「普通の太白ごま油の施術にして正解だったわ」
あかつきの施術着、二部式着物に前掛けという姿をした美津子は、キッチンで杏奈の入れた白湯を飲んだ。
「薬効のあるハーバルオイルは、毒素が溜まっている状態では、逆に体に負担をかける」
その薬効は、今の状態では栄養として届かないばかりか、消化できず体に留まる可能性もある。
美津子はコップを置き、昼食の後片付けをしている杏奈に言った。
「あなたのキッチャリーが、功を奏すると良いのだけれど」
杏奈は拭いた食器を調理台に起きながら、美津子の目を見て、こくんと頷いた。
「キッチャリーのことは、話では聞いたことがありました」
夕方、四時四十五分。仁美はキッチンのコンロの前で、杏奈にそう話した。
「一か月それを食べ続ければ、どんな病気も治ってしまうって」
杏奈は苦笑いをした。
「そうだといいですね」
試して成功したわけではないから、その言い伝えに安易に頷くことはできない。
「作り方は簡単です」
調理台の上に乗っているシンプルな材料の数々を、仁美に見てもらう。
・バスマティ米
・イエロームングダル
・ギー
・水
・ヒマラヤ岩塩
・ターメリックパウダー
・クミンシード
・ヒング
それから、さつまいもと人参に、葉物野菜。
「バスマティ米とイエロームングダルを、ボウルに入れて洗ってください」
杏奈は指示を出すだけで、調理は仁美が行う。
仁美は身長百六十センチ、体重、七十五キロ。杏奈や小須賀が通れば広く見える通路も、仁美が通ると急に狭く見えた。
「どのくらい洗いますか」
「白い濁りがなくなるまでです」
杏奈は答えた。
「できました」
仁美は肉付きが良い。目はくりっと大きく、鼻筋が通った顔は、意外なほどにかわいらしい。髪の毛はうねりがあり、胸に届くくらいの長さ。今は後ろで一つに束ねている。
「本当は一時間以上浸水させたほうが、煮えやすいです」
ご自宅ではそのようにしてくださいと杏奈は伝えた。
「さつまいもをさいの目切りにしましょう。圧力鍋で煮ると形が崩れやすいので、少し大きめに」
圧力鍋と、普通の鍋、どちらを使うかによって、野菜やスパイスを入れるタイミングが微妙に異なるが、手順はほぼ同じである。
圧力鍋に米、豆、水、ヒマラヤ岩塩を入れ、火にかける。
「ターメリックを少し入れてください」
「このくらいでいいですか?」
仁美は計量スプーンに半分くらい取って、杏奈に見せた。
「良いと思います」
ターメリックを入れると、水面にぱっと黄色い粉が広がった。
「ターメリックは、天然の抗生物質と言われ、抗菌作用に優れています。ムングダルをはじめ、様々なたんぱく質の消化を良くしてくれるんですよ」
ターメリックには、クルクミンという優れた効能を持つ成分が含まれ、他にも、肝機能向上、生活習慣病の予防など、様々な効能が期待されている。
「ターメリックを摂ってはいけない人もいるんですか?」
「妊娠の可能性があるか、妊娠中の人、肝硬変の方は気を付けた方が良いです」
次に、ヒングを二振り入れる。
「これはガスを取り除いてくれるスパイスです」
ヒングのにおいをかいだ仁美は、びっくりして咳込んだ。
「大丈夫ですか?」
「すごいにおいですね」
「すみません、言うのを忘れてました…すごいにおいなので、気を付けてくださいね…このスパイスはそのにおいから悪魔の糞と呼ばれています」
すんなりとそう言う杏奈の背後で、仁美は呆然とした。杏奈は仁美のその表情に気が付かないまま作業を進める。
「煮えにくい野菜を入れて、加圧調理しましょう」
さつまいもと人参を投入し、そのまま一分ほど煮立たせる。
「蓋をしてください」
ピンが上がったら、十分ほど加圧調理する。その間、杏奈は仁美に一枚のレジュメを渡した。
「アグニという概念をご存知ですか?」
「はい。消化力ですね」
杏奈はキッチャリーが出来上がるのを待っている間、心と身体の不調と消化力の関連性について解説をする。
「アーユルヴェーダでは、消化力が弱まると、体に毒素が溜まり、それがすべての病気の素となると考えています」
この毒素のことをアーマという。体の中にべっとりと溜まっている、ヘドロのようなものだとされる。
「消化力が強い時、私たちは、食べ物を適切に消化することができます」
たとえそれが、健康的かどうかという視点で見た場合、不完全なものであっても。
「アーユルヴェーダでは、体を構成する七つの組織があると考えており、形成される順番が決まっていますが、アグニが弱い時、体を構成する七つの組織にも、栄養が行きわたりません」
