「まず赤文字が誤字」
「ニュアンスがよく分からないところがあったから修正して」
「食材の性質については意見が分かれることをどこかに明記したほうがいいんじゃない?」
「下線部分のところよく見直して」
「著者・編集・発行があかつきであることを最後のページに」
杏奈が作成・編纂したテキストはすでに二百ページにもなっている。
ようやく原稿が完成し、朝から美津子によって添削が行われているところであった。全部コピーし、美津子が赤ペンでチェックを入れていく。確認が終わったページから、手当たり次第に修正する。
今回のテキストの目的は、クライアントの継続的な学習のため。あかつきで経験したり学んだりしたことを、元の生活に戻っても続けられるように、アーユルヴェーダの知識を体系的に記したのだ。そのため、学びの順序が適切かどうか、全体がどう構成されているかも重要。添削は一気に行われた。その方が、細切れにやるよりも、統一性をもって全体を俯瞰できると判断したからだ。が、朝から長時間作業をしていると、十一時近くには、さすがに美津子の集中力も途切れてくる。
「…長いね」
「はい…」
黙々と作業を続け、応接間のテーブルの上はいつになく散らかっていた。
二人は手を止めて、白湯を飲んだ。空腹感とは別に食欲が湧いてくるのは、脳が糖分を欲しているからなのだろう。それなのに杏奈も美津子も、時々手にするのは白湯のみ。ブースターとなる糖分やカフェインもなく作業を続けていた二人には、さすがに休憩が必要だった。
「あかつき大作戦の特典にするのよね。このテキストは」
「ええ…」
これが特典…というには、もったいないと思えるくらいの情報量だ。
「あなたも、これだけ頑張って作ったものに、値段がつかないのは納得がいかないでしょう」
「はい…でも、今回はテキストをつけると言って集客しているので、仕方がありません」
美津子は頷いた。今回に関しては、そうだ。
「中身を知ったら、お金を出しても買いたいという人は、いると思う」
「そうだといいんですが」
それにしても、ぎっしりと文字が詰まった二百ページものテキスト…講座にすれば、かなりの金額にできるようなボリュームだと思う。本というのは、制作に相当な時間と労力を要する割に、良心的な値段で売られているのだなと、美津子はつくづく思った。
トリートメントマニュアルなどを作ったことはあったが、本という形で印刷するのは、今回が初めてだった。
文字から学べる者と、そうでない者がいる。識字率の高さとは関係なく、活字が頭に入らない、見た瞬間に意欲が消えていく…という人は多い。そういう人にとっては、アーユルヴェーダの伝統的な伝承方法である、「口伝え」のほうが合っているかもしれない。それでも、何かあった時に立ち返る場所として、明文化されているテキストがあれば重宝するだろう。
「綴じ代の部分の余白は、これでいいの?」
本文は全て、四角の枠に囲われている。それが、印刷可能範囲ということだろう。そのページが左右のどちらにくるのかによって、印刷可能範囲は微妙にずれる。
「校正が全部終わって、左右どっちになるか分かってから、もう一度枠を動かします」
まだページ数が増える可能性がある。レイアウトの調整は最後の最後だった。
「印刷会社に冊子の印刷を頼んだことはあるけれど、その時は最終的な調整は業者にお願いしたわ」
「あー…大した作業ではないので、自前でやります」
そのほうがコストを削減できるからだ。杏奈が自前でやると言う理由は、もちろん美津子にも分かっている。それでいて、杏奈は少し表情を曇らせた。
「料理教室時代から使っている印刷会社で、なんとなく要領は分かっているんですが、無銭綴じのオーダーは初めてで、イメージ通りにできるかどうかは、ちょっと不安はあります…」
「問題があれば、業者のほうから言ってくるんじゃないの?」
「はい。でも最初は、最小ロットで発注してもいいですか?」
一冊あたりのコストは上がるが、試し刷りを依頼するのと、あまりコスト的には変わらない。美津子は頷いた。
それにしても、教科書に書いてある内容は、想像以上に優れたものだった。杏奈は持っている知識を文章にする能力に非常に長けている。セラピストの修行と並行しながら、コツコツと作業をし続け、短期間で二百ページに及ぶ成果物を作った努力は、並大抵のものではない。
─こんなのを自前で作れるのは、この子くらいだわ。
発注に関しては不安げにしているが、なんとなくうまくやってくれそうな気もする。
「休みましょう」
紙上に視線を滑らせる杏奈に、美津子は労わるように声をかけた。
「あかつき大作戦までには、まだ時間があるし」
まだ、九月に入ったばかりだ。
「いや、九月十二日までには終わらせたいです」
「え…?」
ずい分具体的な日にちだ。
「十月までに仕上げればいいんじゃなかったの?」
「予約がうまく入らないので…スリーデイズライヴをすることにしました」
十一月の予約が成立しているのは、まだ三件である。検討しているという人はいるものの、予約までたどり着けるか定かでない。それを羽沼に相談したところ、効果的に告知をするために、無料のライヴを三日間連続でやることになった。今はネット上に広告が溢れかえっていて、ただ流すだけでは埋もれてしまう。ライヴのように、ちゃんと「視ている人がいる」という状態で情報を与えるのが、最も効果的だ。
「その時に、テキストを見せたいんです」
美津子はこめかみに手を当てた。
「そんなこと初耳だわ」
「昨日の夜決まりました」
もはや、苦笑いするしかない。
「この、作っている途中の資料を見せればいいんじゃない?」
「しっかりとした本であるということを見せたいんです」
杏奈は食い下がった。
「どのみち、テキストは仕上げなきゃならないのですから…」
「それはそうだけど…スリーデイズはいつやるの?」
「シルバーウィークの最終、金、土、日です」
三連休という日取りは、ベストとは言えなかった。しかし、もはやベストな日程を選んでいるほど余裕がなかったのだ。
印刷費を抑えるために、納期を最大に設定すると、原稿の入稿は余裕をもって十二日までに終わらせたい。
美津子はスリーデイズが何か、どのくらい効果が見込めるものなのか、よく分からない。しかしここでも、杏奈、それから羽沼を信用することにする。そもそも、美津子は校正を進める時間を取ることを渋っているのではなかった。杏奈の労働時間のことを気にしていたのだが、当の本人がやる気でいるのだから仕方がない。
「…分かった。でも、一旦休みましょう」
これ以上やると、クオリティに問題が出る。
ピンポーン
ちょうどその時、呼び鈴が鳴った。
「出てきます」
杏奈はすみやかに玄関まで移動した。扉を開けると、そこには久しぶりに会う人物が立っていた。
昼前。
美津子と加藤は、栗原神社の方角へ並んで歩いていた。話があるというので、杏奈に昼の準備を任せ、外へ出たのである。
「仕事を休むようになられたのですか…」
美津子は、加藤から一人のクライアントの受け入れを相談されたところだった。
加藤はある男から、その息子のことで相談をされていた。その男は善光寺の檀家であり、長男が名古屋市で教員をしている。長男は夏休みに足込町の河代地区にある実家に帰ってきた。しかし、お盆が過ぎても、名古屋市内に借りているアパートに帰らない。夏休み中で学生は通学してこないとはいえ、教員は事務仕事のために出勤しなければならないはずなのに、おかしいと思っていた。そして新学期を迎えても、出勤しようとする様子が見えない。
「泣いたり、突然怒って物を投げたり…かと思えば、改まって謝ったり、やけに愛想良く家のことを率先してやったりと、感情の浮き沈みが激しいようだ」
