第43話「切なる願い」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 咲子の滞在最終日。早朝から、美津子は栗原神社へ向かった。花神殿にて、花神さまの祭壇の前にギーを供え、手を合わせる。このギーは、昨日杏奈と咲子が作ったものだ。
 手を合わせる美津子の脳裏には、昨日の施術の時、ひっそり涙を流していた咲子の姿が浮かんでいる。

ॐ असतो मा सद्गमय ।
तमसो मा ज्योतिर्गमय ।
मृत्योर्मा अमृतं गमय ॥
ॐ द्यौः शान्तिरन्तरिक्षं शान्तिः

オーム アサト マ サドガマヤ
タマソ マ ジョティルガマヤ
ムリティオルマ アムリタム ガマヤ
オーム シャンティ シャンティ シャンティ

─偽りから真実に導いてください。
─闇から光へと導いてください。
─死から生へと導いてください。
─自分自身に平和を、家族や周りの人たちに平和を、世界中に平和を。

 いつもの詩を、美津子は心の中で詠唱した。今日は、咲子に最後の施術をする。シロダーラだ。
 午前九時。
 やや遅刻して出勤した小須賀は、キッチンに杏奈以外の人間がいるを見て、少し驚いた。
「こんちわーす」
 小須賀はサロンを巻きながら挨拶をした。
「あ、どうも」
 振り返った男の顔には、見覚えがある。
─そうか。今日は咲子さんの旦那さんが来てるのか。
 大樹が暇を持て余してしまわないために、ガイドをつけて明神山に登ってもらうと言っていたっけ。
「じゃあ羽沼さん、お願いします」
 杏奈はぺこりと頭を下げた。羽沼は、山用の黒いズボンに、カーキのフリースを着ていた。
「こいつのいいように使われて、嫌じゃないっすか?」
 すれ違いに、小須賀は羽沼にそう声をかけた。
「小須賀さん」
 キッチンの奥から、やや尖った杏奈の声が届く。
「嫌なことは、嫌って言ってもらっていいですからね」
 羽沼は、あけすけにものを言う小須賀に、苦笑で答えた。
「登山自体は好きだから、嫌ってわけじゃないですよ」
「そうなんすね。あ、そういえば見ましたよ、最新動画」
「ああ、ありがとうございます」
─おいおい。
 杏奈は、こんなところで雑談を吹っかけている小須賀に呆れかけた。大樹がそろそろ降りてくる時間だというのに、こんな時に足止めしなくても。
「キャンプ動画って、女性が映ってたほうが人気出やすいみたいっすね」
「そうかもしれませんね」
「可愛いキャンパーさんとコラボすることとかないんですか?」
「いや…」
「小須賀さん」
 杏奈は二人の方へ歩み寄って、さっきよりもさらに声を尖らせた。
「小須賀さん!お弁当間に合わなくなりますよ」

