第57話「アビヤンガ」アーユルヴェーダ小説HEALERS

ブログ

 気温がぐんぐん上がり、冬は灰色だった庭の景色が、今は様々な色を帯びている。
 雑草は取っても取っても、次から次へと生えてくる中、黄色いたんぽぽが花を咲かせ、白い綿毛を遠くに飛ばす。
 掃き出し窓のカーテンを開けて日光を部屋いっぱいに取り込むと、電気をつけていなくても応接間まで明るくなった。
 美津子と杏奈は、向かい合って座り、分厚い資料に視線を向けている。新年度。環境が新しく変わる者もいる中、美津子と杏奈には、際立った変化はない。が、今二人が見ているのは、あかつきのアーユルヴェーダトリートメントマニュアル。
 ここにも、ゆるやかな変化が訪れようとしている。
「アビヤンガの目的は、オイルを素早く、効率的に塗り、体の中に浸透させること」
 杏奈はようやく、アーユルヴェーダトリートメントの研修を受けることとなった。あかつきで働き始めてから、もう十か月あまり経っていた。
「体のラインを意識して通ることが大事」
 美津子は最も基本的なアビヤンガの説明を行う。といっても、今話していることは、他のどの施術やマッサージにもいえることだ。
「筋肉系へは、筋束に沿って、インナーマッスルも意識しながら手を動かす。リンパ系には、心臓に向かって下から上へ」
 杏奈はヨガスクールに通っていた時に、解剖学的な知識をわずかながら学んでいた。けれど、実際に誰かの体を使って、その骨格や筋肉を感じたことはほとんどないので、美津子が言っていることは理解できても、手技としてそれができるかどうかは別の問題。
─まだやったことがないんだから…。
 分からなくても、仕方がない。杏奈は自分を励ましながら、美津子の話に耳を傾ける。
「塗布のポイントは、骨の筋肉のつき始めである起始部から、筋肉の終わる停止部、つまり筋肉の端から端までを丁寧に触ること」
 美津子はそう言うと、左腕を前に出してみせた。
「筋肉の端から端まで触ることを意識して、手を動かしてみて」
「はい」
 杏奈は立ち上がり、美津子の傍へ寄った。美津子は左腕を伸ばした状態で、指先を机に付けた。おそるおそる、両手の指を揃えて、美津子の手首の上におく。
「指だけを当てるのですか?」
「メインは指先。手の平も使う」
「分かりました」
 手首から肘まで、美津子の前腕を、たどたどしくなぞる。美津子や沙羅から、アビヤンガを受けた時の記憶が頼りだった。美津子は、ふふっと笑った。
「筋肉の広い面を塗る時には、手の平全体を使うけど、より繊細な部分や、ピンポイントでアプローチをする時には、指先だけを使うこともある」
「はい」
「前腕の筋肉の端から端までなぞれた?」
「分かりません」
 杏奈は正直に言った。施術を学ぶのは人生で初めてなのだ。
「筋肉の付け根から付け根へまんべんなくアプローチするには、目的箇所より十センチくらい広い範囲まで手を動かす」
 そう言うと、美津子は右手の指先を、自分の左肘へ当てた。
「今、ここまでしか指が通ってなかった」
「はい」
「オイルを塗りたかったのは、どこからどこまで?」
「ここから、ここまでです」
 杏奈は、美津子の手首から肘までの範囲を手で示した。
「それなら、どこまで手を動かす?」
─目的箇所より、十センチ広い範囲…
 杏奈はもう一度、美津子の手首に両手を当て、前腕を上へなぞり、肘を通り越した部分─ちょうど肘の上十センチくらいのところに、自分の指が乗るところ─まで、手を動かした。
 美津子は頷いた。
「各部位について、今の動きを意識して」
「はい」
 恩師の体に触れたことで、杏奈は、心なしかドキドキしていた。美津子の腕は少しひんやりとしているが、どこか温かくもある。
「マッサージだと勘違いして、圧をかけられることを期待するクライアントもいる」
 美津子は腕をひっこめた。杏奈はお誕生日席のほうに座り、資料を引き寄せる。
「でも、あかつきの施術では、決して、ツボ押しのように、体は押さないの」
「押さない…」
 トリートメントの研修と聞いて、杏奈は施術の流れを覚えることばかり気を取られていた。しかし、事前に知っておくべき手技のポイントが、いくつもある。
「マルマを知ってる?」
 美津子はマニュアルをめくりながら、ふと気が付いたように訊いた。
「言葉は聞いたことはあります。でも理解してはいません」
 杏奈はこれにも正直に答えた。
 マルマは「重要な場所」という意味で、急所、筋肉や脈管、靭帯、骨、関節の接合点と考えられている。物質的な接合点であるだけでなく、物質と意識(身体と心)の結合点、量子的人体と外界が交流するところでもある。
 美津子は軽く頷きながら、
「施術ではマルマをしっかりと意識する必要があるから、ゆくゆくは、勉強して」
 人体には様々なマルマがあり、主だったマルマの数は一〇七個と言われている。
「今すぐ、頭だけで理解しようとしなくてもいい。実際に身体を見ながら覚えたほうが、記憶に残る」
 杏奈は頷いた。マルマポイントの本は、開いたことはあるが、正直全く頭に入っていなかった。数があり過ぎるのと、名称が難しすぎて、とても覚えられなかったのだ。現場での実践というケーススタディを通して、一つひとつ覚えるしかない。

