第92話「知性に従う」アーユルヴェーダ小説HEALERS

ブログ

 あかつき大作戦最初のクライアント・千晶があかつきへやって来た。
 施設案内の後、カウンセリングが始まる。
「素敵なところですねぇ」
 沙羅が健康に関する質問票に追加の確認事項を記入している間、千晶は応接間や、そこから見える居間の様子を眺めた。
「リラックスできそうです」
 そう言う千晶に、沙羅は微笑んだ。千晶は三十六歳、独身。小学校で養護教諭をしている。ティーシャツと厚手のパーカー、黒いズボンというラフな格好。体形はややふくよかで、背は沙羅よりも少し低い。センター分けにした前髪を後ろで無造作に束ね、黒縁眼鏡をかけている。
「他に何かご質問はありますか?」
「あのう、ここで出していただけるお食事以外のものは、食べたり飲んだりしないほうがいいんですよね?」
「はい。白湯の入った水筒が客間に置いてありますので、基本的にはそちらをお飲みいただきます」
 千晶は口元を緩ませていたが、
「何か気になることがおありですか?」
 冴えない表情が気になり、尋ねてみた。
「いや、普段はこう、小腹が空くと何かつまもうとしてしまうんで、我慢できるのかなあと思いまして」
「なるほどですね」
 と言いながらも、
─いや、ここに来てまで普段と同じ生活してたら、意味ないでしょ。
 沙羅は心の中でつっこんだ。
─糖尿病予備軍なのに…
 小腹が空くと何かつまもうとしてしまうとは…その自覚があるのだろうか。
 事前コンサル時に、甘くて、こってりとした、脂っこいお菓子は避けるよう伝えていたが、千晶はその点については全く変化を起こせていなかった。さらに、今のところ無症状ながら、千晶には腎臓結石が見つかっている。アルコールとしょっぱいものが好き、あまり運動をしない、コーヒーや炭酸飲料を好むなど、改善するべき点は多々あった。しかし、ここに来るまでの経過を報告してもらったところ、ことごとく改善できていない…
「せめてあかつきさんにいる間は、整えていかなきゃですね~」
 千晶は京都府在住で、心地よい京都弁を喋る。
 話しぶりから察するに、千晶は陽気で、あらゆることに対しておおらかな性格のようであった。
「そうですね~」
 千晶につられて、沙羅も笑った。
「自己統制力がないんで、不安ですが」
 自覚はあるらしい。それは差し置いても、憎めない性格である。これならば、明日やってくる優香と相部屋でも、トラブルが起こることはなさそうだ。

