莉子は頂上まで、力の限り走った。
隣には逞しく精悍な顔つきをした南天丸。もっと早く走れるはずなのに、この犬は莉子と伴走してくれている。もっとも、莉子が手綱を握っているからかもしれないが。
─かわいいやつ。
にやりと相好を崩し、脚力を振り絞って、最後の急坂を登る。登り切った先は、ただ少し開けた平地が広がるのみ。
明神山の頂に立つと、莉子は乱れた呼吸を整えた。背中にも、帽子のつばが当たる額にも、汗が噴き出ている。
その莉子の後ろから、はぁはぁと息を切らして頂上に到達したのは、蓮。既に頂に立って、帽子を取り、汗をぬぐっている莉子を見て、
─信じられない。
と思う。
この暑い中、急に山に登ろうと言い出すと、途中休みを取ることもなく、蓮よりも軽快に山を登った。有り余った体力を、ここで使い果たそうというかのようだ。
莉子は南天丸に導かれるまま、木陰に入った。南天丸は雑草が生い茂った地面に腹をつけて休んでいる。莉子は振り向き、まだ荒い呼吸をしている蓮をちらりと見た。
蓮はともかくとして、南天丸と一緒に山を登るのは楽しい。この南天丸という名のジャーマンシェパードドッグは、クライミングジムハイウォールのオーナー・藤野の飼い犬で、元山岳救助犬。今は引退し、ジムの看板犬となっている。
─今日は店番ですよ。
開店早々ジムを訪れた莉子が、南天丸に近寄り、じーっとその様子を眺めていると、藤野がそう言った。外の犬小屋で、南天丸は退屈そうに伏せっていた。
─月に一、二回くらい、ここに来てる柴崎さんって方が、明神山に連れてってくれるんだけど。
今日はなんの連絡もないそうで、おそらく南天丸は一日店番になるとのこと。
─気分転換できんで、残念だなぁ。
それを聞くと、部活を止め、友人と遊びに行くことも少なくなり、暇を持て余している自分とこの犬が重なって、莉子は急に南天丸が可愛くなった。
それで、自分がこの犬を山に連れていくことはできないだろうかと藤野に相談したところ、藤野は首を振った。南天丸は、よく躾けられた犬だし、定期的にジムに通い出した莉子のことも認識してはいる。しかし、莉子の言うことに従うかどうかは、約束できない。
そこにやってきたのが蓮だった。
藤野は、何度も南天丸と山を登っている蓮が一緒であればと、二人を送り出した。ジムでボルダリングの練習するはずだった蓮にとっては、とんだとばっちりだったが…
「暑い…」
「ああ。早く下ろう」
七月下旬。
ただ外にいるだけでも暑いのに、木陰があるといえども、山に登りなどすれば、もっと暑い。明神山のような低山では、涼しいと感じるほど、下界と気温差はなかった。
「えっ?来た道を戻るの?」
蓮が踵を返したのを見て、莉子は呆然とした。
「戻らないの?」
むしろ、戻らなければどうしようというのだろう。
蓮は下山したら、そのままハイウォールで登り直すつもりだったのだが。
─明神山に登ることがあれば、あの家に寄るといい。
しかし莉子は、あの男の言葉を、律儀にも思い出していた。
彼の車で家まで送ってもらった時、莉子はフロントミラーに写る彼の顔を、ちらちら盗み見ていた。まさか彼も、ハイウォールの常連であったとは。
莉子の脳裏には、上沢のクリニックで産婦人科医をしている柴崎順正の、涼し気な目が蘇っていた。
莉子は順正と面識がある。自分がクリニックにかかったからであるが、その後、あかつきというこの山の向こうにある邸宅で、偶然にも顔を合わせたのだ。
「栗原登山口へ下りよう」
意外な提案に、蓮は目を見開いた。
「なんで?」
「えっと…今日は、栗原神社の夏祭りじゃなかった?」
─そうなのか?
蓮は祭りのことなど、知る由もなかったが…
─遠回しに、誘われた?
