第53話「山菜とデーツパン」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「今日のメニューは」
 杏奈は応接間にいる三人に料理をサーブすると、説明を始めた。
「雑穀ごはん、茶レンズ豆のハーブ煮、うるいとこごみのナムル、長芋とエリンギの磯辺焼きです」
 メニュー発表だけすると、杏奈は軽く会釈をして退がろうとしたが、
「えっ、ちょっと待って。うるいとこごみがこれ?」
 白髪、ショートヘアの老婆に呼び止められ、杏奈は彼女が指差す方に視線をやった。
「はい。そうです」
「緑が鮮やかね」
 老婆は驚いたような、しかし嬉しそうな顔でそう言った。この老婆は、木下由紀という。歳は七十を超えているが、見るからに闊達そうな、元気な老婆である。
「こごみって、先端がくるっとなっているやつでしょう?」
 由紀の向かいに座っている美津子と同年代くらいの女性が、誰にともなく問いかけた。髪は肩まで届くくらいで、背が高く痩せている。この女性は村岡敦子という。
「天ぷらにするしか食べ方を知らなかったわ」
 杏奈はちょこっと首をすくめて、
「近所の方が摘んできてくださったものなので、新鮮です。お料理が冷めないうちにどうぞ…」
 と言って、その場を退いた。
 応接間にいる三人─由紀、敦子、それに美津子─は、和気あいあいとした雰囲気で食事を始めた。
 三月に入って以降、よく山に入る柳が、度々山菜を持ってきてくれる。しかし、今日使った山菜は、ぐう爺が持ってきてくれたものである。
─花祭に際してはお世話になりましたで。
 美津子は栗原花祭の際、持ち出しで炊き出しを行った上、花見舞いも献上した。花見舞いは祭りの運営資金に充てられる重要な財源である。
 ぐう爺が持ってきてくれた山菜は、うるい、こごみ、ふきのとう、うど。杏奈にとっては、どれもほとんど使ったことがない食材だった。
─組み合わせるスパイスとしては、やっぱり山椒がいいんでしょうか。
─バカ言え。
 日本で摂れる山菜を、日本の香辛料と組み合わせる。小須賀が揶揄したのは、その発想が安直に思えたからではなかった。
─スパイス入れたら山菜の香りがぼやけるじゃん。
 山菜といえば、袋詰めされている山菜の水煮を使って、山菜蕎麦を作ったことくらいしかない。だから杏奈には、山菜の香りというものが未知であった。
─それでよく、季節の食材を大事にしましょうとか言えるね。
 小須賀は小言を言いながら、手本を見せてくれた。
 まず彼の本業、イタリアンシェフの腕前を発揮し、ふきのとうのペペロンチーノ風を賄いとして作ってくれた。つぼみのぷっくりとした形状がかわいらしいふきのとうだが、これを大胆にも粗みじんにし、オリーブオイルでアンチョビと一緒に炒め、蒸したカブにかける。本当はパスタソースなのだが、あかつきではパスタは在庫していないので、カブになった。
 うどとチーズとエリンギの春巻き、うるいとこごみのナムルは、先日、足込温泉に納品するお弁当のおかずの一つにした。その時の小須賀の手順を思い出して、今日のナムルは杏奈が作った。あく抜きがそれほど難しくなく、実にシンプルにできる。
 山菜に含まれる苦み成分は、老廃物を排出する働きがある。春は、冬の間に体に蓄積した脂肪や老廃物を排出するべき時期なので、このような働きを持った山菜は、積極的に食べたいものだ。しかし、芽吹く元気な山菜は、灰汁も強い。やはりこれも、食べ過ぎたらなんの意味もない。スーパーでみかける山菜は、ほんの少しの量で、割といい値段がする。しかし実際には、ほんの少しで十分なのであろう。
─昔、いっぱい食べちまって、体中にブツブツが出てきたことがあったもんでよ。たくさん採れたら、おすそわけしないかん。
 柳もそう言っていた。

「ところで美津子さん。あの話はどうなったの」
 食事を半分ほど終えたところで、敦子が訊いた。美津子はきょとんとした顔で、顔を上げる。
「やだ、忘れたみたいな顔をして。ここのクライアントにヨガの指導をしてくれないかって言ってたでしょう」
「ああ」
 美津子は困ったように笑って見せた。
「いったん、保留にさせてください」
