第4話「透明人間」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 杏奈は借りていた東京の住まいを解約すると、引っ越しの手配が付き次第、一旦実家に戻った。
 杏奈の荷物は少ない。
 東京では料理教室をしていたが、ダイニングテーブルや椅子は自前ではなかった。大家さんの家族が置いて行ったという机を借りていたのだ。大きい荷物といえば、洗濯機、折り畳み式ベッド、マットレスに掛け布団、テレビ台とテレビ、カラーボックスが二つ。冷蔵庫は引っ越しの日に産廃に出した。よくこれで料理教室をやっていたと思うほど小さい、単身用の冷蔵庫。杏奈が就職した時に購入したものだった。
 杏奈は、二階のもともと自分が使っていた部屋に立ち、足の踏み場を探しながら、小学校入学以来使っている勉強机にたどり着く。
─うわぁ…
 振り返ると、東京から運んだ荷物─洗濯機はさすがに納屋に置いてもらった─で部屋はいっぱいになっていた。
 今まで何度も引っ越しをし、そのたびに要らないものを断捨離してきたので、服や雑貨を入れた段ボールは少なかったが、調理器具や食器の入った段ボールはややかさんだ。
─あかつきに持っていく荷物、選別しなおさなきゃな…
 東京で荷造りする際、あかつきに持って行く荷物とそうでないものに、多少は分けた。しかし、最終的には、実家に置いておくもの、持って行くもの、混ぜこぜになってしまった箱もある。
「杏奈」
 部屋の入口に立って、母・陶子は娘の名を呼んだ。
「すごい部屋だね」
 つい先日運び込まれた荷物に視線を送る。それまでこの部屋には、マットレスだけのベッドと、勉強机しかなかったのに。
「折り畳みベッドくらい、下に持っていこうか?」
 二つにたたまれたベッドフレームと、マットレス…この二つが一番面積を食っていた。
 しかし、杏奈は首を横に振る。
「この二つは持って行かないから、この部屋に置かせて」
「いいけど…ここはあんたの部屋だし。でも、もう使わないんなら処分してもいいんじゃない?」
 杏奈は低く唸るだけの、曖昧な返事をした。
 もう使わないと分かり切っていればよいのだが、またすぐ、別のところに就職して、一人暮らしを始める…という可能性も、なくはない。その時に備えて、単身用の道具・家具を取っておいた方が良いかもしれない…後ろ向きな考えだが、おそらく、そう思っているのは杏奈だけではない。陶子も、口ではそう言ったものの、内心同じことを思っているはずだ。
 杏奈は、簡単なものから荷ほどきを始めることにした。まずは、服。スーツや、結婚式で一回だけ着たパーティードレスなどは、あかつきでは用がないだろう。
 床に膝をつき、使わない服をまとめて入れた段ボールを開ける。
「それにしても、住み込みで、業務委託契約って…」
 陶子は、もの言いたげな面持ちで、まだ部屋の外に立っていた。
「大丈夫なの?」
 杏奈は視線を上げ、一瞬母親を見たが、すぐに目線を手元に戻した。
「分からない」
「分からないって、あんた…」
 壁に背をもたげながら、陶子は眉間に皺を寄せる。声に覇気があり、若々しくみられることが多い陶子だが、しばらく実家を離れているうちに、確実に皺が濃くなっている。しかし、顎の長さまで伸ばした髪は、太くつややかであった。
「普通に、サラリーマンに戻った方が良いんじゃないの?」
 ふう、と杏奈は心の中でため息をつく。またそれを言うのか。
「サラリーマンって、つまんないようだけど、一番安定してるんだよ」
 だが、顔を上げずに黙々と作業をする杏奈は、だいたいはおっとりしているのだが、ここぞというところでは意志が非常に強く、言っても聞かない娘である。そんなこと、とうに知っている陶子だが、それでも言わずにおけないのが母である。
 陶子は聞こえよがしに、はあ、とため息をついた。
「大学と、就職するところまでは順調に進んだと思ったのに」
 小言を言いつつも、間合いを取っているのは、この娘がいつ噛みついてくるか分からないから─そして噛みついてくると、怖いほど手に負えないのである。
「なんでわざわざ険しい道を行こうとするかなあ」
 しかし、陶子の小言は止まらない。
「接客業なんて…あんたはコミュニケーションが苦手なんだから、向いてないよ」
「いいの」
 陶子のほうはほとんど見ることなく、杏奈はクローゼットに服をしまう。服をしまった後はどうしよう。適当な返事しかしていないが、陶子がそこにいると、思考が停止してしまう。
 杏奈の心を汲み取ったのか、陶子はやれやれという顔で、踵を返し、下に降りていく。本当に娘を説得しようなどとは思っていない。だから、本当に厳しい態度で、説得することはしないが、せめて小言くらいは言いたい。
 何かあったら、最終的に受け止めるのは親なのだから…

 切羽詰まった様子で杏奈が電話をかけてきたのは、ほんの一か月ほど前のことだ。
 杏奈は、普段連絡をよこさない娘だった。だからいきなり電話がかかってくると、嫌な予感がする。
─鯖に当たった。