「躁鬱、ですか?」
加藤は、肯定するでも否定するでもなく、低くうなった。
「病院へ行けば、そういう診断になるのかもしれない」
けれど、まだ最近のことで、家族から病院に行けとも促せない。
鳥居の前で一礼をし、二人は西参道を進む。
九月は、秋を迎える季節。日が短くなり、天気と気温は日に日に変化する。自然界には空と風の要素が増え、乾性、動性、軽性が増し、ヴァータが増加する。六から七月にかけて蓄積したピッタの熱が、乾燥する八月から九月に表面化し、皮膚に発疹やかゆみが生じることがある。乾燥と巡りの悪さによって毒素が滞留し、蓄積すると、秋の花粉症やアレルギーの悪化につながる。そして、長い夏休みが終わることの憂鬱や、新学期・異動による生活の変化が控えていることによる精神的な不安定さは、ヴァータの悪化に拍車をかける。
「もともと気分が不安定だったのが、夏休みに実家に帰ってきて安心して…逆に、元の生活に戻れなくなったのかもしれませんね」
「そうかもな」
少しずつ、心が蝕まれていたのが、あるきっかけで、どんと落ちたのだろう。
「家でゴロゴロしているだけだし、そんな息子を見ていても心配になるばかりだからと…」
父親は、気晴らしに外出させようと善光寺に行くことを勧めたらしいのだが、
「写経や座禅は、嫌だと…」
「そんな方が、あかつきには行く…なんて仰るとは思えませんが」
「不眠症のきらいがあって、ヨガが眠りの質を向上させると聞いたと…あかつきのことを話したら、乗り気ではなさそうだが嫌とも言わなかったようだ」
「ヨガですか…」
その息子は、自分でも、このままじゃいけないと思っているのかもしれない。
「宿泊はしない。さっき物を投げると言ったが、それは家族の前でだけだから」
「もちろん、来たいというクライアントを拒みはしませんが」
「ありがたい。家も近いし、向こうが気に入れば、継続して通うようになるかもしれない」
外との繋がりを完全に遮断し、内にこもってしまう前に、どんなことでもいいから、社会的なつながりを持たせたい。そう彼の父親は言っていた。本人には、あからさまにそうとは言えないようだが…
「分かりました。インストラクターに相談しておきます。あかつきで他に受けたい施術があれば、極力対応いたします。ご縁さまからどういう施設なのか、ご説明いただけますか」
「分かった」
加藤は美津子を見下ろし、穏やかに微笑んだ。
およそ三十年もの付き合いだというのに、この男の微笑まれるたびに、未だに、包み込むような温かさを感じて心が和むのを、美津子は感じる。
「この間、ここで大変なことが起こったんですよ」
美津子は神門をくぐりながら、遭難事件のことを話した。
「順正から聞いてますか?」
「いや…」
あの男がそんなことをぺらぺら喋るわけがない。二人は花神殿に入ると、椅子に座って、その話を続けた。
「はははは。順正はとんでもない時に居合わせたな」
「はい。でも、すごい大雨の日だったので、あの子がいて助かったんです」
「まあ、そこで見過ごすようでは、産科医なんかやってないだろうな…」
加藤は、まだ夏真っ盛りの頃に、善光寺の地蔵堂の前で佇んでいた順正の姿を思い出した。加藤が美津子のために摘んだ、ひまわりの花を持って…
「うふふ。順正は慈善心があるというより…ぶち当たった壁には登らずにいられない。そういう性質なだけの気もしますが」
「ははは…」
加藤と美津子は笑い合った。
「あのう…お二人はもしかして、先生のことについて話されておるのでは…?」
「ああびっくりした」
美津子は肩をびくりと振るわせて、後ろを振り返った。花神殿の隅に、ぐう爺がしゃがんでいた。スマホで何かを見ていたようである。
「宮司さま。いつからそこに?」
「う。あんたらが入って来た時にはもうおったわ」
加藤は低い声でくくくと笑った。加藤は気づいていたのに、敢えて黙っていたのだ。
宮司はスマホを袂にしまうと、立ち上がって二人に近寄った。
「柴崎先生の動向をご存知なら、いつ、あかつきに来るのか、事前に知らせておいてくれませんか」
「宮司さま。順正がまだ付きまとってくると、迷惑してましたよ」
加藤はずけずけと歯に衣着せぬ物言いをした。
「はあ。わしの若返り薬…」
しかし、ぐう爺は聞いていない。
「じいちゃん、なにやってんの?」
一人の若い巫女が、花神殿をそっと覗いた。
「お昼ごはんだってー。なくなるよ」
「小夜、わかっとる。今行くわ」
ぐう爺はちょこっと二人を振り返ったが、何も言わず、巫女の後を追うように去って行った。
「ミツのところには、月に一度は来るのだろう?」
「ええ…でも最近は、あかつきにスタッフの出入りが多いので、煙たがってます」
「煙たがっている…と、言って、どちらかといえば、順正のほうがよそ者だろうが」
加藤は笑った。
「あかつきは賑わっているんだな」
「ええ。スタッフが、この間また一人増えました」
「なんと。すごいじゃないか。鞍馬くんはうまくやっているか」
「ええ…今回のクライアントのことも、彼と相談しなければ」
加藤は薄い唇の端を引き上げて、何度も小さく頷いた。
「杏奈は元気か」
「元気どころじゃありません」
美津子は、ちょっと非難がましい声を出した。
「最近では、これやれあれやれと、私の方が押されております」
「はははは」
一年と数ヶ月前、この場所で、あかつきで働いてもらうかどうか見定めていた頃のことが嘘のようだ。
雇用主としては、どのような人物を雇うかは、悩ましいものである。従業員は、実に様々なことに対し、不満を抱くものだ。人間関係、仕事内容、給料、勤務環境…
しかし、杏奈は今のところ、あかつきの事業を自分の事業のように捉えて、精力的に仕事に励んでくれている。それでいて、他のスタッフを出し抜いて、自分だけが輝こうというような野心はない。住み込みであるからこその、掃除を中心とした雑用もこなすし、みんなが億劫に思うようなこと─SNSの発信や集客─も、率先してやっている。だからといって、無私の心で仕事をしているかというと、それも違うのだけれど。
「少し、やりすぎているのが気になります…」
張り詰めた糸ほど、少しの刺激で切れやすい。この間、順正にも釘を刺そうとしたが、結局、彼は美津子の計らいなど無視して、さっさと帰ってしまった。
「手綱を引いてばかりで、大変だな」
「他人事みたいに」
「ああ、他人事だ」
加藤はうそぶいて、また低くうなるように笑った。
「彼の件は、よろしく頼む」
「鬱になりかけ…だけど、鬱であることを自覚させたくない…ですか」
とある平日の昼前。美津子、沙羅、鞍馬の三人は、加藤が紹介したそのクライアント・山本涼介のためのヨガの指導案を考えるために、書斎に集合した。
「そう」
美津子は、鞍馬と沙羅と向かい合うソファに座り、彼の事情について、加藤から聞いているとおり説明をした。
「来週の月曜日に、最初のレッスンを受けたいって」
気持ちが乗れば、その後も通うかもしれない。
「鬱を自覚させたくない…って言っても、休職するには、医師の診断書がいるんじゃないですか?」
もうどこかの精神科に通い、病名を貰っているかもしれない。
「それでも、特定の疾患と自分自身を結び付けてもらいたくないの」
美津子はそう言った。ふう、と鞍馬はため息をついた。直美の時は、思いっきり鬱を軽減することを全面に押し出したヨガだったのだが、今度は、それを隠してやれと。
「お聞きした感じだと、その方は、自分の内側に閉じこもってしまっている状況なんでしょうか」
沙羅が質問をした。あまり閉塞感のあるポーズは行わず、開放的な気分を味わえるポーズの方が良いのだろうか。
「少なくともシークエンスの終わりの方は、そうしたほうがいいかもしれない」
