三月下旬の、ある金曜日。
美津子はエヌボックスを走らせ、設楽町に向かっていた。足込町よりは栄えているが、山間部の町であり、自治体面積の約九割を山林が占める。
運転中、川沿いや、民家の庭、道路端…ところどころに、今まさに満開を迎えようとする桜の木々を見つけた。そして、療育センター「にじいろ」の前の並木道にもまた、桜が咲いていた。
「いらっしゃい。美津子さん」
施設の中のとある一室に入ると、先日あかつきで会ったばかりのこのセンターの指導員、敦子が迎えてくれた。顔は美津子に向いているものの、両手で小さな女の子を支えたままである。
「ちょうど今、お迎えから帰ってきたところなのよ」
部屋の片隅で、女の子はおまるに乗っている。女の子は口がぽかんと開いたまま。目はつり上がり、首からチューブが繋がっている。
美津子は上着と鞄を部屋の入口付近に置いて、敦子の側へ寄った。
にじいろには、未就学児から、特別支援学校を卒業する年くらいまでの子が通っており、様々な療育がされている。
療育センターは県に十か所。にじいろが受け入れるのは、設楽、上沢、足込に在住する児童だった。
「こんにちは」
美津子は敦子と、敦子がお世話をしている女の子に声をかけた。女の子は言葉は話せなかったが、「うー、うー」と声を出して、片手をあげた。
「はい、脚を下ろそうね」
敦子はおまるから子供を下ろし、服を着させた。
部屋には、子供が三人。敦子以外の職員が二人。職員一人が児童一人について、トイレの手伝いをしたり、経管栄養を与えたりしている。
「敦子さんは、今この子のお世話を?」
着替えを傍目で身ながら、美津子が訊いた。
「今は未就学の重症心身障がい児をこのチームで見ているの。福祉職、看護職で、週に一度担当を変えるの」
一人の職員がずっと一人の子を見るのではなく、色々な目で児童を見ていくという形を取っている。
「美津子さん」
敦子が児童に経管栄養を与えるのを傍らで見ていた美津子に、後ろから声をかけて来た者がある。
「由紀さん、こんにちは」
会釈をする美津子に、由紀は手を拱いた。
「美津子さんを案内するわ」
由紀は声を張り上げて、敦子に言った。敦子は頷いて、
「この後、十一時半ごろまでお散歩に出てますから」
と、今日の予定を教えた。
美津子は由紀の後ろについて、施設の中を回った。
「車で三十分くらいだった?」
由紀はこの年の女性とは思えないほどのスピードで歩いた。
「三十分かかりませんでした」
「そう。今日は朝から、保護者との面接があってね」
「面接…」
「ええ。発達相談よ」
発達の遅れを気にした両親からの聞き取りをし、発達の検査をし、相談内容によっては医師が検査を行う。
「子供の発達に不安を感じる保護者は、年々増えているな」
相談の件数が年を追うごとに増えていることから、そう感じるらしい。
「そうですか」
「少子化だというのにね。ここにいると、そんなことは感じないね…」
中庭が見える渡り廊下で、由紀は立ち止まった。美津子は庭のほうへ視線を向けた。小学生くらいに見える複数の児童が、職員と一緒に大きなトランポリンで遊んでいた。
「ここにいるお子さんたちの障がいの程度は様々なんだよ」
「はい」
「飛んだり跳ねたりして、感覚器官を養いながら楽しむ。あれも療育の一つだよ」
美津子は頷いた。
「私も最初はね、どんな遊び方をすればいいのか、どう声をかけていけばいいのか、分からなかった」
由紀は子供たちの様子を見ながら、ひとりごとのように言った。
しかし、今庭で子供たちと遊んでいる職員たちは、楽しそうだった。
「勤務体制はシフト制ですか」
「ああ、そうだよ。敦子さんも、今日は早朝から出勤していたんじゃないかな」
早番や遅番のあるローテーション勤務だ。
「ここでは、多職種との連携を図りながら、介護、日中活動を通して、豊かな生活を送れるよう支援している」
個々が最大限の力を発揮でき、生活をする上でマナーやルールなどの社会性を促す。
「発達支援の取り組みはあるのだが、サポートできる事業所は少なくてね。ここも枠がいっぱいだよ」
「そうなんですか」
「ああ。私もなんとか入所先が見つからないかと、日々あっちこっち飛び回っているよ」
由紀は、体をぴょんぴょん動かして見せた。
「在宅療養されているお子さんのところに行く予定だけど、あなたも来る?」
由紀からの誘いに、美津子は頷いた。
由紀の運転する車で、町内の一軒のお宅を訪問する。
美津子と由紀が入った小さな和室には、奥にベッドがあり、そのベッドはたくさんの医療機器に囲まれていた。
「こんにちは~」
由紀は笑顔で子供を覗き込む。まだ赤ん坊だ。手足が不自然な形で硬直している。意識はあるが、自分で動くことはできないらしい。太いチューブを通して、赤ちゃんの喉と、医療機器とが繋がっている。
「この子は自発呼吸が弱いので、人工呼吸器を使って空気を送り込んでいるんです」
傍らに立つ母親が美津子に言った。気管切開をしていて、肺に直接空気を送っているのだ。
「二十四時間ですか?」
美津子は静かに訊いた。
「二十四時間です」
美津子は赤ちゃんに視線を移した。
「栄養はどうやって?」
「お腹に穴をあけて、胃に直接栄養を注入しています。次は、十二時に…」
「一日、三回?」
「いえ、朝四時から、四時間おきに。一日五回ですね」
─朝四時…
美津子は何か相槌を打とうとしたが、言葉が出なかった。
異常があるとブザーがなる仕組みになっていて、睡眠が中断されることもあるという。
母親は、身なりを整えていたが、化粧っ気がなく、やつれた印象を受ける。歳はそう若くない。
「日中は、お母さまが一人でケアを?」
「はい。でも、夫の職場の理解があって、週三は、旦那も完全にリモートで仕事を。朝から職場に行くのは週一日だけで」
「そうなんですか」
「呼吸状態が良くない時は、二人いないとケアがきついこともあるので、夫がいない日はちょっと不安です」
終わりが分からない中で、そんな生活を続けるのはどれほど大変なことか。
「訪問看護師さんが二時間くらい入ってくれているので、その間は休んだり、仕事に集中することができます」
