」
「それでも、その人がその方法を信じて走り続けられるかというと…」
「そうではないでしょうね」
杏奈は言葉尻を受け取った。
「結果が出ないうちに、やめちゃう人がほとんどじゃないでしょうか。その人がくじけそうになった時に励ましたり支えたりできなきゃ、いくら知見をもっていたって、意味がないのかも」
沙羅は、あくまで一つの意見であるという風な、あやふやな言い方をした。
「その方と伴走できる人の方が、いいのかな、と思います」
「伴走…」
接触機会が多い、ごく身近な人、ということか。
杏奈は、美津子が話してくれた、唐揚げ事件のことを思い出した。傷ついた女性が活力を取り戻すまで、相当な時間をかけて寄添い続けたという。そして、女性と美津子の関係は友に変わり、使命にいのちを燃やす者という意味での同士となった。もし女性と美津子が深い縁でつながれることなく、通りすがりの関係のままだったら、女性は癒されなかったかもしれない。
「じゃあ、必要なのは、友人や、家族の支えなのでしょうか」
「家族は…どうでしょう」
沙羅は、少しだけ首をひねった。
「家族って、特別な存在じゃないですか」
「はい」
「家族を相手に、他の人を見るように一歩引いた目線では、見られないかも」
沙羅はなぜそう思うのか、うまく説明できないのか、珍しく言葉に窮している様子であった。説明できないまでも、沙羅は経験上、何かを感じたことがあるのかもしれなかった。家族と言えば、親と兄のみである杏奈に対し、沙羅は夫と子供もいる。家族といっても、杏奈よりも広い視野で見ているのだろう。
「私も昔、心を病んだというか…とても落ち込んだ時期があるのですが」
杏奈は、ゆらゆらと浮かぶ木の葉を見つめながら言った。
「その時、家族や友人には、話せないなと思いました」
けれど、通っている料理教室の先生というくらいの距離感の、第三者になら…本当の気持ちを話し得るかもしれないと思った。
「だから、第三者が関われる可能性は、あるって信じて…」
石段の上についていた足で、杏奈は湯の中を蹴った。
「あかつきで、気軽に話せる第三者として、クライアントの役に立ちたいんですけど」
沙羅は、深淵な表情を浮かべる杏奈の横顔を見守った。自分よりも一回り年下の同僚。若いのに、大人びた思考と物言いをする女の子…。
「杏奈ちゃんは、何に対して傷ついたんですか?」
まっすぐに自分を向けられる沙羅の視線を感じて、杏奈はちょっと動揺した。
「えっと…」
話さなければ、沙羅を信頼していない、力になってくれるとは思っていない、という風に受け取られるだろうか。ちょうど今日、杏奈が羽沼に対してそう思ったように。けれど…
「ちょっと、言いにくい…です」
杏奈は、話しうる人、話せない人、明確な基準はないのだが、極力、誰にも知ってほしくないという思いがあるのを、自覚した。誰にも知ってほしくないという思いに、理由が必要とも思えなかった。それでも、話さないという意思を伝えた後で、沙羅に対して罪悪感のようなものを抱いた。
しかし、沙羅は恨み言を述べることもなく、
「誰にでも、人に話したくないことの一つや二つ、ありますよね」
と、朗らかな声で言ってみせた。
「…別のお湯に移りましょうか」
杏奈は、話題を変えたくて、まず場所を変えようと言った。
「そうですね。いろんなお湯があるんだから、楽しまないと」
それに、ずっと熱い露天にいると、のぼせそうである。
「シルクの湯は、少し温度が低いですよ」
「じゃあそこに…」
杏奈は浴槽の底に足を下ろし、沙羅に背が向く位置で立ち上がった。
─うわ。
午前中にオイル塗布を通して、さんざん見てきたはずであったのに。杏奈の腰から襟足部分を見て、改めてその白さに、同性ながらも、沙羅はキュンとした。臀部の上まで外の空間に出された体は、豊満ではなかったが、夜の闇に浮かび上がった肌は、そのまま雪であった。
シルクの湯はお湯が白く濁っていて、温度も三十七度と低めである。二人とも胸が隠れるくらい、体を鎮めた。
「ヨガって、すごいなぁ」
他の客がいないのをいいことに、沙羅は意味深な言葉をつぶやく。杏奈が沙羅の顔を見ると、沙羅はにこっと微笑みかけた。
