第89話「盗作事件」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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「あっ、瑠璃子さん」
 娘たちを迎えに行った沙羅は、入り口でママ友の姿を見かけて、思わず声をかけた。
 沙羅が娘たちを迎えに行くのは十六時半。いつもこの時間には、瑠璃子はまだ来ていなかった。だから二人が幼稚園で顔を合わせることは珍しい。
「今日は早く仕事を切り上げて来た」
「そうなんだ」
 二人そろって、子供たちを迎えに行く。
 この時間帯になると人数が少ないため、年少から年長の子供はねこ組へ、年少未満の子供たちはりす組へ集められる。
「ねえママ!まだあそびたい!」
「えー?」
 万里子にまとわりつかれて、瑠璃子は困ったように沙羅を見た。沙羅もまた、遊ぶ気満々の快を持て余していたので、七瀬も連れて五人で公園に向かう。
 民間学童保育に隣接した公園では、この時間でも学童の児童たちが遊んでいた。足込町の中でも大きな公園に入るので、小さな子供を連れた親の姿もちらほら見かける。
「広報誌は、来月のあたまに発行されるからね」
「本当?楽しみ」
 ちょうど一か月くらい前に、あかつきは町役場の広報担当から取材を受けていた。どんな記事が載り、どの写真が選ばれたのか、楽しみだ。
 子供たちは砂場でお山を作ったり、葉っぱを並べたりして遊んでいる。肌寒くなってきたというのに、薄手の長袖一枚で平気なようだ。
「あのあと、どう?予約入った?」
「うん。もうすっごく盛り上がってるの」
 沙羅はあかつきと、自分の近況をかいつまんで話した。あかつきではセラピストの役割がメインだったが、新しくコンサルをさせてもらえるようになったこと。年末年始の企画を考えてほしいと言われていること。仕事と育児との折り合いをつけるために、どのような工夫ができるか、模索し始めたこと。
「あのオーナーさん、もともと足込幼稚園の保育士さんだったんだ…」
「うん。だから、子供との関わり方について詳しいし…」
 母親である自分へも、何かと配慮してくれている。
「この前も、家での仕事の仕方について、ちょっと相談したんだ」
「沙羅さんの仕事って、仕事時間が決まっているようで決まってなさそうだもんね」
 瑠璃子は、足込温泉で忙しくパソコンやスマホに向かい合っていた杏奈のことを思い出した。
「うん。でも実は、あかつきの仕事だけじゃなくて、自分のサロンのことで時間が取られちゃって」
 美津子には、そのことは話さなかったが。
 家であかつきの仕事をすることもあるが、最近ではヨガサロン関係の事務作業もしている。
 沙羅は、あかつきでの活動範囲が広がって嬉しいけれど、自分のサロンを運営するという夢を持ち続けていた。あかつきとは違い、地元の人たちが集まる、憩いのスペースを作りたいのである。小さな子供たちや、その母親が集まれるような場所にしていきたい。
「今は子供たちのことを、ちゃんと見る時期なんだって、再認識したばかりなのに」
 少し時間が立つと、もう自分の夢が広がっている。
 沙羅は困ったような笑みを浮かべた。沙羅の葛藤は、瑠璃子にはよく分かる。だから、瑠璃子は沙羅を肯定してやりたい気持ちになった。
「沙羅さ~ん、瑠璃ちゃ~ん」
 沙羅と瑠璃子は公園の入り口に視線を向けた。
 祥子が二人に手を振っていた。大地、朝日も一緒である。
 大地と朝日は、砂場にいる女の子たちには連れ合わず、自分の遊びたい遊具に向かって走っていく。
 祥子は疲れた様子で、沙羅と瑠璃子が座っているベンチに腰掛けた。
「日が暮れたら帰るよー!」
 祥子は子供たちに向かってそう叫んだ。といっても、もうすぐ日が暮れそうである。三人は、その間のわずかな時間を使っておしゃべりをした。
「あ、そういえばうちの弟なんだけど…」
 祥子はこっそり、前原が結婚する旨を明かした。沙羅はぱっと笑顔になり、瑠璃子は少し戸惑った表情を見せた。
「え~、付き合ってたの?」
「結婚式はどこでやるの?」
 口々にそう訊かれたが、祥子自身も、詳しいことはまだ弟から聞き出せていなかった。
「だれがけっこんするの?」
 お山をぽんぽん叩きながら、親たちに視線を向けたのは、万里子だった。万里子は、同学年の快よりも幾分、ませた子供だった。
「ようすけ?」
「晃」
 万里子ははっと息を吐いて、そのまま何も言わず、元の砂遊びに興じる。子供の挙動は、よく分からない。
「陽介くんも、もうお年頃なんだけどねぇ」
 と、祥子はつぶやいた。瑠璃子、前原、安藤は幼馴染。前原と安藤は、長年、女の影を見ることがなかったが、前原に先を越されたと知ったら安藤は焦るだろうか。
「この前も、運動会で頑張ってましたね、安藤先生」
 月小学校で校区の運動会が開催されたのは、ついこの間の日曜日だった。
「はぬま、あしはやかったね」
 万里子がむくりと頭を起こしてそう言ったので、瑠璃子はどきりとした。万里子は遊びながら、親たちの会話をしっかり聞いているらしい。
─がんばれ!!
 あの日、地区別のリレーになぜか駆り出されて走っていた羽沼を、万里子は目ざとく見つけて、大声で応援していた。
─去年より、少しだけ知り合いが増えましたよ。
 後で声をかけに行ったら、羽沼は嬉しそうにそう言った。中学校の先生、商工会のメンバー、仕事で関わったことのある町民。
 周りから促されるままに、リレーに出場させられたと言っていた。お人好しだから、誰かから頼まれると、断れないらしい。
「誰かいい人いないのかな」
 屈託のない羽沼の笑顔を脳裏に浮かべていた瑠璃子は、祥子のその言葉で、我に返った。
「う、うん。今は仕事を新しく始めたところで、忙しいんじゃない?」
「え…?」
 祥子は、目を丸くして、瑠璃子を眺めた。
「陽介くん、違う仕事始めたの?」
「え…?」
 今度は瑠璃子が目を丸くした。
「…ああ、陽介の話?」
「うん…」
 瑠璃子と話がかみ合わないなんて珍しい。祥子は不思議そうな表情をした。
 瑠璃子が誰のことを思い浮かべていたか、沙羅はなんとなく分かったような気がした。

