第95話「サイクルを読む」アーユルヴェーダ小説HEALERS

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 木曜、杏奈が起きたのは、七時を回った頃だった。
─寝すぎた。
 熟睡していたにも関わらず、体がだるい。腕に軽い倦怠感がある。背中がずっしりと重い。
─連日施術したの、これが初めてだから…
 みんな、自分よりも上背があった。千晶に関しては、それほど身長差はなかったが、ウエイトがあった。アーユルヴェーダのトリートメントは、圧をかけたり押したりということはほとんどない。優しくオイルで包み込むケア。それでも、アライメントを整えながらオイル塗布をするだけで、セラピストの体には負荷がかかる。
 情けないことは言っていられない。美津子は何年もこれをやってきたのだ。杏奈の倍ほどの年齢で、杏奈よりも施術をこなしている。
─疲れが激しいのは、自分の体の使い方がなっていないのかもしれない。
 施術の間、背中が丸まることがある。腹筋に力が入っていない。練習中、何度もそう指摘された。正しい姿勢で施術していれば、もっと軽度の疲労で済んだだろう。
 杏奈は仰向けになったまま、細く長く、息を吐いた。

 この日は久々に、なんの予定も入っていない、全休。
 外に出て、母屋に向かう。庭から美津子の居室を見てみたが、カーテンが閉め切られていて、居室で何か作業している様子はない。母屋に入ると、しーんと静まり返っていた。
 珍しく美津子も寝過ごしていたらしい。杏奈は心なしか、少しほっとした。
 二人はこの日、食事は凝ったものは作らず、難しい作業をしないようにして、とにかく体を休めた。翌日から再び、クライアントの受け入れが始まる。
 夕食後、杏奈は書斎のソファにもたれかかって、あかつきのインスタを眺めていた。今、インスタは杏奈、美津子、沙羅の三人で分担している。つまり三日に一回、自分の投稿の日が回ってくるのだった。これにより、事務作業の負担はかなり軽減された。
 最近のインスタは高度化してきていて、生半可な投稿ではいいねもフォロワーも増えず、逆にフォロワーが減るばかりだ。
「うーん…」
 杏奈は美津子の投稿を見ながら、思わず唸る。
 高度化され、投稿形式もメソッドが確立されている中、美津子は、あまりそういうことにこだわらず、書きたいことを投稿している節がある。画像も作り込んでいるわけではなく、キャプション(文章)をちゃんと書いている。そんな美津子の投稿には時々、通常より多くのいいねが集まるのだ。
─やっぱり貫禄が違うのかな…
 キャプションの文章は、ライトユーザーからは歓迎されないと言われる長文であることが多い。しかし、気持ちがこもっているからか、読んだ人の心を打つらしく、コメントがつくことがも多々。
「うーん…」
 杏奈はまた唸る。
 美津子が居間から顔を出し、
「どうしたの?」
 笑い含ませた声で訊いた。杏奈はソファの上で雪崩を起こしていた体を起こし、居ずまいを正した。
「インスタを見てて…」
「またそんな」
 今日一日は、仕事のことを考えるまいと話し合ったのに。
「今日は、沙羅の当番の日でしょ」
「はい。インサイトを見て、どういう投稿がウケるのか考えていたんですが…」
 それで、美津子の投稿が光っているのではと感じた。
「あなたの今の投稿形式は、羽沼さんと一緒に決めたものだったわね」
「はい」
「だけど、負担になっているのだったら、力を抜いてもいいんじゃない?」
 杏奈の場合、十枚投稿が基本で、内容は価値提供に徹している。
「確かに、時間はかかりますけど…これはこれで、作り甲斐があるので、やりたいと思ってます」
「…」
「ですが、ただの自己満足に終わるといけないので…どういう投稿が、求められてるのかなと思って…」
「ごめんなさいね」
 美津子は対面のソファに腰掛けた。
「あなたや沙羅が価値提供してくれるからこそ、私の投稿は、半分私情を交えた考えのシェアだけで済んでいるの」
 もし、個人的な思考をメモするような投稿ばかりだったら、それこそフォロワー離れが激しくなるに違いない。
「私は、あなたや沙羅のように、投稿を作ることがうまくないから…」
「あ、いえ…いろんな投稿があった方が、見る人が飽きなくて、いいと思います」
 もともと美津子は、インスタにあまり時間をかけていなかったし、更新頻度も今ほど頻繁ではなかった。一度はスタッフに全面的に任せていた発信の役割を、ここに来て再び、美津子が担ったのは、スタッフの負担を減らすためだ。決して余裕があるから、ではない。そんな美津子に、自分たちと同じくらい、発信に時間をかけてもらうつもりは毛頭なかった。
「この前羽沼さんが上げてくれたリールも、伸びていたわね」
 四人の受け入れをした時に流したリールだ。
「羽沼さんに正式に、動画制作を頼んでもいい頃合いね」
 今は彼の好意で、無償でやってくれているが、有償にすればこちらも気兼ねなくいろいろな注文ができる。
「…それは、ゆくゆくは必要かもしれませんね」
「あなたも、他のことに力を注げるわ」
「…どちらにしろ、私もまだ自分の手で、インスタ発信をしていきたいです」
 美津子の提案の背景には、杏奈の負担を減らそうという意図があるのだが、当の本人はなかなか頑固だった。
「杏奈はインスタの投稿を作るのが好きなのか」
「はい…インスタは誰でも、無料で、情報を得られますから」
「ん?」
「あかつきに来られるのは、余裕のある人じゃないですか」
 金銭的な余裕がなくても、貯蓄をして来る人もいるが、本当に切羽詰まっている人は来られない。
「直接サービスを提供しない人にも、何かを送りたいんです。もしかしたら、あかつきに来られない忙しい人たちこそ、アーユルヴェーダの教えが必要かもしれないですから…」
 と、言った端から、杏奈は頬を掻いた。
「…とか言って、テキストを販売するのを渋ってたのに…矛盾してますよね」
 杏奈が苦笑いを浮かべるのを見て、美津子は口元だけで笑った。
─やっぱり。
 美津子は心の中でつぶやいた。
─私と杏奈は、似ている。考えることが似ている。
 いつだったか、美津子は順正にこんなことを話した。
─施術を受けるにも、学びを得るにも、お金がかかる。ある程度余裕がないと、ここには来られない。
 そのことを、杏奈も気にしていた。美津子は、自分とこの弟子の着眼点は似ていると、事あるごとに思う。それがゆえに、自分が何をするべきか、何をしたいかというところまでは、一緒ではないけれども。