「心の作用を止滅する、っていう意味の、ヨガですけど」
ポーズとしてのヨガではなくて。
「心は体と同じように、疲れたり、傷ついたり、機能不全になったりするのに、私たちはそれに気づけない」
体ほどには分かりやすく、表に出てくれないからだ。
「心をケアするのって、だいたいの人が、難しいと思うみたい」
「沙羅さんは、そうではないのですか?」
「昔ほどは」
沙羅は、杏奈にウインクした。
「歳のせいかもしれないですけどね」
杏奈は、首を振った。
「七瀬が生まれてすぐくらいだったかなぁ」
沙羅は、シルクの湯の周りの植生に目をやりながら、一年以上前のことを回想をする。
「夫が、珍しくぼうっとして、疲れ果てているように見えたんです」
仕事の忙しさに加えて、子供が一人増えたことによる、生活の変化からだろうか。沙羅は、自分自身も大変な時期であったけれど、夫が少しでも体を休め、楽しいことができるように、自由な時間を作ってあげたのだ。その時間で、何か自分の好きなことをやればよい、と。
「そうしたらね、旦那が、ランチにパンが食べ放題になるお店を見つけて、そこへ行こうって言ったの」
「はあ」
「仕事人間だから、フリーな時にしたいことと言っても、特になかったみたいでね」
沙羅は、別にそれが悪いことだとは思っていないが。
「その時思ったの。人は、心を休める、リラックスするために、感覚を楽しませようとするんだって」
映画を見たり、美味しいものを食べたり、美しい花を見てにおいをかいだり。
「そうすれば、心をごまかすことができる。たぶん、一時的に…」
誰かが外湯に入って来た音がしたが、杏奈は全神経を、沙羅の言葉に集中させていた。
「そうすることしか、方法を知らないから」
心の扱い方は、学校でも、社会でも、教えてはくれない。
「だけどね」
沙羅は、その方法を学んでいた。
「ヨガって、それが生まれた何千年も前から、心をコントロールするための方法を解いてるの」
杏奈は、ヨガスクールで学んだことを一生懸命思い出そうとした。一番に浮かんできたのは、馬車の絵だ。暴れ馬に例えられる、暴走する自分の心。本当の自分が、知性を持って、その暴れ馬の手綱を引く。
「昔っからある教えなのに、その教えを理解しようと努力している人は少ない。それどころか、多くの人は知ろうともしませんよね」
沙羅の夫・栄治も、妻がヨガに傾倒しているのは知っているが、自分自身がヨガを学ぼうとしたことはない。
「真面目に取り組めば、これほど奥が深くて、面白いものはないのに」
例えば、悟りへと向かうための段階─平たくいえば、最適な人全の生き方─を示した、八支則(アシュターンガ・ヨーガ)の、最初の段階であるヤマ、ニヤマ。これだけでも、真に実践するのが難しい、大きなテーマである。
・ヤマ(Yama)は5つの禁戒。日常生活で行うべきでないこと。
・ニヤマ(Niyama)は5つの規律。日常生活で行うべきこと。
例えば、ニヤマの中の一つ、サントーシャ(知足)だけでも難しい。沙羅は、それを実感した出来事を杏奈に話した。
「私、二人目がなかなかできなかったんです」
杏奈は頷いた。先ほど年齢を聞いた時、高齢出産だったんだなと思ったばかりだ。
「子供は授かりものだから、できなければ、仕方がないって思ってました」
でも、生理が来るたびに、沙羅は落ち込んだ。またダメか、と。
「得られないと分かれば分かるほど、得たいって思う気持ちが強くなっていくのを感じたんです」
沙羅は、焦った。しかし、サントーシャというニヤマを実践しなければという思いから、第二子を強く望み、固執することに、葛藤を感じていた。それでは自分はヨギでない、と。
「でもね、望んだり、憧れたりすることを、私は自分に許したの」
目を閉じている沙羅は、口元に微笑を浮かべていた。杏奈は、そんな沙羅がとても美しい人のように思えた。
「足るを知るっていうことは、望まなくなることじゃない。望んでもいいけど、その結果に、執着しないことだって、思ったの」
沙羅は目を開けると、杏奈が自分を見ていることに気付いて、肩をすくめながら、