─晃が結婚するのか…
 家に着くと、万里子の幼稚園の持ち物を荷解きしながら、瑠璃子はぼんやりと考え事をした。
 昔、鮎太郎と一緒に土まみれになって遊んでいた幼馴染の一人。
─今からなんだな。
 結婚の準備、住む場所、家族設計。瑠璃子が何年も前に経験したことを、前原は、今から始めるのだ。
 そう思うと、瑠璃子は少し、寂しい気がした。
─あの頃に戻れたら…
 そんな風に思ってしまう。
 ピコン。
 ラインの通知があって、瑠璃子はスマホを取り出して見た。
─羽沼さん…
 さっと画面をスワイプしてラインを開くと、個別ではなく、グループのほうにラインが来ていた。ママ友三人と、羽沼、安藤の五人─先日の校区の運動会で、昼食を一緒に摂ったメンバーのラインである。動画が送られてきていた。
「ママー」
 洗濯機の前に佇む瑠璃子のほうへ、万里子が近寄った。
「なにみてんの?」
「ん、この前の運動会の時の動画だよ」
「みるー!」
 瑠璃子はしゃがんで、動画を再生した。
 自然体の子供たちの様子やその親の姿が、一つの動画に編集されている。瑠璃子と万里子が、一緒にお弁当を食べている様子も写っていた。
 万里子はスマホを引き寄せ、じいっと画面に食い入っている。
「おべんとう、おいしかったね」
「そうだね」
「まりこ、まりこダンスのときにさ、いっかいまちがえちゃった」
 万里子はそう言って、その時のダンスをその場で再現する。
「そんなことないよ。うまく踊れてたよ」
「うん。でもね、まちがえちゃったの」
 万里子はもう一度スマホを手に持って、
「もういっかいみていい?」
「いいよ」
 瑠璃子は動画を再生した。
 スマホを一緒に覗き込みながら、瑠璃子は自分の表情を見て、少しほっとした。
─なんだ。楽しそうにしてるじゃん。
 それはなんだか、温かい気持ちになる気づきだった。
 最近、瑠璃子は疲労感と葛藤を抱えることが多く、心底笑うことが減ったと感じていた。元夫・岡部とのやり取りでストレスを抱え、遭難事件以降は、沙羅や万里子に対する後ろめたさを感じていた。何より、自分の人生について、なぜ納得感が希薄なのかという問題に向き合わされ、葛藤している。だから疲労困憊した、やつれた顔になっているのではないかと心配だったのだ。
 でも、思いのほか、ちゃんと笑えていた。
「なに、万里子の服すっごい汚れとるじゃん」
 脱衣所でスマホを覗き込んでいる二人を見て、母・あおいが呆れた声を出した。
「あんた、先、万里子風呂入れたって」
「うん。そうだね」
 あおいに促されて、瑠璃子は夕飯の前に万里子と風呂に入ることにした。
「万里子」
「うん」
「今日幼稚園でどんな歌うたったの?」
「うーん…えっとねー」
「歌ってよ」
 一緒に湯船に入りながら、万里子と会話をする。
 万里子にお願いをすると、「どうしようかな~」と焦らすが、だいたい答えてくれる。万里子は保育園で習った歌を大声で歌ったが、瑠璃子にはなんの歌だか、さっぱり分からない。
「まりこね、きょうようちえんでこうえんいって、そこにひよこぐみのこたちもいたの。こうえんにしらないおじいさんがいたんだけど、おとこのこがね、そのおじいさんのことせんせいーってよんでこまらせてて、まりこ、おじいさんはせんせいじゃないよっておしえにいったの」
「ふうん。そうかあ」
「うん。だってさ、おじいさんちょっとこまってたんだよ。わらってたけど」
「それは、どうしたらいいか分からなかったんだろうね」
 万里子の話こそ、時々よく分からないことがある。けれど、万里子の話からイメージできる限り、情景を描きながら話を聞くよう、最近は努めている。そうすると、生返事じゃなく、ちゃんと会話ができる。
─女性性を育むって、どういうこと?
 足込温泉でそれを聞いた時、瑠璃子はそう尋ねた。自分の身体の右側に痛みが発生するのは、沙羅が傾倒するヨガやアーユルヴェーダの世界では、男性性が強すぎることを示している可能性があるらしい。
─自分の好きなことをしたり、助けを求めたりすることを許すこと、すべてを自分でやらなくても良いことに気づくこと。
 と、沙羅は言った。
 女性性とは、感性、愛情、優しさ、受容などに関わり、子育てにおいても、重要な要素だという。それを育むには、ナディショーダナという呼吸法もまた、有用なのだと言っていた。
「さ、もう出ようか」
「うん。ばあばー!!」
 万里子の身体をある程度拭くと、着替えはあおいに任せ、瑠璃子はもう一度湯船に浸かった。
 そこで沙羅に教えてもらった、ナディショーダナをやってみる。呼吸をしている間、ここ最近の出来事がおぼろげに、走馬灯のように蘇ってきた。
 万里子と両親との毎日の食事。
 怒涛の幼稚園への送り出し。
 後輩・井上へダメ出しをしている様子。
 女子四人で、足込温泉で食事をしている場面。
 少し紅葉が進んだ足込町の自然・通勤中の風景。
 心地よい、あたたかい風の吹く夜道。羽沼の後ろ姿が目の前にある。
─これは、何を意味するの?
 次々に浮かんでは消えていく様々なシーン。これらは何を意味しているのか、どう捉えればいいのか。
 この一見地味な作業の間に、実に様々な動きが頭の中で起こる。
 ゆっくり呼吸に意識を向けたことなどなかった瑠璃子は、それをどう扱えばいいのか分からず、困惑していた。

