第31話「初雪」アーユルヴェーダ小説HEALERS

ブログ

 創作和食居酒屋「彩」の入り口の引き戸が開き、五人ほどの大人がぞろぞろと入って来た。その団体客はみな、それぞれ暗い色のアウターに身を包んでいた。
 羽沼は、その中の一人に吸い寄せられるように目が奪われた。黒いタイトなダウンコートから、黒いタイツに包まれた、細い脚が覗いている。髪を後ろでシニョンにしたその女性は、足込町役場地域振興課の、長谷川瑠璃子その人だった。
 羽沼は入り口に向けた顔を背け、うつむいた。
 団体客は、ぞろぞろと座敷の一番奥の予約席に着席した。カウンターの端に座る羽沼が、少し身を左によじれば、その席が視界に入る。
 瑠璃子は、こちら側に顔を向ける位置に座った。連れの客たちは、瑠璃子よりも大分年が上に見える。瑠璃子の他は、男が三人、女が一人。
 団体で来ているのは、その一組だけではない。座敷もテーブル席も、団体客でほぼ埋まっており、店はこの間とはうって変わって繁盛していた。
─忘年会の季節なのか。
 会社勤めでなくなり、協働する仲間や得意先の顧客がいない今の羽沼にとっては、縁のない行事。
「今日は忙しいね」
 羽沼は、忙しく手を動かす店主の本多弘道に言った。
「ごめんね、羽沼ちゃん。せっかく呑みにきてくれたのに」
 それも、いい酒が入ったよと伝えたのは、弘道のほうなのだ。酒は出したが、話し相手にはなれない。
「別にいいよ」
 翠が、カウンターから勢いよくホールに出る。黒いティーシャツに、黒いズボン、ジーンズ生地のサロン、三角巾という、いつもの恰好。丸盆にお通しの小鉢を五つ乗せ、地域振興課の面々と思われる人たちのテーブルに運んだ。
「ご来店ありがとうございますっ」
 翠の威勢の良い声が聞こえる。
「お飲み物はお決まりですか」
 聞き耳を立てているわけではないのに、その座席からの声は羽沼の耳にやけに届いた。
「私は、日本酒にします」
 瑠璃子は日本酒が呑めるのか…。羽沼は手元の熱燗に、自然と目がいった。
 もう一度、体を左に傾け、座敷席に視線を向ける。アウターを脱いだ瑠璃子は、黒い、シャープな輪郭のワンピース姿だった。ベルトより上は二ット、下はベルベット生地。瑠璃子の雰囲気に合っている。
─もうすぐ、クリスマスか。
 なぜか瑠璃子の服装がクリスマスを思い出させた。が、これも今の羽沼にはあまり縁のない行事。
「ほいっ、お待たせ」
 弘道がカウンターから料理を置いた。本鮪のカマトロだった。
「ありがとう」
 羽沼は箸を取った。
「この人数をよく二人で回せるね」
「宴会コースの予約がほとんどだからね。時々うちのおふくろも手伝ってくれるよ」
 コース料理であれば、事前に仕込みをしておくことができる。
「これから年末まで、ずっとこんな感じさ」
 弘道は誇らしげに胸を張った。
「足込町には宴会ができる店が限られてるからねぇ」
 弘道の横に立った翠は、てきぱきと次の料理をお盆に乗せながら、リアルな事情を吐露した。
「羽沼ちゃんのことはおやじが送ってってくれるから、帰る時に声かけてくれよ」
「いや、歩いて帰るよ」
 弘道の父親は、老齢ながら、運転代行として駆り出されているようだ。

