171万、118万人、77万…
翌早朝。美津子は居室にて、三つの数字を並べてみて深い感慨に耽った。
これが何の数字だか分かるだろうか?
美津子が生まれた1964年の出生数は171万、杏奈が生まれた1995年の出生数は118万人、そして前年、2022年の出生数は77万であった。
この数字の推移をどう捉えれば良いだろうか?
美津子と杏奈は親と子ほどの年の差があり、杏奈は今、子供をもっていてもおかしくない年齢。この3世代の間に、出生率は実に半分以下になったのだ。
古事記にはこんなエピソードがある。
イザナギという男の神とイザナミという女の神がいた。二人は夫婦となり、日本の島々と多くの神を生んだ。しかし、火の神を生んだ時、イザナミは死んでしまい、黄泉の国へと逝く。
イザナギは妻のことが忘れられず、黄泉の国へ行ってイザナミを連れ戻そうとしたが、イザナミはすでに黄泉の国の食べ物を食べてしまい、現世には戻れなくなっていた。 しかし、イザナミは黄泉の国の王に相談することにする。イザナミは「その間、絶対に覗いてはいけない」とイザナギに伝えたが、イザナギは待ち切れず戸口を開けて中を覗いてしまった。するとそこには恐ろしい姿に豹変したイザナミの姿があった。イザナギは恐れをなして逃げ出し、黄泉比良坂まで辿り着くと、その入り口を大きな岩で塞いだ。追いついて来たイザナミは岩越しに、「こんなことをするならあなたの国の民を毎日千人殺す」と言った。イザナギはそれに対し、こう返した。「それならば、私は毎日千五百人生まれるようにしよう」と。
こうして二人は分かれ、地上では毎日千人が死に、千五百人が生まれるようになった。
─今は、その逆…
生まれる命よりも、死に行く命のほうがはるかに多い。
イザナギが死よりも多く生を求めたのは、それが国の繁栄につながるからであろう。
子は国の宝だ。だが、日本の宝は失われている。
なぜか?
─男性性と女性性の…
美津子は、シンプルな言葉で、その理由を考える。
─アンバランスが起きたから…
男女平等に高度が教育を受けられるようになった。男女関係なく、この社会でどのように活躍するか、どんな職に就き、何を成し遂げるかということに重点が置かれるようになった。
一方、妊娠・出産・子育てがいかに素晴らしい仕事であるか、いかに必要なことであるかは、あまり言及されない。むしろ、それを強調することは女子に対する脅し、禁忌のようにすらみなされている。
しかし、男女平等に教育を受ける機会ができても、平等に社会で働けるような仕組みができても、女性の妊娠可能期間を伸ばすことはできない…卵子凍結、という手はあるが。
女性の体がいかに宝物であるか。一時、自分のキャリアを、他の夢を、中座して妊娠・出産・子育てに専念することへの葛藤・不安に耳を傾け、両立のためにどんなサポートが受けられるか。
若いころに、こういったことをそっと教えてくれる人たちがいたら、それは素晴らしいことだと思う。
─そして…
あかつきは、その教育ができる可能性を秘めているのだ。
そして今、そのチャンスを得ている。
美津子が居室にて感慨に耽る少し前…杏奈が朝食の準備と昼食の仕込みに母屋に入る頃、書斎にはすでに電気が灯っていた。
結衣がそこにいる。パソコンで何か作業をしている。理久は、まだ寝ているのだろうか。
静かに挨拶をすると、結衣は顔を杏奈の方に向け、ぺこりとお辞儀をした。
─結衣さんも、自営業だったっけ。
きっと、休みに来ていても、やることがあるのだ。
朝食前に咲子の舌診を行った。
「浄化は進みましたね」
今日から朝晩、咲子には、チャワンプラシュを摂取してもらう。生命の妙薬として知られる、伝統的なアーユルヴェーダの若返りのジャムだ。組織から過剰なドーシャやアーマが取り除かれた後食べると、栄養が深層深部に行きわたる。アムラをはじめとするスーパーフードやハーブ、その効能を組織へと運ぶアヌパンで構成されている。
午前中の施術は、二人ともシロダーラ。咲子を美津子が、結衣を沙羅が担当する。
今日は快と七瀬は来ていない。杏奈は、二階の客間で、理久を遊ばせた。沙羅が置いていってくれた、あんぱんの顔をしたキャラクターとその仲間たちの人形が功を奏し、理久はご機嫌で遊んでくれている。杏奈は一昨日、昨日と、理久の相手をし、子守の大変さを部分的に思い知ったところ。
