終了点の左に手をかけられるところがある。そこに手をかけつつ、右足に乗る。そして、右手でロープをかける。ゴールだ。順正はほぼ垂直の岩に張り付いたまま、下でロープを手繰っている前原に向かって「テンション」と声をかけた。するするとロープが金具を通り、順正の体はみるみる下降し始めた。
久しぶりの外岩。しかし、Wake upという課題は難なくリードできた。
「おー!」
初めてリードクライミングを目の当たりにした蓮は、目をキラキラ輝かせ、歓声を上げた。
「すっげえ!」
過去、すでに登ったことのある課題だった。文字通り、朝飯前の課題である。
「何をそんなに喜んでる」
興奮する蓮に背を向けたまま、ぶっきらぼうに順正が言った。
─まったく、なんて冷めた人なんだろう。
前原はロープを緩ませながら苦笑いする。
外岩に行きたいという蓮の願いは、思いがけず早く叶うことになった。十一月中旬の日曜日。これ以上季節が冬に近づくと、外岩を楽しむには寒すぎる。そのため、早いところ日程を合わせた。
行先は明神山の岩場。今日は他にはクライマーはおらず、岩場にいるのは順正と前原、蓮、それから、ジムの看板犬である南天丸。
順正がクライミングシューズを脱ぎ、サンダルに履き替えている間、前原は逆にクライミングシューズに履き替えた。今度は前原が登る番だ。リードクライミングは、クライマー(登る人)とビレイヤー(地面でロープを確保する人)の二人一組で行う。二人がペアを組むのは久しぶりだった。
腰に着用するハーネスという道具に、ロープを結ぶ順正の動きを、蓮は瞬きせずに見ていた。ほどよい所に八の字状の結びをつくり、ロープの末端をハーネスに通して、八の字をなぞるようにもう一度結んでいる。最後は、末端処理。
─かっこいい。
ハーネスにいくつものヌンチャク(カラビナ2枚を連結した、中間支点を取るための道具)をひっかけ、すみやかに命綱を結ぶ二人の大人の男たち。時々、カラビナが触れ合うジャラジャラという音が鳴った。見て覚えたいと思ったが、早すぎてよく分からなかった。
南天丸は、日の当たるところを選んで、大人しく座っている。
今度は前原が、Wake upと名付けられた課題を登った。前原もとっくの昔にこの課題はクリアしている。だから、これはただのウォーミングアップなのだ。
十一月中旬の山中は、午前中の早い時間から日が差しているにも関わらず、寒すぎて手がかじかんだ。週二、三のペースでジムに通っている前原だが、外岩は、感覚が別。ゴツゴツとした岩をつかむ指がかじかんで、心元なかった。
「下がってろ」
前原の直下からほど近いところで出だしの様子を見守っていた蓮に、順正が言った。落石があったら危ないし、万一取りつき部分で、前原が落ちてきたとしても、支えるどころかぶっ飛ばされるだけだろう。
せめて自分のヘルメットを持って来るべきだったと思いながら、順正は小さく舌打ちした。
─世話が焼ける。
蓮が一緒の外岩は、もともと乗り気ではなかった。
こういう日に限って、呼び出しはない。今日の朝までに、クリニックに通っている妊婦が早朝に産気づくことも、他の理由で医師の手が必要になることもなかった。それでも、急用ができたと言って、はぐらかすことはできた。しかし、順正はそれをしなかった。一度した約束は守る。嘘はつかない。この男には、そういうところがあった。
「すげぇ。前原さんも一撃だ」
ほどなく、前原が終了点にたどり着くと、蓮が興奮した様子で顎を上げていた。
「当たり前だ」
順正はにべもなく答える。
最初にリードで登る者は、ヌンチャクをスリングかボルトにかけてからロープをかける。一方、最後に登る者は、ヌンチャク回収と結び変えをしなければならないので、体力を残しておく必要がある。前原は、てきぱきとこれをこなした。
「全部ガバガバだ」
この課題の持ち手は持ちやすいものばかり、ということだ。指の第二関節か、それ以上深く指が入るホールドまたは岩を、日本のクライマーは「ガバ」と呼ぶ。文字通り、ガバっと持てるから、ガバなのだ。
前原は地上に降り立つと、ハーネスからロープをほどき、クライミングシューズを脱いで、サンダルに履き替えた。
蓮は、数歩後ろに下がった。この後、ロープを落として回収するのだろうと思い、そうした。しかし、しばらく待っていても、順正はロープを落とそうとしなかった。どうしたんだろうと訝りながら、蓮は地団駄踏むように足を動かした。こうしていないと、寒さで身が縮まりそうだ。
「ようし」
上着を着終わった前原が、おもむろに蓮の方を向いた。
「じゃあ、やってみますか」
「え?」
突然のことに、蓮は状況を把握できず、前原と順正を交互に見やった。順正は、顎でロープの方をしゃくった。その瞬間、蓮は意図を察して、無邪気な様子で相好を崩した。
登山シーズンも終わりが近い。足込温泉への毎週のお弁当の納品も、十二月から隔週になり、納品数も減らされる。昨日、小須賀とともにお弁当づくりをしたキッチンには、スパイスの香りが濃く残っていた。
「よし」
杏奈は灰色のリュックに、炊き込みご飯のおにぎりと、白湯の入った水筒を入れた。
─これで準備完了。
美津子は、庭で植物の様子を観察していた。熱帯で育つ多くの植物には、寒い季節に備えて防風ネットを被せている。根元の近くに、風で飛ばされた藁を再びのせる。初夏から秋の間、杏奈がよく摘み取ったカレーリーフの木も、今は多くの葉を落としている。
玄関の戸が開く音がして、美津子は後ろを振り返った。玄関から出て来た杏奈が、普段とほぼ変わらない格好をしているのを見て、美津子は少し心配になった。ポニーテールが特徴の杏奈だったが、今日はニット帽をかぶるためか、長い黒髪を三つ編にして、片方に垂らしている。それに、ダウンとスキニーパンツ。
「その靴は、登山用?」
美津子は開口一番そう尋ねた。いつものスニーカーよりは、ソウルがしっかりしていそうだが。
「はい。今後登ることもあるかなと思って、ネットで買っちゃいました」
ローカットの登山靴。いかにも難易度低めの山用だ。
─明神山に登るくらいなら、まあいいか…
美津子は自分を納得させた。登山はほぼ初めてで、その勘が優れているとも思えない杏奈を一人で行かせるのはやはり心配だが。
「美津子さん、炊き込みご飯が炊飯器に残ってますから、お昼はそれと…」
「お昼ごはんのことは分かったわ。心配しないで」
この期に及んで、ご飯の準備はきっちりこなしている杏奈に感心するような、呆れるような心地で、美津子は背中を押した。
「頂上まで登っても、三時間もあれば下山できるみたいなんですが、私は一応お弁当持って行くので」
お昼は別々にしましょう、という意味を込めて杏奈は言った。美津子は頷き、門の外まで見送った。
紅葉する明神山をハイキングすれば、良い運動になり、心も癒されるだろう。杏奈は初めての一人登山ということもあり、ドキドキしていたが、楽しみでもあった。
栗原神社への一本道はすたすたと歩いた。登山靴というものは初めて履いたけれど、普通の道は、ちょっと歩きにくい。
まだ十時前だというのに、参道には多くの家族連れがいた。七五三の撮影があるらしい。楓やケヤキの木が紅葉する参道は、絶好の撮影スポットなのだろう。杏奈は晴れ着をした子供たちやその保護者たちの撮影の邪魔にならないよう、参道の隅を早足に歩いた。
神門を抜けて、神社の境内に入る。花神殿へ行き、一度花神さまに祈ってから、登山をするつもりだった。花神さまの祠の前で、無心に手を合わせてから、花神殿を出る。
─あ、宮司さま。
ぐう爺こと、栗原神社の宮司が、今日も竹ぼうきを持って境内を徘徊していた。きょろきょろと首を動かし、しきりに神門の外へ視線を投げている。すぐそばを杏奈が通りかかっても、よくここを訪れるあかつきのスタッフであることに気が付かない。
─この格好だからかな。
ニット帽に三つ編み。登山の恰好(と、杏奈は思っているが割と普通の恰好)。無理もないと思い、自分からは声をかけることをせず、明神山への取りつきへと足を進めた。