 優香があかつきに到着したのは、翌日の朝早い時間帯だった。
 昼食前、千晶のアビヤンガを終えた杏奈は、優香に声をかけた。
「あ、お久しぶりです!」
 優香は、杏奈があかつきで働き始めて間もない頃、あかつきに滞在していたクライアント。美しい紫陽花の小径とともに、杏奈の記憶にその姿は残っていた。
 到着して早々、空楽のアビヤンガを受けた優香の髪の毛はオイルを吸収し、しっとりとしている。
「お嬢さま方も、お元気ですか?」
「ええ。あれ?私どこまで話しましたっけ。娘のこと…」
 優香は少し戸惑った表情をした。
 覚えていなくても無理もない。杏奈と話したのは、一年半近く前。それも、ほんの少しの間だったのだから。
「杏奈さんは、あの時からここのセラピストでしたっけ?」
 セラピストとしての正装姿の杏奈を眺めて、優香は言った。
「いえ、施術ができるようになったのは、数ヶ月前からです」
「そうなんですか。でも、確実に進化されてますね」
 優香は、占い師として、自分で仕事をしていきたいと話していたが、それは今どうなっているのだろうか。リピーターに関しては、質問票の提出が任意となっている。変化した部分や、追記が必要な部分のみ、補足するのも任意であった。優香が再提出した質問票によると、前回から職業は変わっていない。
 ところで、施術ができるようになったのは、といえば、空楽は実は、今日がセラピストデビューだった。
「やったじゃないですか」
 キッチンで、沙羅は空楽の腕を揺さぶる。空楽ははにかむような笑みを浮かべた。
「その姿も、板についてるよ」
 あかつき大作戦の間、調理を全面的に任されている小須賀も、空楽を祝福する。
「まだアビヤンガしかできませんけど」
 空楽は肩をすくめた。
「ううん。感染症以前だって、アビヤンガデビューするのに、だいたい三か月はかかってたよ。空楽ちゃんは即戦力になれる才能があるってことだよ」
「そうだな。杏奈は割と、時間かけられてたしな」
「それぞれのペースでいいんです」
 沙羅は杏奈を擁護するように言った。それに、杏奈はアビヤンガを習得する際、美津子から、小手先のテクニックだけでなく、技術の裏側にある奥深い所まで教育されていた。一方、空楽にはまだテクニックしか教えていない。空楽にはまだ、この知識部分の補習が待っている。
「午後のウッドヴァルタナは、痩せるための施術なんですか?」
「簡単に言えばそうですね」
 ハーバルパウダーを使ったトリートメントで、筋肉をほぐし、体脂肪を燃焼させる。この施術ができるのは、今のところ美津子と沙羅だけだった。

「とてもお腹が空いてきました」
 夕方、マットの上に座る二人のクライアントに、「調子はどうか」と鞍馬が尋ねたところ、千晶からはそのような答えが返ってきた。
「なんか、いいにおいがしてる気がしますけど、気のせいですかね?」
 くんくんとにおいをかぐ千晶を見て、鞍馬はやれやれと呆れた。
「とても、お腹が空いてきました」
 千晶はまた言った。
「これからヨガ、大丈夫でしょうか」
「ヨガをするにはむしろ、お腹いっぱいじゃない方がいいんで、ちょうどいいです」
 鞍馬はそう言うと、すっと立ち上がった。
 せっかく優香もヨガを受けられるように、敢えて早朝ではなく夕方に赴いたのだから、やる気を出してもらわねば困る。