 明神山のとりつきからしばらくは、ジグザグとした緩い登りである。
 明神山にはいくつものルートがあるが、今日は最も無難な主要登山道を通って、山頂に向かう。
 山頂まで往復しても、所要時間は三時間程度。男の足なら、もっと早く帰ってこられるかもしれなかった。
 危険な箇所は特にない。杏奈は、念のため一日のみの保険をかけたと言っていたが、主要登山道は登りやすく、もしかしたら小学生以下でも登れるかもしれなかった。
 半分くらい登ったところで、羽沼は休憩を取ることにした。大樹は息が上がっている。
「最近体を動かしてなくて」
 初対面の男同士の登山は、ほぼ無言。休憩地に来てから、やっと大樹の方から言葉を発した。
「普段は車通勤ですか?」
「はい」
「そうですよね」
 名古屋市の中心部ならともかく、愛知県民の通勤に車はほぼ必須だろう。
 羽沼が座っている倒木に大樹も腰を下ろして、ザックのポケットからペットボトルを取り出す。
「スポーツは何かやってましたか?」
 水を飲み込んで、大樹は頷いた。
「大学時代はフットサルやってたんですけど、今は、ちょっと体重がやばいなって思った時に、走るくらいですね」
 大樹はがたいが良いが、やや肉付も良い。年の頃は自分と同じくらいか、やや年上だろうと思われた。
「でも仕事が忙しくて、それも最近サボってます」
 大樹は羽沼を横目で見ながら、苦笑いした。
「忙しいんですか」
「業界的に、あまり景気が良くなくて」
「自動車部品メーカーなんでしたっけ」
「ええ。でも、電気自動車の方に向かう流れですからね」
「あまり浸透してないですけどね」
「羽沼さんは、スポーツは?」
「小さい頃からずっと野球をしていて、今、中学校で野球部の外部顧問をしてます」
「へえ。すごいですね」
「と言っても、まだ始めて二か月です」
 しかも、今日はこの登山ガイドのために休んだ…とは、言わないでおく。
「あの施設では、何の仕事をしてるんですか?」
 大樹に尋ねられて、羽沼は頬を掻いた。美津子や杏奈は、大樹に自分のことをどう説明しているだろう。先ほど、キッチンにて簡単に大樹のプロファイルや、登山中の留意事項については伝えられたのだけれど…
「僕は、時々手伝いで、ネット環境周辺のこととか、撮影を手伝ってます」
 とりあえず、無難な返しをしておいた。撮影を手伝っているのは本当のことだし、機材の提案もしている。
 大樹の妻・咲子の滞在目的も、杏奈から少しだけ聞いていた。二人が、五年間の不妊治療を経て、今一旦、試みをストップしていることも。
 大樹はペットボトルの蓋をしめながら、居間で体をゆすって、幼子をあやしていた咲子の姿を思い出していた。その光景は、決して自分を良い気持ちにはさせてくれない。
 どういう気持ちで、咲子はあの男の子をあやしていたのだろう。
「子供、好きですか?」
 大樹は羽沼に問いかけた。
「どうでしょう。今は、中学生を相手にしてますが、子供が好きだからってわけではないし…分かりません」
「ですよね」
 大樹は大仰に頷いた。
「僕も、正直子供と触れ合うことがほとんどないんで、分かりません」
「お二人は、不妊治療をされていたんですよね」
 立ち入ったことを聞くのに少し躊躇いがあったが、それでも、羽沼は気になった。
「はい。五年くらい頑張りましたが、なかなか」
 大樹は手に抱えていたダウンを、ザックの中に押し込んだ。
「子供は欲しかったんですけど…でも、妻を見てると、本当に自分は欲しかったのかな、って思うことはあります」
 妻ほどには、子作りのために自分は躍起になれない。正直、大樹はもう諦めてもいいと思っている。
「子ができないことよりも…妻の執念が、ちょっと怖いっていうか。こういう話も恥ずかしいですけど、毎回子づくりの道具のように行為しなければならないことにも、疲れてきて」
 大樹には、困ったような笑いを浮かべて言った。
「不妊治療だと咲子に負担がかかってるので、自然妊娠を望む気持ちも分かりますが…なんか気持ちもないのにあれするのもどうかなって…不甲斐ないですよね」
「…いえ。そんなことはありません」
 羽沼は、大樹の顔を見られなかった。
 大樹は、樹冠の間から空を眺めた。あいにくの曇り空である。大きく息を吸うと、肺に冷たく、しかし心地よく澄んだ空気が流れ込んできた。
「成り行きでそうなった結果、妊娠する…っていうのが、僕の考える妊娠だったんですけど」
 今更ながら、より原始的な欲望に駆られていた結婚当初、避妊をしていなければ、あるいは…と、後悔しないでもない。
 人工授精や体外受精は、自分が考えていた妊娠・出産のイメージと異なる。特に最初の頃は、違和感を覚えた。咲子には絶対に言ってはならないと思っていたけれど。
「精子だけ絞り取られるような、エネルギーを機械的に持っていかれるような感じがするというか、違和感がありまして」
「そうなんですね」
「子供ができれば、そんな違和感、吹っ飛んじゃうんでしょうけど…」
 結果次第で、見え方が違うのだろう。大樹は、何でもない風を装って話しているが、彼もまた、傷ついているのだ。
 大樹は短くため息を吐いた後で、羽沼の方を向いた。
「すみません。こんな話」
「いえ。すみません、立ち入ったことを聞きました」
 羽沼は立ち上がることで、この話題を終わらせた。
 大樹もその意図をくみ取るように、再びザックを背負った。