ダウンの胸ポケットにしまった、二万五千分の一地形図。美津子にコピーさせてもらったものだ。鳥居のマークは神社を示す。ネットの情報を頼りに、ルートに鉛筆で線をひっぱっておいたのだが、実際に登山口と思われる木の階段の前に立つと、そこが地図上のどこであるか、自信をもって分かるとはいえなかった。
杏奈が明神山への取りつきで首をひねっていた頃。
生まれて初めて外岩を登った高揚感に、蓮は身も心も震わせていた。
ダブルエイトノットという結び方を教わり、順正と命綱で結ばれた。リードクライミングできないまでも、手近な岩に張り付いてみようと思って、クライミングシューズは一応持ってきていた。ハーネスは前原のものを借りた。順正がビレイをし、前原がムーヴ(体の動き)、掴むホールドの位置や持ち方、足を置く場所を指導した。
ジムのホールドと違い、外岩の岩はゴツゴツとして、ざらついていて、硬くて、ひんやりとして冷たい。手の位置はチョークがついているので分かりやすかったし、確かに、ガバだ。
ボルダリングのグレードで四級を落とせるか落とせないかという蓮でも、途中までは難なく登れたが、高さが出るにつれ、恐怖心が湧きあがった。いかに命綱で繋がれているとはいえ、本当に落ちたら、どんな風にこのロープが自分を守ってくれるのか。
─余計なことを考えるな。
ルートや登り方など、技術的な説明の一切は前原に任せているくせに、順正は時々精神論的な助言をした。蓮には、助言というより、叱責に聞こえたが。
─そこで落ちてみろ。体が振られて壁にぶつかるぞ。
途中の地点で支持されていれば、落下距離もさほどではなく、ほぼ直下するだけ。しかし、今は終了点でしか支持をしていないので、落ちた場合、場所によっては振り子のように振られてしまう。順正や前原からしてみればどうということはないのだが…
─集中しろ。
─蓮、そういうことだから。
前原が言葉足らずな順正の代わりに、
─次のホールドをつかんで、ゴールの真下に来るまでは、がんばれ。
そうして、手に汗かきながら登り切ると、太い紫色のロープは、ぐぐぐと張られた。テンションがかかったのだ。ロープが張られることで、クライマーは手を離しても下に落ちることなく、体が支えられる。
─そこで手を離せ。
前原からの指示に、蓮はぎょっとした。
─足は壁を押していてもいい。
体を、ロープに預けろという。
終了点に着いてからの二人の動きには注目しておらず、高さのある所で手を離せと言われて、蓮は狼狽した。しかし、こんなところで怖気づいて、二人に笑われてはたまらない。
蓮は手を離した。足が震える。しかし、体はぴたりとそこで止まって動かなかった。するすると高度が落ち、あっという間に蓮の足は地面を踏んだ。
「へえ、ここにルートが書いてあるのかぁ」
すっかり気をよくした蓮は、前原からトポ(課題を示したガイドブック)を借り、このエリアで登れる他の課題に目を通した。トポには、ヌンチャクをかけるボルト、スリングの位置がいくつも書かれている。二人の今日の目当ては、そのトポには書かれていない、新しいものだった。
順正と前原は、前原のスマホを二人して覗き込み、ルート考察を始める。蓮も後ろから一緒になって考察をしようとしたが、スマホ画面は全く見られず、二人の会話だけで考察することになった。
順正が先に登ることになり、前原がビレイをする。最初の支点を打つまでは、命綱は機能しない。もし落ちてきたら、下に敷いているマットと、ビレイヤーの支えが必要になる。前原は注意深く順正の動きを目で追った。
「蓮」
前原に呼ばれて、蓮は彼のすぐ後ろまで駆け寄った。
「おれのスマホ開いてといて」
「うん。いいよ」
スマホ画面を前原の顔に向けると、ロックが解除された。先ほど二人が見ていたらしい、ルートを示した画面を開くと、前原が見られる位置にスマホをかざしてみせた。
「次、その蔓が伸びてる右隣の、小さい窪みですね」
前原の助言があったものの、順正は頭の中にあらかたルートを叩き込んでいた。指二本が入るくらいのその小さな窪みは右の方にあるが、次の手のことを考えると左手で取るのが正解だと思われる。右足と左足を乗せ替え、右足で突っ張りながら、次の手を取りに行くというムーヴで正しそうだ。
「緩めます」
支持を取る時は、ロープを緩める。操作している間は三点支持になるので、素早いやり取りが必要だった。
支持してから、次の手を取った、その一瞬だった。ぐわっと順正の体が壁から離れた。その瞬間に、前原は素早く後方に後ずさりし、腰を落としてATC(ビレイデバイス)に通したロープの下側を引っ張る。蓮は咄嗟に前原にならって後ろに下がりながら、どきどきと心臓の鼓動が早まったのを感じた。
順正の体はほんのわずかに下降しただけで止まった。
「悪いですか」
「いや」
順正は小さく息を吐いた。朝露か霜か何かで、岩が湿っていた。岩に薄くパウダー状のチョークを擦り付け、歯ブラシでこすり、その後を手で触って、ぬめり具合を確かめた。
「上の方もダメっすかねぇ」
「分からん」
季節的に良くなかったかもしれない。外岩は、天候など自然のコンディションによって影響を受ける。そこから終了点までは、順正はテンションなしで登り切った。
「どうですか?」
懸垂下降させながら、前原は尋ねる。順正は首を傾げ、
「そんなに面白くないな」
地面を踏みながら、ぼそりとつぶやいた。蓮にリュックサックを持ってこさせると、ゴザの上に腰を下ろして水筒の水を飲む。順正がクールダウンしている間、前原も近くの岩に腰を預けて休憩する。
「前原さん」
気を利かせて、蓮は前原のリュックのサイドポケットからウォーターボトルを抜き取って、渡しに行った。
「前原さんと柴崎さんって、どっちが強いんですか」
蓮は、後ろにいる順正にも聞こえるようなはつらつとした声で聞いた。
「それは─」
「前原だよ」
前原が答えるより先に、順正が答えた。
「いやいやいや、柴崎さん…」
前原はボトルから口を離して、苦笑いする。
「三壁のファイル課題、二回で落としておいて、それはないっすよ」
しかし、順正は首を振った。お互い、謙遜し合っている。
「おれのほうが上背があるだけだ」
テクニカルな部分と、クライミングに必要な筋肉の発達は、前原の方が上だと思う。
前原は消防士である。新城市消防署足込分署という現在の職場は、新城市と頭についているが、足込町の南端にあった。前原は背は高い方ではないが、職業柄体を鍛えているのと、週三、四のペースでハイウォールに通っていることもあり、強靭な肉体を保っている。一方、順正は時期的にジムに通えないこともあり、頻度も前原ほどではなかったから、筋肉疲労が早い。そのビハインドを、リーチの長さでカバーできるという体格上の有利さがあることは、順正にとっては何の意味もなさなかった。努力もなしに得られるものなど。
三人が岩登りに興じていた頃、岩場の遥か南東の山中では、杏奈が木の根の張り出す急な傾斜を、がむしゃらに登っているところだった。
─思ってたのと、違う。
着てきたダウンのせいか、暑い。はめてきた手袋は、早々にしまった。
初めのうちは、木の階段が続いていた。周りには杉の木が多かったが、紅葉した落葉樹もちらほら自生し、その様子に微笑みながら登る余裕があった。階段がなくなった後も、登山道ははっきりとしていて、じぐざぐに登りながら確実に高度を上げていた。空気は冷たいが、澄んでいて心地がいい。まさに森林セラピー。
気を良くして登っていたが、木のベンチが置かれる分岐を超えたとたん、急に道が細くなった。
─反対側の分岐を登った方が良かったのかな。
羽沼の話では、明神山にはいくつものルートがあるらしい。別にどの道を行っても、頂上にたどり着くことはできるのかもしれなかった。
しかし、小さな沢に行き当たったところで、さすがに不安になった。二万五千分の一地形図では、この沢のことはどう表現されているのか。全く分からず、地図は早々にお役御免となった。代わりにスマホを開き、山アプリで現在地を特定する。今いる沢の右岸から左岸に移ると、尾根へ出る道の入り口があるらしい。
─どこから渡るの?
