第77話「新しい世界」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 沙羅は応接間で、パソコンに向かっていた。
「はぁぁ…」
 慣れない作業に、思わずため息が出てしまう。
 オンライン上で編集可能なグラフィックデザインツールを用い、あかつきのインスタの投稿を作っているところである。
 沙羅のあかつきでの業務は増えている。それは沙羅自身が美津子に希望したことであった。今までは実務中心だったが、キッチャリークレンズやあかつき大作戦においては、ヨガレッスンや、ヨガ哲学を担当することになり、その準備を行っている。さらに、インスタの投稿も、三日に一回は沙羅が作ることとなった。そして、ゆくゆくはコンサルティショナーとしてクライアントの生活指導をするべく、臨床研究にも励んでいる。
 自身のヨガサロンでも集客をするにあたって、このグラフィックツールは使っていたのだが、沙羅はまだ慣れておらず、作業が難航する。ツールを使うこともさることながら、投稿内容を考えるのにも時間がかかった。
「うーん」
 ずーっとパソコンを見ていると、目が痛くなる。沙羅は両手で顔を覆った。
「はぁ…」
 呻いている沙羅の近くで、ため息を漏らした者がある。
 沙羅が目を開けると、杏奈が肩を落として、応接間に入って来た。沙羅の隣、いつもの自分の席に座り、パソコンをテーブルの上に置いたが、すぐに開こうとしない。
「杏奈さん、インスタの投稿作るのって、時間がかかりますね…」
 こんなこと、よく毎日続けてきたものだ。
「そうですか…」
 杏奈は相槌を打ったが、どこか上の空に見えた。
「この前の投稿も、一から内容考えてたら、三時間くらいかかっちゃって…」
「ふうん…」
「羽沼さんには、投稿作るのが大変だったら、いっそライヴをやったほうがいいって言われたんですけど…」
 恥ずかしくて、沙羅にはまだライヴをやる勇気が起きないのだ。
「あと、リール?ショート動画でもいいって言われましたけど、それはそれですごく時間がかかるし、オイルマッサージ中って動画撮りにくいんですよね…」
 沙羅はトリートメントに関する発信をすると決まっているのだった。分野を分けることで、杏奈との投稿内容がかぶらないよう棲み分けをしている。
「はぁ~…」
「杏奈さん、投稿作るのにどのくらい時間かけてます?」
「朝ごはんの前には終わらせるようにしてます…」
「朝ごはんの前…って、え?どういうことです?」
 杏奈はまだはぁ~とため息をついて肩を落としている。
「あれ?杏奈さん、どうかしました?」
 沙羅は今更のように訊いた。
「はあぁぁぁ…」
 杏奈は両肘をテーブルに付き、両手で顔を覆った。
「この前私が事前コンサルをした人が、さっき、滞在をキャンセルするって…」
「え?滞在をキャンセル?」
 杏奈は頷いた。今からのキャンセルだと、キャンセル料がかかることを伝えたが、それでも、やむを得ない事情でキャンセルするとメールがあった。
「私のコンサルがイケてなかったんでしょうか…」
 難解なことを言っただろうか。自分には、アーユルヴェーダをもって体調を整えていくのは、無理だと思わせてしまったのでは?