と言ったが、実際にはまだ本人に会って、状態を確認したわけではないので、美津子にもなんとも言えない。
それでなくとも、この秋の時期というのは、夏の外側に向かう開放的な気分に対し、意識が内向きになる。
「もしかしたら自分の中でも何が起こっているのか分からず、混乱している可能性もある」
今まで忙しくし過ぎて、エネルギーが枯渇した結果、孤独を感じたり、注意力が散漫になったりしている可能性がある。
「山本さんは感情の浮き沈みが激しくなっていると自覚しておられる」
─躁鬱、か。
鞍馬は、以前ここで会ったクライアント、一花のことを思い出した。一見、若くて綺麗な、精神的な悩みとは無関係そうな女性。しかし、その一花も学生時代からメンタルをやられていて、躁鬱気味だったと言っていた。だが彼女は、ヨガと出会い、自分らしい生き方をする中で、明るさを取り戻していったと…
「うつになるって、どういうことですか?美津子さん」
沙羅は、横にいる鞍馬に顔を向けた。鞍馬にしては真面目な問いかけをしていると思った。
「さあ…経験したことのないことを説明するのは、難しいからね」
心の病は、体のそれ以上に、メカニズムが複雑であることが多い。
「鬱は、深い絶望感や無力感、これからの人生が決して良くなるものではないという感覚と定義付けされている」
ある人は、自分の夢や魂とのつながりをなくした時に生じると言う。
またある人は、自分の人生とうまく向き合えず、アンバランスが生じているというサインであり、そのアンバランスが脳や中枢神経系の化学物質を変化させると捉えている。
「長い時間をかけて、怒りや、癒されない感情が内側に留まり、傷を深くし、心理的にだけでなく身体的にも支障を来すようになった状態…と言う人もいる」
ストレスの多い生活によって、緊張や恐れの水面下にある感情を感じることができなくなり、内側で何が起こっているのかを認識できなくなる。
「感情にきちんと注意を向けていないと、身体が叫び出す」
いきなり泣き出したり、疲労感が抜けなかったり、パニックになったり…これらは、今どんなことが内側で生じているのか、身体が伝えようとした結果なのである。
「感情に目を向けるということは、自分の人生としっかり向き合う、ということだ」
だから本当は、すぐにこれらの感情を無理やり押し込めたり、薬で治療したりしないほうが良い。しばらくそれらの感情に寄り添い、耳を傾ける。感情が沸き起こり、そして通り抜けていくのに任せるのだ。
「定期的なヨガの練習も、体と感情に向き合うために役に立つわ」
様々な方向に身体を動かすことは、生理的にも感情的にも、一定の効果をもたらす。
「音楽があったほうがいいでしょうか」
思案顔で沙羅が訊いた。
「初めての場所は緊張しますし、不安が強い時は、穏やかな音楽をかけたほうが、私は集中しやすいと感じるので」
美津子は頷いた。
「初回は、僕と沙羅さん、どっちが担当します?」
鞍馬にそう訊かれると、美津子は二人を交互に見た。
「さあ…どうしましょう。判断基準が少なくてね」
彼と会ったことがないのだから、無理もない。
「いっそ、質問票を書いてもらったらどうです?」
クライアントに書いてもらう、健康に関する質問票のことだ。
美津子は首を振った。
「あれは、ヨガのレッスンをちょっと受けてみたいという人に対しては、書くことが多すぎる」
出鼻をくじくことにもなりかねない。
「もっとも、自分から望んでというより、半分家族に背中を押されて、外に出て行くような段階では、癒しが進まないかもしれないな」
何よりも、自分が前に進む必要性を感じること…それが大事なのだ。もちろん、それまでの間、彼が自分の感情と人生に向き合えるよう、サポートする人や環境は必要だが。
「二人はどう?」
美津子は、逆に二人に問う。
ヨガのレッスンをするだけとはいえ、その間に、実にいろいろなことが読み取れるはずだ。たとえばクライアントの表情、話し方、目線、エネルギー。体が硬いのか、どこか痛いところがあるのか、どんな動きが心地よく、どんな動きが不快なのか。
彼が言わなくても、書いて示さなくても、読み取れることはいくらでもある。インストラクターがそこに意識を向ければ、の話だが。
「このクライアントに寄添う気持ちがある人がやるのがいいと思うけれど、二人ともそういう気持ちはあるわね?」
あるわね?と美津子に訊かれて、二人とも否とは言えない。その気持ちさえあれば、美津子は二人のどちらが対応してもいいと思っていた。
「二人とも対応できる時間帯を教えて。男性がいいか女性がいいかも、それとなく聞いてもらうわ」
二人は頷いた。
「じゃあ、ヨガポーズ考えますか?」
鞍馬はようやく本題に移ろうと、メモ帳を広げた。しかし美津子はうっすら笑みを浮かべて、
「ああ、ポーズは、実際に担当する人が決めてもらえれば構わないわ」
「え?」
鞍馬も沙羅も、ちょっと驚いた顔をした。今日はヨガポーズを決めるのではなかったのか。
「二人とも、この間の事例で、鬱に対処するヨガのことを学んでいるから、細かく決める必要はないと思ってね」
なんなら、その場でクライアントを見てポーズを変更する応用力すら、二人にはあると思っている。
杏奈のアーユルヴェーダテキストもそうだが、美津子はスタッフに任せられる部分は、積極的に任せる。信用する、というスタンスを取っている。
「じゃあ今日は、僕わざわざここに来なくても、ラインのやり取りくらいでよかったんじゃないです?」
鞍馬はがくっと肩を落とした。
「そんなことないわ」
美津子は断言する。
「来てくれたからこそ、話す予定になかった、けれど重要なことを話せた」
「そうかもしれないですけど…」
「あれですね、辞書を引くと、自分が調べたい言葉だけじゃなくて、他の言葉も覚えられるっていう…」
「そうそう。うまいこと言うわね」
鞍馬は、はぁ…とため息を吐いた。美津子のおおらかさと、沙羅のポジティヴさには呆れるばかりだった。
山本の初回レッスンの担当は、鞍馬に決まった。
いつもより遅い時間…午前十時半前に出勤すると、書斎には杏奈と空楽がいた。
「おはようございます」
二人は口々に、鞍馬に挨拶をした。鞍馬はウィンドブレーカーを脱ぎながら、二人に挨拶を返す。
「何やってるんですか?」
「カウンセリングの練習を…」
そういえば、空楽があかつきに雇われ、セラピストの研修を受けるようになったと、この間沙羅が話していた。
「頑張ってくださいね」
「はーい」
鞍馬も空楽も、声に気持ちがこもっておらず、棒読みである。杏奈はバインダーに視線を向けながら苦笑いした。
「山本さんはまだ来てない?」
「はい」
「遅刻しそうだな…」
鞍馬はそう呟いた。山本は感情が不安定で、家に引きこもりがちになった。おまけに不眠症のきらいがあるということは、朝は弱いに違いない。
「感情を安定させて、不眠を改善して、朝早く起きられるようにするアーユルヴェーダの薬ないんですか?」
「ええ?」
鞍馬は杏奈に八つ当たりした。
通常、ヨガレッスンは早朝か夕方に行うので、鞍馬がこんな時間にあかつきに来るのは珍しいことだ。それとて、山本の要望に合わせたこと。
ふぅ…と鞍馬はため息を吐いた。
鬱になるような状況に身を置いていた山本は、気の毒だと思う。けれども、暇でもないのに、そのクライアントの都合や気分でこっちが影響されるのは、正直迷惑だ。
山本は十分ほど遅れてあかつきに到着した。車で来たらしく、そのまますぐにヨガができるような服装─ジャージとティーシャツ─をしていた。歳は杏奈と同じ、二十八歳。肌は浅黒い。髪は長すぎなかったが、前髪だけが長く、眉の下までかかっている。
─ん?