沢は浅いといえど、水量がある。橋も掛けられていない。
右岸を上流のほうへ登っていくと、水面に岩がいくつも突き出たところがあった。どうやら、この岩を伝って、左岸へ渡るらしい。水に濡れ、ところどころ苔が生え、見るからにぬめり、滑りそうな岩。
─何か、支えになるものは…
周りをきょろきょろ見渡したが、手すりの代わりになりそうなものはない。木の枝が張り出すこともなければ、手を掛けられる大きな岩もない。
逆行して道を変えようとも思ったが、仮に足を滑らせたところで、流されてしまうような沢ではない。杏奈は思い切って、ゆっくりと岩を伝って左岸へ渡った。が、あと少しというところで滑ってしまい、右足が靴の半分のところまで沢に浸かってしまった。水が跳ね、綿のズボンに当たる。
─冷た…
靴下まで、若干濡れた感じがする。黒いズボンにも水しぶきの大きなシミが残り、肌にその感覚が伝わった。
山の服装は、乾きやすい化繊がおすすめとネットに書いてあったが、普段肌への刺激を気にして自然素材のものを着ている杏奈は、低山だし大丈夫だろうと、いつものズボンをはいてきてしまった。
─すでに、帰りたい。
でも、こんなに早く諦めては、美津子に呆れられてしまう。
─とにかく、尾根への取りつきを探さなきゃ…
杏奈は左岸を下った。せっかく高度を上げたのに、また下るのはもったいないが。
尾根への取りつきは全く分からなかった。
─あれ…
道が途絶えているのが前方に見えた。踵を返し、元来た道を戻る。
─あ、これかな。
斜め後ろに小道が伸びていたので、下っている時には気付かなかった。木の枝で不鮮明になっていた小道への入り口に足を踏み入れる。
小道をしばらく進むと、だんだんと道が開けてきたが、傾斜も急になった。登るにつれ、足元に木の根が張り出し、歩きにくくなる。早く分かりやすい道に出てほしいと思いながら、杏奈はがむしゃらにその道を登った。思ってた登山と違う、と心の中で不安がっていたのは、この地点だった。
道標のある尾根らしいところに出ると、杏奈はようやくほっとして、呼吸を整えた。
休憩しながら、明神山への登山レポートを掲載した誰かのブログを流し読みする。どうやら、最初の分岐で間違えた。この道は三ツ沢ルートといって、明神山の東側を周り込むルートらしい。先ほどの沢は、大雨の時には増水するので、雨天時は使えないルート、とのことだった。
はあ~と、杏奈はため息をついた。ジグザグに登っているうちに、方向感覚がおかしくなってしまったらしい。山中でもスマホが使えなければ、今頃どうなっていることやら。
アプリによると、もう少し進めば、主要登山道へつながる分岐があるようだ。
─最初だし、マニアックな道には進まないようにしよう。
一番分かりやすい道が、主要登山道であるのだろう。なぜ、わざわざ難しそうな道の方を選んでしまうのか、杏奈は自分の勘の弱さを呪った。
─少し進めば、主要登山道への分岐。
しかし、その少しは、なかなか長い。
山の空気や植物で癒されている余裕はなかった。早く道らしい道へ出て安心したい。
ガサゴソッ
近くの茂みが風に揺れるだけで、杏奈はびくっと身体をのけぞらせる。体を硬直させながら、顔を青ざめさせた。
─熊が出るかもしれない。
熊鈴が必要だった。基本的に熊も人を恐れるため、声を出せば、遭遇を免れるかもしれなかったが、一人登山で声を出すには、どうしたら良いのだろう。
─歌でも歌ったら…!
