日曜は、朝から曇りだった。
登山ガイドを行うべく、羽沼が九時前に千晶と優香を迎えに来た。
亜里沙と美海は残って、それぞれ杏奈と美津子から、アビヤンガを受ける。
「はぁ…はぁ…」
「大丈夫ですか?」
三合目にして、すでに息が上がっている千晶に、羽沼は声をかけた。
「あきまへんわ」
千晶は美津子から借りたトレッキングポールに体重を預けながら、立ち止まった。
「少し休みましょう」
登山道を塞がないよう、少し開けた場所で、一本取る(休憩する)。紅葉が進む明神山には、この時期、登山客が増えるのだ。
「お水、積極的に飲んでくださいね」
羽沼はそうも声をかける。美津子からも杏奈からも、登山中、十分な水分補給をさせるよう言われていた。明神山には、トイレがない。そのため、特に女性は水分補給を我慢してしまう。
「行きますか」
「ええ?もうですか…」
羽沼は別に、意地悪で急かしているのではなかった。
─尿意の抑制は、体にとって良くない。
彼女たちが自然な衝動に逆らわなくて済むよう、いたずらに山の中にいる時間を長くしたくはなかった。あかつきのメンバーと関わっている間に、自然とアーユルヴェーダの知識が身についてきたと、羽沼は思う。
「頑張って登ったら、ごはんがよりおいしく感じられるかもしれませんね」
一番後ろを歩く優香が、そう言って千晶を励ました。
「ほんとですねえ」
空腹は最高のスパイスとは、よく言ったものだ。
「横浜から来たお二人は、痩せてましたね」
「ええ。羨ましいです」
「やっぱり、ベジタリアンにするのがいいんでしょうかね」
後ろの二人がとりとめもなく議論するのが聞こえてくる。美津子や杏奈ならなんと言うだろうか。何を食べるか以前に、どのように食べるかが重要だと言うだろうか。
「あかつきさんの料理は、ベジタリアンではないけど、だいぶあっさり目だと思いません?」
同意を求めるように、千晶は優香にいった。優香は軽く頷いた。
「でも、いつもなら物足りないと思うようなものでも、ここで食べると、まあいっかという風になりません?」
今度は優香が、千晶に同意を求めた。
「うーん、その境地に至ったのは昨日の朝ごはんくらいからですわ」
千晶はふふふと笑った。何度、食品館わかばへお忍びで赴こうと考えたことか。
「味覚が正常に戻ってきたのかもしれません」
千晶は自分の食生活を振り返ってそう言った。千晶はファストフード、麺系、丼物など、味が濃いものを食べることが日常的に多かったので、やや味覚が鈍くなっていた自覚がある。
「あれだけ楽しみにしていた週に二度の晩酌も、今は待ち遠しくないかも…」
「千晶さんも晩酌されるんでしたね」
そう言う優香も、お酒好きであった。
「私も去年あかつきに滞在した時、お酒を欲しなくなりました」
「へー、禁酒に成功したんですか?」
「いえ、それが滞在が終わると間もなく、また晩酌する習慣が戻ってしまいました」
優香は千晶に話をしてから、自分の愚かさを露呈したようなものだと思い、少し後悔した。つまりその点に関して、自分は去年からまったく成長できていないということだ。
「そんなにいかんものとも思えませんけどねぇ」
願望を込めて、千晶は言った。
「羽沼さんは、お酒呑みます?」
千晶に訊かれて、羽沼は少し後ろを振り返った。
「呑みますよ」
それを聞いて、後ろの二人は笑った。
「安心しました」
「あかつきさんでは、セラピストの養成講座はやっていないのですか?」
二階でアビヤンガを受けている美海が、美津子に尋ねた。
「ええ、昔はやっていたのですが、今はそういう講座はしていません」
「頼んだら、していただくことは可能ですか?」
「現時点では考えていないです」
美津子ははっきりと言った。今は、通常のサービスを回すのがやっとだった。
「どうしてですか?」
「実は、今後亜海家のサービスに、アーユルヴェーダトリートメントを入れていきたいと思ってまして…」
亜海家は今、南インド料理の飲食店であるが、時々ヨガのワークショップやアーユルヴェーダの講座も行っている。飲食店は一事業として、他のサービスも展開していきたいと考えているらしかった。
「あかつきさんの施術室は、羨ましい限りです。飲食店の二階を借りて、施術を行えるスペースにできたらと思っているのですが、ここまで広いスペースはなかなか…」
美津子は苦笑いした。
土地の広さと、安さ。自然に囲まれた環境。事業をするという目線で考えた時、これらの要素を求める都会人は大勢いる。田舎ならではの難しさもあるのだが…
─ヨガと料理、アーユルヴェーダトリートメントの複合施設か…
それを運営しようと考える人は、存外に多い。去年の秋頃、ここへやって来たゆかりたちは、伊豆でそれをやると言っていた。
「亜海家を盛り上げたいと…あれもこれもとやりすぎてしまう傾向がありまして」
普段、美海はとても忙しくしてしまう。落ち着いて自己を内観できるのは、日課としているヨガをしている間だけだった。あかつきから提案されたものの、登山に行く気も、毛頭なかった。