 美津子は応接間に置いたままになっていたスマホを見た。
 いつの間にか、ラインの通知がたくさんきている。

あかつき(9)
鞍馬 ─誰かあかつきにいます? 15:00 既読8
鞍馬 ─腕時計忘れちゃったみたいなんですけど 15:01 既読8
鞍馬 ─誰もいない? 15:02 既読8
空楽 ─今す 15:30 既読8
鞍馬 ─? 15:31 既読8
空楽 ─すみません音声入力 うまくいかなくて いま手がべとべとで 15:34 既読8
小須賀 ─どーいう状況!? 15:35 既読8
羽沼 ─落ち着け 15:36 既読8
空楽 ─エ術の練習です 15:38 既読8
小須賀 ─!?(スタンプ) 15:38 既読8
沙羅 ─施術の練習だと思います 15:40 既読8
鞍馬 ─あとで時計落ちてないか見てください 15:42 既読8
空楽 ─ラジャ(スタンプ) 15:47 既読8
空楽 ─ありました 16:05 既読8
鞍馬 ─よかった。次、レッスン入っているのいつでしたっけ? 16:10 既読8
鞍馬 ─おーい 16:13 既読8
空楽 ─杏奈さんに確認します。支度中なのでしばしお待ちを 16:14 既読8
空楽 ─永井さんとの会話に巻き込まれ中 16:20 既読8
小須賀 ─長そうだ 16:21 既読8
鞍馬 ─美津子さんでもいいんですけどー 16:21 既読8
空楽 ─PC前に帰還っ 16:36 既読8
空楽 ─次は25日、山本さんへの個人レッスン、だそうです 16:40 既読8
鞍馬 ─マジか 16:41 既読8
鞍馬 ─取りに行くの面倒です 16:41 既読8
鞍馬 ─誰か届けてくれません? 16:42 既読8
小須賀 ─はぁ?(スタンプ) 16:43 既読8
空楽 ─近々、あかつき大作戦の打合せに、全員集合してほしいとのこと~ 16:45 既読8
大鐘 ─私も? 16:48 既読8
沙羅 ─すみません、昼間だと助かります 16:50 既読8
空楽 ─言っておきます~ 16:51 既読8
小須賀 ─てか杏奈がラインすれば良くない? 16:52 既読8
空楽 ─PC前で思案中 16:53 既読7
空楽 ─ちなみに、私もう帰ります 16:53 既読7
大鐘 ─私も?送れてないのかしら 16:54 既読7
鞍馬 ─で、それいつ? 16:54 既読7
羽沼 ─みんな人のラインちゃんと読もうね 16:55 既読7

─なんだこの不毛な会話は。
 美津子は苦笑いをして、両手をテーブルの上についた。いつもの自分の席に座って事務作業をしている杏奈が顔を上げる。
「美津子さん、次の日曜、午前中に打合せでもいいですか?」
「ええ」
 
杏奈 ─二十二日十時からどうでしょうか?あかつき大作戦中の配置について相談したいのですが。日曜日ですみません。 17:00 既読6
鞍馬 ─催促で十一時にしか行けません 17:02 既読6
大鐘 ─私も? 17:05 既読6
小須賀 ─最速 17:08 既読6
空楽 ─ブーン(バイクにのっているクマさんのスタンプ) 17:08 既読6
沙羅 ─大鐘さんにはなんて返事したらいいですか? 17:09 既読6

「お昼ごはん、用意したほうがいいでしょうか」
 ラインの返信を見て、杏奈は美津子に訊いた。
「あなたが大変になるでしょう」
 それでなくとも、杏奈は疲弊している。四人の事前コンサルに臨み、その後の健康管理をするのは、杏奈にとって簡単なことではなかった。
「早めに終わるか、ここで食べたい人はお弁当持ってきてもらいなさい」
 かくして、日曜に全体ミーティングを行うこととなった(大鐘も含めて)。

 その日曜。スタッフ九人が、書斎にて、一堂に会した。
 あかつき大作戦中、それぞれが受け持つ業務は次のとおりである。

美津子 カウンセリング、トリートメント、全体管理
杏奈 カウンセリング、トリートメント、調理、料理教室
沙羅 カウンセリング、トリートメント
空楽 トリートメント、調理
永井 トリートメント
鞍馬 ヨガ
小須賀 調理
羽沼 自然体験
大鐘 清掃