鞍馬は山本を居間へ案内しながら、つんと鼻を突くにおいに、違和感を覚えた。
今日は同席するスタッフはいない。杏奈も空楽も、トリートメントの練習をするために、二階へ上がってしまった。
「ヨガは初めてですか?」
「はい。たぶん始めてです」
少し掠れた声。前髪の下のくりっとした目は、鞍馬が練習前の説明をしている間、所在なげにきょろきょろよく動いていた。下瞼は少し腫れ、他の部位よりも皮膚の色が暗く見える。身長は百七十センチ代前半のように思われた。やや猫背で、ストレートネック。
「最初は、このボルスターやブロック、ブランケットなども使って、体を意識的に休ませるリストラクティヴのポーズから始めます」
鞍馬は補助道具を持ち上げて示しながら、やり方を説明した。リストラクティブヨガのポーズは、現在に意識を留めるため、身体と感情の声に耳を傾けるには最適である。
先日、直美に指導したのと同じ、あお向けの合せきのポーズ(スプタバッダコーナーサナ)から始める。補助道具を使って、完全に体をサポートした仰向けのポーズだ。
ヨガは、身体との接し方が感情に深い影響を与えることを教える。
目を閉じてポーズを取っている山本の様子を、鞍馬は観察した。慣れないポーズをして心地が悪いのか、時々もぞもぞと身体を動かしている。
「ポーズの間中、雑念や眠気、他の感情が沸き起こったとしても、気にしないでください」
鞍馬は自分の気配を感じさせないよう、動きも声掛けも最小限に留めたが、ポーズを終わらせる直前に、そう声かけをした。
開け放った窓からは、まだ幾分熱気をはらんだ、しかし心地よい九月の風が吹いている。
「沸き起こったことを認識して、そして、ただただ手放していきましょう」
それらの感情は、長いこと表面に出られる時を待っていたのだから。
補助道具の出番は最初だけ。次に、四つん這いの姿勢で、ウォーミングアップに移る。
山本は体が硬かった。ヨガが初めてという男性には、珍しいことではないが…
キャットアンドカウの時、マットについている指が、マットをグリップしようとしていた。その手は細長く、関節がでこぼこしており、爪はやや赤みがかっていた。
「関節は曲げずに、伸ばして、指の腹、手の平全体でマットを押しましょう」
鞍馬は山本に近づいて片膝つく姿勢になり、自分の手のひらを傍について、手本を見せた。
「…」
やはり、独特の甘いにおいがする。
─やれやれ。
鞍馬は、外面的には山本に優しく声をかけるけれど、心の中では毒づいていた。このにおいがなんであるか、感づいたからだった。
─メンタルを病んでいるのかなんだか知らないが、自己統制力がなさすぎるよ。
どうして自分はこんな男を相手に、マンツーマンレッスンなんかしているのだろう。
─キッチャリークレンズ中のオンラインヨガの方が、良かったな。
と、鞍馬は思う。見ている者が多くて、あかつきの連中からはありがたがられて、その様子がSNSを通して広く拡散された。
だが、今はこのヨガを見ている者はおらず、山本はヨガをやらされているように見える。少なくとも、ありがたがられているようには思えなかった。
ウォーミングアップが終わると、立ちポーズ。立位のポーズは、気分を引き上げ、強く、有能になったように感じさせてくれる。文字通り、自分の足で立つということを思い出させてくれるのだ。
山本は、足指の関節も大きく、ごつごつしていた。指自体は細いから、それが余計に目立つ。そしてやっぱり、マットをグリップしている。左脚が内股で、小指の付け根からかかとにかけて、体重をのせて立っている。
「壁を背にして立ちましょう」
これでは正しくポーズを取れない。
─綺麗なポーズは、正しいポーズ。
これは鞍馬のヨガにおける座右の銘。
まずは正しい姿勢で立つことを教えなければならない。尊厳を持って、背筋を伸ばして立ち、胸を開き、自分の足で立つことは、
─私は地に足が着いて、自信をもち、周りの環境と調和している。
それを世界に、そして自分自身の心に知らせることだ。
「しんどいですか?」
その後の立位のポーズで、山本の身体が緊張する度に、鞍馬は無理をしないよう声をかけた。
「痛いな、緊張してるな、と思う部位があったら、そこに呼吸を送ってください」
自分の内側を深く見つめることは、どこに痛みがあり、どこに緊張があるのかを発見する機会。そこに呼吸という贈り物を送ると、緊張や痛みを取り除きやすくなる。
最後のポーズ、屍のポーズ(シャバーサナ)も、プロップスを使った。体を補助した状態で、休息状態、完全なるリラックス状態へと導く。
鞍馬は、レッスンの初めよりも、山本の身体から力が抜け、リラックスできているのを確認した。
「アーユルヴェーダではきのこは避けられている?」
小須賀はお勝手口から入ってくると、スマホを見ながら、画面に映っているのであろう、何かの文章をいきなり読み上げ始めた。
「よくあるご質問。アーユルヴェーダではきのこを食べないと聞きました。本当ですか?なぜですか?」
そう言うと、小須賀は茶化すようにふふっと笑う。
「こんなご質問よくあるわけないじゃん」
「小須賀さん、何見てるんですか?」
ポルサンボルを仕込んでいた空楽は、顔を上げた。今日は隔週に一度、足込温泉へ弁当を納品する日。小須賀、杏奈、空楽の三人で調理をしていた。
「杏奈が自分の教室のホームページに、昔書いてた記事」
弁当のおかずの一つ、きのこのテルダーラを作っていた杏奈は、声もなく衝撃を受ける。
─今、それ言う?