─だいたいあんたは体を動かす必要があるんじゃないのか。
 糖尿病予備軍については、確かに遺伝的要因はあるが、食事とライフスタイルも大きく関係している。
 そして優香も、年齢とともにカパの増加を感じ、体重増加やむくみを気にしている。
「あた、あたたたた…」
 ガルダーサナ(鷲のポーズ)の途中で、千晶の身体がよろめき、組んでいた足と手をほどいた。
「大丈夫ですか」
 ポーズが安定しなかったため、軽減法でキープしてもらっていたのだが。
「無理しなくていいですからね」
「はい。このポーズはちょっとやめときますわ」
─いや、もっと頑張れ。
 自分に厳しくし過ぎない。それはヨガにおいて大切な教え。しかし、人によってその基準はまちまちなのであった。千晶はいささか、自分に甘すぎる傾向がある。
「千晶さん、水筒のお湯はまだ残ってますか?」
 夕食の前、優香から水筒を受け取った杏奈は、そういえばと千晶にも尋ねた。
「ええ。まだ半分くらい残ってると思います」
「あ…まだ半分、残ってるんですね」
 本当は「まだ半分も残ってるんですか」と言いたい。が、杏奈は否定しないような表現になんとか言い換えた。適度な水分を摂ることは、トリートメントの効果を引き出すためにも、体組織を健全に形成するためにも必要なのだが。
「いつもこう、味や香りのついてるお茶を飲んでるんで、どうも進まなくて…」
 千晶は言い訳をした。
「でも、分かりました。もっと飲むようにします」
 そう言うと、保温ポットのお湯をグラスに並々と注いだ。
「あ」
 杏奈は、そのグラスを手に持とうとする千晶を軽く制した。
「食間にそのくらい飲むのは、いいですね。けれど、食事の前後と食事中は、もう少し控えめにお願いいたします」
 消化液が薄まり、消化が進まないことがあるからだ。
「分かりました。明日からは食間に、たっぷり水飲んどきます」
 その日の夕食は、フェヌグリークのキッチャリーと、簡単な付け合わせ。フェヌグリークは、生活習慣病を予防し、脂質の代謝を促進するのに良いスパイスである。血糖値、コレステロール、中性脂肪を下げる働きが期待されており、糖尿病、動脈硬化、心筋梗塞、脳梗塞などの予防に効果的という研究結果がある。フェヌグリークに含まれるコリンには脂質の代謝を促進する働きがあり、脂肪の蓄積を抑制する効果も期待される。他にも、母乳の出を良くすることも広く知られている。ただし、子宮刺激作用・鎮痙作用があるため、妊娠中、または妊娠の可能性のある女性は注意が必要だ。通常、市販のカレールーやカレー粉に使われているスパイスだが、あかつきでは該当するクライアントが来た場合、まず使用しない。
「カレーみたいな味がしますね」
 優香はもぐもぐと口を動かしながらそう言った。
 美津子、杏奈も一緒に夕食を摂っている。
「血糖値のコントロールをしてくれるんなら、積極的に摂りたいですわ」
 と、千晶が前向きな発言をした。
「パウダーを飲み物に入れて摂取してもいいんですよ」
「本当ですか?それ試してみたいです」
 ということで、翌朝の朝食にホーリーバジルティーを淹れ、そこにフェヌグリークパウダーを少し混ぜ入れた。それを口に含んだ瞬間、千晶は切ない表情をした。