「そんなぁ。たまたまですよ」
 沙羅は杏奈の背中に手を置いて慰めた。
「事前コンサル受けた人がキャンセルなんて、今までなかったんです…」
 杏奈が知る限り。
「うははぁぁん…」
「あー、杏奈さん。私も泣きたい気分です~」
 沙羅は杏奈の背中をぽんぽんしつつも、ちょっと自分の作業が気になり、でも杏奈を慰めなきゃと思い…
 結局、どっちつかずのまま、作業ははかどらなかった。

 そして後日。
「なんで撮るんだよ」
 一階のトリートメントルーム。小須賀は半ズボンの状態でベッドに横になっていたが、羽沼がスマホで動画を撮り始めたので上体を起こした。
 羽沼が動画を停止すると、ピコン、と音が鳴る。
「仕方ないじゃん。沙羅さんがインスタのネタ探してるんだから」
「脚しか写りませんから。協力して下さいよ、小須賀さん」
 すぐ傍に立っている沙羅は、めずらしくすっぴんで、髪の毛は無造作に後ろで一つに縛っていた。
 沙羅は広範な仕事を受け持つようになってきたが、それでも中心は、トリートメントと、その指導だった。午前中、杏奈のアビヤンガの練習に付き合い、そのまますぐ一階に降りた。今度は男性陣のマッサージの練習に付き合うのだ。
 杏奈は今日、初めて正装姿でアビヤンガの練習をした。そこには美津子も立ち会っていた。
─これでもう、クライアントにアビヤンガができる。
 美津子から太鼓判を押されて、杏奈は近々、セラピストとしてデビューする。ただ、当の杏奈は、まだあまり自信がないらしく、美津子がそう言っても、苦々しい表情をしていた。
「男の脚なんか写っても、視聴数は伸びないよ」
 寝転がったまま小須賀はぶつくさ言った。
「ちょっと引いて、鞍馬さんが写るようにしましょうか」
 その方が、視聴数が稼げるかもしれない。
「そうだね。男が男にマッサージする絵がうけるかもしれない」
「気色悪いこと言うなっ」
 羽沼の呑気な言葉に、小須賀はすかさず嚙みついた。
「どうでもいいんですけどッ。もう進めていいですか?」
 鞍馬はオイルを手に取っていたが、一向にマッサージに入らせてもらえず、自分の手にばかりオイルが浸透していきそうだ。
「あ、じゃあ鞍馬さん、先ほど伝えたとおり、お願いします」
 鞍馬はオイルのついた手で、小須賀の足先に触れた。その手が膝まで滑ったところで、小須賀は耐えきれないというように声を出した。
「やめ…やめろ!く、くすぐったいだろ」
 ピコン、とまた羽沼が動画を止める音。
「なに照れてんですか!」
 鞍馬は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「照れてんじゃない!おれは繊細なんだ」
 沙羅はもう見ていられなくなって、男衆に背中を見せ、笑いを押し殺した。
 これから夏休み、九月の連休、あかつき大作戦が待ち受けている。男性の滞在者もあるかもしれない。あかつきの男性スタッフも、フットマッサージくらいはできるようになっておいたほうが良いということで、鞍馬から教育をすることにしたのだが…
「ぬるっとしてて、違和感があんだよっ」
「ちょっ、なんすか、ぬるっとしててって…!」
 二人のやり取りを見て、羽沼も耐え切れずに笑い出した。沙羅は真面目に教育を進めなければと思う一方で、可笑しくて肩を震わせている。
「こんなんじゃいつまで経っても先に進めませんよッ」
 鞍馬が吼える。
「モデルチェンジしよう!」
 小須賀が羽沼に向かって手を拱いた。
「え?僕は撮影をしないと…」
 羽沼は撮影を理由に逃げた。
「だいたい、男性の客にだって、女性のセラピストが施術したらいいじゃないですか」
 そう言った後で、自分ならそうしてもらいたい。と小須賀は付け加えた。
「女性が男性の施術をする時は、女性の施術をする時よりも、手順を省略するんです。本当は、みなさんにもアビヤンガを覚えてもらいたいくらいなんですよ?」
 その方が、女性に対するのと同等のサービスができる。
 それに、あかつき大作戦で集客がうまくいった場合、セラピストが不足する。フットマッサージやハンドマッサージ、フェイシャルくらいであれば、男性が女性に施しても問題はない。だからできるだけ、みんなにやり方を覚えてほしいのだった。