「こんなんやらせじゃん。アーユルヴェーダではきのこを食べないと聞きました。どこで誰が仕入れてくるんだよ。そんな話」
「えー?本当ですか?なぜですか?」
空楽の声が背中にあたる。
「知りたいです~杏奈さん」
杏奈は苦笑いを浮かべるが、二人からは見えない。
「それは…後でその記事を読んでください。稚拙な文章ですけれど」
「アーユルヴェーダ、きのこ、で検索したら引っかかった」
稚拙な文章という割に、SEOで上位に上がっている。
杏奈のブログによれば、アーユルヴェーダでは、暗く、じめじめとしたところで育つきのこは、タマス的な性質があるとされることがある。昔は毒キノコとの判別が難しく、きのこ全般を食べるなという啓蒙的な要素もあったのかもしれない。一方で、今の時期(九月中旬)は、色の濃い食べ物、特に土色のきのこを食べると、不安を取り除き、神経系を落ち着かせると言われている。きのこは土の要素を増し、グラウンディングを促すのだ。そのブログは、きのこを食べないことを推奨しているのではなく、いろいろな情報に惑わされることなく自分の感じ方を大事にし、選択せよと伝えるものだ。
「はい、きのこのテルダーラできました」
「うわー。あと三十分で仕上げだ~。よゆー」
十時半。足込温泉への納品時間は十一時。まったく余裕ではないのだが。こういう茶番が繰り広げられるところが、空楽は好きだった。
怒涛の弁当詰めが終わると、小須賀が納品に行った。そして彼が帰ってくるのと、鞍馬が首をコキコキ鳴らしながらデシャップ前まで入って来るのとが、ほとんど同じタイミングだった。
「あー、疲れた」
この日、鞍馬は山本と二回目のレッスンをしていた。今日もやはり、山本は少し遅れて来た。
「お、いいね。鞍馬も手伝ってよ」
片付けを進めながら、小須賀が言った。鞍馬は解せないという顔で、
「何言ってるんですか。僕は今一仕事終わったところなんですよ」
労えと言わんばかりの鞍馬に、
「こっちはまだ仕事終わってないんだよ」
小須賀が吠えた。
「鞍馬さん」
ストリングカーテンが揺れ、美津子もキッチンへ入って来た。あかつきの母屋はとても広いというのに、時々このように、キッチンにだけ異常に人が集中するのはどうしてだろう。
「どうでした?山本さんの様子は」
美津子は前回、ヨガレッスンの終わり頃に少し顔を出したが、今日は冒頭で少し話をした程度で、帰りの様子は見ていない。
「手ごたえは、イマイチです」
ヨガを心地良いと感じているようにはあまり見えない。言葉数が少ないし、何を考えているのか分からない。
「そう。でも、間を空けずに来てくれたのは、素晴らしいわ」
そもそも、運動をしている時は、ブルーな気分を引きずるのが難しいはず。第一に、身体のことに集中していると、問題をすっかり忘れる。脳内化学物質の値が急速に変化することにより、心がリラックスし、充足感を味わうことができる。どのタイプの心の問題であれ、運動することによって恩恵を得られるのだ。
「前回はそうでもなかったですが、今回はシャヴァーサナで意識が飛んでましたね」
軽く寝息を立てていた。
「そう。それはいいことだわ」
美津子は口元を綻ばせた。リラックスできているという証拠だ。
「意図せずして、ヨガニドラできたのね。まあ、本来のヨガニドラは寝ることが目的ではないけれど…」
「ええ。シャヴァーサナで寝てしまう人は、時々います」
「不安症や鬱を患っている人にとって、十分な睡眠を取ることは必須だけれど、それがうまくいかないこともあるから、ヨガのあとほんの少しでも休めるのはいいことだわ」
適切な休憩を取らないと、身体が自己治癒を行なう時間が取れず、免疫系が弱まる。
一日中寝てしまうのは問題だが、睡眠を取らないと自分の核心と分離し、ますます心のコントロールが効かなくなる。
「不眠症なんですよね、山本さん」
鍋底の汚れを拭き取りながら、杏奈が訊いた。
「どのくらい眠れないのか分かりませんが、腫れぼったい目をしてますね」
クマのようなものもできていた。
「かわいそうですね…今度いらっしゃったら、ゴツコラジュースをお渡ししましょうか」
杏奈が気の毒そうな顔をして言った。小須賀がため息を吐く。
─こいつちょっとズレてんだよな…
が、口には出して言わなかった。
「ムーンミルクの作り方も…」
しかし、杏奈は大真面目だった。一年ほど前、宇野に提案したミルクのレシピを、ずっと懐に持っている。
鞍馬はちょっと、ため息が出そうになった。そんなもので、彼の問題が解決するのなら、精神科医はこの世から消え失せる。
とはいえ、心を病んでいる者をどう扱ったら良いのか…正直、鞍馬は少し彼を持て余している。
「ムーンミルクって何ですか?」
謎のドリンク名に空楽はすかさず反応し、興味深そうな目を小須賀に向けた。
「知らないよ」
おれに聞くなとばかりに小須賀は質問を突き返す。
「あの人、タバコ吸ってますね」
鞍馬はキッチン内で繰り広げられる茶番にはお構いなしで、美津子に言った。
「甘いにおい…多分、電子タバコだと思います」
美津子はそれを聞くとわずかに、顔を曇らせた。
「そう…」
杏奈は手を止めて、二人の方へ視線を向けた。
「やっぱり、タバコもアーユルヴェーダ的には良くないんですか」
空楽はひそひそ声で小須賀に訊いた。
「だからおれに聞かないで」
タバコは、三つのドーシャすべてを悪化させる。タバコはピッタにとって熱すぎ、ランジャカピッタ(肝臓のピッタ)を悪化させ、血液を悪くする。アヴァランバカカパ(肺のカパ)を弱め、循環を悪化させる。さらに、ヴァータの可動性を増大させるため、問題が悪化しやすくなり、中毒に陥りやすくなる。
「タバコはあらゆる病気を引き起こす。うつ病や不安障害のリスクを高める」
山本には、まったく勧められない。
「あの方はまだ若い。タバコはシュクラダートゥにも影響を与える。精子の質を低下させ、流産や死産、赤ちゃんの病気などをひき起こすリスクもある」
山本はまだ独身。すぐに何か問題があるというわけではないだろうけれども、長期的な目線で見ても、早いうちにやめた方が良い。
「でも、まだ私たちはそこに言及する段階にいないわね」
「ええ」
鞍馬も、別にやめろと説教するつもりは毛頭なかった。
「タバコをやめさせるには、どうしたらいいんですか?」
空楽が、素朴な質問をした。
「そうねぇ…」
美津子は少し首を傾げて、
「まず、問題があることを認識することかしら」
そう言うと、洗い物をしている小須賀を流し見た。
「小須賀さんは、どう思う?」
問われた小須賀は、顔を上げずに苦笑いを浮かべた。この中でタバコを吸っているのは、小須賀だけだった。
「僕は当てにならないですよ。止めようと思ったことないですもん」
タバコを吸っているからといって、身体の不調を感じたことはなかった。
「最初のステップから破綻しています」
臆面もなくそう告げると、小須賀はきゅっと蛇口を締め、タオルで手を拭きながら、美津子を見た。
「止めるには、止める目的が必要だと思いますけどね、僕には目的がないんですよ。だって、吸ってる時の方が快適だから」
美津子は諦めたような顔をした。他の者も、少し白けた表情をして、杏奈と空楽はいそいそと自分の作業に戻った。
「僕に言わせると、最初にやるべきことは、ストレスやプレッシャーから解放されることですよ」
珍しく、まともなことを言っている。が、続く言葉が出て来ず、小須賀は両手を広げた。
「解き放とう?みんな」
─なにを…?