もしそうだとすると、中学生になってから、女子から祭りに誘われたのは初めてだ。
蓮はなぜか、顔が熱くなった。
十一時になると、子供たちは栗原神社の本殿に集まり、そこで祈祷を受けた。
年齢は、三歳から十歳くらいまでと、大分幅があったが、集まったのは地元の子供たち、せいぜい十五人ほど。
七月最後の土日は、栗原神社で夏祭りが開かれる。その二日目、日曜日には、稚児行列が行われる。鮮やかな衣装を身にまとい、化粧をした子供たちが練り歩く日本の伝統行事。子供の無病息災や成長を願うものである。
そういうわけで、本殿に集まった子供たちはみんな、揃いの衣装を着ている。白い着物に、金襴上着(男の子は緑、女の子は赤)・袴(男女とも紫)、お腹から胸のあたりにしごきを結び、足袋を履いている。頭には冠をかぶり、手には榊を持つ。
万里子と快は、祈祷が終わると、ひそひそと何か喋って、悪戯っぽい笑みを浮かべながら後ろを振り返った。
子供たちの後ろには、その保護者が参列している。
瑠璃子は後ろを振り返る二人に、前を向くよう、「しっし」をするように手を振って促した。
稚児行列には沙羅と祥子たち母子も参加するはずだったのだが、沙羅は仕事、祥子は大地が風邪を引いたので欠席となった。
沙羅は瑠璃子に、あかつきのお客さま専用駐車場に車を停めるよう勧めた。神社の駐車場が混み合うからだ。
あかつきには、沙羅が子供たちを連れて仕事にやってきていた。万里子の姿を見つけると、快が祭りに行きたがったので、瑠璃子が快の面倒を引き受けた…というわけだった。友達が一緒の方が、万里子も楽しいと思ったのである。当日受付の稚児行列への参加も間に合った。
「はい、そんじゃ」
紫色の袴を履いた神職が参列者に声をかけた。
「行列、始めましょか」
仰々しい祈祷と巫女の舞の後にしては、砕けた言葉遣いだった。
本殿の前で、行列が作られる。この時には、子供たちは足袋を脱ぎ、白い靴下を履いて、靴を履く。栗原神社の稚児行列は、街中ではなく明神山を歩くからである。
「今日も気温が高くなってますんで、山ン中はまぁ、無理しんといてください」
といっても、登るのは二合目にある、杉のご神木まで。
神主が先頭を歩き、その後ろに若い神職、子供たち、今年の当番である住民四人、最後に保護者が続く。
「大丈夫?」
登山開始前、瑠璃子は二人に山に登って大丈夫か尋ねた。ただでさえ暑いのに、薄手といえど稚児行列の衣裳を着ていたら、なおさら暑い。
「だいじょうぶだよ」
二人は口々に答えた。
「えんそくでのぼったもん」
確かに、春の遠足で、足込幼稚園の年長さんたちは明神山の山頂まで登っていた。往復三時間くらいの距離だから、そのくらいの年頃の子供であれば登れるのだ。
とはいえ、山に行く参列者の中では、二人は最年少。瑠璃子は山道を登りながら、前を歩く二人が少し心配である。万里子と快は、そんな瑠璃子の心配をよそに、ウキウキしていた。こんな衣装を着て山に登るのは初めてだ。
背の高い木々に覆われた登山道には、直射日光が当たることはない。
行列を見ようという地元の人たちが、スマホやカメラを構えながら、登山道で行列が来るのを待っていた。瑠璃子も、万里子の晴れ姿を写真におさめたかった。しかし、行列の後ろを歩いているので、それができない。父親がいれば、瑠璃子の代わりにシャッターを切ってくれたかもしれないけれど。
ご神木に着くと、神主たちは子供たちを整列させて、そこでも祈祷を上げた。スマホで写真を撮る保護者の姿がしきりに見られた。
「おおーい、そっちは行ったらいかんよ」
子供たちのうち、何人かが、主要登山道から枝分かれしているトラヴァース道に進みそうになるのを、神職が止めた。
「そっちは花神参道。花神岩に行ってまうで」
行列は再び整えられ、山を下り始めた。
「暑いなァ…」
それからしばらく経った頃、神社では、ぐう爺が参集所の座敷に座り、うちわを仰ぎながら行列の帰りを待っていた。
「じいちゃん」
巫女の小夜が、そんなぐう爺に声をかけた。
「行列について行かなかったの?」
「あぁ…わしは、もう年寄りだで、無理したらいかんのだわ」
「ふうん」
行列は下山すると、そのまま西参道まで移動して、鳥居の前で向きを変え、再び西参道を通って神門から本殿に入る。練り歩きは以上で終わりだった。
行事を終えた子供たちとその保護者は、わいわい喋りながら、参集所の座敷に戻ってきた。野郷の婦人会の面々や当番の住民、神社の関係者が出迎えて、子供たちの着替えを手伝う。
「ママ、おかしもらいにいこう!」
お土産にお菓子の詰め合わせとお茶、弁当が貰える。子供たちにとっては、これが一番楽しみなのだった。
稚児行列が終わった頃、あかつきでは、キッチャリークレンズの一環として開催する、オンライン料理教室が幕を閉じるところだった。
講師を務めたのは、小須賀。オンラインレッスンは初めてである。
七月の身体の整え方とアーユルヴェーダ料理というテーマで、一時間のレッスンの間に四品作った。最後は、まとめと、明日からのスケジュールのリマインドである。そこまできたところで、小須賀は羽沼が構えるカメラに視線を向けると、急にフリーズしてしまった。