 だがいかんせん、やる気がある男性スタッフがいない。
「小須賀さんは施術をしたことがあるんでしょう?小須賀さんがやればいいんじゃないですか?」
 鞍馬は今更そんなことを言う。
「もう忘れちゃったよ、そんな昔のこと」
 小須賀が男性のクライアントにマッサージをしたのは、一年ほど前、宇野が来た時が最後だ。
「それにおれは、料理番って仕事があるの」
「はい!もう御託を並べるのは終わりにして、練習再開しますよ!」
 小須賀は観念したように、もう一度仰向けになった。
 鞍馬は沙羅が広げているマニュアルを見て、もう一度手順を確認してから、練習を続けた。

 そしてまた後日。
 杏奈はドキドキしながら、あかつきのサロンユニフォームである着物に袖を通していた。
 あかつきにはスタッフ用の更衣室はないので、一階のトリートメントルームが空いていればそこで、または美津子の居室の前室で、セラピストは着替えをする。
 杏奈は一階のトリートメントルームのメイクルームに入り、正装姿の自分を映した。着るのはこれが初めてではないが、やっぱりまだ、面映ゆい。鏡に映った自分が、恥ずかしそうに顔を歪めるのが見えた。
 永井が杏奈の身長や体格にあわせて仕立て直したので、袖丈も、前掛けや紐の長さも、全てちょうど良い。
 杏奈はいつものポニーテールではなく、低い位置で髪をまとめ、黒いネット付きのリボンバレッタで留めていた。
 あかつきのサロンユニフォームは、独創的な二部式着物である。着物よりも着脱しやすく、一人で着ることも容易い。白地の上衣。その肩の部分と袖を折り返した裏地は、薄紫の花菱模様で飾られている。白い半衿。白地の巻きスカート。下衣のほとんどは、わずかに灰色みがかった赤寄りのピンク色の、長い前掛けで隠されている。その前掛けを留める、鹿の子文が散りばめられた、大きくて長い、淡黄色のリボン。波の文様が、深い緑色で描かれている。
 この姿でセラピーを施す美津子や沙羅は、ずっと杏奈の憧れだった。やっと二人と同じように、「施し」をすることができる。
 着替え終わった杏奈が、顔を伏せがちにして応接間に戻ってくると、美津子は上から下まで杏奈の姿を見て、にっこりと微笑んだ。
「いいじゃない」
 美津子にそう言われると、杏奈はいっそう、面映ゆそうに顔を美津子から逸らしたがった。そんな初な杏奈の様子を見て、美津子は自分までもが、ちょっと面映ゆい気持ちになる。
 お客は、午前中の早い時間にやって来た。
「担当する古谷杏奈と申します。よろしくお願いします」
 書斎にお客と向き合って座り、バインダーを手に持ちながら、微笑みかけた。微笑みながら、杏奈は顔に緊張の色が浮かんでいないか心配になる。
 杏奈が初めて担当するお客は、この日初めてあかつきを訪れた新規顧客。
 三十代前半の女性で、アーユルヴェーダの施術も初めてということだった。自分がアビヤンガを人に施すのは初めてだということは、もちろん、このお客には言わない。
 事前コンサルに慣れている杏奈にとって、これから待ち構えるトリートメントに比べれば、カウンセリングなどひどく簡単なことに思えた。
 二階に移り、メイクルームで着替えをしてもらっている間、入念に備品や空調のチェックをする。
 美津子や沙羅が優雅にこなしている、アーユルヴェーダセラピストの仕事。
─ずっとこれがやりたかった。
 美津子たちがやっていることを、杏奈もやりたかった。
 一年以上も待った。
 練習の時教わったことは、何もかもが、杏奈の好奇心を掻きたてた。
 手技の一つ一つに、何か意味があるのに、頭ではそれが分かっていても、個々のお客に当たっていない杏奈はまだ、本当の意味を分かっていない。
 人の体は一人ひとりちがう。肌の質感も、肉の厚さも、形も。健康に関する質問票や会話からは分からない、体に触れて初めて分かる情報もたくさんあるが、それに対して、どうアプローチするか。その臨機応変な対応は、数をこなしてこそ、身につくものである。
─学ぶべきことが、たくさんある。