「そう思ったら、妊娠することができたんです」
照れくさそうに笑ってみせる沙羅に、杏奈も微笑み返した。
「なんだか話が逸れちゃったけど、ニヤマの一つとっても、奥深くて、習得できる日が来るんだろうかと思う」
一生をかけて、実践していくテーマだと思った。沙羅がヨガが好きなのは、そのような壮大な課題を与えてくれるからだった。
「確かに」
杏奈は、それぞれ五つの、ヤマ、ニヤマを思い出す。
禁戒(ヤマ)は次の五つである。
一 非暴カ:Ahimsa(アヒムサー)
二 真実と正直:Satya(サティヤ)
三 不盗:Asteya(アステーヤ)
四 現実の最高のエネルギーや力を思い出すことで無駄なエネルギーを消費しないこと、節制、禁欲、性的エネルギーのコントロール:Brahmacharya (ブラフマチャリヤ)
五 不貧、欲しがらない:Aparigraha(アパリグラハ)
勧戒(ニヤマ)は次の五つである。
一 浄化:Shauca(サウチャ)
二 知足:Santosha(サントーシャ)
三 苦行・精進:Tapas(タパス)
四 聖典読語:Svadhyaya(スワーディヤーヤ)
五 神への祈念:Ishvara-pranidhana (イシュワラプラニダーナ)
「字面だけ見れば、理解はできますけど、本当に実践するには、簡単でないものばかりですよね」
「ええ」
杏奈は頷いた。真に実践できている人が、どのくらいいるというのだろう。非暴力の教えにしても、物理的な暴力を振るわないだけなら、簡単に思えるが、悪口を言うだけでも、心の中で誰かを貶めるだけでも、暴力になってしまう。
「でも、それを意識するだけでも、行動は変わります」
沙羅は、そうですよね、と同意を求めるような視線を、杏奈に向けた。
「その目に見える、見えない実践の全てが、心のヨガ。その過程で、私たちは心を磨くんです」
「心を磨く」
杏奈は、かけがえのない教訓を、沙羅からもらった気がした。
心を磨くとは、或いは、もともと持っている魂に近づくということなのかもしれない。永遠に変わらない、キラキラとした自分を見つけ出す旅だ。心がクリアになると、自分の本質が浮かび上がる。
杏奈は目を閉じた。
「心を磨いて、心が成長を遂げれば、心を揺るがせているものに負けない自分になれる…」
声に出して、心の中を整理しようとしてみる。
「分からないですよ?」
沙羅は、あくまで自説だということを念押しした。ヨガを支持する自分自身の、願望が混ざった期待なのだと。
「でも、私、夫にはヨガを実践してって言えなかった」
突っぱねられると思った。栄治が門戸を叩いたのでなければ、沙羅は、押しつけになると思った。
「だから、私が夫に対してできるのは、私が夫に対してヨガをすることだけ」
沙羅がこのようにヨガを語れるのは、自分がそれを実践しようとした、毎日の経験が豊かであるからだろう。
沙羅は、ヨギなのだ。
「もし私がクライアントなら、ヒーラーがどんな人であっても構わないけど、一つだけ…」
口元に人差し指を当てながら、大真面目に沙羅は言った。
「ヨギの心を持っていてほしいと思います」
臆面もなく、こういう話ができる人を、杏奈は美津子の他に知らなかった。
沙羅は、自分などよりも多くの時間を、ヨガの勉強に費やし、考え、実生活で試みてきた人なのだろう。沙羅と初めて会った時から、この人は、人として、ずい分と完成されているように写っていた。それは、沙羅の毎日の努力の結果だったのかもしれない。
杏奈はそんな沙羅に対して、自分に起こったことを話さなかったことに、再び罪悪感を抱いた。今日、沙羅が自分を温泉に誘ったのは、羽沼との進捗が気になったかのように思っていたが、実際は、同僚として、距離を縮めたかったのではないだろうか。幼い子供を両親に預けて、せっかく捻出した自由な時間を、自分の話し相手になることに費やしてくれたのだ。
心の内を惜しみなく開け広げ、導いてくれる。
─姉のような人だ…。
自分には姉はいないが、杏奈は初めて、沙羅のことをそんな風に思った。
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