「─はい、ということでですね」
今日は調理補助として一緒にライヴをしていた杏奈は、さりげなく小須賀の隣に歩み寄った。
「暑さと利尿作用のある食べ物で、この時期は意外と、体の内側が乾燥しがちになりますので、適度な水分と電解質のものを摂ることが大事です」
そう言って杏奈は、先ほど実演で作った、フレッシュライムウォーターのピッチャーを持ち上げた。
「夏休みの旅行で移動をしたり、不規則さが増したりしがちなので、ヴァータを整えるためのセルフケアもお伝えしました」
「はい。みなさんぜひ、やってみてください」
小須賀はやっと、カメラに向かって口を動かしたが、ほとんど棒読みだった。
ライヴ中、小須賀と杏奈の様子は、普段とまるで逆である。杏奈は流暢に喋り、小須賀はぎこちないというか、不自然な喋り方をしている。それも慣れだと、傍で見ている羽沼は思った。
「明日は、ヨガインストラクター鞍馬による、夏バテ解消ヨガです。こちらもぜひご参加ください」
そしてライヴは幕を閉じた。
「小須賀さん、お疲れさまです!」
七瀬を抱っこしながら、デシャップ台から撮影の様子を見守っていた沙羅は、小須賀に労いの言葉をかけた。
「ああ、疲れた」
小須賀は折り畳み椅子に座って、背中を冷蔵庫にもたげた。魂が抜かれたような顔をしている。
「これ、おれがやる必要ある?」
オンライン料理教室に慣れている杏奈がいるのに…どうもあかつきには最近、役割分担する傾向がある。
「とりあえず、録画ができるまで休憩にしようか」
「はい。じゃあこの間にごはん食べちゃいましょう」
オンライン料理教室の間に作ったごはんを、そのままお昼ごはんに転用できるので、杏奈としては炊事の時間が浮いて助かった。暇さえあれば、事務仕事、あるいはアビヤンガの練習…なにかしらの鍛錬の時間に当てたかったのだ。
「先に一つ盛り付けさせてください。撮影します」
杏奈は言いながら平皿を取った。
「はあぁ~」
小須賀はまだため息をついている。
美津子、杏奈、小須賀、羽沼、沙羅と七瀬の六人が、食卓を囲む。
小須賀の初めてのオンライン料理教室の様子を振り返って、会話が途切れることがなかった。いつも人をからかう方の立場にいる小須賀が、こんなにからかわれているのは珍しい。美津子も思わず笑みを漏らして、教室の様子を聞いていた。
あかつき大作戦に向けた集客の一環として、七月二十七日から八月五日までの十日間をキッチャリークレンズ期間とし、毎日オンラインイベントを開催する。
キッチャリークレンズの趣旨は、キッチャリーを食べることによる体内デトックスである。その参加費は、比較的安く設定した。購入者には十日間分のキッチャリーキットを送り、専用ラインに誘導する。そして、十日間のオンラインレッスンに、無料で参加可能にしたのである。
キッチャリークレンズの参加者を募るために、あかつきのスタッフ全員が協力して、個人のアカウントでもあかつきの投稿をシェアした。フォロワー数の多い鞍馬が、自分も講師として参加することを言及したため、ありがたいことに参加者が増えた。広告費もかけて、インスタ広告を打った。羽沼がこれに向けて、一本youtube動画を作ってくれたので、youtube内でも広告を出す。
とにかくできる限りのことをした甲斐もあり、募集後、毎日のようにライン登録者が増えた。たとえキッチャリークレンズには参加しなくとも、リストが増えることが、集客上重要だった。
キッチャリークレンズには二十名以上の参加が決まり、杏奈と沙羅は、キッチャリーキットの袋詰めに忙殺された。たびたび助っ人としてあかつきにやって来た空楽が、素晴らしい戦力となった。
そして、オンラインレッスンの連日開催が始まったのである。キッチャリーを作るだけでなく、クレンズに効果的なツールであるヨガや、呼吸法、瞑想、アーユルヴェーダ的な過ごし方や、キッチャリー以外の料理の指導も行う。大まかな内容は事務局である杏奈が決めるが、詳細は担当者が決め、ライヴを行う。このように仕事量を分散した。
「リンクはどこに貼ればいいんですか?」
昼食が終わると、ライヴ後の仕事でスタッフたちは忙しくなった。
沙羅は時々七瀬の相手をしながら、先ほどのライヴのアーカイヴを、あかつきの公式ラインで共有する方法を羽沼から教わっている。杏奈はスマホで撮った写真をインスタのストーリーで発信したり、動画をパソコンに入れて、リールを作ったりと大忙しである。美津子は作ったものをシェアしてくれた参加者へのお礼メッセージを打つ。小須賀はパソコン、スマホでの仕事は辞退し、その代わりに昼の片付けをした。
「ママ―!かえってきたよー!」
午後一時前に、瑠璃子が万里子と快を連れて、あかつきを訪れた。
「瑠璃子さん、快を連れて行ってくれてありがとう…!」
沙羅は快を抱きしめながら、瑠璃子にお礼を言った。
瑠璃子があかつきの母屋に上がるのは、実はこれが初めてだった。話には聞いていたが、確かにあかつきの中はどこの邸宅かと思わせられるような佇まい。決して派手ではないが、調度品の一つひとつに趣があり、高価なものが揃っていることが分かる。