 初めてマニュアルを渡された時、初めてアーユルヴェーダの料理レシピを手に取った時と同じ興奮を覚えた。
 間近で、毎日のようにトリートメントに当たっている美津子がいる。アーユルヴェーダのセラピーはこんなにも近いものだったのに、今はとても遠く感じた。
─知りたい。
 アーユルヴェーダのトリートメントで、人がどんな風に変わりうるのか。
 温かいベッドの上に、右手を置く。かつては赤くただれていた指だけれど、今はそんなことがあったとは思えない。
 この手は美津子が、伝統的なアーユルヴェーダのオイルでもって、綺麗にしてくれた。
 新しいことを始めるのは怖いけれど、それ以上に、自分の力を試してみたいという気持ちが強い。しかし、気持ちが高まれば高まるほど、緊張して自分の手が震えるのを感じた。
─怖い。
 知らないこと、慣れていないことをするのは怖いものだ。習った方法を、間違うことなく、効果的にできるだろうか。
 美津子や沙羅と同等レベルの施術ができはしないことは当たり前だが、お客が満足できるレベルの施しができるだろうか。
 楽しくお客に話しかけることができるのか。
 杏奈は人と関わることが苦手だった。母の陶子からは、接客の仕事は向いていないと言われ続けていた。口下手だから、自分がセラピスト担当だと、お客は楽しくないだろう。適正がないなら、人がいないからといって、自分が知りたいからといって、セラピストの仕事などしない方が…
 杏奈は悪い方に流れていく思考を遮断するように、目を瞑った。
 すると、ある一人の子供が、自分に笑いかけている姿が瞼の裏に写った。ツバメが飛び交い、お菓子が焼けるいい匂いがする。あれはこども料理教室に参加した時…
 杏奈の瞼の裏に浮かんだのは、その時参加していた、小さな男の子の笑顔だった。
─言葉が足らなくても、笑顔があれば…
 それは、あの小さな男の子が教えてくれたこと。
 まともに言葉を話せない年頃の子供。でも、ただ笑顔で、にこにこ笑う姿を見て、杏奈は気づかされた。人の心を温かくするには、それで十分なのだと。
 自分の性格や適性など、今は関係ない。
 目の前のお客を見ろ。
 他事に意識を向けてトリートメントをするなど、最もしてはならないこと。お客のことだけを考え、奉仕の心を笑顔に変えて、今できる最大限のことをすれば良い。
「準備できました」
「どうぞ、お入りください」
 源氏襖が開き、サロンに身を包んだお客が、暖まった部屋に足を踏み入れる。
 杏奈は源氏襖を閉めつつ、お客をベッドまで誘導した。
─いくぞ。
 自分を奮い立たせる。これから始まることに誠心誠意、意識を集中して励めば、その先にもっと大きなものが待っている。

 美津子は内心そわそわしながら、応接間で静かにパソコンに向かっていた。
 二階で今、新しい世界を見ている杏奈に、その初めての挑戦が上手くいくよう、念を送る。
 今まで、自分が育てたセラピストを初めての世界に送り出す経験を、幾度かしてきた。けれど、その時よりも強く念じている自分がいることに気づいて、美津子はおかしくなる。教え子を差別するつもりはないのだが、杏奈がこの短い間であかつきに対し尽力してきたことを思うと、そして、なんのためにそれをしているかを思うと、自然と、うまくいってほしいという気持ちが強くなるのだ。
 最近の杏奈は、夕方になる頃には、いつもぼろ雑巾のようになっていた。無理もない。あかつきの通常業務と、彼女自身が成長するための勉強に加え、セラピストの研修をしていたのだから。
 杏奈はセラピストの仕事をしたことがなかったため、何もかもが初めての学びだった。人の体に触れても、硬いのか、柔らかいのか、どういう場合にどういうアプローチを増やしたり、別のやり方に変えたりすれば良いか、基礎知識が何もない状態からのスタートだった。ビハインドは知識と経験の面だけではなかった。そもそも、彼女は背が低いからリーチが足りない。華奢で力が弱い。体が小さいということは手も小さい。クライアントからすれば、頼りない印象なのだ。
 つまり、体はセラピストに不向きである。でも心はそうではない。