 美津子は事情を話した。目をつけていたヨガインストラクターに交渉し、直近の案件を引き受けてもらう方向で動いていると。
「契約を交わしたわけではないので、どこまでやっていただけるか、私もまだ不安なところがあるんです」
 それで迷っているうちに、敦子への連絡を遅らせてしまった。
「ヨガは教えていても、理学療法士のようなアドバイスまではできないから、私も引き受けていいかどうか悩んでいたところだったの」
 敦子は正直な心持ちを話した。
「もし、そのインストラクターさんがやってくれるのだったら、私は肩の荷が下りるわ」
「あなた、最近と顔ヨガを習って、導入したところじゃないの。それに加えてあかつきさんからもお仕事の話があったなんて…あなたもたいがいマグロだね」
 由紀はあけすけにものを言った。
「敦子さん、顔ヨガって?」
 美津子は敦子に尋ねた。
 敦子は元看護士で、現在は愛知県の社会福祉職として、設楽にある療育センター「にじいろ」で働いている。にじいろは、就学前から特別支援学校を卒業するまでの年齢の、肢体不自由児が生活している。敦子はそこで、発達支援や生活の支援を行っているのだった。
「顔の筋肉、表情筋を動かす顔のヨガよ」
「元々やっていらした笑いヨガとはまた違うのでしょうか」
「ちょっと違う。顔ヨガは、もともと美容的な必要性で生まれたものでしょう」
 由紀が、敦子に確かめるように言った。
「そうですが、表情を豊かにして、心身への健康につながるという意味では同じだと思います」
 センターには、顔や体の筋肉が緊張してうまく動かない子も通っている。遊びや関わりを通して言葉やジェスチャーを増やしていこうと、敦子たちは様々な取り組みをする。顔ヨガも、その一つとして活用しているのだろう。
「敦子さん、センターに移ってからどのくらいですか?」
「二年になりますね」
「お仕事、大変ですか?」
「そうですね…児相とはまた違った難しさがあります」
 センターには、医療的ケアの必要性が高い人が通っている。障がいの種類や程度が異なり、一人ひとりにあわせた支援の方法を見つけ、毎日それを行わなければならない。
「大人数で行う活動をどう展開していくかが、最初は探り探りだったんですけど、今はなんとなくやり方が分かってきて…活動の中で喜んでいる姿を見られるのは楽しいですよ」
 敦子は舌ったらずな喋り方をする、おっとりとした女性なのだが、芯の強さがあることを美津子は知っている。
 美津子が足込幼稚園で勤務していた頃、児童相談所にいた敦子とは何度かやり取りをしたことがあった。その後、彼女が児童自立支援施設に移ってからも、お互い、いろいろと相談をし合った。
 仕事のやりがいを語る敦子が、美津子には輝いて見える。
 一人ひとりに合わせた成長を見守る。三十余年以上の年月をかけて、美津子もそれをしてきた。幼稚園に通う園児たちは、今敦子が関わっている子供たちよりも、成長のスピードが早い。その中でも個性があり、美津子は個性が伸びるような教育を行ってきた。
 あかつきの仕事でも、一人ひとりに合ったアプローチを心がけている。子供と大人では次元というか、レベル感は異なるが、やっていることは似ている。
「センターで集団生活をすることは、そこにいる子たちが社会性を身に着けたり刺激を受けたりできる良さがあるし、その子の両親にとっても、良いことだと思う」
 由紀は話しながら、ナムルをスプーンですくった。
「在宅医療をする両親や本人を見ていると、孤独にさせないことって、すごく大事だと思うのよ」
 由紀は、元小学校教諭・元特別支援学校教員。現在は当事者支援や、支援者研修などを行うNPO法人地域ケアサポート「ひまわり」の職員である。由紀も、美津子が保育士時代からの知り合いだ。
「子供のケアに一生を捧げる親たちを見ていると、そんな親たちにこそ、子供が社会と関わり合いを持って、小さくても成長を遂げている姿を見てもらいたい」
 だが、社会と関われる段階にない子供たちもいるのが実情。そしてその親は、自宅に閉じこもって、二十四時間ケアを行うことになる。
「日本にいる重要心身障がい者のうち、八割は自宅で療養をしているといわれているの」