─育児をしながら仕事するって…
至極大変なことだ。
特に、時間で区切って終わる仕事ではなく、結衣がしているネイルサロンの運営というような、仕事に際限のなさそうな自営業をしているならなおさら。
ずっと全力で、子供の相手をすることは難しいものだ。かといって、ただぼーっと見守るのも、暇。杏奈は理久の相手をしながら、何度も意識が他のところに飛びそうになった。昼食の段取り、咲子と結衣の進捗管理、今日のインスタの投稿、午後から咲子の夫を迎え入れる準備…。やることがたんまりあることを意識しながらそれに取り掛かることができず、ただ子供の相手をするというのもストレスがかかる。
結衣は、もう二年以上もの間、仕事に集中することもできず、わずかな保育園の利用時間と、子供が寝ている時間だけを利用して、ネイルサロンで結果を出してきたというのか…
「月商二十万って、相当大変ですよね」
と言ったのは、廊下を挟んで客間の隣にある施術室で、オイルを塗布している沙羅だった。フルタイムで働いているならまだしも、土日および保育園に預けている間のサービス提供で、よくそこまで稼げたものだ。
「はい。理久は来年の四月には幼稚園ですが、正直、二人目をもつなら、また最初からこれを繰り返すのか…と、ぞっとすることもあります」
それでも、第二子を持てるのであれば、そんな困難は問題ではないと、結衣は思っている。
「あかつきにいる間も、仕事してましたか?」
「はい…滞在中は、リラックスして過ごすことが大事って言われましたけど」
この施術を受けている間は、リラックスしている。普段、リラックスする時間など、ほとんど持てていないことを思えば、これだけでも十分だと、勝手に結衣はそう思っていた。
全身にオイルを塗布すると、結衣の肩がベッドの端にかかるように仰向けに寝てもらい、真ん中に穴が開いたドーナッツ型のヘッドレストに後頭部をのせる。
「シロダーラしていきます」
沙羅は静かに声をかけ、シロダーラポットからオイルを垂らした。温かい、ハーブを煎じたブラックセサミオイルが、額から頭部、髪に流れていく。
シロダーラは、脳内を瞑想状態に導き、思考を止め、頭を空っぽにし、リラックスさせる。結衣が悩んでいるという薄毛にも良い。定期的にシロダーラを受ければ、白髪、抜け毛を患わず、頭髪は黒く、長く、毛根が強くなることが期待されている。
「眠くなったら、寝てくださいね…」
沙羅はゆっくりとポットを左右に動かしながら声をかけた。
一階では美津子が咲子に対し、オイル塗布を行っていた。
「今日からご主人がいらっしゃいますね」
「はい」
「午後は、二人でどこかへおでかけになりますか?」
「私が午後の施術を受けている間、夫は足込温泉に行くと言っていました。でも、その後また、夫とあの梅林に行ってみようと思います」
「それはいいですね」
美津子はうつぶせになっている咲子の脚にオイルを塗りつけた。
「今日までの滞在で、リラックスできましたか?」
「はい」
咲子は顔を横に向け、小さく答えた。
「滞在中は、なるべく不妊治療のことを考えないようにしようって思ってたんですけど…」
「考えちゃいましたか」
「はい」
「まあ、アーユルヴェーダの講義もありましたし、無理もありませんね」
さらに今回は、たまたまではあるが、小さな子供が目につくところにいた。
「結衣さんも子供のことで悩んでいたんですね」
咲子は講義においてワークや議論をする中で、それを知った。
「夫は、子供をもつことに肯定的でいてくれましたけど、もしそうでなかったら、一人で何してるんだろうって…虚しくなっちゃうと思います」
特に不妊治療の場合は、お金も時間も要し、身体的な負担も伴う。両親のどちらかでも抵抗がある場合は、続けることは困難だろう。
「事前コンサルの後、あかつきに一緒に滞在しない?って、私から夫に頼んだんです」
「そうなんですか」
両親とも健康でいることの大切さを考え、咲子はそのように言ったのかもしれない。
「一緒に来てくれるなんて、旦那さん、優しいですね」
「そうでしょうか」
咲子はそう言ってから、自嘲するように笑った。