それよりも、施術を受けている間に、セラピストから何かを聞いたり、施術の様子から何かを学び取ったりしたい。施術後に現れる結果を体感したいという思いが勝った。
「どうしてアーユルヴェーダトリートメントを取り入れたいとお考えなのですか?」
「自分もそうですが、周りに不調を感じている人が多くて」
美海は大きな疾患にはかかっていないものの、小さな不調はある。思考のまとまりのなさ、食欲減退、耳鳴り、めまい、疲労感、など。
「これだけ多くの人が犬のように働いているですから、様々な不調に悩まされるのも無理はありませんね」
「美津子さんは、何かを成し遂げようとして気持ちが急くことはありませんか?」
オイルを手に取りながら、美津子はしばし沈黙した。
「そう訊かれると…自分にも覚えがないわけではありませんね」
美津子は正直に答えた。美海は少し笑った。
「ちっともあくせくした感じには見えません…」
「うふふ。そう見えているのなら、ポーカーフェイスがうまいだけです」
「そうですか?どうしたら、そんなに穏やかでいられるのか、教えてほしいです」
確かに、亜里沙・美海姉妹からは、何かギラギラしたものを感じる。
「自由な時間をどう埋めるかは、私たち一人ひとりの自由です」
美海の背中の広い面に素早くオイルを塗布しながら、マハグナの観点から話をする。
心がラジャス(動性)に傾いている場合、リラックスしたり遊んだりする時間をとらず、ますます自分を鍛える行動をしてしまう。タマス(惰性)に傾いている場合、朝から晩までテレビの前に座ったり、ただ呆然として一日を過ごしたりしてしまう。この二つは、同じスペクトルの両端なのだ。
「極端な状態に陥っているのなら、マハグナの割合を自分自身に問いかけ、サットヴァ(純粋性、中庸)の方向へ導くことが重要です」
そのためには、体からの自然な欲求に、耳を傾けることだ。
「けれど、直感を磨き、自分の心と身体からの声に耳を傾けるには、私たちは疲れすぎています」
たとえば、週に数回ヨガに行き、「自分の内側に意識を集中してください」というインストラクションを聞いて、とても癒されると感じる人がいる。そうやってお金を払い、スタジオに行き、横たわって声をかけてもらうまで、落ち着いて内観することができなかったのだ。
それほど迷い、混乱している。
「けれど、ヨガであれアーユルヴェーダのマッサージであれ…それらは真の癒しではありません」
根本的な原因から逃れる、一時的な休息に過ぎないのだ。
「本当に大切なのは、マットを離れてヨガをすることです」
マットを離れた場所で、自分自身と周りをより良くするよう、心を尽くすことだ。
「はい、撮りますよ」
美しい紅葉をバックに、羽沼は二人の写真を撮ってあげた。
─私、写真撮られるのが苦手なんです。
中にはそう言う女性もいるが、そのような女性であっても、撮った写真を見せた時には、嬉しそうな顔をすることがほとんどである。優香も千晶もそうだった。
この他にも何枚か、二人が自然体で登山をする風景を撮ったし、インスタの投稿に使うための写真や動画も撮影した。
登山という、良い有酸素運動、かつ自然に触れることのできるアクティヴィティを気軽にできることは、あかつきの大きな強みだろう。
「あと、どのくらいで山頂ですか?」
「あと三十分くらいです」
「え、まだそんなに?」
千晶が残念そうな顔をするのを見て、羽沼は笑った。
「お二人とも、先を歩いてください」
そう言って羽沼は、道を開けた。
「僕は後ろからついていきますから」
そうしたのは、彼女たちの後ろ姿や、山の風景を気兼ねなく撮影するためだった。
サッサッサッ…
木の葉がすれ合うような、しかしそれにしては規則的で軽快な音が聞こえてきて、千晶と優香はその場に立ち止まった。
「ひゃっ」
行く手を見て、千晶が声を上げながら後ろに後ずさる。優香も息を呑み、自分よりも背が低い千晶の腕を捉える。二人は身を寄せて立ちすくんだ。
「どうしましたか?」
羽沼が急いで駆け寄ると、精悍な体つきをしたジャーマンシェパードドッグが、荒く息をしながら立ち止まっているのが、坂の上に見えた。
「オオカミ?」
「野生の犬?」
手綱をしていないのだから、千晶と優香がびっくりしたのは当然だ。
「大丈夫です。飼い犬ですよ」
二人を安心させようと、羽沼はすかさずそう言った。
ほどなくして、その犬・南天丸の束の間の主人である男が、素知らぬ顔で登山道を下ってきた。
「柴崎さん、こんにちは」
羽沼はその男、順正に声をかけた。
順正はちらりと羽沼を見ると、顎を引くようなしぐさを見せただけで、そのまま南天丸を従えて、三人の傍を通りすぎていった。
視線を合わせて、顎を少し引く。彼は時折このしぐさをする。とても分かりにくいが、それが彼なりの会釈なのだろうと、なんとなく羽沼には分かった。
