翌日、早朝。
加藤が訪れ、呼吸法の練習と太極拳を行った。続けて、美津子による瞑想の練習。杏奈は朝ごはんの支度を前倒しで行い、時間を作って、クライアントと一緒にこれらのプラクティスを受けた。美津子の瞑想を、杏奈は心のどこかで渇望していたのだ。
─あなたも、少し脳を休めなさい。
美津子は瞑想の間、薄目を開いて、クライアントの少し後ろで安楽座の姿勢で目を閉じている杏奈の姿を捉えた。
杏奈は正月明けから、たった一か月の間に、アーユルヴェーダの一つの分野に関する知識をまとめ上げた。作業中は一貫して声も出さず、体も動かさず、その作業は、傍から見たら地味であった。
美津子はその成果物を見て、杏奈がどんなにこの仕事に熱意を傾けていたか知った。もちろん、全てを網羅しているわけではないが、里山の小さなアーユルヴェーダ施設で働く、名もないアーユルヴェーダの実践者としては上出来だ。
─短期間であんなものを作って、疲れたろう。
頭も、休ませることが大事だ。
「ご縁さま」
瞑想が終わった後、美津子は加藤に声をかけた。
「昨日の今日で、無理なお願いをしてしまい申し訳ありません」
「ああ。園が休みだから、ちょうど良かった」
加藤はそう言って微笑した。今日は祝日(天皇誕生日)であった。
「咲子さん」
杏奈は朝食を提供する時に、咲子に話しかけた。
「お腹空いてますか?」
「はい。ぺこぺこです」
杏奈はそれを聞くと、にっこり笑った。
午前中は、沙羅が咲子の、美津子が結衣の施術を行う。
杏奈と小須賀は昼食の準備をしつつ、快、七瀬、理久の子守をする。七瀬は自宅での準備段階からぐずぐずしていたようで、機嫌が悪かった。あまり騒がしくなっても困るので、杏奈と小須賀は外に出て、庭で子供たちを遊ばせた。
「はあ~」
小須賀は、いつにも増して大きなため息をついた。
「おれちょっと一服─」
「逃げないでください」
子守などしたことがないのに、同時に三人を相手にするなどできそうにもない。杏奈は子守の大変さをつくづく感じた。
一時間も経った頃、見知らぬ車があかつきのスタッフ用の駐車場に停まった。
杏奈と小須賀、子供たちは、既に屋内に入っており、小須賀は食事の準備にかかっていたが、杏奈は門扉が開くのを見て、急いで小須賀に子守を代わってもらった。玄関を開けると、そこには、長いボックス二つと大きな手提げかばんを提げた女性が立っていた。
「こんにちは」
ふくよかな頬、大きな目。高すぎず、しかし鈴のような美しい声をした女性は、一言挨拶をすると柔らかい微笑を口元にたたえた。
加藤の妻、ちえみであった。
施術後、一階の美津子の前室にて、咲子と結衣の着付けが始まった。ちえみが髪を結い上げ、着付けをする。美津子が補助に入る。
咲子は淡いうぐいす色の、結衣は薄紫の着物に、それぞれ着替えた。
咲子と結衣は、和装で梅林を見に行くという、突然のあかつきからの提案に戸惑っていたが、着替え終わり、自分たちの姿を見ると、まんざらでもなく嬉しそうだった。ただし、着物の貸与は特別対応。SNSなどでは、貸してもらったという情報を流すのは控えてもらう。
「ちえみさん、助かりました」
美津子は他のスタッフたちが外出の準備でバタバタとしている間、ちえみに声をかける。
「いいえ。私のじゃちょっと地味過ぎると思ったんだけど、娘たちの訪問着がちょうど似合うお年頃の方たちで良かった」
ちえみは、足込幼稚園の園長をしている。美津子が幼稚園の職員だった頃からの、既知の仲。歳もそう変わらない。ちえみは美津子と同じくらいの髪の長さだが、色が黒く、前髪を作っていて、少し童顔。
ちえみは着付けが終わると颯爽と帰っていった。
数軒の民家と畑の他には、何もない山近くの傾斜地。そこに、二月後半から三月にかけて、様々な品種のしだれ梅が咲き誇る梅の名所があった。
美津子のエヌボックスと沙羅のミニが路駐する。
秘境ともいえるところだが、近くの住民は、ここの梅林の存在を知っていて、今日も他の車やバイクが道路わきに停まっている。