 九時半頃、沙羅が研修に付き合うために出勤した。
「やっと慣らし保育が終わりましたよ」
 沙羅は施術室へ向かう途中、ペラペラしゃべった。
「最初なんて、一時間ですよ。七瀬は非定型で使ってたから、場所に慣れてるっていうのに」
「一時間じゃ、行って帰ったらすぐお迎えですね」
 沙羅の後ろについて階段を上がりながら、杏奈は相槌を打った。両手には、オイルのボトルが入った保温器を抱えている。
「そうなんです。だから、わかばで買い物をして、そのままお迎えに行ってました」
 二人は施術室に入った。すでに空調は調整され、温かい。
「でもやっと、夕方まで預かってもらえるようになりました」
 沙羅は部屋に入ると、そこで伸びをして、解放感を隠せない顔で笑った。杏奈も微笑み返して頷きながら、
─沙羅さんは、育児をしながら、施術の研修を受けて、本番を迎えたのか…。
 と、改めてそのすごさを思った。もともとあかつきで教育を受けていたとはいえ、細かい手技や、あの難解なマルマのことも分かった上で、施術に当たっていたのだろうか。
 沙羅がモデルとなり、実技の練習が始まった。杏奈は、下はいつもと同じ黒いレギンスパンツだったが、上は白いブラウスではなく、薄手の半袖のティーシャツを着ていた。美津子も同様の恰好をしている。
「いきなり施術の練習なんですね~」
 横になった状態で、沙羅が言った。
「知識の部分は、さっき読み合わせしたから」
「あ、いえ。最初は、ベッドのセッティングや、室内の温度・湿度管理だけでも、覚えることがいっぱいあって苦労したな~と思って」
 今回、そのあたりの説明は飛ばされている。というのも、杏奈はすでに、アシスタントとしてそれらの業務は経験済みだったからだ。
─アシスタントをしておいて、良かった…!
 と、杏奈は心から思った。こんなに覚えることがたくさんあるのだから、施術の前の段階の業務まで初見だったら、きっと混乱したに違いない。
 あかつきでは、アビヤンガで最初にアプローチするのは、脚である。
「脚には、体を動かす大きな筋肉と関節が存在する」
 その筋肉は、加齢とともに老化する。筋肉が減ると基礎代謝も低下する。
「基礎代謝が低下すると、どうなる?」
「太りやすくなります」
 杏奈は率直に答えた。多くのクライアントが気にすることだ。
「確かにそうね。美容的な問題があるばかりではなく、病気を招く原因にもなるわ」
 代謝が落ちるということは、細胞が老化し、体の全部の機能が弱くなるということである。アーマも溜まりやすくなる。さらに、筋肉が落ちると、足がしっかり上がらなくなり、転倒リスクも高まる。
「筋肉の老化を防ぐには、運動が大事だけれど、トリートメントも役立つの」
 脚をマッサージする利点は、たくさんあるということだ。
 マニュアルに沿って、動きを軽く読み合せる。脚部は、大腿部、膝関節、膝下部と三つにパーツ分けをしてオイル塗布する。
「アビヤンガの目的はオイルを塗布することだけど、他にも目的があるわ。なんだか分かる?」
 美津子に訊かれて、杏奈はしばし考えたが、首をひねった。美津子は沙羅の方を向き、
「沙羅、教えてあげて」
「プロポーションをチェックして、正しい姿勢に戻してあげることです」
 杏奈はあっと口を開けた。そういえば、施術のモデルをしていた時、自分も沙羅からアドバイスをもらったのだった。そのおかげで、普段から正しい姿勢を心がけられ、反り腰が治り、お腹が平坦になった。
「そこに立って」
 杏奈と美津子は並んで、沙羅の足元から、今見えている左脚を観察した。
「足首を優しく支えて」
 美津子は、実際に沙羅の足を持ってやり方を見せる。
「少し自分の方に引っ張る。足の向きが正しくなったのを確認したら、施術しやすいように、足を外側に出す」
 沙羅の脚はすんなりと、ベッドの端の方に置かれた。
 もともとのマニュアルには、大まかなポイントと動きは記載されているが、詳細は省かれている。杏奈は素早く、美津子の言ったことをメモした。が、紙とペンに向き合うのは、ここまでだった。
「やってみましょ」