 瑠璃子は乾杯をしながら、すでに帰りたい。
 なにが悲しくて、同じ課の四六時中顔を合わせている人たちと、業務外で仕事の話をしながら酒を呑まないといけないのか。
─前の会社では、そんなこと思わなかったのに…
 結局、今のチームの人とは話が合わないのだ。自分よりずっと上の年齢の、田舎のおじさん、おばさんたちで、瑠璃子はもはや、親戚のおじさん、おばさんと食事しているような気分だった。
 町役場全体での納会を除けば、職場の忘年会らしい忘年会は、今日のこの集まりだけだが、この一日でさえ苦痛。
「長谷川さん、一杯目はビールじゃないの?」
 これだ。田舎のおじさんは、今の風潮を知らない。
「最近、胃腸の調子が悪くて」
 近頃、万里子はよく熱を出す。保育園でなんらかのウイルスが流行っているように思われた。この間、瑠璃子も珍しく万里子の風邪がうつってしまい、本調子ではなかった。だから今日は、冷たいビールやハイボールは飲みたくない。
「なに、そんなに家で酒呑んでるの?」
「違いますよ」
 否定する瑠璃子の声は、いつもより小さいし、かすれている。咳が続いて、喉がやられているのだ。
「さ、今日は私の分まで飲んでください」
 瑠璃子にそそのかされると、おじさんたちは喜んで酒を呑んだ。
 ずい分前に買ったワンピースを着てきたのだが、なんだか、場違いだったかなと思う。地元の、中年から高齢の男性がメインの客層の居酒屋。野暮ったい普段着か、作業着を着ている人も多い中で、自分はなんだか浮いているように思う。
 東京で広告代理店の仕事をしていた頃、接待がてら、お客さまの手がける店で呑むことが多かった。都会の、若い人たちが集まる、新しく洗練された店。着飾り過ぎない程度に、しかし、その場の華になるような恰好をしていくと、同僚も、お客さまも喜んだ。そういう場所でうまく立ち回ることができる自分に、瑠璃子は自信を持っていた。しかし、この地域において今の仕事をしていては、自分の力量を試せる場面は少ない。
 やる気の入らない、内輪の飲み会。それでも瑠璃子は、上司のグラスが空くとすかさず瓶ビールを注いだ。彼らが呑むペースに合わせて、自分も酒を呑む。
─万里子…。
 瑠璃子は時計を見た。今頃、ご飯を食べ終わったところだろうか。瑠璃子の意識はもうこの居酒屋からは離れていた。瑠璃子はぼんやりと店を見渡した。
─あれ?
 気のせいだろうか。カウンター席の柱の影から視線を感じたのだが。
「ところで瑠璃ちゃん、今年の役場の一大スクープは、なんだったと思う…?」
「ちょっと、名前で読んだらセクハラって言われちゃいますよ」
「今日は無礼講だがね」
 チームのおじさん、おばさんたちの会話に、瑠璃子は苦笑いをした。話は専ら、役場の内輪ネタである。
 ふと、再び視線を感じて、瑠璃子はその視線の元を追った。
─あ。
 カウンターの隅にいた、濃いグレーのセーターに、ジーンズを履いている男。瑠璃子は、その男が、こちらを見つめていたように見えた。
─いや。
 瑠璃子は顔を下に向け、視線を座卓の上に落とした。
─勘違いね。
 ただ、気付いただけだ。
 しばらく経った後、瑠璃子は化粧直しにと言って、ポーチを持っておもむろに席を立った。羽沼の横を通り過ぎると、同僚たちがこちらを見ていないのを確認しながら、死角になる位置に移動する。羽沼は声を掛けて来ない。瑠璃子は死角から出ないよう気を付けながら、そっと羽沼の傍に歩み寄った。
「こんばんは」
 瑠璃子に挨拶をされて、ようやく羽沼は振り返った。あからさまに驚いた素振りは見せなかったが、今気がついたように、
「こんばんは」
 と挨拶を返し、頭を下げた。
「お一人ですか」
「はい」
 羽沼は返事をしながら、思わず、瑠璃子の足元から顔までをなぞるように眺めてしまう。
「私は、職場の忘年会で」
 瑠璃子は肩をすくめた。
「ああ、今日は、賑やかですね」
「ええ。まあ…」
 賑やかだが、決して楽しいわけではない。
「八割方仕事の話なので、なんだか仕事の延長みたいで」
「まあ、よくあることです」
 羽沼は、お猪口に酒を足した。
「日本酒が好きなんですか?」
「いえ、まあ、普通です」
 大将に勧められて…と、羽沼はぼそっと言った。
「…じゃあ」
 話しかけてみたものの、羽沼のほうから会話を膨らまそうという様子がみえないので、
「失礼します」
 愛想笑いを浮かべて、瑠璃子はそこを立ち去ろうとした。
「あ、長谷川さん」
 静かに呼び止められて、瑠璃子は足を止めた。膝下まで伸びるスカートの丈がひらりと揺れる。
「住民タクシーを導入することを、考えているんでしたよね」
 何か気の浮くような話でもしてくれるかと思いきや、ここでも仕事の話題。しかも、停滞している課題を掘り起こされてしまった。
「この間ここで酒を呑んで、帰るのにタクシーを使ったんですけど、アプリで予約して、十分くらいでタクシーが来ました」
 はあ、と瑠璃子は間の抜けた返事をした。一体何が言いたいのだろうか。
「配車システムが優れているのか、お客を待たせないスムーズな運用ができてますね」
 羽沼は淡々と語った。どのくらい呑んでいるのかは知らないが、顔色はほとんど通常と変わらない。
「そうでしたか」
「もし、住民タクシーが導入されても、待ち時間が少ないと助かります」
 羽沼は目尻に皺が寄る、いつもの笑い方で微笑んだ。
 瑠璃子は羽沼の意図が分からなかった。何かと思えば、一町民としての要求か。
「それは、ちょっと難しいかもしれないです」
 地域振興課で検討している予約管理は、もっとアナログな方法であった。ドライバーとなる地域住民は、常に車で配車されるのを待機している状態ではないので、事前の予約が必要になる。
「どのみち、住民タクシーだけでは最大瞬間風速的なタクシー需要を賄えないので、今残っているタクシー会社にも引き続き残ってもらいます」
「そうですか」
 羽沼は真顔に戻って、こくこくと頷いた。
「そのタクシー会社のノウハウを借りることで住民タクシーの運用もスムーズにいくのであれば、どんなシステムを使っているか、聞いてみてもいいかもしれないなと思ったんです」
「ノウハウを借りるなんて、そんなこと無償では…」
 瑠璃子は話ながら、あることに思い至った。羽沼は、瑠璃子が何かに気が付いた様子を見て取ると、
「そうですよね」
 と言って、お猪口に入っている酒を呑んだ。
「羽沼さん…」
 瑠璃子は、あることを尋ねようとして、言いよどんだ。それを聞くのは、なんだか、事態が複雑になると思った。
 羽沼がお猪口を置き、徳利に手を伸ばそうとする一瞬の間に、瑠璃子は羽沼と隣の席との隙間に入って、慌てて徳利を手に持った。一瞬の出来事に驚いた表情をしている羽沼に、瑠璃子は徳利を向ける。羽沼は反射的にお猪口を持ち、酌を受けた。
「ここには、よく呑みに来られてるんですか?」
「たまに…」
 瑠璃子に酒を注いでもらいながら、羽沼はドクンと、心臓が強く鼓動するのを感じた。ここで呑むのは今日が初めてだが、羽沼は矛盾が生じないようそう答えた。
 注がれた酒を、半分ほど呑んだ。全部呑まなかったのは、また酌をさせるのに抵抗があったからだ。
「あ、すみません。宴会の途中で話しかけてしまって」
 羽沼は瑠璃子の同僚のほうを覗いた。座敷で盛り上がっている。瑠璃子にそこに戻るようにと、暗に伝えているのであった。
 瑠璃子は出過ぎた真似をしてしまったことに、内心赤面しながら徳利を置き、羽沼に頭を下げると同僚たちのほうへ戻って行った。
「なーんで嘘ついたの、羽沼ちゃん」
 ぬっとカウンターから翠が顔を出して、羽沼は思わず、口に含んだ酒を吹き出しそうになった。
「うちで酒呑んだことあったっけ?タクシーで、家まで帰った?」
「女将さん、盗み聞きはよくありませんよ」
 羽沼は小声でうったえた。翠は唇を突き出して、素知らぬ振りをする。
「美人だねぇ、長谷川さん」
「あの方のこと、ご存知なんですか?」
「知らない」
 羽沼の肘がカウンターから離れ、上体ががくっと下がった。
「もしかしたら、一、二回うちにメシ食いに来たことあったかもしれないけど」
 翠は羽沼を見て、ニヤッと笑った。
「羽沼ちゃんの心の声を、代弁しただけさ」