リードをつけろと言う暇もなく、順正と南天丸は落ち葉で滑りやすくなっている登山道を、ほとんど走るようにして下っていく。
─あかつきに行くんだろうか。
今あかつきにいるのは、美津子と杏奈、それに客間の掃除をする大鐘だけ。大鐘は順正がいきなり訪ねてきたら、びっくりするだろう。
「びっくりした~、なんなんですか、あの人」
その声で、羽沼の思考は途切れた。既にびっくりしている人たちが、ここにいた。
登山道を駆け下りながら、
─やはりリードをつけるべきだったか…
今更のように、順正は思った。
山行中ずっと手綱を引くのが面倒で、南天丸も窮屈だろうと、つい怠けてしまったのだが。
─あの女たちは、あかつきの客か。
美津子が、十一月は忙しいと行っていた。
栗原登山口に下山すると、順正はいつもの分岐を左に曲がり、秘密のスポットへ向かった。
いつものように、生きているアカガシの幹に背をもたげると、倒れたアカガシの方へ向かって足を伸ばし、そこでしばらく、目を閉じながら呼吸に意識を向けた。
あかつきに寄るつもりは、端からなかった。
登山組があかつきに戻った頃には、午前中の施術は終わっており、午後の施術に向けての切り替え作業が行われていた。
「羽沼さん、お疲れさまです」
優香と千晶が客間に引き上げると、美津子は羽沼を労った。
「もうすぐ昼食ができあがりますから。食べていってください」
「ありがとうございます」
にこりとして踵を返す美津子に、
「柴崎さんに会いました」
と言うと、美津子は足を止めて羽沼を振り返った。
「あかつきには、来てないですか?」
「…来てないですね」
美津子は小さな声で、つぶやくように答えた。
羽沼がキッチンに入ると、小須賀が疲れた様子でフライパンを振っていた。
「お疲れ」
「お疲れ」
二人は口々に声を掛け合った。
昨日のオーバーワークで、小須賀はやつれた顔をしていた。結局羽沼は、昼食を食べた後、片付けまで手伝ってからあかつきを去った。
─仕事を掛け持ちしているスタッフにとっては、あかつきでの仕事が忙しくなると大変だろうな…
と、羽沼は思った。足込温泉で働く永井にしろ、実家の旅館の跡継ぎである鞍馬にしろ、イタリアンのシェフが本業の小須賀にしろ…
自分が集客に携わっただけに、彼らが副業としてのあかつきの勤務で、疲労困憊する姿を見るのは心苦しい。
羽沼自身も、仕事を取るようになった今となっては、お金を払ってもらっている得意先を最優先にすべき。
─あかつきへのサポートから、徐々に離れていくつもりだと言っておいたほうがいいかもしれない…
粟代へとバイクを走らせながら、そんなことを思った。
御殿山の麓にある丸太小屋が目前に迫る中、白線で仕切られた歩道を歩く二人の後ろ姿を見た。小さな女の子と、その母親。
後ろ姿であっても、それが瑠璃子と万里子であることは、羽沼にはすぐに分かった。買い物にでも行ってきたのか、瑠璃子の左肩からはエコバッグがぶら下がっている。
「…」
羽沼は後ろから声をかけようかと一瞬思ったが、すぐに気が咎めて、速度を落としながら、二人の傍を通り過ぎていく。
アウトドアスペースの横にバイクをつけると、羽沼はすぐにヘルメットを取り、バイクを離れた。
二人と話したいような気がするのに、古い友人にそれをするようには、気軽に話をしてはいけない気がする。
「まって~」
が、扉まで差し掛かったところで、車道から万里子の声が聞こえてきた。
ツインテールにした万里子は、赤いコートに、チェックのプリーツスカートという姿で、とても可愛らしい。その万里子が急いで走ってくるのを見て、羽沼はつい、そこに棒立ちになってしまった。
万里子は急に足を止めて、羽沼のバイクを見ると、
「乗っていい?」
と言って、バイクのほうへ近づいた。
「あ、危ないよ!」
「万里子!」
羽沼が注意するのと、瑠璃子が叫ぶのとが一緒だった。
危うくエンジン部分に手を振れそうになっていた万里子は、二人の声が同時に聞こえて、びくっと身体を震わした。
「まだ熱いから、触っちゃだめだよ」
「ごめん…」
万里子は一瞬しおらしくしたが、サドルに手をかけつつ、何かをねだるような目でこっちを見上げてくる。
バイクに乗せてやっても構わなかった。だが、どうしても万里子に手を伸ばせない。花祭の時に万里子を肩車して、瑠璃子が表情を曇らせたことを鮮明に覚えている。遭難事件の時は止むを得ずおんぶをしたが、必要でないのに触れるのははばかられた。
「ごめんなさい」
今度は後ろから駆け寄ってきた瑠璃子がそう言った。
「こら万里子、勝手に人のバイクにベタベタ触らないの」
つい、声が荒くなった。
万里子は少し息を呑んで、
「おこった…」
「お、怒ってないよ」
いつも自分が怒っているような言い様だったので、
「注意してるだけなの」
と強調しながら、瑠璃子はちらと羽沼を見やった。
羽沼は呆然と万里子を見ていたが、瑠璃子の視線に気づいて、