「在宅レスパイトは、二時間から利用可能で、一時間百円くらいだよ」
由紀が補足説明をした。
「お母さまも、お仕事を?」
「はい。私はフルリモートで、歩合制ですが…」
美津子は頷いた。もしかしたら、この子のことがあって、仕事を変えたのかもしれなかった。
「あのう、木下さん」
「はい」
母親は、由紀に話しかけた。
「足助病院へのレスパイト入院、利用してみたいと思います」
「そうですか」
「はい。主人と話し合って…この子にとって、移動も慣れない環境も、ストレスになると思いましたし、この子と一緒にいてあげたいですけど…」
母親は後ろめたそうに、視線を下ろして、両手を揉んだ。
「一日でいいから一度も起きずに朝まで寝たいなって。そうしたら、この子といて幸せなことも、もっと見つけられるかなって」
「すごくいいと思うわ。今日はその説明のつもりで、資料を持って来たのよ」
由紀は鞄からパンフレットを取り出して、その場で説明を始めた。
─一日だけ、一度も起きずに朝まで寝る…
そんな当たり前の希望を口にすることすら、この母親は逡巡していたのか…
美津子は感慨深い面持ちで、ベッドの側に突っ立って女の子の様子を観察した。小さな体に、太いチューブがつながれている。そんな状態でも、彼女は懸命に生きていた。
「あの夫婦はね、長年不妊治療に取り組んで、やっとあの子をもうけたの」
帰り道の車の中で、由紀はそう話した。
しかし、生まれた子供には重度の障がいがあった。
「国は子供を増やす方向に舵を切っているけれど、生まれる子供たちは全員が全員、健康とは限らない。その前提がぽっかり抜けている」
由紀は、語気を強めてそう言った。
出生数は年々、過去最小を記録している。一方、新生児医療の発達により、自然にしていたら助からなかった命を救える可能性が増えた。しかし、命は繋げても、何らかの後遺症が残ることが多い。そのため、重症心身障がい児が増加している。重度の肢体不自由と知的障害を併せ持つ子供。コミュニケーションをとる手段がなく、自分で姿勢を変えることができない子供の介護は、二十四時間の対応が必要となるケースもある。
「さっき説明していたレスパイト入院にしても、一か月前には予約を取らなければならないし、気軽に使えるサポートが不足してるのよね」
「一か月前に予約…」
両親が緊張感をもって対応している時間は長い。睡眠も、途切れ途切れになってしまう。制限のかかる日中行動、仕事。
「終わりがない中で、私たちが最も心配していることは、お父さんとお母さんがパンクしないか、ということなのよ」
美津子は、先ほどの母親の様子を思い出した。すごく大変だが、幸せに思える時もあると言っていた。
「子供が可愛い、子供が生まれてきてくれて幸せっていう瞬間が、少しでも増えるようにと思っているんだけどね」
美津子は由紀の言葉を聞きながら、窓から見える桜並木の様子を、ぼんやりと眺めた。
「私、昔東京に住んでいたことがあるんですよ」
オンラインキッチャリー教室の冒頭、生徒に自己紹介をしてもらった後、杏奈は言った。
「そちらは、桜は開花しましたか?」
『ええ。今日まさに満開だったみたいですよ。見に行ってはいないですけど』
そう言って、君江はにたっと笑ってみせた。
今日もマンツーマンだった。
「アーユルヴェーダ料理を習うのは初めてですか?」
『はい。でも、職場が南インド料理屋なので…似てますよね?』
「南インド料理屋さんにお勤めなんですか?」
そんな人に料理を教えるのは、ハードルが高い。
君江はやはり、にたっと笑って、頷いた。笑うと目が線のように細くなった。
『でもアーユルヴェーダはあまり知らなくて。東インド料理、西インド料理も習いに行きましたけど、キッチャリーを作るのは初めてです。楽しみ』
「東インド料理に、西インド料理ですか……」
なかなかマニアックだ。
『南インド料理屋で半年くらい働いたらね、体温が上がったんですよ』
「そうなんですか」
『ええ。同僚には、更年期?って言われちゃいましたけど』
杏奈は苦笑した。
「でも、そう言えるような間柄っていうことですよね」
『ふふ。先生は、お若いですよね?』
「ええと…今年で二十八になりますよ」
『私とニ十歳違いだ』
杏奈はその年齢差を聞いた時、即座にあることが念頭に浮かんだ。
─この人は、尾形さんと同い年だ。
料理教室は、まずギー作りから始まる。ギーを煮ている間に、ギーの説明をするのだ。
『先生、ちょっと泡が盛り上がってますけど』
君江はカメラを鍋の方に向けて、状態を映してくれた。
「音はまだしてますか?」
『はい。でもさっきよりだいぶ小さいです』
「じゃあ、そろそろ引き上げ時ですね。瓶に不織布を被せて、濾す準備をしていただけますか?」
『はい…その前に、この状態を写真に撮っておきます』
君江はさっきから、ギーの状態が推移する度に写真を撮っている。
ギーができあがると、次にキッチャリーの説明をし、実践する前に料理動画で全体の流れを把握してもらう。
君江の画面は、手元ではなく、君江自身に移った。杏奈は君江の体格を見える範囲でひそかに観察した。丸顔に丸眼鏡、髪はオールバックにして、後ろで三つ編みを作っている。上半身はがっしりとしていて、胸が大きい。見たところ、すっぴんのようだし、服装も、ジーパンに黒いカットソーで、飾り気がなかった。
「アーユルヴェーダの体質診断を受けたことはありますか?」
『ええ。私、ヴァータです。でも、ちょっとカパもあるかも』
「アーユルヴェーダはどこかで学びましたか?」
『軽くネットで読んだくらいです』
「そうですか。今回の教室に関しては、アーユルヴェーダの理論というよりは、料理を学ぶのが主な目的ということで、あってますか?」
どちらに重点を置いているかによって、話す内容が違ってくる。
『うーん、どっちもかな』
料理にも興味があるけれど、アーユルヴェーダの考え方にも興味がある。
杏奈は画面をエクセルに切り替えて、君江の情報を打ち込んでいく。