「子連れの母親を受け入れるのは大変だなぁ」
 菜花を刻みながら、小須賀が唐突に言った。弁当のおかず作りも、もう終盤である。
「完全に一人工取られるじゃん」
「そうですね…」
 杏奈は小須賀と対面になるところに立ち、トリカトゥを作っている 辛味のある三つのスパイス─ジンジャーパウダー、ロングペッパーパウダー、ブラックペッパーパウダー─を同比率で配合すると、トリカトゥ(三つの辛味)というアーユルヴェーダのスパイスミックスができる。春に優勢になる、カパドーシャを鎮める組み合わせだ。
「結衣さんには、追加料金なしなんでしょ?」
「はい。どういう感じになるか分かりませんでしたから」
 後出しで特殊料金を請求するのは、はばかられた。
「そりゃまずいね」
 小須賀は菜花でまな板がいっぱいになると、大きなボウルに入れ、次の束を刻む。
「あかつきとしては、人手を増やしたんだから。給料が発生する分、やっぱり多めに取らなきゃ。でなけりゃ、誰かがタダ働きをすることになる」
「はい」
「そこのところ、しっかり頭に入れて、取るべきものはお客さんから取ったほうがいいよ」
 小須賀は、割と現実的な指摘をする。いつもの感じからすると、そこは人情でおおまけしようと言いそうなものなのだが。
「売上とか経費とか、数字の部分も見てるんでしょ?」
 小須賀は、杏奈があかつきの経理的な部分にも携わっていると思っていた。
「いや、そこまでは…」
 杏奈はかぶりを振る。トリカトゥを作り終えたので、調理台の上に乗っているもう使わない調理道具や食材を片付け始める。
「でも、子育て中のお母さんたちからしたら、託児無料で、アーユルヴェーダの施術受けられるところがあったら利用したいですよね…」
 それが大きな売りにすらなりそうな気がしている。
「小さい子供預かるって、リスクしかないじゃん」
 誤飲したり、物を壊したり…食事も、取り分けやアレルゲンの除去など、多大な配慮が必要になる。
「たとえばの話ですよ…」
 調理台の上を拭き、弁当容器を並べる。
─だけど、小さい子供を育児しているお母さんだからこそ、体を休めて、トリートメントを受けたいっていう気持ちはあるだろうな。
 育児は人生の中で経験できる、最も素晴らしいことの一つだが、そう簡単にできることではない。ネグレクトや、幼児・児童虐待という言葉があることを思えば、この時期の親が、いかに不安定な精神状態に陥りやすいかは明らかだ。
 核家族化が進んでいる今、子供の世話を誰にも任せられない、という状況にいる保護者も多いだろう。
─だけど、ここに来て滞在するだけのお金があるなら、他のことに回すか。
 杏奈は託児付きアーユルヴェーダ施設という妄想を止め、おかずをお弁当箱に詰めた。
 梱包が終わる頃、小須賀はスマホとタバコを取って、無言でお勝手口から外へ出た。杏奈は咲子のアフターカウンセリングに同席するため、小須賀が足込温泉まで配達をすることになっているが、ずい分余裕なことだ。
 杏奈は片付けの前に、キッチャリー用の豆を、この間業務用スーパーで調達した袋に詰め始た。
「行ってくるわ」
 お勝手口から戻って来た小須賀は、キッチンを横切りつつ、杏奈の手元を見た。
「何やってんの?」
「これですか?キッチャリーを作るための食材です」
「は?」
「咲子さんが、家で作れるように…」
 小須賀は呆れた。着物でお出かけ、子守、連れの家族の接待、お土産…クライアントをサポートするのに必死なのはいいが、特別対応をし出したら、限がないのであった。