「いいよ。乗せてあげて」
「いいんです」
「のりたーい」
「こら、万里子」
また声が尖ってしまった。
─短気な人と思われちゃう…
しかし、万里子と一緒にいると、数分に一回は声が大きくなってしまう瑠璃子なのだった。
最終的によじ登ろうとする万里子を、瑠璃子が補助して、万里子はようやくバイクにまたがった。
「えへへへ…はぬま、どこいってたの?」
「え?今日は山に登ってたんだよ」
「そうなの?」
万里子は顔だけくるりと後ろに向けて、足をぶんぶん振った。
「万里子ちゃんたちは、お買い物?」
羽沼は万里子と瑠璃子を交互に見ながら尋ねた。
瑠璃子は肩から下げた荷物を持ち直しながら、
「ええ。万里子が体力あり余ってて…」
瑠璃子は万里子を指差しつつ、目を細めた。
「なんとか疲れさせようと徒歩で…」
それを聞いて、羽沼は思わず笑った。
バイクにまたがって、男の子のようにはしゃぐ万里子は、確かに元気があり余っているように見える。
顔をくしゃくしゃにして笑う羽沼を見ると、瑠璃子は、なぜか無償に切ない気持ちになった。
「そういえば、この間広報を見たよ」
あかつきを取材した記事も、そこに載っていた。
「キャッチフレーズ、よかったね。あれは瑠璃子さんが考えたの?」
「…いえ、井上くんが」
二人は並んで、万里子の後ろ姿を見ながら話をした。
「でも私が、横から口出ししちゃったので…」
井上は煙たがっていたらしい。羽沼はそれを聞いて、また笑った。
「…一人で登山してたんですか?」
瑠璃子は羽沼が背負っているザックをちらっと見た。
「いや、今日はあかつきのクライアントの引率で」
「あ、お仕事で」
「仕事っていうか…」
ボランティアだ。
─野球部の外部顧問といい、あかつきの手伝いといい…
自分の懐にはほとんど何も入ってこないようなことでも、時間を割く。
─きっと、あの時私の話を引き出してくれたのも…
そういう面倒見の良さというか、寛大さの延長としてのことなのだろうと、瑠璃子は思った。
どこか物憂げな表情で万里子の背中を見つめる瑠璃子に、羽沼は顔を動かさないまま、視線を向けた。
黒いスキニーパンツに、パーカーのついた、モスグリーンのダウン。滑らかで艶のある、レッドブラウンの髪は、いつもはシニョンにされていたが、今日はパーカーを伝って、前に後ろに流れている。おしゃれな恰好はしていないけれど、薄化粧をして、少しうねりのある髪を下ろしている姿も、やっぱり綺麗で。
ずっと見ていられそうだと思うけれども、そんな風に思っていることを、羽沼は瑠璃子に少しも知ってほしくない。
─瑠璃子さんって、意外と涙もろいところがあるんです。
この間、沙羅がそんなことを言っていた。
涙袋を赤く膨らませていた瑠璃子の顔もまた、羽沼は鮮明に思い出せる。
─繊細…
沙羅はそうも言った。羽沼は心の中で、沙羅に返事をする。
─そんなこと、分かってるよ。
仕事をしていた時も、複数人で集まって子供と一緒に遊んだ時も、自分は瑠璃子を目で追ってしまっていたのだから。
二人はもう、話すようなことはなかった。それでも、この時間が窮屈ではない。むしろゆっくり時が流れてくれればいいのにと思う。
バイクにまたがりながら体を上下させている万里子を見て、
─バイクにまたがってるだけなのに、何がそんなに楽しいんだろう…
瑠璃子は呆れるような、ありがたいような思いだった。
けれど、このままずっと二人して万里子をぼけっと眺めているのも、おかしい気がして、
「万里子、行くよ」
と、瑠璃子のほうからけじめをつけようとした。
「うーん、もうちょっと」
「だめ。買ったものいたんじゃうでしょ」
瑠璃子は万里子を引きはがそうとしたが、万里子ときたら、かぶりを激しく振りながら抵抗し、ハンドルを掴んだまま、離そうとしない。
「ちょっと…!」
瑠璃子は力づくで万里子を抱っこしようとした。
「あ、瑠璃子さん。なんだったら、万里子ちゃん送ってくよ」
気が済むまで、好きに遊ばせてやればいい。
「いえ、そういうわけには…!」
「やだやだー!」
万里子が暴れ、振り回す足が車体に当たりそうになるものだから、瑠璃子はバイクを傷つける前に、万里子から手を離した。
「すみません、私荷物だけ置きにいっていいですか?すぐ迎えにきますから」
「はい。気をつけて」
瑠璃子は唇を結びながら、万里子に厳しい視線を投げて、自宅への道を小走りに駆けていった。
「ふーっ」
瑠璃子がいなくなると、万里子はハンドルに体重を掛けながら、やれやれとため息をついていた。その顔があまりにも大人びているので、羽沼はまた自然と笑ってしまう。
「万里子ちゃん、バイク乗ったの始めてだった?」
「まあね」
答えつつ、万里子は自力でバイクから降りた。
「でもやっぱり、うごいてるの、のらないとね」
先ほどの子供っぽい立ち振る舞いはどこへやら、澄ました顔で、万里子は庭を横切り、我が物顔でアウトドアスペースのベンチに腰掛けた。
─あれ?
