足込善光寺の境内裏の駐車場。山門近くの一般向けの駐車場とは別に設けられているここは、善光寺の関係者、または関係者からあらかじめ使用を許可された者だけが使える駐車場であった。今現在、たくさんの車が停まっている。
美津子はエヌボックスのトランクから、二つの長い箱と、大きな手提げかばんを下ろした。そして、阿弥陀堂と鐘楼の間の通路を通り、観音堂へ向かう。
観音堂から見晴台までのだだっ広い広場には白いテントが立ち、数人の男性が釜を囲み、体を動かしたり手拍子を打ったりしていた。いずれも、年老いた老爺である。美津子は彼らの様子を離れたところからじっと見守った。
─そうか。通常通りの開催は、三年ぶり…
地元の人たちにとっては、待ちに待った祭り。
両手に感じていた重みが、急に軽くなった。美津子ははっとして振り向くと、背後に改良衣姿の加藤が立っていた。
加藤は箱を受け取り、柔和な微笑をたたえて、美津子を見つめている。美津子も加藤を見て微笑んだ。この人の隣に立つ時、美津子はとても温かな結界の中にいるように感じる。距離にして、五十センチ。その間合いは、二人のオーラが接触し、混ざり合う距離感である。
「河代の花祭(はなまつり)は、今年は何日ですか?」
美津子は広場の老人たちに視線を戻しつつ尋ねた。河代は、この足込善光寺を含む、足込町最南端の地区。
「三月七日…」
加藤は答えながら、美津子の右肩にかかる手提げかばんをもひょいと持った。
「先に受け取ろう」
「はい。本当に助かりました。ちえみさんにも、お嬢さま方にもよろしくお伝えください」
加藤は口角をやや上げてそれに応え、本殿の奥へと歩みを進める。その方向─善光寺の裏手、駐車場の西─には、加藤たちの住まいがあるのだ。
先日、あかつきに滞在していたクライアントのために、加藤の妻ちえみが運んできてくれた、加藤の娘たちの着物。美津子はその着物や備品一式を返しに来たのだった。だから美津子の用は、これで終わった。しかし、加藤は「先に」と言った。
─先に着物を引き取る。後で話そう。
そういう意味だと受け取った。
美津子は観音堂の奥に鎮座する巨大な菩薩観音にお参りをすると、広場を横切り、見晴台のベンチに腰掛けた。
花祭は、長野県南部、静岡県東部、愛知県奥三河の、天竜川の流域に集中して行われる神事である(※)。起源は鎌倉時代とも、室町時代ともいわれ、修験者たちによって伝承された農民信仰に起源をもつ。険しい山奥での厳しい生活を強いられてきた人々が、悪霊を払い、災害から身を守り、無病息災、五穀豊穣、来世の幸福を願うといった目的があったとされている。
昔は薬もなく、医者もいない。そこで、この地にその魂が宿ったと伝わる、薬祖神の化身・花神さまのご加護を得ようとしたのだろう。
この祭りは、口伝性である。アーユルヴェーダも口伝性だが、後に経典がまとめられている。一方、花祭は真実、祭りを後世に伝えるための教本が存在しない。祭りの記録は江戸時代頃のものが残っており、昭和初期頃から、民俗学や文化人類学の研究者が、民俗芸能の宝庫と言われるこの奥三河地区で調査をし、書籍や論文が出ている。それらは、実際に神事を行う者が見るわけではない。マニュアルなどはなく、準備の仕方や踊り・音楽などはやはり口伝であった。
花祭は、昭和後期に、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。
「三月七日は、大安、満月なんですね」
美津子は加藤が近づいてきたのを気配で感じると、後ろを振り返ってそう言った。
「ああ」
加藤は美津子の向かいのベンチに座る。
「七日の夕方から始まり、八日に終わる。満月なら…人工的な照明を、限りなく減らせる。保存会の面々がこの日がいいと」
花祭は地区ごとに、伝統的には二日にわたって、一晩を徹して行われる。小さな子供から上は体が動く限り際限なく、地元の男性が、四十種類ほどの舞を舞う。もっとも、主に少子高齢化・過疎化の影響で人が少ない地区などは、一日(朝から夜)で終わるところもある。
「栗原はいつになった?」
「三月四日から五日です」
「土日か」
「ええ」