「誰に何の施術をするかは、これで確定?」
 永井はセラピスト用のスケジュール表を見ながら、美津子に訊いた。
「まだ暫定的なスケジュールです」
 クライアントの実際の様子次第で、トリートメントの内容が変わることもある。
「永井さんができる施術であれば、積極的に担当してもらいますから」
 でないと、足込温泉の仕事を休んでもらっている分を、補えない。
「あら、私はいいわよ」
 永井はおっとりと言った。
「仕事がなくなったらなくなったで、家でのんびりするわ」
「どこでヨガするんです?」
 鞍馬は資料から顔を上げて、杏奈に訊いた。居間に入れるのは、せいぜいクライアント二人だ。三人や四人が集まる日は、どうするのか。
「これから栗原神社の座敷を使わせていただけないか、相談するところです」
 距離的にも、神社というスポット的にも、それが一番良い。
「もし、それができなければ、善光寺に掛け合ってみます」
 そう言いながら、杏奈は美津子に視線を向けた。
「善光寺だとありがたいな」
 鞍馬の家からは、あかつきに行くよりも近い。
「でもその場合は、移動時間が発生するので、朝じゃなくて日中になるかもしれないです」
「日によっては、対応できないですよ」
「分かってます。最悪、一日に二人ずつ、ここでやることにします」
 まずは神社に掛け合ってみなければ。
 一通り質疑を終えると、その日は解散であった。が、誰も帰らない。
「子供たちお腹空くかなと思ってお弁当持ってきたんで、ここで食べてもいいですか?」
 沙羅の問いに、美津子は頷いた。
「あ、私もお弁当持ってきたんで一緒に…」
 空楽が留まると分かると、小須賀は急に上機嫌になって、自分も何か作って食べると言い出した。
「杏奈、昼めし作ってあんの?」
「まだです」
「じゃあ、一緒に作ってあげるから」
 小須賀は気を回した。
「はーい、僕も食べたいです」
 鞍馬は手を挙げた。
「あ、僕も」
「あ、そしたら私もいただこうかしら」
 なぜか他の面子までごはんが食べたいと言い出し、小須賀は渋い顔をする。
「だって、もっと長引くと思って、予定空けちゃったんですよ」
 鞍馬が不貞腐れた表情で言った。
「じゃあ、できるまで待ってますね」
 と、沙羅が言い出し、そうなると小須賀も断れない。
「私、手伝ってあげるわ」
 永井が腰を上げた。
「えー…ありがとうございます」
 本当は、空楽あたりに手伝ってほしかったのだが。小須賀と永井はキッチンへ向かった。
「大鐘さん」
「はい?」
 美津子は大鐘を拱いて、応接間へ導き入れた。長テーブルでは杏奈が何か作業をしている。美津子は構わず、大鐘に隣に座ってもらった。
「セラピストが四人必要になる日は、どうしても清掃する余裕がなくて」
 美津子は大鐘を上から下まで眺めた。ここで清掃業務を担っていた時と見た目は大きく変わらないが、小須賀曰く「いつ死んでもおかしくないおばあさん」だ。
「大丈夫よ」
 大鐘はいつものニコニコ顔で手を振った。
「私は清掃くらいしかできないけど」
「小須賀さんは、午前中はたいてい居てくれるみたいですから、調理場もできたら手伝っていただけると助かります」
「あら、邪険にされないかしら」
 と言いつつ、大鐘は嬉しそうだ。大鐘が調理も手伝ってくれれば、杏奈の負担もより減る。あかつき大作戦の間だけでも、作業や雑務から杏奈を解放してうやらねばならない。そこで美津子は、大鐘により関わってもらうことにした。
「死にゆくばああは作業で十分よ」
 パソコンで作業していた杏奈は、気づかわし気に顔を上げた。ばばあは作業でいいなどと…そんな風に受け取ってもらいたくはなかったのだが…
 しかし、杏奈の心配はよそに、美津子は笑った。
「若い人たちが経験を積むために、裏方に徹するのも、ヨガですから」
 ニコニコ笑顔を消さないまま、大鐘は首を傾げた。大鐘としては、自分がヨガをしているかいないかは、大した問題ではなかった。
「言っとくけど、あなたは裏方に徹するには、まだ早いからね」
 急に釈然として、大鐘は言った。美津子は笑いを収めて大鐘を見つめる。
「あなたはまだまだ、現役よ」
 大鐘がそう言った時、呼び鈴が鳴り、杏奈が後ろを振り返りながら、立ちかけた。
「杏奈、いいわ」
 美津子は、杏奈を引き留める。
「私が出るわ。大鐘さん、ありがとう」
 大鐘はにっこり笑うと、そそくさとキッチンへ向かった。
 美津子は立ち上がって、玄関に行く。扉を開けるとひんやりと冷たい空気が入ってきた。

「なんだって広い応接間があるのに、書斎に集まるわけ?」
「日本人だから、こう、足を床にくっつけたくなるんじゃないですか?」
「地べたに座りたいからってこと?」
「小じんまりとした空間のほうが、密な感じがしていいとか」
「へへっ。全然キミたちと密になりたいとか思わないけど」
「じゃあ今からこの線から出ないでください」
 書斎では、空楽と鞍馬が不毛なやり取りを繰り広げている。
 沙羅は時々子供たちの相手をしながら、羽沼と話をしていた。
「運動会の動画、ありがとうございました」
 沙羅は羽沼に礼を言った。
「動画編集スキル、どんどん上達してませんか?」
「ふふ…これでも仕事だからね」
 羽沼は控えめに笑った。
「私の旦那も、子供が小さい時は結構写真撮ってくれて」
 海外赴任で家を空ける期間が長くなる前のことだ。
「子育てをしていると、子供の写真は増えるけど、子供と自分が映ってる姿ってなかなかなくて」
 だから、こんな風に子供と自分が一緒に映っている動画をもらえると、嬉しい。
「瑠璃子さんもきっと、喜んだと思います」
「…」
 羽沼は口をつぐんだ。
 あの動画は瑠璃子たち母娘だけでなく、祥子たち親子の姿も含まれていた。なのに瑠璃子のことを強調してくることから、沙羅は何か、勘ぐっているような気がした。
「この間、瑠璃子さんと温泉に行ったんですけど」
 沙羅は、隣にいる羽沼の表情を見ないまま、話を続けた。
「瑠璃子さん、別れた旦那さんと万里子ちゃんを面会させることを、ずっと嫌がっていたんです」
「…そう」
「でも最近、もう会わないって決めたみたいで…もちろん、万里子ちゃんの意思を聞いたうえで、ですけどね」
 羽沼は項垂れた。
─会わないことにしたのか
 自分が、背中を押したのでなければいい…そう思った。
「そしたら最近、瑠璃子さん、ちょっと元気になったみたいで。安心しました」
 沙羅はそう言うと、やっと羽沼の方を向いてにっこり笑った。羽沼はため息を吐いた。
「最近元気になったって…彼女は、もともと元気な人じゃないか」
 気丈で、闊達で、男勝りだ。すこぶる美人だが、少しも気取ったところがない。
「でも、この前泣いてましたよ」
 沙羅がそう言うと、羽沼はぐらりと、心臓が揺れたような感覚に陥った。
─どうして?
 と、訊きたかったが、訊くのがはばかられた。
「私が泣かせちゃいました」
 が、訊かなくても、勝手に沙羅は話してくれる。
「瑠璃子さんが、万里子ちゃんのことちゃんと見られてなかったって言うから。そんなことないって、慰めてたら…」
「…」
「瑠璃子さんって、意外と涙もろいところがあるんです」
 沙羅は囁くように言った。外野の空楽と鞍馬、子供たちがうるさいのが、今は幸運に思える。
「本当は情に厚いし、繊細な─」
「沙羅さん」
 沙羅の話を、羽沼は遮った。
「どうして、そんな話僕にするの?」
「…」
 沙羅は、その問いには答えなかった。
「沙羅さん、羽沼さん」
 絶妙なタイミングで、空楽が二人に話しかけてきた。空楽にしては珍しく、神妙な顔をして、スマホを差し出している。
「これ…」
 沙羅と羽沼は、スマホ画面を覗き込んだ。アーユルヴェーダ料理を作っているところを撮ったリールに対して、コメントがつけられている。
─こういう輩がいるからビーガンみたいのが増えるのか
─これでバランスがいいとか…お、おう…
 ぱちぱちと、沙羅は目を瞬かせた。
「なんか、悪意のあるコメントですね」
「あー」
 しかし、羽沼は大して動じていないようだった。その時ちょうど、書斎に杏奈が入って来た。
「おめでとう」
「へ?」
 ふいに羽沼に言われて、杏奈はきょとんとしている。
「アンチついたんだ」
 そう言われて、杏奈はすぐに、インスタのリールに寄せられたアンチコメントのことだと気が付いた。気にしていたので、すぐにつながった。しかし、おめでとうとはどういうことだろう。
「閲覧数が伸びてこれば、こういうコメントは絶対につくから」
 羽沼はこともなげに言った。
「むしろ、そのレベルまでインスタが成長しているっていう証明だよ」
 羽沼にそう言われて、杏奈は少し、胸のつかえが下りた。そのコメントを見てから、ずっと暗い気持ちを引きずっていたのだった。