アーユルヴェーダでは七つの体組織(ダートゥ)を捉えている。
一.ラサ
乳糜、リンパ、血漿を含む体液。
副次組織は母乳、月経血。
老廃物は痰、粘液。
二.ラクタ
赤い血液細胞。
副次組織は血管、腱。
廃棄物は胆汁。
三.マンサ
筋肉組織。
副次組織は靭帯と肌。
廃棄物は耳垢、鼻水、へそごめ、耳垢など、体の開口部に蓄積するもの。
四.メーダ
リンパと胴の中の脂肪。
副次組織は腹膜。
廃棄物は汗です。
五.アスティ
すべての骨。
副次組織は歯。
老廃物は体毛、ひげ、爪。
六.マッジャ
神経系、骨の中にあるあらゆるもの。
副次組織は髪。
老廃物は涙です。
七.シュクラ
男と女の性液。
オージャスを形成し、オーラを発生させる。
免疫力にも密接に関わる。
副次組織や老廃物はない。
各ダートゥができる過程でウパダートゥと呼ばれる副組織(副生物)も生成される。たとえば、ラサが正しく合成される時、副組織である乳汁や月経血も作られる。もし、月経血に量的・質的異常が認められるなら、ラサが正常に作られていないということだ。また、ダートゥの生成過程ではマラと呼ばれる老廃物も生成される。
これら一つひとつのダートゥが次のダートゥに変換される段階で、消化を担うアグニ(ダートゥ・アグニ)が存在する。各ダートゥへ供給された栄養の代謝を行うのだ。
胃と十二指腸に存在し、最も重要なアグニであると言われるジャータラグニと共に、このダートゥ・アグニの力が弱くなると、組織が適切に作られない。
貧血、肌荒れ、骨粗しょう症、安定感のない心、創造する力の欠如などといった問題の背景には、適切な消化が行われず、組織に栄養が届いていないという状況がある。
「食べ物が消化されなければ、体組織は健全に形成されず、未消化物が体の中に蓄積し、やがて毒となって体の中で悪さを起こします」
ではなぜ、アグニはなぜ弱くなるのか。それはその者が普段、悪意なくしている行動が関係しているかもしれない。
「私、絶対アグニを弱める行動しています…」
仁美は耳が痛かった。右手で口を覆い、絶望的な表情をしている。
「ですが、アグニを回復させる方法はあります」
シュワシュワと、圧力鍋から蒸気が出る音がする。
「このキッチャリーも、その一つ」
消化に優しいお粥は、胃腸を休め、浄化の機会を与える。このアーユルヴェーダ料理の代名詞的な料理を仁美に食べ続けてほしいからこそ、今ここで作り方を教えているのである。
「今のうちに、葉野菜を刻んでおきましょう」
さつまいもと小松菜は、あかつきの畑で採れたものである。
仁美は料理をするのが好きらしく、小松菜を粗みじんにする手付きもよかった。しかし、普段はなかなか料理に時間を割けていないらしい。
圧力鍋の蓋を開けると、もわっと蒸気が上がった。それとともに、バスマティ米とイエロームングダル、スパイスの香りが混ざり合った、独特なにおいが立ち昇る。
「最後はテンパリングです」
タルカパンという小さな鍋に、ギーを熱する。
クミンシードを加えて、パチパチと音が立ち、クミンが躍り出したら、お粥に加える。
仁美は十二月二十九日から一月六日まで、年またぎであかつきに滞在する。
美津子曰く、今までもそのようなクライアントは、少なくなかった。会社勤めをしていれば、長期休暇が取れるのはお正月くらい。
─お正月に仕事するのは慣れているから。
美津子は杏奈に言った。
─あなたは帰省してもいいのよ。
しかし、これからあかつきで長く働くのであれば、正月に仕事をするという状況には慣れておきたいものだ。杏奈は正月明けに、短い間だけ帰省することにした。
ところで、仁美があかつきに長期滞在を決めた理由は明確である。
─体重を落としたい。
今のような体型になって、もう十年が経とうとしている。
四十二歳、独身。名古屋近郊の日進市在住。名古屋市にあるインテリアショップの店員をしている。通勤時間は車で三十五分。仕事はシフト制で、早番の日は九時から十八時、遅番の日は十一時から二十時までが勤務時間。残業は月に十時間ほど。
体の不調を感じ始めたことから、薬膳やマクロビなどの健康的な食事法に興味を持った。健康つながりで、アーユルヴェーダのことはインスタを通して知った。しかし、知識が豊富なわけではなく、本を少し読んだ程度。
仁美はアーユルヴェーダの施術にも興味を持っているが、乱れた食習慣を整えることに、最大の関心を置いている。
─キッチャリークレンズをするのはどうでしょう。
オンラインでの事前コンサルの前に、杏奈は美津子に提案をした。