家なの中は重厚で落ち着いた空間が広がっているが、応接間に入ると、そこにいる人たちは決して落ち着いてはいなかった。
こうしてはどうか、これはどうかと仕事の会話が飛ぶ。決してうるさくはないのだが、そこはかとない熱気を感じる。
─まるでお祭り…
そうだ。あかつきこそ、お祭りのような騒ぎになっている。
「沙羅さん、杏奈さん画像作ってくれたから」
「ああ、すみません」
ちょっとごめんなさい、と言って、沙羅はテーブルに戻り、立ったままパソコンを覗き込んだ。
「ここでリンクを選んで、URLをここに貼る…」
「待ってくださいね。ここでリンクを選んで…」
沙羅に何か教えているのが羽沼であることに気付いて、瑠璃子は驚いた。向こうも瑠璃子に気が付いたようで、沙羅と話をしながら、軽く会釈をする。
瑠璃子はなんとなく気まずい気がして、視線を逸らした。いつから羽沼は、沙羅や杏奈をさん付けで呼ぶようになったのだろう。
「ねえ、ママ~、ココちゃんくちべにつけたの、みて」
快は瑠璃子のほうへ行こうと誘うように、椅子に座っている沙羅の服をひっぱった。きっと瑠璃子が写真を撮ってくれたのだろう。
「ああ、分かった。ちょっと待っててね」
「ねぇ…ママぁ」
沙羅がちっとも相手にしないので、快は不服そうに頬を膨らませた。
「そういえば、料理全然余ってないんすけど、快ちゃんの分はよかったっすか?」
ストリングカーテンをパラっとくぐって、応接間に戻って来た小須賀は、誰にともなく訊いた。沙羅が返答したが、小須賀の耳には入ってこなかった。見慣れぬスタイルの良い美人が居間にいることに気が付いたのである。
「うわっ」
と叫びかけて、口を押えた。その声で瑠璃子がこちらを振り返る。
小須賀は慌てて、羽沼たちの方へ走り寄り、
「あれ、誰っすか?めっちゃ美人じゃないですか!」
小声で尋ねる小須賀に、誰も答えなかったが、誰からともなく「はあ~」とため息が聞こえた。
栗原登山口に近づくにつれ、山の中に人の姿を見るようになった。今日は夏祭りなので、栗原神社に詣でつつ、山に入る人が多いのかもしれない。
下山する頃には、莉子も蓮もとてもお腹が空いていた。とにかく何か食べないともたない。
莉子の言っていた通り、栗原神社は夏祭りをしているようだった。参道には屋台が並んでいる。
「ねえ、蓮。南天丸は神社の中に入れても大丈夫なの?」
「んん?」
今まで気にしたことがなかった。
二人は周りを見渡しながら、手水舎のあたりまで歩いた。境内にはたくさんの人がいるが、犬を連れている人の姿はない。
「なんか買ってくるよ」
念のため境内には入らず、参道だけを歩きながら、蓮は言った。
「何食べたい?」
「何でもいい」
「じゃ、あのあたりにおって」
蓮は参集所の西側を指さした。駐車場に抜ける道があり、その側道に腰掛けられるところがあった気がする。
蓮は参道の両脇に出ている屋台で、食べ物を調達した。
二人は玉垣の近くにしゃがんで、たこ焼きを食べた。自分よりも早いペースでたこ焼きを頬張る莉子を横目で見て、
─なんか、思ってたのとちがうな。
と蓮は思う。
浴衣を着て、ちょっとめかし込んだ彼女と参道を歩いて、なんでもない会話を楽しみながら、屋台でりんご飴なんかを買って食べる…それが、お祭りというものではないのか。それなのに、自分たちときたら、服が体に張り付きそうなくらい汗をかいて、スポーツバッグを持って、一っ言もしゃべらず、たこ焼きなど貪っている。
「ん-、うま。もっと食べたい」
「は?やんねぇぞ」
「いいよ。別のを買ってくるから。冷たいのが食べたいな。かき氷とか」
「おれのも買ってきて」
たこ焼きで小腹が満たされると、今度は喉の渇きを覚えた。
莉子はすっと立ち上がり、参道の方へ歩いて行く。参道にはたくさんの子供や、老人、親子の姿があった。
片膝に片肘ついて、その手に頬をもたげている蓮は、つい数日前のことを思い出していた。
─すみません、佐藤さん、ですか?
蓮が莉子の父親に声をかけたのは、夏休みに入って最初の燃えるゴミの日。
桜台では、都会のようにゴミ収集車が各家の前を回ることはない。ゴミを集める場所が決まっていて、各家の者が、そこにゴミを持ってくるのだ。
蓮は莉子の新しい父親の顔を知らなかった。だから、ゴミ収集所でその人に声をかけるのは、勇気がいった。
でも思えば、この地区に昔からいる大人の顔はだいたい知っているから、蓮にとって目新しい、それらしい年代の男に声をかければ、そう外れを引くこともない。
─あ、はい。そうですけど…
莉子の母親も若いが、その新しい夫は、もっと若く見えた。
起きたままの服装で家を出てきたらしい。変な柄の臙脂のTシャツに、黒い半ズボンという姿…。髪の毛もとかしきれておらず、くしゃくしゃだった。
蓮と莉子の義理の父親・文也は、近くの畑の傍に佇み、突っ立ったまま話をした。
─なに、じゃあ莉子は、君におれの相談をしてたの?
そう言うと文也は、がしがしと後頭部を右手で掻いた。
蓮は、遠回しな説明はできない。率直に、莉子の様子がおかしくて、ちょっと気になってますということを言った。あかつきや順正のことは、伏せておいた。
─おれのことが原因だって?