「自分と同じくらい、努力して当然だって思ってしまう自分がどこかにいます」
美津子は足先を手で温めた。細い脚、冷たい足先。
「アーユルヴェーダの施術を受け、生活にも取り入れることは、妊活に役立つと思いますか?」
そう言ったのは、咲子ではなく美津子だった。
「はい…そう思ってます」
咲子は、美津子の問いかけを意外に思った。それは、クライアントがするような質問である。
「旦那さまは、アーユルヴェーダの考え方に納得感を持てているのでしょうか」
「それは…あまり、理解がないと思います」
アーユルヴェーダを学んでみたいと言ったときも、明らかに、咲子の意図を汲みかねるといった顔をしていた。だが、咲子の気が済むのなら、なんでも試してみろと。
「妊娠を望む女性がアーユルヴェーダを学んでいて、パートナーにも同じ道を進んでもらいたいと思っていても、パートナーに疑いがあったり、怖がったりしているのなら、功を奏さないかもしれませんね」
「…」
「心と体はつながっていることは、否定できません。納得感がなく、疑いや恐れがある時、身体が緊張・収縮し、マインドがブロックされ、そこから抜け出せなくなります」
「どうすればいいのでしょうか」
美津子は背中へ、オイルの塗布を始めた。
「残念ながらこの場合は、相手が心を開き、歩み寄るまで、待っている必要があります。咲子さん自身が心地よくなっていく姿を見せることで、旦那さまも少しずつ、咲子さんのやっていることに興味を示すようになるかもしれません」
「美津子さん」
「はい」
「ここに来るお客さまの中には、不妊の方はいらっしゃいますか?」
「はい、いらっしゃいますよ」
「その後、妊娠した方はいらっしゃいますか?」
「いらっしゃいます。けれど、妊娠しなかった方もいます」
「…」
「妊娠までの過程は、人により様々です」
美津子は、柔らかく咲子の背中を手でなぞりながら、温和な口調で話した。ある女性は簡単に妊娠し、ある女性はカレンダーを見ながら計算し尽くした後に身を委ねる。また、ある女性は医師の診断を受け、体外受精を行う。
忙しい現代の女性は、キャリアや年齢を考慮して、妊娠をコントロールしようと思うかもしれない。妊娠するなら今しかない、というように。
「なかなか妊娠しない場合は、できることはすべてやったと思うまで、あとは自然に任せようという気持ちにはならないかもしれませんね」
「はい」
自分はまさにそのステージにいると、咲子は思った。
「けれど、私は、妊娠を望む女性には、コントロールではなく受容の姿勢をもってもらいたいんです」
美津子がそう言った時、咲子は、この空間に流れる空気が変わったと思った。美津子の声はとても澄んでいて、声が波動となって、全身に浸透するようであった。
「妊娠は、自分の考えや行動に関わらず、必ずしも望む答えや結果が出るものではありません」
反対に、思考や行動が妊娠の方へ向いていなくても、思いがけず妊娠する人はいる。
「心がけるべきことは、答えや結論が分からない暗闇の中にいる時に、快適に過ごすことを追求することです」
その言葉を聞いた時、咲子は鳥肌が立ったように感じた。その咲子の反応を、美津子もまた感じ取る。
咲子は、体外受精の結果を待つ間の、期待と不安に満ちた、安らぐことのない待ち時間を思い出した。とてつもなく、長い時間に感じられた。
「答えを急ぎ、結果をコントロールしようとすることから、遠ざかるのです」
「でも…やっぱり焦ってしまうんです。年齢のこともありますし」
「分かりますよ」
美津子はなだめるように言った。
妊娠したい。そのためにできることは何でもする。事前コンサルの時から、咲子のその気持ちは痛いほどに分かっている。
「もし生まれてきてくれたら、いつだって傍にいるのに…」
咲子は、ぎりりと奥歯を噛み合わせた。
─私がこの世を去る、その日まで…。
なのに、どうして自分のところには来てくれないのだろう。
美津子は労わるように、咲子の肩にオイルを塗った。せっかく緩めたというのに、また幾分かこわばってしまっている。
「コントロールして欲しいものを手に入れること以外にも、素晴らしいことは、この世に溢れていますよ。結果を求めるあまり、その素晴らしいことや、結果へと導いてくれる贈り物を受け取る余地がなくなってしまうかもしれません」