 翌日、九時過ぎに沙羅があかつきを訪れた。
「あかつき大作戦、中盤戦が始まりますね」
 そう言った沙羅は、杏奈や美津子よりは元気に見えた。今日の午後からやって来る咲子へは、担当者である杏奈がアビヤンガをする。沙羅があかつきを訪れたのは、事務作業のためだった。
「杏奈さん、大丈夫ですか?」
「ああ、はい…」
 杏奈は珍しくパソコンに向かっておらず、ソファの上でゴロゴロしていた。
「ちょっといい?」
 美津子が書斎に入って来て、杏奈は居ずまいを正した。
「いいのよ。ゴロゴロしてなさい」
 と言われても、そうはいかない。杏奈は愛想笑いを浮かべて起き上がった。
「咲子さんへのアプローチについて…その方針を、沙羅にも共有しておこうと思って」
 咲子へのアプローチ方法やそのスタンスについては、美津子と杏奈が二人で話し合って決めた。
「はい。お願いします」
 沙羅と美津子は、ソファに並んで座った。
 咲子は、今年の二月にあかつきに滞在しており、記憶に新しい。どういうクライアントか、沙羅も把握していた。
 咲子は、あかつき大作戦中のクライアントの中で、もっとも滞在日数が長く、九泊十日滞在する。滞在の目的は、身と心をクリアにし、最後の妊活に励む準備をすること。
「これは私たちだけが分かっていればいいことなので、咲子さんに言う必要はないのだけれど」
 むしろ、咲子に対しては恣意的な話をしないでほしい。
 杏奈はソファに座りながら、美津子の話に黙って耳を澄ませた。
「咲子さんは妊活に備えて、心と身体をクリアにしたいと言っていた。けれど、私たちは最終的な目標を、別のところにおいたの」
「なんですか?」
 沙羅は身を乗り出した。
「咲子さんを、綺麗にして家に帰すことよ」
 沙羅は目を瞬いた。「クリアにする」と、言葉こそ違えど、同義のように聞こえるのだが。
「…えっと、美容面をより重視するということですか?」
「ええ。そうよ」
 咲子の滞在目的は、要らないものを流したい、というニュアンスが強いが、美津子が今言ったきれいにするとは、「女性としての魅力を最大限に引き出す」ことを指す。
「パートナーへの欲求が、妊活のパワーだから。性的な興奮がとても重要なの」
 沙羅は、少し恥ずかしそうに口元をゆがめた。美津子からこういう言葉を聞くとは、思わなかった。しかし美津子も杏奈も、至極真面目な顔をしているので、沙羅は笑うわけにはいかなかった。
「…だ、旦那さんに喜んでもらえるくらい、綺麗にして帰す…ということですね?」
「ええ。彼女はずっと、母になりたいと思ってきた。でも、そうではない道を歩むとしても、自分が今持っている輝き、焦点を当ててほしい」
 沙羅はそれを聞いて、綻んだままになっていた口元が引き締まった。
─美津子さんと杏奈さんは、咲子さんが別の道に進むことも、視野に入れて…
 咲子の希望が叶わなかった時の、気持ちの受け皿を用意しようとしているのかもしれなかった。
「…咲子さんは、年齢はおいくつでしたっけ…」
「三十九よ」
「三十九…」
 もう、四十代に手が届こうとしている。
「やっぱり、長年子供を授からなかった女性がその歳になったら…難しいのでしょうか」
 沙羅は眉尻を下げた。
「そうね…四十代、あるいは自分がもう若くないと思う年齢になったら、ちょっと数字のことは忘れて、自分の体を客観的に見てみるのもいいかもしれないわね」
 これも、美津子と杏奈で議論を重ねたことだ。
「沙羅も五大元素のことはよく知っているわね」
「…はい」
「火は思春期から中高年にかけて増え…やがて土と水を焼き尽くしてしまう」
 問題は、それがいつ起こるかだ。
 人間のライフステージにおいて、幼少期は水と土が多く、思春期から火が増える。それ以降、水と土が減り過ぎると、火によって燃え尽き、乾燥する。すると風と空の要素が増え、故障や変性を来す。
「五大元素の観点から見ると…四十代になっても、潤った体を持っていれば妊娠可能かもしれない」
 しかし、老化の兆候があり、風と空の要素がすでに支配を始めている場合は、そうではない。
「咲子さんが何を望んでいるかに関わらず、体の状態を、五感を使って正直に、生々しく理解してもらうことが重要だわ」
 高齢出産することができる幸運な女性なのか、ハイリスクと言われる年齢そのままの状態なのか。
「私たちも、五大元素の視点から咲子さんを観察しましょう」