─分かりません。
蓮は視線を逸らした。そこまでは、率直に言えなかった。文也は目を細めた。
─逆に、おれのこと本当はどう思ってるのか、聞いてほしいんだけど。
文也は、困惑しているようだった。その素の反応を見て、蓮は別に、変な男ではないような感じがした。
─再婚前は愛想がよくって、おれが家に来てからも、普通に接してたんだよ。…父親にというか、友達に接するような感じだったけど。
最後の方は、ぶつぶつと小声になった。莉子の態度が変わったのは、やはり子供ができてからのようだ。
─三人でいるとさ、莉子も、奥さんも、態度が変わるんだよね。
文也はため息交じりに話した。
─莉子がちょっとでも可哀そうな顔したら、奥さんはおれを叱るんだよ。莉子は莉子で、二人で話してる時はちょっと優しくしてくれるのに、奥さんがそばにいると、急にそっけなくなるというか、生意気になんの。
蓮を相手に百面相をしながら愚痴る文也を見て、
─この人も苦労してんだ…
と蓮は思った。いや、むしろ被害者は彼のほうなのではないか?結婚前は、にこにこと接してくれていた二人が、再婚をして、普通の男として人並みの幸せを手にしかけた瞬間に、態度を豹変されるなど…
─子供ができて、不安なのは分かる。
自分がそういう立場になったことはないけれど、一人だけのけ者にされるのではないかと、急に不安になったのであろうことは、文也にも想像がついているようだ。
─でもさ、奥さんとの間には、そういうことがあったって、おかしくないんだよ?
文也が、一歩蓮に歩み寄って力説すると、蓮はちょっと後ずさった。もう少しで、掴みかかられてもおかしくはない。
─莉子はただ寂しいの?それとも…なんかおれのこと、犯罪者のような目で見てる気がするんだけど!?
─いや、ちがいます。
─おれはそんな、変態じゃないって!
今度は私に手を出すんじゃない?気持ち悪い。そんな目で見られていることに、とっくに気づいている文也だった。
─分かってますって。
視線を逸らしながら、蓮は文也を疑っているのではないことを強調した。
─ごめん。
文也は咳払いして、
─何も話さなくっても、時間が経てば、分かってくれるかなーって、思ってたんだけど…
まだ文也も、美穂も、莉子も、お互いの関係性に慣れていないだけだ。新しい家族として、一緒に住み始めたばかりなのだから、同じ時間を共有していればそのうち、家族になっていくんじゃないかと思っていた…。
─おじさん…
と、言ったあとで、蓮は呼び方がこれでふさわしいのか迷った。
おそらく、歳は順正とそこまで変わらない。しかし、蓮は順正をおじさんと呼ぼうと思ったことは一度もなかった。
─あの、おじさんは上沢の人ですか?
それでもおじさんとしか言えないまま、尋ねた。文也は首を振った。
─豊川。
─だったら、ちょっと知っておいてほしいんですけど。おれら、あと二年もしないうちに受験なんですよ。
そして、上沢市や足込町の中学生の何割かは、高校進学と同時に家を出る。
─莉子と仲良くなりたいって思いがあるんだったら、行動を起こすのは早い方がいいです。
文也は驚いた顔をして、蓮を凝視した。
二年経たずして…
その二年の間に、子供が生まれ、子育てするようになったら、莉子と向き合う時間が取りにくくなる。莉子が高校進学と同時に家を出たら、分かり会えないまま、ぎくしゃくとした関係が続くかもしれない…
─っていうことを伝えたかっただけなんで。じゃ、これで…
蓮は立ち去りかけたが、文也に手首を掴まれた。
心臓が飛び跳ねそうだった。今度こそ、余計なお世話をと怒鳴られるような気がした。が、振り向くと、そこには懇願するような、困り果てた表情をした文也の顔があった。
─頼むよぅ、蓮くん。
今にも泣き出しそうな顔であった。
─行動起こすっつったって、向き合うっつったって、莉子に何を話したらいいのか、分からないんだよ…
莉子の年齢が絶妙すぎた。莉子は、母親と自分の間に起こったことを想像すると、羞恥で消え入りそうなのだ。自分と新しい父親との性別を思って、不安になっている。そんな莉子に、当事者である自分がどう歩みよればいいのだろうか。
─いや、おれだって分からないんですが…
莉子と話をする時には、立ち会ってくれないかと言われて、蓮はとにかく拒否し通した。
「はーぁ」
蓮は南天丸を撫でながらため息をつく。
─そんなに悪そうな父親じゃないじゃん。
莉子が男だったなら、こんなぎくしゃくはしなかったのだろうか。
「蓮、どうしたの?頭でも痛いの?」
南天丸の背に頭を埋めるようにしてもたれかかっている蓮を見て、莉子が訊いた。両手にかき氷を持っている。
─お前のせいだよ。
蓮は心の中で言った。
「あ、ねえ、蓮。南天丸は何を食べるの?」
顔を上げてかき氷を受け取りながら、蓮は目を瞬かせた。
「お、おお~!」
二人のすぐ近くで歓声に似た声がして、二人は声のした方─参道のほう─を振り返った。
「南天丸!」
走り寄ってきたのは、白い袴を履いた痩せた老爺─ぐう爺─だった。
「…ということは、先生も来とるのか!?」
「蓮、誰?あれ…」
莉子が口元に手を当てて、こっそり訊いた。
蓮は、以前駐車場で会ったこの老人のことを覚えていた。
─どいつもこいつも、面倒くせぇなぁ…
登り慣れた石段を上がると、水盆を抱いた石柱と、大きな観音像を正面に見る。
山門前の石段からここまでは、長いこと階段が続いている。けれど順正は息一つ切らすことなく、軽々と登ってきた。途中一度も足を止めることのなかった順正だが、何体もの地蔵像が立ち並ぶ地蔵堂が視界に入ると、自然と足が止まる。
風が緩く頬を撫でていく。
ミンミンとセミの声がする。
善光寺の境内には人がおらず、順正が何十体もの小さな地蔵尊像前に立ったまま動かないのを、不思議に思う者はいない。
順正の顔にはどんな感情も浮かんでいない。眉をしかめたり、悲壮感にくれたような、同情するような表情をすることもない。一見何を考えているのか分からないと言われるのが、この男の常だったが、今はただ、ここは仏花が絶えないという事実を思っているのだった。
─八苦を覚えているか?