 その時の要件は、鮮度の落ちた鯖を食べて、顔がパンパンに膨れ上がってしまったのだが、どうすればいいだろうか。という、間抜けにも聞こえる相談だった。しかし、本人の声は切実だった。
 陶子とて、どうすればいいかなど分からず、とにかく病院に行くようにだけ言った。状態は良くないようで、その後すぐに、杏奈から休養しに帰りたいという連絡があった。
 東京から帰省した杏奈を見た時、陶子はぎょっとした。腫れはおさまったと聞いていたが、顔も手足も、ひどくむくんでいた。本人の話だと、それ以前から体調が悪くなっていたのだが、鯖がスイッチとなって、一気に問題が悪化したらしい。小さいころからアレルギー体質だったのは確か。でも、成長とともに良くなっていたのに。相当ストレスを貯めているのだろうと思うと、いろいろと聞き出したり、意見したくなったりするものの、その時は腫物にさわるような接し方しかできなかった(実際、杏奈は顔を中心に腫れていた)。
 陶子は、社交的で気が強く、厳しい母であった。けれど、その時ばかりは、言いたいことの三分の一も、言うことはできなかった。
 陶子はフルタイムで働いているので、特に平日は忙しい。それでも、家にずっといる娘に炊事をさせず、風呂場で娘の髪の毛を洗った。こちらの皮膚科に通い、症状が治まった後、杏奈はまだ東京で頑張ると言って帰っていったのだが、ほどなく、レストランをやめたという連絡があった。辞めたというより、半ば解雇されたらしい。
 その時、陶子も、その夫であり杏奈の父である正博も、「帰ってきても良い」とは言ったが、実際にどうするかは杏奈に任せていた。
 思えば、会社を辞めると言った時、わけの分からない、名前さえ正確に発音できない、外国の健康法に基づく料理教室を始めると聞いた時…杏奈には何か強い意志ができていたのだ。その意志が曲がらない限り、何を言っても無駄だろう、と思っていた。
 しかし、その志は一年あまりで折れた。現実を知って、堅気の道に戻ってくれるかと思いきや、その期待は外れた。
 まさかこんなに早くに、そのなんとかという健康法に関連するところに、再就職を決めるとは思っていなかった。
 本音としては、先ほど杏奈に言ったとおり、東京に残ってもいいから、サラリーマンに戻ってほしかったのに。

─コミュニケーションが苦手、か。
 自室で段ボールの山と格闘しながら、杏奈は陶子の言葉を心の中で反芻する。  
 今更だった。
 東京にいる間に増えた物を、この部屋に収納するのと同時に、この部屋にあった古いものを整理する。古いものは、その当時のことを思い起こさせる。しかし、そのほとんどが、青春の晴れやかな思い出ではなく、苦々しい歴史を思い出させるものばかり。
 たとえば、中学校の卒業文集。
 杏奈は、特に小学校中学年から中学にかけて、周りが見えない子と思われるような行動をしがちだった。だいたいいつも、心ここにあらず。周りに言わせれば、ぼーっとした子。何かに集中したり、空想したりしていると、話しかけられても身の入った答え方ができない。人によってはそれを、よく無視する、人の話を聞かない、と捉えた。
 むろん、杏奈に悪気はなかった。人と話すよりも、自分で自分の作品がうまく仕上がるよう作戦を練ったり、読んだ本の感動の余韻に浸っているほうが好きだったのである。そして実際、そうしていることが多かった。
─私は、人に興味がない。
 平たくいえばそうだった。だからといって、杏奈は、まったく人の目が気にならない、というわけではない。
 ある頃から、時々、自分はそこにいるのに、いないものとして扱われることが多くなっていることに気付いた。たとえば、杏奈の発言は盛大に無視されるか、まったく取り合ってもらえないことがあった。「ふうん」で流されたり、「あんたには聞いてない」と言われたり。陰口をよそおい、聞こえるのを承知で、悪口を言われたこともあった。
─ばかにされて、いないものとして扱われて。
 まるで、透明人間みたいに。
 人に興味がなく、薄い反応しかしない自分への、しっぺ返しといえばそうだった。
 けれど、悪意があったわけでも、誰かに迷惑をかけていた自覚もない杏奈は、中学の頃には、小さないじめに遭っていると感じ、傷ついた。
 心の中ではとても動揺していたが、どう反応していいのか、分からなかった。嫌だ、そんなことしないでほしい、悲しい。そういう感情は多分にあったのに、感情を外に出すことが、ひどく恥ずかしかった。
 そんな杏奈から、薄い反応しか返ってこないことをますます面白くなく思った者たちは、次第に嫌がらせをエスカレートさせた。
 その一つが、この中学校の卒業文集なのである。杏奈が編集を任されていた卒業文集のクラスのページが、完成間近で紛失されたのだ。けれど、その時杏奈は、何もできなかった。心の中では怒っていたし、クスクス笑う人たちがいることに気付いていたが、それをどう解決すればよいのか分からない。担任をはじめとした大人たちに相談することなど、告げ口するようで、悪い学友たちの悪意を煽りそうで、思いもよらない。結局、自分の中で押し殺した。