 小さなクリスマスツリーが、和室の一角にひっそりと置かれている。瑠璃子が小さい頃に買ってもらったクリスマスツリー。赤いサンタ帽をかぶったクマのオーナメントと、雪になぞらえた綿が飾られている。雑多な家具の中に、このクリスマスツリーが埋もれている光景を見るのも、今年は今日で最後だ。
「ママもやろうよ!」
 無造作に結い上げられた髪をゆらゆら揺らしながら、万里子が真新しいおままごとセットの上で、小さなうさぎの人形を揺り動かした。あずき色のセーターに、ダークグレーのチェックのプリーツスカート、黒いタイツ。いつもとはちょっと違う、余所行きのような恰好の万里子。
「ママ、ごはん食べてるから後でね」
 瑠璃子はそう言いつつも、遅い朝食を簡単に済ました後、しばしスマホをいじっていた。別に、調べものがあるわけでもないのだが、なんとなく。
「ママはお寝坊さんだでいかんね」
 瑠璃子の母・あおいは、万里子の傍に座り、りすの人形でうさぎの人形の鼻先をとんとんとつついた。
「仕方ないじゃん。ここ最近残業やら飲み会やらで、疲れちゃったんだから」
 瑠璃子はスウェットのまま、座椅子にだらりともたれかかっていた。
「そんなに仕事に一生懸命にならんでもいいが」
 あおいはテレビのチャンネルを変えた。
「あっ、だめぇっ」
 万里子はあおいの腕をつかみ、抗議した。
「まりこがみてるのっ」
「ええ?見とらんかったが」
 朝から子供番組ばかりで、うんざりしてしまう。
「万里子と遊ぶほうに一生懸命にならんと」
 あおいはテレビのチャンネルを再び変えながら、小言を続ける。
「こんなさびれた町の役場で、何をそんなに残業することがあるの」
「年末だからいろいろあるの」
「そんでも、私は育児がありますーって言って、おじさんたちに任せてこなかんわ」
「ごめんね」
 瑠璃子は投げやりに言った。残業や飲み会がある度に、母や父には保育園のお迎えや、育児をお願いしている。小言を言われても、できるだけ反論しないようにしなければ。
 万里子はおままごとをしながらテレビを見ては、キャラクターの名前を言ったり、歌を歌ったりと、一人だけ楽しそうだった。
 あおいは万里子の相手をするのも束の間、食卓の上の残りのお皿や調味料を下げ始める。
「もっと家のこと手伝ってもらわんと」
 ちょっと厳しい声音で、あおいは言った。
「いつまでも揚げ膳据え膳じゃいかんよ」
 瑠璃子はスマホを食卓に置いた。
「着替えてくるわ」
 今日は午後から、祥子たちが遊びに来る。
 昨日、初雪が降った。朝から一面雪景色となり、万里子は大いにはしゃいでいたが、買い出しをしようと思っていた瑠璃子は、げんなりした。
「さむ…」
 身を震わせながら、瑠璃子は二階に上がる。
 窓から外の様子を見ると、庭にはまだ雪が残っている。瑠璃子の父・哲司は雪かきをすると言っていたが、この程度の雪ならそう大したことはない。
 瑠璃子が生まれる頃に建て替えをした長谷川家は、二階は全部屋フローリングで、どの部屋にも大きなクローゼットがあった。クローゼットには、瑠璃子が集めた、かわいらしい女の子用の子供服や、自分の洋服や鞄がたくさん、綺麗に収められている。
 実際、あおいが言うように、残業をしてまで仕事をしなければならない経済的な理由はなかった。実家暮らしで家賃は発生しないし、元夫・岡部から、養育費が毎月送金されてくる。わずかだが、慰謝料も含めて。
 瑠璃子は服を選んだ。チャコールグレーのニットワンピース。首も顔もすっきりとした瑠璃子は、タートルネックもよく似合った。カルティエの華奢なネックレスを合わせ、スタンドミラーに映る自分の姿を覗き込む。
 それから瑠璃子は、一階の洗面所にこもった。髪を巻いて、シニョンにする。前髪をカールさせ、眉毛の下までを覆わせる。薄い唇は、この季節でも、グロスを塗らなくてもつややかだ。それは、瑠璃子が乾燥させないよう、まめに手入れをした結果である。垂れ目気味の大きな目は、くっきりとした二重瞼。
─何もかも変わってしまったけれど…
 容姿だけは、落ちぶれさせてなるものか。それはもはや、執念にも似た決意だった。
 鏡に映った自分の顔を見ながら、瑠璃子は、あの女の顔を思い出す。ややつり目の、切れ長の一重瞼。妙な妖艶さのある目をしていた。
「ママぁ?」
 洗面所のドアを開けて、万里子が入って来た。瑠璃子によく似て大きな目を持つ万里子は、お人形のようにかわいかった。幼稚園に通う誰もが、万里子のことを本当に可愛いと言った。そんな自慢の一人娘は、瑠璃子のスカートの裾を握り、
「まりこのかみもやって!」
 とねだった。瑠璃子は、万里子の髪を編み込み、かわいらしいハーフアップにした。