─五大元素。
 アーユルヴェーダの基礎的な概念。
 あかつきに来たばかりのころ、杏奈は、美津子から身の回りの五大元素を探せという課題を与えられたものだ。
 五大元素─空、風、火、水、土─は、すべての物質の基本的な構成要素である。それぞれの元素は、妊活においても重要だ。
 自分の周りにある要素を感じ取れば、自分の中でその要素が育っていく。逆に、自分の中にその要素があれば、他の場所にもその要素があるようになる。
「咲子さんは今この地球に生きているけれど…まだ見ぬ彼女の子供はそうではないわ」
 その子は別の次元にいる。その子を地球に呼び寄せたいなら、物質を作り出さなければならない。
「もし本当に子供が欲しいのなら、子供を欲しがってはならないの」
 美津子は淡々と語った。
「子供を作るのは、子供を求める気持ちではなく、性を求める気持ちだから」
 結局のところ、赤ちゃんを作るということは、情熱的で動物的なプロセスなのである。
「赤ちゃんのためのスペースが必要で、風、火、水、土も、それぞれが適切な量が必要よ」
 その時、必要な時にパートナーとの間にちゃんと火がつくはず。それが、赤ちゃんが生まれるためのエネルギーとなるのだ。
 杏奈は「受胎」という観点から、今一度この五大元素の働きを思い出した。

■空
 創造のプロセスにおいて、最初に呼び起こされるべき要素。スペースがなければ、新しいものが生み出される余地はない。スペースが開くと、エネルギーや物質が入り込むための真空状態が生まれる。身体は動脈、静脈、臓器、消化管、生殖管、骨など、さまざまな流路の集合体である。それぞれの流路には、中で何かが起こるための空間が存在する。子宮にも真ん中に空間がある。これらの流路はすべて、遮られることなく、エネルギーが流れている状態でなければならない。

■風
 風は見えないが、風が動かすものは見ることができる。呼吸、蠕動運動、神経やホルモンの伝達、卵子、血液などの移動は風が担っている。生命を維持するためには、動きが必要だ。新しいことが起こることを望むなら、動きや変化を生み出すのために、風が要る。風は多すぎても少なすぎてもいけない。少なすぎると生気がなく、多すぎると退化する。そして問題を起こさないためには、風の動きに抵抗したり、妨げたりすることなく、風に身を任せるべきだ。