美津子の透明な声の波が、咲子の全身を通る。
「妊娠は、女性の中に複数の存在が表れることです。妊娠するということは、女性が何かを『作る』のではありません。女性は器なのです」
だから、受容なのだ。
「重要なのは、器として受容の状態を取ることであり、作ろうとコントロールすることではありません。影響を与えようとすることはできても、コントロールすることはできないのです」
室内はエアコンの音以外はひどく静かで、美津子の声は小さくとも、部屋全体に浸透するような確かな響きをもっていた。
「自分の環境でできる限りのケアをし、パートナーと深くつながり、そしてサイコロを振るのです。あとは、コントロールできる範囲を超えています」
美津子は腕の隙間から、咲子の横顔を垣間見た。重力に従って、目頭から、涙が流れていた。
「咲子さん、シロダーラに移りますよ」
「は…はい」
咲子はもぞもぞと身体をよじって、オイルでしっとりとした指先を、目頭に当てた。
「シロダーラの間は、ただ体を緩めて、リラックスしていてくださいね」
「はい」
咲子に体勢を変えてもらい、タオルをかけ直すと、美津子はシロダーラスタンドを移動させた。
ポットを両手で挟んで持ちながら、美津子は、その一念に集中し、オイルを垂らした。
咲子が、思考や浮かんでくる想念から解放され、ただ頭を空っぽにしてくれますように…。
「旦那がメンタルを病んでいるのに、次の子供を望むって…私、間違ってるんでしょうか?」
シロダーラが終わり、しばらくして意識がはっきりしてくると、結衣はふいにそう呟いた。
結衣をタオルにくるんだまま、しばらく仰向けで寝てもらおうと思っていた沙羅は、オイルポットの外側についた油を拭き取る手を止める。
「向こうの両親は、旦那が落ち着いて、理久が幼稚園に上がるまでは、待った方がいいって。私の母は、子供は一人でもいいじゃない、って」
結衣は天井を見つめながら、瞬きをした。
「子供は、夫婦で一緒に生活をして、仲良くしていた結果できるものだって言うんです。私のように、子供ありきで、夫婦生活をするのは順序が違うと…私にも、それは分かってるんです」
その子が幸せに生きていくための土壌(環境)が整っていないのにも関わらず、自分の一方的な思いだけで子をもつことは必ずしも正しいとはいえない。捻じれた家庭環境で育った場合、子供に何らかの影響が及ぶ。たとえば、昨日小須賀が言っていたようなこと…家庭を持ちたいという希望を持たなくなる、などの精神的な影響が。
「子供って、かわいいですよね。特に赤ちゃんは」
沙羅は顔に笑みを浮かべて、
「一度そのかわいさを知ってしまうと、またそのかわいさに出会いたくなります。一人目の時とはまた別の、かわいい我が子に会いたくなる。子供が欲しいと思うことに、理由なんて要りませんよね」
結衣は天井を見上げながら、沙羅の言うことに耳を澄ませた。タオルの中で、じわじわと発汗しているのが感じられる。
「子供が欲しいっていう気持ちが先でもいいじゃないですか。周りがどうこう言っても」
沙羅は結衣の視界に収まる位置に立ちながら、再びオイルポットを拭き始めた。
「美津子さんは、心と身体の毒を溶かすことで、パートナーのことをしっかり見て、一緒に歩むために必要なことを考えられるって言ってました」
結衣は沙羅のほうに少し視線を向けながら、
「でも、私、一緒に歩みたいのかなって思って…私、夫が病んでるって知った時、離婚したくなりました」
沙羅は結衣のほうへ視線を向けた。しかし、特段驚いた顔はしなかった。
「離婚すれば、他の人との間に子供をもつチャンスはあるっていうくらいに考えてました」
子供がほしいという、母親の凝念…。それは、そんな考えにまで思考を発展させるのか。沙羅は内心、ほとんど執着になっているようにも思ったが、だからといって結衣を非難するような気持ちは何も浮かばなかった。