 山頂に到着すると、羽沼と大樹は、そこからの眺望を楽しむことなく、再び元来た道を戻った。
 明神山には、展望がない。手軽に登れるので、軽い運動にはいいが、頂上まで登り切ったという達成感を得るには、実に微妙な山であった。
 下りは、登りよりもスピードが出る。
 羽沼は、下りは休憩は要らないだろうと思っていたのだが、大樹が左ひざの痛みを気にしだしたので、速度を落とした。
 腰掛けるのにちょうど良い倒木を見つけると、そこで休憩を取った。登りの時と同じ休憩場所だった。
「膝、怪我したことあります?」
「いいえ。でも僕、左足に重心掛けちゃう癖があるみたいで…」
 登山中も知らないうちに、左足に体重が寄ったのだろう。
「もうちょっと、体絞らないとダメですね」
 大樹は自嘲気味に笑った。決して太っているわけではないが、自分が思う適正より、少し重量が増している。
「僕は電車通勤してた頃、体のために一区間歩いてたことがありますよ」
「こっちの一区間って、結構長くないですか?東京とかに住んでたんですか?」
「川崎…横浜ですね」
「へえ…通勤を運動の時間にできたら、確かに効率的ですね」
 大樹は、家のドアから会社のドアまでの経路を思い浮かべた。
「僕にはせいぜい、アパートの階段の上り下りくらいしかできないなぁ」
「アパートに住んでるんですね」
「はい。四階建てなんですど、エレベーターがあって…」
 新婚当時から借りている、岡崎市内のアパート。まさか、こんなに長く住むことになるとは思っていなかった。子供の数によって住む家を都合しようと思っていた。昔はマイホームを持とうと、それ用の貯金もしていたのだが、結局その夢は保留にしたまま…。
 家の資金のために取っておいたお金は、その一部を不妊治療に使うことになった。
「お子さん、いらっしゃいます?」
 大樹は並んで座る羽沼に、静かに尋ねた。
「いいえ。僕は、結婚も…」
 羽沼は、無意識に左手の薬指をまさぐった。
 大樹は、尋ねたことをちょっと後悔した。野球部の外部顧問をしているというから、もしかしたら、息子の所属している部活に参加しているのかもしれないと思っていた。
「近藤さんたちご夫婦の不妊の原因って、何なんですか…?」
「それが、分からないんです」
「分からない…」
「はい。咲子も僕も、いろいろ調べましたけど…正直、妊活を諦めたほうがいい、決定的な理由があったらなって思いましたよ」
 でないと、どこで諦めたら良いのか、分からない。
 いつまで頑張るべきか、医者に決めてもらうことはできない。かといって、何も分からないまま自分たちで全てを決めるには、重すぎる事項だった。
「…でも、決定的な理由があったら、その理由をもっていた方は、苦しかったと思いますよ」
「そうですかねえ」
「苦しいし、相手には申し訳ないし…」
 大樹は、羽沼の語調が憂いを帯びてきたのを感じ取って、ある予感が立った。その予感の重さに圧倒されてできた沈黙が、羽沼に、話を続けるきっかけを与えた。
「僕も、別れた妻との間になかなか子供ができず…原因を調べたら、僕の方の問題でした」
 羽沼は、地面に落ちている葉っぱを見つめながら、努めてさりげなく言った。
 造精機能障害。男性不妊症の原因の中で最も多い障害だ。精巣の中で精子を作る力が低下して、射精した精液中の精子の数や運動が低下するために、パートナーに子供ができづらくなる。この障害には、原因がある場合もあるが、羽沼の場合は、はっきりとした原因は分からなかった。
「そうなんですか…」
 大樹は、なんと言っていいやら分からなかった。
 羽沼は風に吹かれて散り散りになっていく落ち葉を見るともなしに見つめながら、当時のことを思い出した。
「原因が分かる前、僕は妻を慰めるつもりで、子供がいなくても楽しく生きていくことはできる…なんて言って、余裕をかましていたんです。でも、実際には僕のほうに問題があって」
 それは、妻にとってもショックだっただろうが、羽沼にとっても、相当な衝撃だっただろうと、大樹は思った。
 羽沼は先ほど、結婚していないと言っていたが…
「別れちゃったんですか?」
 羽沼は苦笑いを浮かべて、頷いた。
「僕はその時、どうしても子供がほしいんだったら、僕のことは気にしなくていいんだよ…みたいなことを、言ってしまったんです」
 自暴自棄になっていたのかもしれない。けれど、その時の羽沼としては、妻のことを思った上で、そういう風に言ったつもりだった。
「でも、今思えば、それでも君と一緒にいたいってしっかり伝えていたら、結果はどうったんだろう…と思わなくもないです」
 妻のことが嫌いになったから、離婚したのではない。
 子供を望んでいた妻に、それを叶えてやれない自分が不甲斐なく思えたし、みじめだった。原因が分からないとか、妻の方に原因があって…ということなら、それはそれで受け止め、夫婦二人で生きていくか、特別養子縁組をすることだって視野に入れていた。だが、まさか自分が原因であるなんて。
「僕のことは気にしないでって言った瞬間に、彼女が他を見るきかっけを与えてしまったのかもしれません」
「そんな。だって、お互い好きだから、結婚したんでしょう」
「はい…でも、妻は悪くないんです。僕が彼女を傷つけたんです」
 それくらいの縁なんだ。別れたって構わないんだ。私の重要さって、そのくらいのものなんだ…。妻に、そう思わせてしまった。
「僕は、逃げました。一生負い目を感じて、妻と過ごしていくことから。男としての能力がないっていう惨めさを感じながら生きていくことから…」
「いやぁ…重いですね」
 あけすけな大樹の反応が、逆に、羽沼には救いに思えた。大樹の顔を見て、相好を崩す。
「すみません」
「いや、僕らが不妊治療してるって言ったからですよね、それ話してくださったの」
「別に教訓めいた何かを伝えたかったってわけではないんです。でも、僕は後悔したから…」
 大樹とその妻は、まだ可能性を秘めている。それと同時に、危うい選択の連続を乗り越えていかなければならない。できるだけ、後悔のない選択をしてほしいものだ。
 羽沼は後悔している。生殖能力が機能していないということが自尊心を蝕み、自己否定的な感情に陥り、苦しかった。そして、自分の弱さから目を背けるという、もっとも不甲斐ない行動をしてしまった。
「妻とは連絡取ってないですけど、再婚したって聞きました」
「はぁ…」
「その人との間に、子供、できていればいいんですけどね」
 妻に新しい家族ができた。離婚したことで、妻を一生、一人っきりにしていたかもしれなかった。だから羽沼は、それを聞いた時、寂しさよりも、心が軽くなったと感じて安心した。罪が軽くなったと感じたのだ。自分でないものの力によって…。
「あの時、何が一番大事なのか見えていれば…」
「羽沼さん、奥さんのことを、今でも大切に思ってるんですね」
 羽沼は答える代わりに、少し首を傾けて、はにかんだような笑みを浮かべた。
 