「中に入らないの?」
 呼び鈴を押しておきながら、南天丸と一緒に庭に移動する順正に、美津子は尋ねた。
「人が集まってるんだな」
 玄関の靴の多さ、騒々しさから、順正はすぐに察した。がやがやと騒々しいことから、スタッフたちだとも分かっていた。
「来る日を言っておいてくれればいいのに」
 順正は庭石に座りながら、首を振った。
「他の予定を調整してまで、おれの相手をすることはないよ」
 それに、自分はいつも気まぐれで来ている。
「最近、また足が遠のいてない?」
「そうだったか?」
 そう言われると、確かにそんなような気もする。
「涼しくなったから、先々週も、外岩に行っていた」
「あ、またあの子を連れて?」
「あいつは来なかった」
「そうなの」
 もっとも、本人は行きたくてしょうがなかったようだが。
「十一月は、もっとわちゃわちゃしてると思うわ」
 順正は、美津子に話の続きを促すように視線を向けた。
「たくさんのクライアントが来るの」
「ふうん」
 興味がなさそうな返事をされて、美津子は、順正が何を考えたか手に取るように分かった。絶対、十一月は来ないという顔をしている。
「忙しくなると逆に、こうして誰かとお話をして、気晴らしをしたくなるわ」
「そこにいる愉快な仲間たちと話せば?」
 順正は皮肉るように言って、母屋を指差した。
─そういうことじゃないのよ。
 美津子は唇を結んだ。
 南天丸は、順正の近くで大人しく伏せっている。
「そうだ。あなたにお願いがあるんだけど」
 順正はまた、答える代わりに、顔を美津子の方へ向けた。
「宮司さまに、神社の座敷を貸してくれないか、頼んでくれないかしら?」
 美津子は事情を話した。
「そういう用途で使ってもいいか、いいなら費用を聞いておいてくれない?」
 ぐう爺は、順正のことを殊の外気に入っている。自分やあかつきのスタッフがお願いをしに行くより、いい返事がもらえそうな気がした。
 順正は面倒臭そうな顔をし、小さくため息をついたが、否とは言わなかった。
 二人は並んで庭石に腰掛け、庭の畑を眺めながら、お互いの近況について短く報告し合った。
「そうか。相方が結婚を…」
 順正は美津子に、ビレイパートナーが結婚すること、そのため、そのうち連れだって外岩に行けなくなりそうだと話した。
「あなたはどうなの」
 美津子は、常日頃、なかなか訊けないことを、この会話の流れで思い切って尋ねてみた。結婚を考えたりはしないのか…と、訊きそうになったが、それ以前の問題だと気づいた。
「あなたは、誰かを好きになったことはないの?」
 順正は、この話をしたのは間違いだったと思った。似たようなことを前原にも訊かれた。
「鮎太郎さんのことは、好きだったかもしれんな」
 順正は口元に笑みを浮かべながら、囁くような小声で言った。死んだ人に対してならば、順正は幾分、素直になれた。
「それは好きといっても、親しみとか尊敬でしょ」
「…」
 はぐらかそうとしたが、美津子は、食い下がった。
「恋愛対象としての好きに決まっているでしょう」
「忘れた」
 はあ、と美津子はため息を吐いた。取り合ってくれないとは、思っていた。
 順正は美津子に、静かに視線を向けた。
「…ミツがあとニ十歳若かったら、好きになったかもしれん」
 その言葉に、美津子は自分でも意外なほど動揺してしまう。親と子ほど年齢が離れているといっても、こんな整った顔の男に、そんな浮わついたことを言われたら、焦る。
「…ちょっと、そういう冗談言わないの」
「ふふっ、冗談だ」
「あ!」
 完全に、してやられた。順正は可笑しそうに笑っている。
─この野郎…
 順正はもう笑い声を収めていたけれど、意地の悪い笑みは浮かべたまま、横目で美津子を見やった。
 その時、玄関の扉が開き、杏奈が外に出てきた。すぐに二人と南天丸がいるのに気付いて、軽く会釈をすると、おずおずと歩み寄って、
「美津子さん。私これから、神社まで行って、例の件をお願いして来ようと思うのですが…」
 杏奈は手に、紙袋をぶら下げていた。
「それならちょうど、今、先生に交渉をお願いしたところよ」
「柴崎先生に…?」
 杏奈は目を丸くして、順正を見た。順正は無表情でこちらを見向きもしない。
「ありがとうございます…あのう、これ、神社の方に渡そうと思うのですが」
 杏奈は順正に小さく礼を言うと、美津子のほうに向き直り、紙袋を広げてみせた。
「ゴツコラジュース…宮司さまは、喜びそうね」
「ゴツコラももう、そろそろ時期が終わりなので、こんなに渡せるのは最後かもしれません」
「順正」
 美津子は、順正に向き直って、
「あとで、これを持って行って」
「賄賂か」
 順正は杏奈と美津子を、交互に見た。
「お気持ちと言って」
 すかさず、美津子が訂正をする。 
「まだ、お話されてますよね。痛むといけないので、中に置いておきます」
 そう言った杏奈は、順正の目に、少し眠そうに見えた。といっても、最初にこの畑で見かけた時の、やる気のなさそうな表情とは違う。あの時は生気のない状態─タマスそのもの─の様子だった。しかし今は、単純に体力がもたず疲れている、という風に見えた。踵を返して、とことこと母屋の中へ戻って行く様子も、どこか頼りない。
「私の弟子を紹介してあげてもいいわよ」
 なんの脈絡もなく、笑い交じりに美津子が言った。杏奈の後ろ姿をなんの気なしに見送っていた順正は、視線を美津子に移した。
「あの子は、私と似ているし」
 茶化すように言って、ふふっと笑う。美津子がそう言ったのは、単なる思い付きだった。
「…なんの話?」
「さっき、遠回しに私のような人がタイプだと言ったじゃない」
「…だいぶ都合の良い解釈だな」
 順正は首をすくめた。どうやら美津子に、先ほどの仕返しをされている。
「あなたもそろそろ余裕ができたでしょ。誰かと付き合ってみたらいいじゃない」
 順正はふっと笑って、
「さっきのは冗談だと言っただろう」
 それに…美津子とあのスタッフは、どこが似ているというのだろう。
「まあ、そうね…杏奈も妙齢なのに、仕事ばかりしているから、時々心配になるのよ」
「…あの人が、お前に似ているとは思わんが」
 思ったことをありのままに言った。美津子はあっけらかんとして笑った。
「確かに、顔と性格は似てない」
「…?」
 それでは、似ていないということではないか。
「でも、考え方は似ているわ」
 それは美津子が、杏奈を受け入れてから間もなくして気付いたことであった。
─仕事の話か。
 順正は勝手にそう思った。
「ミツは、なぜ結婚しなかった」
 順正がそう訊いたのは、これ以上余計な世話を焼かれたくないためでもあった。
 美津子は、やや自嘲っぽく笑った。その答えは、自分の中では分かり切っている。
「結婚したいと思う人が、いなかっただけ」
 と、言ったものの、それはすぐ、サティアではないことに気付いた。
「いや、違うな。タイミングの問題だ」
 野暮なことを訊いた。と、順正は思った。ちょっと仕返しするような気持ちだったのだが。
 美津子の事情を、順正は昔から、なんとなく読み取っている。
「順正」
 穏やかな声で呼ばれて、順正は美津子に顔を向けた。
「あなたは、あなたが望みさえすれば、ちゃんと何もかもを愛おしむことができる人だと思う」
 順正は美津子から目を逸らさないまま、わずかに首をひねった。
「いきなりなんだ」
「そういう自己認識があるか確認しているの」
 美津子は極めて、穏やかな物言いだった。
「思い込みがあると、気づけなくなってしまう」
 同じことを繰り返してしまうなどと恐れずに、決めつけずに、自分の違う側面にも、きちんとフォーカスを当ててほしいのだ。
 順正は、沈黙した。美津子は昔から、何かを見通しているかのような、不思議なところがあったが、今まさに、そういう雰囲気で話をしていた。
「あなたの人生を豊かにしてくれる人や、ものごとが、目と鼻の先にあっても、端から自分には縁のないこと見なしてしまうと、気づけないのよ」
 そこで美津子は、言葉を切った。
 順正は表情を変えないまま、ただ目の前に映る光景を眺める。
─自己認識…
 静寂と沈黙の間に、順正の脳裏には、西日がいっぱいに入る、オレンジ色の小さな部屋が浮かぶ。
「…さてと」
 美津子は腰を上げた。
「私は、少し畑を手入れしてから、中に入るわ。あなたも休んでいく?」
「いや…」
 順正は南天丸に視線を向けて、
「給水させたら帰る」
「給水器、キッチンにあるわよ。勝手に持って行って」
 どうやら、美津子は持ってきてくれないらしい。母屋の中に入って、テンションに温度差のあるスタッフたちと顔を合わせるのは嫌なのだが。順正は、小さくため息をついて、すたすたと庭を歩いて母屋の扉を開ける。
 美津子は畑にしゃがみこみながら、その後ろ姿を目で追った。