「由紀さんが関わっているのは、そのご本人やご家族の方なんですね」
「そうよ」
 由紀は頷いた。
「睡眠を削ってのケアをすることもあるから、親たちは心身ともに疲弊していてね。支援を必要としていても、どんな支援を受けられるのか、調べることすらできていないこともある」
 そこで、様々な支援を紹介したり、あっせんしたりするのが、由紀の仕事だ。
「そんな状況で、親は、子が生まれてきたことを、なかったことにしたいと思うこともある」
「…」
「もちろん、そういう時ばかりではないがね」
「由紀さんは、そういった方たちと接していて、つらいと思うことはないのですか?」
 美津子の問いに、由紀は顔を上げて、はつらつとした笑顔を浮かべてみせた。
「つらいとは思わない。その子たちから学ぶことはたくさんあるから」
「…」
「大変だなと思うことはある。けれど、それがこの仕事を嫌だと思うことにはつながらないのだよ」
 そんなことを言ったら、親たちに大変失礼だしね、と由紀は付け加えた。
 美津子は唇を結んだ。いつしか、食事をする手は止まっていた。
「ところで」
 由紀はお誕生日席にいる美津子を振り返った。
「美津子さんは、いつこっちの見学にいらっしゃるの?」

 杏奈はキッチンで立ちながらスマホを触っていた。二月末に滞在していた結衣から、あかつきのラインへ連絡が来ていた。
─夫が、やはり元気がなく、子供と一緒にいるのに、ぼーっとしているのが気になります。仕事で疲れているのは分かるけど、子供お風呂に入れないし、散歩に逃げるし。
 内容は、精神不調気味という夫に関しての、愚痴交じりの相談であった。こういう連絡は、度々ラインに寄せられていて、杏奈は美津子からその対応を任されている。
─それで、週末だけ実家に帰ることにしました。あかつきに滞在してから穏やかだったのに、最近またイライラしていて、ピッタ増えてるなって思います。滞在中習った、ピッタを鎮静する食べ物で改善可能なんでしょうか?
 杏奈は少し、返答に迷った。ピッタが増加するとイライラしやすい。ならばピッタを鎮静する食べものを食べれば、イライラしなくなるかというと、そう単純な話でもない。しかし、直接的にそうとは返信しかねた。
─旦那さんのこと、心配ですね。また、それに対応しなければならない結衣さんも、大変な状況ですね。
 と、まず結衣の苦労をねぎらって、
─女性は生理周期の波に乗って、前はなんとも思わなかったことでもイライラすることがあります。中間期~次の生理までは、特にそうなりがちです。ピッタを鎮めること(食べ物を含め)は役に立つと思います。太極拳で練習した深い呼吸や、自然に触れること、消化に良く刺激性のない食べ物の選択などもいいですね。
 女性の健康に関する資料を編纂する上で身に着けた知識は、こういうちょっとしたクライアントとやり取りする中でもとても役立っている。
 杏奈は結衣が送ってきた文章を、注意深く読んだ。夫が「やってくれないこと」に関して、とても注意が向いてしまうようだ。
─それに加えて、他者をコントロールしようとすることから、遠ざかることにも挑戦してほしいです。結衣さんのイライラは、今、他人の行動がキーになっているようです。しかし、他人の行動には、影響を与えることはできても、コントロールできません。そこに感情が左右されてしまうと、苦しいです。旦那さまに果たしてほしい役割を伝えるのは大切なことです。ただ、そこに結果を求めすぎると、期待が外れた時に苦しい思いをしてしまうかもしれませんね。まずなによりも、結衣さん自身の心身の状態を整えることによって、相手の状況もより広く、色のない目で把握できると思います。その時、旦那さまのことをより様々な角度から見て、感情をイライラさせることなく、必要な話し合いや姿勢が取れると思いますよ。
 ラインを送信すると、杏奈はほっと吐息をして、鍋を火にかけた。
─アドバイスなんて…
 求めていないのかもしれない。クライアントに長文を送った後は、いつでも「出過ぎた」感覚がある。クライアントの中には、本当はただ話を聞いてもらいたい、共感してもらいたい、という人もいる。結衣もそうなのだろうか。
「お疲れさまです」