 高校になると、杏奈も少しは理性が働くようになった。たとえば、今は話したくない気分でも、付き合いのために、話すということができるようになった。高校時代、専念すべきは勉強。机に向かう時間が長かった高校時代は、杏奈にとって暗黒の時代にはならなかった。受験も大変ではあったが、自分との闘いであり、対人で何かをしなければならない状況より、乗り越えるのはた易かった。
 自分の別の苦手分野を意識したのは、大学生になって、とある飲食店でバイトをしたとき。バイト仲間はきゃぴきゃぴした、元気で、明るい子が多くて、なじめなかった。性格が合わないと思うと、杏奈は無意識に壁をつくる。性格が合わないからといって、その人が自分を嫌っているとは限らないのに、杏奈はその人が怖くなる。だから関わりたくない。
 その上、業務上求められるスキルも、杏奈が不得手なものが多かった。杏奈は物事を深く考えたり、コンテンツを練ったり、何かをまとめ視覚化あるいは文章化するのが得意。しかし、同時に多くのことに気を回したり、反射的に適切な判断をしたり、すぐに行動を起こしたりするのは苦手。だから、予測不可能なことが起こり、臨機応変な対応をスピーディーに行う必要がある場面で、杏奈はよく混乱していた。
─分からないのなら、訊いて!
 周りからよくそう注意された。感情を表現できない。困っていることすら、伝えられない。杏奈はただただ沈黙し、フリーズしてしまうことが多かった。仕事中にバイト仲間と軽口叩いて笑い合う、などということもほとんどなく、数年と経たず辞めてしまった。
 相手によっては感情を表現できない。それは何も、杏奈にだけ特有の傾向ではないだろう。誰だって、気の合う人には自分をさらけ出せるが、そうでない人との間には壁をつくる。でも時々、自分はその程度が大きいのではないかと思う。
─私はちょっと、おかしいのかもしれないな。
 もしかしたら、自分には一種の発達障害があるのではないかと考えたのは、もっと、ずっと後のことである。会社の同期からそう言われただけで、診断などを受けたわけではないのだが、そう指摘されて杏奈は初めてその可能性に気が付いた。でもだからといって、それがなんの救いになろう?発達障害と認められれば、自分に対する劣情が軽減するというのだろうか。
 そしてこの杏奈の精神的特徴は、今でもおそらく、本質的には変わっていない。
 コミュニケーションが苦手、と言った陶子の指摘は、正しい。それならそれで、得意分野を活かせる仕事をすればいい。それなのに、料理教室にせよレストランにせよ、今度のあかつきの仕事にせよ、杏奈は人を相手にする仕事を選んでしまっている。
─大丈夫なの?
 陶子と全く同じ疑問が自然に生じる。
 杏奈は未開封の段ボールに両手をかけて、はあ~とため息をついた。
 せっかく受け入れてくれた美津子には、せめて、迷惑をかけたくないのだが…。

 午後五時を過ぎた頃、古谷家はにわかに賑やかになった。
「ただいまー」
 杏奈の兄・裕太が、娘を抱きながら居間に入ってくると、娘はぴょん、とその手を離れ、たたたっ、とまず彼女にとっての祖父・正博のほうへ走り寄る。
「芽衣ちゃん、元気になったか」
 正博が猫なで声でそう言い孫を抱きあげるのを、陶子は台所で手を動かしながら見ていた。芽衣が発熱したため、ここしばらくは会っていなかったが、すっかり元に戻っている様子だ。
「こんばんは」
 裕太の後に、裕太の妻・こはるが居間に入り、義両親に軽く会釈をした。そのお腹は、誰が見ても妊娠していると分かるくらい大きい。
「調子はどう?」
 陶子が台所から挨拶を返し、嫁を気遣って声をかける。
「大分胎動が激しくなって。でも、元気です。私も赤ちゃんも」
 こはるは膨らんだお腹に右手を置き、優しくさする。次は男の子ということだ。
 裕太は実家の近くに最近家を建て、それからというものの、頻繁に夕ご飯を食べに家族でこの家へ来る。まったく寄り付かないより、孫を連れてきてくれるほうが、陶子にとっても正博にとっても、ありがたいといえばありがたい。しかし、実家に帰ると「芽衣はじいちゃんが好きだから」と調子のいいことを言って、子の面倒を押し付けられる形になってしまうから、困りものだ。それでも、陶子も正博も、まだ平日は仕事に出ているので、日中の育児を手伝ってやれない分、たまの夕食ぐらいは…と受け入れている。二人目が生まれたら、もっと協力しなければならない場面が増えそうだ。なにしろ、今息子夫婦が住んでいる家は、嫁の実家より、夫の実家の方が近いのだから。
 二歳を過ぎた芽衣は、だんだん言葉が出てきて、子供番組の歌を流すと、時々単語を発しながら、体を動かしている。
 活発でよく走り回り、眠くなるまで、起きている時はほとんどずっと動いていた。
「お兄ちゃん、お帰り」
 二階から降りてきた杏奈が、ダイニングでくつろいでいた裕太に声をかけた。
「杏奈、帰ってたんだってな」
 裕太は一瞬だけ杏奈を見て、また視線をスマホに戻した。
「こっちで就職すんの?」
「うん」
 詳しい話になる前に、芽衣が「あ、あ~」と両手を広げて走り寄ってきたので、杏奈はしゃがんで、柔らかな幼子の体を受け止めた。