あれはもう十年ほども昔のことだったか。臨床研修で回る科を決める頃に、善光寺を訪れたことがある。
順正は、ただ今と同じ場所に立ち、今と同じように佇んでいた。その時、善光寺の住職・加藤が声をかけてきたのだ。
順正は加藤に、何かを尋ねたわけでもなければ、進路について相談をしたわけでもなかった。ただここに並んで佇んでいた時に、ふいに問いかけられたのである。
四苦八苦は、仏教における苦の分類であり、四苦は生・老・病・死。八苦は、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦である。
・愛別離苦(あいべつりく):親・兄弟・妻子など愛する者と別離・死別する苦しみ
・怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎んでいる者に会う苦しみ
・求不得苦(ぐふとくく):求める物が思うように得られない苦しみ
・五蘊取蘊(ごうんじょうく):五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならない苦しみ
─どれも苦しいが、ここにいると…
そう言って、加藤は地蔵像たちの前にしゃがんだ。
─愛別離苦こそ、最も強い苦しみであるように思える。
人を愛する思いの絶頂で、それを摘み取られる苦しさ。花が絶えないこの場所は、人々のその苦しみの強さを、象徴しているようであった。
もっとも、八苦は一つずつ起こるわけではなく、同時に起こることだって、ありうるのだけれど。
─花が手向けられるのは、お墓と同じではないですか。
順正は静かに言った。
─それはそうだが、この仏さんたちは、子供だからな。
命に大小があるわけではない。
─それも、水子だ。
彼らは生まれることを期待され、祝福されていた存在。
その彼らを愛おしむ気持ち、期待があった分、その命が消えると、期待と祝福との落差の大きさから、悲しみが深くなる。その死が突然であれば、なおさらだ。
─小さな頃は…母親が死んだらと思うと、胸が苦しくなった。
加藤は順正の隣に立ち、温和な低い声で、静かに話した。
─愛しい女ができれば、こいつに先立たれたらと不安になった。
順正は笑う気にもなれなかった。共に過ごす年月が長くなれば、愛は薄れ、そんな杞憂を抱くことなどなくなるのだろうに。
─子供ができたらまた、この子が自分より先に死ぬようなことがあればと…
言いながら加藤も、ふっふっと笑った。
次から次へと、来るかどうかも分からない、しかし確実にやってくる苦を思って、不安が絶えない。
それが人間というものだ。
そうはいっても、愛する人や子がいない順正には、現実味が湧かないだろう。だが加藤は、人の親であるからこそ、この花を手向けていった人たちのことを思うと、手を合わせずにはいられない。
─引きちぎられるような気持ちで、ここにその思いを手放しに来るのだと思う。
ずっと胸に持っているには、苦しすぎる記憶。
けれど手離すことなどとうていできない記憶。
順正は、横に立つ加藤を見た。そういう人たちの思いを受け止めて来た僧侶の、穏やかな、しかし深淵な表情がそこにはあった。
順正は地蔵尊像と、その前に手向けられる、真新しい花々に視線を戻す。
─子供、か…
子供と関わる医療のことを意識したのは、それからだった。
加藤は庭園から続く階段を上っていた。ひと月ほど前には、まだこの階段の両脇には紫陽花が咲き乱れていたのだが、今はもう花は咲いていない。
階段を上り終えると、突き当りに大きな観音様の石像が見える。その手前に、一人の男が佇んでいるのを見て、加藤は目を凝らした。
身長の高い男である。ごく淡い水色の五分袖のシャツに、カジュアルな白いズボン、白いスニーカー。熱気をはらんだ微風に、黒々とした前髪を揺らしている。
参拝者ではないことは雰囲気で分かる。ただ無造作に立って、地蔵尊像を見つめている姿からは、哀愁というものは感じられない。
─感情が表に出ないのは、昔からだ。
加藤にはそれが誰か、後ろ姿を少し見ただけで、分かっていた。
「順正」
呼ばれて、順正は声のしたほうに顔を向けた。整った顔立ちだが、今はどこか、気の抜けた、ぼんやりとした様子である。
「久しぶりだな」
加藤は涼し気な夏用の改良衣姿で、悠然と順正との間合いを詰めた。
「私に会いにきたのか」
加藤は微笑んだが、順正は首を振った。
「山に登るつもりでしたが、登り損ねました」
上沢、足込周辺の低山に上るのなら、この季節であれば日の出の前頃に出発しなければならない。でないと、暑くて登れない。
「忙しかったか」
「…まあ、仕事はそれほどでも」
産婦人科学会のアーカイヴを見つつ、最新の論文を読み耽る日々が続いた。夜更かしをし続けたしっぺ返しは、どこかでくるものだ。
「いかんじゃないか。執刀する医師がそんなことでは」
もちろん、仕事に影響が出ない程度にやっている。しかし順正は言い訳するでもなく、地蔵堂の傍の屋根付きの小さな休憩所で、僧侶と並びあって座った。