「どこに向かって努力すべきか、分からなくなりました。旦那との関係を良くする方なのか…それも、妊活に賛成してくれなくてもいいという気持ちでそうするのか、妊活に賛成してもらうためにそうするのか…それとも、離婚してもやっていけるように努力するべきなのか…でも、理久のことを思うと、やっぱり実の両親は一緒にいた方がいいと思うし…精神が不安定な夫のことを思うと私も憂鬱になるんですが、それだけじゃなくて、結局私が夫を傷つけたのかもしれないと疑うこともあって」
知らずに、夫を傷つけたこともあったかもしれない。仕事を終えて帰ってきても、妻は子供の相手に必死で自分の話には聞く耳持たず。笑顔を想像して買ってきた花束も、ただ無造作に花瓶に入れられるだけ。
「結婚前にどんなに仲が良かったカップルでも、お互い余裕がなくなれば、良いところを見られなくなることもありますよ」
「そうですね…産後、すっかり性欲がなくなっちゃったのも、いけなかったかな」
「ああ…そういえば、私も第一子の出産後は性欲がない時期ありましたよ」
沙羅は遠い昔を思い出すように天井を仰いだ。結衣は同士を見るような目で沙羅を見た。
「そうなんですね」
「はい。性欲がなさすぎて心配になりました」
授乳の期間が長かったことも、その理由かもしれなかった。授乳中はプロラクチンというホルモンの分泌が増加し、性欲の低下を引き起こすということが科学的に証明されている。当時、世話になっていた助産師や、先輩ママが、「そういうものだよ」「私もそうだったよ」と言ってくれたので、沙羅は少し安心した。
「旦那さんはその時、傷ついた感じでした?」
結衣は顔だけ起こし、沙羅に尋ねた。
「ええ…私も本当に時々、義務的にそれに応えなきゃと思って…」
しかし、性欲がないままでは、身体的な苦痛があるばかり。初めての授乳と育児でくたくたになっているところで行うそれは、夫への奉仕活動としか思えなかった。
「分かります」
結衣は顔を元に戻し、仰向けの状態のまま頷いた。沙羅は当時のことを思い出しながら話を続ける。
「私も二人目を望んでいたので、この性欲のなさは、ちょっとまずいなと思い始めたんです。それで、性欲がなくなった原因をいろいろ考えましたよ。もちろん、授乳中はホルモンの関係で性欲が減退することは分かっていたのですが…自分が夫をどう見るようになったかを、自分なりに考えてみたんです」
夫を男ではなく、家族と思うようになったのだろうか。夫がどんなに協力的でも、やってくれていないことの方に目が向き、憤ったのだろうか。夫は毎日決まった時間仕事に集中できるのに、自分はキャリアを中断したことに対する、妬みや、不満があったのだろうか。
「私は夫を、自分の手が塞がっている時に育児や家事をこなしてくれる、自分の分身のように思っていて、思い通りにならないと、不満を抱くようになってしまったのかもしれません」
でももし、それが性欲を失った理由であるのなら、起因は夫にだけあるわけではない。勝手に期待を抱き、勝手に打ち砕かれたと感じて、不満を抱いたのは、自分の心の作用。もし夫でない、別のパートナーだったら、そうならなかったという保証はあるだろうか。
「変えるべきであり、かつ、変えることができるのは、自分の内側だけだって思ったんです」
「どうしたら変われるんでしょう」
結衣は思った。もう一度、夫を愛しい男性として見ることができるようになるのだろうか。
「変わるためにどうしたら良いか…人によって違うと思います。でも、ちょっとしたことで良いと思います」
休んだり、スケジュールを遅らしたり、一日数回立ち止まって呼吸したり…というような。性欲低下、パートナーへの愛情の欠如は、オージャスの減少に関連している。オージャスを生成するには、ストレスを減らして、過労を避けて、よく寝て、規則正しく食事して…という、基本的なことがとても重要なのだ。
「コミュニケーションは、大事ですよね。まずは春休みに、旦那さんとデートに出かけてみるっていうのはいかがですか?」
「デート…」
「はい。理久くんもいていいと思いますけど、その気になれば、お二人ででも」
「家族旅行は、旦那の親からも、うちの親からも勧められました」
「そうですか」
「はい…でも一緒にいる時間が長くなると、アラばっかり見てしまいそうな自分がいて…」
「行ってみたら、意外と楽しいかもしれませんよ…」
沙羅は、多少無責任でも、前向きに捉えられるよう、背中を押すしかなかった。