おそらく、足込町を故郷としつつ、今は都会や地方に住んでいる人たちが戻りやすいタイミングでと配慮されたのだろう。美津子は、あるいは、観光客を見込んでいるのかもしれないと一瞬思ったが、もともと地元民による、地元民のための祭り。その可能性は少ない。
花祭の開催時期は、二月下旬から三月中旬頃と大まかには決まっているのだが、必ずこの日にちにやらなければならないという決まりはなく、各地区の保存会が中心となって日取りを決める。保存会同士で連携しあって、多少、日にちが被らないよう配慮されていた。しかし、最近では町民の人口が少なくなっており、祭りを成り立たせるために、土日に行う地区が増えている。
「ご縁さまも花祭のお手伝いをされるのですか?」
「場所は貸す。だが、それ以外は関与しない」
花祭は、それ自体宗教─山岳・花神信仰─と密接な関係があるが、実質住民によって運営され、神社や寺院などの宗教施設は先頭に立たない。関係したとしても、善光寺や栗原神社のように、場所を貸すという関わり方である。他の地域や地区によっては、江戸時代まで仏教関連施設が関係していたものの、明治の廃仏毀釈によって、全く関係をなくしたところもあるという。
「ミツは、あかつきの子らを連れて手伝いに行くのか」
「さあ…正直、花祭の時期が近くなっているのに、全く気に掛ける余裕がなく」
つい数日前まで、あかつきのスタッフ総掛かりで、クライアントの対応にあたっていた。さらに今週末、再び飛び込みで予約が入った。花祭と被っており、見物だけならまだしも、手伝いは難しいかもしれない。もっとも、花祭は女人禁制であるので、美津子たちにできることはかなり限られているのだが。
加藤は美津子の口から余裕がないという言葉を聞いてにやりとした。
「あかつきも盛り上がってきたようだな」
美津子は答える代わりに微笑を浮かべた。
「そうだ、あの子…」
加藤は思い出したように言った。
「杏奈からは、生気を感じるようになった。前よりも…その目にな」
それを聞くと、美津子は笑いを収め、真面目な表情になった。ずっと杏奈と顔を合わせている美津子は、加藤ほどその変化を強く感じることはない。しかし、初めて会った時と比べたら、その違いは明らかだった。
以前の彼女は、意識が身体を離れているように感じた。目は何かを見ていても、違うものを見ていた。誰かの話を聞いていても、相槌は少なく、自分が話をしていても、心がこもっていなかった。アーユルヴェーダのことを除いて。でも、今は少し、表情や言動に感情が見られるようになった。机上のアーユルヴェーダの理論を追うだけでなく、クライアントと関わりをもつことに前向きになったと、美津子は思う。
「でもまだ、不安定です」
「なんの。まだ始まったばかりだ」
「あの子はもともと、アーユルヴェーダの概念や知識を、ほとんど何の苦もなく自分のものにすることができます」
この太古からの生活の知恵と、非常に親和性が高いと言える。
「もっと経験を積めば、他人にどう適合したら良いかも理解できるでしょう」
それも、ありとあらゆるケースに対して。
「けれど、あの子は人との関わりの中で熱を生みだすのが苦手です」
杏奈は人と関わるのを恐がる。人との間に、隔たりを作る。確かに洞察力や傾聴力など、コンサルティショナーとして必要な素質はある。しかし、相手を引っ張っていく力は強くない。それ以前に、コミュニケーションを取るのが好きかどうかという問題もある。
「あの子の中に、熱はあります。けれど長い間押し込められていたので、本人はその存在を自覚しておらず、使うことにも慣れていないのです」
「それを活用するには、アーユルヴェーダとは別の訓練が必要なのか」
加藤は美津子の顔を覗き込むようにして言った。美津子は、首を傾げた。
もともとの人間的、性格的な部分で素質が少なかったとしても、テクニックを学ぶことで、弱い部分をある程度カバーすることはできるだろう。
けれども、彼女が他者との関わりを恐れる根本的な原因である「自己への評価」を変えることが最も役に立つと、美津子は思う。それには、彼女の自己評価に影響を与えてきた出来事を乗り越えなければならないのだ。
美津子の考えを聞いて、加藤は柔らかく頷いた。
「見どころがあるのだな、杏奈には」
どうやら美津子は、ごく真面目に彼女を育てようとしているらしい。