「咲子さん、二歳若返りました」
 アフターカウンセリングにて、美津子は測定器の結果を伝えた。
「体の浄化は進みました」
「ありがとうございます」
 咲子は少し嬉しそうな顔をした。
「咲子さんの体質的に、あまり浄化期間を長くするのはおすすめできません」
「はい」
「今、栄養を消化吸収しやすい体になったと思います。今後は、体組織をしっかり作ることが必要になります」
 栄養のあるものをよく噛んで食べ、良質な睡眠を摂る。適度な運動、呼吸法やヨガの練習を通して、プラーナを循環させる。
「ストレスを生み出すようなことも、なるべく避けてくださいね」
 ストレスが多いと自律神経の緊張を引き起こし、スロータムシが縮こまってしまう。苦味、渋味の摂り過ぎも、心身を委縮させ、あらゆるチャンネルをブロックすることにつながる。こうなると、アーマが排出されず、プラーナ(栄養・エネルギー)が流れない。
「六か月」
 今後の生活方針を一通り聞いた後で、咲子は言った。
「両親が子供を持つための準備を始めるのは、受胎を望む、最低六か月前でしたね」
 咲子は杏奈を見た。杏奈は、こくりと頷いた。
「私、あかつきで過ごして、自分の気持ちがどっちに振れるかな…って、賭けをするような気持ちだったんです」
 咲子は困ったような笑みを浮かべつつ、話し続ける。
「とりあえず、結果を待ち焦がれては落ち込むっていう日々から解放されたら、何かが見えてくるかなって」
 結果とは、体外受精の結果だろう。
「もう諦めてもいいって思えるか、もっと頑張ろうと思えるか…」
 咲子は膝の上に重ねた手に、視線を落とした。
「本当は少し、諦める方に気持ちが動いたら、楽になるだろうな~って、期待してました。でも…やっぱり子供が欲しいって思っちゃいました」
 咲子は顔を上げた。その顔にはやっぱり、困ったような笑みが浮かんでいる。
「受胎の準備をするための大切なことをたくさん聞いて、試してみたくなりましたし、理久くんや沙羅さんの娘さんたちを見て、やっぱり、子供って可愛いなって」
 そこまで言って、咲子の顔からは急に、笑顔が引いた。
「私、体外受精はもう嫌なんです…痛くて、不安で…」
 杏奈は講義の中で、オージャスが弱いと、発作的に肉体的・精神的に相手を拒絶すると言っていた。痛みへの恐怖や、また失敗だったらどうしようという不安を抱えながらの体外受精では、なおさら、入って来たものに対する拒絶が起きるのではないかと、咲子は思った。
「もう少し、パートナーのことを見て、できれば…自然妊娠したいです」
 咲子は少し、恥ずかしそうに身をよじった。
「だって、本当は赤ちゃんって、両親が愛し合った結果、生まれるものですもんね」
 美津子と杏奈は、目を見合わせて、どちらからともなく、小さく頷いた。
「自然妊娠…できるでしょうか」
 今度は美津子も杏奈も、頷くことはできなかった。
「ごめんなさい。分かりませんよね」
 咲子は二人を気遣って言葉を付け足した。
「それは分かりませんが…何よりも咲子さんが、自分は妊娠できるということに、絶大な信頼を置いていなければならないと思います」
 美津子は、柔らかく言った。咲子と大樹には、まだ可能性があるはずだ。精神的、身体的に負担がかかる中、その可能性を信じ続けるのはたやすいことではないけれども。
「咲子さんが、赤ちゃんがほしいと決めているなら、それは素晴らしいことです。結果は分かりませんが、咲子さんの心に従ってください」