が、それほど陽気な性格でもない。
木の根や岩のない傾斜は、それはそれで、登りにくい。しかし、杏奈は体力が許す限り急いでそこを登った。早く主要登山道に出て、他の登山客にでも会えれば良いのにと何度も思った。
二人が休憩している間、蓮はでたらめに岩を触り、何やら歌を口ずさみだした。声変わりが終わる前の中学生男子の声は、高くて、明るい。耳障りなので、順正は最初、注意して黙らせようと思ったのだが、途中で意外と聞き苦しくないことに気が付いた。なのでとりあえず、そのままにしておいた。
南天丸は、相変わらず日の当たるところにいてじっとしていたが、蓮の歌声が大きくなるたびに、ぴくぴくと立て耳が動いた。
蓮は、歌うのが好きだった。
「なんだ、あの歌は」
順正は傍に佇む前原に聞こえるか、聞こえないかの低い声で言ったが、
「えっ?柴崎さんこの歌知らないの?」
蓮は、地獄耳。
「知らんな」
「え~、まじかぁ」
今めっちゃ流行ってんじゃん、と言われても、中学生の間で流行っている歌など知らない。
前原は、決して会話がかみ合わなさそうな二人だなと思う。蓮が歌っている歌は、この間順正がジムに来ていた時にも、ラジオで流れていたのだが。
「前原」
「はい」
「あいつは一体なんなんだ」
今更ながら、順正は尋ねた。ジムの連中は、この少年に特別な厚意をかけているように見えたが、なんの義務があってそうしているのだろう。
「まあ、本人がいるから」
前原は囁くような小声で言った。
「おい、蓮」
「なに?」
順正の低音が、いつになく大きく響いた。蓮は張り付いていた岩から身体を離す。
「外せ」
「は?」
「少し散歩して来い」
「なんで」
「その耳障りな歌を歌いながら戻って来い」
めちゃくちゃだ。蓮は唇を尖らして不満そうな顔をしていたが、順正の目力に負けて、不承不承に背を向け山道を歩いていった。
「南天丸、ついていけ」
順正は、蓮の姿が見えなくなると、すぐさま南天丸に後を追わせる。南天丸は、所を得たようにすっくと立って、身軽に岩場を飛び越えて蓮の後を追った。
「母子家庭みたいなんですが」
前にジムで本人が話していたとおり、母親の仕事は不規則で、同居している母方の祖母が長年病気をしている。それもあって、蓮は長いこと、子供らしい気ままなふるまいができないまま、親の顔色を窺いながら育った節がある。
「あれのどこが気ままなふるまいができない」
順正は失笑した。
「家庭でそれができないことの裏返しじゃないですか」
前原は極めて落ち着いた口調で言った。
順正はふんと鼻を鳴らす。母子家庭の子供は他にもいる。特別蓮が不遇な環境にいるとは思わなかった。むしろ、祖母が病気ならば面倒を看て然るべきではないか。
「あいつ、人懐っこいじゃないですか。よくジムに来るもんだから、みんなあいつを気にかけるようになって」
「ふん」
「店番しながら掃除とかするようなところもあるし、結構頑張り屋なんすよ」
はあ、と順正はため息をついた。前原のように善良な、心ある大人がいるために、蓮はあのジムにはびこるのだろう。それはどうでもいいが、休日に自分が子守する羽目になったのが気に食わない。
「忙しいところ、巻き込んですみませんね、柴崎さん」
順正はそれには答えず、
「仕事はどうだ。相変わらず暇か」
代わりに皮肉を言った。
「言ってくれますね」
前原は順正の不躾な物言いに苦笑する。
「それが田舎の消防士の旨味なんですよ」
「そうか」
「ええ。感染症の時は、時々駆り出されてましたけど、今は落ち着いて」
前原は岩場に腰を預けたまま、足を組んだ。
「今は隊員たちの飯を作る係になって、youtube見ながら、すったもんだしてますよ」
「ふうん」
順正はゴザに座って、前原が座る岩場に背中を預けている。二人して岩壁の向かいの木の茂みに顔を向け、お互いの顔を見ながら話し合うということはなかった。
「みんな暇を持て余して、仕事が早く終わってやることとすれば、麻雀かパチンコか女か」
順正は感情があまり表に出ないタイプの人だったが、それを聞いて感心したような様子は見せなかった。
「おまえも付き合うのか」
「いや。付き合わないからジムに来てるんです。時々麻雀はやるけど」
聞いただけでも面倒臭そうな付き合いだが、前原はうまいことかわしているらしい。
「健全ですよ、おれは」
前原は得意げにふふっと笑った。そう得意がることでもないと思うが…
「柴崎さんは、蓮の歳の頃には、もうジムに出入りしていたんでしょ?」
「ああ…もっと前からだな…」
そういえば、蓮はいったいいくつなのだろう。中学生ということは確かだが。言動から察するに、まだ一年生だろうか。
「前のオーナーは、ことある度に、みんなに柴崎さんと会わせたいって言ってましたもん」
藤野の前にハイウォールを経営していたその老爺は、数年前に他界した。
「柴崎さんはずっと、鮎太郎さんの秘蔵ッ子だったみたいですね」
その老爺は、鮎太郎と呼ばれていたが、本当の名前は千太郎といった。鮎太郎と呼ばれていたのは、鮎釣りの名人だったからだ。前原も鮎太郎には小さい頃よく遊んでもらっていた。順正は、その鮎太郎が特別に可愛がっていた若いクライマーの一人だと聞いたことがきっかけで、順正と話すようになったのだ。
小学生時代から熱心な登り手だったとすれば、順正の強さは、単にリーチが長いことだけが理由ではないだろう。
順正はもう一度水を飲むと、水筒の蓋をきつく閉めた。
「帰ってきたな」
「歌は歌ってませんね」
ほどなくして、登山道へと続く小道から最初に顔を出したのは南天丸だった。そのすぐ後に、蓮が続く。蓮は岩壁の下で佇んでいる二人を見ると、たじろいだ様子を見せた。
─戻るの早すぎたかな…
前原の言う通り、彼は彼なりに、二人に気を遣っているのだ。
「よし、登るか」
前原がそう言うと、蓮はほっと息を吐いて、南天丸と一緒に、岩壁から少し離れた位置に陣取った。そこからなら、岩壁全体が見渡せる。
明神山の登山道は、登山道とはっきり分かる道ばかりではない。かつて地元の者が任意の場所に早くたどり着けるよう、小径がいくつもある。そういう小径は、整備がされておらず、人通りが少ないため、木の枝はぼうぼうと張り出しているし、藪は道の中ほどまで迫っている。それは、クライマーたちがいる岩壁エリアの周辺も、杏奈がいる三ツ沢ルートも同じ。
先ほど南天丸と山中を散歩していた蓮にとっては、そんな道を歩むのは、サバイバル気分で、楽しいものだった。しかし、杏奈にとっては違っていた。髪やニット帽に木の枝がひっかかるのは面倒だし、藪をこぐように道を歩むのはチクチクとして不快だ。
人が登るような山は、どう見ても登山道と分かるような道が山頂まで続いており、危険な岩場や沢には、木道がかかっているものと思っていた。けれど、地元の者以外には好んで登る者もいないこの山は、整備が不十分。早くまともな登山道にたどり着かなければ、気持ちが折れそうだ。
杏奈はとっくにダウンを脱いで、今はティーシャツにパーカーの二枚を重ね着している状態。体を動かしている限り寒くはないので、それだけで十分だった。
「あ…」
杏奈は目の前の坂を登り切ったところに道標を見つけて、ようやく胸をなでおろした。
左に進めば、山頂。つまり、主要登山道へ合流できる。
「ふぅ…」
あとどのくらい登れば山頂なのだろうか。アプリを見ればそれを知ることができただろうが、下手に時間を見るとやる気がなくなりそうな気がして、やめた。
山頂へ続く道をただ進む。
山頂まで行って戻って、三時間くらいの行程だと聞いていた。登山開始からそろそろ一時間が経つが、行かなくていい道を行ってしまい、迂回したせいで、山頂に着くまでにはもっと時間がかかるだろう。
途中、一回だけ他の登山客とすれ違った。六十代くらいに見える老夫婦で、すれ違いざま、「こんにちは」と挨拶をして通り過ぎて行った。
─他にも登っている人がいるんだ。
それが分かると、杏奈は急に安心した。あとどのくらいで頂上か尋ねたかったが、尋ねそびれた。
登りながら杏奈は、なぜ自分はこの山を登っているのだろうと、今更ながら可笑しくなった。あかつきの目と鼻の先にある明神山。一度くらい登ってみようと常々思っていたのは確かだ。
─でも、何のために?
