「ちょっとちょっと、そのスピードじゃあとても間に合わないよ」
セロリをみじん切りにしている杏奈の手元を見て、小須賀が言った。
小須賀にどやされると、杏奈は以前働いていたスリランカ料理店の先輩のことを思い出す。
─それじゃあ女子大生に毛が生えたようなものね。
先輩に言われた嫌味を、今でもすぐに思い出せてしまう。
暑さも本格的になってきた七月上旬、とある土曜日。足込温泉に弁当を納品する日である。
折しも今日は、あかつきには一人のお客が来訪している。といっても日帰りの客で、昼食を用意するだけで良いので、弁当作りへの影響は、それほどでもない。むしろ、弁当の料理をそのままお客に転用できるので、二度手間は省けている。しかし、今日もまた小須賀が遅刻してきたので、先ほどからキッチンは大忙しである。
「まったく、時間かかるんなら、もっといろいろ仕込んでおけばいいのに」
杏奈はむっとして、眉根に皺を寄せた。
「お弁当づくりの主導権は小須賀さんにあるのに、私が勝手に、いろいろと進められませんよ」
「聞けばいいじゃん」
あかつきのグループラインでもいいし、個別に連絡したっていいし、と小須賀はぶつぶつ言っている。
「気が利かないな」
「すみません」
杏奈は唇を尖らせた。
─それにしたって、小須賀さんが三十分も遅刻しなければ、こんなに急がなくていいのに。
どうして小須賀が遅刻するのを見越して、自分が気を回さないといけないのか。不平不満はたくさんある。が、小須賀に頼らざるを得ないこともたくさんあるので、言いたいことを飲み込んだ。
─怒られないようにしなきゃ。
そう思っているからでもある。余計なことを言うことで、怒られたり、批判されたりするのは、苦手だ。
出勤した時には、小須賀は、まだ起きて間もないかのような、眠たげな表情をしていた。しかし、食材を手に取り、調理道具に向かうと、眠気を感じさせない仕事ぶりである。時々あくびをしているが。
キッチンがそんな状態にある頃、書斎では、美津子が初めてのお客のカウンセリングを行っていた。
朋美は、明神山を境に足込町と隣接する上沢市に住んでいる、五十歳の女性である。家族は高校生の娘が一人。両親も、近くに住んでいる。夫とは八年前に死別した。死因は胃癌であった。
─私自身も、乳癌になって、右胸を全摘したばかりなんです。家族や自分が病気になったから、これからは、生活習慣を改めないといけないと思ってます。
食べるものや生活習慣を改善して、体を元気にしたいと思っている。二週間前のオンラインでのコンサルテーションで、朋美はそのように話した。
本来、単発のお客にはコンサルテーションを行わないが、加藤の紹介であかつきのことを知った朋美は、事前コンサルを自分から望んだ。
「二週間の間の進捗は─」
「そう、先生、アイスコーヒーを飲むのをやめたし、間食もほとんど摂ってないんですよ」
朋美は美津子の言葉を聞き終わる前から口を開き、大仰な身振り手振りと、豊かな表情で、ここ二週間の取り組みを説明する。
「あっ、でも、一回だけ、どうしても、朋美さんこれどうぞ~なんて同僚から言われて、豆大福みたいなのを一個食べちゃった時があります。でも、自分からは手を伸ばさないようにして。だけど、食事をする時間がなかったから、今は、栄養足りてるかな~っていうことのほうが心配。そのくせ、体重は減らないんですよ。どう思います?」
ここまでを一息に話す。美津子は、目をぱちくりさせた。話の内容が、すん、と頭に入って来ないのは、彼女が早口で要点以外のことを織り交ぜた話し方をするからか。日頃、口数が少なく、話をしたとしても、考えながら話すゆえにか、滅法話すスピードが遅い杏奈と一緒にいるのに、慣れてしまったからかもしれない。
「整理させてください。コーヒーは、飲まなくなったんですね」
「そうなの。先生がおっしゃる通り、もうコーヒーメーカーはそこにないものと思って。だけど、やっぱり疲れてくると飲みたくなりますね。でも、ほうじ茶を代わりに持って行って飲むようにしたら、意外にもそこには執着がなかったっていうか─」
「飲まなくなったのは、いつからですか?」
「先生との最初のコンサルをした直後からです」
行動力はある人だ。美津子はよしよしと頷いた。
「間食は、その一回を除いて、食べていないのですね」
「夕飯を食べるタイミングを逃してしまった時に、お腹がどうしても空いて、お煎餅を食べることは何回かあったんです。で、もうそれきり夕ご飯おしまいみたいな。ってなるとさっき言ったように、栄養が…」
一つ聞くと、十倍くらいはかえってくる。朋美は長々と話をしてくれたが、要は、間食は豆大福以外にもしていた。彼女としては、食事どきにお菓子をつまむと、それは間食という位置づけではなくなるらしい。
朋美は分かりやすい、ヴァータ体質の女性だ。おしゃべりで、早口。話がいろいろな方向に飛び、要点が整理されていない。
美津子は、加藤が言っていたことを思い出して、ふっと笑った。
─法話のたびに人生相談されて、これがまた、話が長い。
朋美の夫側のお墓は、加藤が住職を務める足込善光寺にある。朋美は自分が病気になってから、時折法話を聞きに善光寺に出向いていたようで、あかつきのことは、加藤の紹介で知った。