バイクで遊びたいんじゃなかったのか。
「はぬま、こんどどっかつれてってよ」
羽沼はあんぐりと、口を開けた。突拍子もないことを言う子供だ。
「無理無理。ママが許してくれないよ」
「ママもいっしょにだよ」
当然のように、万里子は言った。顔で「なにいってんの?」と言っている。
羽沼はベンチをまたいで、万里子の隣に腰掛けた。
「ママにたのんで、どっかにつれていってもらったら」
「ママとはこのまえ、こうらんけいにいったの」
「香嵐渓か…」
「うん。ごへいもちたべた」
「ははは…おいしそう」
「うん。でね、まりこはかえりのくるまでねちゃってたの」
「ふうん」
「だってね、みちがすっごいこんでたの」
「そりゃ、シーズンだからね」
「まりこはねちゃってたけどさ、ママはひとりでたいくつでしょ」
だから、話し相手がほしいと言ってるのか。
「ね。おねがいだよ」
「いや…そう言われてもなぁ」
万里子のお願いは、ものすごく魅力的だった。
けれど…
─さすがに、三人はまずいよなぁ…
行くとしても、ママ友たちか安藤あたりを誘わなければならないか…
「ねえ、だめ?」
考えあぐねている羽沼に、万里子は最後の一押しで、上目遣いを使ってきた。
いたいけな万里子の姿に、羽沼は頭が混乱した。やはり万里子は、あの瑠璃子の娘なのだった。幼いながらに、もう顔が出来上がっている。
羽沼は盛大にため息をついた。
「知らない男の人に、そういう風におねだりしちゃだめだよ」
万里子の額をぐいっと押しながら、羽沼は言った。
「えへへへ」
小悪魔的に笑いつつも、万里子は羽沼の手を両手でつかんだ。羽沼はまた、瑠璃子に対して罪悪感を抱いた。
「いついく?」
万里子は、なかなかしぶとい。
「あのね、僕はこう見えても忙しいの」
羽沼は再び、ため息をついた。
「今月はね、来週の日曜以外は、空いてないの」
本当は他にも暇な日があるが、それは万里子をいなすための嘘だった。
「わかった。じゃあ、つぎのにちようね」
万里子はそう言うと、ぴょん、とベンチを降りた。
─わかったって、なにが?
ちょうどその時、瑠璃子が息せき切って戻ってきて、
「万里子、行くよ」
「はーい」
万里子はやけに素直に瑠璃子に返事をした。
お辞儀をする瑠璃子に気を取られている羽沼を振り返って、
「ふたりともせわがやけるよ」
と、万里子は独り言のようにつぶやいた。
「行くよ」
「はーい」
万里子はてててと走って、瑠璃子を手をつなぐと、いたずらっぽい笑みを浮かべて、羽沼に手を振った。
「…え?」
なんだったのだろう。万里子の最後の言葉は。
羽沼は手を振り返すこともできず、その場に座り尽くしていた。
キッチンで使い終わったハーブボールを袋に入れていた杏奈は、急激に眠気に襲われた。 杏奈は、体格に恵まれていない。基本的に、杏奈より体の小さいクライアントはそうそういない。自分よりだいぶ大柄な相手に施術をする時は、ひどく疲れるが、今回のクライアントたちはそこまで体力を使う相手ではなかった。それなのに、いつもに増して疲労感があるのは、初めて、一日に二回施術をしたからだろうか。
─こんなに体力を消耗するなんて…
自分の二倍近く年齢を重ねている美津子は、よくこんなことをやっていたものだ。それとも、慣れれば平気になるのだろうか。
「片付けは、私やっときます」
午後、千晶のアビヤンガに入った空楽が、山ほどある洗濯物を買って出てくれた。
「杏奈さんは、夕ご飯の仕上げとか、明日の料理教室の準備とかあるでしょ」
杏奈は思わず、安堵のため息を漏らした。
「助かります…」
空楽はあまり疲れていないように見えた。確かに、空楽は午後の施術だけだったけれど…たかが三、四歳の差が、こうも違いを生み出すのだろうか。
─それとも、鍛えられ方が違うのか…
昔から上沢の田畑や里山で遊んでいた空楽と、家で細々とした一人遊びをしていた自分とは、ベースが違うのかもしれない。
「明日の午前中まで頑張れば、しばらく休み。明日頑張れば、しばらく休み…」
呪文のように呟きながらキッチンに入って来たのは、永井だった。どうやら、杏奈より疲れている人がいたようだ。
少し遅れて美津子が優香の施術を終え、応接間に戻った。優香が着替えを終わって応接間に入ってくると、杏奈は優香にお茶を持って行った。
「今日のウドヴァルタナで、体重と体脂肪率が、去年の最後の施術後の数値にまで落ちましたよ」
美津子はバインダーを優香のほうに向けて、にっこり笑ってみせた。
しかし、優香は憂いを帯びた笑みを浮かべている。
「ここのところまた食欲が止まらなくて…せっかく去年落とした体重が、もう元に戻ってたんですね」