『きっかけは、インスタの写真を見てて、作ってみたいと思ったからですけど』
君江は微笑を浮かべ、あっさりと答えた。受講理由はあくまで単純なこと。
『先生、昔東京でアーユルヴェーダの教室されてたでしょ』
「はい」
そう訊かれて、杏奈は少し驚いた。当時のことを知る生徒であったとは。
『その頃から、先生のインスタ見てたんですよ』
「それは…ありがとうございます」
『いえいえ。お仕事がアーユルヴェーダの滞在施設に変わったって知って、それからはあかつきさんをフォローして見てました』
ある人が杏奈個人の発信を経由して、あかつきにたどり着く。そういうこともあろうと思っていたが、実際にそういう人と話すのは初めてだった。
『先生の投稿、好きでしたよ。写真も綺麗でしたけど、何よりもお話が素敵』
「ありがとうございます。嬉しいです」
杏奈はちょっと照れたように笑った。
『今も、あかつきさんの投稿をしているのは先生でしょ?』
「はい」
『やっぱりね』
どういう点で、そうと分かったのだろうか。自分の書く文章にはそんなに特徴的なのか。
『でも最近、投稿形式が変わりましたね』
「ええ。ちょっと事情がございまして…」
杏奈は言いよどんだ。マーケティング上の事情は生徒にする話ではない。君江もそれ以上は訊かないでくれる。
君江はアーユルヴェーダの理論にも興味があるということなので、キッチャリーの解説をしながら、杏奈は少し、理論のところにも触れた。
「似たものが似たものを増やし、相反する性質がバランスをもたらすというのが、アーユルヴェーダの基本的な原理原則です。料理にも、それを反映します」
『へえ~』
君江はメモを取っている。
「キッチャリーは基本的に、温かい状態でいただくので、体が温まります。けれど、もし君江さんが今熱さを感じているようなら、冷たい性質を取り入れます」
体温が上がった、同僚から更年期を指摘されたという情報があったので、杏奈は君江が「熱さ」を感じている可能性を考慮した。
「今、体が熱い感じしますか?」
『いえ。でも、温かいキッチャリーにどうやって冷たい要素を入れるのか、気になります』
「ちょっとしたことです。物理的には少し冷めてから食べてください。それから、体を温めるスパイスを除いて、クーリングさせるスパイスや食材を使います」
たとえば、パクチー、ミントなど。
「キッチャリーに使うバスマティ米やイエロームングダルは、中間からやや冷性の性質をもっています。ギーも、やや冷性です」
『へえ~』
杏奈が郵送した米と豆の袋をまじまじと見て、君江はスマホで写真を撮った。
美津子は、食材一つひとつの性質は詳細であって、出来上がったものに対して性質を見れば良いという意見をもっていた。しかし、杏奈は詳細を喋った。君江は詳細にも興味があるようだった。
君江は、ちょっとしたことで驚いたり感動したりしてくれる。講師としてはとてもやりやすい生徒だ。
『ムングダル以外のもので代用はできますか』
「緑豆や赤レンズ豆、あずきを使うこともありますよ」
『へえ』
「でも、イエロームングダルはとても消化が良く、栄養もあるので、一番よく使います」
『ふうん』
「一時間以上浸水しておくと、圧力鍋のノズルが詰まることが少ないですよ」
『そうなんだ』
君江は受け答え自体はクールだったが、料理に対する関心の高さは言外に現れている。メモをしっかり取っていたし、質問もたくさんした。
「君江さんは、いろいろな料理教室に通っているんですか?」
『はい』
君江はやはり、事もなげにあっさりと答える。
キッチャリーが煮えるのを待っている間、彼女の驚きの料理教室受講歴を知ることとなった。和食、パン、お菓子など一般的な料理教室はもちろん、最近はこういったスパイスを使うややマニアックな教室─インド料理、ベトナム料理、イエメン料理、トルコ料理─にも通っているという。なんでも、働いていない時間はだいたい料理教室に通っているらしく、稼いでいるお金も、生活費を除いてほとんどを料理教室につぎ込んでいるらしい。
『だから私、早朝からバイトに行くんですよ。ファミレスのモーニングから働いて、そうするとギリギリ、十一時始まりのレッスンに行けることがあるんです。それからまた別のバイト。シフトによっては夜レッスンを受けます』
「そこまで合間を縫って参加されるなんて、すごいバイタリティーですね」
『だって、おいしいもの食べたいじゃないですか』
君江はさも当然という表情で言った。
君江は各国料理だけでなく、健康志向の料理教室にも通ったことがあるという。マクロビ、ベジタリアン、薬膳、精進料理……それだけ通ってはいるものの、本人は特に特定の食べ物や食べ方に固執しておらず、単純に料理のジャンルとして楽しんでいるようだった。
「料理教室に割ける時間とお金があるって、素晴らしいですね」
『私子供いないですからね。夫も死んでるし』
さらっと情報を開示し、君江はいたずらっぽくにこっと笑った。率直であっけらかんとした性格のようである。
「そうなんですか…」
『家には老犬がいますけどね』
自由な生活を送っている様子から独身かと思っていたが、夫と死別しているとは思わなかった。
それにしても、養うべき家族がいないとはいえ、養ってくれる家族もまたいないというのに、よくバイトで生計を立て、料理教室に多くのお金をつぎ込めるものだ。
『先生はなんでアーユルヴェーダに興味持ったんですか』
多くの生徒に時々聞かれることだったが、君江もまた、同じ質問をした。
杏奈はその質問に答えた。ある経験から、一時自暴自棄になっていたが、アーユルヴェーダを通して、自分を大切にすることを学んだ。アーユルヴェーダは、自分を変えるきっかけを与えくれた。アーユルヴェーダがもつ癒しの可能性を、信じている。
『癒しですか』
君江は反芻する。杏奈は頷いた。
「自分の優先順位は何か、今の行動はそれにつながっているか、日々自分自身に問います。自分が意識している方向に人生が動いている時に、自然治癒力というものが、もっとも発揮される。そう教わりました」
『ふうん』