 正装姿の沙羅が、キッチンに顔を覗かせた。今日は沙羅が敦子の、美津子が由紀のアビヤンガを担当したのである。
「あのお客さまたち、美津子さんと親しそうですね」
 沙羅はデシャップ台に両肘ついて、こそっと言った。由紀と敦子は、美津子の古くからの知り合いらしい。たまにあかつきにお客として施術を受けに来ていたらしいが、杏奈も沙羅も、初めて会うお客だった。
 インスタの発信を見て、あかつきでクライアントに出しているようなものを食べたいと強く希望していたので、料理を提供したのだった。
「沙羅さん、デーツパンの試作したのがあるので、よかったらお昼の余りと一緒に、食べていきませんか?」
「え、いいんですか?」
 ぱあっと笑顔が広がった。
「はい。今から帰ってお昼ごはんじゃ、七瀬ちゃんもお腹が空いちゃうでしょうし」
 実は今、七瀬は前室にいる。彼女の面倒を看ているのは大鐘だった。
「嬉しい。じゃあ、杏奈ちゃんも一緒に食べません?」
「ええ」
 杏奈はそう答えると、さっそくケーキローフ一つ分のデーツパンを切り分けた。
 今日はどうしても沙羅の両親の都合がつかず、杏奈もランチの準備があって子守が難しいので、急遽大鐘を呼び寄せたのだった。
「こういうことも、もう最後かなと思います」
 スタッフに子守をしてもらうのは。
「七瀬ちゃん、保育室決まって本当に良かったですね」
 杏奈は鍋の中をお玉でかき混ぜたり、副菜を温め直したりして、四人分の昼食の準備をした。
「ええ。だけど、保育室が決まったことで気が抜けてしまって」
 朝早く起きたり、夜遅くまで起きてやっていた仕事や勉強などが、できなくなってしまった。これまでは、育児をしながら仕事もしなければならないという頭でいて、気を張っていたからか、頑張ることができたのに。
「今まで無理してたんですよ」
 もう少し休んでもいいと、杏奈は思う。
 沙羅は、困ったような笑みを浮かべて、
「残り少ない、七瀬との二人だけの時間を楽しもうって思っていたのに、なんだかそれすらもやる気がなくなっちゃって…」
 そこまで言って、沙羅は愚痴るのをやめた。子がいるからこその、幸せな悩みなのだ…。杏奈の前で、沙羅は、口を慎まなければならないと思う。
「手伝いましょうか?」
「あ、大丈夫です。沙羅さん、その間に着替えてきてください」
 盛り付けは、杏奈のやり方があるのだ。沙羅は頷いて、キッチンを出た。

 常日頃、整然としている美津子の居室は、今、にわかに散らかっている。
 七瀬が気に入っているおもちゃを、少数精鋭で持って来たつもりであったが、七瀬は全てに手を付け、全てを投げ出してしまったらしい。
「あ~ん、来てくれてよかったわ」
 大鐘が待ち焦がれていたかのように、沙羅に言った。胸元に花柄の刺繍が施された、ラベンダー色のカーディガンに、灰色のスラックス。大鐘は今日も小ぎれいにしているが、さすがにイヤリングは外したようだ。
 ほどなく、杏奈が昼食を部屋まで運んだ。美津子と客人は会話が弾んでおり、杏奈と沙羅は、この後の対応を免除されている。
 七瀬は杏奈が運んできた食事の中で、まず一番にデーツパンに手をつけた。
「パンに目がなくて」
 沙羅はそう言いつつ、
「おいしい?」
 と七瀬に訊いた。
「おいしい!」
「どれどれ…」
 沙羅がデーツパンに手をつけようとすると、
「あーん!!」
 七瀬は怒ったような声をあげた。
「だって、これお母さんのだもん」
「あああああん!」
 沙羅は娘に取られる前に、一口食べた。案の定、七瀬は泣きわめいていたが、試作というからには、食べた感想を杏奈に伝えてあげたかった。
「おいしい。これ小麦粉使ってないの?」
「はい」
「言われなきゃ、全然分からない」
「どれどれ、私もいただいてみようかしら」
 大鐘はちらっと七瀬を見たが、七瀬は母親以外の人がデーツパンを食べても、怒ることはなかった。そこは、子供心に遠慮しているらしい。
「うーん、おいしいわ。パンっていうからパンを想像してたけど、これはケーキなの?」
「パウンドケーキとパンの間のような位置づけです」