「芽衣ちゃん、元気だった?」
 芽衣は手で杏奈の顔をぱちぱち、とたたく。
「芽衣」
 ソファに座っているこはるが注意をした。
「お義姉さん、お久しぶりです」
「久しぶり」
 こはるは愛想よく笑った。杏奈と裕太は二歳ちがい。こはるは、ちょうど二人の間の学年であった。
 裕太は、背は平均より低めだし、体格も普通、母親ゆずりのくっきりとした二重瞼と通った鼻筋はもっていたが、イケメンというほどでもない。それでも、高校生くらいの時からよくモテた。どうもマメなのだ。こまめに連絡を取るし、相手が体調を崩せば、かけつけるなり電話するなりして、必ず寄添った。そういうところが、女性にウケるのか。
 こはるにしても、容姿も性格も申し分なく、最初は親の目からしても裕太と釣り合うのかと思ったが、裕太のそういうところに惹かれて付き合ったのかもしれない。
 杏奈は、こはるの膨らんだお腹に、彼女の斜め後ろから静かに目線を注いだ。
「あ、ぼぅる、ぼぅる」
 芽衣はボールをあちこちに投げて、代わる代わる大人に抱きつきに行き、愛想を振りまいている。
 杏奈は小さい子供がとりわけ好きということもなかったが、姪のことは、かわいいと思う。生まれた時は東京にいて、乳飲み子の時や、ハイハイする時分にはほとんど会えなかったが、たまに実家に帰ると会えることもあった。
「もう名前決めたんですか」
 床に座って時々芽衣の相手をしながら、杏奈はこはるに聞いた。彼女はソファでなんの気なくテレビを見ている。
「まだなの。どうしようか迷ってる」
 こはるは目を細めて眉を寄せ、表情豊かに話す。いつもきちんとした身なりで、メイクもちゃんとしているこはる。愛想が良く、夫の実家に来ると、相手に気を遣わせない程度に礼儀正しく立ち振舞うことのできる容量の良い人だ。
 自分とはタイプが違うが、義姉が親しみやすく、性格の良い人でよかったと、杏奈は思う。そして、二人暮らしになった両親の近くに住み、時々通ってくれていることが、何よりありがたい。
「ご飯できたよ」
 六時を過ぎた頃、陶子がハキハキと家族に声をかける。すぐに動いたのは杏奈。杏奈は、実家ではキッチンに立たない。一つのキッチンに、母と娘がいると、ちょっと具合が悪いのだ。なので手伝うのは配膳から。
 四人掛けのテーブルの長辺に、子供用の椅子に座る芽衣を挟む形で、裕太とこはるが座る。その向かいの長椅子に、正博と陶子が並んで座る。杏奈の席は決まっていないが、今日はお誕生日席に座った。
 食事が済むと、杏奈は少し仕事をすると言って離席した。新しい勤務先での仕事は始まっていないのに、何の仕事をすることがあるのか、誰にも分っていなかったが、誰も問いはしない。
 幼児にご飯を食べさせるのは時間がかかる。それでも、こはるが言うには、芽衣は座ってごはんを食べているから、まだいいほうらしい。
 陶子は、そういえば裕太と杏奈はどうだったかと一瞬昔のことに思いを馳せた。しかし、当時のことをあまり思い出せない。やはり、男の子だからか、第一子だから印象深いのか、裕太の方が手がかかっていたような気はするけれど。
「杏奈、どこに就職すんの?」
 こはるがいるところで妹の就活話もどうかと思ったが、かといって話をする時も他にないので、裕太はさりげなく聞いた。陶子はちらと正博を見やるが、正博は体を斜めに向けて、テレビに目を向けている。娘から話を聞きだせているのは、どちらかというと、陶子のほうだ。陶子は正博がもう少し関わってくれたらと思いつつ、
「業務委託契約なんですって」
 先ほどの裕太の問いの答えになっていない。
「何を委託されるの?というか、就職先どこ?」
 と、裕太はもう一度聞いた。
「知らない。就職先は、足込町のアーユルヴェーダの宿泊施設ですって(※足込町は架空の町。奥三河周辺地域がモデル)」
 多少、杏奈から聞かされている名称と違うような気がしたが、思い出せない。間違ってはいないだろう。
「足込町…」
 裕太は遠い目をした。
「どこ?」
 そう言ったのはこはるであった。答えを求めるように裕太を見るが、裕太はあさってのほうを向いている。
「東のほうじゃない?」
 なんとも頼りない答えである。
「奥三河のほうだよね」
 正博が静かに言った。テレビの映像が眼鏡に映っている。
「奥三河?めっちゃ田舎じゃん。宿泊施設って、温泉ってこと?中居さんにでもなるの?」
 裕太は笑っているが、陶子の顔は渋い。
「知らん。でも住み込みなんだって」
「業務委託で住み込み?聞いたことないけどどういうこと?」
 陶子はすっと背筋を伸ばして首を振った。これ以上、こはるの前で娘の不確定な話をするのは気が引けた。
「なんか知らないけど、あの子にはあの子の考えがあるんだと思うよ。ここからじゃ通うのに時間がかかるし、部屋を借りるより家賃も浮くし、早く仕事が身に着くからて、本人としては納得してるみたい」
「ふーん」
 裕太はそれ以上聞かなかった。兄妹として、特別仲が悪いわけではないが、特別仲が良いわけでもない。心配ゆえに、まだ若い妹の転職に、それほど首を突っ込む気にはなれなかった。