■火
 火は変容を可能にする。火は排卵に必要な血液と体温、そして愛の欲求を呼び起こす。楽しいデート、雰囲気のある音楽や空間、美しいランジェリー。ムードを盛り上げる行為はすべて、二人を情熱的にし、火の要素をもたらす。恋人の欲望を掻きたてる女性は、男性にとって最高の媚薬である。女性は、まず自分自身を鼓舞し、それからパートナーを鼓舞する。
 
■水
 血漿、リンパ液、脳脊髄液、間質液、母乳など、体内の多くの液体が形成されるには、すべて水が必要である。性交渉のために膣を潤滑をするのも、水の役割だ。味覚は水の元素と関連しており、舌が乾燥すると、味を感じる力に影響を及ぼす。同様に、女性の膣が乾いていると、パートナーの体の快感を味わう味覚もまた弱まる。水はホルモンを運び、他の元素を混ぜるための溶液を提供する。精子は、液体である精液を通して送られる。この液体は精子を保存し、栄養を与え、最終的に卵子に到達させることを可能にするものだ。そして、赤ちゃんは水の中で育つ。水は生命を維持する。繊細でありながら、その働きはとてもパワフルだ。

■土
 食べ物や植物が地球から生まれるように、赤ちゃんも地球から生まれる。女性は排卵期や生理直前の子宮内膜が厚くなる時期、そして妊娠中、もっと食べたいという欲求を感じやすくなる。土は身体や組織を作るために必要なもの。構造、冷たさ、グラウンディングをもたらす。成長ホルモンはすべて土の要素を持っている。畑仕事をしたり、自然に触れたり、登山をしたりすると、自分の中の大地のエネルギーを刺激することができる。土が少なすぎると、組織を浪費し、退化の原因になるが、多すぎると、重く、冷たくなり、閉塞感や成長不良を引き起こす。

─空、風、火、水、土。
 杏奈は目を瞑った。
─それぞれを適切な量、保持させる。
 そして、サイコロを振る。
「自分を大切にすることは、結果がどうであったとしても、価値があること」
 美津子は、自分たちに言い聞かせるようにそう言った。
「この点については、前回の滞在時にも、念を押している」
 咲子は、最後の妊活に励みたいと言っていた。つまり、次のトライでだめであったら、けじめをつけて、人生の他の道を歩むつもりなのだ。それがどのような道であろうと、健康な心と身体を持っているに越したことはない。
─これが彼女にとって、最後のチャンス。
 今日は朝からずっと、雨が降っている。
「身も心も美しい女性になっていただくために、ただ粛々と、私たちにできることをしましょう」
 沙羅に話しかける、美津子の静かな声は、窓の外を眺める杏奈の耳にも届いた。

