落ち葉がはらはらと舞落ちる丸太小屋の庭で、杏奈はあかつきのホームページの仕様について、羽沼に相談をしているところだった。
「今は無料のプラグインを使って、毎月手動で予約枠を設定してるんですけど、これだとミスもあるし、手間もかかっていて」
杏奈はスマホを操作して、予約画面を羽沼に見せた。管理画面を見せて、実際に手を動かしながら説明できれば良いのだが…
「待って。その画面までどうしたら行けるの」
羽沼は杏奈のスマホ画面を見つつ、自分のスマホでもあかつきのホームページを検索した。杏奈は画面を指差しながら、予約フォームまで画面遷移するのを手伝った。そもそも、その画面まで辿りつくのが難しい─訪問者にとって分かりにくい─作りになっていることは明らかだった。
「あー…ハンバーガーメニューね」
画面右上に表示される、横棒が縦に三つ並んだメニューをタップしながら、羽沼はつぶやいた。
「この日付を自分たちで入れてるんだ」
「はい。予約が入ったら、管理はエクセルで」
「決済機能もついてないね」
「メールやラインでご連絡を。最近は、インスタのダイレクトメッセージでやり取りすることもあります」
「予約時に決済できないとなると、メールを開封するまでに離脱されることもあるかもね」
「そうですよね。でも、値段が一律に決められないので、しょうがないんです。それに外部の予約機能と決済機能を使おうとすると、ランニングコストがかかるので…いっそ開発をしてもらったほうがいいかなと思うんですが」
「その気持ちは分かるよ」
「比較サイトで予算だけ取ったことがありますが、相場が分からなくて」
だからこそ、業者も高額な設定をしてくる。
「プラグイン入れていじるって言ってきた会社もあるので、なんのプラグインか教えてもらったんです」
「このホームページは、どこかに頼んで制作してもらったものなの?」
杏奈は首を振った。美津子が立ち上げ、運用していたホームページを、この夏から杏奈も加わって少しずつ改修し、コンテンツを作っていた。
「ここまで作れるんだったら、自分でいじれそうだね」
「そうかもしれませんが、今の事務作業の手間を削減できるくらいのものが作れるか、自信がなくて」
どのくらいの値段をかければ、どのくらいのクオリティのものが作れるのか、その価値があるのか算段が付かず、悩んでいるのである。
羽沼は口元に手を当てて考えた。プラグインを操作するのは良いが、問題はセキュリティである。自前でサイトを運営するのは、コスト面ではメリットがあるのだが、しっかりセキュリティをかけられない場合、決済情報を入力してもらうのはリスクがある。どのくらいの評価が付けられているかも、気になるところだ。
「そのプラグインの名前、教えてくれる?」
「えっと…なんて言ったかな…」
杏奈はホームページを一旦閉じ、見積もりをするのに使った比較サイトから、該当のメールを探す。
「時間かかりそうなので…」
杏奈は落ち葉の絨毯の上に置いたままの、アルミホイルの包みをちらっと見た。
「じゃあ、また後で」
羽沼は軍手で焼きりんごと焼き芋を持ち、みんなの方へ持って行った。においを嗅ぎつけ、子供たちも近寄ってくる。肉にはほとんど手をつけなかった子供たちだが、食後の甘い物のほうには興味がそそられたようである。
「まだ熱いから気を付けてね」
素手でアルミホイルの包みに手を伸ばそうとする万里子に、瑠璃子が注意した。羽沼がりんごの包みを開くと、シナモンがぶわっと香り、中のりんごは程よくとろとろになっていた。
「おいしそーう!」
子供たちの歓声が上がる。子供たちが喜ぶと、母親たちも満足そうな顔をする。仕事上のやり取りの時には見られなかった、母親としての瑠璃子の顔。羽沼は一瞬、母性がにじむその顔に、視線が釘付けになってしまった。
「うまそうじゃん」
安藤の声で我に戻る。安藤も甘い物が好きらしい。
ナイフでりんごとさつまいもを切り、フォークで少しずつつまむスタイルになった。
「何話してたんですか?」
隣に座った快と一緒にりんごを食べながら、沙羅が羽沼にこそこそ尋ねた。興味深そうに、目をきらきらさせている。きょとんとした羽沼が何か答える前に、杏奈が近づいて来て、
「羽沼さん、ありました」
と言って、スマホの画面を見せる。羽沼はプラグインの名前を読み上げると、その画面をスマホで撮った。
「ちょっと調べてみるよ」
「ありがとうございます。…ちなみに、このプラグインじゃなくてもいいんです。もっといいやつがあればそれを使うのも」
杏奈は少し前のめりな姿勢になっていた。
─杏奈ちゃん、結局仕事してるんだ…
沙羅は二人の会話を聞きながら、少し呆れた。近くにいる安藤と瑠璃子は、それぞれ食後の甘い物を食べているところで、会話を中断させており、自然と杏奈と羽沼の会話が耳に届く。
羽沼は苦笑いを浮かべた。
「あんまり詳しくないから、期待しないで」
「あ、すみません」
「他のプラグインを調べるにしても、理想形がどんな感じなのか分かっていたほうがいいんだけどね」
「何の話してるの?」
瑠璃子は沙羅に耳打ちした。