赤ちゃんを欲しているのに、性欲がない場合、自然に性欲が回復するよう、あらゆる試みをしなければならない。
咲子は私服に着替え、結衣よりも一足早く、応接間でお茶を飲んでくつろいでいた。
「すみません、場所に飽きてしまったみたいで」
居間から杏奈は咲子に声を掛けた。客間で遊ぶのでは物足りなくなった理久を、杏奈は庭に連れ出していたのだが、先ほどからは居間で遊ばせている。
「大丈夫ですよ」
咲子は口元に微笑を浮かべて言った。
理久は小さな足を投げ出して、何やら難しい顔で、お買い物セットと人形で遊んでいる。こんなに小さくても、自分なりの遊び方があるのか、うまくおもちゃを扱えないと、困り顔になる。
─かわいいなぁ。
一生懸命おもちゃで遊ぶり理久を見て、咲子はそう思った。
夢中になっているように見えるが、その実、ずっとお母さんのことを待っている。今か今かと、お母さんに会いたがっているのだ。小さな子供は、自分の気持ちを言葉では伝えられないのだけれども、言外に伝わってくるものがある。お母さんがいなくて寂しいのに、おもちゃで遊んで気を紛らわしている理久が、咲子には可愛く見えたし、いじらしかった。
美津子から、小さなお子様を連れた母親が同時期の滞在を希望しているが、構わないかと打診された時、咲子には一抹の不安があった。小さな子供を見て、自分がどんな感情を抱くか。けれど、実際に会ってみれば、理久や、スタッフの子供だという女の子たちも、素直に可愛いと思った。
もともと子供が好きで、英語教師という仕事を通して、他人の子の教育に携わってきた。
─子供の成長を見るのは楽しい。
もちろん、子供を育てるのは楽しいことばかりではない。思春期の学生を見て、この子の親は大変だろうなと思ったことも何度となくある。それでも、子がいない人生の方が、咲子には耐えがたい。
─やっぱり私は、子供がほしいんだ。
咲子はきゅうっと心が締め付けられるような心地がした。顔を正面に戻して、目を瞑る。
「あ…」
杏奈は、垣根の向こうで、一台の車が往生しているのを見つけた。咲子の夫だろうか。
「旦那さんがいらっしゃったかもしれませんね」
「本当ですか」
「ちょっと駐車場へ誘導してきます」
と言って杏奈は立ち上がったが、理久を残しては行けないことに気が付いた。
「大丈夫ですよ。私見てます」
咲子がそう言ってくれたのでほっとし、杏奈はその場を去った。
理久は今、自分の世界に入ってお買い物ごっこをしている。
咲子はレモングラスの効いたハーブティーを飲みながら、施術後の、じんわりと温まった身体を心地よく感じた。シロダーラをしたためか、なんだか頭がぼーっとしている気がする。
「まんま…」
その時だった。今までおもちゃだけを見つめて、困り顔で遊んでいた理久が、きょろきょろと周りを見渡した。世話をしていた女の人もいなくなって、自分だけ取り残されたと思ったのだろうか。
「まんま…」
子供は泣く時まで、実に一生懸命である。先ほどまで、皺ひとつなかった顔が、急にしわくちゃになり、理久はうわーんと泣き出した。
咲子は、慌ててカップを置いた。今はすぐに対応ができるスタッフもいない。結衣も、まだ上にいる。
─どうしよう…
咲子は滞在中、理久に構うことはあまりしないでおいた。そうしなかったことに、大きな理由はない。ただ、なんとなく気が進まなかっただけだ。
でも今、理久をなだめられるのは、自分しかいない。
咲子は理久のほうへ走り寄って、正面から理久を抱っこした。
─重い。
まだ理久は、二歳半。それでもその重さは、普段子供を抱っこしていない咲子の細腕には負担がかかった。
そして…
─温かい。
「うわあぁん」
理久は顔をくしゃくしゃにして、鼻先や頬を赤らめて、咲子の脇原あたりの服をぎゅっとつかんだ。
「大丈夫だよ。いい子だね~、いい子…」
咲子は理久を抱きしめて、頭を撫でた。咄嗟に、理久にかける言葉が分からず、咲子は体を左右にゆすりながら、ふと頭に浮かんだ童謡を歌い始めた。
トン、トン、トン。
規則的に理久の背中を、手で優しく叩く。小さい子供のあやし方など、誰にも教えられたことはない。
それは本能だった。
玄関扉を開ける杏奈の後ろには、咲子の夫・大樹が続いている。
─ん?