 この日、十一月四日土曜日から六日月曜日にかけてが、あかつき大作戦前半の山場である。特に土曜日は、足込温泉への弁当作りがある。空楽が施術に入っており、杏奈も午後からの新規顧客二名の受け入れ準備や、事務作業を抱えていて、ずっと弁当作りに関わるのは難しい。
 そこで、小須賀は早めに出勤した。この時期は、納品数が増えることに加え、クライアント二人分の食事と、自分を入れて五人分のまかないも同時に作る。
「悪いけど、弁当納品日は、クライアント一人一人に作り分けすることはできないよ」
 と、事前に小須賀はそう杏奈に断っている。お弁当のおかずを、転用するつもりだ。
「それでいいです。でも、これとこれは、お二人のプレートにはのせないでください」
 小須賀は片方の眉をつり上げた。いちいち、指定が綿密なことだ。
 収穫期を迎え食欲もピークに達する時期。朝夕の寒暖差が大きくなり、肌寒くなる。外部が寒くなると皮膚の表面の血管が収縮し、手足の冷え、筋肉の緊張・皮膚の乾燥を覚える。一方内部の血流は増え、食欲が増す。
 この時期は冷、乾、軽といった性質が増え、ヴァータが乱れやすいことから、ヴァータを鎮静することを意識した食事が良い。すなわち、良質な脂質を含むもの、重く、栄養があり、甘い食べ物を取り入れること。
 千晶にも優香にもヴァータの乱れがあるが、同時にカパの乱れも強い。弁当という商品を考えた時に必要になる、味の濃い、こってりしたおかずは、彼女たちの食事には入れないほうが無難だ。
「ふぇ~」
「またため息吐いてる。小須賀さん、幸せが逃げちゃうわよ」
 キッチンで小須賀を手伝っているのは大鐘である。大鐘は今日から、施術中の客間の清掃、洗濯、施術の間の切り替え作業の手伝いとして、あかつきに四日連続で出勤することになっている。そして今日は、弁当調理の補助も兼ねていた。といっても片付けがメインだが。
 それでも、大鐘の存在は貴重だった。
 なにしろ、あかつきの調理道具を総動員しなければ、このロットで料理は作れず、役目を終えた調理器具をすかさず洗って回さなければ、次のものが作れないという状態。コンロは常に火を吹いている。
「最大四人しか宿泊者を受け入れらんないっていう施設で、二十人分以上の料理を作るってのは無理があるよ」
 小須賀は少し息つく暇ができると、杏奈に苦情を言った。
 自分に言われても仕方のないことだが、小須賀が小言を言いたくなるのも無理はない。今日は小須賀にとって、目まぐるしい一日になっているのは分かり切っている。昼食の準備をした後、足込温泉へ配送し、片付けをし、それから夕食分の仕込みまで終えて、さらにそれから本業のイタリアンの仕事に行くのだから。
 午後、クライアントが来る前に、沙羅があかつきに出勤した。
「沙羅さん、連休中も結局、あかつきに来ちゃってるじゃないですか」
 ちょうど足込温泉へ納品を終えた小須賀は、沙羅に気を遣ってそう言った。
「両親にお願いしてるんで、大丈夫です」
 あかつき大作戦の期間中、沙羅が土日に出勤しなくて済むよう、美津子が配慮をしていた。それでも、数日は土日出勤せざるを得ない。
 だが、沙羅には不満はなく、むしろ力になりたい気持ちが強かった。他のスタッフたちは当たり前のように土日出勤していて、なおかつ、今日はキッチンがてんてこ舞いになるのが分かっていたのだから。
 午後からは、今までになかった体制で施術をする。
 施術室二つに、ベッドを二つ並べ、パーテーションで区切り、四人のクライアントに同時に施術をする。
 すべての施術ができるのは美津子と沙羅だけ。備品にも限りがある中、どのクライアントに誰がつくか、配置を決めるのは非常に困難で、難解なジグソーパズルのようであった。
 午後からは沙羅、美津子、杏奈、永井が施術に入り、空楽と大鐘で小須賀を手伝う。
「はあ、大変だこと」
 午後からの施術室のセッティングを終えた永井が、疲れた顔でキッチンに入って来たのは、クライアントに食事をサーブし終わった後のことだった。
「二階はともかく、一階は狭いじゃない。導線に気を付けないと、パーテーションに当たっちゃいそうで怖いわ」
「永井さん、空間把握が微妙に下手っすもんね」
 微妙に失礼なことを言いつつ、小須賀は永井に賄いを渡した。
「ありがとう」
「杏奈と美津子さんは?」
「施術室の撮影をしていたわ。一部屋で二人分のベッドを準備するなんて、珍しいものね」
 もうすぐ来るんじゃない、と言いつつ、永井は折り畳み椅子を広げた。
「体、もつかしら」
 永井は午前中に、千晶にアビヤンガをした。午後は、美海のアビヤンガを担当する。
「気を付けてくださいよ」
 しょっぱなから永井にぽしゃられたら、この後の予定が成り立たない。
「誰か私にもマッサージしてくれない?」
「いや、無理っしょ」
 この期に及んで呑気なことを言う永井に、小須賀はぴしゃりと言った。