「これです、これ」
 玄関から静かに入った順正は、書斎に人が密集しているのを見て、足を止めた。順正の杞憂とは裏腹に、書斎には今、ただならぬ雰囲気が漂っている。
 これより数分前…。
 空楽は、鞍馬との不毛な会話の流れで、インスタで探し物をしていた。その時、ぱっと目を引くタイトルが出てきて、探していたものとは違うけれど、思わずタップしてしまったのである。
─大公開 私が変わる キッチャリーレシピ
 そんなタイトルだった。
 有料でキッチャリーの作り方を学ぶ人がいる一方、ネットの世界では、もうたいていのレシピは流出している。どんなレシピだろう、あかつきのものとはどう違うのか。気になって開いてみると、空楽は再び神妙な顔になった。
 あかつきのレシピと、ちっとも違わないのである。
 それで、そこにいた仲間─沙羅、鞍馬、羽沼─の見解を求めたのである。
 はたして、四人の視線は今、空楽のスマホ画面に集まっていた。
「めちゃめちゃ似てます」
 沙羅は、投稿画像およびキャプションに書かれた、キッチャリーレシピを視線でなぞった。
「僕もそんな気がする」
 羽沼は、オンライン料理教室を開催する前のテストで、キッチャリーを作ったことがある。その時のレシピはうろ覚えだが、豆や米をグラムでなく、量(かさ)で表記するのは独特だと思った記憶があった。
「杏奈さん、杏奈さん」
 沙羅は声を張り上げて、応接間にいるのであろう杏奈を呼んだ。
「はい」
 杏奈はやり残している仕事が気がかりなのか、心ここにあらずといった様子で書斎に現れた。長い髪が身体の前側にかかって、肩から胸の下まで流れている。
「どうしたんですか?」
 少し眠そうな顔も相まって、呑気な様子でみんなに尋ねた。
「ちょっとこれ、見てください」
「キッチャリーのレシピが、インスタ上に流れてたんですけど」
 沙羅や空楽から手を拱かれて、杏奈は空楽の隣に屈んで、スマホを覗いた。すぐに、杏奈の表情は険しくなった。
「…」
 空楽のスマホを手に持って、膝を伸ばす。
「それ、杏奈さんのレシピじゃありませんか?」
 沙羅がそう尋ねた。
「…そうです」
 杏奈はその場に突っ立ったまま微動だにせず、視線だけを忙しく左右に動かしていた。
「盗作ってこと?」
 鞍馬も、少し険しい表情をした。
「間違いありません」
 杏奈はもう一度膝を折って、座卓の上にスマホを置き、
「この、豆や米の分量を、大さじで表記するのは、私の癖なんです」
 グラムの方が正確だと思う一方、実際は計量などしない人が多いので、敢えてこういう書き方にしている。
「クミンシードやターメリックパウダーの分量も、まるっきり一緒です」
 杏奈は何度、この分量で梱包作業を行ったか分からない。自分のレシピを見返さずとも、これが自分の書いたレシピと全く一緒であることくらい、すぐに分かった。
「ひどい」
「えー」
 沙羅と空楽は口々に言った。
 杏奈は自分のスマホを取り出し、空楽のスマホを見ながら、この投稿をしたユーザーをインスタで検索した。
「…この人、キッチャリークレンズを受けた方です」
 個人で事業をしている女性で、プロフィールに名前が載っている。特徴的な難しい名字だったので、印象に残っていたのだ。
「じゃあもう、完全に盗作じゃないですか」
 鞍馬も、やや気を損ねたような声で言った。
「どうします?」
 沙羅はそう言って、みんなの顔を次々に見た。杏奈はスマホを凝視したまま、動かない。
「無断転載は、ご遠慮くださいって言って、削除してもらうかだね。この人が認めるかどうか分からないけど…」
 と、羽沼は言った。検索上位に上がってきている投稿だから、きっと削除するのは惜しいと思うだろう。
「認めたとしても、レシピは著作権ありませんよねって言い張られたら面倒だな」
「えっ?レシピって著作権ないんですか?」
 空楽は驚いた顔で羽沼を見た。
「ああ。ゴネられたら、ちょっと面倒臭いね」
 羽沼がそう言った時、扉のほうから足音がして、そこにいた全員が音のするほうをさっと振り返った。その時には、順正はあっという間に座卓に近づいて、その上のスマホを覗き込んだ。
「どこの馬の骨だ」
 低く圧のある声だった。
「え、えーと…」
 空楽は消えてしまった画面をタップして、投稿者のアカウントを確認する。
「〇〇県××市で、何か個人でヨガやデトックス関係のセミナーを行ってる女性のようですね」
「ふうん。軽率な田舎者だな」
 杏奈以外の四人は、視線を微動だにさせず固まった。そうしながらも、頭の中では皆同じ言葉を反芻した。
─田舎者…?
 足込やら上沢やらに住んでいる自分たちには言われたくないと思うのだが…
 一方、杏奈は頭を垂れて、額に右手を当てた。心に、わっと暗い気持ちが湧き上がる。
 あかつき大作戦の集客は大変だった。予約が入るまで、神経をすり減らす日々だった。このキッチャリーのレシピは、集客に貢献してくれた愛おしむべき知的財産だ。それがみすみす、生徒だった者に盗まれた。
「はぁ…」
 杏奈の口から、思わずため息が漏れた。毎日の仕事で頭も体もいっぱいいっぱいなところに、アンチコメントと盗作が一気に来た。
「古谷」
 絶句している面々を後目に、順正は杏奈に視線を向けた。杏奈が額から手を放し、顔を上げると、隠れていた目が露わになった。先ほどまで瞼の重力に耐えかねるようだった目が、今はやや瞳孔が開き、充血している。
「気にするな」
 言いながら順正は、杏奈が両手で持っているスマホをひったくっり、手帳型のスマホケースの蓋をパタンと閉めた。
「こんな狭量なやつが、お前の知識を盗んだところで、活かし切れるか」
 真顔でそう言い切ると、閉じたスマホを杏奈に押し付けるようにして返し、すたすたと書斎を出て行った。
─辛辣…! 
 自分の手に戻されたスマホを握りしめる杏奈の傍で、他の四人はもうドン引きである。
「どうしたの?」
 母屋に戻った美津子は、書斎からただならぬ雰囲気を感じて、先ほどの順正と同じように、ホール側から書斎にいるみんなを見つめた。みんなで投稿者への対応を考えているところだった。
「すみません」
 杏奈は、他のみんなに頼ることにした。第三者のほうが、感情的にならずに対応できるから、そのほうが良いだろう。
─本当はこんなことに時間を割いている場合じゃないのに。
 すっと書斎から消えていく杏奈の背中を気づかわし気に見送った後、沙羅は美津子に事情を説明した。
「ふうーん」
 美津子は目を細めて、問題の投稿を眺めた。
「ヨガを仕事にしている人なのか」
 穏やかな物言いだったが、明らかにいつもと違う様子に、その場にいた四人は再び凍り付いた。
「心と体のデトックスをサポートするヨギーニ…」
 プロフィールに書かれている文章を読み上げると、美津子はふふっと笑った。
「基本のアスティーヤ(悟りに至るための八つの段階的なヨガの実践体系のうち、第一段階ヤマ、その中の盗んではいけないという教え)もできないのに」
 美津子は嘲るように言った。美津子がそんな物言いをするのを聞くのは、その場にいた四人とも、初めてである。
「このご仁は何をもって、ヨギーニだなんて名乗っているのかしらね」
 美津子はそれだけ言うと、スマホを空楽に返し、静かに書斎を出て行った。普段、美津子は至極穏やかで、落ち着いた人であるが…
「おこってたね…美津子さん」
「う、うん…」
 そんな美津子が嫌悪感を露わにしたことに、四人とも、背筋が凍る思いだった。普段穏やかな人ほど、怒ると怖いのかもしれない。すぐ傍で遊んでいる沙羅の娘たちの、無邪気な声だけが救いであった。
 応接間に入った美津子は、いつもの席…杏奈の対面に座った。
 杏奈は先ほどと変わらず、パソコンに向かっているが、手が止まっている。
─余計なことを…
 こんな大事な時に、感情を揺さぶらせるようなことをした投稿者が、美津子は許せない。
「杏奈」
 ふいに呼ばれて、杏奈はびくっと肩を震わした。
「はい」
「あの投稿のことは、私に任せて」
「…」
「大丈夫。消させるわ」
 美津子は、静かにそう言い切った。