 その日の午後、咲子はあかつきを来訪した。
「こんにちは」
 扉を開けると、咲子がにこやかに挨拶をした。
 身長は沙羅と同じくらいだが、非常に細い。髪は長めのストレート、顔はやや丸顔、少し垂れ目がちな、可愛らしい人だ。
「懐かしい」
 咲子は傘を閉じながら、また笑った。白い歯を見せて大きく笑うのが、咲子の特徴であった。
 あかつきの雰囲気は前来た時と同じだが、スタッフの様子は少し、異なっている。美津子は咲子が上がると、短く挨拶を交わしたが、その後は全て杏奈が応対した。セラピストの姿をした杏奈は、二月にここで会った時よりも、ずっと落ち着いて見えた。
「杏奈さん、お疲れですかね」
 応接間で作業をしていた沙羅は、斜め向かいに座る、同じく作業中の美津子に話しかけた。杏奈は今、二階で咲子にアビヤンガをしている。
「ゴロゴロしているところ、初めてみました」
 美津子はそれを聞くと、手を止めた。
「緊張しているのよ」
「緊張…?」
 美津子はそれだけ言うと、黙って再び手を動かした。思うところがありつつも、黙秘しようとしているような美津子の様子から、沙羅もまた何かを察し、それきり押し黙った。
「え?じゃあお店の商品を使って、咲子さんがプロモーションなさるんですか」
「そうなんです。まさかの大役で、どうしようかと思いました」
 一階の二人の心配をよそに、杏奈は咲子と静かに会話を楽しんでいるところだった。咲子は大型ショッピングモールの、和食材を扱う食材店でバイトをしているのだが、そこで新しい役割を担うようになったらしい。
「杏奈さんなら、どんなふうに使いますか?」
「九条ねぎの万能味噌だれですか…」
 ごはんに乗せて、以外の使い道だ。杏奈は手を動かしながら、想像を膨らませた。
「白身魚に乗せたらおいしそうです。なんのひねりもありませんが」
「あはは。それ、私も思いました」
 咲子はうつぶせの状態だったので杏奈からは見えないが、顔を綻ばせていた。
 障子をあけ放った窓の外では、まだ雨がしとしとと降っている。
「でも、秋なので、秋の食材と組み合わせるのが良いのでしょうね」
 杏奈は頭の中で、相性の良さそうな組み合わせを探した。アビヤンガ中は、あまり会話をするべきではない。ヴァータが乱れるからだ。杏奈は咲子から話しかけてこない限り、話しかけず、会話を膨らませるのもそこそこに、施術に集中する。
 フェイシャルが終わる頃には、咲子は寝ているのか、寝ていないのかという、睡眠と覚醒の間にあった。咲子の体をマットで包んで、しばし発汗の時間を取る。
「熱くないですか?」
「はい。ちょうど良いです」
 施術を始めた時、咲子の手先、足先は冷たかった。ヒートマットの温度を高めにしても、ちょうど良いという。
─生理周期が、夏頃から短くなって、今は三十日周期です。
 事前コンサルで、咲子はそう言っていた。
 咲子は月経のタイミングを外して滞在している。施術前のカウンセリングの時点で、次の生理予定日は、今月の二十四日頃だと言っていた。
 と、いうことはだ。
─だいたい、今日あたりが、排卵日ということか。
 咲子は、最後は自然妊娠を試みたいと言っていた。つまり咲子は、今月の月は、あかつきに滞在するために見送ったのだ。
─そして、排卵期ならば。
 今は火と水の元素が増えている段階だ。
 排卵前後は、変容期と呼ばれる。火の熱で卵巣から放出された卵子は、卵管に入る。子宮内膜が厚くなり、妊娠の可能性に備える。血液はピッタの座。血液が子宮の中に充満するこの時期は、ピッタが自然に増えるということだ。
 もし咲子のピッタが乱れていれば、これから、周期の中でも不安定な時期が始まる。次の月経まで、炎症が強くなったり、肌荒れに悩まされたり、イライラが生じたり。ピッタが過剰な場合は、周期の途中でも不正出血を起こすことがある。
 月経が始まると、子宮内膜が破壊され、その内容物である血液や体液が子宮頸部の小さな穴から膣を通って放出される。この破壊期に優勢となるのは、空と風。
 そして月経が終わった直後から始まる構築期には、水と土の要素が強くなる。
─周期的には火と水が優勢になるはず。
 しかし、咲子の肌に触れる限りでは、熱は感じなかった。かさついているというほどではないが、少し乾燥気味で、ひんやりとしている。
 今日は雨が降っている。雨が降る日は気圧が変動し、ヴァータが乱れやすい。そして季節的には、ヴァータが優勢になる時期。
 今の時点では、ヴィクリティが示す通り、咲子のヴァータを鎮めることが先決となりそうだ。

 咲子が着替えをしてる間、杏奈はキッチンに立った。清掃は、沙羅がかって出てくれた。その間に、アフターのお茶を淹れる。
 昨日、八種類のハーブ─ダンディライオンリーフ、レモンバーム、ラズベリーリーフ、シャタバリ、ネトル、ドライスペアミント、ジャーマンカモミール、陳皮グラニュール─を混ぜ合わせ、木蓋付きのガラスキャニスターに入れておいた。妊活のための、ハーブブレンドであった。
 小鍋の中には、ジンジャーティーができている。杏奈のお願いで、沙羅が作っておいてくれたものだ。小鍋にスライスした生姜と水を入れて沸かし、3分煮出した後、蓋をしておく。もう三十分以上は経っているだろうか。
 杏奈はそのジンジャーティーをもう一度沸かす。ピッタが優勢ならば、生姜は省略すべきだったが、咲子の場合はそうではなさそう。
 咲子が降りてくるのを見計らって、茶葉フィルターのついたポットにハーブブレンドを大さじ1入れる。ジンジャーティーを注ぎ、蓋をして数分蒸らす。
「お疲れさまでした」
 ロイヤルコペンハーゲンのティーカップに入れたハーブティーを咲子のところへ運ぶと、杏奈はにっこり笑った。
「発汗している時、うとうとしちゃいました」
「そうですか」
 咲子は華奢なティーカップの取っ手を掴み、
「これは何のお茶ですか?」
「体を温めるハーブティーですよ」
 杏奈はそう言って、またにっこり笑った。
「熱いので、気を付けて飲んでくださいね」