森林浴。それは一つの理由だろう。自然に触れることは、アーユルヴェーダも強く勧めている。
運動。これもポジティヴな理由だ。杏奈は日ごろ、ヨガと散歩を除いて運動をしなさすぎる。家事で身体を動かしてはいるし、たまに畑を触るが、大した活動量ではない。町への買い物は、最近は杏奈もするようになったが、それとて車を使う。
ゆくゆくクライアントに対し登山ガイドをするためか。杏奈は登りながら苦笑いする。今の状態では、とてもクライアントの案内などできない。
─覚悟を固めたいなら、明神山に登ることだ。
脳裏に、白い袴を履いた白髪の老人が浮かび上がる。
けれど、杏奈は今疲れていて、自分が何に対して覚悟を固めたかったのか、ぼんやりと思い浮かべることしかできなくなっていた。途中で道を間違え、道の険しさに驚き、獣に会うかもしれないという恐怖を抱き…そんなことをしているうちに、登山の目的は念頭からなくなってしまっていた。強く意識していなければ、目的を見失うことがあるのだ。
「まだかなぁ…」
杏奈はしょぼくれた声を出した。
この坂を登り切ったら、視界が広がるかと思えば、次の坂が続いていることを知らされる。
次の坂を登り切ったら、山頂へ続く尾根が見えるかと思えば、下り坂になる。
いくつもの小ピークにだまされ、もうだまされないぞと、気持ちを強くすると、かえってあっけなく、坂の向こうに空が見える。
今度こそ、山頂だろうか。杏奈は胸に小さな期待を抱いた。
坂の上に近づくにつれ、坂は傾斜を緩め、植生がまばらになっていく。
一休みできそうな、屋根付きのベンチを左手に見ながら、杏奈は最後の坂を、ほとんど駆け上った。ついに山頂に立った時、走って来た杏奈の呼吸は乱れていた。
登り切った先には、さぞ素晴らしい展望があるものと思ったが…
「…」
拍子抜けした。山頂には、そこが山頂であることを示す三角点があったが、木々が生い茂っていて、景観がない。よく晴れていて、山からの展望を阻害するような霧もないのに、下界は見えず、近くの斜面の木々や山肌は見えても、遠くの山の峰々が見渡せるというわけでもない。
「…はぁ」
登り切った、という感慨があまり湧き出てこないまま、とりあえず息を調えた。
動きを止めると、急に冷え込む。リュックにしまったダウンを取り出し、羽織る。
山頂を楽しむのもつかの間、少し下ったところにある休憩所のベンチに座った。誰もいないベンチの上に落ち葉が何枚も転がっている。
景観のない山頂でやることはただ一つ。腹ごしらえである。アルミホイルに包んだ炊き込みご飯のおにぎりを一つ取り出し、食べた。中身は鮭、茶レンズ豆、しめじ、人参、ひじき、里芋、小松菜など。これ一つでいろいろな栄養が摂れるよう、具沢山にしておいた。お米は白米と玄米のミックスである。
山頂で食べるからなのか、運動をした後だからか、すこぶるおいしい。そこそこの大きさで握って来たのだが、もう一つの包みも開けた。
飲むのはいつも通り、白湯。チャイを淹れたいと思ったのだが、明神山にはトイレがないことを知っていたので、カフェイン入りの飲み物はやめておいた。
杏奈は鼻を啜った。冷たい風に吹かれて、食事をするわずか十分足らずの間だけでも、動きを止めていると体が冷える。リュックのポケットからハンカチを取り出そうと探っていると、ポケットに入れたまま存在を忘れてしまっていたものがいくつも出てきた。ポケットティッシュ、使い捨ての生理用品、イヤホン、そして…
「あ…」
小さく折りたたまれたメモ用紙が入っていた。それを開いてみると、それを最後に開いた時の記憶が途端に蘇ってきた。
暑い夏の日、善光寺で、杏奈は今座っているのと同じような木のベンチに座っていた。目の前には、長い髪を下ろした、化粧っ気のない、一人のクライアント。
それは、美津子のガイド付き瞑想を文字起こししたコピー用紙だった。
─外岩って、案外のんびりなんだな。
と、蓮は、少し退屈に感じた。ジムよりも、明らかに登っている時間は少ない。道具を使うリードクライミングは、ボルダリングほど気軽にと登ったり降りたりできないから、それは仕方がないかもしれなかった。
二人はさっきから、新しくできた課題に張り付いている。前原のトライが終わると、今度は順正が登った。この課題のルートを、一回目のトライで把握したためか、次は一度もテンションをかけずに登り切った。
そうしてまた、休みを入れる。
蓮は岩をぺたぺた触るのにも、トポを見るのにも飽きてしまった。
じいっとしていると、手足がどんどん冷えてくる。さっきは人払いされて気を悪くしたが、たまに離席して山を登っていなければ、体の芯から冷え切ってしまいそう。
順正と前原は役割を交代した。言葉少なにお互いの命綱がきちんと結ばれていることを確認すると、前原が登り始めた。
地面に臥せっている南天丸の背中を撫でながら、蓮はぼうっとその様子を見ていた。
自分の存在など忘れられたと思っていたのに、いきなり順正が蓮を呼んだのは、前原があと一手で二つ目の支点に辿り着く、という時だった。
誰かのスマホが鳴っている。
「蓮」
順正はビレイしたまま、一瞬だけ蓮を見、自分のザックを顎でしゃくった。取ってほしいという意味らしい。
─口で言えよ。
蓮は心の中で悪態つきながらも、音のする方へ走り寄り、スマホを探し出すと、順正の方へ駆け寄った。
ロック画面になってから、画面を順正に向ける。なんだか、さっきも同じことを前原に対してした気がする。
「貸せ」
順正は目で前原の動きを捉えつつ、ひったくるようにしてスマホを取った。礼の一言もない。
「前原」
「うん?」
「電話が済むまでそこでステイしろ」
「は?」
まさかビレイしながら話す気だろうか。
「ちょっと待った。テンションくれ」
前原がそう言うのと、ロープがピンと張るのとが同時だった。これで手足を離しても大丈夫になった。
─くそう、柴崎さん。
前原はぶら下がった状態のまま、下にいる順正に一瞥をくれた。先輩のやることとはいえ、さすがにこれはいただけない。
順正は腰を下げて体重をかけているが、ロープを支持しているのは左手のみ。右手ではスマホを耳にかざしていた。
「はい」
ビレイ中でもこの人が電話に出るとすれば、発信元は前原にも想像がつく。会話は時間にすれば一分程度。しかし、前原がぶら下がった状態だったので、蓮にはその時間が長く感じた。
「電話番号送ってください」
順正は相手の話を聞いた後にそれだけ言うと、スマホを蓮に渡した。
「柴崎さん」
上から前原の声がする。
「折り返すなら、降りますよ」
「ああ」
というか、降ろしてからかけ直せばよかったのに。前原は心の中でぼやきつつ、するすると懸垂下降した。
「柴崎先生、ビレイ中に通話ってどういうことですか」
足が地面に着くなり、意見する。
「すぐに切った」
「そういうことじゃなくて」
あまりにもあっけらかんと言う順正を見て、前原は呆れながらも、順正に詫び入れる様子がないことを察した。
「危ないですよ。こいつに悪い例見せないでください」
それでも、蓮の手前そう言わずにはおられなかった。真似されるとこまる。しかし、順正はやっぱり詫び入れもせずにタオルで手を拭くと、再び蓮からスマホをぶん取った。