そよ風に吹かれてたなびく髪をおさえつつ、美津子は頷いた。
「杏奈だけではありません。沙羅や、小須賀さん。それぞれに見どころがあります」
美津子は一人でやってきたが、今後はチームで、あかつきを支えていってもらいたい。
「なんと。小須賀くんも入っているのか」
加藤は笑った。
「あの子は、アーユルヴェーダのことはさっぱりじゃないか」
「はい。でも、人間力があります」
小須賀は人が好きである。
そして、沙羅には天賦の明るさと才能があり、仕事に対する展望をもっている。ただ目先の業務だけでなく、自分たちの存在意義と将来の可能性を自分で思い描けるスタッフは、美津子が関わってきた多くの教え子たちの中でもそうそういない。けれど、今は最も先の見えるスタッフが二人揃っているのだ。
─沙羅と杏奈…
まったく性格の違う二人ではあるが、同じ熱意をもっている。違うタイプの人間が集うことで、お互いに影響を与え合い、自発的に成長することが期待できる。
「ミツがセラピストではなく、ヒーラーとしての教養を人に伝えるのは、久しぶりではないか」
高い笛の音が聞こえる。広場では、老爺たちが笛の練習を始めていた。
「昔はセラピストたちにもコンサルを教えていましたが…」
懐かしい音色に耳を傾けつつ、美津子は当時のことを思い出した。
「でも、自然と教えるのを止めてしまいました」
美津子は、直観で分かった。その者がヒーラーになりたいのかどうか。その者の手に負えるのか。クライアントが、その限りある時間とお金を託すだけの、価値ある仕事ができる人かどうか。
─その時は、ミツのお目がねに叶う者は現れなかった、ということか。
今いるスタッフとて、今後あかつきを離れたり、美津子の方から見限ったりすることがないとはいえないけれども。
「ともかく、役者は揃っているわけだな」
それならば、あとは教育に専念すればよい。と、加藤は思ったが、美津子はとんでもないというように、かぶりを振った。
「いいえ。まだです。まだ、大事な人材が欠けています」
それを聞いて加藤は目を丸くしたが、すぐにどういう人材なのか思い至った。その人材が確保できていれば、自分は今ほど頻繁にあかつきに呼び出されることはないだろう。
─それはそれで…
加藤の心に、にわかに湧き上がった感情は、
「それにしても、舞の練習に来ているのは高齢の方ばかりですね」
という美津子の言葉で払拭された。広場を眺めながら、少し心配そうな顔をしている。
「なに。若者も笛と太鼓の音を聞けば、舞の仕方は体が覚えているだろう」
「そんなものですか」
舞ったことのない美津子には、その感覚は分からない。
この間、土起こしの面倒を見に来てくれた柳老人が、こんなことを言っていた。
─毎年やっとるからこそ継承できたのに、二年も三年も休止すると、みんなの心が花祭から離れてまう。そうなると、またやろうっちゅう気持ちを起こすのは難しいこったわなぁ。
それを加藤に話すと、
「河代の保存会の方々もそう仰っているよ」
広場の舞手たちに視線を向けながらそう言った。
今後も継承していく上で、この三年の休止は大きい…ただ、だからこそ、これまでの開催方法とは別に、新しい開催方法を模索することをプラスに捉える保存会もあるという。
「河代は、感染症の間は完全に中止されたのでしたか」
「いや、榊鬼など代表的な舞だけ保存会内で行い、一般公開はしないということで広報した」
「そうでしたか。栗原も同じでした」
関係者以外の参観は断られた。だから美津子もここ数年、花祭は見ていない。
「花祭は元々神事だからな」
加藤は深淵な表情をして頷いた。
「平和、五穀豊穣、無病息災のためにやってきたものだ。細菌をばら撒く可能性があるのに、それをやるのは矛盾している」
「そうですね」
「それはおかしいって、みんな納得してくれたよ」
この祭りを守ってきたご先祖さまに対して顔向けできない。
足込町は今、どこへ行っても、花祭の話題で持ち切りだ。それだけみんなが楽しみにしていた民俗伝承が、もう間もなく、開かれようとしている。
「あれ?沙羅さん」
福祉課に書類を渡しに来た瑠璃子は、民生こども課の窓口の前に、見知った女の子がいるのを見つけて窓口の傍へ寄った。