 土曜日の早朝、鞍馬は咲子に対しヨガの指導をするために、あかつきを訪れた。
 予定時間の十分前くらいに、咲子は居間へ入って来て、
「こんにちは」
 口を左右に大きく広げて笑い、挨拶をした。
「こんにちは」
 鞍馬も柔らかく微笑んで、挨拶を返す。
 咲子はヨガマットを抱えたまま、すぐには座らず、呆然と鞍馬を見ながら立ち尽くしていた。
「どうしました?」
 鞍馬はマットの上に立ち上がりながら尋ねた。呆気に取られていた様子の咲子は、我に返って、
「…あ、いえ。話に聞いていた通り、きれいな男の方だなと思って」
 そう言って笑った咲子は、無邪気そのものに思えた。なんの他意もなさそうな…
 だからこそ、普段から賞賛の言葉を受けるのに慣れている鞍馬も、照れくさい気持ちになった。
「ありがとうございます」
 視線を逸らし、頬を掻いた。
 咲子は鞍馬のマットの向きに対して、T字になるようにマットを敷いた。
「一対一なんて、贅沢…」
 そんなことをつぶやきながら、咲子はマットの上に座る。
 濃いグレーのパーカー、生成りの綿のズボンに、温かそうな靴下。長い髪の毛は後ろで一つに縛っている。メイクをしていなかったが、もともとの目鼻立ちがいいからか、すっぴんでもかわいい。
─この人、か…。
 妊活をしているというクライアントだ。杏奈が彼女のために、食事計画をいろいろと立てていた。
 年齢は四十に近いと聞いていたが、咲子にはかわいいという形容が当てはまる。厚めの服を着ていても、身体の線が細いのが分かった。
「ヨガはよくされてるんですよね」
「週一、二くらいです」
 動画を見ながら自宅で行うこともあるし、ヨガのレッスンに行くこともある。
「どこか痛いところや、違和感があるところはありますか?」
「そうですね…昨日アビヤンガをしてもらって、少し解れたと思うんですが、朝晩冷えるので、身体の末端が冷えがちです」
「ああ、寒くなってきましたよね」
 鞍馬は咲子と雑談をして、レッスン前のアイスブレイクをする。
「僕は、ここまでバイクで来るんですけど、すでに完全防寒する域です」
「バイクですか…それは体感温度が低そうですね」
「ええ、そうですね。じゃあ今日は、手先足先が温まるように、循環を良くするポーズを多めに入れていきますね」
「お願いします」
 鞍馬は胡坐をかきながら、室内を見渡した。今日は杏奈も美津子も、レッスンに居合わせることはないようだ。
「ヨガを始める前に、呼吸法から始めましょう」
 鞍馬は座り方から指導していく。お尻のお肉をかき出して、坐骨でしっかり床を押す。背骨を一つひとつ積み上げるようにしてまっすぐ背筋を伸ばす。肩先を少し後ろに引き、肩の力は抜いておく。肩甲骨を寄せて胸を開く。
「ゆっくりと目を閉じて」
 そのままゆっくり、深い呼吸をしてもらう。
「鼻から大きく息を吐いて」
 吐く呼吸は数呼吸よりも長く、だいたい八カウント。
「息を吸って」
 吸う呼吸は四カウント。
「呼吸は生命維持のために欠かせませんが、僕たちはふだん、呼吸をさほど意識していません」
 咲子には呼吸を続けてもらいながら、鞍馬はガイダンスを入れていく。
「けれど呼吸は体と心と、密接に関係しています」
 気息、呼吸はサンスクリット語で、プラーナ(prana)と呼ぶ。この場合、呼吸は単なる「息」ではなく、身体内外に存在する「生命工ネルギー」を表す。プラーナは生命力でる。
「緊張している時、混乱している時、僕たちの呼吸はどうなっているでしょうか?」
 心はプラーナを支配し、プラーナは心を支配する。
「呼吸法を行うことで、僕たちの思考、感情、感覚に調和がもたらされます」
 プラーナは呼吸と食べ物から取り入れられる。酸素は、生命力としてのプラーナを運ぶボートなのだ。
 鞍馬がいつもより念入りに、呼吸の重要性を話しているのには、理由がある。美津子と杏奈との打ち合わせの場で、これから数日間は「スペースを生み出すような」「空のエレメントを呼ぶような」ヨガをしてほしいと言われた。
─はあ…
 それを聞いた時、鞍馬は天を仰ぎそうになった。
─マジで意味が分からん。
 こんな抽象的で、難解なテーマを言ってくる人たちと、今まで接したことがない。 
─もう本当にやめたろかな…
 何かしらの考えはあったに違いないのに、美津子も杏奈も、その意図を詳しく話さなかった。どのような考えを持ち、それをヨガとしてどう体現するのか、鞍馬に任せようとしている。
 それにしても、空(スペース)とは本当に、どういう意味だろう。
 五大元素という概念自体は、鞍馬も知っている。しかし、空と聞いて、鞍馬は呼吸を意識することしか、思い浮かばなかった。
 ヨガ哲学では、宇宙はアカーシュ(空) とプラーナ(気)からできていると考えられ、プラーナが目覚め、活動し始めることが生の始まりだとされている。
 プラーナヤーマ(呼吸法)が風の動きを方向付け、落ち着かせるものだからといって、それが空を生み出すことになるのだろうか。空間があることで、風が自由に動く。とすれば、順序が逆のような気がするが。
 つまり、答えが見つからないまま、咲子へのレッスンに臨んでいる。
 鞍馬は呼吸に意識を向けながら、目を開いて、咲子を見た。咲子は目を瞑ったまま、深い呼吸を続けている。
─スペースを作って。
 美津子たちに頼まれた言葉が頭の中で反響する。
 が、鞍馬は、咲子にどういうヨガを適合させるのが最適か、分からない。