品種によって、その開花具合は様々だが、多くは、六、七割割き。枝垂れた枝に濃桃色や、白色の小花を咲かせている。その見た目は日本的でとても美しい。
午前中は天気が悪く、曇りがちで、雨もパラパラする時間帯があったが、なんとか持ち直してきている。
曇り空の下、寂し気な山村を背景に佇むしだれ梅。心がぱっと明るくなるような華やかさはないけれども、静かに心に寄添ってくれそうな、控えめな美しさがあった。
杏奈は初めてこの場所を訪れた。優香と初夏の頃見たあの紫陽花といい、この梅林といい、足込町には、隠れた花の名所があるものだ。
咲子と結衣は、和装なこともあってか、自然と背筋がピンと伸び、楚々とした女性らしい物腰で、ゆったりと梅を鑑賞している。美意識が上がったら、おめかししてもらった甲斐があるというものだ。
杏奈は、自然体の二人を写真に収めた。時々声をかけて、カメラ目線の二人を写真に収めたりもした。
結衣は、理久への接し方まで、上品なマダム風になっている。理久は快や七瀬よりも活発に動き回った。和装の結衣を走らせるわけにもいかず、小須賀が走って彼を取り押さえた。
─おれ、このための要員?
小須賀は、同行を拒否したのだが、美津子によってその拒否を拒否され、仕方なくついてきた。
「子供って、大変ですね」
快と七瀬と手をつなぎながら梅を見て回る沙羅に、杏奈は話しかけた。
「昨日も今日も、少しの間だけ育児してましたけど、たった五分が、十分にもニ十分にも感じられました…」
午前中、一時間半ほど三人を相手にしていたが、一日分の体力を使ったのではないかと思うほど、くたびれた。
「沙羅さん、よくいつも一人で子守できますね…」
沙羅はうーんと唸ってから、
「子守できているのか、分かりませんけど、慣れはありますよ」
杏奈の場合は、人の子供だから、なおさら気を遣ったのだろう。
「七瀬なんて、まだほとんど喋れないけど、ずっと一緒にいると、意思疎通もできるし、どうやったら気を引きつけておけるか分かってくるんです」
「そうですか…」
妊娠は、家族のスタート。小須賀がそう言った言葉が身に染みた。親になったら、大変なことがずっと続く。おそらく、死ぬまで。
敷物を敷き、ランチタイムにした。杏奈と小須賀が用意したのは、子供も外で食べやすいような、卵焼き、唐揚げ、ブロッコリーなどのおかずに、おにぎり。これらをお重に入れて持って来た。
和装の結衣を最大限配慮し、理久の世話は小須賀や杏奈も率先して行った。
「消化を促進するためには、食後、十分か二十分ほど経ってから、百歩ほど散歩すると良いですよ」
杏奈は食後の行動について、二人に話した。
「指示が細かいな」
それに対し、小須賀がぼそっと突っ込みを入れた。
まだ肌寒いのが難点だが、散歩するには、うってつけの場所に来ている。
理久は、食べ終わるとすぐに駆け出して行ってしまった。小須賀はやれやれと思いながら、理久を追いかける。
「小須賀さんって、子供好きそうだし、子供から好かれる要素、結構ありますよね」
沙羅が、こそっと杏奈に耳打ちした。
「明るいし、だいたいいつも喋ってるし、リアクションも大きいし」
何より、怖い雰囲気がない。
杏奈は確かにと頷いた。小須賀の姿勢から学べることは、たくさんあると杏奈は感じている。
アーユルヴェーダのコンサルを通して思うことは、コンサルティショナーの雰囲気が大事だということだ。
あかつきに勤め始めた当初こそ、杏奈は小須賀を怖がっていた。それは、ずばずばと間違っていることを指摘されるからだ。でも今となっては、小須賀の別の面が見えてきている。小須賀と同じ空間を共有している時、そこには緊張感はない。話しかけたら、どんな内容でもキャッチしてくれるという安心感。それでいて、話しかけなくても良さそうな雰囲気。黙っていても、常に上機嫌そうに見える陽気さ。
小須賀の人間的な要素は、正直、見習いたい。身に着くものであれば、身に着けたい。
─でも、真似じゃだめなんだろうなぁ。
杏奈は元来、陽気でお喋りな人間ではない。真似などしたらきっと、おかしなことになるだろう。
─自分らしい態度を確立しなきゃな。