 杏奈は少し勘違いしているが、セラピストは楽しい話のできる社交的な人間に適正がある仕事というわけではないと、美津子は思う。セラピストの役割は、相手の話を傾聴し、体の状態を伝え、少しでも楽になってもらえるように、奉仕すること。相手の悩みや弱いところに静かに寄り添い、癒す。
 この役割を果たすために必要なのは、何よりも「人を癒したい」という思いなのだ。
─あなたはそれを持っている。
 でなければ、夕食のころ、やつれきった顔になるまで、仕事と練習に打ち込めない。
 美津子はぼんやりと天井に視線を向けながら、ここ数か月を振り返る。
 杏奈は仕事の合間にトリートメントの練習をしていた。美津子も、何度付き合ったか知れない。沙羅も杏奈の練習に参加していた。どこにどう触れると、どう感じるのか。それを自分自身が実感するために、逆に美津子や沙羅が杏奈にトリートメントをすることもあった。その時使うオイルは、杏奈の希望で、あかつきのアーユルヴェーダオイルを使った。そのオイル代は杏奈の給料から天引きしている。杏奈の給料は正直言って潤沢ではない。それでも、杏奈はアーユルヴェーダのオイルがどんな作用をもたらすのか身をもって知りたがったし、何よりも、自分自身のコンディション─特に肌─を健やかに保つ必要性を感じていた。
 もし湿疹が出て、状態がひどくなれば、トリートメントができない。トリートメントを通して、あかつきに貢献し、クライアントを癒すことができない。それを恐れているようだった。
 たとえトリートメントができなくても、杏奈はあかつきにきちんと貢献している。SNSの発信、提供する食事、健康日記の発案、新しい企画…今までのスタッフで、短期間でここまで多方面からあかつきの事業に尽力した者はいなかった。
 そんな風に、頼りないところがありながらも、いじらしい弟子だからこそ、美津子は今強い念を送るのだ。
─挑戦して。
 恐れずに。
─こっちの世界も見においで。
 杏奈はアーユルヴェーダの料理人としては、もう熟達していると言っていい。だがアーユルヴェーダのセラピストの世界もまた、料理の世界と同じように、自分たちを夢中にさせてくれるものである。
─あなたもそう感じる?
 調理台や机の上、マットの上ともまた違う。
 アーユルヴェーダのヒーラーになるならば、知らなければならない世界がある。

「こんにちはー」
 事務仕事に没頭していた美津子は、陽気な声が聞こえて、急いで、しかし音を立てないように玄関へ向かった。
「ああ…空楽さん」
 空楽は大きな袋を二つ持って、玄関に立っていた。
 急いで玄関にやってきた美津子の姿を見て、
「すみません、私…お邪魔しちゃいけなかったですか?」
 玄関には見慣れない綺麗な靴がある。お客が来ているのだろうと、空楽は察した。
 美津子は空楽に上がってもらいながら、手短に状況を話した。
 空楽は、珍しいパールコーンという品種の白いとうもろこしを、袋いっぱいに入れて持ってきていた。
「食べきれるかしら。そんなにいっぱい」
「スタッフみんなの分もあるので、みんなここに来たら勝手に持っていってください…って、あとでライン入れておきますね」
「ありがとう…お願いね」
「はい。あ、私これ、キッチンにしまってきます」
 空楽はそう言ってすみやかにその場を去った。
 美津子の前に出ると、やっぱりなぜか、空楽は緊張してしまう。ストリングカーテンをくぐってキッチンに入ると、空楽ははぁと息を吐いた。
─杏奈さん、今日、初めてのアビヤンガかぁ…
 杏奈が練習をしているところを見たのは、どのくらい前だっただろうか。
 空楽があかつきに来るとき、杏奈は、日によって全然違うことをしていた。ある時はキッチンに立ち、ある時は子供の世話をして、ある時はクライアントの対応をしている。スタッフたちの前でプレゼンをし、取り組むべきことを伝え、掃除をし、そうでない他の莫大な時間を事務作業に当てている。毎日のように更新されるインスタと、時々更新されるホームページ。そのネタ集めだろうか、よくスマホで撮影をしている。その合間を縫って、アビヤンガの練習をし…いよいよ、セラピストデビューを果たしたのだ。