「なんだか、料理以外のことに話がそれちゃいますね」
『いやいや、面白いですよ』
君江は淡々と言った。
常識的には、講師や先生は、どの生徒にも分け隔てなく接しなければならない。しかし、実際には、生徒との相性、その生徒がどんな意気込みや姿勢をもってレッスンを受けるかによって、講師の士気が違ってくる。
君江は講師を信頼し、自分についてオープンに喋ってくれた。先日複数人を相手にレッスンをした時は、ビデオオフ、ミュートオフを始終つらぬく生徒が多く、ビデオオンにしていても、表情が恐い人もいた。
講師にとって、どちらがやりやすいかは歴然であった。
─マットの外でヨガをしている人たちを探せ。
美津子は杏奈に、そう言った。
美津子はエヌボックスをあかつきの駐車場に停めながら、療育センターと訪問先で見たことを思い出していた。日常生活の基本的なことが、自分ではできない子供。その中でも日々進歩しているところ、小さな成長を、拾い上げる職員たち。
─ヨギ、か…
美津子はあかつきの母屋を見上げた。
─自分は誰の、何の役に立ちたいのか。
美津子は自分の内面を静かに観察した。今までとはやや異なる小さな火が、少しずつ大きくなっている。
「ただいま」
母屋に入ると、コートを書斎のハンガースタンドにかけ、応接間に入った。
「おかえりなさい。実は、たった今ごはん食べ終わったんです」
午後一時を回っていた。
「今日も遅くなったの?」
「はい。生徒さんとの会話が弾んで」
「それは良かったわ」
美津子は洗面所へ手を洗いに行った。応接間でスマホを触っていた杏奈は、キッチンへ向かう。
「今日もキッチャリーですけど」
レッスンが続くと、レッスンで作る料理を食べ続けることになる。副菜は、レッスンとは関係なく作ったしらすとほうれんそうのお浸し。
「ありがとう」
美津子はいただきますをして、静かにスプーンを取った。
「美津子さん、どうして療育センターに行かれたんです?」
杏奈は、極めて率直に質問をした。
美津子はキッチャリーを咀嚼しながら、返答を考えた。子育てに関する原稿執筆のため。今後クライアントから寄せられる可能性のある相談に備えて。由紀と敦子に見学を誘われたから。言い訳はいくつもあった。しかし、嘘をつくのは、ヨギの行いではなかった。
「また今度ね」
それで美津子は、そう言った。杏奈は、それ以上聞くべきではないことを察した。
「杏奈、結衣さんへの返事、ありがとう」
「はい。ああいう感じで大丈夫ですか?」
美津子は口を動かしながら、朗らかに目を細めて、頷いた。
杏奈はクライアントとのコミュニケーションを、実に丁寧に行っている。返信までの時間の間隔もちょうど良い。けれども、杏奈はクライアント対応を軽々とこなしているわけではなく、ある程度多くの時間を割いて頭を悩ませ、返信する文言を練っている。
クライアントへの対応は、最も気を使い、時間を使う業務だ。そして、最も大切だと言っても過言ではない。しかし、美津子は今回のケースに関し、この大切な仕事を杏奈に一任している。
「結衣さんは、どこへ家族旅行に行ったの?」
「知多ですって」
「近場にしたのね」
「はい」
その結衣から、旅行の道中、車内での雑談の中で夫が急に不機嫌になってしまったという連絡があったのは、その日の夜のことだった。
結衣は、いつか田舎に小さな家を買って、ネイルサロンをそこでしようかと夢を語ったらしい。それが、夫が不機嫌になった理由。今住んでいる新築の家はどうするのかと。ローンを組み、メンテナンスしているのは俺なのに、と。
「地雷を踏んでしまったのね」
美津子は、苦々しげな顔をした。
明日帰宅したら、別れ話をする覚悟で、夫と話し合うつもりだという。
今の彼は、ストレス耐性がまったくない。その状態では、言いたいことを言うこともできない。トラブルがあった時に、一緒に対処するどころか、彼のメンタルのフォローまでしなければならない。冗談が通じないし、夢を語ることさえできない。彼から受けるネガティヴな雰囲気に、結衣自身が、耐えかねているらしい。
風呂から出てきた頃、再びラインの通知があった。結衣からの連絡であるかと思うと、杏奈は気が重くなった。
しかし、連絡をよこしたのは別の人だった。
翌日、杏奈は家族とともに、新城の桜淵公園まで、花見に来ていた。
母の陶子から連絡があり、てっきり、正博と二人で来るものと思っていたら、裕太たち家族まで一緒だった。
新城桜まつりにはたくさんの人が来ていた。駐車場の奥では屋台やキッチンカーが出ていて、お祭り感が出ている。
裕也たち家族を先導するように先頭を歩いているのは、陶子と芽衣だ。ベビーカーをこはるが押し、裕太が陽斗を抱っこして歩いていた。最後尾に杏奈と正博が並んで歩く。
「わあっ、たいこたたいてる~!」
芽衣は大芝生広場に設けられたイベント会場が見えると、そっちに向かって走り出した。その後ろを、陶子が追いかける。
芽衣が和太鼓の演奏をキラキラした顔で見始めたので、大人たちはそこにビニールシートを敷いて、しばらく観覧した。
桜はちょうど満開。暑いくらいの陽気で、絶好のお花見日和だった。
「そろそろ、桜見に行かない?」
演目が次のジャズに変わるころ、陶子がみんなに、主に芽衣に言った。
「えー、うん。いいよ~」
芽衣はそう言いながら、顔はステージ上に向いたままだ。
「母さん、そろそろ授乳だから、先見に行っとって」
裕太がそう言うので、芽衣と陶子、杏奈と正博の四人は、先に名所である笠岩橋、花月橋へ行くことにした。
「授乳室あったと思うんだけど、車の方が近いかも」
「車にするか?」
兄夫婦は、ぐずり出した陽斗をあやしながら、駐車場の方へ向かった。
「こはるさん、まだ育休取ってるんだ」
陽斗は一歳にも満たない。引き続き授乳しているようなので、杏奈はそう思った。
「あと一年育休取るって」
答えたのは陶子だった。
桜淵公園の見所は、豊川を跨ぐ赤い吊り橋、笠岩橋。橋の下を流れる、エメラルドグリーンの川と、両岸に咲き乱れる淡いピンクの桜のコントラストが美しかった。
「うわあっ、はしだ」