─キッチャリーか…
時々、杏奈が作るスパイス入りの豆粥である。
美津子は杏奈の提案を聞いた時、ある本の一節を思い出した。キッチャリーに関する、非常に印象深い記述であった。
『あるインドのヨギのところに、治療を受けるため、病気を抱えた人々が群がりました。患者たちに休息を取らせている間、彼は特定のハーブを集めました。患者たちは調合されたハーブをなんの疑いもなく飲みました。かわいそうに!患者たちは、やがて、次々と嘔吐と下痢を始めます。この強力な浄化は、人によっては何時間も続きました。疲労困憊した患者は、「キッチャリー」と呼ばれているお米とイエロームングダルが一緒に調理されたお粥を受け取ります。彼は、このお粥に病気に応じて特定の割合で、バスマ(ミネラル・金属酸化物)の混合物を追加しました。これを三十日繰り返した後、患者の病気は消え、体の隅々まで綺麗になりました』
この一節は、人々がパンチャカルマを行い、キッチャリーを食べ、元気になっていく様子を描いている。
美津子は杏奈の提案を採用することにした。事前コンサルの場で仁美に意向を伺うと、乗り気だったので、一日目から取り入れることにした。
キッチャリークレンズをするなら、絶好のタイミングは月経が終わった直後である。この時期は、体がデトックスするサイクルに入っている。仁美は、あかつきに訪問した日、月経三日目だった。タイミングとしてはベストではないが、悪くはない。
「一日中消化器官を酷使し続けると、消化力は弱ってしまいます」
キッチンにて、杏奈は説明を続けている。
朝ごはん、昼ご飯、夜ご飯…多くの人が一日三食を食べる。それ以外にも、十時のおやつ、午後三時のおやつ、飲み物、夕食後のスイーツ…人によっては、食間がほとんど空かず、アグニは休む暇がない。超ブラック企業で働いているようなものだ。いずれ、ボイコットされかねない。
「人間も、働き過ぎたら休むことが大切ですよね。そうしたら元気になります。同じように、アグニも休ませることで、本来の毒素を排除する力が回復します」
その時、より良く食べ物を消化でき、体組織は健全に形成される。心と身体はより元気になるだろう。その結果、体重が適正値に近づくことも期待できる。仁美が抱えているその他の大小の不調は、体重を増やしている要因と同じ要因で起こっていることを考えれば、体重を増やす原因を根こそぎ排除できれば、他の不調も良くなっていくことは十分考えられる。膝の痛みなど、体が重いがゆえの不調も含めてだ。
「アグニを休ませることの大切さは、現代科学でも証明されています」
レジュメをめくる。そこには今から話す内容が簡単にまとめてある。
空腹になると、モチリン(消化管ホルモン)が分泌される。その分泌量は、食後八時間以降、特に多くなる。モチリンの働きで、胃腸の運動の生理的周期性運動亢進サイクルが増大し、ペプシン(消化酵素)の生産が増える。
「つまり、モチリンは胃腸を収縮させ、食べカスをどんどん小腸や大腸に送り込み、体の掃除をしてくれんです」
仁美はこの理論に、大いに納得したようだった。現代科学的な説明など、美津子はあまり行わない。しかし、杏奈は科学的な観点からも説明を補うことで、仁美がより納得感をもってキッチャリークレンズに臨めると考えた。仁美の反応からして、予想はそう外れてもいなさそうだ。
「アグニを回復させるには、アグニを休ませる。つまり、断食をするか、食べたとしてもごく消化に優しいものを食べ、空腹状態を作ることが大事です」
しっかり休めば休むほど、回復は早くなる。
「空腹状態でいるのに最も適した時間は、就寝中です。寝ている間に、体の掃除をさせます」
特に、夜十時以降はピッタの時間帯。代謝と細胞の生まれ変わりを促進する、若返りの時間帯である。この時、エネルギーを食べ物の消化に使ってしまうのは、勿体ない。
「就寝中に空腹状態を生み出すためには、夕ご飯を食べないか、ごく消化に優しいものをなるべく早い時間に食べ終わる必要があります」
そこで、キッチャリーの登場である。
仁美が滞在している間の夕食のメニューは次のとおりである。
十二月二十九日 さつまいもと人参と葉物野菜のキッチャリー
十二月三十日 プレーンキッチャリー
十二月三十一日 重湯
一月一日 なし
一月二日 なし
一月三日 重湯
一月四日 プレーンキッチャリー
一月五日 人参と葉物野菜のキッチャリー
「おはようございます」
滞在二日目の朝。朝食のベルを鳴らしてから時間を空けずして応接間にやってきた仁美に、杏奈は挨拶をした。