「晃に彼女ができたの?」
 四人女が集まれば、誰それの恋愛事情が話題にのぼるのは必須なのか。瑠璃子は祥子からの情報を聞き、にわかには信じられないと、驚きを隠せなかった。祥子は頷いた。ふんわりとしたトップスに、黒いスキニーパンツを合わせている。首を動かすたびに、ピンクブラウンのセミロングヘアが、ゆらゆらと揺れた。
 前原晃は、年の離れた祥子の実の弟で、瑠璃子の同い年の幼馴染。長らく、女のおの字も見えなかった弟だが、ひょんなことから、祥子は弟に彼女ができたのを察知したのである。
 突然、前原が歯痛をうったえたのだ。
─虫歯?
 痛みで、一時的に固いものや染みるものが食べられなくなった前原を気遣って、祥子は声をかけたのである。
─違うと思う。
 銀歯のところに膿が溜まって、それで炎症を起こしてるから、一回銀歯を外して膿を取らなければならないらしい。
─もう歯医者行ってきたの?
 ずい分と状況が詳しく分かっているようなので、てっきりそう思って尋ねたが、前原は首を振った。
─知り合いの歯科衛生士にそう言われた。
─へえ…
 そんな都合の良い知り合いがいたとは。その時祥子は、待てよと思った。歯科衛生士というのは、たいがいが女性だと思うが。
─彼女?
 祥子は、さりげなく尋ねた。
─彼女。
 前原はすんなり認めた。
「なるほど。だから食事会に来なかったのかもね」
 沙羅が透き通るような高い声を出した。羽沼の家でバーベキューをした時、前原は当日になって体調不良を訴え来なかった。彼女との約束ができたのかもしれない。
 沙羅は、今日は白い厚手のオーガニックコットンのカーディガンに、オレンジブラウンのロングスカートという恰好をしている。二人の娘たちも、母親と同じアースカラーの、自然素材の服を着ている。同じ歳の万里子と快だが、母親の趣向のちがいにより、服の感じは大分異なっていた。
 女子会と聞いていたので、杏奈も服装には気を使ってきた。といっても、オフホワイトのカジュアルなワンピースは、ここにいる三人の母親たちに比べて、どこか子供じみたチョイスのように思えた。三人とも綺麗で服装もきちんとしているので、杏奈は自分の女子力を疑わずにはいられなかった。
─クリスマスイヴに予定ないの?
 先日、小須賀は忘れ物を取りに来た際、茶化すように、杏奈にクリスマスはどうするのかと尋ねた。
─クリスマス何それ感がやばいっす。
 沙羅が杏奈の状況を知ったのは、小須賀にパスタの感想とお礼を伝えた時だった。小須賀はついでのような感じで、軽くそう漏らしたのだ。そういう小須賀自身は、クリスマスは彼女とイルミネーションデートに行くらしい。
 沙羅はママ友同士の忘年会に、ほとんど強制的に杏奈を出席させた。
 足込町には娯楽が少ない。仕事をする他は単調な日々を過ごす中で、同性の知り合いと会うことは、杏奈自身も良いことだと思っている。少なくとも女子力を引き上げるためにはいいかもしれない。しかし、実際に来てみると、やはり否めないアウェイ感。
「お正月は旦那さん帰ってくるの?」
 祥子が沙羅に尋ねた。沙羅は首を縦に振る。
「帰って来るよ」
「よかったね。旦那さん、子供の成長ぶりにびっくりするんじゃない?」
 テレビ電話では顔を見ているものの、前に会った時には、七瀬など、まだずり這いしかできなかった。それが今や歩けるようになり、言葉もたくさん出ている。その七瀬は今、祥子の次男の朝日と一緒に、いつも元気な犬が出てくる子供番組の録画を見ていた。
「お正月は旦那の実家に帰らないといけないんだ」
「なに、帰りたくないの?」
 瑠璃子は、沙羅の口ぶりと、憂鬱そうな表情を見てそう尋ねた。
「うーん」
 沙羅はちらっと杏奈を見る。
「年末年始にかけて、あかつきに長期滞在のクライアントが来るから」
 沙羅はこたつの中で、もぞもぞと足を動かした。
「対応したかったなーって」
 沙羅は、娘の体調不良で、クライアントに施術をする機会を逃していた。長期滞在する客が来るのであれば、連日のように、研修の成果を発揮する機会があるのに、ことごとく旦那の休みと被ってしまった。
「じゃあ、杏奈ちゃんはずっとこっちに残るの?」
 祥子は、今度は杏奈に尋ねた。
「私は、ちょっとだけ帰ります」
 あかつきで働く二人は、そろいもそろって、帰省することに乗り気でないようであった。あかつきという職場は、そんなにも良いところなのだろうか。
「美津子さん…うちのオーナーは、ずっとお客さま対応をしないといけないので、残るって言ったんですが」
 杏奈は沙羅の方を向いて、
「私も沙羅さんのように施術ができたら、もう少し役に立てたかもしれないのですけど」
 杏奈と沙羅は、いたたまれないといった表情でお互いの顔を見合った。祥子はそれが可笑しくて、くすくす笑った。
「二人とも、仕事熱心だね」
 その熱心さを、少し自分にも分けてほしいくらいだ。
「私なんて、年末まで仕事が続くかと思うと、憂鬱でしょうがない」
「ああ、年末調整の時期だもんね」
 瑠璃子は経理事務所で働く祥子の状況を察した。町役場でも、年末から確定申告の時期にかけて、税務課の職員たちが死にそうな顔で仕事をしている。事業をしていた杏奈も、経理・税務関係の手続きをしたことがあるので、その時期が近づいてきたことは認識している。二月から三月にかけては、たとえ顧問税理士を雇っていたとしても、美津子も経理関係の仕事で忙しくなるだろう。そうなれば、施術を代行できる沙羅の存在はますます重要になるはずだ。
「ねえ、ごはんたべたい」
 万里子と快のおままごとに参加するのに飽きて、祥子の膝の上で恐竜の図鑑を見ていた大地は、母親を振り返ってそう言った。
「あ、そうだね。もうこんな時間」
 瑠璃子は朝食が遅かったので、お腹が空かず気づかなかったが、もう正午を過ぎていた。
「ごはんもってくるね」