振り返ってこちらを見たのは、やっぱり沙羅だった。
「あ…」
沙羅は背後に立つママ友の、洗練された佇まいに目を奪われた。光沢のある紺色のタイトスカートに、リボンカラーの白いブラウス、つやつやの黒いハイヒール。すらっと長い手足、きっちりと結い上げられた豊かな髪。瑠璃子はいつでも都会的な風貌で、古びた町役場の背景とは、およそ不釣り合いだった。
「どうしたの?」
「保育室の利用を…」
と、言ったところで、窓口に職員が戻って来た。女性職員は瑠璃子を見て軽く会釈した。瑠璃子も会釈を返しながら、逃亡しようとする七瀬を抱き上げる沙羅に耳打ちする。
「よかったら、振興課に寄って。この後お昼休みだから」
「うん」
沙羅は短く答えて、職員と向かい合った。
瑠璃子は階段を下りながら、
─時間通り、休憩取れるかな…
沙羅に寄ってくれとは言ったものの、年末から、地域振興課は何かと忙しい。
ついに花祭のシーズンに入った。今年は、三年ぶりに規模を縮小せず一般公開とあって、各保存会への補助金や人手の援助、手配、取材の受け入れや広報活動など、やることは山ほどある。
役人や保存会の人間の中には、
─広報活動をする必要はない。
と言う者もいた。そう言うのは、だいたい高齢の男性であるのだが…
─花祭は、都市や地方の人を呼ぶための祭りじゃない。自分たちのための祭りなんだ。
それは、瑠璃子にも分からなくはない。宣伝活動もしないのは、昔の伝統を守っているというプライドの表れだろう。高齢の男性たちは、地元の住人だけで祭りが成り立っていた昔の印象を強く持っている。一方、今までのままでは、財政的にも、人材的にも祭りが成り立たなくなってきつつあることも、分かっている。
地域振興課としては、祭りをエサに大々的に観光を呼び掛けることはしない。けれど、自分たちがどんな思いでこの祭りを受け継いでいるのかについては、可能な限り発信をしている。実際、祭りを見に他の地域から人が来れば、足込町にお金が入る。花祭自体、花見舞いと呼ばれる、いわゆる寄付金で諸経費を賄っていることを思えば、観光客を呼ぶことも必要なのである。
もっとも、一番嬉しいのは、これをきかっけに足込町の住民が増えること、すなわち花祭を中から支える人間が増えることであるのだが。
「沙羅さん」
十二時のチャイムが鳴って間もなく、地域振興課の窓口に沙羅がひょいと顔を出した。瑠璃子はすぐにそれに気が付いた。沙羅は七瀬を抱っこして、リュックを背負っている。
できれば一緒にランチを…というところなのだが、足込町役場には、小さな売店があるだけで、外部の者がゆっくり座って飲食できるスペースがない。
待合の椅子に座って、二人は話をした。
「そうか。二次募集に挑戦してみるのね」
四月からの足込幼稚園保育室の応募は、すでに終わっている。しかし、定員割れしていたり、欠員があれば、二次募集で受け入れしてもらえる可能性はあった。
「定員は、大丈夫でしょ」
「でも、異動の時期だから、二次募集に応募する人が多いと…」
余ったパイを取り合うことになる。その時、世帯状況をポイント化した「点数」が選考基準となる。沙羅の就労状況や、健康な両親が近くにいることを考えると、点数は高くない。
「大丈夫だよ。異動で足込町に来る人なんていないって」
「ふふ…そうだよね」
心配していたが、沙羅は瑠璃子にそう言われて、気持ちが明るくなった。
「サロンの仕事が多くなってきたんだね」
保育室の利用を希望するということは…瑠璃子はそう思った。
沙羅は、ようやく仕事に本腰を入れる決心をしたのである。快を身ごもってから、子供たちと一緒にいる時間を長く取りたいという気持ちがあって、何年もやりたい仕事を後回しにしてきた。けれど、もはや気持ちは走り出していた。
それに、結衣と話をしたことが大きい。
夫・栄治との関係性を良好に保つために努力をする必要性を、沙羅は感じた。決して仲が悪いわけではないが、前回の帰省時のやり取り以来、冷戦のような状態になっており、ビデオ電話をすることさえおろそかになってしまっていた。忙しい、子供たちの面倒を看ていてタイミングが悪いなど、何かと理由をつけて。
栄治のほうから自分を心地よくしてくれる何事かをしてくれるのを、待っていても仕方がない。