「しかし、あの杏奈が、意外だな」
「あの子は性格的にも真面目だし、堅実な道を行ったほうが絶対いいのに。夢見る夢子みたいなところがあるみたいなんだよね」
 陶子は頬杖ついて、見るともなしにテレビの方を見る。正博は相変わらず顔の色を変えず、無言だった。
「でも優秀なんだよね、杏奈ちゃん」
 なんとか食事を終えた芽衣を膝に抱きながら、こはるは裕太に向かって話す。
「そのまま大きな会社で働くこともできたけど、敢えてちがうことをやるのには、ちゃんと考えがあるんだろうね」
 と、杏奈のフォローをしつつ、両親を励ましている。
「まあね」
 裕太はそう返事をしたものの、はあ~と大きなため息をつく。
「でも、そういうところでマウント取られると嫌だな」
「え?」
「高学歴で、いい会社勤めてましたけど、わざわざそれを蹴ってちがうことやります。って、なんか根拠もなしに箔がつくじゃん。これが、うっす~い学歴、職歴のやつがやってみろ。同じようには思われんぞ」
「そういうことね」
 半分、裕太の負け惜しみが入っているんじゃないかと、こはるは思う。陶子は、裕太をまじまじと見て、
「勉強は、あんたの方ができなかったけど、あんたは意外とへこたれず仕事続けてるから、偉いもんよね」
 褒められるハードルが低くないだろうか、と裕太は思った。しかし、自然と自分の株が上がったようなので、まあ良い。
「杏奈は、手がかからない子だったんだけど…」
 陶子はまた頬杖ついて目を瞑る。
 あまり似ていない兄妹だった。裕太は人懐っこくユーモアがあり、杏奈は内気で真面目だった。裕太は勉強はあまりできなかったが、交友関係が広く、人生をそこそこに楽しむ術を心得ているようである。就活には難航し、一度転職したものの、今は運よく待遇のいい企業で働いている。一方杏奈は、勉強はよく出来たが、家にいることが多い子で、高校まで、勉強しろだの、はやく帰って来いだのと、陶子はほとんど叱ったことがない。旧帝大に入った時には、陶子も正博も、誇らしかった。部活の用事だか友達との旅行だとかで、外で泊まることもこの頃増えていたが、基本的には杏奈を信頼しており、叱ることはほとんどなかった。就職をして数年は、東京で独り暮らししながらも、うまくやっていたように思えていた。それなのに、知らない間に別のことに興味を持ち、今やニートである。
 不思議なものだった。
 昔から、ちゃらんぽらんなのは裕太で、手のかからないのは杏奈。この位置づけは古谷夫婦の間で変わらなかった。けれど今では、それがすっかり入れ替わったような気がする。裕太は気立ての良い嫁をもらい、盛大な結婚式を挙げ、気が付けば第一子をもうけていた。実家の近くに家を建て、自分の都合もあるだろうが、実家の両親のもとに頻繁に足を運び、孫の顔を見せてくれている。
 しかし、杏奈に関しては、付き合っている男性がいるのかさえ、怖くて聞けない。

 杏奈は自室で、インスタグラムの更新をしていた。自身の料理教室のインスタグラムである。教室は稼働していないが、息を吹き返した時、見てくれている人が多いに越したことはない。
 先日、美津子から連絡があり、あかつきでの働き方について話し合った。雇用形態は業務委託契約である。委託内容は、主にクライアント滞在時の調理・料理提供、足込温泉への出品物の準備・運搬、そして料理教室。これに加え、ホームページの構築・管理、SNSの運用。後者の特殊技能は、杏奈は専門家ではなかったが、ひとまず、料理教室時代のレベル感でやってもらえたら良いということである。料理教室は、あかつきに滞在するクライアントにだけでなく、対面であれ、オンラインであれ、広く開催して良いとのこと。
 つまり、今までは杏奈個人で集客・料理教室を行っていたのを、今度はあかつきに委託される形で、集客し、料理教室をすることになるのだ。集客に関わる仕事やクライアントへの料理提供は、一定の機会があるだろうが、一か月にどれほどの収入が見込めるのか、未知数であった。
 料理教室は、あかつきとして行う事業となるので、集客にかかる費用は杏奈の持ち出しではない。もちろん、料理教室を開催することになった場合の、施設使用料や食材の仕入れなども、あかつきの経費となる。しかし、成果に応じて報酬が発生する仕組みなので、集客できなければ、どんなに周知や宣伝に時間をかけても報酬はない。つまり、集客力次第ということだ。
─これだけで、生活できるだろうか…
 対した技術も集客力も持ち合わせていないのに、うまくいくだろうか。
 美津子が言っていた、今までよりもっと泥臭いことをしないといけないと言っていたのは、金銭を稼ぐために死に物狂いで実力を上げよということなのか。
 美津子が捻出してくれた業務に不満を抱くなど、おこがましいとは分かっているが、つい不安に思ってしまう。
 メールに添付された業務委託契約書のたたきを読んで、杏奈の心は悶々とした。しかし、その後すぐに美津子から電話がかかってきて、
─あかつきの離れに、住んだらどう?