 午後一であかつきを訪れた次のクライアントは、横浜市に住む姉妹、亜里沙と美海(みなみ)だった。それぞれ五十三才と五十一歳。二人は横浜市都筑区東山田町にて、南インド食堂「亜海家(あみか)」を運営している。最近やっと一周年を迎えたばかりの新しい飲食店だった。
 美津子が応接間にて、杏奈が書斎にて、それぞれ美海、亜里沙に対しカウンセリングを行う。
「よろしくお願いします」
 にこやかに杏奈に挨拶をしてソファに座った亜里沙は、とても痩せていて、背が高い。長い黒髪を二つに分け、三つ編みをしている。前髪は作っていない。コートは洋物だったが、その下はペイズリー柄の、涼し気なインド綿のワンピース。妹の方も、同じような風貌をしていた。
「昔からよく似ていると言われて」
 と、自分たちのことを亜里沙はそう話した。
─バリへヨガの合宿に行った時、アーユルヴェーダと出会いました。そこから南インド料理に興味をもったんです。
 事前コンサルの時、亜里沙はそう言っていた。それから、自分たちの身なりまで、インド化していったということか。
 亜里沙たち姉妹は数ヶ月に一度、横浜市内のサロンへアーユルヴェーダの施術を受けに行くらしい。
 そして二人ともヨガが好きで、自らを「ヨギーニ」と称していた。亜里沙はヨガのインストラクター。美海はヨガを教えてはいないが、ヨガを日課にしている。
「それでは、施術には慣れていらっしゃいますね」
「はい。でも、サロンによって手技が異なるので、あかつきさんのトリートメントはどんなものか、楽しみです」
 杏奈はぎこちなく笑った。クライアントに対応するのに大分慣れてきた杏奈だが、亜里沙の前ではなぜか少し身構えた。
「それでは、説明は以上ですが、ご質問はございませんか?」
 最後にそう尋ねると、
「施術のことではないのですが、一点よろしいでしょうか」
「はい」
「私と妹なんですが、一週間前から、ベジタリアンを心がけていて」
 杏奈は目を瞬いた。
「はい。それまでも、あまりお肉やお魚は召し上がってませんでしたね」
「ええ。でも、本格的に切り替えてみようと思ったのはつい最近のことで。乳製品は摂るのですけど…」
 確かに健康日記からも、ますます動物性たんぱく質の摂取が減っていることは、認識していた。
「そこで、あかつきさんで出していただく料理も、ベジタリアンにしていただくことは可能でしょうか?」
 亜里沙の要望には、即答しかねた。キッチンで苛立つ小須賀が目に浮かぶようだ。
「美津子さん」
 杏奈は施術前に、なんとか美津子をつかまえた。永井に美海を案内させてから、美津子は杏奈の話を聞いた。美海は、そのことについて美津子に相談をしていなかったようだ。
「一緒に来て」
 杏奈と美津子はキッチンへ向かった。
「ベジタリアン対応じゃないことは言ってありましたよね?」
 クライアントに提供する料理に、肉や魚を使うことがある。もし、何らかの理由で食べ物に制限がある場合は、滞在前に連絡が必要。そのことはホームページでも触れているし、利用規約でも伝えているはずだ。
 しかし、亜里沙と美海は滞在前には自分たちの要望を伝えていなかった。
「なぜ今更、別途対応が必要なんです?」
「…動物性たんぱく質を摂らないことによる体の変化を見るために、最近取り組みを始めたそうなんです」
 杏奈はおずおずと答えた。
「なにそれ?あかつきで非日常を過ごすのに、タイミング違くない?」
 小須賀の言うことはもっともである。変化を見たいならば、変える条件は一つにするべきだ。でなければ、この場合、体の変化があかつき滞在によるものなのか、食生活の変化によるものなのか、判断しにくい。
「って、二人に言いなよ」
「…」
「それに、ベジタリアンに切り替わってること、健康日記見てたら気づいたんじゃないの?」
 その時点で、「あかつきの料理は非ベジタリアンですが、よろしいですか?」と釘を刺しておくこともできたはずだ。
「ごめんなさい、小須賀さん。私も見過ごしてしまったの」
 美津子から小須賀に詫びを入れた。
「なんとかベジタリアン仕様にしてもらえないかしら?」
 ベジタリアンに変更することは、その逆のパターンよりは、食料調達上は楽なはず。生鮮食品を仕入れる手間がない。
 問題は、他の二人のクライアントとの作り分けだった。小須賀はため息をついた。
「何がヨギーニだよ。ただのわがまま姉妹じゃんか」
 不承不承ではあったが、なんとか小須賀の承諾をもらい、杏奈と美津子はそれぞれ、亜里沙、優香の施術に入った。
 施術が終わると、怒涛の後片付けが待っている。
 ネックなのは、洗濯物。四人分のフェイスタオルやバスタオル、バスマット、サロンで溢れ返っている。しかも、これらのタオル類や衣類は、幾分オイルを吸収しているので、そのまま直接洗濯機で洗えない。そのため、通常セスキ炭酸ソーダを入れたお湯に洗濯物を浸け置きし、手洗いしてから洗濯機で回す。安全のため乾燥機は使わず、天日干しである。しかし、季節は冬に入っている。施術が終わってから、洗濯を回し、外に干すまで、スピード勝負だった。
 この日は、キッチンの仕事を手伝っていた大鐘が残っていて、洗濯物にも手を回してくれた。
「助かります、大鐘さん」
 美津子は洗面器でじゃぶじゃぶとタオルを洗っている大鐘に礼を言った。実際、大鐘が手伝ってくれて、美津子としては大助かりだ。特に手荒れしやすい杏奈には、この仕事はあまり頻繁にさせたくない。
「いいのよ。これくらいしか手伝えないんだから」
 大鐘はニコニコとそう言った。
「明日は、お昼の施術の後片付けまでで大丈夫ですから」
 そう言い残して、美津子は応接間に向かった。
 