「よく眠れましたか?」
「はい」
「お腹は空いていますか?」
「はい、空きました」
仁美の顔は、前日よりも血色が良く見えた。
「お腹が空いたっていう感覚があるの、久しぶりです」
通常は、お腹が空く前に次の食事を入れていたため、空腹でお腹が鳴るのを聞くことも稀だった。
「なんだか、体にいいことをしたっていう気分になったら、嬉しくって」
仁美はニコニコとそう言った。
「それはとても良いことですね」
杏奈は賞賛するような笑顔を仁美に向けた。
「朝ごはんが、いつもよりいっそう美味しく感じられますよ」
空腹こそ、最高のスパイスである。
さて、ここでアーユルヴェーダの治療法について話をしておきたい(※日本ではアーユルヴェーダは医療行為ではなく、セラピーという位置づけである。例外はあるものの、本格的な処置のほとんどはインドやスリランカに行かなければ経験できない)。
アーユルヴェーダにおける治療とは、ドーシャ、ダートゥを均衡のとれた状態にもどし、それを維持する手段であると定義されている。
治療の段階は、様々な説があるが、美津子は次の四段階に整理している。
1) Prakritisthapini chikitsa プラクリティスタピニ チキツァ (健康維持)またはNidana Parivarjana ニダナ パリヴァルジャナ (原因因子の回避)
これは生活習慣を是正することである。日々の行動、ヨガや運動、健康的な食事をすることなどもこれに含まれる。
アーユルヴェーダでは、病気の原因となる因子を避けることが第一の治療とされている。仁美に適合されているキッチャリークレンズは、この段階に当たるであろう。
2) Roganashini chikitsa ローガナシニ チキツァ (病気の治療)
アーユルヴェーダの薬やハーブの使用、パンチャカルマなど。
3) Rasayan chikitsa ラサヤン チキツァ (正常な機能の回復)
若返りの療法である。
アーユルヴェーダには、免疫力を高めるラサーヤナと呼ばれる薬やその組み合わせがたくさんある。これらの若返りをもたらすハーブを服用したり、精神性を強める行動をしたり、健康を維持する生活習慣や食習慣を確立したりすることも含まれる。
この治療の目的は、体力を増進し、精神力を高め、老化を遅らせ、健康で生き生きとした幸福な生活を長年送れるようにすることだ。
4) Satwavajaya chikitsa サットワヴァジャヤ チキツァ (スピリチュアルなアプローチ)
精神を鍛えることによって情動をコントロールし、ヨガの修行によって、精神の集中力を高める。そうすれば、感覚的な刺激を得ることに耽溺することなく、健康が維持される。
さて、このうち病気の治療の段階で採用される具体的な療法には、二つの柱がある。鎮静療法(シャマナ)とショーダナ療法(浄化療法)である。
・浄化療法Shodhana(ショーダナ)
ドーシャはいくら鎮静化しても、再び憎悪してくる。そこで、余分なドーシャやアーマを浄化する。
体系的にして代表的な浄化療法がパンチャカルマ。パンチャカルマにより余分なドーシャやアーマを浄化することは、病気の根を取り除くことになるとして、推奨されている。
パンチャカルマは催下法、催吐法、経腸法、経鼻法、瀉血法からなるが、いずれもあかつきでは行わない。
・鎮静療法 Shamana(シャマナ)
日常生活を調整することでドーシャを鎮めバランスさせること。ドーシャを増大させるような要因を避けることだ。
病気の原因であるドーシャやアーマ(未消化物)を消化するハーブを取ることや、運動やヨガの練習、日光浴、温熱浴、外気浴、アビヤンガやシロダーラなどのアーユルヴェーダのトリートメントなどが、これを助ける。
つまり、今仁美が行っている絶食、キッチャリークレンズは、鎮静療法の一つなのだ。
あかつきでは、限られた療法しか適合できないのは否めない。パンチャカルマの本処置と言われる五つの治療法は行えない。しかし、原因因子を回避するための提案、アビヤンガやスウェダナ(発汗誘導)などのトリートメント、一部のハーブやラサーヤナの適合など、他の多くのことは実施することができた。
「舌の複数の亀裂は何を示している?」
仁美の質問票を基に、アーユルヴェーダ的に何が読み取れるか、美津子は隙間時間を使って杏奈に教育している。
「慢性的なヴァータの乱れです。不安や恐れなどの感情、神経系の乱れ、結腸の乱れ…」