 提案するような言い方ではあったが、話を聞いているうちに気付いた。これは提案ではなく、指示だと。
─ごはんと部屋は、与えてあげる。
 つまり、生活費から、家賃と食費が消えるのである。交通費も、浮く。
 そもそも、杏奈があかつきで働くには、実家から通うか、あかつきの近くに部屋を借りるかだった。前者を取れば時間を浪費することになる。実家からあかつきへは、片道二時間近くかかるからだ。しかも、杏奈は車を所有しておらず、さらに長年東京勤務だったこともあり、ペーパードライバー。安全上のリスクもある。後者を取れば、東京ほどでなくとも家賃がかかる。しかも、人口が少なく貸物件そのものが少ない足込町で、条件の良い物件を探すのは苦労するだろう。あかつきの離れを借りれば、このあたりの難点をクリアできる。
 美津子は、自分の持てるアーユルヴェーダの知識、それをクライアントに提供する方法を、無償で、杏奈に教授すると言ってくれている。あかつきに身を置き、美津子と話し、仕事の様子を見る機会が多ければ多いほど、杏奈としても得られるものが多くなるはず。
 美津子の言い分は、このようなことであった。
─信頼していいのかな。
 美津子に初めて会った時、サットヴァなエネルギーを感じた。
 それに、美津子としても当然、分からないはずなのだ。自分を信頼していいかどうか。にもかかわらず、杏奈の生活まで考慮し、成長を遂げられる環境を考えてくれようとしている。
 うまくいくという確信はなかったが、杏奈は美津子の提案にのった。

 だんだんと蒸し暑くなり、日も長くなった、六月上旬。
 杏奈が再び引越をする前々日のとある金曜日。梅雨入りはまだだが、今日は重たく、雲が降りてきている。
 昼近い午前中、あと少し、というところまでで荷造りを終え、杏奈は家の外に出た。すると庭に作った小さな家庭菜園で、正博が土いじりをしている。
 正博は一年ほど前から、週二でルート配送ドライバーをしている。それ以外の平日は、基本家にいた。陶子はというと、平日は自動車部品会社で現場作業員として働いている。勤続年数は、もう十年にもなろうか。だから今日は、この家には杏奈と正博しかいないのである。
 かつての四人家族─正博、陶子、裕太、杏奈─の中では、口数が少ないこの二人。一緒の家で生活していても、食事の時以外はそれほど言葉を交わすこともない。
「ちょっと散歩行ってくるね」
「おお」
 正博は、ちょっと顔を上げて、短く返事をした。
 東京にいた頃は、実家に帰ってくることは数ヶ月に一回、いや半年に一回程度だったので、この父が、会うたびに小さく、萎んでいくように見えたものだ。今や年齢は六十をとうに超えている。今も、杏奈に見せている背中は、丸まって、小さく見える。そして、白髪が多くなった頭。
 重苦しい曇天だったが、紫外線は降り注いでいると思う。杏奈は日傘を差した。近所のお寺まで散歩をするつもりである。鯖に当たって一気に体調を崩し、実家で療養していた期間にも、少し体調が回復すると、この道を歩いて寺まで行った。別にその寺に特別な思い入れはないが、五月頃はかきつばたが、この季節には紫陽花が綺麗に咲いているのである。
 初夏の頃、杏奈は日傘にしがみつき、陰に隠れるようにして、日光から顔を守りながらこの散歩道を歩いていた。杏奈の皮膚はそれほど、繊細になってしまっていたのだ。
 けれど、それだけではなかった。
 近所の人が自分の姿を見て、陶子や正博に、「娘さん帰って来てたの?」などと自分のことを話題に出したらどうしよう。そんな心配をした。陶子も正博も、返事に窮することだろう。
 杏奈の心には、敗北感と空虚感があった。あかつきに就職が決まったとはいえ、今もそれは、変わらない。
 だから今日も、ちょっとだけ、日傘で顔を隠すようにして歩いている。
 徒歩十数分で、寺についた。今にも雨が降り出しそうだが、寺には紫陽花を見にいつもより多くの人たちがいる。寺に咲く紫陽花は多種多様、色とりどり。ちょうど見頃を迎えている。紫陽花の可憐なガクに、やさしく触れる。自然に触れることは、アーユルヴェーダで推奨される実践の一つだ。
 ふと、杏奈は美津子から借り受けたツールを思い出した。ICレコーダーに収音された、美津子の「ガイド付き瞑想」である。あかつきでの面接(正確には栗原神社での面接になったが)を終え、実家に帰ってきてから、幾度かこのツールを使って瞑想をした。