栄治の海外赴任以外、自分の心の内側を話すことを端折ってきたのだが、沙羅はきちんと伝えることにした。年始に栄治から言われたこと─おれの仕事と沙羅の仕事では、社会的影響度が違う─を受けて、自分がどのような気持ちになったか。毎日一人で育児をしてどのような葛藤を抱えているのか。どういう気持ちであかつきで働こうと思い、どんな夢を描いているのか。
沙羅は、夫に理解してもらうために、言葉を尽くす労力を惜しむまいとした。
─変えるべきであり、かつ、変えることができるのは、自分の内側だけだって思ったんです。
この間、結衣にそう言ったばかりなのだし。
沙羅の話を聞いたあと、
─もうやりたいことをやっても、いいんじゃない。
栄治は意外なほどあっさりと、穏やかな語調で言った。
─子育てと家事と…一人工分の仕事をしながら、他にやりたいことをやるのは無理だよ。保育室を利用するのがいいと思う。寂しい思いをさせるとか考えずに…子供を保育室に入れるって、悪いことじゃないんだから。
そして栄治は、詫びを入れた。子育てと家事の部分を全て沙羅に任せっきりになってしまっていることを。
それを聞いた時、沙羅は心にかかっていたもやもやが晴れたように思った。栄治にしっかりと自分の気持ちを伝えるきっかけを作ってくれた結衣に、感謝したい気分だった。
栄治が理解を示してくれたこともあり、前に進むと決めた後の沙羅の行動は早かった。すぐに役場に電話をかけ、必要書類を集めた。
「結果はいつ分かるの?」
「二十二日」
「ぎりぎりじゃん!」
確かに瑠璃子も、万里子を入園させる時、急いで書類を集め、急いで必要なものを買った覚えがあった。
「結果分かったら、また教えてね」
「うん。ありがとう」
自分より大分年下だが、頼りになるママ友に、沙羅はにっこりと微笑んだ。
それから沙羅は、振興課の窓口の掲示板に張り出されている花祭のポスターに目がいった。
「花祭、いよいよだね」
「うん。万里子も、今年は参加するー!って張り切ってる」
「快もだよ。家でも舞を踊ってる」
花祭では、四、五歳でも、できる子は参加して躍る。
足込幼稚園・保育室が、舞をお遊戯として取り入れたのは、これも三年ぶりとのこと。去年はしていなかったことだ。花祭が残っている地域なら、どこの幼稚園や保育園でも教えているというわけではない。小さい時からやらせておけば、そのまま祭りに出る子も多くなるだろうという、経営側の配慮である。
「お母さんもやってよ!って言われたんだけどね」
「私たちは分からないもんね」
沙羅や瑠璃子が小さい時は、まだ女性が参加する風潮ではなかった。
「楽しみだな。三年ぶりだもんね」
「うん。まあ振興課としては、外部からの問い合わせが多くて大変だけどね」
メディアの取材、研究の一環で訪れるという大学生たちの受け入れ、さらには個人レベルでの撮影許可願い。
「撮影?祭りの撮影は、別に許可はいらないでしょう?」
「ドキュメンタリーを作りたいんだって。だから、保存会の人とか、祭りに携わる人とつないでほしいって」
「受け入れてるの?」
「ううん」
「受け入れているとキリがなくなっちゃうから、基本はお断りだよ」
せめて羽沼のように役場から依頼されているなどの大義名分がないと、この時期に運営側へのインタビューは難しい。とはいえ、正しく花祭を周知してくれるのであれば、個人レベルでも活動してくれる人がいるのは、沙羅には良いことのようにも思えた。
「そういえば羽沼さんなんだけど」
沙羅は動画つながりで思い出した。
「この間あかつきの仕事を手伝ってくれたんだよ。動画撮影とか、山岳ガイドとか」
「え?」
瑠璃子はぽかんと口を開けた。そういえば、最近会う機会がめっきりなかった。町の宣伝動画を作るにあたって、花祭はしっかり撮影してほしいと頼んではいた。しかし、振興課は雑多な案件で人手が薄く、羽沼へのコンタクトを取り損なっている。ちょうど、改めて依頼をしなければと思っていたところだ。
なんでも羽沼は、Webコンサル、クリエイターとして個人事業を起こすところであり、そういう方向からもあかつきを支援したいと言っているらしい。
「youtuberを本職にしていくんじゃなかったんだね。今まで、細々と勉強してたみたい」