「ふぁぁ…眠くなってまった」
 ぐう爺は自宅のリビングでソファに寝転がり、うとうとしているところだった。
 ピンポーン
 呼び鈴が鳴った。
 ぐう爺はそれでも寝っ転がったまま起き上がらない。
 ピンポーン
 誰か出ないものか。
 嫁はいないのか。
 ピンポーン
 ピンポーン
「ええっ」
 ぐう爺はがばっと起き上がった。
─しつこい。
 扉を開けると、誰が来たのかと思えば、孫の小夜だった。
「じいちゃん、寝てたの?」
「起きとったわ」
「でも、なかなか出てこないから、お腹がいっぱいで寝ちゃったのかと思ってた」
「わしは赤ん坊か…」
 やれやれと頭を掻いた。
「で、何の用だ」
「じいちゃんにお客さま」
「わしに客ぅ?神主では事足りんのか」
「柴崎先生が、じいちゃんに相談があるって…」
「なにィ!?」
 ぐう爺は一旦玄関扉を閉めた。中からけたたましい音がし、それが一旦止む。しばらくしてからまたドタドタと音がして、パッと扉が開く。
 ぐう爺は髪型を整え顔を洗い、服装を整えてきたらしいのだが、小夜にはさっきと何が違うのか、よく分からなかった。
「お、お待たせしました、先生」
 ぐう爺は参集所の外で佇んでいる順正を見つけて、息を切らしながら走り寄る。
 順正はぐう爺の方に顔を向けた。黒々とした前髪がさらさらと揺れる。
─ああ、先生!今日もイケ散らかしごちそうさまですありがとうございます!!!
 小夜が押し活している時につぶやいている言葉遣いが、すっかりこの老爺にもうつってしまっている。
 ぐう爺は順正を見た瞬間に泣いた。オフホワイトの布地に、枝をしなやかにくねらせた木と四芒星の形をした花が肩の部分に描かれたマウンテンパーカーをゆったりと着ている。
 何ヶ月ぶりかの目の保養。
─今週はこれで脳がもうダメ。
 まだ何もしゃべっていないのに、ぐう爺は心の声を溢れさせ、すでに感無量の表情である。
「あれ?今日はあのワンちゃんはどこに?」
 順正は無言で、参道の方を指差した。南天丸は手頃な玉垣とリードで繋がれ、大人しく伏せっている。
「あそこで伏せってる犬かわいーぬ」
 ぐう爺は冗談のつもりで言ったが、順正は笑わないどころか白けた目でぐう爺を見、やや雑にその背中を押して参集所に押し入れた。
「六人くらいが身体を動かせるような部屋、ある?」
「はい?」
 ぐう爺は順正の手が背中に触れたことに歓喜するやら、その力の強さに驚愕するやら忙しく、順正の求めていることを察する余裕がない。
 参集所に入りながら、順正は単刀直入に趣旨を説明した。
「そういうことなら、あそこの座敷でもいいですし」
 一階ロビーに面した座敷は、仕切りの襖を取り払えば、六人から八人がヨガをするくらいのスペースはある。
「大広間も使えます。そこは、襖を取り払わずとも、十分なスペースがあるかと」
「なら、そこを貸してくれ」
 具体的な日にちはあかつきと直接やり取りしてほしいと、順正は伝えた。
「それは構いませんが、だいたいおいくらくらいいただけるのでしょうか」
 順正は腑に落ちないという顔で宮司を見た。
「金を取る気か」
「へっ?」
 ぐう爺は、睨めつけるような目で見られて、焦った。
「そりゃ、場所を貸すわけですから、タダでやるというのも他に示しが…」
「ケチくさいことを言うな」
 順正はぴしゃりと言った。
「使っていないスペースを貸すくらいいいだろう。善行募金だと思え」
「ええっ?」
「はい、これ賄賂」
 と言って順正は、紙袋に入ったゴツコラジュースを無造作に渡した。
「え?ええ~?」
 ぐう爺は絶句して、その場に立ち尽くした。
─いつも冷静で知的なのに、たまにこういう我儘というか、強引なところもあるんだよなぁ…それも好きなのだけれど。はあ、振り幅ありすぎてしんどい。
 心の声ばかりがざわざわとうるさい。
 気が付いた時には、順正の姿はもう参集所の中にはなかった。