確かに、優香はあかつきに来た時点で、去年来訪した時よりも、体重も体脂肪率も増えていた。
「季節の違いもありますから」
美津子は励ますように言った。優香が去年訪れたのは六月。今は十一月。
「この時期は、内部の血流は増え、食欲が増します。体は自然に断熱材としての脂肪組織を構築しようとします」
だから、体重が増えていても、おかしくはない。
「むしろ、この時期に過度なダイエットをすると、免疫力が低下する可能性があります」
まだ体は寒さに慣れていない時期なので、特に風邪を引きやすい。
「優しいですね、美津子さん」
優香は垂れ目がちな目をとろんとさせて、カップをソーサーに置いた。
「だらしない人間だと叱られるかと思いました」
「だらしない…?」
「ええ。あかつきさんで覚えた生活から離れて、すっかり、元の習慣が戻ってしまって」
普段は穀物を控えているのにも関わらず、時々爆発する炭水化物への欲求。週末二回、平日一回の晩酌。一年経っても何も具現化できていない志。
「できていないことばかりに、目を向けなくてもいいんですよ」
それよりも、ちょっとした自分の変化に、意識を向けることが大事だ。
「正しい習慣を取り戻そうと、こうしてあかつきに足を運んだ。それも立派な一歩です」
「あかつきさんは、私にとっての癒しですから…」
と、優香は嬉しいことを言ってくれる。
「でも、ここを出ると、なかなか誘惑が多くて…」
拘束がなければ、自分を律することができない。
「美津子さんたちは、たっぷり美味しいものを食べたいと思うことはないんですか?」
優香は、遠慮がちに尋ねた。
「お酒を呑んで、いい気分になりたいとか、甘いものを食べて癒されたいとか」
「うふふ」
あまりにも真剣な面差しで喋る優香が、小さな子供のように見えて、美津子は思わず笑ってしまった。
「自分にとって特別な思い入れがあることは、他の方も当然そうだと感じられてしまうのかもしれませんね」
美津子は、やんわりとした表現をした。この言葉の意味することは、具体的にはこうだ。優香は酒や甘いものに固執している。自分が固執するのではれば、他の人だって固執しているだろうと思うかもしれない。身近な人が、同じように酒や甘いものに固執している場合は、やっぱりみんなもそうなのだろうと思い込んでしまうだろう。
「甘いものを食べると癒され、幸せを感じるという認識が、常識だと思っているかもしれません」
「ええ…美津子さんたちは、そう思わないのですか?」
美津子は明確に答える代わりに、首を一度だけ縦に振った。
「私たちがしがみついている常識は、過去の経験や、誰かが植え付けた価値観から影響を受けています…とても、儚いものですよ」
とある時代のとある場所の人には全く理解できないことかもしれない。
「自分の人生に必要ないと分かっていながらも、過去に甘い経験をしたり、誰かから強く勧められたりすれば、それらを遠ざけるのは大変なことです」
「はい」
「けれど」
美津子はペンを置いて、両手を膝に置いた。
「一つの習慣にしがみついて、それが起こしている弊害や、他に目を向ければ得られたかもしれない幸福を見逃してしまうのは、勿体ないことです」
習慣というのは、その人の人生に大きな影響を与える。良くも悪くも。
多少、厳しいと思われるようなことでも、美津子は今、伝えるべきことは伝えるべきだと思った。優香の年齢的に、沙羅や杏奈では言いにくいことがある。だからこそ、自分が伝えるべきだと、美津子は思う。ただし、柔和な表情は崩さない。
「習慣を変えたら、人生が変わります」
「人生が…」
優香は眉根に皺を寄せた。
「でも、習慣を変えるのには、苦痛を伴いますよね」
何かを我慢して、逆にストレスになってしまうことはないのだろうか。
「そういう時は、自分の心身に起こっている結果をみてください」
自分の習慣(原因)と結果を、常に関連付けるのだ。
「苦痛に感じるからという理由で間違った知性に従ってしまったら、結果を見て反省して、もう一度、正しい知性をもつよう努めるんです」
知性がタマスに傾くか、ラジャスに傾くか。あるいは、サットヴァか。
結果は、必ず心身に現れる。その結果は、自分がマハグナのバランスをどう取るかによって変えることができる。
「そのうちに、今までしがみついていた常識が覆されて、苦痛に思っていたことも、苦痛ではなくなります」
その過程で、価値観や世界観が、今までとはまるっきり変わることになるだろうから。
人生が変わるとは、「自分が物事を見る目」が変わるということなのだ。
正しい知性に従うことが、なぜできないのか。
これについて、もう一人頭を悩ませている人がいる。千晶だった。
「あれ?美津子さんはいらっしゃいませんか?」
夕食後、千晶は応接間を覗いて、きょろきょろと視線を動かした。
「質問があったのですけれど」
「…代わりに伺いましょうか」
応接間で作業をしてた杏奈は、一旦パソコンを閉じた。
「杏奈さん。私はなぜ、言われたことができないのでしょうか」
「…は?」
説明が端折られすぎていたが、千晶が説明することには。
先ほど、客間で優香が、アフターカウンセリングで美津子から聞いたことを話した。
習慣を変えるには、正しい知性を認識し、自分の身体と心に起こっていることを見ることが、大切だと…。
「正しい知性というのは、あかつきさんからいただいたアドバイスと置き換えていいですよね?」
つまり千晶は、事前コンサルで沙羅から言われたことに、なぜ自分は従えないのかと、尋ねているようだった。言われたことに納得感があるにも関わらず、知性に従えないのなら、それはタマスに傾いているということだ。しかし…
「もし、アドバイスに納得感がなかったり、抵抗感があったりすると、その知性に従うべきだと思えないかもしれませんね」
と、杏奈は言った。知性を受け入れる前に、やることがあるのだ。
それは、納得すること。
「コンサルで言われたことに対して、こんなことをしても意味がないと思ったり、疑ったりしたことはありませんか?」
「あります」
千晶は、あけすけにものを言った。千晶の事前コンサルをしたのが自分であったら、杏奈もこれほど、平然と話を聞いていられなかっただろう。
「どんなことです?」
「どうしてお酒をやめなければいけないんでしょう」
やはり、そこか。
「いや、腎臓結石が見つかってからはね、アルコールもリスクになりますよって言われて、じゃあやめないかんなあと思ったんですよ」
結局、完全にはやめられていないのだが。
「でもね、我慢してやめるだけのモチベーションが、上がらん言いますか…」
つまるところ、アルコールのリスクを、しっかりと納得できていないのである。
「ほろ酔い程度の飲酒は、心の緊張をほぐして、ストレスを軽くするというじゃないですか」
千晶は、他にもアルコールを飲むメリットはあると思っている。血行が良くなり、コミュニケーションも促され、人間関係が円滑になる。
「私は飲むと言っても、糖質ゼロのハイボールひと缶くらいですし…」
それがどうしてそんなに害なのか、分からない。
「お酒を我慢するのも、ストレスになりますよ。ストレスが一番良くないと思うんです」
─出た。
ストレスが一番良くない。これは、習慣を変えようとして頓挫する者がよく放つ言葉であると、あかつきのスタッフの間ではよく話題になる。
確かに、ストレスは良くない。しかし、誰が、ストレスなしに、受験勉強に受かっただろうか。好きな人に告白しただろうか。美容的に気になることを克服しただろうか。何か変化を起こそうとするとき、多少のストレスはつきものである。
「お待ちください」
杏奈はパソコンを開けた。
クライアントに推奨事項を伝える時、コンサルティショナーは、必ずその理由を明記しているはずだ。それでも、アルコールの弊害を千晶が納得するに足らなかったということだろうか。
ともかく、沙羅が何を書いていたか把握するために、杏奈は千晶への提案事項のPDFを開いた。
─基本的にはアーユルヴェーダでは、アルコールは有毒とみなされます。
経典には次のように書かれています。
『アルコールは幸福と心の純粋さ(サットヴァ)を失わせる。アルコールの誤用は、錯覚、恐怖、悲しみ、怒り、死、病気を引き起こす』
アルコールはまた、オージャス(※)と拮抗し、即座に枯渇させ、体の防御力を低下させ、心のオージャスをも減らします。
※オージャスとは、活力素・免疫力の素。免疫力の低下はあらゆる病気を招き、健康度、幸福感の低下をもたらします。
アーユルヴェーダ的な観点が、割としっかり書かれている。が、千晶には伝わらなかったのだろう。
「この、オージャスと拮抗し即座に枯渇させる、の意味は分かりましたか?」
「え?オージャスって何ですか?」
杏奈は頭がぐらついた。
「ここに、アルコールはまた、オージャスと拮抗し、即座に枯渇させ、体の防御力を低下させ…と書いてありますが、この部分の意味は…」
「あれ?そんなこと書いてありました?」
理解できない以前に、しっかり読んでもいないようだ。こんなことは、珍しいことではない。
千晶以外のクライアントと接する中でも、
─この人、ちゃんと推奨事項読んだのかな?