杏奈も空楽も、鞍馬も、口を挟めない。美津子は両手を両肘に当て、苦笑いを浮かべた。
「本当に、小須賀さんに話すと、悩んでいるのも、その…」
「あ、馬鹿らしくなると思いましたね」
小須賀は後を引き取った。
美津子は首を振ったが、顔を隠すように頭を垂れた。
「いえ…彼にも小須賀さんのようなマインドがあればと思っただけです」
「僕のマインドってどういうマインドっすか」
「僕、疲れました」
鞍馬は、小須賀の話を切るようにして、遠い目をした。
「お弁当の残りがありますけど、食べていきますか?」
杏奈に勧められると、鞍馬は少し迷っているような顔をしたが、首を振った。
「鞍馬さんって、ヨガニドラを受けたことありますか?」
杏奈は少し残念そうな顔をしつつ、別の質問をした。
「生徒としてですか?」
「ええと、養成を目的として…」
「そういう目的では受けたことないですね」
「そうですか…」
「どうしてです?」
鞍馬の声がちょっと尖っていたからか、杏奈はちょっとたじろいだ。
「ええと…今回みたいなクライアントの場合は、ヨガニドラもいいのかなって」
「僕の興味は、まだそういう落ち着いたヨガには向かなくって」
そう言うと鞍馬は、長いため息をついた。
鞍馬はウィンドブレーカーを羽織り、玄関で靴を履いた。
先ほどの杏奈の問い…遠回しに、ヨガニドラを習得しろと指示されたようで、少し癇に障る。
─自分はヨガの指導もできないくせに…
諭すような口ぶりも、気に入らない。
「ふう…」
「またため息ついてるー」
鞍馬は声のしたほうを振り返った。空楽がホールから玄関を覗いていた。汚れた黒いエプロンはもうつけていない。
「陰気くさいですね」
「ああ…山本さんの気をもらったかもしれないです」
鞍馬はかったるそうに言った。あまり関わったことのないタイプの生徒を相手にして、いつもより疲労が激しい。
「鞍馬さんて、杏奈さんのこと苦手ですよね」
「は?」
いきなり、空楽にそんなことを訊かれて、しかも今しがた感じていたことでもあったので、鞍馬は内心狼狽した。
「そんなことないよ」
空楽は鞍馬のほうに近づいて、
「わかるわかる。私も、最初嫌だったもん」
と、意外なことを言った。
「がむしゃらでさ。普通みんなが面倒だと思ってできないことも、しれっとこなしちゃって」
それを目の当たりにすると、自分がとことんダメな人間に思えたものだ。
「おれは別に苦手じゃないよ。尊敬するセンパイだ」
そう言った鞍馬の声には、まったく気持ちが入っていない。
「ヨガとアーユルヴェーダを信じる気持ちが純粋で、鞍馬さんの黒さが浮き彫りになるでしょ」
─聞いてねえな、こいつ。
空楽は空楽で、ちょっと扱いにくいと思う鞍馬であった。
空楽の指摘は認めたくないが、的外れでもない。
鞍馬はヨガを通して、自分を輝かせたい、人から承認されたいと思っている。杏奈にも、鞍馬と似た気持ちがないではないのだろうが、目立ちたい、この業界に自分の存在を知らしめたい、という意識は希薄に思える。そういう杏奈と話をしていると、自分の気持ちが邪念のように思えて嫌だった。それに、ヨガとアーユルヴェーダのもつ癒しの力を信じ切っているのが、盲目的というか、愚かしく見えるのである。
鞍馬はすっと立ち上がって、
「まあ、優等生が苦手なのは、分かりますよ」
空楽をフォローするつもりで言ったが、
「私は苦手じゃないよ」
と、すんなりと覆された。
「そっちがさっき嫌だったって言ったんじゃん」
人には苦手だと言わせておいて…鞍馬は腹を立てながら声を荒げた。
「前は苦手だったけど…なんていうか、今は、杏奈さんの不完全なところも分かるから」
「え?」
「ひょいひょい、余裕でものをこなしてるんじゃないっていうのが、見えてきたから」
あかつき大作戦の計画にしても、セラピストの仕事にしても、あかつきで仕事をするということ自体も…杏奈は決して、楽々とやってのけているわけではなかった。ただひたむきに、時間をかけ、努力をしているだけだ。誰よりも時間をかけ、誰にでもできるわけではないほどの努力を、途切れることなくしている…それだけなのだ。
「だから頑張れば私も、なんとかなるのかなーって思えたし…」
空楽は、ちょっとはずかしそうに、身体の後ろで手をもじもじさせた。
「なんとかなるか分からなくても、頑張ってるところが、すげえなって思ったから」
鞍馬はそういう空楽を、目を細めて、睨みつけるように見つめた。
「きれいごと言ってますよ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
鞍馬は今日何度目か、ため息をついた。
「あかつきにいると、みんな性格が似てくるのか」
「鞍馬さん、その黒さで汚染しないでね」
「汚染とかゆーなっ」
「あ、でも、ここにいると、すぐに浄化されちゃうかもね」
「おれをウイルスとか毒素みたいに言うなっ」
声を荒げながら、鞍馬は今度は心の中でため息をつき、新しい認識を持った。
─こいつも苦手だわ、おれ…
過度の運動やたくさんの予定を作るのを避け、静かに楽しみ、くつろぐ。それが、アーユルヴェーダの推奨する、秋の夜長の過ごし方だった。
しかし、この日の夜、杏奈は空楽とともに、羽沼の丸太小屋まで出かけた。
「いらっしゃい」
羽沼はいつも通りの笑顔で、二人を出迎えた。屋外のアウトドアスペースのベンチには、もう一人、人がいる。
「久しぶりだね」
月小学校で教員をしている安藤陽介は、ココアを片手に杏奈に言った。その隣に見慣れぬ女の子が立っているのに、少し戸惑った様子を見せながら。
杏奈と空楽が丸太小屋を訪れたのは、スリーデイズライヴの相談のためでもあったが、安藤が来ていると聞いたからだった。
「中学校教諭なのか。その人」
杏奈は、安藤に山本のことを話した。
「何区?」
「え?」
「名古屋市の教員なんでしょ。何区の学校なんだろうね」
「さあ…それは聞いてませんでした」
安藤曰く、赴任先の学校の雰囲気によっては、教師が精神疾患にかかることなど、日常茶飯事だろう、と。
「おれだって、いつ自分がメンタルやられるかと思ってるよ」
安藤のその言葉に、しかし、羽沼は笑った。
「本当だって。ちょっとやばいなと思ったら、すぐ休職するつもりで、これでも予防線張ってるんだ」
「学校の先生って大変なんですね~」
「そうなんだよ。分かってくれる?」
同情を求めるように、安藤は空楽の方を向いた。
「足込町の小学校でもそんなんだったら、都会の学校はもっと大変だろうね」
と、羽沼。