沙羅は、杏奈から聞いた話をそのまま伝えた。
「あかつきを導入事例にさせてほしいんだって」
それだけでなく、顧客としてのあかつきの意見を吸い上げることにより、自分の事業に必要なサービスやサポートを吸い上げたいのだという。
─おかしな人。
youtubeに町の動画を流したり、丸太小屋で生活したり、あかつきと関わりを持とうとしたり…
去年の年末、そのおかしな人に自らお酌をした自分を思い出して、瑠璃子は自分で自分が可笑しくなった。思えば羽沼はどうしてあのような偵察を入れ、自分に報告してくれたのだろう。
理由はともあれ…
─次に会ったらお礼を言わなきゃいけないな。
と瑠璃子は思った。
二月は今日で終わり。明日から三月だ。天候は変わりやすいが、日が長く、明るくなり、そこそこ暖かくなる。湿度が増え、大地は肥沃になる。徐々に日差しが戻り、春の訪れを感じるようになっている。
たとえば、杏奈はこの間、わかばへ買い出しに行く途中、草原にしゃがみこんで何かを摘んでいるおばあさんたちの姿を見た。
─つくしだ。
つくしなど、もう何年も見ていない。
つくしは苦い。昔、杏奈と裕太が採って来たつくしを、陶子が卵とじにしてくれた。それでも苦い。
でも春には、苦味が必要である。
この時期の体の傾向としては、冬の間に蓄積され、ずっと固まっていた脂質が液状になる。たとえば鼻からは、鼻水としてそれがにじみ出てくる。これをアーユルヴェーダでは、「カパが溶け出す」と表現する。
この時期は、カパ性の疾患として、食欲不振、副鼻腔感染症、うっ血、痰による吐き気、全身倦怠感などが発生しやすい。
内部の脂肪が溶けると、血液が濃くなり、循環系が詰まる。うっ血、過剰な水分(湿熱)が肺を攻撃し、上気道うっ血、肺炎などを引き起こしやすくなる。
脂肪の代謝を行う肝臓にも負担がかかる。そこにで苦味のある食べ物や、スパイス・ハーブの出番だ。これらは肝臓を浄化し鬱血を緩和し、春のアレルギーを防ぐ。
「薫さんは、ヴァータ体質のようですね」
杏奈は質問票を眺めながら言った。今週末あかつきに滞在予定のクライアントのものだ。
質問票がメールに添付されて送られてきたのは、つい昨日の夜のことだった。このように、土壇場で何かを決めるところも、実にヴァータタイプらしいと思う。思い立ったら即行動、というわけだ。
「…あ、でもこの方、お医者さんなんだ」
職業に医者とある。それでは休みがとりにくいし、前もって休みも分からないのかもしれない。
しかし、ヴァータの乱れがいくつかあるとなると、食事は、冬の間食べていたような料理の要素を残さないといけないかもしれない。
暖かくなってきているとはいえ、まだ完全に季節が変わったわけではない。
季節が変化する時は、次のシーズンに優勢になるドーシャ(この場合はカパ)に対応するとともに、前のシーズンに優勢だったドーシャ(この場合はヴァータ)のケアも行うことが大切だ。
美津子はというと、居間の飾り棚に何やら置物を置きながら、杏奈の独り言を聞いている。
「それは、貝ですか?」
「ええ。貝合わせよ」
金の屏風を背景に、飾り台に飾られている一対二つのはまぐり。その内側には、繊細に、丁寧に描かれた、色鮮やかなお内裏さまとお雛さまの絵。
「はまぐりのお雛さまなんて、珍しいですね」
「考えてみれば、もう桃の節句なのよね」
クライアントへの対応ですっかり忘れていた。
「うちにも、嫁入り前の娘がいるからね…」
と言って、美津子は杏奈のほうを見た。
「え?私ですか?」
杏奈が驚いたのは、美津子が杏奈のために飾ったような言い方をしたからだ。
「ふふ。冗談よ。薫さんにも季節を感じてもらえたらと思ってね」
杏奈は少し、ほっとした。自分のために飾られたのでは、なんだかプレッシャーに感じてしまう。
「杏奈」
「はい」
「そのうち、コンサルを主導してもらおうと思う…」
「しゅどう…?」
咄嗟に漢字変換ができなかった。
美津子はそっと振り返って、頷く。
「あかつきのアーユルヴェーダコンサルタントとして、私の代わりに務めてもらう」
「えっ…」
咲子と結衣が来た時、杏奈はカウンセリングに参加し、説明を行った。でもそれは、部分的にであった。
─それを、そのうち私が主導すると…?