「柴崎さんは命に関わる仕事をしてるかもしれないですけど、ビレイ中は相手の命を預かってるんですよ」
そう言ったのも、蓮に聞かせるためだったのだろう。口ほどには、怒った様子も、非難する様子もなかった。
順正は手早くスマホを操作しながら、
「お前じゃなければこんなことはしない」
整った顔がこちらに向き、そう言われると、
─そうか。おれは特別枠か。
と、なぜか前原には信頼を勝ち得た者の優越感が湧き出てきた。
順正は電話をかけながらもその場から遠ざかろうとしたが、命綱を付けたままだったことに気が付いた。仕方なく、二人から少し距離を置いたところで、後ろを向く。
「蓮、絶対にマネしちゃいかんぞ」
「マネするもくそも、ビレイさせてくれないんじゃんかよ」
背後で二人の話声がした。
電話をかけてきたのは順正の勤め先である松下クリニックの助産師だった。クリニックは分娩を扱っているので、日曜日でも当直がいるのだ。
通院している女性から電話がかかってきたらしい。診察した時の見解をもう少し詳しく知りたいのだという。彼女は焦っていて、日曜だがクリニックに押し掛けるくらいの勢いとのこと。順正が診察をした女性だったので、今日の緊急連絡先である松下医師ではなく、こちらに連絡が来たのだ。
ということで、SMSに送ってもらった電話番号に、電話をかけ直してみる。相手は、三コールほどで出た。
「松下クリニックの柴崎です」
順正の低く落ち着いた声は、よく通る声ではないが、周りが静かだし、この距離だから、会話が漏れ聞こえてくる。蓮は目を瞬いた。名乗った時の順正の声音は、今までの印象とは違う。冷淡さがなく、柔らかく、温かみのある雰囲気だった。
助産師から用向きは短く聞いていたが、順正はもう一度用件を尋ねた。
「柴崎さんって、お医者さんなの?」
「知らなかったのか?」
クライミングシューズを脱ぎながら、前原は今更のように言った。電話は長くなるかもしれない。
「なんのお医者さん?」
「産婦人科だよ」
「えっと…それって、赤ちゃんを産むのを助ける仕事?」
「まあ、そうだろうな」
蓮の表情はみるみる変わった。最初は、呆気にとられたようだったのが、目を順正のほうに向け疑うような表情になり、次第に眉根に皺を寄せ、腑に落ちないというような表情になった。
「子宮内膜が薄かったので、仰っていた週数よりも早いように見えたんです。妊娠超初期かもしれないし、前回の出血が流産だったのかもしれない」
蓮には、妊婦さんや赤ちゃんを順正と結びつけることに、どうしても違和感があった。イメージが違う。けれど、漏れ聞えてくる会話は、確かに、産婦人科医師としての見解を述べるものであった。
「尿検査の数値的にも、子宮内膜の厚さからしても、すぐに処置が必要ではなさそうでした」
喋り方がゆっくりになっている。温和に、諭すような口調であった。電話口の女は、流産したと思われるのだが、まだ妊娠検査薬で陽性反応が出ており、子宮外妊娠の可能性をひどく心配していた。
蓮は好奇心から、そうっと順正に歩み寄った。
「次回、もう一回検査をします。心配でしたら、早く来ても良いですよ」
順正の近くに移動する蓮を、前原はため息をついて見ていた。
─叱られるぞ。
順正の背後に近寄ると、蓮は頭だけさらに彼のほうへ寄せて、耳を澄ませた。
『分かりました。ちょっと安心しました』
切羽詰まったような、しかし、何かを納得したかのような女の声が、スマホから聞こえてきた。
『ありがとうございました』
「はい」
『あ、先生…』
会話の終わりがけに、言おうか言うまいが、電話相手は、ちょっと逡巡した様子だったが、
『あのう、先生の内診、今までの中で一番痛くなかったです』
蓮には女の言っていることが理解できなかった。
『へ、変なこと言ってすみません』
その発言は、変なことだったのだろうか。蓮には分からない。
「ではまた…お大事にしてください」
順正はそう言って、電話を切った。
耳を寄せていた蓮は、振り向いた順正と目が合って、ごまかし笑いをした。前原が予想していた通りの権幕で、順正は蓮を睨みつけた。
壁の方に戻って行く順正を、蓮は追いかける。
「柴崎さん、ないしんってなに?」
「お前は知らなくていい」
間髪入れずに言った。
「帰らなくて大丈夫ですか?」
順正は前原に向かって頷いた。それを見ると、前原はもう一度クライミングシューズを履き、さらにサンダルを履いて、取りつきまで移動した。
─先生の内診が、一番痛くなかったです。
前原の後ろに控えながら、順正は先ほどの女性の言葉を思い出した。
─当たり前だ。
それは大口で自慢できることではない。ともすれば変人か変態だと思われてしまう。けれど彼女の言葉は、妊婦が精神的にも身体的にも少しでも苦痛や不安なく、子供が誕生する日を迎えられるよう、あらゆることに気を払ってきたことへの賞賛のように思えた。
そう思うと、順正は涼しい表情をしていながら、内側では自信と向上心が燃えるようにみなぎるのである。
「わ、ちょ、ちょっと、まだ登ってませんけど!」
前原が岩壁に手をかけた瞬間、順正は思いっきりテンションを掛けていた。気づくと、ロープを握る手が熱い。手にも気持ちが移ってしまったのだろうか。ロープに引っ張られて、前原の体はほとんど浮かんでいた。
「悪い」
順正は壁側に移動しながら、少しロープを緩めた。
「ちょっとちょっと、冗談やめてください」
蓮は一歩引いたところから二人の様子を見ながら、
─真面目にやってるのか、この人たち…
ふざけているようにしか見えなかった。ジムに来ているクライマーの中では、この二人はまともに見えていたが、やっぱり変人だ。
美津子と初めて会った日、ガイド付き瞑想を収音したICレコーダーを借り受けた。自分の本当の声を聞くためのものだと、美津子は言った。
杏奈は面接の結果を待つ間、その瞑想を聞いた。瞑想の文言を文字起こしし、コピーをして、再び瞑想をしたくなった時、その紙を広げて読んだ。
あかつきで働き始めて間もない頃、何の自信もないまま、それでも何かをそのクライアントに届けたいと思って、ガイド付き瞑想を代読したことを思い出した。
あれきり、一度も開いていない。
目当てのハンカチはリュックのポケットの中には入っていなかった。ダウンのポケットを探ってみると、その中にあった。登り始めの頃使って、そのままダウンのポケットに入れていたのだ。
杏奈はガイド付き瞑想の紙を広げた。
「頭の中心に意識を向けてください…」
冒頭部分だけ声を出し、それ以降は黙読した。しかし、少し読んだだけで、読むのをやめる。
読むという作業をすると、意識が正確に文字を追うことに注がれてしまい、この瞑想でイメージするべきことが、イメージできない。
周りを見渡した。あたり一面見渡す限り、紅葉交じりの山景色。山頂に近づいてくる人の気配はない。
─いいことを思いついた。
休憩所の柵の上に、スマホを横向きにして置く。スマホケースがスタンド代わりになった。画面いっぱいに山の木々が映るよう場所を調整して、動画モードにする。
スマホのすぐ近くに腰掛けてメモ用紙を開くと、軽く咳払いし、録画ボタンをタップする。ピコン、と音が鳴った。