 スーパーで売っている冷凍ピザ、唐揚げ、ポテトサラダ、枝豆、コーンスープ。
 美津子の方針のもと、粗食でここ半年を生きてきた杏奈にとっては、信じられないようなメニューが座卓いっぱいに広げられた。
 三人の年中さんが好きなものを揃えたのだ。二人の二歳児には、それぞれの母親が持ってきたおにぎりやおかずが用意された。
「最後にケのつくものもあるから」
 瑠璃子は、年中組に食べすぎないようにとの意味を込めて言った。
─ケーキも、あるんだ…!
 杏奈は、このようなクリスマスメニューにありつけるとは予想しておらず、地味に心を弾ませた。衝撃を受けている杏奈を見て、沙羅は、
─大丈夫かな、杏奈ちゃん。
 と苦笑いした。油ものを食べて、お腹を壊さないと良いが…。
 話題は、子供たちのクリスマスプレゼントに何を選んだか、服をどこで買っているか、など買い物の話が中心だった。
 足込町で服を買えるところといえば、スーパーわかばの二階の服売り場くらい。しかし、ここにいる誰も、その服売り場で服を買うことはほとんどなかった。おいている服の趣向が、十年ほど遅れているように思われるのである。そのため、名古屋まで足を伸ばしたり、ネットで買ったりすることが多い。子供はすぐにサイズオーバーするので、特に面倒だった。幼稚園でのバザーを利用することも多々ある。
「同じ服を毎日洗って、ぼろぼろになるまで、それを着るのが、本当のヨギなんですよね」
 と、沙羅は(瑠璃子に言わせれば)またわけの分からないことを言っている。
「でも、アーユルヴェーダサロンのスタッフであれば、ある程度、クライアントが憧れる人にならないとですよね」
 夢見心地でピザを食べていた杏奈は、沙羅の言葉がぐさりと心に突き刺さった。
「そ、そうですね…」
 あまり服装に気を遣っていない自分に、遠回しに忠告されたような心地だった。
「私も、実家に帰ったら、新しい服と化粧品を仕入れてきます…」
 それで杏奈はそう言った。沙羅には他意があったとは思えないけれども。
 それに、確かに沙羅の言うように、クライアントの前に出て恥ずかしくないようにしていなければならない。
「杏奈ちゃんは、白系の服を着ることが多い?」
 瑠璃子は今日の杏奈の服装を観察しながら尋ねた。バーベキューの時は、寒色系の服を着ていたが。
 杏奈は持っている服を思い浮かべた後、頷いた。
「仕事の時は、白シャツに黒いズボンと決まってますが」
「そうなんですか?小須賀さんは、ジーンズ履いていることが多いですよね」
 沙羅は料理番の服装に規定があったことを、今知ったというように驚いた。
「小須賀さんは、なんか例外というか…」
 二人しかいない料理番の一人が例外であれば、規定も何もあったものではない。
 沙羅と杏奈の会話を小耳に挟みながら、瑠璃子は杏奈の顔色をじいっと観察した。
「ねえ、あとで色で遊ばない?」
 瑠璃子から思いがけないことを言われて、杏奈は目を見開いた。唐揚げを咀嚼し味わうのに必死で頭が回らないが、色で遊ぶとはどういうことだろう。子供の遊びに参加せよということだろうか。
「あ、私もずい分昔にやってもらったね」
 懐かしい…と祥子がつぶやいた。
「瑠璃子さん、百貨店の美容部員だったから、パーソナルカラーできる人なんだよ!」
 杏奈には意味が通じていないのを見て取って、沙羅が杏奈に説明をした。
「うん。新しい化粧品買うんだったら、参考にできることもあると思うよ」
 百貨店の美容部員だったのかと感心しながら、杏奈は改めて瑠璃子を見た。美しい容貌、母になっても衰えないスタイル。言われてみると、確かに化粧品売り場にいそうな人に見える。
「あとで道具持ってくるよ」
「ありがとうございます」
 杏奈はとりあえず礼を言った。あとで、とは、いつだろうか。ありがたい申し出だとは思ったが、杏奈はケーキを食いっぱぐれるのではないかと、それが心配だった。