「全然人がいませんね」
順正は改めて境内の中を見回した。
「ああ…今日は栗原神社で夏祭りと稚児行列があるから…太極拳の練習も、今日は休みだ」
「ふうん」
順正は特に関心がなさそうに、無意識に自分の髪に指を入れて梳いている。
「ははは。どうした。お前も気分転換に行ってこればいいじゃないか」
順正は目を細めて、かぶりを振った。
「仕事のことばかり突き詰めているから、仕事のないときにそういう腑抜けた顔になるんだぞ」
「誰が腑抜けですか…」
二人はお互いの顔を覗き込んで、静かに笑い合った。
「学校が夏休みに入ってから、朝、お経を読みにくる子供たちがいてな」
加藤は両膝に両手を置いて、なんの脈略もなく話し始めた。子供たちは、ラジオ体操の後、寺に来るのだ。
「調子が悪そうな男の子がいたから、どうしたのかと聞いたんだ」
加藤の声は至って真面目だった。
「そうしたら、お腹が空いて、ふらふらしますという」
朝ごはん前だから、しょうがない。
「食欲はあるのかと聞いた」
そうしたら、こう言ったという。
「おかずに寄ります…」
「…」
順正は、首を傾げて失笑していた。
「だめか」
加藤はうそぶくように言った。順正は苦笑いするばかりだった。
「これは別の子なんだが」
その子は、おじいちゃんに囲碁の本が欲しいと言われ、「アマゾンで買うね」と答えたらしい。
「そしたら、そんな遠くまで行かなくていいって引き止められた」
「…」
順正は、ちらっと加藤を見て、どうすればいいのだろうという顔をした。
「またある子はな、成績が落ちたことで母親に叱られたらしい」
その母親はこう言った。
「頭が悪い友達とつるんどるから成績が落ちる。頭のいい子と付き合え、と」
そしてその子は、言われた通り頭のいい友達を作ったそうだ。
「そしたら、その友達の成績が落ちたそうだ」
順正はまた苦笑いを浮かべ、額に片手を当てながら、そっぽを向いた。
「反応が悪いな、順正」
「先生は、そうやって檀家の人に話すためのネタを集めているんですか」
「いや、子供たちがやってくるとな、そういう面白い話を見聞きするという、それを言いたかっただけだ」
順正は顔を上げて、わざとらしく笑ってみせた。
「ああ、面白かった」
「ほら。お前のような大人は、そうやって皮肉めいたことを言うだろう」
加藤は順正を指差し、困ったものだと笑った。
「子供はいい。純粋で」
順正は答える代わりにふふと鼻で笑った。
「お前、これからあかつきに寄るんだろう」
そう訊かれると、順正は前髪をかき上げて、眉をひそめた。
「最近、あそこは人の出入りが激しい」
わずらわしい所は嫌いだ。
「いいことだ。あかつきは今、活気があるみたいじゃないか」
加藤は順正の顔を覗き込んで、明るく笑ってみせた。
「スタッフも増えたようで、私はもう要なしだよ」
そう言う加藤の顔をちらりと見たが、加藤はむしろ、嬉しそうな顔をしている。一方、順正は真顔に戻って、少し前に、美津子が話していたことを思い出した。
「…ミツは、福祉関係の仕事をしたいと言っていました」
「福祉関係…?」
加藤は笑いを収めて順正のほうを向き、オウム返しに言った。
「聞いてませんか?」
「いや…」
順正は話していいものか、一瞬考えた。ここまで匂わせてしまえば、話さないという選択肢はないであろうが。それに、美津子の踏ん切りがつかない理由の一つが、加藤への配慮であることを考えると、むしろ伝えておいたほうが、後々事がスムーズに運ぶようにも思える。加藤に秘密にせよと言われているわけでもなかった。
順正は、美津子と話したことをかいつまんで、加藤に伝えた。
古い友人と会い、数年来考えていたことが、より強い希望となりつつあるということ。具体的には、自分の労力と時間を、重度の障がいがある子供たちと、その家族に対して使っていきたい、という希望だ。しかし、あかつきを残すことは諦めていない。その理由の一つに、加藤から受けた恩恵をぞんざいにしたくないという思いがある…ということは、伏せておいた。
─なぜそれを気にする。
順正には分からない。加藤がそんなことを気にするはずがないのに。案の定、加藤はそれを聞いても、みじんも不服そうな顔をしないではないか。むしろ、どこか納得がいったような表情をしている。
「そうか…」
加藤は唇を結んで、口元に微笑をたたえると、しきりに小さく頷いた。
「本道に出たか」
「…」
「…あとは、車を走らせるだけだな」
その話を聞いた今となっては、あかつきに活気が出て来たのは、本当に美津子がその思いを強めたということだと納得がいった。後を引き継ぐスタッフたちを、焚きつけているのだろう。いや、むしろもうすでに、美津子は第一線から退いているのかもしれない。
加藤はふと、このベンチに座っていた、二人の女性のことを思い出した。あれはちょうど、一年前のことだ。