相性というものがある。小須賀の雰囲気を気に入る人もいるだろうが、きっと杏奈の雰囲気の方を好む人もいるはずだ。たとえマイノリティであっても。
「子供、好きじゃないのかなぁ」
しゃがみこんで、何やら理久の話を聞いている小須賀を見て、沙羅がつぶやいた。
「子供を持ちたいって思ったことないって言ってたけど…」
沙羅は体操座りをし、組んだ両腕に顎をのせた。
杏奈は、沙羅をちらりと見てから、沙羅が見ている光景に視線を移す。
背後で、美津子とクライアント二人の会話が止み、結衣が腰を上げた。理久の方へ歩いて行く結衣の後を、杏奈は追った。
「元気いっぱいっすね、お子さん」
追いついた結衣に、小須賀は言った。理久は垂れた枝をつかんで、ぶんぶん振っている。
「理久、花が落ちちゃうでしょ」
結衣は理久を軽く窘めた。杏奈は結衣の代わりに理久の体を枝から遠ざけようとした。しかし、両手を上げて抵抗され、顔面に柔らかいパンチを食らうことになった。
「花かぁ」
結衣は花びらを何重にも重ねる梅の花の一つに、指で触れた。
「花、好きですか?」
小須賀は立ち上がって、結衣と並んだ。
「はい。独身の頃は、家に生花を生けてました」
「いいっすね」
小須賀は素直に言った。そういう女性らしさを、小須賀は好ましいと思う。
「旦那もそれを見て、良いなって思ってくれたのか、結婚したての頃は、何かと花を買ってきてくれていました」
そう言った結衣は、寂し気な表情をしていた。隣に立つ結衣のその表情を、小須賀は少し高い位置から、見逃さずに捉えた。
「今は買ってきてくれないんですか?」
結衣は目をわずかに大きく見開き、二度瞬きをした。
「私のせいかもしれません」
結衣はそうだと答える代わりに、そう言った。
「去年の結婚記念日に、夫が花束を買ってきてくれたんです」
結衣はその時のことを、鮮明に覚えている。花束を持つ夫の姿を見た瞬間、
─えっ?
驚いたような顔をしてしまった。その反応を、夫は見逃さなかった。
「忘れてたんですか?」
「日々忙殺されていて…」
言い訳だな、と小須賀は思った。夫を愛していれば、夫との大事な日のことは忘れない。日常に埋もれる程度の意識だった、ということだ。
杏奈は後ろの二人の会話を小耳に挟みながら、土を棒でいじる理久の後ろ姿を見守った。
「旦那さん、ちょっと体調良くないって伺いました」
結衣は口をぽかんと開いて、小須賀を見る。
「僕もあかつきのスタッフなんで…」
クライアントの情報は共有されるのだと、小須賀は詫び入れるように付け足した。結衣は前方に視線を戻し、頷いた。
「お仕事、大変なんですかね」
「…決定的な理由はないと思うんです」
夫は、今もっている環境の中から満足を見出す力に欠けている。起こってもいない未来のことを、心配してばかりいる。
「厭世的なんだって、自分で言ってました」
「厭世的?どういうことです?」
「この世の中に、希望を見いだせないんですって」
生まれた時から、景気が悪い世代だった。就職活動も、就職氷河期の名残を受け、辛酸をなめている。
「そんな」
小須賀は、ちょっと笑ってしまった。
「僕らの世代は、そうは言っても恵まれてますよ。戦争もないし、就職氷河期真っただ中の人より、職はあっただろうし」
「そうですよね…」
結衣は、唇を尖らせた。
「でも旦那は、そんな世界に子供を送りだして、その子が死ぬまで、自分が責任を負うことに耐えられないって」
世界の中の日本の立ち位置、環境問題、少子高齢化、激化する受験戦争、難化する教育…そんな世界に生まれてくる子供は、可哀そうだと。
─ずい分と、スケールの大きい問題まで心配してるんだな…
結衣や、その夫の力だけでは、コントロールできない問題ではないか。話声を聞きながら、杏奈は結衣に同情したい気持ちだった。
─それが、第二子を持ちたくない理由なのか。
自分の家庭の金銭的問題とか、病気とかではなく。それでは、結衣としても、第二子を望まない理由として、納得できないだろう。
「男の方は、子供をもつことに対して楽しみだっていう気持ちよりも、不安を持つかもしれませんね…女性よりも」