「手のひらを上にして、前腕を出して」
 杏奈は長谷川家の縁側に座り、和風の庭の木々を眺めながら、ワンピースの袖をまくった。
─うわ…
 瑠璃子は、差し出された右の前腕の白さに目が吸い寄せられた。そういえば、露出している顔や首筋も、自然光の中で見ると白さがよく分かった。白く、同時に繊細そうな肌だ。
「化粧品でかぶれたことは?」
「ないと思います」
 瑠璃子は頷いて、二階から運んできた、大きな黒いメイクボックスのファスナーを開けた。収められている化粧品の数の多さに、杏奈は目を見開いた。
「いろんな色のコントロールカラーを塗って、肌がどんな風に見えるのか見てみるの」
 瑠璃子はいくつかの小さなチューブを取り出した。ほんの少しだけ指にとり、杏奈の腕に線を引く。
「コントロールカラーって、化粧下地とは違うんですか?」
 女子力を疑われそうで少し恥ずかしかったが、杏奈は分からないことを素直に聞いた。
「化粧下地みたいなものなんだけど、化粧下地よりも自由に顔色を調整できるの」
 顔色を明るく見せたり、立体的に見せたりできる。
 瑠璃子は次々に異なる色を塗った。同じピンクでも様々なピンクがあり、オレンジも、黄色も、緑も、青もまた然り。瑠璃子はどのカラーがどういう系統の色なのか説明してくれるが、聞いているうちによく分からなくなる。
 杏奈の右手には、一瞬にして、コントロールカラーの虹ができた。
「どの色が自分に似合うと思う?」
 杏奈は、自分の腕をじいっと見た。
「…」
 腕の向きを変えてみる。
「…」
 目を細めて、腕を顔に近づけてみる。
「よく分かりません」
「ポイントは、綺麗に見えるか、馴染んでいるか、なの」
 そう言われて、もう一度腕を見る。が、直観は働かず、見方のポイントを知ったからといって何か分かるものではない。
「色を見るのも、慣れてないと難しいかもしれないね」
 瑠璃子は苦笑しながらもフォローした。杏奈の腕に塗った暖色系のピンクを指差して、
「これはトーンアップしているよ。分かる?」
 肌の色が明るく見えている。
「これも悪くないね」
 瑠璃子は、青系のピンク、オレンジ、山吹色も指さした。
「もっと明るいレモンイエロー系も、もしかしたらいけるかも」
 しかし、その色は手持ちにない。瑠璃子の肌には合わないものだからだ。
「紫もいいけど、赤寄りの紫だね」
 瑠璃子は今度は、青色、緑色のカラーを指して、
「こういう色は、血色を悪く見せてるね」
「青色や緑色を塗って、血色が良く見える人もいるんですか?」
「中には、落ち着ける色を選んだ方が顔色が整う人もいるの」
 地肌が赤いか、暗いか、日焼けしているとか。
 瑠璃子はカラー見本と書かれた、カラーバリエーション豊富な丸が描かれている紙を取り出して、ペンで丸を付けていった。
「これが杏奈ちゃんに似合う色」
 杏奈はカラー見本を受け取り、まじまじと見つめた。
「普段服を選ぶ時も、無意識に似合う色を選んでいることが多いものなんだけど、どういう色を選びがち?」
「最近は、モノトーンか落ち着いた感じの色、アースカラーが多いです」
 遊びを入れた華やかな服を着ていたのは、二十代前半の頃までだ。
 杏奈は着る頻度の高いパーカーとネルシャツを思い浮かべた。紺色と青系のチェック。杏奈にとっては制服のようになっているあかつきのエプロンも紺色だが、杏奈はそのことは黙っておいた。
「アースカラーはいいね。青色系も、ビビットなカラーじゃなくて、くすみ系だったらよさそう」
 青以外の色も、原色に近いようなものや、明るい色目のものよりは、少しくすんだものの方が良いらしい。
「似合うのは、淡いか、くすんだ暖色系だね」
「そうなんですね…」
 仕事用のシャツとズボンを買う予定しかなかった杏奈は、普段着にももう少し気を遣わないといけない気持ちになってきた。
「でも私、ピンクとかオレンジみたいな色を選ぶと、子供っぽくならないか心配で…」
 杏奈は言いながら、無意識に前髪をなでつけた。自分の顔の輪郭はやや丸く、フェイスラインがシュっとしている瑠璃子が羨ましい。
「そう?」
 瑠璃子は首を傾げた。
「無理に大人びようとしたり、シックな感じにしようとしなくていいと思うけど」
 瑠璃子はコントロールカラーをしまい、いくつもの淡色のアイシャドウや、チークを取り出した。
「ベビーフェイスを活かして、可愛らしい、女の子らしい感じにしたらいいんじゃないかな」
 化粧やスタイリングに詳しい瑠璃子に言われると、その通りにした方が間違いなさそうに思えてくる。どうせなら、化粧品も、服も、瑠璃子が選んでくれないものか。そんな想念が浮かび、悶々としている杏奈の顔を、瑠璃子はそれとなく観察した。化粧をしているが、ナチュラルメイクで、顔の部位によって色を変えるという工夫はされていない。アイライン、マスカラ、チークはなし。
「私、ラメ系が好きではなくて…」
 瑠璃子がアイシャドウの提案をすると、杏奈はそう言った。アイシャドウはブラウン系だが、グラデーションを作れるほど広範囲には塗られていなかった。
「どうしたら、瑠璃子さんみたいに化粧がうまくなるんですか?」
 顔に合う化粧品の選び方を一通り教え終わると、杏奈はそう尋ねた。
「うまいかどうかはおいといて、化粧するのが好きかどうかが重要だよね」
 瑠璃子は化粧品をしまいながら、そう答えた。
「時間がある時に、自分の顔で遊んでみて」
「はい」
 確かに、ものすごくたくさんの数のスパイスの香りを認識し、料理に使いこなせるのも、料理が好きだからだ。上達するかどうかは、興味があるかどうかによる。杏奈は化粧も同じなのだと思った。
「瑠璃子さんの旦那さんは良いですね」
 社交辞令ではなく、杏奈は本当にそう思った。
「奥さんがこんなにも綺麗で」
 杏奈はメイク落としとウェットティッシュで、腕に引いたカラーを拭き取った。
 瑠璃子はふふっと笑い、首を振った。
「沙羅ちゃんから聞いてなかった?私、旦那と離婚して、ここで親と暮らしてるの」
 杏奈は、自分が言ってはならないことを言ってしまったことに気づき、ちらっと瑠璃子を見た。
 瑠璃子はテキパキと化粧品をしまい、メイクボックスのファスナーをしめた。
「すみません…私、知らなくて」
「ん?ああ、別にいいよ」
 瑠璃子は特に気を害した様子を見せず、さっぱりと答えた。
 障子の向こうから、子供たちがわいわいとはしゃぐ声が聞こえてくる。
 瑠璃子はメイクボックスを持って立ち上がった。
「あ、もうケーキ食べる?」
 障子を開けると、ちょうど祥子と沙羅が、座卓の上にフォークと小皿を置いているところだった。
「うん。お茶も淹れるよ」
 瑠璃子は後ろを振り返って、袖をもとに戻している杏奈に声を掛けた。
「食べに行こっか」