「いや、あのねぇ。こういう小規模なところは小規模なところで、その苦しさがあんのよ」
あくまで安藤は、同情を得たい。それに、別に誇張しているつもりはなく、それぞれの学校で、それぞれの難しさがある。
「今の時代、教師はもう尊敬されないし、親もビジネスライクだよ。ビジネスだから、なんかあったらクレーム入れてくんのさ」
保護者対応の難しさはさることながら、教員は子供がいる間は、息つく暇もないくらい忙しい。給食の間も、給食指導に、喧嘩の斡旋、宿題の丸付け、連絡帳の記入。業後の時間を授業準備に割けるなら、まだいい。しかし、実際はやれ研究授業の準備だとか、会議だとか、保護者からの連絡だとか、諸費用の計算だとか、行事の準備だとか…結局、一番手をかけないといけないところの授業準備ができず、家に持ち帰ることもしばしば。時間外労働が多い割に、残業代は出ない。
「納得感のない仕事が多すぎる」
安藤に言わせると、ストレス要因は挙げれば限がない。
杏奈は聞きながら、父・正博のことを思い出していた。教員を取り巻く環境は、今とは少し違うだろうが、そんな煩雑な仕事をしていたのか…
杏奈は幼い頃、正博から職場の愚痴をあまり聞いたことはなかった。
─山本さんは、あの時のお父さんのような状態なのだろうか。
影から少しその姿を覗いた程度で、まだ言葉を交わしていないから、杏奈には細かいことは分からなかった。
「この前も、同僚の知り合いの教員が休職したって聞いたよ」
その教員は、この春から新しい小学校に赴任した。結婚して間もない妻が、その頃身ごもったという。傍からみれば、幸せそうに聞こえるが…
「子供もできたからしっかり稼がなきゃとか、男だから頼られる存在でないといけないとか…そういう誰が決めたのか分からない価値観や重圧に、押しつぶされちゃったのかもしれない」
その人は、なんでも自分が背負い込むタイプらしい。基本的に労働時間が長いのと、そのプレッシャーで、修学旅行が終わった途端、ぷつんと切れてしまったそうだ。
「…」
羽沼も杏奈も空楽も、初めて聞くような教員の仕事の重い側面に、気が滅入ってしまった。
鈴虫や松虫の大合唱が、沈黙の間の気まずさを和らげる。
「ごめん。ちゃんと、いいところもある仕事なんだよ」
「お、おお…」
羽沼はコーヒーを啜りながら、安藤が一向に女を作ろうとしないのは、そういうこともあってなのかと訝った。確かに男は、育児や家事に非協力的だと、非難されることもある。その一方で、家族は自分が支えている、仕事をそう簡単には辞められないというプレッシャーは、どちらかというと男のほうにあると思えるのも確か。安藤は、自由が好きだ。家族ができることによって、自分の自由さが失われ、重圧を背負うのに抵抗があるのかもしれない。もっとも、出会いがないだけなのかもしれなかったが。
杏奈も空楽も、白湯をずずっと啜った。
「羽沼、お前は仕事どうなんだよ」
「ああ…ぼちぼちだよ」
安藤は曖昧な答えに笑った。
「お前がこういう仕事やり始めてから、いろんなところに需要が転がっているの、目につくようになっちゃったよ」
羽沼は、ホームページや動画の製作代行、ウェブマーケティングのコンサルなどを個人事業として始めている。
「奥三河のレジャー施設は、未だにホームページが整備されてない。宿泊施設ですら、電話じゃないと受付していないところもある」
「あー、確かにそうかもしれないですね」
空楽は安藤に共感した。
「うちも甥っ子を連れて、星見が丘に行こうとしたんですけどー。ネットで調べても全然詳細が分からなくて」
SNSもやっておらず、電話をしたら、電話予約のみ、パンフレットを郵送すると言われた。
「そういううちの店も、ホームページはありませんけど」
うちの店とは、空楽の姉夫婦が営む彩のことだ。それでも、翠が時々SNSに投稿をしているし、グルメ・レストラン予約サイトには一応登録している。
羽沼は苦笑いをして、
「確かに、僕らの目線で見れば、もっとウェブ周りをしっかりさせたほうがいいって思う施設もあるけど…運営する当人たちは、必要性を感じていないなって思うよ」
足込町で事業をしている人の多くは、デジタルコンテンツの有用性が分からない世代だ。
「そうだけど。だから若い世代が何も情報を拾えなくて、足込町にいい場所やうまい店があることが知られないままになっちゃうんだよ」
担い手がいなくなって、なくなってしまう仕事もある。
「確かに、マコモダケのことも、もっと発信すればいろんな人に知ってもらえるのかもしれないなぁ」
と、空楽は言った。マコモダケはそろそろ収穫の時期を迎える。道の駅で売っているが、地元の人にしかそれを手に取ってもらえていない。
「私のネットショップもブラッシュアップしてくださいよ」
空楽は自分で作ったアクセサリーを、ネットで売っている。
「え?でもどうせ、ハンドメイドマーケット的なアプリで売ってるんでしょ?」
プラットフォームは出来上がっているはずだ。
「そうですけどぉ…どうせってなんですか」
空楽は膨れた。
という具合に、羽沼の事業の需要はいろいろなところに転がっているのだ。
「もういいから。二人とも、次のスリーデイズの相談に来たんでしょ。本題に入ろうよ」
羽沼は杏奈の方を向いた。しかし杏奈は、なんだか沈んだ表情をしていて、仕事の話に切り替えようとしても、乗って来ない。
「杏奈さん?」
羽沼に声をかけられて、杏奈はやっと、目の焦点があった。安藤から話を聞けば聞くほど、杏奈は山本に、かつての正博を重ねてしまって、心ここにあらずになっていたのだ…
杏奈は通常、横になれば割とすぐに眠りにつけるのだが、その日はなかなか寝付けなかった。
門の鍵を閉めているし、窓を開ければ心地良い風が入って来るのは分かっているけれど、杏奈は窓を網戸にできない。順正に不用心すぎると言われてから、鍵を開けたままにするのが恐くなってしまったのである。
杏奈はくるりと寝返りを打った。
横になっているだけでも、身体は休まるということは、分かっている。が、眠りにつけないというのは、それだけでストレスに感じるものだ。
眠れないのは、妙に頭が回転してしまったからかもしれない。あの後羽沼から、スリーデイズインスタライヴについてのアドバイスを受けた。覚えているうちになるべく反映させようと、事務仕事をしていたら、頭が冴えてしまったのだ。作業は進めたものの、まだやり残していることは多く、気にかかっている。
あかつき大作戦の予約が未だに入らないことも、心配の種。