 そして、その日の夕飯分から、ベジタリアン用の料理が一品追加された。
 小須賀は四時には上がってしまうため、料理の提供は杏奈がやった。
 四人もクライアントがいると、スタッフが応接間に残って話しかけなくても、勝手にクライアント同士で盛り上がってくれる。
「みなさんで楽しんでもらいましょ」
 通常は、食事の時間もコミュニケーションの場として、美津子やスタッフが一緒に食事を摂ることがあるが、今はその余裕がなかった。
「休める時に休みましょ」
 この日、杏奈と美津子は交代で食事を摂った。午後の施術と片付けが終わると、沙羅たちスタッフも帰宅させる。その後のクライアント対応は、美津子と杏奈の二人が担っていた。
 杏奈は十八時頃、インスタを確認した。この日は、杏奈はほとんど何の操作もしていないが、ストーリーとリールが投稿されていた。
─羽沼さん…!
 杏奈は昼過ぎに、羽沼にいくつかの動画を送っていた。ベッドが二つ並んだ施術室の様子や、あかつきの中の風景、弁当作りの様子など。それを、羽沼がリールにしてアップしてくれている。
─援護射撃、本当に助かる…
 プレイヤーをしながらインスタの投稿を作るのは、さすがにしんどかった。毎日でなくとも、投稿を代行してくれる人がいるのは、大助かりである。明日は杏奈が投稿をすることになっているが、明後日は、沙羅が投稿する。
 こういう時に、
─チームって、いいな。
 と思う。個人で料理教室をしていた時代には考えられなかったことだ。 
 お風呂は、多くのクライアントが足込温泉に行って済ませるのだが、あかつきのお風呂を利用する場合は、時間制で、交代で入ってもらう。杏奈と美津子は、その後に入浴する。
「杏奈」
 美津子は応接間にいる杏奈を、夜の散歩に誘った。
「同じ家に他の人がいると、思いのほかエネルギーを消耗するものよ」
 よく知らない人であれば、特に。だから、あかつき大作戦中は、心を鎮めるために、花神殿まで散歩することを日課にしようと、美津子は言った。