 休憩所のベンチに腰を下ろし、イヤホンをつけ、美津子の声を聞いた。数週間前、杏奈に、人生の優先順位を問いかけた美津子。杏奈が目的に向かって歩めるよう、レールを敷こうとしてくれている美津子。
 このガイド付き瞑想は、チャクラという、体の七つの急所にエネルギーを流し、それぞれのチャクラに関係するチャンネルを開いていく、というものだった。
 この瞑想の意図を、自分は完全に理解できてはいないと思う。だが、これからこうしたヒーリングメソッドを自分が伝えることもあるのかもしれない。杏奈はまずは自分がクライアントになったつもりで、このガイドを聴いた。これにより、自分にどんな変化が起こるか観察をしようと思っている。
 瞑想の途中、杏奈の瞼の裏には、先ほどの父の後ろ姿が、浮かび上がってきた。
 ガイダンスが終わると、杏奈はイヤホンを外し、サクサクと歩いて寺を出た。そのまま、元来た道を歩く。
 歩きながら、杏奈は思案をはじめている。瞑想を通し、杏奈は自分の潜在意識に触れたらしい。
─お父さん。
 突然実家に帰ってきて、またすぐ出て行くという杏奈に対して、正博は、胸中で本当は何を思っているのだろうか。陶子ほどあからさまに表情や言葉には出さないが、正博も杏奈に、正社員としての就職を望んでいるのではないか。
 しかし、言葉をかけて来ないのは、過去の自分のことを思ってかもしれない。
 杏奈が小学校五年生くらいの時。中学校教諭として、国語を教えていた正博が、精神的ストレスを訴え出し、やがて休職した。正博は、娘の前では顕著に情緒不安定な様子を見せることはなかった。それでも、休職期間は三年に及び、結局、復帰することなく退職。その後は介護スタッフとして働いた。体調が優れなかったこともあるが、正博は古い人間で、休職から再就職までの間、家にいるからといって、家事をするといった姿勢を見せなかった。ちょうど、正博の親の介護とも重なり、親の介護はしていた。
 問題は陶子との関係である。陶子は当時、近隣の大型総合スーパーでフルタイムの仕事をしていて、家のことも一人で回していた。一家の稼ぎ手は今、自分であるというプレッシャーと、時間的な忙しさからか、陶子はイライラが募るようになり、いつも怒っていた印象である。
 杏奈がもっと幼いころから、特別仲が良い夫婦には見えなかったのだが、その頃から、陶子と正博との仲は急激に悪くなったと思う。
 陶子の安定志向の強さは、もともとの性格もあるが、この頃の経験から来ているのかもしれなかった。
 そして正博はというと、自分が動けなかった時期に、この先どうしたいか、どうすることができるかなど、自分にも皆目わからなかった…そんな経験があるからこそ、杏奈にも、つべこべ聞いたり、自分の考えを伝えたりしないのかもしれない。
 杏奈の脳裏には、もう一度、父の丸まった後ろ姿が浮かんだ。
 どうして、父を、母を安心させる選択ができないのか。しかし、父と母の望みを優先させることが、自分の幸せに必ずしも結びつきはしない。幸せになれない責任を、父と母に押し付けることはできない。とうにそれを知っている杏奈である。
 だからこそ、杏奈は父の後ろ姿に、心の中で詫びた。
 杏奈は帰路も、傘で顔を隠して歩こうと思った。けれど、それも必要ないだろう、と今更ながらに思い直す。
 近所の人が、自分の姿を見つけて、近況を両親に尋ねるなど、杞憂だ。
─私は、透明人間だから。
 悪く言っても傷つかない、感情のない人間であるかのように、居ても居ないかのように、扱われてきた。
 それならば、透明人間の特性を利用し、誰にはばかることなく、歩けば良い…
 
 翌日、土曜の夕方、裕太たち一家はまた実家を訪れた。
 杏奈はこの日、引っ越しに当たって足りないものを買いに出ていた。帰宅し、玄関で靴を脱いでいると、姪っ子の芽衣がぱたぱたと駆けてきた。にこっと笑って、ぱたぱたとリビングに戻っていく。
 手洗いうがいの後、杏奈もリビングに顔を出した。
「あ、おかえりなさ~い」
 ソファに座っていたこはるが、顔だけ杏奈の方に向けた。
 手を当てているお腹に、やはり自然と目がいく。
 裕太はこはるの隣で、足を大きく広げて寝そべる形でスマホを触っていた。
 床で芽衣と遊ぶともなく遊んでいるのは正博だ。
「お兄ちゃん、明日車お願いね」
「おう」