 杏奈もデーツパンを食べた。この間とは、米粉とベサン粉の配合を変えてみた。前回は、ベサン粉の比率が多すぎてパサパサとし過ぎてしまったが、今日はそれほどでもない。口の中の水分が持っていかれる感が少なかった。
「卵を使うと、よりふわふわして軽い感じなんですが、今回は使っていないので、重いですね」
「でも、七瀬も普通に食べられていますよ。これでもまだ、完成ではないんですか?」
「あとで美津子さんにも食べてもらわないと…」
 夕食前にでも、食べてもらおうか。
「杏奈さんの料理は独創的で、いいわね。もりもり食べちゃうわ」
「美津子さんのジャッジ、結構厳しいんですか?」
 もりもりと賄いを食べる大鐘をよそに、沙羅は杏奈に質問した。杏奈はうーんと唸って、
「今回は、料理自体の出来というか、料理のジャンル自体が、美津子さんにとって引っかかるものなので…」
「やっぱり、お菓子を作ることには厳しいんですか?」
 杏奈は頷いた。もともと今回のデーツパンは、市販のお菓子を食べていた人が、フルーツなど自然なものを間食にするか、間食をやめるためのワンクッションとして提案するために作っている。
─ただアレルゲンを使っていないというだけで、いいのかしら。
 ベサン粉を使った菓子類の試作をしたいと言った時、美津子はそう言った。
─小麦粉を米粉に置き換えただけ。ベサン粉には栄養があるといっても、同時に砂糖や脂質を摂ってしまうことには変わりない。
 もしそれを子供たちに食べさせたいのなら、その部分に関しても、工夫をせよ。
「え~っ。どう工夫するんですか?」
 多くのお菓子には、甘味と油が使われているものだ。
「精製された砂糖は、アグニを弱めるし、アレルギー体質の子は油に気をつけることが重要なんです」
 杏奈は自分がアレルギー体質であるから、調べたことがある。
「ですから、なるべく砂糖を自然の甘味に置き換えて、油も、害が少ないものを、極力少ない量使うレシピにします」
 というわけで、今日は砂糖の代わりに、生地にはメープルシロップを使っているし、デーツを刻んで入れることで、甘味のアクセントにしている。
「あ、ちなみに七瀬ちゃん、ベサン粉初めてですか?」
「はい。でも、ひよこ豆は食べたことあるので、大丈夫だと思います」
 杏奈は頷きつつ、ほっとした。幼い子供に食べ物を食べさせるのは、案外難しい。

 美津子が杏奈と沙羅に頼みたいことがあるというので、沙羅はその後も、あかつきに残った。
 沙羅が七瀬と遊んでいる間、杏奈と大鐘とで、片付けをする。
「大鐘さん、すみません。手伝ってもらっちゃって」
「いいのよ」
 大鐘はせかせかと食器を洗いながら、
「実は、私子供の相手、苦手なの」
 にぃっといたずらっぽい笑みを浮かべて、こそっと言った。
 大鐘は、その後帰った。
 杏奈は一足早く、応接間の自分の席に座ってスマホを開く。結衣からの返信が来ていた。
─わぁー、ありがとうございます。愚痴ってすみません。なんだか、私だけ色々やってるなーって思いすぎると、涙出てきそうになっちゃって笑
 おどけた文章を作ってはいるが、実家に身を寄せるくらい、心労が溜まっているのだろう。
─他者のコントロールは確かにチカラ入れていたので、そこにチカラ入れないように自分をコントロールしてみます。お料理をせっかく習ったので活かしたいなと。ありがとうございました!
 杏奈はパソコンを開き、メモ帳に返信する内容を入力していく。ライン上で操作すると、誤送信してしまうことがあるので、こうした方が間違いがないのだった。
─お母さんはマルチタスクですからね!
 それは、沙羅を見て常々思っている。
─スペックが高い女性ほど、旦那さんを見て、もっと頑張れる!って思っちゃうかもしれません。たまには話せそうな相手に愚痴っちゃってください。
 杏奈は、とにかく結衣を言外に褒めてやるよう、意識した。
─結衣さんの話聞いたら、みんなうちもそうだっ!って共感してくれると思いますよ笑
 みんな、とは、夫がいる女性はみんな、だが。夫がいない杏奈や美津子には、結衣の気持ちは本当には分かってあげられないかもしれない。果たして、自分がこういう返信をして、どれほど結衣のためになるというのか。
「お待たせ」