「頭の中心に意識を向けて下さい」
それは、咄嗟の思い付きだった。自分の声を録音するのである。明神山の自然の音と、映像とともに。
すらすらと読み上げても、ガイド付き瞑想はゆうに五分は続く。最後の一文まで読み上げると、録画停止ボタンをタップし、リュックのポケットからイヤホンを取り出して、スマホと自分の耳をつなぐ。ちょうどいい時にイヤホンがあったものである。
自分の声を聞くのは奇妙な感じがしたが、久しぶりにガイド付き瞑想を試してみたくなった。
目を閉じ、耳を澄ます。
ガイド通りに、イメージをした。チャクラと呼ばれる、エネルギーが交わる主要な七点に意識を向けていくのがこのガイド付き瞑想だった。自分の中で手放したいものを燃やし尽くし、取り入れたいものを吸収していく意識をする。
瞑想の終わり際、杏奈の意識はその場所を離れ、まだ近い過去に、一年ほどその身を置いた部屋へと飛んだ。
その部屋でアーユルヴェーダの料理教室をしていた。教えていたのは、アーユルヴェーダの教えに最も忠実な料理。それは今、日常的に美津子と共にしている食事の内容と、さほど変わらない。料理教室という、料理の手法を学ぶための場所で作る料理としては、シンプルすぎるもの。
ある生徒は、これをとても気に入った。ちょうど杏奈が、アーユルヴェーダ料理を始めて作った時に感動を覚えたように。
しかし、他の生徒は、別の期待を持っていたようだった。その期待というのも、バラバラであった。ある人は、伝統的な和の食材を使ってほしいと言う。ある人は、本格的なスパイスカレーを教えてほしいと言う。ある人は、家庭料理の延長として使えるレシピを教えてほしい。またある人は、子供も食べやすい料理が良い…
アーユルヴェーダ料理は一人ひとりの個性や、その人のライフステージ、社会で果たすべき使命に基づいて作られるもの。万人受けするものなどありはしない。
基のレシピを自分に合うものに変化させるのは、その人の仕事。それがアーユルヴェーダの食の癒しの旅なのだ。
その旅の終着点は、しかし、理想的な食事を作れるようになることではない。理想的な食事を作れるようになった時、その人にはどんないいことがあるのだろう。
杏奈の意識は、急速に今この瞬間に追いついた。目を開くと、向こう側のベンチの背後に、明神山山頂付近の植生が広がっていた。
ほんの一瞬、杏奈は周りを見渡し、持ち物を素早くまとめ、リュックに押し込んだ。そして、再び山頂への道を登り出した。
─今、何か…大切なことに気づきかけている。
けれど、じっと座ったままでは、気付きかけていることが消えてしまいそうだった。体を動かし、意図的に考えることから逃れようとした。
今思い浮かんだことはなんなのだろう。
杏奈はこれまで、自分の仕事について、人がどう思うのかが気になっていた。かつての生徒の言葉。法事での父の反応。熟練の同業者の忠告。現役の医師の皮肉。
目先の困難や悩みにばかり目がいっていて、自分が思い描いていた、たどり着きたい理想の未来のイメージが薄れてしまっていた。
けれど、そこにたどり着きたいのなら、歩まなければならない。一つひとつ、小さな山を越えて。
坂を上ると、再び息が上がってきた。心は急いて、この坂を早く登れというのに、物理的な身体は、なかなか思う通りには動かない。
杏奈は息を切らし、自分の膝に手をついた。
「蓮」
思いがけず、蓮が外岩に登るチャンスが再び訪れたのは、日が高くなってから。二人がシューズをしまった後だった。
「ここの目玉課題を見てみるか」
前原に訊かれると、蓮はすぐに首を縦に振った。その割に、二人の取った行動は、変だ。道具を次々としまっている。
「ああ、えーっと、道具は必要ないんじゃないかな」
前原は頬を掻きながら答えた。
「なんで?」
「行けば分かる」
順正は早々と自分の荷物をしまうと、ゴザの上に置かれたロープの端の部分を肩にかけた。肩というより、首の後ろに引っ掛ける感じ。そして、両手の親指と人差し指の間にロープを挟むと、ロープをスライドさせて、首の後ろにかけた。左右交互に、何回も何回も。こうすると、長いロープが絡まることなく、みるみるうちに束ねられていった。
「それ、おれもやりたい」
「見て覚えろ」
教えるのが面倒くさいのだろう。蓮はむすっと唇を結ぶと、しゃがみ込んで、ロープがするすると地面を張って順正の肩に巻き取られていく様子を見守った。
ロープを束ねつつ、順正は一瞬だけ、蓮の顔を見た。吹き荒れる落ち葉の向こうに、無邪気そうな、まだ幼い顔があった。学校に居場所を見いだせないこの少年は、今ハイウォールを、自分の寄る辺と思っている。
─バカなことを。
それでは、問題に向き合うことをせず、逃げているも同じだろう。母子家庭を理由に悲壮感を演出しているのなら、本当にこいつは子供なのだ。もう中学生ならば、誰かに面倒を見てもらうだけでなく、逆に他者の役に立つことだってできるというのに。
─甘えている。
ジムではそう思った。今もそう思っている。
しかし、前原が鮎太郎のことなど話すものだから、急に昔のことを思い出した。自分もかつて、心ある大人たちに助けられてきたことを思えば、蓮のことをそう馬鹿にもできない。現に今も、その寄る辺に意識を向けているのだから。
─あかつき。
この山を足込町側へ降りれば、そこは目と鼻の先。しかし、順正は蓮の反面教師か、今日はそこへは降りないと決め込んでいた。
荷物をしまうと、三人と一匹は、登山道近くの岩壁まで移動した。
「このでっかい岩が、取りつき?」
前原と一緒にトポを覗き込み、トポが示しているであろう岩を凝視した。初手は、のっぺりとした岩を抱え込むようにして、その上に立つ。その先の壁の様子は、他の岩壁とは異なっていた。つららのように垂れさがって見える岩と、くぼんだ、岩壁の中にある小部屋のような空間。そこを右に抜けると、ほぼ垂直な壁が続く。
「エイム」
前原は蓮に、この課題の名を教えた。
「クライミングビギナーにとって、憧れの課題だよ」
蓮はもう一度、ルートを見た。ビギナーが登るには難しそうに思えるが。
「面白い動きをさせてくれるけど、持ち手は意外と悪くない。足も自由」
「あの、キックバックみたいな岩も持ち手?」
「お、いいところに気が付いたな」
前原は手をかざして、このルートの中間部分にある、小部屋とつらら岩に視線を向ける。
「最初はあれを持って、小部屋に足をのせる。そこから、背中でつららを押して、這い上がる。最後は、つららを蹴って、右に移動する」
「前原」
順正から牽制するような声で呼ばれて、前原は言葉を切った。
「蓮に考えさせろ」
蓮はトポと実際の岩壁を交互に見てから、二人に視線を移した。
「二人とも、もう登ったことがあるの?」
「ああ。ジムのグレードにすれば、四級から三級くらいの課題だからな」
ということは、まさに、蓮にとってはちょうど良い課題だ。
「やってみてもいい?」
前原は頷き、順正は返事をしなかった。蓮はそれを黙認と取った。
順正と前原は、最初ののっぺりとした岩の傍に、かついできたマットを敷いた。それを見て、蓮は唖然とした。道具をしまわれた意味も、それで分かった。取りつきで落ちると思われているらしい。
─馬鹿にされてる!