 裕太は杏奈のほうを見ることはなかったが、スマホから片手を放し、その手を挙げた。
「車交換したらそのまま遊びに行くから、積み込みとかは手伝えんよ」
「うん。そんなに重い荷物はないから、大丈夫だよ」
 大型の家具はあかつきへ持っていかない。荷物は少ないし、費用がかかるので、今回は業者に頼まないことにした。しかし、普段陶子が乗っているカローラではさすがに全部載せるのは無理そうなので、六人乗れる広さの、裕太のフリードを借りるのだ。第二子の出産を控えて買い替えたばかりの車なので、裕太は少し難色を示していたが、普段芽衣の面倒を看てくれている両親に免じて、明日は車を交換してくれるらしい。
 杏奈は自分が不甲斐なく思う。この年になっても、両親にいろいろと面倒をみてもらっていることが。
 会社を辞め、料理教室を開いた頃、杏奈は成功することにこだわっていた。成功すれば、親も認めてくれる。しかし、今や成功どころか、自立すらしていないのだ。
「そういえばさ」
 裕太は少し顔を持ち上げて、正博にとも、陶子にともつかず、
「次の土曜、午前中ちょっと芽衣預かってくれない?」
 とお願いをした。
「午前中?」
 台所から、陶子がオウム返しに言う。
「お父さん、来週土曜の午前中だって」
 陶子より裕太に近い位置にいるのだから、聞こえているはずの正博だが、だいたいいつも、反応が陶子より遅い。
 カレンダーに目を向けてから、
「ああ、いいよ」
 と答えた。
「出かけるの?」
「ああ。新生児用の服とか、いろいろ揃えようと思って」
 と言ってから、思いついたように、陶子を見る。
「あ、どうせなら、一緒に行く?買ってくれてもいいよ」
「何言っとるの」
 そう言いながら、陶子はまんざらでもないようである。
「まったく調子いいんだから、あんたは」
 杏奈はちょっと居心地悪い。今回の車交換と交換条件的に、裕太のお願いを両親が断れないのなら、申し訳ないと思う。子供がいない杏奈には、出産にあたって、祖父母がどのくらい援助するものなのか、分からないのだ。
 裕太は、両親に甘えるのが上手だと思う。けれど、親からしたって、まったく家に寄りつかない子供よりは、わがままを言っても寄りついてくれるほうが、可愛いに違いない。
─あかつきに住み込むことにして、良かったかもしれない。
 自分がいなくても、両親には、たびたび遊びにくるこの家族がいれば十分だと思う。来たら手はかかるが、何より賑やかになる。
 しかし、杏奈はこの先、親と兄たち家族の結びつきの強さを認識する度に、実家であるはずのこの家に、自分はいなくても良いと思ってしまうだろう。
─ひねくれてる。
 心の中で自嘲する。
─羨ましいのか、私は。
 この兄を…この義姉を。
 一方で、杏奈はやはり、裕太を頼りにもまたしている。
 昔から、杏奈は家に裕太がいるとほっとした。それは、裕太が無意識か意識的にか、この家の人間関係のバランスを取ってくれるからである。
 正博が休職をしていて、陶子の気分が最悪だった時、家にいることの多かった杏奈は、家の雰囲気が悪くなることに水面下で影響を受けていた。裕太は交友関係が広く、外で時間を過ごすことも多かったので、この雰囲気への暴露は少なかった。意図的にうまく避けていたのだと、思えなくもない。しかし、ひとたび裕太が帰ってくると、母親ゆずりの明るさが周囲にうつって、家の雰囲気が変わる。おしゃべりな兄の存在は杏奈にとって救いだった。
 しかし、裕太が高校生になって以降、兄はこれまでに増して家にいないことが多くなった。
 杏奈と親二人では「しーん」とした雰囲気になる。杏奈は、自分がもっと明るければと思っていたが、今さら、違う人格を演じることなどできなかった。
「あんちゃ、あんちゃ」
 所在なげに床に座っていた杏奈に、積み木で遊んでいた芽衣がまとわりついてきた。あどけない笑顔を向ける芽衣を、杏奈は可愛いと思う。芽衣を抱き寄せようとすると、きゃははと笑ってすり抜けてこはるの方へ行ってしまう。それからまた悪戯っぽい笑顔を向けて、杏奈にべたーっとすり寄ってくるのだ。
─ありがとう。
 心の中で、芽衣に言った。
─あなたがいるおかげで、お母さんもお父さんも、安らいでいられるんだね。

 


 

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