玄関に入ると、かすかに女性の歌声が聞こえる。
杏奈は案内も後回しに、靴を脱ぎ、居間へ戻った。書斎側の居間への入り口に立った杏奈は、咲子が背を向けて、床に座り込んでいるのを見た。
体が左右に揺れ、鼻歌を口ずさむように、童謡を歌っている。暖房設備の稼働する音以外には、物音がほとんどしない。その小さな歌声は、その場に居合わせた咲子の夫と、ちょうど施術室から出て来た美津子の耳にも届いた。
「…」
繊細な歌声、正座をして幼子をあやす、ひたむきな姿。
杏奈は沈黙の間、時間が止まったように感じた。
「咲子」
沈黙を破ったのは、咲子の夫、大樹だった。
歌うのを止め、咲子は振り向いた。その細い体躯に、理久はコアラのように抱き着いていて、幾分落ち着きを取り戻したようだった。美津子は応接間から、その様子を眺めた。
咲子は体の向きを書斎の方へ少し向けた。杏奈は急いで、理久を引き取った。
「すみません…ありがとうございました」
「…急に泣き始めちゃったので」
咲子は、床に手を置いて、立ち上がった。
「早かったね」
咲子は夫に視線を向け、少し微笑んだ。
大樹は、平均よりもやや背が低く、骨格がしっかりしている。わずかに色黒で、髪の毛は黒々とした短髪だった。ベージュのチノパンに、紺色のセーター。黒いリュックを背負い、黒いダウンコートを腕にかかえている。
「どうぞ。今お茶をお出しします」
美津子は洗濯物を脇に抱えながら、大樹に椅子をすすめつつ、理久を抱っこした杏奈に歩み寄り、理久を抱き取った。杏奈には昼食の準備をしてもらわなければならない。
「明日は晴れるみたいで、よかったですね」
美津子は理久を抱っこしてあやしながら、大樹に話しかけた。
「普段は全然運動していないので、ついていけるかどうか…」
大樹は、自信なさげに顔を掻いた。
「いいな。私もちょっと登ってみたかった」
咲子は大樹の隣に座りながら、羨ましそうな顔をする。
「咲子はちゃんと施術受けなきゃ」
なんのためにあかつきに来たんだという口ぶりである。
杏奈がお茶を運び、大樹の前に置く。咲子に出しているのと同じハーブティーだった。
美津子は、目の前の夫婦二人に向き直り、
「施術の目的は、体内毒素を追い出して、新しい良いものを吸収しやすくすることです。そういう意味でいうと、登山で体を動かすのも、とても効果的といえます」
代謝が高まり、アグニが強化される。
「疲労困憊させてはいけませんが、適度な運動は、これからもお二人で続けられるといいと思いますよ」
食事の質や量を調整することはもちろん、適度に体を動かし代謝を促すことでも、消化は促される。アグニの状態が良ければ、体組織の構築も効率的に進む。
美津子が応接間で対応をする一方、キッチンに入った杏奈は、忙しく手を動かし始めた。
昼食のメニューは、チキンマリガトーニースープと、バスマティ米、春菊の炒め物である。これとは別に、理久のために、白米と、スパイスを抜きにした、鶏ひき肉と野菜のスープを用意する。杏奈はスープに火を入れ、バスマティ米を洗った。ほとんどの料理の仕込みをしてあるが、子守に時間を取られてしまったので、いつもよりも余裕がない。
マリガトーニーは、南インド料理発祥のスープで、タミル語で「胡椒水」を意味する。英国によるインド統治時代に、統治者たちによりアレンジが加えられたフュージョン(融合)料理である。鶏肉や米、リンゴを入れるのが、イギリス流のアレンジだが、杏奈は米とリンゴを材料から省いている。鶏肉を入れたスープは、咲子と結衣の滞在中、時折作った。
浄化が進み、新しく入れたものを消化できる体になったら、体組織を構築するものを消化しやすい形で取り入れてもらう。
最初は、ラサ。これにはたっぷりの水分が役に立つ。次に、ラクタ。これは血を作ってくれる食物が役に立つ。植物性たんぱく質に含まれている鉄分は、吸収率が悪く、効率が悪い。特にヴァータタイプにとっては非効率だ。そこで、鶏肉を使っている。特に骨付きの鶏は血を生み出すのに最適だと、杏奈は考えている。ある本では、滋養あるものの代表はマトンスープと書かれているが、マトンはスパイスの仕入れと共にクール便で取り寄せなければ、わかば(近くのスーパー)では買えなかった。
食材にはしっかり火を入れて、黒胡椒を振り、アグニを焚きつける。油脂は良質なものを使い、ヴァータを鎮め、ピッタを悪化させないようにする。六味を摂ることも忘れない。
料理に夢中になりながらも、杏奈の脳裏には時々、先ほどの咲子の姿が蘇った。
─あれは…
まぎれもない、母の姿ではなかったか。
慈愛に満ちた…けれど、どこか切ない。