今見ているのは、一か月以上前の仁美の舌の写真であった。次に美津子は、昨日撮ってもらった仁美の舌の写真をスマホに映す。
「舌の側縁が波打っているのは何を示す?」
「吸収不良です」
食べたものを栄養として十分に吸収できていない。
「毎日舌の様子をチェックして、それを、浄化の進み具合の指針にしましょう」
「はい」
「今日の夕ご飯は、お米と豆以外には何も入っていないキッチャリーだったわね」
「はい」
美津子は、スマホをしまいながら、ふふっと笑った。
「年の瀬だというのに、うちの食事は、どんどん質素になっていくわね」
杏奈も美津子も、昨日は仁美と一緒にキッチャリーを食べた。今日も彼女に付き合いプレーンキッチャリーだけにする予定である。
「せめて、朝やお昼には、お正月らしいものを用意しようと思います」
杏奈は美津子に了解を求めるようにそう言った。
「ええ。お願いね」
美津子は食事に関しては、杏奈に全権を委ねていた。
三十一日の早朝。杏奈は離れから母屋に入ると、書斎にもう電気がついているのを見て、おやと思った。中に入ると、美津子が片方のソファの傍に立っている。やや酒くさいにおいがした。
「小須賀さん?」
美津子は杏奈の方を振り返って、しーっと人差し指を口元に当てた。小須賀が、足をこちら側に向け、頭を南側に向けて寝ている。肩から上が毛布から出ている。顔を見るに、体調が悪そうだった。
書斎から離れたところに杏奈を誘った美津子は、
「夜中のうちにここにやって来てね」
それで、美津子は起きてしまったのだという。
「どうしたのって聞いたら、飲み会の帰りだって。あかつきに来ておけば、弁当作りに遅れないからって…」
杏奈は心の中で首を傾げた。確かに今日は土曜日だが、今週は年末ということもあり、弁当の納品はない。
キャバクラでの飲み会で、大いに飲み、思考が働かなかったのだろう。あそこまで酔いつぶれている人を見るのは、杏奈は久しぶりだった。
「仁美さんを呼ぶ時間まで、寝かせておいてくれる?」
「はい」
言われなくともそうするつもりだった。美津子ならともかく、自分がたたき起こしたら、どんな嫌味ごとを言われるか分からない。
「小須賀さんの分も、お味噌汁か何か作ってあげて…」
そう言った美津子の声は、息子を気遣う母親のように優しかった。杏奈は頷き、朝食の支度にかかる。
支度を終え、仁美を呼ぶ前に小須賀の様子を見に書斎へ行くと、そこにはもう小須賀の姿はなかった。窓が少し空き、換気されている。
「前室に移ってもらったわ」
まだ、あかつきにいることはいるのだ。
「吐き気があるみたいで」
「そうですか。朝食はどうします?」
「残しておいて。あとで、食べられそうであれば食べてもらう」
朝食後、杏奈はいつものように、肘までの長さの赤いゴム手袋を装着し、洗い物をした。青ざめた顔の小須賀がキッチンに現れたのは、その時だった。
「ごめん。完全に酔っぱらってた」
小須賀はいつもに増してかすれた声でそう言った。
「まだ寝ていればいいんじゃないですか?」
小須賀は目をこすりながら頭を振る。
「帰るわ」
「どうやって?」
「タクシー捕まえるよ」
「駅まででしたら、私、送っていく時間あると思いますよ」
「いい。怖い」
怖い、と言ったが、杏奈の運転スキルが、もうほとんど問題ないレベルなのは分かっているだろう。そのレベルに達するよう教育したのは、他でもない、小須賀自身なのだから。
「あー、寝ぼけてたぁ」
小須賀は、やってしまった、という顔をして、手で額のあたりを覆った。
「ソファに運んでくれたの、美津子さんだよね。おれ、どんな感じだったんだろう」
みっともない姿を見せたのではないか。物音や叫び声を出さなかったか。クライアントには迷惑をかけなかったか…
小須賀は、いつになく落胆していた。
「美津子さんは小須賀さんを心配していましたよ…」
洗い物を続けながら、杏奈はフォローするつもりでそう言う。むしろ、意識が朦朧とする中でも、あかつきでの仕事に責任を感じて、ここで一晩を過ごそうとした意思を、ありがたいと思っているようにさえ見えた。
小須賀は杏奈の言葉には答えず、コップに浄水を注いで、ごくごくと飲んだ。
「あ、お味噌汁炊いてありますけど、飲みますか?」
小須賀は少し迷っていたが、杏奈に支度をお願いして、キッチンの折り畳み椅子に座った。幸いにも、具沢山の味噌汁ではなく、豆腐とわかめだけの味噌汁だった。渋い赤味噌がまた、滋味深い。
「おれ、杏奈にしっかり仕事引き継いだら、辞める予定だから」