テキストを校了し、ようやく原稿の入稿も終わった。今は印刷をかけているところだが、その完成度も気になる。
杏奈は何も考えないようにしようと努めたが、難しかった。
このような仕事の心配に加え、家族を守るために、「失敗できない」という責任感を抱えるのは、いかほどの重圧か。そう思う一方、独身であればそれはそれで、別に自分一人だからいいというわけではなく、年齢を重ねることの恐怖、未来への不安がある。
結局、生きている限り、眠りを妨げるような悩みは尽きないのだろう。
空気が乾燥してくる秋は、ヴァータの乱れが起こりやすい。ヴァータが乱れると、関節の硬さ、肌の乾燥やひび割れなどといった兆候が現れたり、寂しさや空虚感を抱いたりしやすくなる。そう感じたら、オイルマッサージをするのがいい。
杏奈は研修でモデルになることが多く、たびたびオイルマッサージを受けている。それでも、寝る直前にいろいろと考え事をしていたら、またヴァータが増えてしまう。どんなに外部から良いものを取り入れても、心をざわつかせる考え事をしてしまっている以上、ヴァータは完全には鎮まらないらしい。
心につながる経路は、サンスクリット語で、マノヴァハ・ スロータという。心は何によっても運ばれることはできない。心は一体性・微細性という性質がある。そのために、全てに浸透する。心は二重の器官である。感覚対象の認識を担当し、その行為を遂行するための行動器官とも関連している。感覚のインプット、行動のアウトプットはすべて心を通過するのだ。
マノヴァハスロータは、感覚と行動情報、思考や感情を運ぶチャンネルと考えられている。このチャンネルの妨害は、多くの精神障害、悪夢、頭部の損傷、幻覚、うつ病、物忘れ、協調性の低下などの悪化をもたらす。
この悪化が起きる原因は、以下の通り、多岐にわたる。
・心の性質であるマハグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の乱れ
・ドーシャの悪化を引き起こす食べ物や活動
・特定の感情(怒り、貪欲、欲望、恐怖、嫉妬など)が過度に表れること
・感情の抑制
・過度の刺激
・薬物
マノヴァハスロータを健全に保つには、マハグナ、ドーシャを整えるとともに、感情を手放すためのあらゆる実践が必要だ。たとえば瞑想、ヨガ、ジャーナリング、日記、友人と話すといったこと。
─心の扱い方は、難しい…
うつ病のクライアントを受け入れる中で、心のバランスを取ることがいかに重要か、いかに他に影響を及ぼすか、遠巻きに見させられている気がした。
杏奈は起き上がって、カーテンを開けた。ちょうど昨日が新月だった。
鈴虫や松虫の声があるおかげで、幾分かは慰められるが、それでも、やはり月明かりのない真っ暗な夜は、寂しい。不安な心を抱えて、一人で過ごす夜とは、なんと心細いものか。
─お父さんも、こんな夜を過ごしていたのか…
そして、父を支え、子供を支えてきた母も、こんな風に不安で眠れないことがあったのだろうか。
眠れない夜がいくつもあるということは、つらいものだ。夜を安らかに過ごせるよう、心の安寧を得られたら…
─ヨガニドラ、か。
杏奈はカーテンを閉めて、再び横になると、昔一度だけ受けたことのある、眠りのヨガを思い出した。
鞍馬も沙羅も、ヨガニドラを習得していないという。
─こうなったら私が…
杏奈は新たな課題を認識するうちに、うとうととまどろんで、やがて眠りについた。
「美津子さん」
翌日、杏奈は朝食の席で、美津子にそれとなく訊いた。
「ヨガニドラは、誰から教わるのが一番いいでしょう」
美津子は箸を止め、視線を杏奈に向けた。
「なんで?」
美津子の声は、杏奈の予想に反して、鋭かった。
「ヨガニドラを習得できれば、山本さんや、今後のクライアントに活かせると思って…」
杏奈は肩をすくめた。美津子が厳しい表情をしているように見えるので、心なしか動揺した。学んできてくれるかと、喜んでさえくれるかと思っていたのに…
「自分が学ぶつもり?」
言い方まで、少し険しい。
「はい」
「だめよ」
美津子は間髪入れずに答えた。杏奈はもう、そのつもりになっていたので、ひどく気を削がれた心地がした。
「どうしてですか?」
一応、食い下がってみる。
「ヨガニドラができる人がいれば、今後のあかつきに…」
「今はだめ。あなたは、他にやることをいっぱい抱えているでしょう」
美津子は、悪意があって禁じているのではない。その点に関しては、杏奈の美津子への信頼は、揺るぎない。
「だいたい、あなたは今だって、少しもゆっくり休もうとしないじゃないの」
今日とて、杏奈は休日扱いだが、きっと何事か仕事を進めるのだろう。朝だってインスタのストーリーを作っていた。
「心が忙しく急いている時に、ヨガニドラの練習や指導は務まらないわよ」
「もちろん、すぐにではないです」
今はあかつき大作戦の準備でいっぱいいっぱいだ。それは杏奈も自覚している。だから、ここ一、二か月のうちに習得しようと思っていたわけではない。そもそも、思い立ってすぐ、ヨガニドラの養成講座が都合よく見つかるというものでもない。
「あかつき大作戦が終わった後、余裕がありそうなタイミングで、学んでもいいですか?」
美津子は、はぁとため息を吐いた。
─でも…
美津子は杏奈を見据えた。
もともと大人しく、おっとりした性格の子だ。感情を豊かに表現したり、場を盛り上げたりすることには長けていないが、その冷静さをもって静かに語りかけ、場を落ち着かせるのには、長けているように思えなくもない。
杏奈とヨガニドラの相性は、悪くなさそうだと、直感する。ヨガインストラクターの適正はないと思っていたが、ヨガのジャンルによっては、意外な才能が花開くかもしれなかった。
「…良い先生がいるかどうか、当たってみる」
美津子はそう返答をしたものの、本心は、先ほど言った通り。杏奈が今の時点でいろいろな勉強をすることに、手放しで賛成できない。仕事や行動のし過ぎ、頭を働かせ過ぎることは、ヴァータとピッタを乱し、マインドをラジャスに傾かせる。
しかし、自分がこのくらいの年齢の時どうだったかを振り返ると、
─止めても無駄…
そう思ってしまう。このくらいの年齢の子が、本気で何かをやろうと思ったら、止められるものではない。
「お願いします!」
杏奈は美津子が前向きな返事をすると、安心したような笑顔を浮かべた。
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