杏奈はゆっくりと息を吐いた。咲子にできることは、ごく限られているが、今はこの料理が、少しでも咲子の血や肉になるよう、工夫を施し、念を込めるのみである。
杏奈は料理に集中した。
その日、昼食の後、結衣と理久はあかつきを後にした。
二泊三日の滞在で、測定器の数値上、結衣は二歳若返った。二歳といえど、高齢出産になるかならないかの瀬戸際にいる女性にとって、二歳の若返りは大きい。問題は、結衣が今後の生活で、この体内年齢を維持できるかどうかであった。
「美津子さん」
二人を送り出した後、書斎で昼休憩をしていた美津子に、沙羅は話しかけた。
美津子は上体を起こして沙羅のほうを向く。
「お疲れさま。都合をつけてくれて助かったわ」
午前中だけといえど、三日間連続で施術に入るのは、家族間の調整も大変だっただろう。それに沙羅は、理久の世話にも来てくれた。
沙羅は微笑を浮かべ、それについては問題ないと言い、美津子を安心させた。
「美津子さん」
「ん?」
「私、もっとしっかりカウンセリングができるようになりたいです」
「カウンセリング…今でも、しっかりできていると思うけれど」
「ええと…コンサルのほうです」
沙羅に改めてそう言われて、
─確かにな。
と、美津子は今更のように思う。沙羅ほどの知性と自己向上欲がある女性ならば、ただ施術をこなすだけでなく、コンサルを通してクライアントのことをより良く理解し、より効果的に働きかけたいと思うのは当然だ、と。
セラピストの中には、施術よりも、クライアントとの対話を大事にしている者さえいる。
「今日、結衣さんの施術をしていて、思いました。言葉が足りないって…コンサルに参加できていたら、もっとかける言葉が見つかったかもしれません」
「ふふ…」
普段、沙羅ほど臨機応変にうまい言葉が出てくる人も少ないと思うが。
「杏奈ちゃんは、もうコンサルテーションに参加しているのですよね」
美津子は、それには、黙って頷いただけだった。
「私も、入れていただけませんか?」
美津子は、体の向きを変えて、沙羅の目をまっすぐに見る。
「七瀬がもう少し大きくなって、手を離れるのを待ってからでも遅くはないと思うけれど、どうかしら」
沙羅は、気を削がれたように肩を落とした。美津子はそんな沙羅を見てふふっと笑う。
「そんな落ち込んだ顔をしないで」
「だって…」
「あなたは何かを学んだら、もっと上へと、もっと深くと走り出すでしょう。でも、今あなたは全力疾走できる環境にいない」
「…」
「あなたの中で葛藤が大きくなったら、苦しくなるかもしれないと思うのよ」
「そんなことは…」
「学びにも、段階がある。杏奈にはコンサルを教えているけれど、施術は一切教えていないわ」
「あの、私は別に、杏奈ちゃんが学んでいるから自分もと思ったわけでは…」
美津子は、沙羅をなだめるように、何度も大きく頷いた。
「分かっているの。でも、沙羅。あなたは母親として子育てをする中で、杏奈や私にはできない経験をしているの」
沙羅は、大きな目をさらに大きく見開いた。
「今しかできないことよ。その経験を経たあなたにしか言えないことがあると思うの。他に学びたいことがあるからといって、大切な瞬間を見逃してしまうのは惜しい。あなたのためだけではなくて、将来あなたが診る、多くのクライアントのためにも」
「…」
「そうではないかしら」
沙羅は目を閉じた。
美津子は、どうしても沙羅には今、学んでほしくないとか、二人同時に教えるのは面倒だという理由で、断っているのではなかった。
何かを完結させる前に、なんでもかんでも手を出すことは、ヴァータを上げることに繋がる。スタッフを教育する中で、スタッフの心身の健康を損ねることを、避けたいのだった。
「大切な瞬間を逃す…と言い始めたら、限がありません」
しかし、沙羅は首を振った。
どの瞬間を切り取っても、子供の成長は素晴らしい。今だけ、しっかり見よというのも、何か違う気がする。
それにどんなに仕事をしていたって、自分の子供と向き合うことはできる。意識次第で…と、沙羅は思うのだ。
美津子はじっと、沙羅の目を見つめた。
子育てが素晴らしいことだから、他にやりたいことを諦めろというのは、働く全ての母親にとって、ほとんど脅迫なのかもしれなかった。ヴァータを上げたくないと思っているとはいえ、杏奈には既に、色々なことに手をつけさせているのだし。
美津子は、音を立てないように、細く長く、息を吐いた。沙羅にだけ特別な制限をかけるのは、考えてみれば、ばかばかしいのかもしれない。
美津子は沙羅の顔を見て微笑み、頷いた。
沙羅の表情は、一気に明るくなった。
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