小須賀は味噌汁をすすりながら、そんなことを言った。あかつきを辞めるつもりだと言ったのは、これが初めてではない。どのくらい本気なのか分からなかった。が、今後杏奈がセラピストとして施術をするようになれば、料理担当の小須賀には、残っていてもらわないと困るはずだ。
小須賀は、杏奈が答えに窮しているのには構わず、再び額を押さえて、はあ~とため息を吐いた。みっともない姿を美津子に見せてしまったことを、相当悔やんでいるようだった。
「善光寺に除夜の鐘を突きに行かない?」
その日、午前中の施術の後、美津子は杏奈に尋ねた。小須賀は帰宅していた。
「いいんですか?」
除夜の鐘を突く…ということは、出発は深夜近くなる。
「ええ」
規則正しい生活を推奨している美津子だが、年末年始は特別なのか、寛大な答えが帰って来た。
行くのであれば、一緒に仁美を連れて行きたいと杏奈は話した。あかつき以外のところで、気分転換させてやりたい。仁美本人がそれを望むかどうかは分からないけれど。
今夜は、仁美は重湯以外のものを摂らない。空腹を意識する時間が増えるのは、苦痛かもしれない。おそらく、境内では食べものも振舞われるだろう。目に毒である。
「仁美さんに聞いてみなさい。行くというなら、みんなで行けばいいわ」
そのみんなには、美津子も含まれているようであった。くじを引くような気持ちで仁美に尋ねてみると、
「行きたいです。嬉しいです」
と、快く賛同された。
午後の施術の後の、長い自由時間の間、杏奈は仁美と一緒に何かできることはないだろうかと考えていた。
日常から離れ、自然豊かな場所にいるあかつきにいる間は、絶好のキッチャリークレンズのチャンスである。ここには、美味しいものを売る店は少なく、食べ物の誘惑が少ない。だが、唯一欠点があるとすれば、夕食を抜くという試みの気を紛らわしうるようなレジャーに乏しいことである。特に冬は足込町の売りであるネイチャー体験も、できることがごく限られている。
杏奈は施術後のカウンセリングに同席した後、仁美を呼び止めて、どんなことをするのが好きか尋ねた。
「音楽を聴くのが好きです」
「音楽ですか」
聞けば、推しアイドルがいるということで、今日は七時半から、客間で紅白歌合戦を見ようと思っているとのこと。
「私も書斎で見る予定なので、よかったら一階に来てください」
流行歌というものに疎く、特段好きな歌手もアイドルもいない杏奈は、紅白歌合戦を見る予定はなかった。しかし、誰かと一緒に紅白を見るのも、楽しいかもしれない…と思い、そう言った。
美津子と一緒に夕食を摂ったのは、午後六時過ぎ。山菜とすりおろした長芋、卵を落とした年越しそばである。紅白歌合戦が始まる頃には、一階に漂っていた出汁のにおいは薄れた。
杏奈は仁美がいつ来てもいいように、書斎でテレビの音をBGMにしながら本を読んでいた。
仁美は、午後八時頃にやって来た。
「ちょっと寝てしまいまして」
仁美はすっぴんのまま、目をこすった。
「除夜の鐘を突きに行けるか、自信がなくなってきました」
「そうですか」
ならば、無理に行く必要もない。そういう杏奈も、なんだか眠くなってきている。
「仁美さんが見たい歌手は、いつ頃出てくるんですか?」
「後半だったと思いますけど」
仁美はゆったりと答えた。仁美はソファの上で、杏奈の一.五倍ほどのスペースを取る。
事前コンサルをし、数日間あかつきで顔を合わせる中で、この人の素直で人当たりの良い性格は把握できた。一緒にいても気を遣い過ぎることがないので、杏奈はこのクライアントとなら、テレビを一緒に見るくらいできるように感じていた。
「今日は夕ごはん食べないって決めていれば、食べずにいられるものですね」
突拍子もなく、仁美が言った。それは「今、どうしようもなく何かを食べたい!」という衝動には駆られていない、ということだろう。
「普段の生活でも、今日は夕食を抜く!って決めれば、なんとかなるものなんでしょうか」
「さあ…環境も大きいと思いますけど」
「そうですよね。あかつきにいるから食べないでいられるのかも」
仁美には同棲している彼氏がいる。自分は食べないと決めていても、パートナーの食事を作らなければならないとか、パートナーが目の前で食事をしているような環境にあると、断食はしにくいかもしれない。
あかつきでは、上げ膳据え膳で、何を食べようか考えることも、食べ物を買いに行くこともないから、食べ物のことを考える時間も、食べ物に接触する時間も少ない。
「あかつきは、非日常ですからね」
「はい。もとの生活に戻ったら、こんなにのんびりできないですね」