小須賀は、しかし、杏奈とは違う目線から状況を見られるようであった。
─男だから…
小須賀には、結衣の夫の気持ちが分かるのかもしれない。
「一生その子に責任があると思うと、荷が重いと感じるんですよ」
小さな頃だけではなくて。いや、小さな頃はまだ、手がかかるだけだから良い。その子が大人になってからも、子供に手を焼かなければならないとなると、そんな苦労はしたくないと思うのかもしれない。その苦労はきっと、自分たちが死ぬまで続くのだ。
「でもそれが親というものです。だから親というものは尊いんです」
小須賀は結衣の反論を聞いても、否定することはなく、小さく頷いた。しかし、心の中では、
─あんたがそう思うからといって、旦那さんに同じ感覚があると期待しちゃいけないんだよ。
と、ちょっとだけ毒づいていた。結衣のことを、可哀そうだと思わなくもないけれど。
理久がちょろちょろと動き回るので、大人三人は彼についていく形で、時々歩みを進めた。
「私は、夫の心配ごとなんて小さなものだって思ってますけど。なんとかなる。私だって働いてますし」
─そうだとしても…
忘れてはいけない。
─現時点で生計を支えてるのは、旦那さんのほうなんだよ。
と、小須賀はまた心の中で言った。その分結衣は育児をしているとか、そういう問題ではなくて。
「旦那さんは、仕事で問題を起こちゃならないし、他にやりたいことができたとしても家族のためにそれを見てはならないっていう、根本的なところのプレッシャーがあるのかもしれません」
小須賀は真面目に話をしていたが、こういう話の時でさえ、いつものようにどこか飄々とした感じがあった。
「結衣さんと理久くんに加えて、もう一人の責任も持てるかどうか、旦那さんは現実的な目線で見ているのかもしれないですよ」
小須賀は結衣の表情を見つつ言葉を選ぶ。結衣はどうやら、納得していない。
「私、仕事やお金のことはなんとかなると思うんです」
結衣の眉間にはいつしか皺が寄っていた。
「でも、子供のことは、タイミングを逃したらなんともならない」
結衣は結衣で、体内時計のプレッシャーを感じている。
「夫は弱気になっているだけなんです」
杏奈は、結衣の憤りのほうが分かる気がする。しかし、どちらに味方するような発言もせず、小須賀に対応を任せる。
「人ひとり育てていくことの難しさを、どのくらい強く感じるかは、育った環境にもよりますよ」
「…」
結衣の眉間の皺が、わずかに緩んだ。
「僕は母子家庭で育って、二人姉弟の弟でしたけど、母は、大変だなって思ってましたよ」
小須賀の母は、もう一人子供を身ごもった後なら、夫と離婚しても良いと思っていたらしい。小須賀の姉が生まれた後、どういう事情があったか知らないが、夫婦の仲が悪くなっていった。それでも小須賀の母がなぜ第二子を望んだのは、分からない。
子供がほしいと願う気持ちには、理由は必要ないのかもしれないな、と大人になってから小須賀は思うことがあった。子孫を残したいと思うのは、本能なのだろう。
母は第二子である自分を出産したが、子はかすがいにならなかった。両親の仲は険悪になるばかりで、離婚した。
母は自ら、二人目を望んだのであるが、結局二人生んだことで、苦労を背負い込むことになり、寿命を縮めたのだと、小須賀は思っている。
まだ母と父が離婚する前、二人が口論していた時のことを、小須賀は鮮明に覚えている。
─あんたがそんな人だと知ってたら、あんたとの子供なんて、望まなかったわ。
母は、幼かった小須賀が、その言葉を聞いていたことに気付いていた。母は膝を折り、謝った。小須賀はその時、気にしていない風を装い、明るく振舞った。それ以外の時でも、ずっと、小須賀は明るく振舞ってきた。
「僕は子供を持ちたいとも、結婚したいとも思わないです」
そんな言葉を口にする時でさえ、小須賀の話しぶりからは、悲壮感は感じられない。
「あのう…せっかくお話いただいたのですが」
結衣の眉尻はさっきまでつり上がり気味だったが、小須賀の話を聞くと、今度は少しつり下がっていた。