芽衣は橋が目に入ると、陶子と手をつないでいるほうの手をぶんぶん振った。
「写真撮ろうか?」
橋の手前で、杏奈は陶子に言った。
「お父さんも」
言われて、正博は陶子の隣に並ぶ。陶子は芽衣の両肩に両手を置いた。三人の姿を写真に撮ると、正博が杏奈を拱いた。
「写真撮ったるわ」
それで、陶子、芽衣、杏奈の三人の写真を撮ってもらう。写真を撮り終わると、芽衣は橋の半ばあたりまで小走りに進んだ。陶子がそれを追いかけ、杏奈と正博は、その後ろにゆっくり追随した。
「仕事はどうかね」
正博が尋ねた。
「まあまあかな」
漠然と、杏奈は答えた。
吊り橋から上流側を眺めると、草花に覆われた緑の斜面に咲く桜と、赤い花月橋が視界に入った。美しい景観である。
「お父さん」
杏奈は、思い切って聞いてみることにした。
「学校の先生だった時、休職してたことがあったでしょう?」
「ああ…」
「メンタルも、不調だったじゃない」
「うん」
「あの時、どういう感じだったの?何が辛くて、逆にどんなことがあったから立ち直れたの?」
杏奈はちょっと、しどろもどろになった。こういうことを本人に聞くのは、はばかられた。自分と関わりの深い、父だからなおさら。
「あのね、お客さんの旦那さんが、精神的にまいっちゃってて」
と、今更だが、質問する発端となった出来事について話した。
「旦那さんとの関わり方に悩まれてるんだけど、どういう接し方がいいのか、私にも検討がつかなくて」
芽衣の写真を撮るために、彼女から少し離れた所で、陶子が立ち止まっている。杏奈と正博の会話が、耳に届いているのだろう。芽衣にかける陶子の声は、いつもより小さかった。
「一人ひとり、事情は違うで、お父さんの話を聞いて参考にできるかは分からんけど…」
それは、言わいでものことだった。
「あの時は、お父さんもつらかったけど、それを傍で見とった家族にも、辛い思いをさせたかもしれんね。特に、杏奈ちゃんはまだ小さかったからね」
杏奈は黙って聞いていた。クライアントのためになるから…ということとは別に、この話は、杏奈にとって関心が深い。
当時のことを、面と向かって、改めて話し合ったことは、これまでになかった。
「心がもやもや~っとして、頑張れって言われても頑張れないなあ、仕事行かなきゃいけないのは分かっとるけど、行きたくないなぁっていう時期が、しばらく続いたんだけど」
父は、遠くに見える花月橋を見ながら言った。
「その理由も、どうしてそういう時期を抜け出せたのかも、本当のところは自分でもはっきりとは分からんかな」
「でも、他の仕事になってからは、そうなることはなくなったんだから、やっぱり仕事のことが大きかったの?」
「それは、とても大きかったと思うよ」
杏奈は、よく覚えていることがある。夜中に妙な音が聞こえて、目を覚ました。音の出どころを見ると、正博が横寝で、背中を丸めて震えている。杏奈は父親がひっそりと泣く姿を見て、心がざわつき、手足に冷や汗をかいたものだ。
「でもね、夫婦の関わり合いでも、困っていたことはあるよ」
正博は杏奈だけに聞こえるよう、ぼそっと言った。
その頃の正博は、何らかの負の感情ゆえに、いつも表情に翳りがあった。正博がしょぼくれた顔をすればするほど、陶子は怒った。家にいる二人の感情が、その両極に固定されると、杏奈は自由気ままに自分の感情を出すことができなくなった。
「お父さんはお父さんで、お母さんに思うことがあったし、お母さんもそうだったんだよ」
そう言ってから正博は、
「まあ、お母さんは今でも、お父さんに思うことはいっぱいあるだろうけどね」
と自嘲気味に付け加えた。
「お母さんには、そりゃ迷惑をかけたけどね。家のことも、子供のこともそうだし、お父さんに変わって仕事をいっぱいしてた」
芽衣と手をつなぐ陶子の後ろ姿を見ながら、正博は聞こえよがしに言った。
「その負い目から、ますますね。自分はダメな人間なんだって。話をするとお母さんは、結構きついことを言うから、そこでもまた、全部を否定された気持ちになって、お父さんは落ち込んで」
「私がどんだけつらい思いをしたと思っとんの」
やはり聞こえていたのか、陶子は眉間に皺を立てて、後ろを振り返った。叫ぶようなことはしなかったが、陶子の声には怒気があった。
「離婚だって何回も考えたけど、あの時はあんたたちも小さかったから、家のことからお金のことも全て、我慢して私がやっとったんだが」
「あんたはそうやってすぐ、感情的になるで」
正博はなだめるように言った。
─子はかすがいになるために生まれてくるんじゃないですよ。
いつか、小須賀がそう言っていた。しかし、実際には陶子と正博にとっては、裕太と杏奈の存在は、離婚しない大きな理由になっていたのだろう。
今は、陶子は感情を爆発させないよう気を遣っているように思える。嫁と孫の前では特に。だが、胸に抱えている鬱憤を晴らすように、正博や杏奈の前では、時折当時のことを掘り返す節はあった。
─それだけ、お母さんの中でも、消化しきれていない出来事なんだ。これは…
そして、自分自身にとっても。
「あん時は、お父さんの両親の介護も重なって…あんたは、それだけは一生懸命やっとったけど」
陶子は、ちっと舌打ちした。
「それも最初は腹が立ったけど、そういう親孝行な、優しい心がある人だって思えたから、なんとか一緒におられたってとこだわ」
その話は、今までも何度か聞いたことがある気がする。
「ねーえ、なにおこってるの」
芽衣が陶子の手を両手でつかんで、左右にぶんぶん振った。その行為で、陶子はいくらか冷静さを取り戻した。無邪気な子供には、本当に助けられる。
当時の自分には、でも、そんな無邪気さはなかったと、杏奈は思う。自分にも無邪気さがあれば良いのにと、何度思ったことか。杏奈は、天真爛漫とはほど遠かった。常に親の顔色を伺う、猜疑心の強い子だった。
─私はお父さんとお母さんの間を取り持つことができなかった。
悪い雰囲気を破ることができたのは、裕太だけだった。杏奈は喋らず、陰鬱として、雰囲気を悪くすることに拍車をかけていたようにさえ思える。その態度は両親の雰囲気に呑まれて形成されたものなのか、天性のものなのかは、今となっては杏奈には分からない。