杏奈は、美津子がそう言ってくれたことが嬉しかった。それができる、と思ってくれているのだろうから。一方で、まだ荷が重いと感じる。自分が美津子の代わりになれるという自信がなかった。
美津子は、杏奈の顔から動揺を読み取ってはいたが、気にしなかった。
杏奈は質問票からクライアントの状況を読み取ることが大分できるようになっている。事前コンサルの前にしっかり準備ができれば、恐れることはないように思う。事前コンサルはオンラインで行うことが多いが、その場合はクライアントの死角になるところに、予備資料を置くことだって可能だ。
この前の結衣や今度の薫のように、前情報がほとんどないか、あっても準備が不十分な段階でコンサルをさせるのは難しいかもしれないが、準備さえしていれば…
─この子ならできる。
美津子は、咲子の一件で杏奈がまとめた資料と講義の様子を見て、そう思うようになった。
─自宅やいつもの職場で日常生活を送っている以上、ラサーヤナは決められた時間、決められた場所で行う特別なプラクティスではありません。
クライアントの問いに対し、杏奈がその場で用意した答えに、美津子は満足している。
─あれは、良い返しだった。
一方で、弱点もある。
「それまでに…訓練しておかなきゃいけないことがあるわね」
そう言われると、杏奈はすっと背筋を伸ばした。
「えと…どういうことですか?」
自分に足らないことを指摘されるのを、杏奈は恐がる。美津子は再び杏奈に背を向けて、はまぐりの傾きを直した。
「アイスブレイクよ」
「アイスブレイク…会議の前の、四方山話的なあれですか?」
「そうよ」
杏奈の表現の仕方が可笑しくて、美津子は振り返りつつ、思わずふっと笑ってしまった。
杏奈はというと、少し戸惑っていた。アーユルヴェーダの専門的な内容ではなく、アイスブレイクの訓練とは…
「お天気のことなど…でいいのですか?」
「なんでも良い」
美津子はさらりと言った。
杏奈は、硬い。確かに、オーナーの前でクライアントに専門的な説明をするのは緊張することだろう。しかし、それはクライアントには関係のないことだ。
「クライアントは、コンサルティショナーがどういう人であるか、とても興味を持っている」
顔には出さず、口にも出さなくても、少なからず気にしているのだ。
「アイスブレイクをして、相手の緊張を緩め、打ち解けた雰囲気を作ることも大事なのよ」
「は、はい…」
「アーユルヴェーダのやり方で人を健康に導くには、一発不調の改善法を言い当てて、提言をして終わりっていうわけにもいかない」
ヒーラーは、長くクライアントと関わることになる。
「伴走してくれる人が、どういう人であるか。心を許しているか。それは、時に結果を左右するほど重要なことなのよ」
「そうですね…」
しかし、そう言われると、ますます杏奈は自信がなくなってくる。人生において長い間、杏奈は人と関わることに苦手意識があった。
だが、やるしかなかった。杏奈は自ら、クライアントの手を引き、導くために、あかつきにやって来たのだから。
「良さそうな案件があったら、あなたにお願いするわ」
「はい。ありがとうございます」
杏奈は、美津子が貴重な機会を与えてくれていることにお礼を言った。
「アイスブレイクか…」
杏奈はうーんと唸っている。
もしこれが沙羅ならば、当日まで何も考えなくても、その場の雰囲気で、相手の顔を見て、言葉が出てくるだろう。しかし、杏奈はもともと無駄口を叩く方ではなく、雑談が苦手。
「雑談が得意になるには、どうすればいいのかな…」
「さぁ…」
独り言にも聞こえる杏奈の問いに、美津子は首を傾げた。
あんなにややこしい資料をまとめる力はあるのに、こんなことで悩んでいるのかと思うと、滑稽というか、可笑しかった。
「雑談が得意な人たちに混じって、雑談をしてみたら?」
美津子は思ったままを口にした。
杏奈はその返答すら生真面目に受け取り、口元に指を当てて考えた。