「あ、杏奈さん。お疲れさまで~す」
 杏奈が施術着のままキッチンに入って行くと、空楽が会釈をした。
 散らかったキッチンには、空楽と小須賀がいる。ちょうど小須賀が弁当配達から戻って来たところだった。
「お疲れさまです」
 今日は足込温泉へ弁当を納品する日だ。
「杏奈さん、柳さんたちが野菜をくれたので、野菜室に入れておきましたよ」
「え…ありがとうございます」
 杏奈は足袋のまま、クロックスを履き、業務用の冷蔵庫を覗いた。白い袋に入ったのがそれだろう。かぼちゃ、れんこん、さつまいも、チンゲンサイ。
「そのかぼちゃは、採れ立てではないですけど。貯蔵してたんで甘味が増してると思います」
「ありがとうございます」
 杏奈はまた礼を言った。
「いやいや、私はただ持って来ただけですから」
「あかつきの畑では、料理に使えるだけの野菜が間に合わなくて…」
 けれどできることなら、採れ立ての野菜を使った料理を提供したかった。新鮮な食材を使った、新鮮な食べ物を食べることで、食べ物がもつ生命力エネルギー、すなわちプラーナを取り入れることができる。
「はいはい、邪魔でーす」
 中腰になっていた杏奈は冷蔵庫を閉め、立ち上がった。杏奈の傍を通り過ぎながら、
「その髪型、いいじゃん」
 小須賀がそう言った時、杏奈は思わず空楽を見た。空楽は無造作に髪を後ろで一つに結っている。
─いやいや、私じゃないでしょ。
 空楽は杏奈からの視線に気づいて、心の中でつぶやいた。
「…?私ですか」
 杏奈は思わず、編み込んでアップにした髪に触れた。瑠璃子が結ってくれたこの髪型が気に入って、自分でもできるように練習したのだ。
「ポニーテールよりそっちのほうが大人っぽく見えていいんじゃない」
「この髪型は、時間がかかるので普段使いにはちょっと…」
「あーあ」
 空楽は汚れた黒いエプロンのポケットに両手を突っ込み、仁王立ちした。
「自分好みの女に誘導しようとするのはやめてくださーい」
 小須賀は笑った。
「こいつをおれ好みの女にしてどうすんの」
「えっと…」
 杏奈は恥ずかしさをいなすために、話をすり替えた。
「咲子さんの昼食って…」
「弁当のおかずだけど。盛っちゃだめなやつあったら言っといて」
 十一月中旬の食事は、割とヴァータフレンドリーな内容なので、今の咲子にはちょうど良い。
「今日は夜の仕込み、しなくていいんだよね?」
「はい。私、午後は施術がないですし、しばらくキッチャリーですから」
 昨日から、六日をかけて、咲子にはキッチャリークレンズをしてもらうことになっている。
 夜ごはんはキッチャリーのみ。昨日はビーツのキッチャリー。今日はかぼちゃと大麦のキッチャリーにする予定だ。柳の畑で採れたチンゲンサイも使わせてもらう。新月の夜だけ、断食を行うのだが、その日めがけてどんどんキッチャリーに入れるものをシンプルにしていく。その代わり、お昼ごはんでは、しっかり栄養のあるものを摂ってもらう。
「他の人はそれでいいの?」
 今日から菜奈も滞在する。
「ええ。同時期に滞在するクライアントは、便乗してキッチャリークレンズをやりたいとご希望だったので」
 断食までは便乗しないかもしれないが。
 小須賀は苦笑いを浮かべた。
「よく分かんねえなここの客は」
「ジンジャーアペタイザは?」
「あ、忘れてたわ」
 ジンジャーアペタイザは、刻んだ生姜に塩とレモン汁をかけたもの。食前に食べて、消化力を鼓舞する。消化不良で代謝が悪い時、この前菜を食べて消化液に刺激を与え、食べ物の消化をサポートする。