「ともかくね」
正博は気を取り直して、話を続けた。
「家族がいるからこそのプレッシャーはあったんだけど、お父さんは、それでも家族と一緒にいたかったから、まずは一番迷惑をかけてるお母さんに、自分の状況や困っていることを伝える。それだけはするようにしたんだよね」
杏奈は瞬きをした。正博が自分の心の内を話している場面を、見たことがなかった。その件に関する正博と陶子の話合いは、杏奈たちのいないところで繰り広げられていたのだろう。
「それが、良かったんだと思うよ」
「…」
「良かったというか、それがなかったら、やっていけてなかったかもしれない」
正博は、注意深く言葉を選んでいた。きっと、その頃の状態を言葉にすることも、今までほとんどなかったのだ。
「お互いに、相手の言うことを受け入れられるだけ、大人でよかった」
正博は、ちょっと語調を緩め、嘲笑のような笑みを浮かべていた。
「端から相手の言うことはもう聞けないっていう態度だったら、だめだったかもしれないね」
杏奈はもはや、クライアントのために聞いているのではなかった。
幼い頃の自分が、気になっていた環境。その後もずっと、自分の心に翳を落としていたであろう、子供の頃の環境。その環境がどのように形成されたのか、その一端をやっと知ることができた。今までは訊くことができなかった。聞き手も話し手も、あの時の感情がぶり返されると思うと、十分に時効になってからでないと、傷がまた開いてしまう。それを怖れた。正博や陶子への遠慮もあったが、杏奈にとってもセンシティブな内容だった。
けれど、クライアント対応のために必要だと思えば、客観的な立場を取って訊くことができた。長い長い時間をかけて、やっと…だが、今となっては、杏奈はもう、客観的でばかりいることはできなくなった。
「杏奈ちゃんも何か、気になっとったわな」
当時の家の中の雰囲気を思い出し、杏奈の心は暗く、重くなっていた。それでも、誰のせいにすることもできなかった。昔から。今も杏奈は、自分の感情を飲み込んで、正博の言葉に、こくりと頷くことしかできない。それを、隣を歩く正博が見たかどうかは、分からないけれど。
「卑怯なようだけど、杏奈ちゃんから何も言ってこないなら、話そうとは思わなかった。どうしても、うーん…杏奈ちゃんに対して、後ろめたい気持ちもあったしね」
育った環境が良くなかった、この家が好きでないなどと面と向かって言われたら、やりきれない。
けれど、正博も陶子も、暗黙のうちに分かっていた。就職が決まった時、家を出ていくことに何の寂しさも見せていなかった杏奈。東京にいる頃も、今も、家族の側にいたいという気持ちが希薄な杏奈。
─杏奈は、自分たちと一緒にいても、楽しくないんだ。
それが分かっていた。
沈黙の間、杏奈は、今まで考えもしなかった新しい発想、あらゆる思考が脳内をめぐって、いささか混乱に陥っていた。
杏奈は、今の実家の中で、自分はいなくても良い存在なのだと思っていた。裕太たち夫婦がいて、孫たちがいる。朴訥とした自分がいるよりもいいだろう。その方が楽しいだろうと…。
けれど、本当はどっちなのか。親たちがそう思っているから、自分は実家に寄りつかなくなったのか。それとも…
─私が、家族を求める様子を見せないから…
親たちが、昔の後ろめたさもあって、杏奈を手元に置くことを、遠慮しているのか…。
そんな発想は、今までの杏奈にはなかった。杏奈自身の感情を慮って、親が距離を取ってくれているなど…
「あのね、昔、お父さんがいつもしょんぼりしてて、お母さんがいつも怒っているの、嫌だった」
杏奈は、下瞼の当たりがじんわりと熱くなっているのを感じていた。でも、涙など流すまいとした。この年になって、幼子のような姿を見せるのは、恥ずかしかった。
橋の上はとうに渡り終わり、杏奈と正博は、花月橋への傾斜を登っている。
「お母さんだって、怒りたくて怒っとったんじゃないよ」
杏奈の言葉を聞いていたのか、陶子は後ろを振り返った。
「あんたたちを、それでも大切に育ててきたつもり」
「分かってる。そういうことじゃなくて…」
杏奈は、自分の声が感情をはらんでいるのに気付き、一呼吸おいた。
けれども、喉元に熱が込み上がるのを抑制することはできなかった。小さい頃からずっと思ってきた、その言葉が喉元まで出かかっているのだ。
「大切にしてもらえないとか、そういう意味で、嫌だったと思ってたわけじゃないの。私は、お父さんがしょんぼりしてたら悲しかったし…お母さんが怒ってたら、可哀そうに思ってた」
血が激しく沸き立ち、首から顔、頭に登っているのを感じる。その熱を体はあらゆる体液に変えて、対外に放出せんとする。杏奈は鼻を啜った。しかし涙だけは、流すまいとした。
「お父さんとお母さんには、笑っててほしかったのに、そうじゃなかったから、嫌だったの。だって、お父さんとお母さんは…私のお父さんとお母さんじゃん」
親が子を慕い、幸せになってほしいと思うように、子が親を慕い、幸せでいてほしいと思うのは、当然のことであった。
嫌ってなどいない。まだ子供だった杏奈にとって、両親は圧倒的に大切な存在であったからこそ、その両親が酷く苦しんでいる姿を見続けたことで、打ちのめされてしまったのだ。ある程度傷が深くなった時、きっと心が勝手に防衛反応を示したのだ。傷つくのなら、認識を変えてしまえと。大切な存在だと思わなければ、お前はここまで苦しまないだろうと。その防衛反応は当時の杏奈を守ったが、代償として、両親に対する本当の気持ちを覆い隠してしまった。
─気づいた。そのことに…
大人の杏奈が、自分の中に残るまだ子供のままの部分に触れた。
クライアントの認識を変えるために、目線を変えるよう、どう促していくか…最近はそんなことばかり考えていた。そのおかげで、自分自身も、直視したくなかった出来事に対し、別の視点を持てたのかもしれない。別の捉え方を。
けれど今の言葉で、それが伝わったか?