蓮は闘志を燃やして、エイムの取りつきに挑みがかった。
蓮が岩と睨めっこをしている間、順正と前原は呑気にそれを眺めながら、腹ごしらえを始めた。
「うわっ、何食べてんの」
前原が包みを開けたお魚ソーセージを、蓮は羨ましそうに眺めた。
「昼飯いるなんて聞いてなかったぞ」
「いいから登れ」
前原は手をぶらぶらさせて、蓮を追い払った。
蓮はため息つきながら、ふと順正を見やった。ちょっと離れたところで、りんごにかじりついている。赤ちゃん、妊婦さん、りんご。今日は順正の外見と態度からは想像できない組み合わせをよく見聞きする。
「なんだ」
順正に睨まれて、蓮はなんでもない、と言うように首を横に振った。お魚ソーセージはまだしも、りんごにはそそられない。
それにしても、ビギナーの憧れの課題であるというエイムは、その取りつきから、なんと難関なことか。
─本当にこれ、四級なのかよ。
三級寄りなのではないか。
岩の下部の細い亀裂に足を置き、足で岩を押す力で、岩を抱え込みながら登るのが、最初のムーヴらしい。しかし、こんな小さな頼りない足の置き場では、こののっぺりとした岩を抱き込みながら、とてもその上へ上がれそうもない。
しばらくして、蓮はとうとう前原にヒントをねだった。
「左手に力を入れて、マントル返しして、右足の置き場に乗り込めばいい」
言われた通りにやってみた。なるほど、左側の手の置き場に、一旦両手を置いて、えいと力を入れて身体を持ち上げれば、なんとか超えられそうだ。しかし、右の足の置き場は小さく、安定しなかった。足を信じて乗り込まなければならない。
取りつき部分を何度もトライしているうちに、蓮は力がなくなってきてしまった。あれだけ寒かったというのに、もう寒さも感じない。
「頑張れよ、蓮」
前原は、これ見よがしに次のお魚ソーセージの包みを開けながら、励ました。
「この岩を登り切ると、願いが叶うって言われてる」
「なにそれ、ジンクス?」
「そんなようなものかな。柴崎さんも知ってますよね?」
順正はゆっくりとりんごを食べながら、答える代わりに、高くそびえる岩壁に目を向けた。
強くなりたいと願う幾人ものクライマーが、激闘した跡の残る岩壁。それから、蓮を見た。蓮は半袖になって、両手をいっぱいに伸ばし、岩壁を抱きかかえるように登ろうとしている。しかし、そのやみくもな登り方では、そこを超えることはできないだろう。手と足だけが重要なのではない。蓮は、体幹部分の使い方がまるでなっていなかった。
「くっそー」
マットの上に仰向けに落ちた蓮は、くるっとうつぶせになって、前原を見上げた。
「どうしたら、登れるようになるの?」
「登り続ければ、いつか」
「だけど、ここにはそんなに来られないよ」
「ジムで傾斜の強い壁と、マントルを練習するしかないな」
体がこの課題ならではのムーヴに慣れ、筋肉がついてこれば、直に登れるようになるだろう。
蓮はティーシャツについた砂やチョークを落としながら、上体を起こして、立膝になった。
「蓮」
蓮はぽかんと口を開けて、順正を振り返った。蓮の目をまっすぐに見つめている。順正も、この課題を登るためのアドバイスをしてくれるのか。
「思いが大事だ」
が、次に彼の口から出たのは、意外にも根性論。蓮は、咄嗟にどう返事をしていいのか分からなかった。
順正の目は、確かに蓮を捉えているようであったが、蓮を通して、遠くを見ているようでもあった。
杏奈はまだ山頂付近を登ったり下りたりしていた。
最近、胸につかえていたものが、剥がれ落ちてきたような感じだった。考えても考えても浮かんでこない何かが、急に降りてきたかのようだ。
でも、やはり考えようとすればそれだけ、何も浮かんでこない。
杏奈は体を動かすことで無心になろうとした。
風が吹き、枝葉がすれる音がし、落ち葉が吹き荒れる。
ニット帽がだんだんと下がってきて、目元を覆いそうになる。それを取った時だった。
「あ…」
後ろから吹く風に押され、杏奈はうっかりニット帽を落とした。それを拾おうとした時だ。ふと、ある考えが浮かんだ。
杏奈が開催していた料理教室の内容を、そのまま、今の美津子が教えていたら、どうだったのだろう。きっと、生徒の反応や、影響度は違ったのではないか。
杏奈は、昔から透明人間だった。そこにいても、無視されることがあった。どんなに授業で良い発表をしようと、良い作品を作ろうと、学友たちは関心を示さなかった。日ごろ、杏奈の心は内向きに閉ざされ、学友と笑ったりはしゃいだりといったことが苦手。普段から関わり合いがなく、杏奈がいてもいなくても、学友たちは影響をあまり受けなかった。
つまり、いかに考えや作品が優れていても、それを伝える人自身に親近感や魅力がなければ、相手は感銘を受けない。
何を教え、どう伝えるかも大切だ。だが、それを教え、伝えているのが誰なのかということもまた大切。
知識や技術があるだけではどうにもできないのだ。ヒーラーの心のありようを、クライアントは巧みに察する。
髪紐をほどき、髪を緩めた。こうした方が、頭に血が回りそうだったから。
風に押されるがまま、杏奈はもう一度、山頂を目指した。
脳裏に美津子の言葉が蘇ってくる。マットの外でヨガをしている人たちを探せと言っていた。
─その人たちを見て、私も、ヨギの心を養えということなのか…
次に脳裏に浮かんだのは、沙羅の真摯な、しかし朗らかな笑顔だった。
─もし私がクライアントなら、ヒーラーにはヨギの心を持っていてほしい。
沙羅はそう言っていた。
自分が心を磨けば、今までよりも、誰かに良い影響を及ぼすことができるのだろうか。
杏奈は前を見て、ひたすらに足を進める。木の根がはびこり、岩がごろつく道にも、もう慣れてきた。
再び、頂上に立った。しかし、現在の物理的な位置とは対照的に、人生で登るべき山において、自分はまだ、山の麓にいるように思われた。
山の麓で、自分がなぜこの人生を生きているか直視せず、道を迷わす分岐や、かき分けなければならない藪に遭って、この道は大変だからとか、誰かが登っても意味がないと言ったからとか、理由をつけて登らないこともできる。
けれど、人生の本当の目的を果たすには、山を登らなければならない。目指すべき山を捉えたのだから。
杏奈は後ろを見た。自分の踏み跡が残る道。だが、自分が登るべき山には、まだ踏み跡を残していない。
─私の仕事が癒しになるか詐欺になるかどうかは…
これからの行動次第だ。
心を磨いき、ヨギの心を持って、アーユルヴェーダの知恵を借りる。
─闇から光へと導きたい。
杏奈は明神山の頂上から、空を見上げた。
─そして、その後には、本当に登りたい山を登る。
目を閉じた。瞼に冷たく乾いた風が当たる。
明神山山頂の風を感じながら、杏奈は自分の心の奥底にある願いに、狙いを定めた。
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