と感じることはよくある。
よっぽど生真面目な人でない限り、即時的に必要で即効性のあること以外、詳細な説明は、流されてしまうようだ。
それに、千晶は活字よりも、口頭で説明されることの方を好むタイプかもしれない。
「ここに書いてあることを、掘り下げてお話しますので、よろしければテキストを持ってきてください」
千晶は素直に頷いて、応接間を出た。
「あら、優香さんも…」
千晶は、一人では戻ってこなかった。
お酒のアーユルヴェーダ的な観点について説明してもらえると聞いて、同じく晩酌がやめられない優香もついてきたのだ。
「お酒がオージャスと拮抗するという話ですが、その前に、アーユルヴェーダにおいてオージャスがどれほど重要なものと捉えられているか…まずこれについて話す必要があると思います」
杏奈は、二人にオージャスが何か知っているか尋ねたが、二人は首を傾げた。
「オージャスについては、テキストに書かれているので…ここを見ながらお聞きくださいね」
杏奈は千晶と優香を椅子に座らせ、自分は立って二人の後ろに回り、千晶のテキストをめくって該当のページを開いてみせた。そのまま立ちながら説明をする。
「オージャスは、生命を維持するための最も重要な要素の1つです」
自然の生命力、活力素(生命力エネルギー)とも言われる。
「肉体的免疫の基礎であり、意識、思考、健康、ポジティブさ、免疫力、長寿、知性、記憶を司っています」
アーユルヴェーダでは、目に見えない微細なエネルギーを捉えることもあるが、オージャスは物質である。オージャスは極細く、コロイド状で、液体で粘性があり、冷たく、蜂蜜のように甘い味をもつという。ギーに似た色─少し黄色がかった白っぽい色─をしている。
オージャスは生産、収集、保管される。オージャスは過剰になっても問題を起こさない。
「オージャスが形成されるには、すべての体組織が健全に形成される必要があります」
アーユルヴェーダの解剖学・ダートゥに関して書かれているページを広げながら、説明を続ける。
オージャスは七つの体組織から生成されるもの。最後の体組織であるシュクラが健全に形成された後に生まれるものである。
そして、オージャスが健全に形成されると、オーラ(他人のエネルギーから自分を守る結界のようなもの)が生まれる。
「オージャスには二つの種類があります」
テキストのページを、また元に戻す。
書斎でくつろいでいた亜里沙と美海が、声を聞きつけて、応接間へとやって来た。何やらギャラリーが多くなってやりにくいが、杏奈は説明を続ける。
「オージャスの主な位置は心臓。そこから全身を循環しています」
心臓に留まる一つ目のオージャスは、パラ・オージャスと呼ばれる。健康な心臓活動を維持する八滴のオージャスだ。
二つ目のオージャスは、アパラ・オージャス。主な場所は、フリダヤ (心臓) につながる十の血管。体中を移動する心臓が停止すると、アパラ・オージャスが遅くなり、死に至る。アパラ・オージャスが減少すると、身体が衰弱し、免疫力が低下する。
「オージャスが不足している時の特徴は、次に書いてありますが…千晶さん、読み上げていただけますか?」
四人全員がテキストの文字を負うのは限界がある。
「あてはまるものがあるか、考えながら聞いてください」
「はい」
千晶はテキストを見えやすい位置に掲げ、読み上げた。
「オージャスが不足している時の特徴─」
・体力、持久力の衰えを感じる
・苛立ち
・風邪や伝染病にかかりやすい
・音や光に対する耐久性が低い
・肌、爪、髪にうるおいがない
・ネガティヴな感情や思考を抱きやすい
・考えがコロコロ変わる
・神経質、神経衰弱
・五感が鈍くなっている
・疲れやすい、慢性疲労
「逆に、オージャスがたっぷりある人は、肉体的、精神的に安定しています」
歳を重ねても若々しく、キラキラとした自分でいられるのだ。
「オージャスの十の性質は、ミルクやギーと似ていて、アルコールと毒の反対です」
反対のものを取ると、オージャスが損なわれる。
「オージャスの十の性質は次のとおりです」
・重い
・冷たい
・油っぽい
・柔らかい
・心地よい
・安定している
・濁る
・甘い
・滑らか
・微細な経路に広がる
「そしてアルコールの性質は…」
・軽い
・熱い
・乾燥
・鋭い
・素早い
・広がる
・透明
・酸っぱい
・微細
・全身に浸透する
「アルコールとオージャスが反対の性質をもつということは、アルコールがオージャスを減少させることをはっきりと示しています」
活力素、肉体的免疫の基礎が、脅かされる。
「特定の疾患の有無にかかわらず、オージャスが不足している時の特徴があてはまるなら、飲酒は避けるべきです」
「ふうん…とはいえねぇ」
率直な千晶は、眉尻を下げながらも、
「それでもやっぱり、避けるのは難しそうなんですけど…」
「そうですよね」
酒を飲まない杏奈は、千晶の抵抗感など分かるはずがなかったが、それでも共感を示して見せた。
「けれど、最初から全部やめる必要はないんです」
杏奈は千晶を励ますように言った。
「まずは、現状の飲酒量を把握するところから。週四回飲んでいるなら、三回にしてみる。または一回当たりの量を減らしてみる。ノンアルコールにしてみる。おつまみの内容を工夫して、お酒が進まないものに変えてみる…ハードルの高い、すぐにできそうなことから、取り組んでみてください」
千晶は優香の顔を見て、肩をすくめた。優香は、千晶ほど露骨に億劫な表情を見せなかったが、耳が痛い話には違いなかった。
「まあ、少しずつですよ、少しずつ。私も、ここで働き始めた最初の頃は、甘いものが食べられないストレスがありましたけど、食べなくなったらそれはそれで平気になりました。と言っても、ちょっとつまむときもありますけど」
杏奈はそう言って、ちょっと笑ってみせた。
杏奈とクライアントたち四人は、それから、少しだけ応接間で談笑した。主に、古い習慣を手放した時の自分の経験についてであった。
「他にも、こちらから提案した内容で、納得感がないことがあったら、話してください」
そろそろお開きになる頃、杏奈は四人に言った。
「知性に従うには、その知性を納得していることが、すごく重要だと思います」
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