「仕事の話。たぶん」
杏奈が積極的に人と話をする時というのは、仕事モードになっている時しかありえない。
「そうですよねぇ…」
羽沼の言っている意味は、杏奈にも分かる。悩まし気な表情をする杏奈を横目で見つつ、羽沼は沙羅に話しかけた。
「沙羅さんも、ここで働いているんですよね」
と言って、自分のスマホの画面を見せた。
「はい。私は時々ですけど」
ホームページの仕様とデザインという観点からサイトを見ていたので、先ほどはホームページが伝えようとする内容には意識が向かなかったが、
「アーユルヴェーダって何?」
今更ながら疑問に思い、羽沼は独り言のように呟いた。それに答えたのは沙羅だった。
「アーユルヴェーダはもともとインドで生まれた伝統医療です」
杏奈は席に座り、勧められるまま、りんごを頬張る。
沙羅はアーユルヴェーダの概要を簡単に説明した。
「…自分でも、体にオイルを塗ったり、体に優しい食事ができるといいんだけど、忙しい現代人はそんなことできないじゃないですか。だから、あかつきに滞在してもらっている間は、私たちがそれをサービスとして提供するんです」
最後に、あかつきでの自分たちの役割を話す。
「それで、お客さん元気になるの?」
安藤が沙羅に尋ねた。安藤は、長年この足込町に住んでいたが、そういうサロンがあるとは知らなかった。アーユルヴェーダのことは、やや胡散臭い印象を持った。
「はい。それはもう」
沙羅は自身満々に答えたが、正直、幾分かの願望が入っていた。あかつきに滞在している短い間だけでは、多くの変化は遂げられない。しかし、今後の生活の指針や、気付きを与えることはできる。それは間違いないと信じている。
「…明神山への登山口から近いんだ」
羽沼は経路マップを見ながら、つぶやくように言った。
「足込町側?神社の近くか?」
安藤が羽沼のマップを覗き込んだ。
「やっぱり。栗原神社の近くだな」
「栗原神社か…」
「夏はここで祭りしてたじゃん。今年の春から、花祭も再開するって話だよ」
栗原神社は、花祭の祭場となる。
「花祭…」
瑠璃子はその言葉で、先日の町役場での打ち合わせを思い出した。
「あ、羽沼さん。その件では、ごめんなさい。うちの上司が無理なこと言って…」
「…ああ、全然いいですよ」
羽沼は瑠璃子に答えながら、現代医療とは違うアプローチをするというアーユルヴェーダの癒しの館が少し気になった。
「じゃあ今度、明神山登山と、栗原神社の下見を兼ねて…」
羽沼は杏奈を振り返った。
「二人の職場を訪ねてもいい?ホームページのことで」
思いがけない羽沼の言葉に、杏奈は目を丸くした。
「えと…コンサル料をかけても良いか、オーナーに相談してみないと」
「お金はいいよ」
羽沼は、また目尻のあたりに皺を作った。
「どのみち今日は、さっきのプラグインのこと、返事できそうにないから。調べた結果を話しに行くだけ」
二人のやり取りを聞いている瑠璃子は、目を瞬かせた。
「いいじゃん」
りんごを食べながら、安藤が口を出した。
「何の話かよく分からないけど、こいつ、報酬には無頓着だよ」
「余計なことを言うな」
羽沼が苦笑いしながら、安藤の背中をポンと叩く。
「それに、そんなに大変な調べものじゃないんでしょ?」
「たぶんね」
杏奈は沙羅の方を向いた。沙羅はこの件に関する判断者ではないが、なんとなく意見を聞きたいと思った。
「仕事の相談に乗ってもらうだけだし、美津子さんもダメとは言わないと思いますよ」
杏奈は二回ほど小さく頷き、
「では、羽沼さん」
杏奈は改まった様子で羽沼に向き直った。
「ゴラカをお渡ししますから、相談に乗ってください」
「う、うん」
その時には、イノシシの肉は何かしらの手段で食べていると思うけれど…
─美津子さん、今日ここに、犬を連れた背の高い男の人が来ました。
杏奈が順正と遭遇した日、杏奈は買い物から帰ってきた美津子にそう告げた。
美津子は、犬を連れた、背の高い、というキーワードだけで、誰かすぐに分かったようだった。
─名乗らなかったの?
寡黙というか、言葉が少なすぎる順正のことだ。もしかして…と思ったが、案の定杏奈は首を縦に振った。
─誰なんですか?
─柴崎先生。上沢のクリニックに勤めている産婦人科の先生だよ。あかつきのクライアントの問題についても、時々相談に乗ってくれているの。
─なんですと?
とは、杏奈は口には出さなかったが、心の中で叫んだ。耳を疑いたい気持ちだった。
─ここにスタッフがいた頃は、みんな、柴崎先生と呼んでいたよ。
だから杏奈にも、そのように呼ぶように、という意味を込めて美津子は言った。
確かに以前、産科の問題に関してはアドバイスをくれる顧問医がいると、美津子が言っていたような気がする。
─あれが、医師?
不躾で、失礼で、冷たい目をした、高圧的な男。
珍しく分かりやすい反応─雷に打たれたような、衝撃的な表情─をしている杏奈を見て、
─何かあった?
杏奈は急いで首を振ったが、その様子から、何かあったことは間違いなかった。
─そんな。ここの顧問医だったら、またあの先生に会うかもしれないってこと?