 ボトルからオイルを手に取り、膝から足の付け根までアプローチする。
 先ほど言われた通り、筋肉の端から端までを意識して。
「ボトルは毎回保温器に戻さなくていいのよ」
 杏奈が手からこぼれ落ちそうになるオイルに気を取られていたので、美津子が助言した。
「素早くオイルを塗るの。ベッドの上にボトルを持ってきて、手に取ったらすぐに塗ればいい」
「はい」
 オイルの値段が高騰しているにもかかわらず、今日使っているのは、通常クライアントに用いるオイルだった。
「オイルの量は、少なくても、多すぎてもダメよ」
「はい。これは、少ないですか?」
「もう少し多くてもいいわ。人によって、季節によっても、肌の乾燥具合は違うから、相手を観察して調整する。ラインはちゃんと通れてるわ」
 美津子は施術する位置に立って、やり方を見せる。
「付け根まで塗ったら、脚全体を筒状に覆うような手の形をとって、膝まで戻す」
 大腿の裏側にもオイルを塗布する。
「外側の手は腸骨稜に沿わせて、内側の手より大きな軌道を描いて」
「はい」
 杏奈は美津子がやった通り、もう一度やってみる。
「内側もしっかりなぞって。でも、圧はかけないで。ここには、大腿動脈と静脈、大腿神経を含む重要な脈管があるの」
「は…はい」
 外側のことを言われたので、外側の手に意識がいっていた。
「姿勢は少し内股気味で」
 杏奈は慌てて、自分の姿勢を整えた。背中が丸まらないように。座学の時に、セラピストの姿勢が大事だと、言われたばかりだった。自身に過度の負担を加えないこと。熟達したセラピストは、立ち位置と重力を上手に使い、最低限の労力で施術をする。
 美津子は前に、こうも言っていた。
─ヨガをするような気持ちで、施術する。
 セラピスト自身の姿勢と呼吸を整える。力は問題ではない。身体の組織をイメージしながらの手技が、鍵を握っている。
 次は膝。膝関節は、動きの大きい股関節と地面に接する足関節の調整役であり、複雑な形状をしている。大腿骨、脛骨、膝蓋骨から成り、表面は弾力性のあるなめらかな軟骨で覆われている。さらに、靭帯が関節の動きをサポートする。
「膝周りに塗ったら、膝の上も。親指で膝のお皿を出すように」
「はい」
「サイドも。親指と人差し指で筋肉を挟むように、縦に長くストローク」
「はい」
 膝関節にアプロ―チする上でのポイントは、繊細さである。手の平だけでなく、指先でもストロークし、優しくオイルを塗布する。
「まだ。長くストロークするの」
「はい…」
「関節部は、使うオイルを変える。オイルの説明はまた今度」
 杏奈は体を起こすと、ふぅ、と吐息した。まだ二か所目。なのに、もう体が熱く、汗をかいているのを感じた。
「肩を上げないでね」
「施術部位を真上から捉えて。
「手首を使わない。肘を動かして塗るのよ」
「中指でラインを通る」
「テンポよくね」
「サイドをしっかりとらえて。親指、中指、小指、それぞれをセンサーにして触るのよ」
 びしばしと美津子から指示が飛ぶ。今までは知らなかった、美津子の一面を見たような気がした。美津子は基本的に、細かい指示を出さない人だった。おおらかにスタッフを見守る、という姿勢。しかし、施術室では違っていた。
「沙羅、疲れてない?」
 ようやく左脚が終わったところで、美津子は尋ねた。
「はい。大丈夫です」
 長く施術を受けると疲れてしまうことがある。杏奈は施術に必死で、沙羅に気を遣うのを忘れていた。オイルまみれの手でタオルを取り、額の汗を拭いた。