「はい」
 咲子はさっきよりもほんの少し表情を和らげた。
「もう少し頑張ってみます」
 その日の昼下がり。
 咲子と大樹を見送ると、美津子と杏奈はのろのろと母屋に入り、応接間で一息入れた。
「もう帰っていいっすか?」
 ひょっこりと、小須賀がキッチンから顔を出す。
「うわ、びっくりした。小須賀さん、まだいたんですか」
 美津子の言いように、小須賀はちょっと拗ねたような顔をした。
「やっと今片付けが終わったところっすよ」
「お疲れさま。小須賀さんも、一緒にお茶でもどう?」
「じゃあ、たまには…」
 小須賀はキッチンに戻って自分で湯呑を取り、杏奈の隣に座った。
「お客さんがいないあかつき、久しぶりっすね」
 杏奈は小須賀の湯飲みに、お茶を注ぐ。嫌味に聞こえなくもないが、小須賀からは悪意は感じられない。
「羽沼さんは、もう帰ったんですか?」
 小須賀はお茶を一口含んでから、どちらにともなく尋ねた。
「はい」
 と、杏奈。
「登山はどうだったって?」
「スムーズに山行できたらしいですよ」
「ふうん。何か話したって言ってた?」
「えっと…」
 杏奈は先ほどの羽沼とのやり取りを思い出した。小須賀が配達に行っている間、キッチンにて羽沼に登山中の様子を訪ねたのだが…
「特になにも…」
「本当?三時間も一緒にいて?そりゃないでしょ。どうせまたぼーっとしてて聞いてなかったんじゃないの?」」
 杏奈は答える気力が湧かなかった。小須賀はたとえ指一本も動かせないほど体が疲れても、口だけは動いているような男だ。しかし誰もが小須賀ほどお喋りというわけではない。
「心付けは受け取ってくださった?」
 と、美津子は杏奈に尋ねた。美津子も、いつになく疲労の色が見えていた。
「はい。羽沼さんはあかつきがやっていることに、興味を持っているみたいですね。また何かできることがあれば関わらせてほしいと仰ってましたよ」
「どういう意味?ボランティアしに来るってこと?」
 小須賀は呆れた顔をしてすかさず突っ込んだ。
「どんだけ物好きなんだよ」
「そうですか?あかつきとしてはめちゃくちゃ助かると思うんですけど」
 撮影の技術にしろ、足込町の魅力を伝える力にしろ(それは情報発信であれ自然体験であれ)、あかつきにとって必要な能力を彼は持っているように思われる。
 けれども、羽沼がなぜあかつきと関わりたいと思うのかは、皆目分からなかった。
「とにかく、私たちもゆっくり休みましょう。ここ五日間は少し無理をしたわ」
 あかつきにとって、長い長い五日間が終わった。体制が整わないままクライアントとその家族を受け入れ、講義をしたり遠出をしたり子守をしたり、初めてのイレギュラーな対応が重なって慌ただしい日々が続いた。
「そのうちお疲れさま会として、パーっと打ち上げでもしますか?」
 美津子も杏奈も疲れ切ったように椅子にしなだれかかっている中で、小須賀だけが陽気だった。美津子は、しかし、小須賀のその雰囲気が救いのように感じられる。
 今回の案件は、重かった。しかも、あかつきの体制が不十分なまま、同時に対応しなければならなかった。今後の二人の生活をサポートすべく、文章整理などが残っているが、美津子は束の間の休息の間、重圧感から自分を解放することに努めた。

 

 

 


 

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