 週明け。
 蓮は午後一時過ぎにハイウォールにやって来て、ジムの裏にクロスバイクを停めた。クリスマスイヴに振った雪は、もうほとんど解けているが、日陰には雪の固まりが残っている。
 開店間もないハイウォールは、たいてい客がいないので、蓮が壁を独占できた。
 蓮は一壁の、大きなホールドを抱えて、そのホールドに乗り込むようにして次の手を取ろうとする。しかし、その大きなホールドはのっぺりとして、掴むところが不安定。どうにも体が上がらない。手に吸盤でもついていれば、体を支えられるだろうが…
「体が離れとる」
 蓮が何度か落ちた後、藤野は休憩スペースからアドバイスをした。
「どうすればいいの?」
 蓮はホールドに右手を置いたまま、藤野を振り返った。やや伸びた無造作な髪の毛で、くしゃくしゃっと揺れる。
 藤野はマットに上がり、壁に近づいた。
「手の力で上がろうとするから登れんのだ」
「それは前から聞いてるよ」
 藤野はマットに腰を下ろし、靴下のまま、ホールドに足をかけた。
「この時点で、もっと右膝を開いて、体を壁によせろ」
 藤野の体は、壁にぴたりと張り付いた。
「肘を曲げるな。右足に乗って、体を壁から離さないようにしながら、ぬっと上に手を伸ばせ」
「分かった」
 藤野は壁から離れ、蓮のトライを後ろから見守ろうとしたが、
「こんにちはー」
 声が聞え、すぐにその場を離れる。どさっと後ろで蓮が倒れる音がしたが、振り返りもしない。
「どうも。いらっしゃい」
 やって来たのは、スキンヘッドの長身の男、ふさふさとした髪のややふくよかな顔をした男、髪を一つに束ねた細身の女性の三人だった。よく来るこの団体客は、近所の歯医者の歯科医師と、スタッフたち。午後の診察までの短い時間、ジムで登っている。
 藤野は三人分のカードを受け取り、木のオブジェに差し込んだ。
 蓮はジムスペースで三人がストレッチを始めると、軽く挨拶をする。
「もう冬休み?」
 ふさふさとした黒髪の、若い方の男が蓮に尋ねる。歯医者組の三人は、蓮の姿をここでよく見ている。
「はい」
 蓮は返事をすると、一壁の課題を一旦中止し、長物課題に取り組んだ。
 スキンヘッドの歯科医師らしい男は、長身も手伝い、もう課題のレベル的に、蓮を追い越している。もう一人の男と蓮が、同じようなレベル感だが、それもすぐに、蓮の方が追い越されそうである。
 それでも三人は口々に、蓮はよく練習していて、登るのがうまいと言い合った。登っている蓮にも彼らの声は耳に入ってくる。なんだかこそぐったいような気がして、蓮は長物を終えると受付スペースに移った。
 手を洗い、リュックからパンを取り出す。母が朝作った昼食を食べたのだが、このところ、どうもお腹が空いて仕方がない。ジムまで自転車で来て一時間も登れば、もうお腹がぐーぐーと鳴っている次第である。
「お前、少し背が伸びたな」
 藤野はカウンター越しに、ベンチに座ってパンを食べる蓮を見て言った。ウインナーが挟まれている総菜パンに口を大きく開けてかじりつきながら、
「少しね」
 と、もそもそ言った。
「新しいクライミングシューズがほしい。藤野さん」
 成長期の男子は、靴もすぐサイズオーバーする。クライミングシューズは安くはない。体の成長が著しい間は、レンタルすればとも思うのだが、蓮のジムに通う頻度からすると、都度レンタルするのはもったいない。
「クリスマスプレゼントに、買ってもらえ」
「ガキかよ」
「別のものを貰ったのか」
「ちがうって」
 クリスマスプレゼントを母にねだっていたのは、小学五年生くらいの時までだ。ケーキも、ここ二年は食べていない。もっとも、クリスマスケーキなんか食べて喜んでいたら、女子みたいだが。
─ばあちゃん。
 それに、今年のクリスマスは、プレゼントだの、ケーキだのと言っている場合ではなかった。
 足が悪い認知症の祖母・うめが、どこかへ行こうとして、ベッドから落ちた。その時、看護師をしている母のすみれは仕事に行っていた。
 その日は初雪が降り、夕方になっても、路面にはまだ雪が残っていた。蓮は家でゲームをしていたのだが、鈍い音を聞いてうめの寝室に行くと、うめがベッドから落ちて呻いている。なんともいえないアンモニア臭がして、うめの腰に手を当てると、尿が漏れていた。
─どうしよう。
 うめは脚と腰が痛いという。着替えをさせてやりたいが、普段介護の手伝いをしていない蓮には、要領がつかめなかったし、抵抗があった。
 とにかく、固い床に転がっているうめを、柔らかいベッドの上に乗せなければ。ベッドが汚れないよう、タオルを重ねて敷き、背後から支える形で抱き上げようとした。容易には持ち上がらなかったが、悪戦苦闘の末、なんとかベッドにうめを横たえた。
 すみれに連絡するが、勤務中で出てくれない。
 蓮は焦った。
 結局、時々家に来てくれるヘルパーさんに急遽来てもらった。腰を打っており、青あざになっている。内部出血しているといけないので、病院に行った方がいいとのこと。だが折しも土曜の夕方で、すぐには対応できない。
 蓮はうめに夕食を摂らせながら、みじめな気分になった。テレビはクリスマスの特番ばかり。クリスマスなんて気にしていないけれど、この時ばかりは、他の家の子が今日どのように過ごしていて、どのように自分と違うかを思ってしまった。
 うめは夕食を受け付けなかった。蓮のことを孫だともう認識できていない祖母。蓮も、この時ばかりは食欲が減退した。
 すみれは帰ってくるなり不機嫌な様子でため息をついた。
─こんなにタオル使って。
 排泄物のシミがつかないよう、蓮がベッドに敷き、そのままになっていたタオルを、すみれは荒々しく回収した。
─洗濯物が増えちゃうじゃない。
 すみれの機嫌を損ねないように配慮してやったことなのだが…何をしたって、すみれの機嫌は損ねられてしまうらしい。
 蓮は、手つかずのまますっかり冷めてしまった夕食を、キッチンで一人で摂った。
 今朝、九時になる前に、すみれはうめを車に乗せ、病院へ向かった。職場に持って行く鞄と、いつも車内で朝ごはんとして食べる、菓子パンを二つ持って。老人施設に直行し、その足で職場に向かうと言っていた。
─悪いけれど、今日はお昼ごはん適当に食べてね。
 仕事と介護で疲弊していても、すみれが蓮のために食事を作らないのは珍しい。それほどにすみれは忙しい。介護との仕事の二足の草鞋が長年続いているので、体力的にきつくなっているのかもしれない。
 蓮は朝、菓子パンを一つ食べ、昼は冷凍チャーハンだけで済ませた。
 そんなことがあったばかりの家にいるのも心が晴れず、蓮は、夏以来お気に入りの場所となったハイウォールに身を寄せている、というわけだ。