「杏奈は身長が低いから、少し不利ね」
 杏奈の動きを見つめながら、美津子は言った。右脚は左脚ほど細かくアドバイスを入れずに、順序を覚えることをメインに練習させている。
「目的箇所を捉えるのは、うまいわ」
「ありがとうございます」
「でも、もう少し施術部位が自分のおへその前にくるようにしたい」
「おへその前に…」
「あなたは身長が低いから、人よりもちょこちょこ動いて、位置を変えなきゃいけない」
 自分の体は、セラピストには不利なのか。しかし、不利というだけで、質を落とさないための工夫は、ある。
「施術中、大事なのは上半身よ。上半身が正しい位置になるよう、足を動かす。歩く」
「はい」
 杏奈は言われたことを心がけた。ちょこちょこ動き、施術部位が真下に来るようにする。言葉で指示されると複雑な気がしたが、正しいやり方を体感できれば、そう難しいことにも感じなくなっていく。
「あなた、初めてにしてはうまいわ」
「ほ…本当ですか?」
 杏奈は、なんとなくやるべきことが分かっている気がした。
 目的箇所に、目線とおへそを向けて、両手を添えて置いた時、気が、そこに集中する。意識と身体が一体となって動く。セラピストとしての動きは今までに味わったことがないが、何かに意識を集中させる、瞑想のような状態に誘われる行為なら、味わったことがある。料理だ。
 杏奈が苦労しているのは、アライメント(姿勢)の調整。正しい位置を意識して足をストレッチさせる手技の部分で、その正しい位置が分からない。
「うん…まあ、これくらいにしましょ。あんまりやると、沙羅に負担がかかる」
「すみません…」
 杏奈はあたふたしていた。オイル塗布のセンスはあっても、骨格を見るセンスはなかった。これは、経験を積めば補われるものなのだろうか。
 次に、腕。
 頭に入れた知識と、脚の段階で死ぬほどアドバイスをもらったおかげで、アビヤンガの基本的な手技は、なんとなく身についた。しかし、注意点やポイントは部位ごとに出てくる。
「手のポイントは、手のひらを開いて、疲れている筋肉をストレッチしてあげること」
 手にはたくさんの筋肉がある。指を支えるのは、腱。これらが、手の繊細な動きを司る。
「指の一つ一つの骨の角度に気を配りながら、繊細に」
「はい」
 杏奈は、指の一本一本にアプローチをかけた。
「気持ちいい?」
 美津子は、沙羅に訊いた。
「はい」
 美津子は沙羅の返事を聞くと、今度は杏奈に言った。
「気持ち良いくらいのストレッチはいいけど、無造作に指先を引っ張ったりはしないでね」
「はい」
「手にはたくさんのマルマが存在するわ」
 美津子は、手に存在するマルマの位置や大きさ、どれが何に影響をするのか知っているのだろうか。しかし、今の時点で、それを訊ねる余裕は全くない。
「一つ一つを意識するというよりは、オイルを塗布する流れで、全部をまんべんなく触ることが大切」
 そうすれば、まんべんなくマルマに触れる。
 今度は腕を立てて、筋肉とリンパにアプローチする。
「筋肉のキワや筋を捉えるように。三回くらい塗布して」
「はい」
「支え手を入れ替えて。親指をひじの裏側から腋窩まですべらせて…リンパを流すように」
 何に触れているかによって、アプローチをかける方向までもが異なる。
「手、強く握ってない?」
 美津子に言われて、杏奈は支え手の力を緩めた。
「大丈夫ですよ」
 目を閉じた状態でリラックスしながら、沙羅が言った。それでも美津子は、杏奈に釘をさす。
「人は無意識に、自然に手で物を強く握ってしまうものだ」
 それは、赤ん坊ですら同じ。
「むやみにクライアントの腕を強く握りしめたりしない」
 手を立ててオイル塗布する段階では、支え手でクライアントの手を握らないことが大前提だ。親指と人差し指、中指でひっかけるようにして、手首を支える。
 こんな感じで、練習は腹部、デコルテと続き、体の前面の施術を網羅した。
「今日はここまでにしましょうか」
 美津子がそう言ってくれて、杏奈はほっとした。
 日頃、紙とペン、あるいはパソコンに向かうことが多い杏奈は、人の肉体と相対することに慣れていない。もう体はへとへとで、頭の中はぱんぱんで、眠気に襲われていた。
「沙羅をシャワールームに」
「はい。沙羅さん、ありがとうございました」
 杏奈は沙羅にモデルになってくれた礼を言って、シャワールームへ通した。その後の片付けを終えるまでが、研修だった。

 

 

 


 

前の話へ戻る  》次の話へ進む

》》小説TOP

 

 


LINEお友達登録で無料3大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします

友だち追加