杏奈は絶望的な思いを心の中で呟き、悶々とした気持ちになった。会うたびにあんなことを言われたのでは、心が折れてしょうがない。
はあ~とため息をつき、明らかに落胆した表情を見せる杏奈を見て、美津子はますます訝しんだ。
「背の低い、ポニーテールの女の子がいたでしょう」
そこで、美津子は重ねて順正に尋ねた。
「話をしなかった?」
「ほとんどしていない」
「少しはしたのね」
順正はほとんど真顔のまま、
「やる気のない顔で、のろのろと雑な仕事をしていたから、一言据えてやった」
「何を言ったの」
「忘れた」
話が前に進まない。
順正の脳裏に、あの日の杏奈の様子が少しだけ蘇ってきた。死んだような目をした女だった。やる気がなさそうに見えた。だから…
「自分の仕事を信じてないのに、クライアントから限りある時間と財産を巻き取るなんて、詐欺も同じだ」
というようなことを言った気がする。順正は思い出したことをそのまま声に出した。
美津子は呆然とした。ほとんど会話をしていないと言っていたのに、いったいどういう文脈で、そういう言葉を吐くことになるのか。
「順正」
美津子は珍しく、前のめりになって、
「あなた、私の前でそれを言うの?」
すると順正は、虚空を捉えていた視線を、初めて美津子に据えた。詫び入れることも、失言を撤回しようとする意思も、少しもなさそうな様子だった。
「ミツは、別だ」
いかにも当然、というように答える。
「ミツに便乗しているだけの人が、勘違いを起こしては困るだろう」
「あなたはアーユルヴェーダを仕事にする人を、ずいぶんと嫌うわね」
「軽率だと思っているだけだ。簡単に医療をうたう」
「日本では医療ではないわ」
「そのくせ代替医療だとかなんとか言って、病人を惑わすだろう」
「そんなこと、うちのスタッフがいる時には絶対に言わないで」
美津子の声は穏やかだったが、否とは言わせない気迫があった。
「順正。わたしたちが向き合う病人は、病院に来る病人とは、少しちがう」
彼らには、猶予がある。
アーユルヴェーダでは、病気は六つの段階(六つの病期:Shad Kriya Kala)を踏んで起こると考えている。
六つの病期とは。
1.サンチャヤ(蓄積) Sancaya
質の悪い生活、精神と感情の乱れ、不健康な食生活、その他のドーシャを乱す要因から、ドーシャが過度に増大する。
2.プラコパ(悪化)Prakopa
ドーシャは増大し、症状が増す。
3.プラサーラ(拡敵)Prasara
ドーシャは居場所から離れ消化管を通って、ラサ、ラクタ、他のダートゥ、臓器を含む体の部分に留まる(※ダートゥについては別のエピソードで取り上げる)。症状は、まだ局所的で全身性ではない。
4.スターナサムシュラヤ(定着)Sthana samsraya
バランスの乱れが医療検査の結果に現れて、診断が下されることが多い。症状は一カ所に留まっているが、一方ではこれに先立って、症状が変動したり転移したりするかもしれない。このドーシャの移転が、ダートゥの性質的な衰弱を引き起こす。
5.ヴィヤクティ(病気の発症)Vyakti
病気が明らかに存在する時。この時点ではまだ反転可能であるが、おそらく、いくつかの障害がある。
6.ベーダ(慢性化)Bheda
病気にはそれぞれの特徴がある。この段階に関しては異なる見方があり、この時点では反転不可能であると言う人もいれば、反転可能と言う人もいる。この場合は、個人の心身へのダメージと、個人の感情の状態によって違いが生じる。
現代医学は、一般的に病気の後期段階に焦点を当てているが、後期の段階では自分自身でバランスを整えるのは少し難しくなる。自然治癒が難しいのだ。
そのため、アーユルヴェーダは六つの病期の初めの段階「前兆症状」の時点で身体の異変に気付き、問題の原因を根こそぎ排除することを重要視する。
あかつきは、心身への意識を高くし、前兆を感じ取り、対処することをクライアントに促す。
「私たちは、心や体に不調がある人が、病院に行かなければならない事態になる前に、それに対処する方法に気付いてもらいたいだけよ」
「もしそんなことができるなら、医者は暇になるな」
順正のもの言いは静かだったが、痛烈な皮肉であった。
現状はどうだろう。病院から病人は減ることがない。精神的にも肉体的にも、現代人は、様々な症状に悩まされている。
アーユルヴェーダやヨガを行う人が増えると、病人が減るという反比例が、数値として実証されているだろうか。エビデンスがあるのだろうか。たとえば小規模なサンプル調査の結果、特定の疾患に対しヨガやら、アーユルヴェーダの施術やらの有用性が結論付けられている研究も、なくはないだろう。しかし、大局を左右するには至っていないと思う。
ヨガはともかく、アーユルヴェーダは市民権をまだまだ得られていない。それほど有用なものではないからなのか。それとも、この古代の伝統医療を扱うヒーラーたちが、真の力を会得しないまま、中途半端な仕事をしているだけなのか。
順正の皮肉を受けて、美津子は、これ以上この会話を続ける気力がなくなった。
「少し時間ある?」
美津子は隅に追いやっていたノートパソコンを手繰り寄せ、
「相談に乗ってほしいことがあるの。十一月下旬に滞在予定のクライアントで…」
不妊治療を行っているという女性だった。
美津子からのいくつかの質問に答え、それが終わった後に、順正は腰を上げた。
「帰る」
「もう行くの?」
書斎の方へ向かう順正を、再び美津子は追った。
「お昼まだなんでしょう。やっぱり、なんか食べて行ったら」
「いらん」
「あなた、普段ちゃんと食べているの?」
骨ばった順正のフェイスラインが、美津子は気になる。
「食べると体が重くなる。山を登るのに不都合なんだ」
「食べてすぐ動かなければいいのよ」
山に登るならエネルギーが必要だろうに。
しかし順正はかぶりを振るばかりだった。ハンガーからジャケットを外して羽織りながら、
「昼に取ってる弁当が重くて、仕事の日は食べすぎる。休みで調整する」
「食べすぎているようには見えないけど」
順正は美津子のほうをふり向くと、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。そこから、長い紐がずるずると出て来たので、一瞬美津子は、山で使うロープをいきなり取り出したのかと思った。その先端には、二つのゴールドの金具がついている。順正はそれをいかにも受け取れというように美津子の前に掲げた。
「なに、これ」
順正はふっと相好を崩した。
「分からんのか」
「あ…スマホストラップ」
美津子は受け取ると、グレージュの紐を見つめながら、それを手でなぞった。柔らかく、触り心地が良い。
「どうしたの?」
「橘の奥さんがその紐を織るのが好きだというから、作ってもらった。その、なんとか編みの…」
「マクラメ編みね」
美津子は顔を綻ばせて、ストラップを見つめながら、ずっと前に自分がスマホショルダーを買おうかどうか悩んでいたのを、この男が覚えていたのを嬉しく思った。
「くれるの?」
「もう別のを持ってるなら、使わなくてもいいよ」
遠回しにくれると言ったのが分かって、美津子はストラップを肩からかけた。
「ミツの使ってる機種がわからなかったから、ケースは頼まなかった。自分で買ってくれ」
「ありがとう。橘さんに会ったの?」
橘とは、順正が学生の頃から懇意にしている産科医で、今は名古屋の大きな病院で勤務しているのではなかっただろうか。
「同じ学会に来ていたから。面倒くさい飲みに付き合わされたよ」
順正は苦笑を浮かべてそれだけ言うと、美津子がストラップを眺めている間に踵を返して、すたすたと玄関へと歩いて行った。
「順正」
美津子は慌ててその後ろ姿に呼びかけた。
「また寄って」
「戻しといて」
順正は玄関の扉を開けると、南天丸の給水器を取り、美津子に差し出した。そして美津子が次の言葉を継ぐ前に、戸をパタンと閉めた。
いつもより多く肉を食べたからか、杏奈はすでに胃もたれを感じていた。
りんごを焼いていた焚火台で、今度は子供たちがマシュマロを焼き、クッキーに挟んで食べている。安藤と瑠璃子がその子供たちに付き添っていた。
「よく足込町に移住する決心をしましたね」
テーブルの上を片付けながら、沙羅が羽沼に話しかけている。七瀬は先ほどようやく眠ったところで、今はベビーカーの上ですやすやと寝息を立てていた。
「僕、田舎好きなんですよ。ここに来る前は海辺に住んでたし、自然が好きなのかなあ」
この間は棚田を見に行ったし、気候が良い時期には、しょっちゅうツーリングをしている。
「でも、せっかくだから、次は登山とか、岩登りとかもやってみたいな」
「岩登り?クライミングですか?」
東京オリンピックで新しい競技になったこともあり、沙羅もなんとなくどういうスポーツかは知っていた。
「うん。明神山に、登れるところがあるんだって」
マシュマロサンドクッキーを食べている安藤にも、その会話は聞こえているらしい。
「羽沼、外岩行く前に、ジムで練習したほうがいいよ」
と、後ろを振り返って忠告した。
「ああ。今度ジム連れてってよ」
「晃に頼みなよ」
今日は来そびれてしまった前原のほうが、クライミング好きである。
「それに、ジムは一人で行く人も多いよ。外岩はそうはいかないけど」
「安藤さんも、登山やクライミングが趣味なんですか?」
沙羅は、今度は安藤に尋ねた。安藤は口を動かしながらかぶりを振る。
「昔はそれこそ、瑠璃子や晃と一緒に山の中で遊んでたけど、大人になってからは、趣味っていえるほどはやってないですね」
テーブルの上を片付けながら、杏奈は瑠璃子を振り返った。子供を監視しつつ、マシュマロを焼いている。瑠璃子は脚のラインがくっきりと分かる黒いパンツに、カーキのフリースという、アウトドアな恰好をしていた。運動神経は良さそうだが、こんな美しい女性が、その幼少期、山の中で男の子たちと一緒に戯れていたとは想像がつかない。
「うちのオーナーが、常々、ネイチャーガイドができる人を探していますよ」
唐突に沙羅から熱っぽい目線を向けられ、羽沼はたじろいだ。
「なんで僕の方を見るんですか?」
「うちの施設、せっかく森林セラピーができそうな山が近くにあるのに、ガイドができるスタッフがいなくて」
「そんなに難しいことをするの?」
植生やら、山中で出会える虫やら、動物やらの話でもしないといけないのだろうか。
「いいえ。でも、スタッフには登山の経験と知識がないので…よく考えたら、スキルを持っている人にお願いするのも、アリですよね」
沙羅は同意を求めるように杏奈を見た。
「そうですね。今にわかに登山をしたとしても、クライアントを連れていくだけの自信ないですね」
確かに、いつか自分がその役を担えるように、そのうち山に登りたいと思っていたが、自分には荷が重い気がする。
─仕事熱心だな。
羽沼は感心したが、内心、ちょっと呆れた。杏奈といい、沙羅といい、なぜかあかつきというサロンの従業員たちは、話を仕事に結びつけたがる。それだけ、いつもあかつきのことが頭にあるということか。
「そういうので金が出るなら、おれがやりたいくらいだけどね」
意外にも安藤が手を挙げた。
「本当ですか?」
沙羅はぱあぁっと明るい表情になる。
「うん。まあでも、金が発生したら、立場的に無理かもしれんな」
杏奈と沙羅は首を傾げる。
「学校の先生は副業だめだろうね」
安藤の言う意味を、瑠璃子が補足した。
「瑠璃子の部署って、山のガイドができるシニアと繋がってないの?」
「なんでシニアなのよ」
「よくいるじゃん。観光地でシニアガイドのたすき着て案内してるじいちゃんたち」
確かに、城やら景勝地やらに行くと、そうしたボランティアの姿を見ることがなくもない。
しかし、瑠璃子は首を振った。
「部署の中の誰かは知ってるかもしれないけど、私は知らない。うちの課がやってることの七割は、観光っぽくないことばっかりだし」
瑠璃子が所属する地域振興課は、町の総合計画の策定やそれに向けた住民意識調査、広報の作成、ホームページの管理、観光・イベント等に係る地域住民との連携、移住者への情報提供、起業応援プロジェクトの補助金関連業務、足込町の伝統行事を研究している大学関係者とのやり取りなど、様々な業務を行っている。瑠璃子はちょうど、観光に関わる部分の担当から外れていた。
「そうなんだ。じゃあ何してるの?」
「空き家の調査とか、高齢者の交通手段確保の問題とか、いろいろあるのよ」
沙羅は、校区の運動会の後、瑠璃子が話していたことを思い出した。
「地域の人が自家用車を使って、近所の人を送り迎えする体制を整えてるんだよね」
「うん。でもやっぱり、タクシー会社との交渉がうまくいかない」
「マジか。足込町なんか客がいなくて、逆に撤退したいって思いそうなもんだけどな」
安藤が信じられない、とばかり顔をしかめる。瑠璃子は頷いた。
「ほんとよ。現にほとんどのタクシー会社が利益があがらなくて、撤退してるの。あと一件だけ」
「へぇ…」
振興課は振興課で、難しい仕事をしているようである。
杏奈は今年の夏、美真と一緒に汗を流しながら、あかつきから善光寺までの長い道のりを歩いたことを思い出した。そういった地域住民の力を借りられるサービスがあれば、割安で、もっと快適に移動できたのだろう。
過疎地域の問題を、初めて間近で見聞きした気がした。
「憂鬱なこと思い出しちゃったわ」
瑠璃子は、近くにいた安藤を、マシュマロを刺していた棒で小突いた。
「どうしてくれんのよ」
「いてッ」
安藤はとばっちりを受けた。万里子はその様子を見て、悪戯っぽい笑い声を出し、手ごろな木の枝を拾うと、安藤の背中をつんつんとつついた。
「危ない。やめなさい」
安藤は枝を手でつかみ、万里子に注意をした。
「あーあ。母親が悪い手本を見せるからだ」
「うるさい」
瑠璃子は安藤のグレーのパーカーのフード部分を引っ張ると、ばさっとかぶせた。その拍子に安藤の上半身は地面に対して水平に近づき、すかさず万里子が背中にのしかかった。快は万里子に便乗することができず、すったもんだしている場所から逃げ出し、沙羅に駆け寄った。
─親子そろって、気性が荒い…
沙羅は快を受け止めながら、三人の様子を見て苦笑した。
「万里子ちゃんは、安藤くんに慣れてるね」
羽沼も三人を見ながら、ゴミ袋の口を縛る。
「お母さんが気を許している相手には、子供も安心するんですよ」
沙羅はそう言いながら、快の頭を撫でた。
瑠璃子と安藤は幼馴染だし、もしかしたら、万里子も何度か、安藤と会ったことがあるのかもしれない。
─瑠璃子はバツイチだよ。
羽沼は今日の誘いを受けた時、安藤が言っていたことを思い出す。ちらりと横目で瑠璃子を見ると、勝気そうな顔に笑みを浮かべて、娘と一緒になって、安藤をいじめている。
アウトドアな恰好をしていても、彼女は変わらずに美しい。こんな田舎にいるのが不思議なくらいの美人であった。
─瑠璃子が出戻った時、同級生の間でしばらく話題になったもんな。
安藤はそうも話していた。他人のそういう話は、ネタになるらしい。
瑠璃子は仕事もでき、話し方もさばさばとして、気取らない。娘思いであるようにも見える。
─瑠璃子くらいの美人が嫁でも、離婚しようっていう男もいるんだな。
信じられない、と言いたげな様子で、安藤はつぶやいた。
しかし、相手がどんなに社会的に認められていようが、資産があろうが、美男であろうが美女であろうが、抜き差しならない理由で、離婚に踏み切ることはあるものだ。
唐突にこちらを見た瑠璃子と目が合った。男勝りで勝気な瑠璃子の性格とは反対にも思える、垂れ気味の、優し気な目。
羽沼は急いでその目から視線を逸らした。
栗原神社の神門の前で、またもぐう爺は出待ち状態だった。
「あ、先生!」
遠くに順正と犬の姿を見とめて、ぐう爺は水を得た魚のように走り出す。
「宮司、暇か」
順正はぐう爺のほうは見もしない。ぐう爺は照れ笑いを浮かべながらもそれには答えず、
「先生。またあかつきに行っとられたんですか?」
「何か問題あるのか」
─くう~っ。
この不躾な先生の返しがたまらんとばかり、ぐう爺は心の叫びを挙げた。
─やっぱりじいちゃん、変態だなぁ。
その様子を神門の近くで見ていた小夜は、表情をほとんど変えずして、心の中でつぶやいた。
「先生、あかつきばかりでなく、うちにも少し寄ってくださいよ」
「用がない」
「先生。あかつきには、なんのご用があるのですか?」
順正は、しかし、それには答えず、自分より頭二つ分ほども背が低いこの老人を睨みつけた。とたんにぐう爺は後ずさる。
「余計なことを申しました」
ぐう爺はおそるおそる、でも好奇心に満ちた目で、順正の顔を見上げた。
順正はジャケットの襟に口元を埋めており、もともとほとんど表情を見せないが、さらに表情が分からなくなっている。けれども、その涼やかな目元を拝めただけで、ぐう爺はまた少し寿命が延びた心地がした。
その時、袂をゆすぶられるような感覚がして、
「おおっと」
ぐう爺はまた慌てて後ずさった。南天丸が、何かをうったえるように、鼻先を押し付けてくる。
「な、なんだ」
南天丸は、吠えないし、よく躾けられた賢い犬だ。決して人を噛むこともないのだろう。しかし、その精悍な顔で詰め寄られては、南天丸に何度も会っているぐう爺でも慄いてしまう。
人への関心が薄そうな男なのに、なぜかこの犬はいつも一緒にいる。羨ましいようで、順正と一日中一緒にいるのも、それはそれで窮屈そうだとぐう爺は思う。ちょうどいい距離から眺めているのが一番いい。
「次はいつ来てくれるんですか?」
まるで恋人に尋ねるような口ぶりに、順正はうすら寒い思いで眉根を寄せながら、
「知らん」
相手にしないような返答だったが、実際、本当に分からないのであった。
「行くぞ」
その一言を待っていたとばかりに、南天丸はしっぽを振って、順正の前を、後ろを、つかず離れず歩く。
「あーあ。行っちゃった」
「じいちゃん」
肩を落とすぐう爺に、そっと小夜は近づいた。
「こっそり先生を写メっておいたよ。斜め後ろからだけど…見る?」
「なにぃ!?」
ぐう爺は、孫である巫女の袂をぎゅっと握って詰め寄り、スマホを覗き込んだ。
「おお~!」
目を大きく見開くぐう爺の横で、小夜はうっとりと夢見るような顔になって、
「ああ…いいなぁ。男ほしい…」
「ああ?」
ぐう爺の顔の輝きは急に消え失せ、目を細めて孫娘の顔を見やった。この装束の時に何たる発言をするのだろう。
ご神木に体を半分隠して、二人の様子を見ていた者がある。
─じいさん。それに我が娘、小夜よ。
ぐう爺の息子であり、小夜の父親。紫色の袴を履いた、栗原神社の神主だった。
─いつか捕まるぞ。
あらゆる意味で。
ザザっと、風に木の葉がすれる音がする。
栗原神社の参道から山道に移り、杜が森になると、より濃い土と木のかおりがした。ここ数日雨が降らないので、木の葉の絨毯を無造作に踏んでも、足を滑らすことはない。
「南天丸」
順正は、いささか呼吸を荒くし、しっぽを振っている南天丸を見下ろす。
南天丸は、黒い真珠のような瞳を順正に向けた。耳が立ち、主人を催促するように、舌を出して呼吸を荒くしている。
─嬉しそうだな。
順正は心の中でつぶやいた。南天丸がはしゃいでくれれば、ここに来た甲斐があったというものだ。
「あまり離れるなよ」
この凛々しい犬と突然出くわしたら、登山客は大いに驚くだろう。普段はあまり人気のない明神山も、紅葉のシーズンには、ちらほらと登山者の姿を見かける。
南天丸は、しかし、順正のその一言を合図と受け取ったのか、山道を走り出した。順正もそれに続く。
南天丸は土中からのぞく木の根を巧みに避けながら、最初の緩やかな上りをどんどん登っていく。ジャケットはすぐ不要になった。順正は脱いだそれを小脇に抱え、南天丸の後を追う。決してトレイルランニングをするような恰好はしていないのに、それに近いようなスピードで走っていく。
ちらちらと、紅葉したカエデやブナの葉が舞っていた。
南天丸は順正の先を走りながら、時々停滞し、順正が追いつくのを待つ。待っている間、南天丸は鼻を地面に押し付けていた。顔を後方に向けなくても、においで、どれくらい離れているのかが分かるのであった。
「馬の背へ」
とある分岐に差し掛かったところで順正はそう指示した。馬の背のルートにはガレ場があり、難易度が高いと言われているので、登山者は滅多に見ない。もっとも、もう十四時を過ぎている。登山客が一番多いのは早朝か午前中だから、別のルートを行っても、誰かとすれ違う可能性は低いだろう。
大きな岩を巻くように続くトラバース道を駆けながら、視界が開けてくると、順正ははるか向こうの山の稜線に視線をやりながら、深く呼吸をした。奥三河の緩い山の稜線は、今は深い緑だけでなく、ところどころ黄色やオレンジ、茶色に色づいている。風を遮る木立がない岩場に出ると、冷たい風が順正の痩せた頬を撫でた。登り始めは空気が冷たくて、鼻がむずがゆくなることもあるが、慣れてこればこの冷たい空気ほど心地いいものはない。一定の呼吸で登っていけば、そう苦しいと感じることもない。
─あの宮司…
走りながら、順正は心の中で毒づいた。二度もぐう爺に足止めを食らった。そうでなければ、もう少し早く帰途につけたものを。
けれども、このスピードで山を駆け抜けるのも、悪くはなかった。日が暮れる前には下山できる。ここ最近山から足が遠のいていたため、なまった身体に鞭打つにもちょうど良い。
山の頂上を巻く馬の背ルートが主要登山道に合流すると、道には色とりどりの葉っぱが落ち、その下の土が見えないほどになっていた。
順正は落ち葉の絨毯が敷き詰められた山道を南天丸と共に走り下った。
あかつきへ向かう林道への分岐で、杏奈は沙羅の車から降ろしてもらった。沙羅に遠回りさせないためでもあったが、少し食べ過ぎたので、わずかな距離でも歩きたかった。
夕暮れまでにまだ時間がある。
杏奈はあかつきの門を通り過ぎ、そのまま栗原神社へと向かった。
集団の、それも知らない人たちと食事をするのは、杏奈の苦手分野だった。けれども、今日は不思議なほど、息苦しさを感じなかった。沙羅という橋渡し役がいたのと、子供たちの存在が大きい。
それにしても、幼い子供たちを見守りながら食事をするというのは、ひどく大変そうだった。
─沙羅さんは、いつもあれを一人でやりながら、合間で仕事に来ているのか。
職場にいた方が、ゆっくりお茶が飲めると言っていた沙羅の言葉が分かる気がする。
ところで、沙羅は独身の男女四人に、良縁があればと思い今日の企画をしたのだが、杏奈はといえば、もしかしたらそういう意味があるのかもしれないと思いはしたけれど、何かを進展させたいとは思っていなかった。
杏奈は、手順を踏んでいるところである。納得のいく仕事をして、自己評価を高めてからでしか、誰かを好きになったり、ましてや好きになってもらったりなど、できないと思っている。
だから、杏奈にとって今日の一番の収穫は、行き詰っていたホームページの運用について、良き相談相手を得たことだ。
飾り気のない、優しそうな男。けれど、どこか憂いがある。
─あの人は、なぜ…
羽沼は、なぜ、あのような丸太小屋に住み、動画製作を行っているのだろう。
─誰のために、何のために。
杏奈は神社へと向かう道すがら、様々な思考を巡らせたが、先日から自分が抱えている問題からは逃げてばかり。
─詐欺じゃない。
─まるで詐欺だな。
アーユルヴェーダを通して、身体的、精神的問題の緩和や解決につなげるなど、自分には手に負えない夢なのか。
自分に今できることといえば、たかだか食生活の見直しを進言することくらいだ。それにしても、専門の教育を受けたわけでもなく、資格もないまま、あくまでアーユルヴェーダの視点から、個人的な意見としての提言に過ぎないのだ。施術の知識と技術もない。催吐法や瀉血法など、アーユルヴェーダ独自の治療法をあてがえるわけでもない。
アーユルヴェーダという言葉すら覚えられない家族の顔が脳裏に浮かぶ。
─アーユルヴェーダで人の何かを変えられると思うなんて、どうかしてる。
きっと、多くの人が、最初からそう思っていたのだ。
この業界の先達や、現代医療の医師の言葉は、忠告にも思えた。
─危機感を持たないと、多くの人が認識している通りになるぞ。
はじめて、明確な言葉で突き付けられ、はっきりと認識させられた。
─どうすればいいのか…
気持ちが急く。しかし、師である美津子は、急いで何かを成し遂げさせようという様子は見られない。時々、課題が出されることはある。それもひどく難題だ。
いつのまにか、杏奈は花神殿の前まで来ていた。
美津子はヨガの四つの道のうち、バクティヨガは、神(または自分の中での神的な存在)への献身であり、神への愛と尊敬を表現する行動がそれに含まれると言っていた。美津子はバクティヨガを知っていて、花神殿に供物をし、祈るようになったのだろうか。それとも、祈りが先であって、後から、この行いが何に当てはまるか考えた時に、バクティヨガが浮かんだのだろうか。
ヨガは、意識的だろうが、無意識的だろうが、日々実践する機会があるものなのである。
─世の中には、ヨガをしたいと思っていないのに、自然とヨガができている人もいるというのに…
杏奈が考えるとヨガとは、ここでは、社会貢献のことであった。社会貢献はヨガに含まれるかもしれないが、ヨガが意味するところはそれだけではない。しかし、杏奈にとって、今一番気がかりなのが、自分の仕事は社会的承認を得るに値しないのではないか、ということ。だからこそ、念頭にその四字熟語が立った。
杏奈は花神の前で、大きく息を吸った。
「はあ~っ」
ため息が出そうになったところで、後ろで誰かのため息が聞こえ、びっくりして振り返った。痩せた、白衣に白い袴を履いた老人が、椅子に座った状態で、花神殿の壁に背中をもたげていた。美津子が度々話題にしていた、神社のトップであるというおじいさんだ。杏奈は面接を受けに来た時、すでにこの老爺に会っていたが、最高責任者であったと知ったのはその後のことである。
─栗原神社の宮司さまは、ゴツコラジュースを好んでおられる。
杏奈がまだあかつきに来て間もない頃、美津子はそう言って、たびたび神社へそれを持って行った。夏には、瓜漬けや瓜のコンポート。そして最近は、ギーに浸したデーツ。花神さまに供えられた物は、そのままおさがりとして、神社の者の口に入る。美津子は花神さまへの供物を作りながら、ぐう爺の嗜好も考慮に入れていたに違いない。
「お」
ぐう爺は、ぴょん、と身軽に椅子から降りて、杏奈のすぐ近くまで歩み寄った。
近くで見ると、ぐう爺は眉毛まで白く、折れそうなほど細かったが、血色が良く、きらきらとした目をしていた。
「お前さん、美津子さんとこの若い子だな」
「あ、はい。杏奈といいます」
「今日はなんだ。美津子さんの代わりにお参りか」