─どうしてそんなに頑張れるんだろう。
 空楽はクロックスを履き、スタッフ用の冷蔵庫の野菜室を覗いた。あかつきでも、野菜を育てている。野菜はある時に一度にたくさん実るから、一時的に、冷蔵庫の中がぱんぱんになる。
 野菜室は今、きゅうりとズッキーニ、オクラや枝豆で、その半分ほどが埋め尽くされているが、持って来たホワイトコーンのうち、一袋分は収まりそうだ。
 空楽はスタッフ用、業務用冷蔵庫の野菜室に、二つに分けてホワイトコーンをしまった。それから、メモを残すべく、メモ用紙がないかと棚を探った。
─あ…
 棚の隅、間仕切り用のボックスの隙間に、何冊かの本やリングノートがしまわれている。リングノートは中のページが開いた状態でしまわれていて、手に取ると、そこに書いてあることを読むことができた。
─これは…
 献立案や、レシピのたたきが書かれている。非常に細かい字で、作り方は、文章ではなく、簡単な絵で示されていた。献立も絵で表現されており、料理名の横には、味を示す漢字が、丸で囲われて示されている。
 甘、酸、塩、辛、苦、渋。
─アーユルヴェーダでは、六味を摂ることをすすめている。
 以前、小須賀や杏奈から、そう教わった。献立を立てる時、これらの味がちゃんと含まれているか、確認しながら内容が決められていたのだ。レシピや献立の横には、それを食べるクライアントの情報なのだろうか、考慮すべき他の事項がメモされている。
 整備されたマニュアルやレシピ本を読むよりも、このノートからは、書き手の意図が伝わってきた。そして、その書き手がこれを書きながら、非常に楽しんでいることも。
 これを書いたのが誰か、空楽は、考えなくても分かった。
─楽しんでるな。
 仕事であるという以上に、楽しいから、どこまででも追及できるのだ。自分が楽しんでやっていることが、クライアントやあかつきの活動を見ている人にも良い影響を及ぼすなんて、なんて羨ましいことなのだろう。
 空楽はしばらく、そこに突っ立ったまま、ページをめくった。
 創造性に溢れた仕事を見ると、自分の創造力までもが、掻きたてられる気がした。
 家にあるどんな金属で、アクセサリーが作れるか。
 畑で採れたどんな野菜で、料理を作れるか。
 私がすることで、人にどんな影響を与えられるか。
 空楽は、急にそわそわしだした。
 ノートをもとのページに戻し、もとあったところにしまうと、クロックスを脱いだ。が、メモ書きを残していないことを思い出し、紙ナプキンにボールペンでメモをし、二つの冷蔵庫に貼った。
「あの、お邪魔しました」
 空楽は美津子にぺこりと頭を下げて、応接間を出て行った。
「あ…空楽ちゃん」
 頭上から声がしたと思って振り向くと、杏奈が階段を下ってきていた。見慣れない、あかつきの正装をしていた。手には洗濯物を持っている。ちょうどアビヤンガが終わったところなのだろう。
 ホールまで降りて来た杏奈の顔を改めて見ると、いつになく頬が上気していた。今日も暑いが、このピンク色の頬の理由は、気温のせいだけではないだろう。
 空楽は、自分まで頬が上気したように感じた。意識がどこかに飛んでしまい、何も言えなくなった。
 杏奈は黙ったまま立っている空楽を不思議そうに見つめながら、
「どうしたの?」
 と訊いた。
 杏奈に尋ねられて、空楽はやっと意識が戻ってきた。
「…珍しい野菜が採れたので、おすそわけに来ました」
「そう」
 杏奈は頬を上気させたまま、小声で、
「ありがとう…じゃ…」
 くるりと踵を返し、洗面所の方へ去って行った。
 ぎくしゃくとして、これからやることで、頭をいっぱいにしている様子。それ以上、空楽にかける言葉が出て来ないらしい。
 余裕なんかないのだ。
 空楽は、だからいっそう、その姿が尊く見えた。
 きゅっと唇を結んで、空楽は、静かにあかつきを出て行った。

 夏休みの興奮はいくつになっても持っていたい。
 そういう思いで、空楽は海の日、花火大会を見るために、蒲郡まで車で向かった。同行したのは、姉の義母・本多万喜と、甥っ子の篤。