「食事の時間までに作っとけばいいっしょ」
「あ、いえ…その時になったら作りにきますよ」
「いいよ。やっとくから」
 そう手間のかかる作業ではない。
「ところで今日来るクライアントって、どんなタイプ?美人?」
 小須賀は洗い物をしながら、毎度おなじみの質問をしたが、返事がない。
「…あれ?」
「杏奈さん、もう行っちゃいましたよ」
 空楽は鍋に付着した汚れをウエスで拭き取りつつ、しれっと言った。
「んだそれ」
 小須賀は「はあ~」とため息を吐いた。
 小須賀と空楽はそれから、ジンジャーアペタイザと料理を咲子に提供し、美津子と杏奈に賄いを食べさせ、午後からの施術のためやってきた永井の話し相手をした。途中に仕事をしながらの片付けとなり、午後一時を過ぎてもまだ片付けは終わらない。
「こんにちはー!きゃー!写真で見てたとおりー!」
 応接間から黄色い声が聞こえてきて、小須賀と空楽は作業をする手が一瞬止まった。どうやら、新規のクライアント・菜奈が来訪したらしい。
「あー!どうもー!ライヴ観てます~」
「もうスパイスの香りが玄関まで伝わってましたよ~」
「あっ、これ音羽米~。うちの方の名産で。あかつきさんへの手土産にお菓子もどうかなって」
 さっきから聞こえるのは、小須賀と空楽にとって馴染みのない、女の甲高い声ばかりだが、誰か相手をしているのだろうか?
 空楽がいそいそとキッチンを出て行き、応接間の方を覗いた。
「…どう?菜奈さん、美人?」
 すぐに戻ってきた空楽に、小須賀はすかさず訊いた。
「美人っちゃ美人っすね」
「何系?」
「うーん、かっこいい系かな」
 何系と言われても、何系があるのだろう。
「髪型はショーットカットで、背が高くて、大柄です。太ってはいないですけど…」
 顔はあまり見られなかったが、目鼻立ちがはっきりしていた気がする。
 応接間からは、その後も菜奈の声だけが聞えてくる。やがて客間に案内される時が来たのか、だんだんと声が遠のいていった。
「テンション高い人っすねー」
 漫画のキャラクターのようだ。
「あれ、今日誰が担当するんだっけ、菜奈さん」
「確か美津子さんです」
「永井さんじゃなくてよかったわ。でも、あのテンションに対応できるのって、沙羅さんくらいじゃね?」
「うーん…まあ、テンション高いからといって、同じテンションを求めているとは限りませんからねぇ…」
「なんだっけ。菜奈さんって、闇持ってる系の人だっけ?」
 中盤戦が始まる前のオンラインミーティングにて、四人のクライアントのプロファイルを聞いていたはずなのだが、小須賀はいまいち思い出せない。
「誰かいたよね、病んでる系の人」
「菜奈さんは、超健全な人ですよ」
 心身ともにほぼ健康体。仕事をしながらヨガのインストラクターもしているパワフルな女性だ。あかつきのインスタの発信に、まめに反応してくれるだけでなく、なぜかシェアまでして宣伝を手伝ってくれる。
─ファン化に成功したクライアント。
 と、美津子が言っていた。
「美津子さんも杏奈も、あのテンションについていけんのか?」
「それを言うなら私もですー」
「二人とも、しっとり系じゃん」
「しっとり系ってどういうことですか?」
 空楽は食い下がらなくてもいいところに食い下がった。
 小須賀は口笛を吹きながら、片付けを進める。
「しっとり系って、どういうことですか?」
 今日は〇〇系が多くないか。
「小須賀さん、しっとり系って─」

 


 

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