杏奈が嫌だったのは両親ではない。両親を苦しんでいたことが嫌だったのだ。大好きな存在だからこそ、大好きな存在が幸せでない姿を見るのが嫌だったのだ。そうやって言えばよかった。正直に。けれど、言えなかった。親のことで感情的になったり、感情的な言葉を出したりするのが、恥ずかしい。
しかし、杏奈が堰き止めていた感情は、そこで切れた。脇を向いて、どうしようもなくあふれ出てきたしずくを、いつもと変わらぬ紺色のパーカーの袖で拭った。
「ふうん…そうか」
陶子は、後ろを向かず、前を向いて歩いていた。
すすり泣く娘の横で、正博は、やはり前を向いて歩いている。
杏奈は呼吸を整えた。涙が出ていたのは一瞬だというのに、涙をぬぐった袖は、ひどく濡れていた。
「つぎのはしは、まがってるねぇ」
半円を描く花月橋を見て、芽衣は無邪気な声を出した。ここでも、小さな子供の存在が、三人の大人にとって救いであった。
杏奈を含めた古谷家の七人は、公園の近くの創作イタリアンのお店で昼食を摂った。どうやら裕太がコース料理の予約をしてくれていたらしい。前菜からデザートまで、工夫を凝らした料理が続く。いつもは食べないようなたくさんの品目、量の多さに、杏奈は若干アグニを気にしながらも、おいしくいただいた。
「杏奈は料理の仕事やっとるんだでねぇ」
と、陶子は言った。
「どう?参考になる?」
そのために、自分を連れてきたのだろうか。
「うん…おいしいね」
春らしい食材や華やかな盛り付けは、心躍るものだった。
帰りも、裕太のフリードであかつきの門前まで送ってもらった。
「じゃ、頑張ってやりゃあよ」
「元気でね」
「ばいばーい」
実家の面々は口々に別れを告げ、杏奈は手を振って、車が見えなくなるまで見送った。
時刻はまだ昼下がりだった。あかつきの母屋に入ると、美津子が応接間で作業をしていた。
「おかえり」
「…ただいま」
杏奈は美津子の顔を見て、ほっとした。
美津子におかえりを言われた時、なにか、底知れない安心感のようなものを感じた。長らく帰っていなかった、実家に戻ってきた時のように。
今この場所は、杏奈にとって実家以上の場所なのかもしれない。
そういえば美津子は、普通にしていても、いつも微笑を浮かべているような穏やかさがあった。それは杏奈にとって、とても安心できる要素なのである。
「桜、どうだった?」
「綺麗でした」
杏奈はありきたりな感想を言った。正直、桜は途中から目に入っていなかった。
洗面所で手洗いうがいのあと、鼻うがいをした。鼻がむずむずする。今年は花粉症らしい症状は出ていなかったが、今日は外にいる時間が長かったので、対策をする。
「栗原神社まで散歩をしてきます」
鼻うがいをしたばかりだが、急に思い立って、杏奈は美津子に言った。
「ちょっと食べ過ぎちゃいました」
美津子は頷いた。
春のそよ風を受けながら、杏奈は栗原神社までの歩き慣れた道を、少し早歩きで歩いた。今日は日射しがあり、ゴールデンウィーク並みの暖かさだが、木陰になっていて薄暗い西参道はひんやりとしていた。
神門から境内に入り、花神殿へ直行する。祠の前には、桜の枝が飾られていた。花神さまの前で両手を合わせると、そこでしばらく静かに呼吸をする。花神殿に風が入ると、桜の枝から、はらり、はらりと花びらが散った。しかし目を閉じている杏奈には、それは見えない。
杏奈は目を開くと、踵を返して、花神殿を出た。このまま来た道を歩いて、あかつきへ戻っても良いのだが、歩きながら考えたいことがあった。
登山道への分岐を直進して、山へのとりつき近くまで進む。道標があるところで立ち止まり、スマホを開く。
正博から精神的な不調を抱えていた時期のことを聞き出し、結衣へのサポートに役立てようとした。しかし、途中から話しが流れてしまい、その話に夢中になって、結局うやむやになってしまった。
だが、参考になったことがなかったわけではない。
杏奈は、心に浮かんだことを、アプリのメモ帳に打ち込んでいった。
今日、結衣は夫と話をすると言っていた。
─まだ間に合うかも。
杏奈は思い切って、自分個人のラインアカウントから、結衣に電話をした。
「あ、もしもし。あかつきの古谷です」
結衣は電話に出た。
─夫と冷静に話ができました。お互いに歩み寄るために、行動を起こすのはこれからのことになりますが、ひとまず、私も夫も、すっきりしたような感じです。いろいろと相談に乗ってくださり、ありがとうございました。
あかつきのラインに結衣からの連絡が入ったのは、その日の夜だった。
「結衣さんからラインが来たわよ」
お風呂から出てきたばかりの杏奈に、美津子は言った。杏奈は応接間のテーブルに置いてあったスマホを取って、内容を確認した。その時だった。結衣から電話がかかってきた。
杏奈は応接間を出て、書斎のソファの端に座り、電話に出た。
ラインでは、端的に結果だけが送られていたが、結衣は電話で、口頭で状況を詳しく話した。お互い、思っていたことを一つずつ、言い合ったそうだ。それぞれ、六から七項目くらい話した。
『私は、口頭で話をしたら、感情的になって、言い合いになっちゃうから、紙に書こうって言ったんです。そのほうが、後々見返せるし、改善の手がかりも拾えるし』
結衣は、とことん建設的な姿勢だったようだ。しかし、面と向かって話したいという夫の意思に負けて、子供が寝ている間、一時間以上も話をした。