 梅雨はもうとうに明け、湿気の多い初夏から、暑い夏本番を迎えている。あかつきの人たちに言わせると、この時期は、ピッタが最盛期を迎える。ピッタを落ち着かせる最良の方法は、生活のペースをスローダウンさせること。そのため、この時期に休暇を取るのは、自然に合ったことなのだ。
「もっと近くで場所取りしよう」
「えー、いいよ。ここで」
「何言ってるの。もっと貪欲になりなさい」
 甥っ子の篤は、今年小学一年生になった。が、篤よりも、空楽の方が花火大会に浮かれている。
 渋い顔で叔母の背中を眺める晃の背に、万喜はそっと手を当てて、空楽についていくよう促した。 
 空楽は屋台広場から離れた広い観覧エリアで、空いているスペースを探す。よさそうな場所を見つけて、青いレジャーシートを敷くと、万喜と篤を手で拱く。
 周りはファミリーやカップル、友達同士の観覧者でいっぱいだった。誰も彼もが浮かれている。
 夏休みのイベントや遊びの予定に浮き浮きする時期。けれど、アーユルヴェーダ的にいえば、何事もやり過ぎないようにするのが肝要。そうでなくとも、この時期は暑さで心臓の鼓動が早くなり、興奮しやすくなっている。
 しかし、空楽の心がざわついているのは、夏休みのイベントが待ち受けているからではなかった。
 人々の興奮を煽るような音楽とともに、花火大会が始まった。
 やや待ちくたびれていた様子でゲームをしていた篤も、花火が打ち上がると生き生きと目を輝かせて、静かにそれを眺めた。
「うわー」
 空楽は歓声を上げたが、いつもの淡々とした喋り方そのままの歓声だった。
 その空楽を横目で見ながら、万喜も花火を見上げる。
 去年の秋ごろ、急に実家に出戻ったという、嫁の妹。息子夫婦の店・彩の手伝いが楽しいらしく、よく店に出入りしているので、自然と万喜といる時間も長くなった。あからさまにではないが、人懐っこいのが、空楽の良いところだ。
「ほら篤、お茶飲みなさい」
「んー」
 花火を見ながらも、冷静に孫の世話を焼いてくれる。日は暮れているが、昼間の日射しで蓄熱された地面から、熱が伝わってくる。脱水症状でも起こしたら大変だ。
 万喜はこのところ、空楽は以前よりもしっかりしてきたように感じている。ぼんやりとして、目標のない、どこか不安定さが垣間見える子だったのに。
「きれーだねー」
「うーん」
 きゃぴきゃぴとはしゃぐでなく、淡々としているところが、この叔母と甥は似ている。
 ここの花火大会の特徴は起承転結があること。メリハリの利いた構成で、観客を飽きさせない。短時間にたくさんの花火が次々と打ちあがる。クライマックスの頃には、音楽が激しくなり、花火とシンクロした演出を見せ始めた。
 空楽の瞳は夜空にキラキラと打ちあがる花火を確かに映していたが、心の中では別のものを見ていた。
 普段、感情があまり表情に出ない杏奈が、頬を上気させ、焦った、余裕のない様子を隠すこともできずに、階段から降りてきた。
 よくよく考えてみると、あかつきはアビヤンガのモニターを取っていない。あの日杏奈が施術に当たっていたお客は、モニターではない。正規料金で、アビヤンガを受けに来たのだ。あかつきのトリートメント代は、はっきり言って安くない。それに見合うトリートメントをいきなり求められ、杏奈のプレッシャーはいかばかりだっただろうか。
 それでも挑戦していくのだ。失敗するかもしれない。自分はダメだと思い知るかもしれない。そんな恐れと、不安を抱きながら、それでも…。
「空楽」
 体操座りをして、ひたすらその目に花火を映している義理の娘の妹に、万喜は静かに声をかけた。
「何かやりたいこと、見つかったのか」
 空楽は少し目を大きく見開いて、万喜を見た。
 万喜は、こんなイベント会場にいても、彩でこつこつと仕込みをしている時と同じ、何があっても動じないという佇まいで、空楽を見つめている。
「うん」
 空楽が頷くのと、ひと際大きな花火が夜空に花開くのとが同時であった。

 

 

 


 

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