 総菜パンを平らげると、蓮はさっそくジムスペースに戻ろうとしたが、藤野に店番を頼まれた。
「食べてすぐ登ると胃がびっくりするぞ」
 うまいこと理由をつけて、藤野は野暮用を済ましてくるといって出て行った。
「ナベちゃん、すっげえ上達してね?」
 壁の方から、客の声がする。
「いえぃっ」
 明るい色の短パンに、黒いレギンス、白いティーシャツを着た女性は、休憩スペースにいる男二人に、可愛らしくピースサインをしてみせた。
 蓮はちらっと三人のほうを見て、またくるりと背を向け、カウンターに肘をつける。藤野のいつものポーズだが、伸びたといってもまだ背の低い蓮が同じポーズをしても、肘が上がってしまい、なんだか不格好だ。
「暇だなぁ」
 毎日ここで客の様子を見守っている藤野も、暇で退屈に感じることもあるのだろう。蓮に店番を頼んで、外出しようとする気持ちも分かる気がした。
「誰か来ないかなぁ」
 田沼、中野、君塚…サラリーマン組は、年末といえどこんな平日の昼間からやって来ることはない。前原は、今日は日勤だろうか。順正は…ジムではあれ以来、一度も見ていない。
 蓮は外に出て、犬小屋で大人しくしている南天丸を見やった。
「ずっと同じところにいると、お前も退屈だな」
 蓮は南天丸に声をかけに行った。南天丸は時々耳を動かすだけで、蓮のほうに駆け寄りはしない。
 三十分もすると藤野が帰ってきた。
「ほれ」
 帰ってくるなり、蓮に温かい缶入りのコーンスープを渡す。
「ありがとう」
 スリムな缶を、蓮は両手で包み、手を温めた。
 藤野はジムスペースにいる三人に、コーヒーを飲むかと尋ね、コーヒーメーカーでコーヒーを作り始める。
「おれだけコーンスープ?」
「お前、コーヒー飲めるのか」
「そのままはやだな」
「じゃあそれでいいだろう」
「牛乳入れれば飲める」
 ヘンっと藤野は笑った。
「まだ子供だな」
 蓮はカウンター側の空間から、三人の様子を眺めた。そして、オブジェに差し込まれた定期カードを見る。
─渡辺遥香。
「あの女の人って」
 こそっと藤野に話しかける。
「前原さんの彼女?」
 藤野はうっすら笑いを浮かべながら、頷いた。
「だから上達が早いんだ」
 前原と一緒にクライミングデートしている現場は見たことはないが、教えてもらっているのだろう。だが、藤野はそうではないと首を振った。
「コソ練しに来とるんだよ」
 藤野は絵柄がバラバラの、白いカップにコーヒーを注ぐ。
「男たちより熱心だから、直に強くなるよ」
 前原の趣味を、自分の趣味にしようとしているらしい。
「けなげじゃないか」
 蓮は手の中で、コーンスープの缶をくるくる回した。
 付き合って、結婚して…子供をつくるのだろうか。そして子供が大きくなったら、年老いた自分たちの面倒を、その子供に看てもらうのだろうか。では、子供がいない人は、誰に面倒を見てもらうのだろう。たとえば、この藤野は。
 蓮はコーヒーが沸くのをじいっと見ている藤野の横顔を眺めた。
「どうした」
 視線に気づかれて、蓮は顔を正面に戻す。
「なんでもない」
 店番は終わったというのに、まだ藤野の隣に立って、カウンターの中にいる。
 蓮にとって、結婚とは、子供をもうけるとは、結局、老後の自分の面倒を看てもらうための布石にしか思えない。
 藤野はジムスペースに向かって声を張り上げた。
「コーヒー、入りましたんで」
 三人がキリのいいところで練習を中断し、受付スペースに入って来る。
 蓮は上着を羽織り、吸水皿に水を入れて南天丸に持って行った。南天丸は水を見てもあまり乗り気ではなさそうだったが、小屋から出て、蓮の方へ歩み寄った。手綱がジャラ…と音を立てる。
 缶を開けると、まだ湯気が立った。水を舐める南天丸の頭を撫でながら、
「おれも強くなりたいな」
 蓮は小さく呟き、コーンスープを飲んだ。

 


 

前の話へ戻る  》次の話へ進む

》》小説TOP

 

 


LINEお友達登録で無料3大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします

友だち追加