「やっぱりお仕事の日は休まらないですか?」
「職場では、特に人間関係が悪いっていうわけでもないのですけど、基本立ち仕事なので、仕事が終わるころにはすっかり疲れてしまって」
パートナーとも、時々喧嘩をすることがあるらしい。
仕事があった日、疲れている時、嫌なことが起こった時は、暴飲暴食をしたり、食事が偏ったりしがち。それは取りも直さず、人がストレスを食で代替しようとすること意味する。美味しい物を食べて、癒しを得ようとする。反対に、もしストレスがなければ、夕ご飯を抜いたり、キッチャリーだけにしたりするのが容易になるだろう。
「私がキッチャリークレンズを実践できるのは、あかつきにいる間だけかもしれないです」
仁美は自信なさげに言った。とはいえ、一年に一回だけでも、体の浄化に集中できれば、それだけでも心身を整える助けになろう。杏奈はそう言って、仁美を励ました。
「聞きたいことがあるのですけど」
仁美は、目に好奇心を湛えていた。
「杏奈さんや、美津子さんは、普段ここで出していただいているような料理を食べているのですか?」
杏奈は二度ほど瞬きをし、頷いた。
「お菓子は?」
仁美は、上半身を乗り出した。
「食べたいと思わないのですか?」
杏奈はちょっと、言いよどんだ。お菓子を求めなくなったのは、あかつきに移り住んで、一か月もした頃だ。しかし、あまりに仁美に寄添わない回答をしても、仁美が浮かばれないだろう。
「時々、食べたくなりますよ」
「そうなんですね」
「あかつきでは、規則正しい生活を送るので…だから時々で済んでいるのかもしれません」
杏奈は、仁美をかばうように言った。
「忙しい毎日を送っていれば、理想的でないものを食べすぎたり、不本意な食生活をしてしまったりすることは、誰にでもあります。でも、それを責める必要はありません」
事実として受け止め、反省し、ただ粛々と改善するだけで良い。
「どうしたら、理想的でないものを食べ過ぎないようにできるんでしょう」
杏奈は唇を結んで、一呼吸した。この手の問いに、万人に当てはまる正解などはない。一般化された解答をある程度あてはめることもできなくはないが、それでは不完全である。自分の内側で、その答えを探す旅をし続けなければ、その人に合う回答などは得られない。
「私がここで働き始めて間もない頃」
杏奈はおもむろに話し出した。紅白では、韓国人アーティストが軽快なダンスとともにアップテンポな歌を歌っている。
「オーナーがこんなことを言っていたんです」
それはまだ、最初の契約更新を迎えてまもない頃だったか。ある時、杏奈は美津子にこう尋ねた。
─美津子さんは、私が来る前、一日何回食べていたんですか?
─二回か、三回よ。
─では、今は無理して、三食私に付き合ってくださってるんですか?
美津子の食べる量が少ないので、杏奈はもしかして…と尋ねてみたのだ。
美津子は、そうではないと首を振った。三食、適量を食べるようにしているから、無理はしていない。けれど、そのうち一日二食になる日が出てきて、それが定常化する日も、遠くはないのだろうと言った。
─それでいいのよ。
美津子は、それは美津子の体が弱くなっていることを示すのではないかと心配する杏奈を、安心させるように微笑んだ。
─なるべく最低限の食べ物と飲み物で、命を繋げるようになりたいの。
「それは、私たちが食べているものが、生命だったから」
杏奈は、つぶらな目を丸くしている仁美に言った。
紅白ではちょうど、アップテンポな曲は終わり、司会者が次のアーティストの紹介をしている。
「食べ物を見る目が、ここに来てから、少しずつ変わってきたように思います」
季節によっては不作になる畑の作物。生生しい、血の多いイノシシの肉。食べ物を「生命」として見るようになった。
─ストレスが溜まると食べすぎてしまう。
─不健康になると分かっていながら食べてしまう。
そんな風に、人はよく言う。
「私たちは、感情や感覚を満たす快楽の道具のように、食べ物を扱うことがあります」
または、不満足やストレスをぬぐって捨てる、一時的なティッシュペーパーのように…。
「そんな時、私はそのことを思い出すようにしています」
最低限の食べ物と飲み物で、命を繋げるようになりたいと言った美津子の言葉。
食べ物は生命であり、快楽を得るための手段ではない。
「もしかしたら、そういう意識が、自分の食欲に時々、歯止めを効かせてくれるのかもしれません」
他の命で自分の命をつなげることは、ありがたいことであり、無意識的にするべきではない。