「いえ。代わりというわけではなく…」
腹ごなしの散歩の途中である、とはさすがに言いかねた。
杏奈は、ぐう爺がスマホを手に持ったままなのに気付いた。何かを見ていたらしいが、この和装の老人とスマホという組み合わせが、どうもちぐはぐに見えて可笑しかった。
ぐう爺は、杏奈の視線に気づいて、スマホをさっとしまう。
「いかん。煩悩を滅したはずであったのに、なぜ」
ぶつぶつと独り言をつぶやくぐう爺はそっとしておいて、杏奈は花神さまの前で手を合わせた。
アーユルヴェーダの道を行く。そう決めたのに、人からの指摘で、こうも気持ちが上下してしまうとは。
「はあ…」
自然に、ため息が漏れていた。
ぐう爺はそんな杏奈を尻目に外へ出た。薄暗い境内には、人の姿はない。ぐう爺は花神殿の前の石段の上に、腰を下ろした。
「お願いごとか」
やがて花神殿から出てきた杏奈に話しかける。
「…やりたいことがあるのですが、意志が弱くなってしまって…」
意志を強化できるようにと、力を貰っていたのだ。
「ほう」
ぐう爺は煩悩ゆえの心のざわつきを紛らわすために、この女の相手をするのも悪くないと思った。
「意志が揺らいでいるのか」
「…分かりません」
「何かあったのか?」
杏奈は少し迷ったが、ぐう爺の後ろ、一つ高い位置の石段に腰を下ろして、心境を述懐した。
「なるほど。自分のしていることを信じられんのか」
ぐう爺は話の内容を簡潔にまとめた後で、ちらと後ろの杏奈を振り返り、目を細める。
「お前さんは、若いのに、なーんか元気がないな」
「…よく言われます」
杏奈は苦笑いした。
ぐう爺は見た目にそぐわぬ軽快さで、すっくと立ち上がった。
「信じられんのなら、信じるに足るほどの結果を、出すまでのことよ」
「結果…」
何が結果になるのだろう。美津子に、お前はこのあかつきになくてはならない存在だと、言われることだろうか。杏奈の提案した食事により、体調が良くなったと、クライアントに言われることだろうか。
「なあンだ、また、辛気臭い顔をして」
「いえ。何が結果なのか、分からなくなってしまいまして」
「分からぬままでも、一歩ずつ進め」
ハキハキと、歯切れよくぐう爺は話した。
「山の麓にいては、ピークは見えんものだ。しかし、一歩ずつ歩みを進めていくうちに、いつかピークに辿りつく」
杏奈はぐう爺のよく動く口元を見つめた。梅干しを食べた時のような口元をしている…そんなことを、ぼんやり考えながら。
「山が険しいからといって引き返しては、いつまでもピークに達することはできんよ。しかも、そのピークはニセピークであることもよくあるしな」
「ニセピーク…」
ぐう爺は、山登りにたとえているらしい。頂上に達したと思ったら、頂上ではなかった。頂上につながる途上にあるコル(小ピーク)だ。でもそれは、小さな頂上に到達しなければ、分からないかもしれない。
「同じように、これを得たら何かが変わると思っていた結果が出ても、まだ足りなかったと気づくことはあるものだ。それでもピークには近づいている」
ぐう爺は杏奈に向き直って、にやりとした。
「一番悔やむべきなのは、道が合っていないのではないかと疑って、登るのをやめてしまうことだ。だからその道がピークに繋がっていると信じて、やみくもでも前へ歩むことだよ」
杏奈は、目を見開いて、ぽかんとしている。それをぐう爺は、感嘆と受け取った。
─決まった。若者の背中を押したぞ、わし。
が、感嘆したはずの女は、ぐう爺ではなく、東の方向…緑が深くなる、明神山のほうへと目を向けていた。
明神山からは、深い森のにおいと、美しく色づいた落ち葉をのせて、冷たく澄んだ風が流れてくる。
「山の麓で神に祈るのも良いが」
ぐう爺は、満悦感を抱いたまま、さらに杏奈に助言をする。
「花神さまは明神山の山腹にも祀られておる。平地で神に祈るのは、たやすい。しかし、より覚悟を固めたいのなら、明神山に登ることだ」
「明神山に?」
「ああ。明神山に登ると、自己の魂に近づくという言い伝えがある」
「魂…」
ぐう爺はどこか誇らしげに頷いた。
「登ってみれば、分かるよ」
夕食の席で、杏奈はいつもより饒舌だった。
ウィングチャンネルの管理者と、ホームページの予約・決算機能に関して、後日改めて話をすることになったこと。沙羅の娘たちは、お転婆すぎることはないが、大人しすぎもせず、可愛い子たちであったこと。沙羅が子育ての合間に仕事に来ることは、よほどの熱意がなければできないと思ったこと。栗原神社で、ぐう爺から言われたこと。ただし、自分が悩みを述懐したことは伏せて。
あかつきの外で人と交わったことにより、話題を得られたのだ。それだけで、美津子は今日、杏奈が外出して良かったのではないかと思う。
「明神山に登るのは、いいと思うけれど」
美津子は時々相槌を打ちながら、今日も静かに食事をしていたが、最後の話を聞いた後で、少し心配そうな顔をした。
「山に登る前には、必ず私に伝えてね」
「はい」
低山と言えど、十一月は、すでに冷え込む。山登りの経験がなさそうな杏奈が登るのなら、十二月上旬が今年の限界だろう。その後は、暖かくなるのを待った方が無難だ。
美津子の助言もあり、杏奈は本格的な寒さが到来しないうちに、明神山へ登ることに決めた。
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