 栗原神社での所用を済ますと、順正は帰途に就いた。南天丸を先に歩かせながら、早いペースで明神山を登る。
 本当は馬の背を通り、山頂を巻いて帰るつもりだったのだが、予定を変更し、主要登山道から山頂を目指した。
 捨てたいものが、できてしまった。
─嫌なものを見た。
 人の知的財産を、簡単に盗み利用することができるようになった世の中。
 あれは単に情報を盗んだだけではない。潜在顧客を、機会を、奪ったのだ。美津子が大切にしている癒しの館の可能性が奪われた。それで、嫌な気分になった。
「…」
 順正は、目を瞬いた。
 美津子が時間をかけて育てている弟子は、ひどく落ち込んでいた。もともと、疲れているように見えたが、盗作事件で、心労がより増したようだ。
 あかつきに来るたび、杏奈は常に何かに勤しんでいた。他のスタッフ同士が交流している時も、わき目も振らず仕事に集中していたのに、その成果物の一つを、軽率な誰かに利用されてしまった。
 シンプルに同情する。
 そよ、そよ。
 山頂までの最後の坂道を登っている間、緩やかな風が吹いていた。日を追うごとに、だんだんと風が冷たくなっている。
─自己認識…
 もう一つ、引っかかっていることがある。
 自己認識を改め、今まであまり使っていなかった自分の要素に光を与えよと、美津子は言った。暗に、お前は逃げていると言われたようで、良い気持ちはしない。
 山頂に立つと、順正は要らないものを放り捨てる準備をした。
 しかし、今日美津子から貰い受けた言葉の数々は、捨ててはならないような気がした。

 

 

 


 

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