一生涯で、自分の命をつなぐために奪う命を、なるべく最小限に留めたい。そう思えば、自然に、「自分の感覚を満足させるために食べる」ことは少なくなる。
「他の命に思いやりをもつという精神的態度は、回り回って自分を大切にする姿勢につながり、精神的にも物理的にも若返りを促します」
先ほどの歌とは打って変わって、渋い演歌が流れ出した。
杏奈は仁美を見て、愛想笑いを浮かべる。
「ごめんなさい。私の意見ですので、あくまでご参考に」
「いえ。とても素敵な意見だと思います」
杏奈は仁美の、まん丸い目を見た。その目から、言葉自体は正直であることが読み取れたが、同時に自分にはできそうもなさそうだという迷いが見て取れた。
「私もそんな風に思えるようになりたい」
杏奈は頷いた。
しっぽりした演歌の後、お気に入りのアーティストが登場したこともあって、仁美の表情は、一気に元気になった。
夜十一時過ぎ。三人はエヌボックスに乗って、善光寺へ向かった。お寺の駐車場はすでにいっぱいで、たくさんの車が路駐している。美津子は少し離れたところに車を停め、石段の登り口まで歩いた。
杏奈が善光寺に訪れるのは、夏以来である。前に来た時は、あまりにもわけありな女性と一緒で、善光寺自体の印象はかなり朧気にしか覚えていない。
「うわ、すごい階段ですね」
仁美は明らかに気後れしていた。
─いい運動になる。
代謝が促進されれば、ここへ連れてきた甲斐があったというものだ。
杏奈は階段を登りながら、
─あの時は大汗をかきながら、美真さんの悪態を聞きながら登っていたっけ…
と、当時のことを思い出した。
参拝客は大勢いて、境内に入り、水子観音の立つ地蔵堂へと続く階段の中ほどから、列ができていた。足込町のどこから、こんなに人が湧き出たのかと思うくらいだ。
美津子は顔が知られているのか、誰かが驚いたように声をかけ、短い会話をして去っていく、という場面が何度もあった。足込町で事業を営み、町外から人を呼び、お金を落としている美津子は、地域おこし的な観点から見ても好事例であって、関係者との接点も長いのだ。
この日は雪が降り、うっすらと積もっていた。体を動かさず石段の上に立っていると、体が凍るように冷たくなっていく。
三人がようやく阿弥陀堂の前へたどり着いた頃には、除夜の鐘が鳴り響いていた。本堂の前から、見晴台までの広い空間には、露店が並び、参拝を終えたたくさんの人々で賑わっている。
「小須賀さんに声をかけていきましょうか」
「え?」
杏奈は、思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
「いらっしゃるんですか」
「今年もバイトすると言っていたから」
人の群れをかき分けて、炊き出しが行われている白いテントの方へと足を進めた。
「小須賀さん」
美津子は、甘酒を配っている小須賀に声を掛けた。
「あ、いらっしゃってたんですね」
小須賀は、美津子の隣の杏奈を見て、その隣に大柄な女性がいるのを見ると、クライアントだと悟ったのか、軽く頭を下げた。
小須賀はすっかり体調が良くなったように見えたが、声は相変わらずかすれていた。
「甘酒、飲んでいきますか?」
言い終わる前から、美津子と杏奈が首を横に振るのをみて、小須賀は、あかつきの女どもは本当にストイックだと思う。しかし、事情があるのだろうということも、二人の顔から悟った。後ろに控えるクライアントは、滅法重量がありそうだし。
小須賀は時々鼻をすすりながらも、頼まれれば甘酒を紙コップに注ぎ、人々に渡していた。
「杏奈も来年は炊き出し参加すれば?」
なぜか小須賀に誘われた。
「日当出るよ」
「はあ…」
でも、来年もクライアントがいるかもしれないし…と思った時、小須賀の後ろから、背が高く、体格が良い僧侶がゆったりとこちらに歩み寄ってきた。加藤だ。
「こんばんは」
加藤は小須賀の後ろで歩みを止めた。
「本年はお世話になりました」
口々に年末の挨拶が飛んだ。
加藤と美津子は、頭を上げると、お互いに目を合わせ、目だけで微笑み合った。
「鐘、鳴らしていけば?」
小須賀は鐘楼の方に視線を向けて、おそらく、杏奈に向かって言った。
「一回鳴らすごとに、チロルチョコが一個もらえるよ」
そのために鐘を突いたのでは、煩悩を消したいのかなんだか、よく分からない。
ゴーンと、後ろでまた、鐘が鳴った。
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