 最後に席に着いたのは、美津子だった。七瀬は居間にいて、人形で遊んでいる。
「あのね、ヨガインストラクターを雇おうかと思っているの」
 杏奈と沙羅は、どちらからともなく頷いた。その必要性は常々感じていたし、なり手がいるのであれば、一刻も早く受け入れた方が良いと思っていた。
「良い方、見つかったんですか?」
 先日の鞍馬との会話を思い出して、美津子は苦笑した。
─分かったのか、分かっていないのか。
 鞍馬は、あかつきの事業を理解し、やりがいを見出せそうだと思ってくれているのか。どうも、知名度向上と、報酬以外のメリットを考えてはいないような。
 美津子は二人に、鞍馬のインスタグラムを見せた。
「うわ…男の方なんですか!」
 こういう時、いつも感想を口に出すのは、決まって沙羅である。杏奈はじっと画面を覗いたまま、感想めいたことは喋らない。
「湯の花温泉の長男で、二十三歳」
「え?温泉の長男?温泉を継ぐのではないのですか?そんな若い方、どうやって見つけたんです?どうやって声をかけたんですか?」
 美津子が呆れるほど、沙羅は矢継ぎ早に質問を飛ばした。
「長男だけど、お姉さんがいて、婿取りしているそうよ。鞍馬さん自身も家業を手伝っているけど、今後どうしていくかは決めていないんですって」
「ほー」
 美津子は、他の沙羅の質問には簡単に答えておいて、すぐ本題に入った。
「鞍馬さんには、来月滞在する文江さんのヨガ指導に入ってもらう」
「いきなりデビューさせちゃうんですか」
「そうするのが一番、彼の適正を見極めやすいからね」
 鞍馬もまた、この仕事を続けたいか、判断しやすい。
「とはいえ、クライアントに迷惑はかけられない。そこで沙羅」
 美津子は、沙羅に向き直った。
「鞍馬さんのヨガレッスンの内容を確認して、当日も参加してほしい」
「それは構わないですよ」
 沙羅は頷いた。業務委託の内容にはないことだったが、沙羅は、無報酬でもやるつもりだった。
 鞍馬は、若いが人気のあるヨガインストラクターのようである。その鞍馬のレッスンを間近で見られるのは勉強になるし、楽しいだろうと思った。
「もし、内容がおかしいなと思ったら、なるべく事前に修正させて」
「はい」
「鞍馬さんには、文江さんが自宅で行うヨガの提案もしてもらおうと思っている。杏奈には」
 そう言って美津子は、今度は杏奈に視線を移した。
「クライアントが自宅でも練習できるようなフォーマットを整えてほしい。鞍馬さんには、特に形式は伝えていない」
「練習表ということですか?」
 自宅でそれを見ながらヨガができるよう、資料を渡すということだろうか。
「自宅で練習するなら、動画を送るのがベストだと思いますけど、その方は紙ベースの資料が良いと仰っているのですか?」
「なるほど、今は動画が主流なのか…」
 美津子は時代の移り変わりを感じながら、確かに動画があればクライアントは喜ぶだろうと思った。しかし、自己練習用の動画を撮ることについては鞍馬の承認を得ていない。報酬額もかさみそうだ。
 二人へのお願いは、それだけだった。
「美津子さん、オイルの件ですけど…」
 あかつきが仕入れているアーユルヴェーダオイルは、スリランカの経済情勢もあって大幅に値上がりしている。
「今、先方に値上げ要因を詳しく聞き取りしているところです。同時に、他の施設から、オイルの見積もりをもらおうと思っています」
 値段交渉する上で、比較対象があることは重要だった。しかし、オイルの品質が分からないまま、単純に比較はできないので、まずはサンプルを取り寄せる必要がある。
「いや、サンプルの手配は必要ないわ」
「…」
 沙羅は、美津子が話さずとも、その意図が分かった。美津子はあくまで、今の治療院との関係を続けたいのだ。長期的にオイルを使い続けることを思えば、オイルの値段は重要だが、長年協力体制を整えてくれた治療院との関係を今更ふいにはできない。美津子は、そういう人である。今まで信頼関係を築いてきたのに、経済情勢が不安定になったからといって不当な要求をしてきた不実を、一過性の迷いと不安からだったと認めさせ、正当な値上げ幅に留めさせたい。美津子の欲するところはそれなのである。
─だとすれば…