「雑談が得意な人といえば…」
小さな町の、錆びれた夜の風俗街。
「貴絵ちゃん」
小須賀は、店を出ようとする一人の女性の後ろ姿に声をかけた。赤みがかったワンレンストレートの髪、大きな目に長いまつげ、シュっとしたフェイスライン。入店以来、小須賀がよく面倒をみてきた女性だ。
「貴絵ちゃん、これから斎藤さんと会うの?」
まだ寒い季節だというのに、貴絵は、ファー付きのロングコートの下には、薄手のワンピースに、ストッキングという姿だった。それから、ハイヒールを履いている。
「あー、はい。そうです」
貴絵は、鼻にかかったような、甘ったるい声で、曖昧に答えた。頬を掻く細い指には、ネイルが施された長い爪、いくつもの指輪。
「そっか」
小須賀は返事をしながら、内心、少し寂しかった。
斎藤は店の常連客で、貴絵のことをとても気に入っていた。
小さな町のキャバクラ。来る客は、金があると言っても知れているが、この地域の中小企業の社長、経営者も多い。斎藤もその一人。斎藤は、ここのところよく貴絵と同伴している。同伴とは、キャバ嬢の出勤前に、お店以外で会うサービスだった。同伴の場合、キャバ嬢の指名料・同伴料としての料金が発生する。
しかし今日は、貴絵は初めてアフターに誘われ、承諾したようなのだ。アフターは、完全にプライベート。アフターが頻繁だと、お店に来なくなる客もいるので、アフターに対応するキャバ嬢に、経営陣はいい顔をしない。
キャバ嬢としても、サービス残業するようなもの。関係性が浅ければ、承諾する子は少ない。が、貴絵はむしろ、こそこそと、好んで斎藤と会おうとしている…。
─関係ができて、店を離れてしまう子もいるけど…
貴絵も、その一人になるのだろう。小須賀は直感的に、そう思った。
これから斎藤とどこに行くのかを想像すると、小須賀は、娘を嫁に出す父親のような気持ちになった。
「貴絵ちゃん、困ったことがあったら、いつでも相談してよ」
「え~」
貴絵は指と指を絡めて、甘えたような声を出した。
「困ったことがあったらって、どういうことですかぁ」
「なんでもいいんだよ」
「小須賀さんに話したら、どうしてくれるんです?」
お金でもくれるんですか?と貴絵は冗談を言った。小須賀は声を立てて笑った。
「おれは金ないからさ。話を聞くことくらいしかできないけど」
小須賀は口を閉じた。
貴絵は、会ったばかりの頃に比べると、とてもあか抜けた。
キャバ嬢になる子には、いろいろな理由がある。家庭の経済状況が悪くて、親に仕送りをする子もいる。夢を叶えるため、学費や勉強代に給料を充填している子もいる。幼い子どもを育てるシングルマザーもいる。
みんながみんな、窮地に陥っており、やむを得ず働いているというわけではない。しかし、多くは何らかの事情があった。
小須賀は、そんな女性たちが、安全に、楽しく働ける環境を作ってあげたいと思う。
貴絵もまた、お金に困っていた女の子の一人だ。でも今では、自分でしっかり稼ぐことができる。
だが、いつまでも続けられる仕事ではない。まだお店を辞めるのには早いと思うが…いい人に出会えたのなら、背中を押してあげたい。
「なんでも話して。いつでも聞くから」
それまで、小悪魔的な笑顔と、甘ったるい声で接していた貴絵は、それを聞くと、急に眉尻を下げ、目を潤ませた。
「小須賀さん…」
きちっと足をそろえ、小須賀に正面から向き直ると、貴絵は股関節から身体を折り、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます」
※この小説における花祭は、実際に上記の地域で伝承されている「花祭」を参考にしています。そのため、花祭との類似点はありますが、実際の花祭を正確に説明、描写するものではありません。ご注意・ご了承のほどお願い申し上げます。
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