二人して、暑さにのぼせそうな状態で、汗をかきつつ、ここに座っていた。そのうちの一人が、呪文を唱えるようにガイド付き瞑想をし、もう一人はそれを聞いていた。決して仲が良さそうには見えなかったし、性格もまったく違っているように思えた二人。でも、お互いになぜか引き合っているような、そんな感じがした。
二人の姿は、妙に印象的だったので、鮮明に記憶に残っている。
「一年前、杏奈と、見知らぬ若い女性が、二人でこの寺にやってきた」
順正は視線だけ加藤に向けた。一瞬、誰の話を始めたのかと訝しんだが、美津子の弟子の名前だと思い出して、あかつきの話題の続きなのだと理解する。
加藤は、自分が何を思い浮かべているか、ありのままを伝えた。
「その女性は、地蔵尊像を買っていたな」
「あかつきの客ですか」
「分からん」
加藤は首を傾げた。
「…その後、二人はここに座っていたんだよ。私は、そこの階段から、少しその様子を見守っていた。何をしているのかと思ったら、杏奈が瞑想のガイドをしていた」
「瞑想?」
突飛なことをするものだ。人が行き交う寺の炉端で、瞑想をするとは。
「ああ。ガイドの付いた瞑想だ」
ガイド付き瞑想の言葉自体を生み出したのは、美津子である。しかし、杏奈は美津子の力を借りて、その時、彼女に対し、何かをしようとしたのだ。
「時間を止めようとしているような…」
順正は、聞いたことのある言葉だと思った。
─誰かの苦しい時間を止めたい、と…。
順正の脳裏には、菜の花と美津子の横顔が、浮かび上がってきた。
「今、第一線に立っているのはあの子だな。あの時、そこはかとない気を感じたよ」
あの頃の杏奈は、普段は気が抜けている様子だったのに、ガイドをする時の様子はそうではなかった。
加藤は口を閉じると、順正の方を向いて、二ッと笑った。
「あの子に会ったことがあるだろう」
「はい」
順正はすんなり答えた。格別のオーラをもっている人に見えなかったが。しかし、会う度に違う印象を見せられる気もする。
「…ミツが、ずい分と大切にしている子だ。くれぐれも、失礼のないようにな」
そんな念を押されるとは、自分はいったい、どういう人間だと思われているのだろう。
「せっかくできた愛弟子なんだから」
「はあ…」
順正にしては釈然としない返事をしたのは、失礼…というならば、最初に会った時にはすでに、しでかしていた気がしたからだ。
「順正」
数か月前のことを思い出していた順正の意識は、加藤に呼ばれてまた今に戻ってきた。
「お前は、少しスピードを落とせ」
視線を加藤に向けたが、順正は口を閉ざしたまま。その言葉の意味を咀嚼する。
「本道をまっすぐ進むのもいい。けれど、あまりにスピードを出しすぎると、良いものに出会っても気づけない」
「…」
「たまには寄り道をしろ。そうすると、人生に楽しみが増える」
これは、あれなのだろうか。たまに実家に帰ってきた両親に、ところでプライベートはどうかねと聞かれる、あれなのでは。
順正は急に帰りたくなる。
「…悪かったですね、楽しくなさそうで」
「…そういうわけじゃない。まあなんというか…」
加藤はごにょごにょと何か言っていたが、やがてすっと立ち上がった。
「今更だが、うちに寄ってくか?」
屋外では、暑くて長話もできない。
順正はかぶりを振った。しかし、加藤は思うところがあって、順正にそこで待つように言い、足早に本殿の裏の自宅へ足を進めた。体を動かしていると、様々な想念が浮かび、じっと考えている時には思い付きもしなかったことを思いつく。加藤は思考を整理しながら、庭や花壇に咲く花々を見つめた。
順正は屋根付き休憩所の柱に背中を預け、眼下に広がる社寺林や、遠くの空に、視線を這わせていた。
─寄り道しながら走り切れる自信がない。
遠くの景色を、見るともなく眺めながら、順正は心の中で、先ほどの加藤の言葉に対する、返事のようなものを考えた。
─一本道を走っていたい。寄り道すると、車が壊れそうな気がする。
壊れても、新しい車はもらえない。
そうだ。車はもらえないのだ。
─愛別離苦…
やがて、サッサッと、草履が地面を蹴る音を背後に聞き、順正は後ろを振り返った。意外なものをもっている加藤を見て、ぽかんと口を開ける。
「あかつきに行くなら…と思ってな」
それは小ぶりなひまわりの花束だった。
「ミツのイメージとは違う気がしますが」
「飾るのに良さそうな花が、これしかなかった」
加藤は花束を順正に差し出した。
「…自分で持って行ったらどうです?」
「私がひまわりを渡すと言うのも…似合わん」
加藤は真顔だったが、今にも赤面しそうな様子であるのを、順正は察した。
「おれも同じです」
順正はそう言ったが、順正の今日の夏らしい服装に、ひまわりはよく馴染んでいると、加藤は思う。
「ミツは…」
ひまわりを左手にぶら下げて、踵を返していた順正は、加藤の柔らかな声が聞こえて、顔だけを後ろに向けた。
「自分が親に成り代わって子を愛すことで、自分の中の子供を愛したいのかもしれないな」
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