 沙羅は美津子の希望に沿う結果が出るよう、粘り強く、誠実に交渉し続けるしかない。
「そういえば二人とも、事例研究は進んでいる?」
 美津子は、最後に二人に訊いた。
 杏奈は遠慮がちに頷いたが、沙羅は苦笑して、
「七瀬も保育室に入りますし、来月から、頑張ります!」
 美津子はそういう沙羅に、にっこり微笑んでみせた。
「ええ。来月からやるといいわ。今は、七瀬ちゃんとの時間を満喫して」
 美津子は「来月から」を強調した。沙羅は七瀬のほうを振り返ってから、力強く頷いた。
 事例研究。
 その言葉で、杏奈は沙羅が言っていたことを思い出した。
─身近に同じ症状を持っていた人がいて、改善した例があったら、聞き取りもしてみたいと思います。

 その日は正午頃から晴れ、暖かくなっていたので、杏奈は運動がてらつくしを採りに行くことにした。
 今日のインスタの投稿は朝のうちに作ったが、今後の投稿の目的や、デザイン、世界観などを考えているうちに、頭が煮詰まってきた。そこで、気分転換をしたくなったのである。 
 インスタの投稿作りに難航している。閲覧時間を上げるために、十枚投稿をすべきというのが羽沼からのアドバイスだったが、毎日十枚もの資料を作るのは根気がいった。
 沙羅が仕事の時間を作れるようになると分かったのだから、今後は単発のお客もどんどん取っていくべきだ。今まで、サロン利用目的の日帰りの顧客に対するプロモーションはしてこなかった。常駐しているセラピストが美津子だけで、人手が足りなかったからだ。
 だが今は状況が変わった。そうとなれば、インスタで単発のお客獲得に向けた発信もしなければならない。施術のメニューの説明をして、ただ来てくださいでは、人は来ない。アーユルヴェーダの施術を通して得られるベネフィットを、重点的に発信していくべきなのだが、セラピストでない杏奈にとってこれを考えるのは時間がかかった。
「目を休めてきます」
 杏奈は、応接間で作業をしている美津子に言った。美津子は最近、あかつきの仕事とは別に、子育て関連雑誌へ寄稿する文章を書くのに忙しかった。
「三ツ沢ルートの途中まで登って来るので、ちょっと遅くなるかもです」
「三ツ沢…?」
 以前、そのルートに杏奈が迷い込んだと聞いたことがあるが。
「どうしてそっちへ?」
「羽沼さんから、つくしが生えてる場所を教えてもらいました」
「つくしを採りに行くのか」
「はい」
 つくしなら、田籠川沿岸ならほとんどどこにでも生えているが、確かに、沢沿いを行く三ツ沢ルートでも、採れるところはありそうである。
「気をつけてね」
 杏奈は登山靴を履いてリュックを背負い、あかつきを出た。
 車道まで出て、田籠川沿岸で採集してもよかったのに、明神山に入ることにしたのは、その方がより自然を感じられそうだったからだ。それに、山菜やつくしが生えているところを、実際に自分の目で見たかった。
 杏奈は羽沼に勧められた山アプリの地図を頼りに、目的地へと向かった。三ツ沢と主要登山道との分岐を三ツ沢方面へ曲がってしばらく進むと、途中、獣道のような小さな道が右手に見える。そこを進むと、ほどなくして開けた平らな土地に行きつく。そこには、果たして、落ち葉に埋もれつつも、つくしが地面に突き刺さるように生えていた。
 近くを流れる川の音がする。
 杏奈は、紺色のパーカー、黒いレギンスパンツに、仕事用の白いブラウスという、いつもの恰好をしていた。
 リュックを適当なところに置き、ビニール袋を取り出してつくし採りを始める。二人分くらい採って、今日の夜ごはんのおかずにでもしてもらおうと思う。
 杏奈は名古屋市のベッドタウンである長久手市で育った。田舎すぎるほど田舎ではないが、都会でもない。小さい頃は祖父母に連れられて、農業用水が流れる土手に、つくしを採りに行ったものだった。しかし、祖父母が他界した頃から、そのような土手もコンクリートで固められて、今では地元でつくし採りができるところは思い浮かばない。
 杏奈には、山菜野草を見分ける知識も経験もなかった。だが、つくしなら、見れば分かる。
 ドォォーン
 大きな銃声のような音がして、杏奈は目を見開いて、そこに固まった。
─え?狩り?