最終的に、結衣は泣いた。自分が思っていたことも言えたが、その分相手からも言われた。その内容には、結衣にとって耳が痛いこともあれば、拍子抜けするようなこともあった。例えば、服装が適当になった、とか。
─お母さんになっても可愛くいてほしいなんて思うような旦那さんなんだな…
杏奈は話を聞きながら苦笑した。なんだか、のろけ話を聞かされているようにも思える。
外見のことを言われたので、結衣も、気になっていた夫の癖や、しぐさを指摘したのだそうだ。そういう外見的なことも話題になったが、お互いに、最も敏感な内容にも触れたという。
『夫からは、なんでも否定されるように思えて、嫌だったって言われました』
それは、結衣自身も自覚をしていた。
結衣としては、夫がいつもネガティヴなことしか、文句のように聞こえるようなことしか言わないから、ポジティヴにこういう風に見たら?と言うつもりで、話をしていたそうだ。しかし、その言い方が夫には、偉そうに見え、バカにされているように、否定しているように聞こえたのだという。
『だから、これからは、夫の言うことやすることを、まず受け入れる、話を肯定することを心がけてみよう、と思います…』
結衣は、少し苦々し気に、でも、自分に言い聞かせるように言った。
杏奈は電話しながら頷いた。
『ラインで相談できたのが、心強かったです』
夫と話した内容から飛んで、結衣はふいに、そんなことを言った。
『ちゃんと返信いただけて、しかも、おもしろい返信もしてくれたので、フレンドリーな感じでやり取りができました』
「そうですか」
『はい。ちゃんと相談できる場所ができたので、自分を俯瞰して、冷静に見られたというか…そしたら、穏やかでいた方が、自分にとっても周りにとっても良いってことに気がついて』
「…」
『タイムリーに、話し合う直前に電話がきて、それで、いっそう冷静になれました。どうしても、夫と話したら、お互いの嫌なところをつつき合うことになるのは分かってたので、怖かったし、勇気もいったんですけど、なんというか今回は、自分に言われているんだけど、どこか他の人が言われているのを傍で聞いている気持ちで聞けて、でもその後、ちゃんと自分事として、受け止められて…』
杏奈は自分の心臓が、常時よりも強く、鼓動を打っているのを感じた。
『しどろもどろですみません』
深い呼吸をする。ともかく、結衣へ返事をしなければ。
「お互いに、相手のことを受け止められて、良かったですね」
『はい。今日は言いたいことを言っただけで、直していくのはこれからですし、直していけるかどうかも分からないんですが…』
結衣とその夫は、今後も揉めるだろうし、その度に今回のような、体力と気力を使う話し合いをしなければならないだろう。
これで何かが解決したわけではないが、結衣の声色は、少しすっきりしているように聞こえた。
「でも、言いたいことを言えたことが、良かったんだと思います」
杏奈は、明確に答えた。
「勇気を出して、頑張りましたね。素晴らしいです」
結衣は、離婚すら考えていると言っていた。けれど、お互いに話し合ったということは、関係を続けるために、前向きな一歩を踏んだということだ。
「でも、フレンドリーな感じでやり取りで来たのは、結衣さんが時々天然な返しをしたからですよ!」
杏奈は、声のトーンを上げた。
『え?そうですか?』
「そうですよ。ちょっとした打ち間違いとか、私真似して返信してたの、気付いてましたか?」
杏奈は意識的に、語気に笑みを含ませた。
『は~、そうでしたっけ?』
応接間にいる美津子は、書斎から漏れてくる声を聞きながら、静かにお茶を飲んだ。
小さな成長を見守る。
─やっぱり私は、それが好きなのだ。
杏奈は、はっきりと話すことも、雑談も、うまくなった。
美津子はちゃんと知っている。杏奈が今、結衣とスムーズに話しているのは、どんな態度で、どんな風に話をもっていき、最終的にどこに落ち着けるか、事前に考え尽くしていたからなのだと。雑談や軽いトークも、自然にできるようになったわけではなく、テクニックとして学び、普段の人との会話や生徒とのやり取りの中で練習して、努力の結果身に着いてきたものなのだと。
時間をかけて努力している姿を、何度も見ている。クライアント対応に悩む姿だけでなく、それゆえに後ろ倒しした仕事に、夜遅くまで取り組む姿も。杏奈は仕事をきっちりこなす。その精度にもスピードにも、驚かされる。
結衣への対応を杏奈一人に任せたのは、本人にやる気があったとはいえ、肩の荷が重かっただろう。しかし、その判断は間違ってはいなかったと、美津子は思う。
ほどなくして、何事もなかったかのように応接間に戻ってきた杏奈の顔を見て、美津子はまた一つ驚いた。
─顔つきが…
初めて会った時、もう二度と楽しいことが起きない、というような絶望を宿した、死んだような目だったのに。
あれはまだ、昨年の初夏の頃だったのだが。
─もう、それは過去だと思って良いのね。
杏奈の変化は早い。
人生は、自分が意識を向けた方向に流れる。杏奈は狙いを定め、そこに膨大な意識を流している。絶え間なく。となれば…
「杏奈」
「はい」
杏奈は美津子に呼ばれて、傍に寄った。
「手を見せて」
「はい…?」
杏奈は言われて、右手を差し出す。美津子が片手で右手を取りつつ、もう片方の手も差し出したので、杏奈は左手もその手におく。
美津子は杏奈の指を目で見て、自分の指でなぞって、それから、立っている杏奈を見上げた。
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