夫を亡くし、自身も癌の手術を受けたばかりという情報を、問診票を通して知った時、思い詰めたお客を迎えることになるかもしれないと、美津子は内心思っていた。しかし、実際話してみれば、相手は、ひどくあっけらかんとした様子で、はじめからよく喋り、とても明るかった。
朋美は上沢の旅館で、フロントスタッフとして働いている。シフト制で、休みは土日のどちらかと、平日一日。夜遅くなる時は就寝時間が日付を超えることもある。早く帰ってきた日や、休みの日に、しなければならない家のことをしようと思うのだが、やる気がなくだらだらしたり、友達と遊びに出かけたりすることも多くて、結局できていない。そういうわけで、生活のリズムが乱れがち。特に食事の時間が不規則。内容も、まともではない。朝ごはんを摂らず、お腹が空くと、お菓子をつまんでいて、食事を摂れていない。
「何よりも、朋美さんは食事の時間を一定にすることが大事ですよ」
「はい、先生。食事の─」
「ここ二週間は、少なくとも、間食を常に食べているという状態ではなかったわけですね」
「そうですそうです。前はだらだらと─」
「最近、ご自身の消化力をどう感じてらっしゃいますか。お腹は空きますか」
「ええ。前から空腹は感じやすいんです。すぐにお腹が空くから、消化力は強いと思いますよ」
話を前に進めるために、美津子は半ば朋美の話を遮りつつ、質問を重ねる。
─それはどうかな。
お腹が空いたとしても、朋美には他に、消化力が弱まっている時の兆候がいくつも見られ、消化力が弱まる行動をしている。これに関する指摘は、すでにしている。本人も、改めるための行動を起している。今後の行動指針も、示してやるつもりだ。
それでは、このあかつきでは、朋美に何ができるか。
─このお客のヴァータを、少しでも鎮めることに注力する、か。
手術して間もなくは、ヴァータが乱れやすい。
さらに、夫の死と、自身に降りかかって来た病。この経験による感情の未消化が起きていれば、それに対しアプローチするか考えねばならない。が、朋美の顔を見て話をしながら察知した限り、この女性はひたすら前に進むことを考える気質のようだった。病気をきかっけに、生活を改めることを前向きに捉え、行動力もある。
─人生経験の未消化は、そこまで重大に考えなくても良さそうか。
美津子が治療方針をパソコンに入力している間、朋美はまた違う話をぺらぺらとし始めた。
「豆カレーできた?」
小須賀は魚にスパイスをまぶしながら、杏奈に訊いた。
「いえ、ココナッツミルクがまだです」
カレーといっても、セロリと人参、生姜をよく炒めてから、レンズ豆とスパイスを入れて煮込んだだけのものだが。
「お客には、豆カレー、魚、小松菜マッルン、人参カレーでよかったんだっけ?」
「あと、瓜漬けを」
「瓜漬け?」
小須賀は怪訝そうな顔をした。また地味なものを…と思っているのかもしれない。
「最近、畑でやたら瓜が取れて」
「へー」
「でも、私と美津子さんだけじゃ、なかなかなくならないんですよね…」
できた瓜漬けは、先日も栗原神社に持って行って、花神さまにお供えした。その後、神社の者たちが食べるのであるが。
「なんで瓜なんか作ってるの?」
「柳さんから勧められたって」
「畑のじいさんか」
あかつきに出入りしている小須賀は、さすがに柳と面識があるらしい。
「それと、お客さまには魚は要りません」
「なんで?」
「今日のお客さまは、特に消化力が弱くて、ご自身からベジタリアンを希望したらしいです」
美津子が朝言っていたことを思い出す。朋美は体質的に、ベジタリアンにする必要はないが、本人が希望するのだからそうしよう、と。
「消化力が弱いと魚を食べないっていうのは、おれには分からんな」
小須賀は首を傾げた。
「しかも今日の、鮎じゃん。消化に良さそうじゃない?」
「一食にたんぱく質二つは、朋美さんにとっては重いと感じるのかもしれないですよ」
「普通だろ。どんだけ弱いんだよ」
小須賀はは~とため息をついた。
「まったく、アーユルヴェーダ側の人間が考えることは、よく分からないな」
アーユルヴェーダ側の人間、と言ったということは、自身はそのサイドにはいない、ということか。
「小須賀さんは、アーユルヴェーダのことを知っていて、ここで働いているのではないのですか?」
杏奈は、気になっていたことを聞いた。
「知らないよ」
小須賀は、にべもなく言った。
「スパイスだって、そんなに扱ったことなかった」
高校を卒業して以来、ずっと料理人として、いろいろな所で働いてきたが、スパイス料理が売りの店に勤めたことはない。ハーブやメジャーなスパイスには触れたことがあるが、アジア系のマイナーなスパイスや食材に触れるようになったのは、ここで働き始めてからだ。
小須賀は、苦笑いを浮かべる。
「今でも、あんまり興味ないな」
そんな人がどうして、あかつきで働いているのだろう。
「消化力っていうのは、アーユルヴェーダにおいて、最も大切な考え方といっても過言じゃないんですよ」
その頃、二階の施術室では、美津子がアビヤンガをしながら、朋美の話し相手になっていた。朋美は、アビヤンガを受けていてもなお、おしゃべりが止まないのだ。
「知ってます、知ってます。アグニっていうんですよね」
朋美は、スパイスの料理教室で、アーユルヴェーダのワークショップに参加したことがあるらしく、少しだけアーユルヴェーダの知識をもっていた。
アグニとは、消化を司る神様、消化の火。すなわち消化力のことだ。食べ物の消化だけでなく、五感を通して取り入れるもの全ての消化を行う。また、人生経験に対する消化も行う。あらゆる物事を消化するエネルギーなのだ。
食べ物はエネルギーと喜びをもたらしてくれると同時に、病気の素でもある。消化しきれなかった食べ物は体の中に蓄積し、やがて毒となって体の中で悪さを起こす。この未消化物のことを「アーマ」と呼んでいる。
アーユルヴェーダでは、様々な不調や病気を防ぐために、アグニを強くし、アーマを溜めないか、アーマを除去する必要性を説く。
心、人生経験の消化もまた大切である。後悔していること、いつまでも忘れられない妬み、怒り、悲しみ、誰にも言えずに自分の中で押し殺した思い、トラウマ…人生の中で経験したことをうまく消化できないと、心に毒素が刻まれる。経験の未消化が起こると、知らず知らず、行動や思考に偏りを与えてしまう。だから、身体から定期的に毒素を排泄するように、感情もため込まずに流し、自分の人生に起こったことについて、納得感を持たなければならない。
「アグニが弱いから、私は癌になってしまったのですね」
「そう直線的に結び付けられるものでもありません。でも、確かに、アグニが弱くなった結果、体の中に蓄積したアーマ(未消化物)は、万病のもとになると考えられています」
「はあ~、今、溜まってるんでしょうね、アーマ」
「どうでしょう」
美津子はそう言いながら、確実に溜まっているのだろうと心の中で思った。
「もう何年も、今のような生活なんですよね」
「そうですそうです。受付になってから」
「朋美さんは、まとまった食事を摂っていないので、食べている量自体は少ないんですが、食間が短く、常に何かをつまんでいる状態なので、アグニには負担がかかっていたかもしれません」
「あはは」
「でも、ここ二週間で、そこは改めていただけたので、次のステップに進めますよ」
「コーヒーと間食は、割とずばっと止められたんですけどね。食事の内容変えられるかは、自信がないなあ」
「ここから、お腹の施術になるので、少しの間、声を出さないようにしてくださいね」
美津子はお腹用の温めたオイルを手に取りながら、遠回しに朋美に黙っているよう告げた。
炊き上がった赤米、人参カレー、小松菜マッルン、スパイスをまぶして焼いた魚を順番に弁当箱に詰める。豆カレーはスープ容器に別盛りにして、弁当箱に一緒に入れる。
八割がた詰め終わったところで、小須賀はキッチンの時計を見た。
「余裕じゃん」
しめたとばかりに、上機嫌な声を出した。
「あとは蓋して、おしながき挟めばオッケーじゃん」
小須賀は前掛けを外し、リュックから小さな白い箱を取り出して、
「一服してくるわ」
と一言告げて、お勝手口から裏へ出た。杏奈は一瞬、扉の方を見やったが、そのまま作業を続けた。人には野菜を切るスピードが遅いだのなんだの、文句を言っておきながら、自分は仕事が片付く前にひと休みか。
十分も経たないうちに小須賀が戻ってきた。杏奈は十数個目のお弁当箱に紙紐をして、おしながきを挟んでいるところだった。今日のおしながきは、杏奈が書いたものだ。
小須賀は杏奈の進捗を見ると、自分は手伝わず、再びスマホを取り出して何か見始めた。
─なんなのだろう、いったい。
杏奈は心の中でため息を吐く。
「ねえ、見て」
突然、小須賀はスマホの画面を杏奈に見せた。
「なんですか?」
面喰いながら、目の前に突き付けられた画面を見ると、この間あかつきで優香に提供した料理が映っていた。
「インスタで、アーユルヴェーダ料理のハッシュタグ検索したら、こんなの出てきた」
杏奈は目をぱちくりと瞬かせる。
「お客さんかな。インスタ上げてくれるの、いいよね」
集客になるから、という意味であろう。杏奈は内心戸惑いながら、作業を続けた。
「わっ、見て、この人。フォロワーいっぱいいる」
小須賀は先ほどの写真をアップしたユーザーのプロフィールへと画面を遷移させていた。その画面を見せつけられて、杏奈はますます気まずくなり、肩をすくめる。
「こういう人が拡散してくれるのいいよね」
小須賀の指は、画面を下の方へスクロールさせるように動いている。気づかれる前に、自分が言うべきか。
「あれ、やけにあかつきの写真が多いような」
「小須賀さん、あのう」
二人が声を出すのがほとんど同時であった。視線が合い、少しの間、沈黙があった。
─美津子さん、私のインスタグラムに、あかつきの写真を載せてもいいですか?
杏奈が美津子にそう打診したのは、優香が滞在する数日前である。個人アカウントだったのだが、料理教室を始めてから、ビジネスアカウントに切り替えた。以降、集客の一つのツールとして機能するほどには、手を入れていた。そのため、インスタグラマーには遠く及ばないものの、フォロワー数は多い。あかつきのフォロワー数の、四倍はあった。
─ここにあかつきの活動の様子をアップすることで、あかつきの認知を広めたいんです。
杏奈は美津子にそう言った。教室の昔の生徒や、他のフォロワーに、自分の存在を忘れてほしくないのも本音であったが、それは言わなかった。
美津子はしばらく沈黙していた。杏奈個人のインスタに、あかつきの様子を上げることによる問題があるか、考えていたようである。
─上げるとして、どういう体で?
─あかつきの一スタッフとして、こんな活動をしてます、という風に載せようと思います。
インスタについては、美津子よりも杏奈の方が詳しい。
─大手のヨガスタジオとかもそうなんですけど、だいたい、公式アカウントがあります。けれど、そこに所属しているヨガインストラクターさんたちも、自分自身のアカウントを持っていて。そこには、プライベートな投稿もするけど、仕事の投稿もしています。
その人たちは、自分がどこどこの社員なのだ、とプロフィール上で明かしている。
─今後、あかつきの投稿に特化すれば、認知に役立つと思います。
メンション(特定のアカウントを自身のフォロワーに紹介できる機能)を使うことで、あかつきのインスタグラムへの導線を引くこともできる。
─杏奈は、それでいいの?
杏奈のインスタグラムをしばらく眺めた後で、美津子は訊いた。
─これは、あなたの教室のために使っていたんでしょう?
─はい。でも、最近は普段の食事をアップして、アーユルヴェーダ的な説明をしているだけで、教室の募集はかけていません。
だから、潜在的な生徒となりうるフォロワーは、おかしいなと思っているはずなのだ。そろそろフォロワーにも、教室を休業したことと、自分の近況を知ってもらい、フォローし続けたい人に残ってもらいたい。
─あかつきのスタッフとしての投稿に切り替えては、だめでしょうか?
─杏奈。最初の契約期間は、三か月なのよ。
あかつきと杏奈の間で結んでいる業務委託契約。その期間は、三か月であった。いわば、試用期間のようなものである。杏奈に見どころがなければ、そこで契約を切ることは、最初に言い渡してあった。
─そうであってはならないと思うけれど、三か月で契約が終わることもあるのよ。その時、三か月しか仕事が続かなかったことを、フォロワーも知ることになる。そうしたら、あなたの印象が悪くなるんじゃないの?
三か月しか、新しいステージでの仕事が続かなかった者など…。
杏奈は、少し首を傾げて考えていたが、
─その時は…また、考えます。
と、意外にも楽観的な見方をしていた。やりようは、いくらでもあるというように。
それよりも、杏奈はあかつきのフォロワーを増やしたかった。それが、自分がここで働く一つの価値というものではないのか。杏奈に価値があれば、三か月の契約期間が終わっても、契約更新してもらえるだろう。
「もちろん、私のインスタへの投稿内容も、美津子さんの承認を通してますよ」
小須賀が見ていたアカウントが自分のものであること、杏奈個人のアカウントであかつきの一スタッフとして投稿をすることを美津子が許してくれたこと、個人の投稿であっても美津子に内容を確認してもらっていること…これらを、足込温泉へと向かう車の中で、小須賀に説明した。
小須賀は、やや引きつり顔で、
「もっと白線寄りに!」
「すみません」
小須賀が乗る助手席側のタイヤが、車道の端の窪みに落ちそうだった。
─いかん。行きは運転させるんじゃなかった。
弁当が崩れる…。
そもそも、今日は小須賀が納品を済ませる予定だった。しかし、杏奈が運転させてほしいと言うから、仕方なく同乗することにした。
「もういかん。こんなことに命かけたくないわ」
「死なないように、見ててくださいよ…」
「見てたところで、どうしようもないでしょ。こっちにブレーキついてないのに」
「道、こっちであってますよね」
「一本道でしょ…」
小須賀は天を仰いだ。しかし、その間にも死期が訪れてはならないと、また前方に視線を戻す。
新しいスタッフが入ると聞いた時、良い大学を出ているというから、能力が高い人なのだと思っていた。しかし、蓋を開けてみると、機転の利かない不器用な女。杏奈がもっと学ぶべきだったのは、車の運転と、人への気遣いだと、小須賀は思う。
「あんまり、余計な仕事増やさないでよ…」
御殿川沿いの車道に出てから、小須賀はふいに杏奈に釘をさした。
「美津子さんは忙しいんだから」
どうやら、小須賀はようやく話を元に戻したらしい。余計な仕事とは、インスタの投稿内容の確認のことを言っているのだろう。
確かに、美津子はいつも甲斐甲斐しく働いている。SNSへの投稿に手を回せておらず、当然、あかつきのアカウントのフォロワーも少ない。だからこそ、確認する手間はあったとしても、そこにテコ入れできるのは、美津子にとっても嬉しいことのはずなのだが。
「先月は、ライターの仕事の締切もあって、特に大変だったみたいだよ」
「そうなんですか?」
初耳だ。
「知らなかったの?」
「はい」
「まあ、おれも詳しくは知らないけど。本なのか、雑誌なのか、何に関する記事なのか」
アーユルヴェーダに関することだろうか。杏奈がまだ携わっていない仕事も、美津子はたくさん抱えているようだ。
「時々お茶でも出して、労わってやってよ」
いいかげんで調子のいい小須賀だが、美津子に対しては、気遣いというか忠誠というか、ある種の献身性が垣間見られた。もっとも、美津子はお茶よりも、白湯のほうが喜ぶと思うが。
「でも、インスタへの投稿は、あくまでお客さんにつなげるために─」
「タイミングを見なよ」
「えっ、方向指示早すぎましたか?」
「そうじゃなくて」
車の運転のことじゃなくて。
「今、あかつきにはスタッフが少ないの。杏奈がものになれば別だけど、ヨガだって、お客さんに指導できる人がいないから、加藤さんを呼んでるくらいだし。お客さんが増えても、常時動けるセラピストもいないし」
「はい…」
「美津子さんは、今お客さんを増やす気がないの。分かる?なのにSNS頑張ったってしょうがないじゃん」
そうだろうか、と杏奈は思う。事業者なら、どんなに人員が少なくても、常に新しいお客さんの獲得を狙っているはずだ。
「でも、フォローしてくれている人が本当のお客さまになるのには、時差がありますから…」
「ふん」
小須賀は鼻を鳴らした。
─本当のことなのに…
小須賀は、杏奈が言うことには、なんでも反論しようとする。
「ていうか、ヨガのインストラクターの資格持ってるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、なんで教えられないの?それができたら、ちょっとはお客さんの役に立てるじゃん」
杏奈は言葉に詰まった。実際、人にヨガを教えたことはある。しかし、杏奈は自分には適性がないと思った。抑揚のある話し方や、堂々とした態度で、インストラクションをするなど…得意ではないし、第一、やってみた結果、好きではないと思ったのだ。そんなことは、小須賀には言えないが…
「車の免許持ってても、車に乗れないし。ヨガの資格持ってても、教えられないし」
小須賀は、おおげさに、はあ~とため息をついて見せた。隣の杏奈は、沈黙している。
─言い返さないのか。
横目でちらっと杏奈を見る。ちょっと傷ついたような顔をしていた。
─やりにくいな。
杏奈は、用事がない限り話しかけてくることは滅多になく、こっちが面白おかしく話してみても反応が薄い。怒らせるようなことをわざと言っても怒らない。むしろ、落ち込まれる。
小須賀は今度は、杏奈に聞こえないようにため息を吐いた。
アビヤンガは十一時過ぎに終わった。
静かにしているように言った後も、朋美は時々話しかけてきた。話というより、そこはくすぐったいとか、そういう部位にもアプローチするんですねとか、受けている施術に対する感想が多かったが。
乳房を除去しているお客には、胸のあたりにアプローチしても良いか、必ず尋ねるようにしている。朋美は隠そうとする気配はみじんも見せず、はいやってくださいと即答した。メスが入った後がまだ鮮明に残る平らな部分にも、左側の起伏と同じように、優しくオイルをおいた。
朋美は、顔は細面のため、オンラインで画面越しに話している時には気が付かなかったが、首から下は肉付きが良い。
「ん、もう終わったんですか」
ヒートマットにくるまれていた朋美は、美津子の声がけで目を覚まし、おもむろに目を開いた。こうやって包んでやると、どのお客もみんな安心しきって、やすらかに眠りにつく。赤子をおくるみに包むようだ。どんな人も、昔はこのように誰かに包まれて眠り、手をかけられてきたことを思うと、冷酷な世界の中で、病気になるまで戦い続けているのが、痛ましく思える。
美津子は下に降り、キッチンを覗いた。杏奈は今朝、小須賀に同乗してもらって、自分が車を運転して弁当を届けたいと言っていたが、なるほど、誰もいない。
美津子は再び施術室に戻り、自ら掃除を行った。このところ、杏奈に家事を任せられたおかげで、溜まっていた仕事をさばけた。それまでは、お客が身支度をする短い時間にも、忙しくパソコンに向かっていたが、そう焦る仕事はない。
施術室に戻ってシャワーの掃除と計測を終えると、美津子は再び一階へ降りた。居間に飾っている花の水でも変えようか。その時、先ほどまで静まり返っていたキッチンから物音がした。時計を見ると、十一時半。二人が帰ってきているらしい。
「お疲れさま」
美津子はキッチンを覗いて、二人に声をかけた。
「問題なかった?」
納品のことを言っているのか、車の運転のことを言っているのか。どぎまぎと冷や汗をかいている杏奈の後ろから、
「問題なかったっすよ。杏奈の運転は下手だったけど」
と小須賀が答えた。杏奈は言い返す言葉がない。
「まあ、慣れだから」
最後の言葉は、フォローのようにも思えた。美津子は一つ頷いて、
「食事は十二時過ぎにしようと思う。私は朋美さんに話があるから、食事に立ちあうわ。杏奈も小須賀さんも、その間にお昼を食べちゃいなさい」
「はい~」
小須賀は朗らかに答えた。
続いて返事をした杏奈は、どこか元気がない。元気がないのはいつものことだが、少し不貞腐れた表情をしている。大方、また小須賀からこっぴどくダメ出しを食らったのだろう。と、美津子は状況を察した。
十七食分の弁当と、四人分の昼食を作り終えたキッチンは、洗い物が溜まり、食材や調味料がいろいろな所に出たままになっている。杏奈は汚れた調理道具をシンクに入れて、ゴム手袋をつけた。
「洗い物はあとでまとめてやるから。小松菜マッルンだけなくなっちゃってたよね」
「はい」
「仕込んどいて」
「分かりました」
杏奈はゴム手袋を外して、冷蔵庫から小松菜の袋を二つ出した。必要な分だけ小松菜を取り出し、水で洗い、みじん切りにする。
「炒め物、今日もマッルンか。マッルンか、テルダーラか、ニパターンしかないな。杏奈、なんか知らないの。アーユルヴェーダっぽい炒め物」
「ええっと…」
杏奈は自分のレパートリーの中から、有力選手がいるか考えた。同時に、小須賀が自分を名前で呼び始めたことに、今更のように気づいた。
「サブジとか、ですかね」
「ああ、サブジね。作ったことあるな」
サブジはインドのスパイス炒めの呼び名である。マッルンにしろ、テルダーラにしろ、サブジにしろ、入れるスパイスや、食材によって、無限のバリエーションがある。
「茄子でなんか作りたいな。旬だし」
「でも、茄子は…」
美津子の決めた規則で、ナス科の野菜はあかつきではクライアントやお客に提供しないことになっている。
「ああ、そうか。なんかこの、アーユルヴェーダ縛りがネックになってるよな」
小須賀は苦笑した。
「おいしいのに」
「あとは何かあるかなぁ」
インドやスリランカの料理ではないが、スパイスを活用した和の炒め物を、いくつか作ったことがある。
「手が止まってるよ」
抜け目なく小須賀に見とがめられ、杏奈は慌てて小松菜を切った。こちらが作業をしている時に、考えないといけない質問をしたり、話をしたりしてくるからいけないのだ。と、杏奈は心の中で悪態をついた。
杏奈は相手の話を適当に受け流す、適度にあしらう、といったことが苦手だ。脊髄反射的に返事ができればいいのだが、なかなか言葉が出てこない杏奈は、脳でもって、じっくり考えないといけないのである。スピーディーな、当たり障りのない雑談が苦手。こういったコミュニケーションのヘタさは、会社員の時には、前面に出ていなかった。じっくり考えて、自分の要領でできる事務仕事が多かったからだ。ゆえに、誰かに叱られたことは少ない。
しかし、会社をやめてからは、やたらと認識させられる。スリランカ料理店で働いていた頃も、きっと杏奈は綻びだらけだったに違いない。女の職場だったので、直球でそれを指摘してくる人はいなかった。陰口は、あったかもしれないが。けれど、小須賀は違う。思ったことを、その場で、直球で打ってくる。
─苦手だなぁ。
小須賀は理不尽なことは言っていないけれど、杏奈は注意されると怒られていると感じてしまい、落ち込む。
杏奈は温めた油に、黒い小さな粒々の形状をしたスパイス、マスタードシードを入れた。とたんに、パチ、パチという音がして、勢いよくフライパンの外まで飛び跳ね始めた。
「マッルン作るの早くない?」
「へ?」
杏奈は時計を見、フライパンの中を見た。
「できるだけ作り立てを提供したいでしょ。カウンセリングの間に、冷めちゃうじゃん」
仕込みとは、小松菜を切って保存しておくだけでよかった、ということか。
小須賀は、はあとため息を吐く。
「もっとお客さんのこと見なよ」
「すみません」
マッルンは、基本的にアツアツの状態で出すことは少ない。それは、他の料理に手を掛けたいからだ。しかし、今の場合、他の料理はもうできていて、温め直すだけなので、余裕がある。それなのに、出すばかりの状態にしておきたいというこっちの都合で、保険を持たせてしまった。小須賀の言っていることが正しい。
─もう少し、お客さま本位にならなきゃいけないな…
杏奈は素直に反省したが、自分の不甲斐なさに落ち込んだ。
十二時過ぎ、美津子は鈴を慣らし、客間の朋美に食事の時間であることを伝えた。
応接間の長テーブルの一角に座った朋美は、来た時と同じ格好をしているが、眼鏡をはずしている。オイルを含んでしっとりとした髪は、まだ少し湿気を含むのが気になるのか、肩につかない位置で団子にしていた。
「わあ、おいしそう」
ほどなく杏奈が運んできた料理を見て、朋美は顔を綻ばせた。舌をうならせるような、執着が生じるような、派手でジャンキーな味付けのものはない、いつものアーユルヴェーダ料理。しかし、朋美の普段の食事を思えば、だいぶまともなご馳走だろう。もっとも、食事を摂らず、気付いた時にお菓子を食べるという習慣が身についてしまっている朋美にとっては、そのほうが心地よくなっているのかもしれないが。
「朋美さん、アーユルヴェーダの視点からバランスの取れた食事を考えるために、覚えておきたい比率があります」
「はいはい」
朋美は、身を乗り出した。美津子は料理を右手で指し示しながら、
「穀物が三割、根菜などの甘い野菜が三割、葉野菜など苦味と渋みをもつ野菜が二割、豆が二割。お肉やお魚を召し上がる場合は、豆の割合の中で置き換えます」
「へえ、意外と、たんぱく質が少ないんですね」
「たんぱく質は、野菜や、全粒の穀物からも摂れます」
もっとも、今日は半脱穀米である赤米だが。
「朋美さんは、今言った四つの分類の中で、どのカテゴリのものを摂ることが最も多いですか?」
「そうですね…」
朋美は、じーと皿の上にのる鮮やかな料理を見つめた。赤米、豆カレー、小松菜マッルン、人参カレー、瓜漬け。袋をべりりと破いて取り出す煎餅やクッキーを、この料理と対照して、どの料理に近いかと考えるのは無理な話に思えた。まったく種類の異なるものだからだ。しかし敢えて言えば、米だろうか。
「休みの日には、丼ものとかパスタにすることが多いから…お米と、豆?パスタの時はサラダも少し…」
美津子は、こくんと頷いた。
「では、今足りていないカテゴリの料理を、摂ることはできそうですか?」
「うーん…間食を干し芋にする、とかですか?」
「いえ、あくまで三食の食事の中でです」
朋美は苦笑いをして、腕を組んだ。
「朝は支度が…昼は細かい注文ができないし…夜遅くなると作るのも…」
ぶつぶつつぶやきながら考えているうちに、朋美は目を堅くつむっていた。朋美のように、勤務時間や形態を理由に、適切な時間にきちんとした食事を摂れないという人は多い。自分の食事の都合で、仕事や、家族に影響を与えてはならないと考えている。しかし、自分の力でなんとかできなければ、他者に頼むなど、やりようはあるだろう。時々娘の夕ご飯の面倒をみてくれているという実家の両親や、厨房の人に、相談すれば良い。必要なら、お金をかけるべきだ。将来発生しうる不調に対処するための、薬や医療費の代わりだと思って。そのことに気付くこと、必要性を感じることが大事なのだ。
美津子は口元に微笑を浮かべ、
「お食事前にすみません。とにかく、召し上がってください」
「はい。先生は食べないんですか?」
「ええ。そのあたりにいますので、何かあったらお声がけを」
美津子はそっとその場を離れながら、途中で気が付いたように朋美を振り返った。
「よく噛んで、召し上がってくださいね」
「分かりました」
朋美は快活に返事をした。普段は、噛むことなど考えないと言っていた。
美津子はキッチンのカーテンをくぐりながら、もう一度朋美を振り返る。存外にゆっくり食べている。
時には、自分の食事の都合で、仕事の調整も含め、周りを動かすことも考えてほしいものだ。度を過ぎなければ、自分本位などではない。彼女の健康は、彼女の職場の人にとっても大事であるはずなのだから。
「もう行くよ~」
美津子がキッチンに入ると、中では、小須賀が洗い物をしながら、杏奈に発破をかけていた。
「はい、大丈夫です」
杏奈はあたふたと残った料理を保存容器に詰めている。
「豆カレーは、とりあえず小さい鍋に移しな。後で温めて食べるでしょ」
「はい」
「汚れた鍋とフライパンは、こっちじゃなくてそっちのシンクだからね」
「はい」
杏奈はもういいかげん分かっているとばかりに返事をした。
「小須賀さん、先に食事をして。今日は次の仕事があるでしょう。ここは後で私も手伝うから」
シンクを挟んで小須賀の対面に立つ美津子にそう言われて、しかし、小須賀は首を振った。
「味見でお腹いっぱいっす。あと、もう十分もしたら出て行かなきゃなんないんで、ここ片付けていきます」
杏奈は不満げな顔で振り返った。小須賀がそこまでやらなくても、杏奈にはたっぷり時間があるのだから、置いておけばいいのに。
小須賀から聞いた話では、彼は夕方から、別の職場で歓迎会があるらしい。あかつきとレストランの他に、別の仕事もしていると聞いていたのだが、つい先ほど、キャバクラでボーイをしているのだと自分から打ち明けた。
いきなり小須賀がスマホに向かって歓喜の声を挙げたのがきっかけだった。何事かと聞いたら、懇意にしている女の子と食事に行くことになったと、隠すことなく告げた。その流れで、自分はボーイであると自分から明かしたのだ。まったく、気まずそうな素振りを見せず。
その女の子というのも、お店で働いている女の子、やり取りを続けている子であるらしい。その子との今までのやり取りまで、小須賀はしゃあしゃあと喋った。臆面もなく…むしろ、誰かに話したくてしょうがいない様子で。
しかし、当の杏奈は小須賀の別の仕事を知って驚き、絶句した。女好きには見えない、色白で痩せた、料理への愛を語っていた小須賀と、キャバクラのボーイという職業が、結びつかない。キャバクラに行ったことがあるはずのない杏奈にとって、どのような仕事なのか、想像もできないが。
「もう行くよ…」
もう行く、もう行くと言いつつ、小須賀は一向にキッチンから出て行こうとせず、鍋を磨きながら、時々杏奈に指示を飛ばしていた。美津子はその様子を少しの間黙って見ていたが、やがてそっとキッチンを離れた。小須賀はいい加減なところがあるし、無駄口も多いが、教育者としては適任だ。
■消化力を回復する
アーユルヴェーダトータルヒーリングセンター
あかつきにてお客さまをお迎えしました。
規則正しい生活と食習慣は
健康の要です。
しかし忙しい現代では
私たちはその原則から
外れてしまうことがあります。
内なる火を再び輝かせるために
あかつきでは消化に優しい
アーユルヴェーダ料理を提供します。
《本日の献立》
・赤米
・パリップ(レンズ豆のカレー)
・人参カレー
・小松菜マッルン
・瓜漬け
施設内で採れた野菜を活用した
消化に優しい料理です。
お客さまは
きれいに完食してくださいました。
今日のお料理が
食事の選択にインスピレーションを
与えるものであったら幸いです。
■癒しの体験
あかつきでは
・穏やかな環境でのゆったりとした時間
・一人ひとりに合わせた健康に関するアドバイス
・若返りのトリートメント
・栄養価の高いアーユルヴェーダ料理
を通して
心身の健康を取り戻すお手伝いをしています。
ホリスティックな癒しの旅の様子を
発信しています。
あかつき
@akatsuki_ayurveda
杏奈は離れの寝室で布団の上に横たわり、スマホの画面を眺めていた。
キャプションに今一度目を走らせた後、画面を上へスワイプさせて、表紙の写真に戻る。
杏奈のインスタグラムには、朋美に提供した料理をさっそく投稿した。教室を休業させて以降、フォロワー数は減っていたが、このところ、少し巻き返してきた。昔からのフォロワーが「いいね」をしてくれている。ユーザーネームからは、会ったことがある人か、生徒かどうかさえ分からないことが多いが、いくつかのアイコンには見覚えがある。
杏奈のインスタグラムには、自分が関わったものしか載せないようにしているので、専ら料理の写真ばかりである。
あかつきと、杏奈個人、二つのインスタグラムに載せる写真を確保するのは、大変だ。本当はクライアントのために丹念に盛り付けた写真を撮りたいが、クライアントの手前、パシャパシャ写真を撮るわけにはいかない。
そのため、自分の分を、わざわざもう一度綺麗に盛り付けて、写真を撮る。杏奈は食が細いので、クライアントと同じくらいの量を盛り付けて写真を撮った後、わざわざ料理やごはんを減らしてから食べる。ひと手間だし、こういうことをしていると、食事の時間が遅くなった。
施術中の写真は、美津子にお願いしているが、なかなかもらえない。免責事項の確認の際に、写真の掲載可否を確認しているのだから、可にチェックを入れているクライアントに対しては撮ってもよいはずなのに。美津子は、余裕がないというより、単にそこに熱意がないらしい。そのため、撮る習慣がないのである。口コミでクライアントが来ていたというから、集客に対するネタ集めの姿勢が乏しくても無理はない。せめて部屋や道具の写真だけでもと、空いた時間に杏奈が撮りに行く始末である。
杏奈はスマホを閉じ、ころんと布団の上に転がした。電気を消し、真っ暗にする。
夏だというのに、杏奈は薄いタオルケットで、体をすっぽり覆っていた。 自然豊かな環境で、真昼の熱を吸ったコンクリートの保温効果もないせいか、このあたりは、東京や実家の周辺ほど暑くない。今も離れの掃き出し窓を開け放って、網戸だけの状態である。
門を施錠しているとはいえ、最初は、この無防備な状態が恐かった。しかし、エアコンを入れると、体が冷えすぎたり、起きた時に身体がだるくなったりしたので、試しに窓を開けて寝てみた。そうしたら存外に快適で、やめられなくなった。
杏奈は肩の上までタオルケットを引っ張りながら、横向きに寝たまま体を丸めた。
─インスタへの投稿は気楽だなぁ…
顔も知らぬ聴衆に対して、横やりを入れられることなく発信をする。いいねが多くつくと、そこはかとなく嬉しい。
それに比べて…
─あんたはコミュニケーションが苦手なんだから。
─もっとお客さんのこと見なよ。
杏奈は、耳の上まで、タオルケットを被せる。顔を合わせての会話、コミュニケーションは、苦手だ。
─どうしてだろう、私は…。
コミュニケーションが上手かったら、もっと楽しく、前向きに、働けているのだろうか。美津子はもっと頼りにしてくれるだろうか。小須賀は、あんなに憎まれ口をたたくことなく、仕事を教えてくれるのだろうか。クライアントにももっと絡んで、望まれる情報を与えて、楽しくおしゃべりできるのだろうか。
─でも、私は…
人が恐い。怒られるのが恐い。美津子に仕事上の提言をする自信はない。普段の生活の中で、くすりと笑わしてやれるような言動もできない。小須賀の話のテンポについていけない。クライアントと目があったらどんな顔をし、どんな言葉をかけたら良いのか、分からない。
杏奈は、自分の教室が下火になってきたとき、単に経験のなさからのサービスの悪さと、コンテンツに問題があると思った。アーユルヴェーダの知識が中途半端だからだ、とも。しかし、根本的な原因は、そこにはないのかもしれない。
人の気持ちを察し、気を利かせ、望む行動をする。そのエネルギーと、人への興味が、圧倒的に不足しているのではないだろうか。
─いつから、こんな…
小さい頃からその傾向はあったが、それでも、杏奈はその自己認知を破って活き活きしていた頃の自分を知っている。知っているが故に、その頃の自分が恋しかった。
しかし、何がその自分を引き出すかを知っている杏奈は、絶望する。その何かは、もう手元にないからだ。
どうして今日は、こんなにも心細い。
自分の不甲斐なさを感じさせられる場面に、幾度となく遭遇したからだろうか。
暑さで体は緩んでいるというのに、外のものから自分を守ろうとするかのように、心は堅く閉ざされ、緊張し収縮していた。
眠ることができず、仕方なく杏奈は起き上がって、カーテンを開けた。すると月光が縁側に降り注いだ。杏奈はそこに座り、両手で膝を抱えた。
─尾形さん。
杏奈は、通常は呼んではならないと自制する、そのひとの名を呼んだ。
辛い時に、苦しい時に、どうして、まだその名を呼ぶのか。
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