 山なので、イノシシやシカがいてもおかしいことはない。猟師が鉄砲撃ちをすると聞いたこともあるが、間近で銃声を聞くのは初めてだった。
 銃声の大きさもさることながら、近くにイノシシや熊がいるかと思うと、杏奈は急に怖気づいた。
「三ツ瀬のほうかなぁ」
 杏奈は背後に人の声を聞いて、再び体を硬直させた。
 小道に入る前のルートを、誰かが歩いているようだ。
「獲ったかなぁ」
「見てこれば?」
 息をひそめて耳を澄ましていると、どうやら声の主は二人で、どちらとも女だ。
「いや、三ツ沢から降りよう」
 一方は、太くて低い。そして、
「猟銃、意味なかったね~」
 もう一方は、もう少し高くて、若い女性の声だ。
 誰だか知らないが、銃を持っているのだろうか。獣と間違えられたらたまらない。
「ちょっと先行ってて」
 再び、高いほうの声がした。
 杏奈は身を屈めたまま、迷っていた。物音を立てないようにした方が良いのか、いっそ、何か喋って、人がいるということに気が付いてもらった方が良いのか。
 サクッ、サクッ
 落ち葉を踏みながら、こっちへ近づいてくる。
 ザッ
 藪をかき分け、姿を見せた女は、しゃがみこんでつくしを採っている杏奈を見ると、アーモンド型の形のよい目を見開いた。
 杏奈は片方の手につくしの入った袋を持ったまましゃがみこんでいる姿を、見知らぬ若い女性に見られたことで戸惑っていた。
 女性は、杏奈がいることに驚きはしたが、声は立てないで、じいっと杏奈を見下ろした。白いツバ付きのキャップに、灰色・白・ピンクの三色で構成されたジャケット、灰色のジャージを履いたその女性の視線が、杏奈のもつ袋に向いた。
「どうしてそっち…?」
 杏奈は、二度ほど瞬きをした。驚いて声が出ないのだが、女性が何を言ったのか、咄嗟に分からなかった。
「え?」
「見てみて」
 女性は地面を指差している。杏奈はその方向を見たが、一面草に覆われ、ところどころ苔で覆われている湿った土に落ち葉がかぶさっているだけで、何もない。
「え?なんですか?」
 杏奈は説明を求めるように、女性に言った。女性は唇を尖らせて、杏奈の近くまで歩み寄る。
「ここにも」
 すんなりと伸びた細い指で落ち葉をかき分けると、鮮やかな薄い黄緑色の、丸っこい植物が顔を出した。
「あ…」
 杏奈は、それをどこかで見た覚えがあるが、名前が出てこない。
「ふきのとう」
「ふきのとう…」
「山菜の一種ですよ」
 杏奈は、思わず笑ってしまった。先ほど女性が呟いた言葉の意味は、そういうことだったのか。ふきのとうがたくさん生えているのに、なぜつくしを採っているのかと。
「知ってますか?よく天ぷらにして食べるやつ」
「…はい。知ってます」
 確かに、改めて見てみれば、草や落ち葉をかぶっていないふきのとうを、そこかしこに見つけることができる。
「私、全然気が付かなくて」
 少し恥ずかしかったけれど、杏奈は正直に言った。女性は小首を傾げた。顔の小さい女の子である。
「この前、同僚がこれでペペロンチーノソースを作ってくれたばかりなんです。でも、こうやって生えているところを見ても、全然気づけなかった」
「ふきのとうでペペロンチーノですか?」
「はい」
「へえ…おもしれぇ」
 可愛い顔をしているくせに、砕けたしゃべり方をする。ふと見ると、後ろで一つに結っている女性の髪の毛には、金色の塊があった。メッシュが入っているらしい。
「そのつくしも、ペペロンチーノにするんですか?」
「これですか?」
 杏奈は袋を少し持ち上げた。
「さあ…今日は同僚が夜ご飯を作るので…」
 でも、自分だったらこうするな、という案が杏奈にはあった。そのうち、つくしで自分も調理したい。
「えっと、ふきのとう、採ってもいいでしょうか?」
 女性に訊くのも変な気がしたが、女性はもちろんというように小刻みに頷いた。そうは言ったものの、杏奈はどう採れば良いのか分からない。
「手伝いましょうか?」
 戸惑っているのを見かねたのか、女性が声をかけてくれる。
 二人でしばらく、ふきのとうを採取した。ほんの数分で、もう一つのビニール袋がいっぱいになった。
「お姉さん、地元民じゃないの?」
 山菜をリュックにしまう杏奈に、女性が訊いた。
「私は…一年くらい前から、足込町で働いていて…地元民ではありません」
「へえ。何の仕事ですか?」
「栗原神社のほうへ明神山を下ったところに、あかつきっていうアーユルヴェーダの施設があって。そこの料理番です」
「アーユルヴェーダ…」
 女性は反芻して、右の人差し指をおでこの中心に当てた。
「ここにオイル垂らすやつですか?」
「はい」
「サロンで料理番ですか?」
「はい…あのう、宿泊客を取るので」
 女性は、分かったような分からなかったような顔をした。
「おーい」
 遠くのほうから、かすかに誰かが呼ぶ声がして、女性は、来たほうの道をさっと振り返った。
「もう行きますね」
 女性は、杏奈に小さく手を振って去っていった。
 その日採ったふきのとうで美津子が作ったのは、美津子にしては珍しく、天ぷらだった。

 

 

 


 

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