 まだ底冷えするような寒さではなく、夜風が顔に当たると心地よい。夜空には半月が浮かび、二人の足元を照らしている。
「小須賀さんは怒っていたけれど」
 美津子は歩きながら、おもむろに話し出した。
「杏奈は、どう思う?決まりだからと、突っ撥ねた方がよかったと思う?」
 杏奈はそう訊かれて、個人事業主として料理教室をしていた頃のことを思い出した。
「多少の負担が増えても、クライアントの満足度には変えられないと思います」
 そのために、できることならするべきだと思う。
「一人の口コミで、潜在顧客を逃してしまうこともありますから」
 もちろん、全ての要望を受け入れるべきではないが、その線引きをするのは難しい。
 二人は真っ暗な西参道を、懐中電灯の明かりを頼りに進んだ。樹冠が空を覆っているため、ここには月明かりも届かない。
 花神殿の扉は閉まっていたが、試しに開けてみると、施錠されていなかった。祭壇の前に並んで、二人は手を合わせる。
「明日から、瞑想をしましょう」
 それを思いついたのは、参道を歩いている時なのか、花神さまに祈っている時なのか。帰途に着いてから、美津子はそう提案した。
「夕食後、クライアントも含めて、呼吸法と瞑想をする」
 その方が、杏奈も自分も、マインドをクリアにする時間を設けられる。
「この散歩の前ですか?後にしますか?」
「後にしようか」
 そのほうが、よりマインドがクリアになって、瞑想に集中しやすいだろう。
「沙羅が言っていたのだけど」
 担当する千晶のことで。
 当の本人が言っていた通り、千晶は自己統制力が低い。事前コンサルにおける推奨事項を、自宅ではほとんど実行できていなかった。そんな千晶があかつきに滞在し、早三日目が終わろうとしている。
「空腹感も滅多に感じなかったそうだけれど、ここに来てからはお腹が空いて、食事の時間が待ちきれないみたい」
 杏奈は口元を綻ばせた。
─消化を促進する薬などはないのでしょうか?
 最初の頃は、そんなことも言っていたが。薬などなくとも、消化力は、見事に回復している。規則正しい時間に食事をする、間食をしないという、ちょっとしたことだけで。
「習慣として定着させるには、この小さな気づきを感じ続けることが大事だと思う」
 千晶は「言われたことができない」と言っていた。これは千晶の知性が、タマスに傾いているからだと、美津子は思っている。
 知性は、サンスクリット語で「ブッディ」と呼ばれる。認識と訳されることもある。机の上に置かれているのはボールペンだ。ボールペンは何かを書くものだ。このように、ありとあらゆる物事を識別し、認識する力がブッディである。
 お腹が空く前に次の食べ物を食べると消化力が弱まる。この知識によって、食べない方が良いと判断し、実際にそうすることが、サットヴァな知性である。逆に、この知識があるにも関わらず、おやつに美味しいものを食べたいという欲望に屈してしまうことがある。
─それが、知性がタマスに傾いている状態…。
 知性に従うのは難しいのだ。
 杏奈は美津子の話を聞きながら、疑問を抱いた。
「サットヴァな知性を養うために必要なのは、原因と結果の関連性に、より頻繁に気づくことなんでしょうか」
 言葉選びに苦労した。頭の中がごちゃごちゃになりそうになる。
「イコールではなく、それを含む、と言った方がいいかもしれないね」
 美津子は足元を見ながら答えた。
「彼女の、他のタマス的な部分を排除していくことも役に立つ」
 具体的には、あかつきで新鮮な食べ物を食べたり、ヨガや散歩をして体を動かしたり、瞑想で自己を見つめたりすることを通して。
 美津子はふいに立ち止まり、杏奈の顔を見た。
「頭を空っぽにするための散歩だったのに、結局いろいろ考えてしまったね」
 そう呟いた美津子の顔には、自嘲気味な笑みが浮かんでいた。
 クライアントにできることはなんでもしたい…
 スタッフに、少しでも多くの教育をしたい…
 その無意識的な思いが、プラスアルファで話すべきことを探させてしまうようだ。
 西参道を出ると、少しだけ視界が明るくなった。しかし、空に浮かぶ半月には、雲がかかっている。
「明日も晴れるといいわね」
 千晶と優香は明日、明神山に登る。

 

 


 

前の話へ戻る  》次の話へ進む

》》小説TOP

 

 


LINEお友達登録で無料8大プレゼント!
アーユルヴェーダのお役立ち情報・お得なキャンペーン情報をお届けします

友だち追加