「夫の両親は、穏やかで、金銭的にも平均的な家庭で育ちました。なので、育った環境で今の価値観が生まれたとは…」
結衣の話の途中で、小須賀は大きく頷いた。
「もちろん、育った環境だけが、その人の価値観に影響するわけじゃありません」
それから小須賀は、よりおどけた声音で、
「僕のケースは、参考にならないと思いますので、あまり気にしないでくださいね」
「…」
「あ、それに、僕は女の人は好きなんで!」
好きなので…なんなのか分からない。杏奈は突っ込みを入れたかったが、今入れたら小須賀に蹴り飛ばされそうだった。
「夫婦と親子だったら、夫婦の方が他人なんすよねー」
小須賀はそう言って、天を仰いだ。
女は、何かあったら迷わず子を選ぶ。
男は、選ばれない。
どんなに自分が尽くしているつもりでも、女は、予期せぬ時に、予想だにしない理由で、一方的に愛想を尽かすことがある。そんな難しい生き物に、自分の幸せを依存できるだろうか。
─そんなのは、ごめんだね。
小須賀は、そう思うのであった。選ばれない苦しさを味わうくらいなら、そんな状況には身を置かない。
もっとも、そんなことは、誰にも言わないが。逃げだと言って、笑われそうだから。そんな自分を笑い飛ばしたくなることも時にはあるけれど、小須賀はずっと前から、自然に湧き出る自分の気持ちに嘘をつくことなく、ただ受け入れているのである。
「旦那さんも、昔は理久くんみたいに、可愛かったんすかね」
小須賀は話をすることで、思考を止めた。
「さあ…」
結衣は、今の理久と、乳飲み子だった時の理久を思い出した。
かけがえのない、大切なもの。こんなに子供が可愛いとは思わなかった。自分の赤ちゃんだけでなく、世の中の全ての赤ちゃんが、可愛いと思った。痛い思いや、つらい思いなど、できるだけしないで育っていってほしい。小さな理久を育てている時に、結衣の中に、そんな感情が芽生えた。
「赤ちゃんって、可愛いですよね」
結衣は、つぶやくように言った。小須賀は頷いたが、声に出して同意はしなかった。
「じゃあ結衣さんも、今度の結婚記念日には、旦那さんが好きなもの買ってったらいいんじゃないですか?」
小須賀には母性というものが、よく分からない。
「旦那さんも、昔は可愛い、小さな赤ちゃんだったと思って」
その日の午後は、結衣を美津子が、咲子を永井が担当した。小須賀は梅林散歩の後、次の職場に向かった。沙羅は居残って、子供たちを寝かしつける。杏奈はその間に、夕飯の準備をした。
子供たちが寝静まると、杏奈は沙羅に、今回の二人のクライアントの状況と、梅林にて小須賀が結衣に話していたことを伝えた。
「そう…」
沙羅は、いつになく憂いを帯びた表情で、
「私たちは、女性の立場で、子供を持ちたいというお母さんを、つい応援したくなっちゃうけれど…」
男の立場から状況を見てくれる人がいると、男性のことをより理解できる。理解ができれば、態度を改めようという気持ちにもなるものだ。
「でも私は、それでも、結衣さんや咲子さんの味方をしたいな」
沙羅はそう言った。杏奈も同じ気持ちだ。
─子供がほしいと願う女性が、望む時に、子供をもってほしい…
それが杏奈の強く欲するところであったから。
夕食の席で、杏奈は美津子にも梅林での出来事をそれとなく伝えた。
「そうか」
小須賀が結衣に、物事に対する違う捉え方を示してくれたらしい。
─スタッフや他のクライアントを交えて、お互いのことを話し合い、他の人の経験を知ることで、ヒントを得ていくケースもある。
キッチンでそう話した時、小須賀は半分ふざけた感じで、話を聞き流してしているようにも見えたが、わずかなチャンスを逃さず、美津子の望むことをしてくれた。
美津子は、心の中で小須賀に手を合わせた。
「っくしゅ!」
一方小須賀は、本職であるレストランで、咄嗟に鍋をおき、肘で鼻を覆ってくしゃみをした。
─あかつきで誰か、おれの噂してるか、崇めてるな。
《 前の話へ戻る 》次の話へ進む
》》小説TOP
LINEお友達登録で無料3大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします