第8話「土に膝をつく」アーユルヴェーダ小説HEALERS

ブログ

 優香は、滞在一日目の午後はナシヤ(オイルの点鼻)、その後ハーブボールを使ったトリートメントを受けた。
 夕方に外出しても良いと言われたが、田舎町の足込町で、優香はどこへ行ったら良いか分からない。唯一、時間があったら温泉に行ってみようと思っていたのだが、施術の後は体がぽかぽか温かく、また服を脱いだり着たりも面倒くさいので、腰が上がらなかった。
 翌日の午前中は、痩身のトリートメントを受けた。二時間にもわたる施術で、前日と同じアビヤンガの後に、脂肪分解作用があるというハーバルパウダーのスクラヴを受ける。その後、ヒートマットに包まれ、発汗する。
 優香はシャワーを浴びた後、肌が昨日よりもいっそう滑らかになり、体もわずかだが軽くなったように感じた。それもあってか、優香は昨日より、お昼ごはんを多めに盛ってもらった。
─優香さんの体重は、身長に対して重すぎるわけではありません。減量を意識した食事にしたり、量を減らしたりしなくても良いと思います。
 美津子はそう言っていたものの、蓋を開けてみると、あかつきの食事は(優香からしてみれば)普通に減量を意識したような質、量だった。あっさりとしていて、消化が早い。量も優香が思ったより少な目。これが、美津子(実際には杏奈が考えているのだが)にとっての通常の食事なのだ。
 施術の間は横たわっているだけなので、そうお腹も空かないだろうと思っていたのだが、間食をしないことも影響するのか、いつもよりお腹が空く。
 お昼ごはんは、赤米、豆腐ときのこの照り煮、人参マッルン(人参とココナッツの炒め蒸し)、オクラのココナッツミルクカレー。実のところ、豆料理はお腹が張りやすく、体が重くなりやすいと感じるので、豆腐を見て少し安心した。赤米は古代米のようなものかと思っていたが、日本米とは全く異なる。南インドやスリランカでよく食べられているものらしく、パラパラッとした、長粒米より噛み応えのあるお米だった。香ばしいような、独特の香りもある。
 料理担当のスタッフがアーユルヴェーダの観点から料理の説明をしてくれるのだが、優香は、彼女が言っているのことのほとんどを、聞いているそばから忘れてしまう。食べ物の性質を捉えるとか、いろいろな味を摂ると良いとか、どの食材やスパイスがどの体質の人に良いとか、様々なことを話してくれる。アーユルヴェーダの食事は興味深いのだが、彼女の話を聞いていると、奥深く、複雑なものに感じるので、果たして自分に手が出せるかな、と思ってしまうのであった。
 優香の感慨など知りもせず、説明責任を果たしたと思っている杏奈は、キッチンに入って安堵のため息をついた。
「なにため息ついちゃってんの」
 シンクで洗い物をしている小須賀が、抜け目なく突っ込む。杏奈はこれに対しても、心の中でため息をついた。
「いえ、うまく説明できたかなあって」
「料理の?どういう風に説明した?」
 杏奈はしまったと思った。小須賀は、杏奈の小さな仕事の粗をすかさず見つけ、指導する。先ほどの説明をここですれば、批判の矢が飛んで来そうで、杏奈はそれを面倒くさく思ってしまう。
「忘れちゃいました」
 しかし、これもまた小須賀の癇に触れた。
「あのね、適当なこと言わないで」
「…」
「お客さんに分かりやすいように、お客さんが望むことを教えてあげるのが、料理の説明に行く人の役目じゃん」
「はい…」
「お客さんは何を知りたかったの」
「優香さんは…」
 あれ、と杏奈は思った。そういえば、何を知りたいのだろう。ちょっとした知識を伝えるたびに、楽しそうな反応を示してくれていたから、自分の説明で十分と思っていたのだが。
「初めての食材とか、スパイスを使った料理に、新鮮味を覚えてらっしゃったというか」
「お客さんがそう言ったの?」
「いえ、見ていて…」
「古谷さんだったら、何を言ってほしいと思うの」
「私…?」
「そう。アーユルヴェーダのことはちょっとしか知らない。痩せたいし、予防医学の視点を学びたいなと思ってあかつきに来た。食事が出てきた。何が気になる?」
 杏奈は考えた。しかし、答えが思い浮かぶ前に、小須賀の言葉の矢が飛んできた。
「想像しなきゃ。それができなかったら、お客さんに聞いてみればいいでしょ。何か気になることありますかって。お客さんの話を引き出した方がいいよ」
「はい」
「どうせ、どや顔で持論垂れてただけなんでしょ」
「そんなことは…」
「なに」
「…気を付けます」
 杏奈はあからさまに拗ねた受け答えをした。会社員だった頃も、レストランで働いていた時も、仕事の内容について注意されたことはあったが、こんな風にぐさぐさ刺されたことはなかった。
 杏奈は洗い物をしようと思い、コンロにおいたままの鍋をシンクに運ぼうとする。
「あ、おれが後でやるから、置いといて」
 自分は手が空いているのに、いいのかなと思ったが、小須賀に従った。洗い物をする時には必ず装着しているゴム手袋を、そっともとの位置に戻す。
「まかないにラップかぶせといて。今食べるんなら食べな」
「はい。でも、後にします」
 杏奈は調理台の上のものを片付けに入った。
 小須賀と仕事をするのは今日でまだ三日目だというのに、その間に何回、彼の発言で落ち込んだことか。もちろん、自分にも非があるのは認めている。会社員の時に、あけすけな先輩から、「眠そう」だとか、「ぼんやりしている」と言われたこともある。根本的に、今も変わっていないのだろう。
 それは言動や挙動に表現された、自分の中の土の要素の、負の側面だろうか。
 全ての元素には悪い面もあれば、良い面もある。
 土の要素の良い面とは、グラウンディング─地に足をつけること─だろう。杏奈は、自分には土の要素が多いかもしれないなと思う。落ち着いている、おっとりしている。これらは、昔から誰かが杏奈のことを形容してきた言葉だ。
 土の重さが増したら、どうすれば良い。体を軽くすることだ。軽くするには、風や火が必要だ。風は物を乾かし、軽くする。火は物を燃焼させ、軽くする。風を体の中に呼ぶ方法はすぐに思い浮かんだ。呼吸だ。すぅっと、杏奈は息を吸い込む。
 小須賀はどうだろう。彼はよく喋る。それは、彼と一緒に仕事をした三日の間に感じた印象だった。杏奈の返事はいつも短いが、それでも一人でしゃべり続けている。杏奈は無駄口や冗談が少ない。意図してではなく、それができないのだ。しかし、小須賀は一人でも面白そうに喋っていた。それも、ジェスチャーをつけて。今は、鼻歌を歌いながら洗い物をしている。サボりがちな印象も受けたが、仕事は早い。
─小須賀さんは、風かな。
 その動きや活発さに影響を受けて、杏奈も仕事の速度を小須賀に合わせなきゃと思うし、淡泊な返答しかできないまでも、無口な人と仕事をするよりは口を開いている。
─火も感じるなぁ。
 怒りは、火だ。けれども、小須賀に火が強いと感じるのは、ただ単に杏奈が注意と怒りを混合してしまっているせいかもしれない。杏奈はよく小須賀に注意される。頭の中では怒られているのではないと分かっているものの、「怒られてた」と感じてしまっているのは事実だ。小須賀の、細かいところにも気づける鋭敏さもまた、火の要素が持つ特徴であろう。
 ある人の中にある元素が増えると、周りの人にも、その要素が増える。
─でももし、反対の元素で対応すれば…。
 例えば、注意を受けたとして、火のように燃えて自分は悪くないと怒るのではなく、水のようにクールに、土のように落ち着いて、相手の言葉をかみ砕き、客観的に正当性をジャッジすることもできるはずだ。
─今考えたことをメモしておきたいなあ。
 杏奈はラップを二重にかぶせたことに気がつかず、かぶせた後も、遠い目をして、ぼーっと壁を見つめていた。小須賀はそんな杏奈を見て、やれやれと首を振った。
─またなんか、ごちゃごちゃしたこと考えてるな…
 おそらく、とんでもなくややこしく、しかし、小須賀に言わせれば、どうでもいいを考えているのだろう…。

 杏奈は、小須賀にキッチンから追い出されてしまった。暇ならお客さんがいないところで、整理整頓でもして来いと。
「ちょっと体を動かせて、気分転換になりそうなところ、このあたりならどこがありますか?」
 優香は、居間の掃き出し窓から外を見て、ちょうど美津子と話をしているところだった。杏奈はダイニングチェアの背もたれを、片っぱしから拭いていく。
「今の季節なら、栗原神社の杜の中に、紫陽花の群生が見られます。ギリギリ見頃だと思いますよ。車も停められますし」
「歩いていける距離ですか?」
 優香は体を動かしたいらしい。
「片道十分くらいです」
「そのくらいなら行けそうですね」
 今日も曇りとはいえ暑い。長い時間外にいるのは難しそうだった。
「はい。午後の施術は早く終わりますし、夕食までの時間に行って来られると良いですよ」
 足込町には、これといって観光地になりそうなところはない。唯一、町の外からも多くの人が来るところと言えば、足込温泉と善光寺くらいか。ただ、自然が好きな人であれば、林道を歩いているだけでも、心癒されそうな場所ではあった。
「もう少し涼しい季節なら、明神山に登るのが森林浴になって一番良いのですが」
「明神山って、ここの裏山みたいな…?」
「ええ。栗原神社の奥に登山口があります。今日はちょうど、その登山口のあたりまで行くことになりますよ」
 美津子はたびたび栗原神社を訪ねている。神社の人に渡すものがあったり、花神さまにお供えしたいものがあったりと、いろいろ行く理由はあるらしい。しかし、一番の目的は散歩をすることであった。体を動かし、その間に頭の中で考えていることをまとめるのだ。これに倣って、杏奈も度々、栗原神社を訪れるようになった。紫陽花の群生地があるとは、知らなかったが。
「お一人で大丈夫ですか」
「スマホで、ナビを見ていきますので…でも、さすがに紫陽花の場所まではナビにのってないか」
「何なら、スタッフをつけますが」
 後ろで聞いている杏奈は、ドキッとした。
─もしかして、私…?
 おそるおそる、優香と並んで立つ美津子を見ると、目が合い、小さく頷かれた。美津子の目線を優香も追い、杏奈に視線が留まる。
「案内してもらってください。ちょうど、この子も紫陽花見に行きたいって言ってたので」
─言ってない。
 杏奈は心の中で呟いた。美津子は、意外と無茶振りしてくる。
「一緒に行きます?」
 よく知らないあかつきのスタッフと一緒に散歩など、優香のほうから断ってくれるものと期待したが、優香は人の好さそうな笑顔でそう言い、杏奈に微笑みかけた。
 優香としては、中途半端に子供っぽい見た目の杏奈が、娘のように思えて、気楽さを感じていたのだった。

 そういうわけで、杏奈は午後の施術の間に、少し夕食の仕込みを進めた。
 献立は五分づき米、夏野菜とレンズ豆のスープ、ゴーヤととうもろこしのスパイス炒め。
 小須賀のリミットは午後四時だが、人件費をかけるほどの仕事もないからと、昨日も今日も、午後の施術が始まる頃には上がってしまう。
 午後の施術は、フットマッサージとフェイシャル。
 夕食の仕込みを早々に終え、今日のインスタへの投稿内容を練り、それでも時間が空くと、杏奈は足込町のホームページを見た。今後、クライアントをどこかへ案内することも増えるのだろうか。
─車の運転、どこかでやらなきゃな…
 実家に帰るか?父か母に同乗してもらい、練習するか、教習所に行き、お金を払って練習するか…。
 それにしても、車を運転して、足込町のどこにクライアントを連れていくというのだろう。足込町のことも、もっと知らなければならない。
 杏奈は、美津子に渡された二万五千分の一地形図を見直した。紫陽花が群生しているという位置に、付箋が張ってある。このような地形図を見るのは、中学校以来…いや、小学校以来かもしれなかった。
 経度と緯度をスマホの経路アプリに入力した。地図を持っていても、読み方がよく分からないのでは迷うかもしれない。
─明神山か。
 杏奈は、神社を示す地図記号から、北東に向かって連なる等高線に目を走らせる。標高六百三十三メートル。
 杏奈は似たような標高の山を検索した。愛知県豊田市の猿投山は六百二十九メートルと、ほぼ同じ。東京都八王子の高尾山は五百九十九メートル。猿投山になら、中学生の頃、登ったことがある。黙々と山を登ることは、嫌いではなかったという印象があった。しかし、それほどたやすく、上り下りできた記憶もない。
─いずれ、クライアントを連れてここを登ることもあるのかな。
 というより、杏奈にその自信があれば、やってくれ、というのが美津子の気持ちだろう。
 自分が山岳ガイドになるかどうかは別として、休みの日に、気分転換を兼ねてここを登ってみるのも良いかもしれない。
 午後三時。
 施術が終わり、杏奈はアシスタントとして片付けを行った。優香がシャワーを浴びている隙に、洗い物、床掃除、ベッドのセッティングまでできればベスト。作業をしながら、杏奈は最も効率の良い手順を、頭の中でシミュレーションする。何も考えないでも身体が動く、という状態に早くなってくれればよいのだが。
 優香が施術室を出ると、今度はメイクルームの掃除をする。拭き掃除をし、備品を元の位置に戻す。スキンケア製品のラベルが正面を向くように気を付けて。それから床掃除。髪の毛が一本も落ちていない状態にするべく、しっかりと目を凝らして掃除をする。
 掃除が終わる前にクライアントが下に降りる音が聞えれば、途中でも手を止めてお茶を出しに行く。しかし、優香の準備はそれほど早くなかった。
 施術後のフィードバックが終わり、美津子と優香の四方山話が止むまで、杏奈は書斎に控えて、本を読んでいた。勉強になると思った箇所には付箋を張り、後でまとめてパソコンに入力をするつもりだ。
 優香が外に行くと言い出すのを、忠実な飼い犬のように待っていた杏奈だが、しかし、なかなか声がかからなくて、暇を持て余した。
 しばらくして、軍手を持って外に出た。珍しく自発的に、畑の草むしりをする。
─もう食べごろなのがあるな。
 最近、きゅうりはすぐ大きくなる。美津子がよく手入れをしているので、目立つ雑草などはほとんどなかった。それでも、杏奈は曇天なのをいいことにしゃがみこんで、ちまちま小さな雑草を取った。
 声がかかったのは四時を回ってからだった。美津子がドクダミのチンキで作った虫よけスプレーを玄関先でしっかりと吹き付けてから、外へ出る。
 曇りとはいえ、暑い。栗原神社の参道までたどり着けば、木陰に入れる。杏奈はそこまでは少し早歩きで先導した。
 栗原神社の鳥居が、厳かに二人を迎える。
「お姉さんのお料理、おいしいですね」
 西参道を通って、ひとまず本殿へ向かう途中、優香がそんなことを言ってくれた。
「ありがとうございます。物足りなくはありませんでしたか」
「ええ」
 優香はにこやかに答える。
「不思議なもので、食事は出されたものだけって割り切っているからか、不思議と他のものは欲しなかったの。眼中にないっていうか」
「そうですよね」
 杏奈も、まさに今までその縛りで、間食とコーヒーを脱却したところだ。杏奈はその話を優香にした。
「やっぱり、体調変わった?」
「劇的にというほどではないかもしれませんが、お腹の張りは少なくなりました。あと体重がちょっと減りました」
 減ったと言っても数百グラムだが。しかし、優香に希望を持ってもらいたかったので、そこまでは言わなかった。
「そうなのね。私もまだ二日目だけど、むくみは感じないなって」
「そうですか」
「でも、ホットヨガとか行った後もそうだったかも。やっぱり、発汗することが大事なのかな」
 熱い環境でヨガを行えば汗をたくさんかくので、少なくとも終わった直後はむくみを感じないかもしれない。
「体重も、午前中の痩身トリートメントの後測ったら、来て最初に測った時よりも、一キロ近く落ちていたの」
「えっ、本当ですか」
 それは、本心で羨ましいと思う。体脂肪が落ちたというよりは、余分な水分が抜けた結果なのかもしれないが。
「でも確実に、食べ物の影響もあると思う」
「だといいのですが」
「アーユルヴェーダの料理を家でも実践したいと思ったら、まずどんなことに気を付けたらいいですか?」
 年下の杏奈相手に、優香は敬語と友達口調が入り混じる。
 杏奈は小須賀に言われたことを思い出した。
─お客さんは何を知りたかったの?
 こうやって、クライアントと何気ない時間を共有したことで、クライアントの意見を引き出すチャンスを得た。
「消化できるかどうかが大切です」
 優香の反応はイマイチだった。あまり、具体的な答えではないからかもしれない。
「食べているものは普段の料理のままでも、量や、頻度を、自分の消化力にあったものに変えるだけでも、大分変ってくると思います」
「量…ね。美津子さんにも、初日に同じようなことを言われました」
 杏奈も思い出した。自分にとっての適量を知る方法を話していた。
「その時も言ったけどね、私、つい食べ過ぎちゃうの」
「食べることがお好きなんですね」
 杏奈はそれを肯定するかのように、愛想よく笑ってみせた。
─優香さんは、量のことをどうこう言われるのは嫌なのかもしれないな。
 それでは、何を食べるかについて、家で実践できそうなことを提案してみるか。でも、こちらが理想とする完成形を提示したところで、普段の料理とあまりにかけ離れている場合、それはハードルが高いと感じられてしまいそうだ。
「ご自宅では、普段どんなものを召し上がってらっしゃるんですか?」
「ええっとね」
 優香は木陰を選んで足を進めながら、家での食事内容を思い出そうとした。食事の内容は健康に関する質問票に書いて提出していたが、その時とはまた若干の変化がある。
「暑くなってきたから、やっぱり酸っぱいものを多く作るようになったかな」
「酸っぱいものですか」
「きゅうりの酢の物とか、豚しゃぶを作ってポン酢で食べるとか」
「おいしそうですね」
「簡単なものばかりなんですよ」
 優香はそう言って笑う。
「この前、冷やし中華を解禁したの。といっても、娘が当番の日に出てきたから食べた、っていう話なんだけど」
「冷やし中華…優香さんは、穀物をあまり召し上がらないと聞きましたが、麺もののときは、どうなさるんです?」
「それがね、食べちゃうのよ」
 しょうがないよねえ、と苦笑する。
「麺、おいしいですものね」
 最近、麺を食べていない杏奈は、麺への欲望が掻き立てられないように、あまり想像しないようにしながら返事をした。
「でも、麺を食べるとね、いつもより炭水化物を食べ過ぎちゃうからなのか、すぐに重い感じがするの」
「そうなんですね」
「だから、夜は麺を食べないように気を付けているんだけど、娘が作ったものには、あまり文句言えないでしょう」
「そうですね」
 料理を作れる娘をもつ母親の気持ちは分からないが、とりあえず肯定する。
「もし文句をつけようものなら、じゃあ食べないでって言われるのが落ち…怖いのよ~、年頃の娘って」
「思春期…ではないですよね」
「大学生。思春期の頃なんて、もっと怖かったわ。女の子ってね、口が立つのよ」
 杏奈は、母・陶子と自分の関係を思い出した。人から厳しい印象を持たれることはほとんどない杏奈だが、陶子に対しては、よく噛みついていた。
「今でもその延長のようなものかな」
「そうですか。でも、娘さんが料理作ってくれるなんていいですね」
「うん…」
 杏奈は、さりげなく優香を観察した。本人は体重やむくみを気にしているが、半袖のトップスから出ている二の腕は、細くはないものの、太くはない。標準体型なのである。よく笑顔になるし、喋り方も、おばさんくさくなく、むしろどこか少女のようなかわいらしさがある。もともとはピッタ、ヴァータが優勢な人なのだから、今の重さから解放されれば、より快活で活発なところが出てくるのだろう。
 はっとして、杏奈は足を止めた。
「あ、すみません。このまま微動だにせずお待ちください」
「?」
 杏奈は急いでスマホを取り出し、位置を確認する。なるほど、このまま神門を通り過ぎ、さらに北東に向かえば、明神山の取りつきにあたるらしい。しかし、紫陽花の群生地は、途中で右(南東)の分岐を曲がる。
「こちらです」
 杏奈は、スマホを見ながら、左手を前方にかざした。優香は静かにその後に従う。しばらく、石の小径が続いていたが、ほどなく木の根が張り出す、山道らしい道に変わった。きわめて緩やかな下りである。
 案内人として同行している以上、来たことがないとは言えなかった。
 しかし、五分くらい歩いて、道の先に紫陽花が見えだした時、
「うわ…!」
 思わず、杏奈は感動を声に出した。道の両脇に、紫陽花が自生している。先に進むにつれ、どんどんその密度は増す。青、白、紫の、テマリ咲きの品種ばかりだが、それが却って、統一感があって良い。
「すごい」
 優香も顔を綻ばせて、紫陽花が咲き誇る様子を写真におさめようとする。
 杏奈も、これはいいネタになると思い、スマホを取り出して、優香の邪魔にならないよう気を付けながら写真を撮る。ある程度、使えそうな写真を撮り終わったところで、杏奈は優香に声を掛けた。
「お撮りしましょうか?」
「いいんですか…?じゃあ」
 優香は「全然化粧してないけど、いいのかなぁ」などとブツブツ言いながらも、紫陽花に顔を近づけて、カメラ目線になる。
「平地よりも標高が高いからかなぁ。まだ全然見頃ですね」
「そうですね」
 実家にいた頃、近くの寺まで紫陽花を見に行った。その時もちょうど満開だった。あれから何日も経っているが、このあたりでは今でも見頃のようだ。
─紫陽花、か。
 杏奈は、その可憐な淡い花を瞳に移しながら、遠い記憶の中の紫陽花を重ね合わせた。
「もう少し、先まで行ってみますか?」
 今度は、優香のほうが先に立っていた。杏奈は頷いて後に続く。
 二人の他には誰もいない。かなり穴場スポットのように思われた。美津子は、一人でここまで散歩しに来ることがあるのだろうか。
 緩やかな下りが、途中から緩やかな上りになった。しばらく歩みを進め、もうここから先は紫陽花が少なくなってきた、という所まで来て、二人は元来た道を振り返った。
「うわあ…!」
 二人は同時に歓声を上げた。眼下にいっぱい、紫陽花が広がった。紫陽花のお花畑に来たかのようだ。
「綺麗…!来てよかった」
 優香は少し息が切れていた。普段あまり運動をしないと言っていたから、足元に気を付けながら山道を少し歩くだけで疲れるのだろう。
 二人はそこでもしばらく、写真を撮った。今だけは、曇りなのが惜しかった。
 昨夜、雨が降ったからか、紫陽花はその葉やガクに水滴をのせていた。うっかり紫陽花に近づき過ぎて衣類が触れると、触れた場所がじんわりと濡れる。
 草のにおい、木のにおいに、雨と土のにおいが混ざった、濃厚な森のにおいが鼻を突いた。太陽の光と熱が降り注ぐと、そのにおいはいっそう濃くなって、風に運ばれ、空間を移動する。
 あかつきの窓を開けた時に感じていた森のにおいは、この杜の木々や草花の一本一本と、大地と宇宙からのエネルギーが交じり合ってできたものだったのだ。
「娘がね、大学やめたんですよ」
 帰途を歩いている途中、優香がふいに口を開いた。
「大学を…」
「上の娘なんだけどね」
「何か、やりたいことが?」
「よく分からないの。漠然と、世界を放浪したいって言い出してね」
 そのような、ドラマの世界のような突拍子もない台詞を、優香の娘は発したのか。いや、かつて自分とて「アーユルヴェーダの料理教室を通して人を癒したい」という、両親からしてみれば「世界を放浪したい」と言うのと同じくらい奇妙なことを言い出したのだから、人のことは言えまいが。
「そんなふらふらしたこと言うなんて…信じられませんよね」
「大学は、休学にするのではなくて…?」
 優香は首を振った。やめたらしい。
「それで、海外に渡航する計画を立てているのですか?」
「ううん。なんか、バイトを始めたの。音楽とバーが一緒にやったようなところでね」
 ミュージックバーのことだろう。お金を貯めるつもりなのかもしれない。
「娘さんは、何かやりたいことがあるのですか?」
「さあ。それが、よく分からないの」
 優香は、ふう~とため息をつく。
「私の、背中の見せ方が悪かったかもしれないな」
「優香さんはお嬢さまを二人、成人まで育てて、ちゃんとお仕事をして、服装とかお食事とか、自己管理もきちんとされているじゃないですか」
 杏奈は後ろを振り返って、慰めるような言葉をかける。
「ありがとう」
 優香はふふっと笑って、それに答えた。
「でも、実は私、占いで生きていきたいって思ってるんですよ」
「へ?占い…ですか」
 木の根が張り出し、石が埋まり、平らとはいえない足元に注意を向けたまま、杏奈は相槌を打つ。
「まだ、会社を辞めて、そっちに力を注ごうっていう段階にはないんですけどね」
「それは…どうして」
「うーん、自信がないからかな」
 占いで食べていきたいとは思ってはいるが、それはそんなに易しく叶うことではないだろう。
「占いでね、その人の疾患予測みたいなものもできるんだけど、それが分かったら、予防しなきゃってなるでしょ」
「将来なりうるかもしれない病気を、予防する…」
「そう。だから、アーユルヴェーダではどういう風に、病気を予防していくんだろうって、興味があったんだけどね」
 あかつきを訪ねた理由は、そこにもあったのか。
「今は、自分の分野に繋がりそうなことを勉強するのが楽しいかな」
「そうですか」
「うん。でも、勉強が楽しいって思ってると、いつまでたっても趣味止まりですよね」
「そんなことは…」
 といいつつ、杏奈は経験上、個人で独立して仕事をするということは、そんなに簡単なことではないと知っている。趣味だからこそ、楽しめるということもあるだろう。
「あと、お金かな」
 優香は、もう一つ、占いに注力できない理由を挙げた。
「やっぱりまだお金を貯めたいな。まだ娘たちにお金がかかること、いっぱいあるものね」
 やりたいことができないことの窮屈さは、杏奈にも分かる。
 自分の場合は、自分の責任だけで、仕事をやめ、新しい道に進むことができた。しかし、優香は母であり妻であることで、自分の進みたい方向に進むために、より大きな勇気と意志、強固な土台─経済力と、実力─が必要と感じるのかもしれない。
 夫に、二人の子供。
─私がもっていないもの…
 しかし、もっていないがゆえに、杏奈は方向転換を素早く行うことができたのだ。
「やりたいことがあるのに、自信が持てなくてなかなか踏み出せないって…これじゃ、娘のこと言えませんよね」
 優香は自嘲気味に言った。自嘲すると笑うのが、この人の癖のようだ。
「そう思うと、だんだん怒る気も失せてきて」
 優香の夫は、優香が大人しくなってしまった分、娘に意見するのが自分に回ってきてしまい、ひどく動揺したという。娘に煙たがられる役目は、それまで優香が担っていたのだ。
「それがある時ね、怒りの矛先が娘から、突然自分に向いたの。私は娘にどんな背中を見せてるんだろうって。そしたらね、またお酒飲んでるって言われたことを思い出したの」
 優香はその時のことを思い出す。土曜の夜、リビングのテーブルにお酒とつまみを並べて、ソファに夫と一緒に座って、見るともなくテレビを見ている時。娘たちは、普段はだいたい自室にこもっているのだが、飲み物を取りにきた娘がちらっとこっちを見て、
「だらしない!って…」
 娘の口調を真似てなのか、今までと少し違う、凄みのある声色で、優香は言う。
「でも私、自分たちがだらしないとは思わないんですよ」
「日ごろは、一生懸命働いてらっしゃるんですものね」
「でも、娘たちは、その姿は見ていないでしょう?」
 紫陽花の群生地を抜け、少し道が開けてきたので、二人は並んで話をした。
「私、お酒を飲んで、フワッとなるのが好きなのね。実際、見た目もふわっとするみたいなの。顔を赤くして、主人と二人でぼーっとテレビを見てて…」
 それが、娘の何かの気に触れたというのか。
「だらだらするのは、私、必要だと思うんですよ」
「リラックスも必要ですよね」
「そう、リラックスなの。そういう娘だってね、昼頃までずっと寝てたり、だらしないところあるんですよ」
 一度愚痴を言い始めた女の口は、止まらないのか、優香はいつしか、日々の鬱憤を吐き出すように饒舌になっている。
「だけど」
 一通り吐き出した後で、優香は急にしおらしい顔になって、
「私がもっと痩せた、綺麗なお母さんで、活き活き仕事をしている姿も、見せられていたらよかったなあって」
 と内省的になった。
 二人はあっという間に、神門の前まで来ていた。あかつきは目と鼻の先だ。この会話ももう少しで終わってしまうかと思うと、杏奈には物足りない気がした。せっかく優香が、自分の感情を吐露してくれているというのに。クライアントとの散歩は、しーんとしてお互いにさぞ居心地悪いだろうと想像していた杏奈には、自分がこのような感慨を抱くことなど予想だにしていなかった。
「あのう、私も、親からしてみれば突拍子もないことを言って、あかつきで働いているんですけど…」
「そうなの?お姉さんはすごくしっかりしているように見えますよ」
 優香は微笑みながら、でも、こうやって言えるのも、所詮は人の子だからかな、と思う。
「いいえ。同僚には叱られてばかりで」
 杏奈は小須賀のことを思い浮かべる。
「でも、いつか立派に、周りの人に貢献できるようになりたいって思います。でも…仮にそうなったとして、親がどう思うかは、私にはコントロールできないなって思います」
 杏奈がこの道で成功した後でも、優良企業で働いていれば…と思うかもしれないし、仕事もほどほどにそろそろ家庭を…と思うのかもしれない。その道で、どのくらい成功しているかなど、同業者や、クライアントでもない限り、分からないことだ。
「今のは、子供が親にどう思われるかっていう話で、親が子供にどう思われるかとは、また違うのかもしれないのですけど」
 こんな説教じみたことをスタッフが言っていいのかなと思いつつ、優香はちゃんと聞いてくれているので、杏奈は思い切って話を進める。
「容姿にしても、仕事にしても、頑張るのはとても素晴らしいことだと思いますが、娘さんに影響を与えることありきには、しないほうがいいと思います」
 優香は、少しだけ目を大きく見開いた。杏奈はこう付け加えた。
「娘さんが、どういう受け取り方をするかは、娘さん次第なので」
 優香には、コントロールできないことだ。
「娘さんのためじゃなくて、優香さん自身のために、それをやるって思っていたほうが良いと思うのです」
 そこまで言って、優香にも杏奈が言いたいことが分かった。
 今までにも全く、覚えがないことではない。自分が手本を示して見せても、子供に響かないことなど、山ほどある。優香が立派な背中を見せても、優香が望むような影響を、娘が受けるとは限らない。
「大丈夫」
 明るい声で、優香は言った。
「本当は、綺麗になりたいのも、活き活きできる仕事をしたいのも、自分のためですから」
「…はい」
「あわよくば、娘に派生効果があったらな~とは、思ってたけどね」
 優香は笑った。
 二人は、ゆっくりと参道を西へ進む。
「それにしても、肝心なところは見られないで、お酒飲んでだらだらしているところばっかり見とがめられるのも、参っちゃうよねえ」
 はあ~とため息をつき、残念そうな表情をする。
「お酒は、やめられそうにありませんか」
「うん…好きなんだよね」
「そうですか」
 優香の正直な答えを、受け止めるだけの返事をした。
「でも」
 独り言のように、優香は言った。
「この二日間は、飲みたいと思わなかった」
 それは、たった今、気付いたことのようであった。
 二人があかつきに帰ってきた時には、午後五時をまわっていた。美津子が二人を出迎えた。
「お疲れさま」
 優香が二階へ上がっていくと、美津子は杏奈を労った。
「綺麗だったでしょう」
「はい」
 むしろ、出不精になりがちな杏奈にはいい運動だったし、絶好の散歩コースを知ることができた。
「たまには気分転換するのもいいでしょう」
 さりげない美津子の言葉を、杏奈はただ善意として受け取る。
 さっきは意外にも無茶振りする人なのだと感じたが、美津子はきっと、優香の話し相手にさせるといいつつ、本当は杏奈にも紫陽花を見せたかったのだ。
─美津子さん、やっぱりいい人…!
 杏奈は地味に感動した。そしてふと、素朴な疑問が生じた。
「美津子さん、よくあんなところに紫陽花がたくさん咲いてるって知ってましたね」
 美津子は、既に杏奈に背を向けて自室に戻るところだったが、
「教えてもらったのよ」
 美津子はちょっと立ち止まって、ほんのわずかに顔だけを後ろへ向けた。

 翌日の早朝、杏奈は畑で野菜を収穫した。
 今日の昼食の献立は、畑で採れたものを見て決めることになっていた。きゅうりが二本、オクラが六本、ズッキーニが一本…
 杏奈は、ほんの少しだけ、畑仕事に慣れた。軍手をすれば、それほど虫も怖くない(触れはしないが)。
 収穫できそうな枝豆はなっていないか探している時に、手を伸ばして遠くの枝葉をかきわけようとして、杏奈は土に膝をついてしまった。土のついた軍手を外して、素手で土を払う。この日も黒いズボンだから、土を払ってしまえば、気にならないといえば気にならない。どのみち、膝丈より長いエプロンをするのだから、多少汚れていてもいいかと思った。
 今度は、手についた土を払おうとして、杏奈は手のひらを見た。
─土に触れる…
 土を払うのを忘れて、しばし手の平にバラバラ散らばった土を見つめる。
 美津子は、ここで採れたものだけを食べるよう、杏奈に言い渡した。そのため、毎日似たような野菜を使って、調理法を工夫することで、趣向の異なる料理を作った。そして食べた。
 食材に選択の余地がないことは、当初は窮屈かに思ったが、慣れてしまえば、どうということはない。
 この世には様々な料理やおいしいものがあると知っているからこそ、手の届くところにある季節の食材をおいても、外の世界から新しいものを欲する。けれど、手の届くところにあるものだけを使うと割り切っているから、外の世界のものに目がくらむことはない。外の世界にあるもののために、胃に余分なスペースを開けておくこともない。その代わり、畑の少しの野菜と、仕入れた穀物、乾燥した豆、時々の動物性のもので胃の四分の三を埋めた。残りの四分の一は、その食べ物たちを擾乱するために空けておく。
 それで杏奈は、すっかり、体の重さが抜けた。
─この二日間は、飲みたいと思わなかった。
 優香はそう言っていたが、優香も、ここにはお酒がないから飲めないと割り切ったのだろうか。お酒やおつまみの代わりに胃に迎え入れた食べ物は、食べた後にも満足感を与えると、気付いただろうか。
─選択肢が多いということは、贅沢なようで、不便だ。
 ここにないものに目をくらませ、得たいと欲し、手に入れ、消費し、消費したことを悔やむ。経済的にもエネルギー的にも、浪費だ。しかし、あかつきのような極端な環境に身を置かない限り、それは日常茶飯事。違和感すら感じまい。
 杏奈には、自分が好きな物を消化したいという身勝手さのために、今ここにあるけなげな生命をないがしろにすることは、ひどく傲慢なことに思えた。
─土、か。
 杏奈は手についた土を払った。
 枝豆はろくに取れなかったが、優香の朝ごはんの付け合わせに使うには、十分だった。
 最終日の施術はシロダーラ。額にオイルを当てて流すトリートメントである。シロダーラを行うまでには、通常、長い時間をかけてデトックスを促すが、今回は、滞在前からの優香の希望もあり、これを行った。
 杏奈は施術が終わる頃、施術室の扉の前で待機し、優香への美津子の声掛けとシャワーの音が聞こえてから、さっと中に入る。
 シロダーラの後は、いつもより洗い物が多い。真鍮のシロダーラポットと、それをアームにひっかけるための鎖。お湯を張ったボウルに浸し、その間に他の洗い物と、ベッド周りの清掃をする。
 オイルの付着したタオルは美津子が回収し、下に降りるついでに持って行ってくれた。
 ベッドに新しく持って来たタオルをセットし、花を浮かべた水盆をベッドの下から移動させ、床を拭く。
 シャワーが終わってしばらくすると、カーテンの奥でピッと音がした。優香が体重計に乗ったのだ。メイクルームに優香が入っていってから、杏奈はその数値をスマホに入力し、美津子に送る。それからシャワールームの掃除である。杏奈は手の湿疹がまだ治り切っていないため、水仕事の時はいつも、ゴム手袋をはめていた。本当は綿の手袋をはめて、その上から装着すべきだが、手間なのと、ゴム手袋の中で綿の手袋がズレやすいので、最近は省いてしまっている。洗う時に音が立ちやすいシロダーラポットを洗うのは後、と言われているので、杏奈はシャワールームの掃除が終わると、一階に降りた。
 昼ご飯の準備は終わっているので、キッチンに戻っても、これといってすることはない。
 優香の滞在三日目の今日は、小須賀は来ていない。どやされる相手がいないキッチンは、落ち着く。杏奈は調理道具や調味料がずらりとならぶキッチンを見渡しながら、ほっと息をついて、しばらくそこに佇んでいた。
 優香が一階に降りてくると、入れ違いで杏奈が上に行き、施術室とメイクルームの掃除をする。
 カウンセリングの後、休憩時間を挟んで、食事を提供する。昨日、小須賀に指導されたことを思い出して、杏奈は手短に料理の説明をした。優香にもし質問があれば、彼女が声を掛けやすいように、時々、必要ないと分かっていながら水を持って行ったり、居間の調度品を整えるでもなく整えたりしていたが、優香から声がかかることはなかった。本人は、ここの環境にも慣れたのか、リラックスしきっている様子である。
 食事が終わると、優香は帰り支度をしに客間へ上がって行った。
 杏奈は施術室の戸締りをして、ふきんの上で乾かしていたシロダーラポットを、再びスタンドにひっかけた。
「一日の流れは、だいたい分かった?」
 応接間にいる美津子が、仕事を終わらせて戻ってきた杏奈に声をかけた。
「はい。後で、施術室とメイクルームのチェックをお願いします」
「わかったわ」
 返事をしつつ、美津子は目線をキッチンに向けて、
「ご飯食べちゃいなさい」
「美津子さんは…」
「さっき、いただいたわ」
 クライアントがいる時は、食事は摂れる時にそれぞれが食べる。そういう決まりだ。杏奈は頷き、キッチンへ向かった。そしてそこで食事を終えた。
 午後二時前。
 美津子と杏奈は、玄関まで、優香を見送る。
「次は、もう少し長く滞在できる時に来たいと思います」
 優香はにこやかにそう言った。
 最後の施術の後の数値─体重や、体脂肪率─は、最初のそれと比べ、下がっていた。感覚としても、体が軽く、むくみが改善したように思う。何より、ここで覚えた規則正しい生活習慣と、食習慣、食事の質を、これからの生活にも活かしていきたい。そう優香は言った。
「ありがとうございました」
 優香は深々と、頭を下げる。最初から最後まで、律儀な、明るい人だった。美津子と杏奈もお辞儀を返す。
「あ」
 優香は、思い出したように、ちょっと体を右に傾げて、美津子の斜め後ろに立つ杏奈に声をかけた。
「娘の話、聞いてくれてありがとね」
 不意打ちだった。自分に言っているのだと気づくまでに一瞬、時間がかかった。杏奈は身じろぎして、慌てて、
「あ、いいえ…えと、とんでもないです」
「なんだか、愚痴っちゃったみたいで…」
「いいえ…いいんです」
 杏奈は胸の前で両手を振った。美津子はそんな杏奈の様子を横目で眺めた。
「じゃ」
 優香はぺこりと頭を下げて、スーツケースを引き、玄関の扉を開けた。外はさんさんと太陽が照りつけている。
 クライアントを見送るのは、ここまでだ。

 夜の時間帯にクライアントがいたのは、たった二日のことだったというのに、杏奈は、美津子と二人で夕飯を食べるのがとても久しぶりに思えた。
 美津子は、今日も静かに食べ物を咀嚼している。杏奈も基本、無駄口を叩かない性格だ。食べ物を食べている時は、特に。最初の頃は、何か話をしなければならない気がして緊張していたが、今はもう、美津子は自分の性格を承知してくれていると勝手に判断して、その努力もしない。第一、話しながらだと咀嚼がおざなりになるのだ。アーユルヴェーダが黙食をすすめる理由も、そこにあるだろう。だから二人が会話をするのは、だいたいいつも、食事を終えてからだった。
「優香さんと、娘さんのことについてどんな話をしたの」
 あと一口、きゅうりの塩昆布和えとご飯を、一度に口に運ぼうとした時に、美津子にそう訊かれた。
 杏奈は聞いたことを話した。そう長いこと話していたわけではないので、杏奈の口から話すと、ひどくさらっと終わってしまった。
 それでも、散歩の道中で、優香がかなり個人的な悩みを打ち明けたことには変わりないと、美津子は思った。娘の進路のことは、最近の優香の悩みの種だったに違いない。カウンセリングの途中や、自由時間に話をした時に、娘のことについてちらっと話すことはあったが、それほど具体的な話ではなかった。そして、優香自身の展望。
「クライアントの変化を追えるように、カルテを残しているの」
 娘のこと、優香の望みのこと。どちらも、優香の今の心と体の状態、行動の選択に、少なからず影響を与えていそうな話だと、美津子は思う。
「あとでフォルダの場所を教えるから、優香さんから聞いたこと、カルテに追記しておいて」
「はい」
 優香がもし、もう一度あかつきに来ることがあったら、アプローチを決める際の材料になるだろう。
 二人とも、食事を終えた。杏奈はピッチャーを取り、水を注ぐ。自分のグラスと、美津子のグラスにも。
「ところで、美津子さん」
 注ぎながら、杏奈は言った。
「答え合わせはしないのですか?」
「何のこと?」
「この間の課題です。五大元素を感じるっていう…」
「ああ…」
 美津子は、そういえばそんな課題を出したなと、振り返る。
─身の周りの五大元素を探して。五大元素を感じ、自分の持っている元素が、どのように影響を受け、影響を与えているのか、内外両方のベクトルで感じること。
 この数日、連日のように施術をし、優香の健康管理に努め、はじめての仕事に臨む杏奈のことを気にかけ…と忙しくしていたので、課題を出したのが遠い昔のように感じるが…
「課題を出してから、まだ三日か四日でしょう」
「あ、はい…早すぎますか」
 この娘は、たいがい、のんびりと構えているように見えるが、ある一面においてはかなりせっかちなところがある。アーユルヴェーダの学びを深めることにおいては、呆れるほどに貪欲で、先を急ぐきらいがある。
─一本気。
 自分が突き進みたいものに対しては。
 美津子はふっと笑った。似たようなところがある、他の人のことを思い浮かべたのである。
「杏奈。私は、あなたに一問一答で答えられるような、そういう答えを求めて、あの課題を出したのではないわ」
「…はい」
「だから、答え合わせをする必要はない」
「…」
「五大元素を感じ取り、どう影響を与えるか考えるプロセスで、行動が変化したり、心の在り方が変わったりはしなかった?それこそを体験してほしいの」
 外から内への、内から外への五大元素の出入りがもたらす影響を感じ取り、バランスを取る行動をする。
 努力してではなく、自然とこれができるようになれば、自己の健康を守ってくれるだろう。
─この課題をクリアできたかどうかは、いずれ知らされることになる。
 杏奈の言葉に、態度に、目の輝きに…それは現れるだろう。
「あのう、美津子さん」
 杏奈はたどたどしく口を開いた。
「例えばなんですけど。キッチンで、小須賀さんに時々叱られるっていうか…厳しく指導されることがあります」
 美津子はふんふんと相槌を打った。
「小須賀さんのこのエネルギーは、五大元素の火でしょうか」
 美津子は、肯定するとも、否定するともなく、少しだけ首を傾げた。
「私は、火だと感じました。感覚的に、ですが。それで、私もカッとなって、火になりました」
 小須賀の火が、杏奈に影響を与えたのだ。
「あ、でも、小須賀さんは間違ったことは言っていなくて、理不尽だと思ったっていうわけではないのですけれど」
 と、前置きしておいて、続ける。
「…で、外の火が内側に燃え移りました。じゃあ、バランスするためには、火を風で煽らないように、呼吸を整えたり、火を水で消すために、冷静に状況を客観視したり…というような感じでいいのでしょうか」
 自信のなさか、語尾は消え入るような小声になった。
「あれ、自分で言っていることがよく分からなくなってきました…」
 杏奈は頭を掻いた。
 答え合わせをする必要はないと言ったが…
─なるほど。考えたことを、議論するのは必要だな。
 と、美津子は思った。
「相手が怒ったなら、自分は冷静に対処する、ということね」
「あ、はい。でも、小須賀さんは怒ったっていうわけじゃなく、指導してくれたんですが…」
 告げ口や愚痴に聞こえないよう、杏奈は重ねてそこを強調する。
「今のは、外から内への影響ね。逆は何か考えた?」
「はい。ええと…私はなんだか、土が多いのかなって感じるんですけど」
「土、ね」
「でも、私がちょっと考え事をしていて、動かない土のように、動きが止まると、小須賀さんは火になるし。でも、土が火を燃やすとは思えないし…」
「あなたが動かなかったからこそ、小須賀さんが点火しようとしたんじゃないの?」
「あ、そうか…」
 と答えながら、納得したようなしないような。答えはあるのだろうか。なんだか、不毛な会話に思えてきた。
「いろんな考え方ができそうですね」
 先ほど、美津子が一問一答で答えられるようなものではないと言ったことを思い出す。
「人が人に与える影響は、たとえば夏は気温が上がるから自分も熱く感じるというような、単純なものじゃない」
「…」
「誰かが忙しく動き回っていて、風が生まれていたら、自分も急がなくではと風を生む場合もあるけれど、忙しく動き回っている人の反面教師になって、土のようにどっしりと構える人もいるかもしれない」
 杏奈はなるほど、というように頷いた。
 美津子はごくりと水を飲んだ。杏奈もグラスを口に運ぶ。
─まだ、空の要素は出て来ていない。
 水を飲む少しの間に、美津子の脳内で新しい問いかけが浮かんだ。
 杏奈は、空のことを考えたことがあるだろうか。自分の中に空があると、何が起こるだろうか。逆に空がなければ、どうなるだろう。
「あ、また外から内への影響の例ですけど…」
 わずかな沈黙の間、杏奈は杏奈で、別のことを思い出したらしい。
「土が…五大元素の土ではなく、本当の土が、人に与える影響について、ちょっと考えたことがあります」
 杏奈は、今朝がた畑で思ったことを話した。
「アーユルヴェーダでは、その個人の時々の状況によって、特定の食材の良し悪しを論じますけど」
 何が良く、何が悪いかは、それを摂取する個人のその時の乱れや、消化力の状況によって異なる。同じ食材であっても、人によって、栄養にも、薬にも、毒にもなり得る。
「けれど今日、野菜を摂るのに、跪いて、身をかがめて、土まみれになっているうちに、ちょっと思ったんです。どんな食べ物であっても軽率に批判するべきではない、って。生きているものの生命をもらってるんだから…」
 杏奈はグラスを両手で包み、微笑を浮かべていた。
「土は謙虚さと、感謝を与えますね」
 しかし、美津子は、笑っていなかった。視線を杏奈に向け、焦点を合わせることなくぼんやり見つめながら、はじめて、ブログやインスタグラムに、人の心に届く文章を綴っていたのは、目の前に座っているこの娘本人なのだと合致した。
 美津子の表情は穏やかだったが、内心では少なからず驚いていた。優等生じみていると捉えられなくもないことを、この子はごく自然に感じられる。心の奥底に、純粋さを持っている。けれど、霧がかかっていて、雲に覆われていて、普段はその光を、見ることができないのだ。
 しかし、美津子が驚いたのは、杏奈が自分と同じような思考回路を持っていると感じたからかもしれなかった。
「美津子さん?」
 何も返事をしないので、自分は何か変なことを言ったのではないかと、不安そうな顔で、杏奈が首をひねりながら声をかけた。美津子は我に返ったように、杏奈の二つの瞳に焦点を合わせた。
 美津子はそっと、居ずまいを正す。
「私は、特定の食材を食べるなと人に言うことが好きではないと…前に話したのを、覚えている?」
「え?あ、はい」
 しかし、どういう文脈でそれを話したか、自分がどう相槌を打ったか、杏奈はすぐに思い出せない。
「私は、別に説教くさいと思われるのが嫌だから、人に食べ物について指図するのは嫌だと、言ったわけではないの」
 美津子がそう言ったので、杏奈は自分がどういう返事をしたのか思い出した。
「私たちは、自分の都合で、特定の食べ物は良く、特定の食べ物は良くないという、思想を持つ。けれど、実際土に生きてみれば、そんなことを言っている余裕はない。その日採れるものを食べる。それが自分に合おうが合うまいが。そして、採れなければ、食べるものはない」
 つまり、食材の良し悪しを論じるのは、傲慢なのだ。だから、それを論じるのが好きではない。選択肢が豊富な、贅沢な世界に生きている、消費するだけの批評家の、思い上がりだ。美津子は、畑で作物を作る労力や苦労を知っているから、ここ数年、よりその思いが強くなっている。
「杏奈の考えに、私も同感よ」
 深淵なまなざしでそう告げた美津子を、杏奈はまた、美しい人だなと思った。心安らぐ落ち着きをもつ人。
「土の上に這い、土で手を汚すと、思い上がりは抑えられ感謝が生まれる。土の要素がもたらすものだ」
 杏奈は想像する。
 もし自給自足の生活をしていたなら、不器用な自分は作物をうまく作れず、食材の良し悪しを論じる余裕はなく、美津子の言うとおり、採れたものを食べるしかない。
 大切なのは、何を食べるかについては制限をかけなくとも、より良く消化できるよう、食べ方を工夫することかもしれない。
「じゃあ、美津子さんは、あかつきの料理から、特定の食材を除くことも、本当はしたくないのですか?」
 杏奈は元の文脈を思い出した。あかつきの食の方針を話し合っている時に、美津子は、特定の食材は勧められないなどとは言いたくないと話したのだ。
 杏奈の問いかけに、しかし、美津子は首を振った。
「除く必要はある。あかつきに来る人たちは、変化を望んでいるから」
 だから、食材に白黒つける必要が、ある。
「けれど、料理に使わなかったり、カウンセリングで食べるのをやめなさいと言ったりするからといって、私はその食材を批判したいわけではないの」
 美津子は懇々と説いた。
「今の、その人にとってどうかを考えているだけなの」
 そこまで言って美津子は、珍しく、少し自嘲気味に笑った。
「もう慣れていたはずなのに、今回もまた、クライアントにお酒を飲むなと言い続けるのが、どこか心苦しかった」
「お酒に対して…ですか?」
 美津子は首を縦に振った。
「もちろん、優香さんの気持ちを思ってでもあるけどね」
「はい」
「でも、もしカウンセリング中に、お酒を生業とする人が目の前にいたら、そんなこと言える?」
 杏奈は考えるように目線を上にやってから、すぐに首を振った。蔵元を前に、「お酒は体に良くありません。勧められません」と言えるか、という話だ。失礼だし、その人へのヒムサ(暴力)であるとさえ言える。
「特定の食材を否定することに、葛藤を抱くたび、私は土に触れる」
「土…」
「杏奈の言う通り、思い上がりが抑えられ、感謝が生まれると思うから」
 杏奈はやはり、美津子はうつくしい人だと思う。感謝と謙虚さを思い出すために、土に触れたいと言う。その心がけこそが、うつくしいのだ。
「でも、私には土に触れることは、少し難しいです」
 杏奈は、ここまで話した後で、少し気まずい。
「なぜ?」
 美津子は目を丸くして尋ねた。
「…虫が怖いです」
 返って来た理由は、拍子抜けするようなものだった。美津子は声を立てて笑った。
 杏奈はちょっと唇を尖らせた。杏奈としては、至って真面目に答えたのだが。

 


 

前の話へ戻る  》次の話へ進む

》》小説TOP

 

 


LINEお友達登録で無料3大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします

友だち追加


♡インスタグラム(@little.coa)では最新情報をお伝えします♡

フォローしていただけると嬉しいです。